『鶏』-2 (明治42年8月) 

 鴎外の精神は、野菜を盗む婆さんと、それを教える中野と、それに冷然と対処する石田を自己内にもっている。鴎外はこの狭い内部対立の相互の関係と同一性を知らず、石田を肯定している。鴎外の精神はこれらの全体であり、具体的な内容はその内部的な関係である。しかし、鴎外自身はそれを知らない。石田は婆さんと中野との対立によって、それに依存して肯定されているから、石田の精神の具体的な内容は婆さんと中野との関係である。石田の精神の具体的な内容は、婆さんと中野の告げ口であり、婆さんの小さな盗みである。
 鴎外は、石田を婆さんや中野から独立した精神であると考えている。鴎外はこの無知によって、告げ口を人に押しつける人間不信を、自分の素朴さ、信じやすさとして描くことができた。鴎外はこの無知のために、自分の精神が、こうした狭い道徳的な対立の世界に閉じ込められ、しかも、そのことを理解していないことを暴露してしまう事に無防備である。石田の道徳的精神の堅固さと狭さは、まず石田の地位の高さに規定され、さらに、その狭い世界での保身的な孤立的な立場に規定されている。鴎外は、その狭い世界の中で、世間を見下す超然たる自己を形成し、披露しようとしている。小倉に赴任した事によって促進された新たな精神の展開である。
 
 坊ちゃんは正義を振りかざして赤シャツと対立する。それは、単純で、現実的効果のない無力な正義である。この正義観が実質を持つためには無限の内容を獲得する必要があり、それは正義の端緒に過ぎない。したがって坊ちゃんには、精神の広がりとして無限の可能性がある。石田は、地位も道徳的意識も堅固な、自分を上品だと思い込んでいる赤シャツである。自分の地位と価値観が揺るぎないものであることを自他に誇示している。石田は、婆さんや隣の女と精神上の関わりを持たず超然としていることを誇っている。彼等の行動も言葉も石田の精神になんの痕跡も残さず、なんの感情もなく免職にすることが冷然たる石田の精神である。
 石田は坊ちゃんの正義感と端的に対立している。坊ちゃんの正義感は石田との関係では滑稽でさえない。石田は坊ちゃんの正義感を無力化する能力を持っている。下品な、俗物的な赤シャツではなく、上品な、自己を統制した、ケチでもなく威張るでもない、道徳的に完成された、しかし、徹底して坊ちゃんの正義感を押さえつけ、自分の立場と価値観を守る赤シャツである。
 坊ちゃんも石田も自分の道徳的な信条に忠実に生きている。現実の困難、矛盾の中で信条を貫徹しようとしている。信条の内容の違いは、本質的には地位の違いである。漱石は地位の低い坊ちゃんの正義を描き、鴎外は地位の高い少佐の正義を描いている。石田は、地位の低いものの窃盗から自分を守っている。窃盗に対する対応において道徳的で冷然としている。地位の低い者との関係を材料にして、自分が超然とした精神を持つことを自他に誇示している。漱石は、地位の力を振り回す赤シャツに卵を投げつける坊ちゃんを描いているが、鴎外は、卵を盗まれても泰然としている石田を描いている。鶏の卵を材料にしていることも、田舎を舞台にしている事も同じであるが、描いている精神はまったく対立的である。
 石田は事実を確認したあと、婆さんを解雇した。そして、「舞姫」の豊太郎と同じように、「石田はまだ月の半ばであるのに、一箇月分の給料を遣つた」として寛大に金を与えている。婆さんの罪を咎めて、給料を遣らずに、罵倒して解雇するような野蛮な官僚とは大いに違うという意味である。鴎外はこうした細かな違いに自分の道徳的な価値を認めており、こうした現象を自分の本質的な特徴として何度も描いている。これは婆さんにとっては半月分の給料を貰ったことであるが、地位と金のある石田にとっては人格の肯定という精神的な意味を持っている。鴎外が石田の地位を守りながら到達できる道徳はこの程度のものであり、鴎外がどれほど努力しても、単純に見える坊ちゃんの精神までは無限の距離がある。
 石田は始て目の開いたやうな心持がした。そして別当の手腕に対して、少からぬ敬意を表せざることを得なかつた。
 石田は鶏の事と卵の事とを知つてゐた。知つて無許してゐた。然るに鶏と卵とばかりではない。別当には sistematiquement に発展させた、一種の面白い経理法があつて、それを万事に適用してゐるのである。鶏を一しよに飼つて、生んだ卵を皆自分で食ふのは、唯此 systeme を鶏に適用したに過ぎない。
 石田はかう思つて、覚えず微笑んだ。春が、若し自分のこんな話をしたことが、別当に知れては困るといふのを、石田はなだめて、心配するには及ばないと云つた。
 石田は翌日米櫃やら、漬物桶やら、七釐やら、いろいろなものを島村に買ひ集めさせた。そして虎吉を呼んで、これ迄あつた道具を、米櫃には米の這入つてゐる儘、漬物桶には漬物の這入つてゐる儘で、みんな遣つて、平気な顔をしてかう云つた。
 ・・・
 虎吉は呆れたやうな顔をして、石田の云ふことを聞いてゐて、石田の詞が切れると、何か云ひさうにした。石田はそれを言はせずにかう云つた。
 「いや。お前の都合はあるかも知れないが、己はさう極めたのだから、お前の話を聞かなくても好い。」
 石田はついと立つて奥に這入つた。虎吉は春に、「旦那からお暇が出たのだかどうだか、伺つてくれ
ろ」と頼んだ。石田は笑つて、「己はそんな事は云はなかつたと云へ」と云つた。
 鴎外の特徴を示す典型的な精神である。別当の行為を理屈っぽく説明することで、行為を非難する意志がなく、別当の行為に対して知的な好奇心を感じただけという余裕を示している。「覚えず微笑んだ」という描写でそれを強調している。鴎外にはこの余裕を示す事が重要であった。「虎吉は呆れたやうな顔をして」、「平気な顔をして」、「それを言わせずに」、「ついと立つて」、しかも「笑って」、「己はそんな事は云はなかつたと云へ」と、石田を肯定する表現をしつこく大げさに描いている。別当の盗みに対する寛大さを鴎外がいかに高く、大きく評価しているかがわかる。それは、別当の行為をこのうえなく重大視すことでもある。別当の行為をまず厳格に、神経質に、否定的に認識しており、それに対する自分の寛容さを高く評価してい。したがって、この寛容さのなかには非常に厳格な冷酷な対象認識が含まれている。この寛容さが、いつ失われるかは石田の気分次第である。それが石田の寛容さの気味悪さであり、鴎外は後にこれをはっきり意識してしかも肯定的に解釈するにいたる。
 別当の行為を厳格に道徳的に批判し、それとの対比で石田の寛容さと冷然とした態度を描くけち臭い自己肯定は、石田の現実認識の狭さを示している。別当との関係、婆さんや隣の女との関係は、現実には無限の社会関係を含んでいる。しかし、鴎外は、この関係を石田の超然とした精神を描く材料としてのみ認識する。別当や婆さんは独立した人物として描かれていないし、石田は彼等との積極的な関係を持たないし、彼等の個性と彼等との関係に価値を認めていない。鴎外は、彼等と一切関わりを持たない精神を、無力、無能としてではなく、超然とした高度の精神だと思い込んでいる。しかし、鴎外が、別当や婆さんと石田が、非難する意志さえ持たないほど分離されている、という意識を持っているとしても、客観的には、田舎の人間関係に対する認識の特徴は、自己の対象化として、別当や婆さんを盗みをするという否定的側面からのみ認識することに深刻に描写されているのである。
 石田はどんな事件にも超然とした態度をとっている。その超然とした精神は、別当が盗んだとか婆さんが盗んだとか隣の女が癇癪をおこしたいったことにのみ関心をもっている。何に対して超然としているかが、その超然の内容である。人間関係との分離的な意識によって自己を守ろうとすること自体、鴎外の精神が狭い人間関係によって規定され、現実認識も道徳性もひどく損なわれていることの反映である。
 
 漱石との基本的な違いは高い地位を肯定している事である。高い地位にいる自分の精神を守り抜くことはできない。田舎の婆さんに超然と対処することは優れた精神の兆候ではない。別当や婆さんや隣の女との、鶏や卵や茄子やキュウリや米をめぐる対立で自己を肯定するのは精神の貧しさである。田舎の婆さんに対する態度をどのように工夫しても精神の飛翔は得られない。石田が守っている精神の内容は鶏や卵やキュウリや茄子と同等である。高級官僚としての鴎外の精神がいかに限定されているかがわかる。エリートである鴎外は、精神史上での社会的な役割を果たす事ができなくなっており、自分の個人的な立場を守る事に汲々としている。盗みをする別当や婆さんに対して超然としている事を誇る高級官僚が日本の歴史的発展を担う事はできないであろう。実際は、時代後れになった高級官僚であるからこそ、こうしたつまりない自己を表白することに課題を見いだしている。

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