『野分』ノート

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 二

 道也は零落したが、零落者の精神を得たのではない。道也は人格的な、意識的な零落者である。道也は社会変革的な主体であるという責任感と使命感を持っており、この意識は、道也の精神の限界を成すとともに、合法則的な自己破壊の推進力である。
 漱石は、道也の限界を補足する精神として高柳を描いている。漱石は、同じく零落しつつある高柳の限界を超えた強い意識性を持つ人物として道也を描いているが、客観的には、相互に限界をもっており、高柳が道也の限界を超えている。高柳は、道也より遥かに弱い立場から世間を観察しており、より深刻で具体的な対立関係を持っている。
 零落しつつある高柳の精神の第一の特徴は、中野との対立で描かれている。それは趣味的な精神との対立である。中野は着物の色に敏感な趣味を持っている。しかし、高柳は、「別に感じない。しかし奇麗は奇麗だ」と感じるだけであることが強調されている。高柳には零落した者に特有の感性がある。高柳は「なに、あんな方は鈍くってもいいんだ。ほかに鋭敏なところが沢山あるんだから」と言っている。
 着物について高尚な趣味を持つのはそれほど難しいことではない。しかし、零落した高柳のいう「ほかに鋭敏なところが沢山ある」ものを具体的に発見するのは、道也の学問の内容と同様非常に難しい。別のものがあると確信していても、それが何か分からないのは、道也と同じである。道也との違いは、高柳が、貧しさのためにそれを実現できないことに不満と不安をもっていることである。中野の趣味性と違ったものを求める事は、芸術と趣味性の分岐点であり、重要なセンスである。さらに、高柳が感じている不安や気後れは、それが何であるかを高柳自身は認識していないにしても、すでに中野の余裕と対立する新しい、豊かな精神そのものである。
 このあと、中野に御馳走になってばかりいることに対する遠慮が始まっている。これも中野からの分離的精神である。卒業を祝う気分と、祝わなくてもいい気分の対立、注文した料理の食べ方を知らないこと、こうした小さな対立が日常的に積み重なって高柳の精神を形作っている。漱石は、これらの小さな対立のすべてを、地方回りで道也が得た零落の運命が共有する精神として描いている。道也と高柳の精神は、零落しなければ得ることができず、零落した立場において形成される独自の精神である。中野は遠慮を強いる態度をまったくとっていないが、零落する高柳には、中野の立場と対立的な精神が自然に形成される。漱石は、そうした点に注目して細かに描写している。
 中野の豊かな生活は羨ましくはあっても、高柳にとって切実に実践的に必要なものではない。高柳が中野になることができないことははっきりしており、それは現実的な欲望になることはできない。高柳には、現実に則した具体的な欲望が形成される。零落の過程で零落の自覚によって得られる高柳の意識は、次に、レストランで見た金持ちの二人連れに対する複雑な心理によって描かれている。
 
 ▲「羨やましいな。どうかして――どうもいかんな」
 「あんなものが羨しくっちゃ大変だ。そんな考だから卒業祝に同意しないんだろう。さあもう一杯景気よく飲んだ」
 「あの人が羨ましいのじゃないが、ああ云う風に余裕があるような身分が羨ましい。いくら卒業したってこう奔命に疲れちゃ、少しも卒業のありがた味はない」
 「そうかなあ、僕なんざ嬉しくってたまらないがなあ。我々の生命はこれからだぜ。今からそんな心細い事を云っちゃあしようがない」
「我々の生命はこれからだのに、これから先が覚束ないから厭になってしまうのさ」
「なぜ? 何もそう悲観する必要はないじゃないか、大にやるさ。僕もやる気だ、いっしょにやろう。大に西洋料理でも食って・・・
 
 同じ事実がことごとく対立的に感じ取られ認識されている。零落しつつある高柳には俗な金持でも生活の余裕は羨ましい。中野は趣味と洗練において金持の二人連れを見下しているが、高柳ほどに深刻に対立していない。金持の余裕を羨ましく思う高柳の気分は、とうてい金持の立場や気分にはなれない、という分離的な意識の定着を示している。高柳は漱石がもっていた余裕派の気分から厳しく分離されている。中野の余裕は、彼の安定した立場と、その立場に特有の平凡な教養に基づいている。高柳は、金持とだけでなく、その金持に対して教養的な優位を誇っている中野の世界と精神から分離されて、零落を受け入れなければならない。金持の余裕を羨ましく思う高柳の気分と中野の余裕を対立させているのが漱石の力量である。
 中野も二人の金持の男も日々の生活を楽しんでいる。道也と高柳は生活を楽しむことができない。漱石は、ここで、二人の金持ちと中野の違いを描いた上で、二人の金持ちと中野を近い立場として描き、この両者に対立する境遇と精神を持つものとして高柳を描いている。漱石は、自分の新しい精神の入り口として、金持の気楽さや、中野の趣味性を否定することからはじめている。こうした対比自体は単純であるが、この対比は、零落を肯定することを機軸としており、こうした対比の結果としてのみ、ここに描かれた金持や中野の精神の具体的内容を後に客観的に認識することができるようになる。地方回りで抽象的に描かれていた対立は、二人の金持や中野との対立として具体的な内容を持ち始めている。
 
 ▲人にわが不平を訴えんとするとき、わが不平が徹底せぬうち、先方から中途半把な慰藉を与えらるるのは快よくないものだ。わが不平が通じたのか、通じないのか、本当に気の毒がるのか、御世辞に気の毒がるのか分らない。高柳君はビステキの赤さ加減を眺めながら、相手はなぜこう感情が粗大だろうと思った。もう少し切り込みたいと云う矢先へ持って来て、ざああと水を懸けるのが中野君の例である。不親切な人、冷淡な人ならば始めからそれ相応の用意をしてかかるから、いくら冷たくても驚ろく気遣はない。中野君がかような人であったなら、出鼻をはたかれてもさほどに口惜しくはなかったろう。しかし高柳君の眼に映ずる中野輝一は美しい、賢こい、よく人情を解して事理を弁えた秀才である。この秀才が折々この癖を出すのは解しにくい。

 中野と高柳の対立は、道也と中野の零落を肯定する観点から観察されている。零落を肯定する道也の意識の成果として、漱石は中野と高柳の対立が個人的ではなく社会的であることを意識的に描いている。中野と高柳の関係は、二人が経験したことのない関係として新しく形成されつつあり、その関係の中で高柳自身にも理解できな感情が生まれている。
 高柳は中野を非難しているのではない。しかし、自分と中野の関係に不満を持ちはじめ、中野の気持ちが分からなくなる、ということが発見されている。中野は賢く親切であり、高柳を十分に信頼をしている。なんらの欠点もない中野が高柳の精神を理解しなくなっている。高柳に則して言えば、高柳が中野には理解できない精神世界に入りつつある。それが零落の成果であり零落による能力の獲得である。高柳の精神は、金持の二人連れや中野との分離的関係の反映として形成されている。ここでは、道也の地方回りでの対立と同じことが具体的に、社会的な地位の対立として生じており、この対立を余裕のある中野は認識できず、この対立が何であるかの認識が、零落した高柳に対しては身に迫った深刻な自己認識として強制されている。
 高柳と中野の関係は、道也と地方の金持や有力者との単純な分離的関係ではない。高柳にとって中野は親友であり、学生生活では立場の違いは表面化しなかった。二人の深い信頼関係を前提として、彼らが社会に出て行くとき、社会的な地位の違いが精神のなかに侵入してくる。中野との信頼関係の中に、無意識的に分離的精神が形成されている。この対立的な意識は明治の社会が作り出すものであって、中野や高柳の主観の自由な選択によるのではない。中野と高柳の主観を、歴史的な運動が新しく明治の時代精神として作り出している。漱石は、そのようなものとして二人の関係を描いている。高柳と中野の自我は、社会的な立場が作り出す新たな自我であり、彼ら自身には、その内容は結果としてのみ認識される。それを認識すること自体が、結果としての自我の力である。そのために、高柳は中野を非難するのではなく、「理解しにくい」という言葉で二人の関係を表現している。高柳と中野は新たな関係の中で新たな精神を形成し、その精神自体を自我として自己認識しなければならない。
 ここではすでに明治のインテリの客観的立場の認識という思想的な課題がとらえられている。二人の金持と、中野や道也の兄、教授の安達と、彼らと対立する覚悟をしている道也と、自然に零落していく高柳が描き分けられ、彼らの相互の関係の認識が課題となっている。重要なことは、彼らのそれぞれの精神が、社会的な運命によって描き分けられている事である。こうした視点を形成したのは道也の価値観である。この作品は、道也を取り巻く人間関係の分離過程を、零落を肯定する立場から描いている。中野と高柳の分離の過程を、中野の立場から認識するか、高柳の立場から認識するかに現実認識の分岐点がある。
 
 ▲ しかしこう思うのは高柳君の無理である。御雛様に芸者の立て引きがないと云って攻撃するのは御雛様の恋を解せぬものの言草である。中野君は富裕な名門に生れて、暖かい家庭に育ったほか、浮世の雨風は、炬燵へあたって、椽側の硝子戸越に眺めたばかりである。友禅の模様はわかる、金屏の冴えも解せる、銀燭の耀きもまばゆく思う。生きた女の美しさはなおさらに眼に映る。親の恩、兄弟の情、朋友の信、これらを知らぬほどの木強漢では無論ない。ただ彼の住む半球には今までいつでも日が照っていた。日の照っている半球に住んでいるものが、片足をとんと地に突いて、この足の下に真暗な半球があると気がつくのは地理学を習った時ばかりである。たまには歩いていて、気がつかぬとも限らぬ。しかしさぞ暗い事だろうと身に沁みてぞっとする事はあるまい。高柳君はこの暗い所に淋しく住んでいる人間である。中野君とはただ大地を踏まえる足の裏が向き合っているというほかに何らの交渉もない。縫い合わされた大島の表と秩父の裏とは覚束なき針の目を忍んで繋ぐ、細い糸の御蔭である。この細いものを、するすると抜けば鹿児島県と埼玉県の間には依然として何百里の山河が横わっている。歯を病んだ事のないものに、歯の痛みを持って行くよりも、早く歯医者に馳けつけるのが近道だ。そう痛がらんでもいいさと云われる病人は、けっして慰藉を受けたとは思うまい。

 この説明は、高柳の現実認識に対する道也の立場からの批判である。地方回りの結果として零落を覚悟した道也は、中野の理解を求めることが「無理」であることを知っている。だから、理解を求めない。それが道也の孤立的な人格である。実際、中野の理解を求めるのは「無理」であり、無理になりつつある。しかし、無理である、という結論が現実的な内容を持つためには、信頼関係の中で、具体的に分離的な意識を経験し蓄積しなければならない。それが、「無理」であることの本当の理解である。この時期の漱石には、高柳の精神は、中野の世界と未分離な、中野に依存する精神に見え、高柳の精神の未熟にみえる。しかし、高柳の精神は、具体的な分離過程を反映した具体的な精神であり、分離過程が生み出す具体的な成果である。漱石はこの段階では、抽象的な分離を当為としているために、この具体的分離過程を排除する事が分離の完成であると考えている。漱石は、中野の世界からの現実的な分離が、高柳が意識化している具体的な分離を内化し、契機としてなければならないことをまだ理解していない。
 このあとの会話もよくできている。高柳は、中野に対する友情を失うことなく、単純な否定的な意識に走ることなく、中野との関係の分離にともなう煩雑な苦悩のなかにとどまっている。こうした描き方は、漱石の意識としては、道也において中野との決定的で非妥協的な分離を描き、その分離を形成できない高柳と対比していることによるが、漱石の本来の作家的センスは、中野と高柳の対立を抽象化せず、分離の果実をことごとく現実性において描き取ろうとしているところにある。自己肯定の立場から、単純に中野を否定してしまえば、自己意識としては単純な肯定が生ずるだけで、具体的な成果は残らない。それは鴎外の作品と比較するとよくわかる。
 道也の地方回りの経験による分離的で独立的な精神は、分離過程の具体的な精神を持っていない。それが道也の単純さである。漱石の想定としては、高柳の未分離な精神が、人格的に独立的な道也の精神に高柳が近づいていく、という形式をとっている。漱石は、こうした転倒した形式で、まず両者を捕らえることで、この両者は近づいていくことになる。しかし、道也と高柳の本来の関係は、漱石の作品の系列の中では、最も困難な課題であり、「明暗」まで持ち越されることになる。


『野分』ノート(6)

 中野と高柳の運命が分離されることで、それぞれ独自の精神を持つようになる。中野と高柳はそれぞれの事情で公園に出てきた。中野はいろいろと悩み事があって、気晴らしのために散歩に来たという。しかし、高柳は中野の悲観を認めない。生活の苦しさに拘泥している高柳には、中野の生活が気楽にみえる。高柳は中野の余裕に拘泥している。
 高柳は新橋の先まで遺失物を探しに行って、その帰りに公園によった。遺失物というのは、中野がいう「命より大切な」草稿ではなくて、地理教授法の翻訳である。翻訳の仕事に時間をとられて、自分の著述をする時間がない、と嘆いているところに、それすら失って、遺失物係りの不親切にも腹を立てている。それだけでなく「あいつは廿世紀の日本人を代表している模範的人物だ。あすこの社長もきっとあんな奴に違ない」と不満を募らせている。こうした不満が、零落しつつある高柳の精神的な果実である。中野と道也にはこういう不満の展開も蓄積もない。道也はこうした拘泥をなくすことを人格としている。
 高柳が、実業家の帽子に偶然煙草の燃え殻を落としたことを愉快に思うのはこうした不満を持っているからである。金持ちを羨ましく思い、自分の余裕のなさを口惜しく思う気持ちと同時に金持ちを憎み仇と思う気持ちがある。そして、彼らを羨ましく思い、彼らの余裕を感じる気持ちと、自分に独自の使命があるはずだ、という自尊心が、こういう仇討ちがつまらないという反省を引き起こしている。彼らを軽蔑できるほどに余裕のある立場にいる中野には仇討ちをしたいという気分は生まれない。実業家に対しても、高柳に対しても、自分の方が高いという確信があり、具体的な葛藤を得る可能性をもたない。精神は安定しており、内容と変化に乏しい。実業家との関係で生じている高柳の複雑な心理は、すでに中野の単純な趣味性を遥かに超えている。ただ、高柳がそれを意識化できるほどに中野との分離が進展しておらず、分離的な自我を形成しえていない。
 中野は思想の未来が我々のものだと言っている。しかし、中野と高柳は文学士としての運命が社会的に対立しており、それぞれ書くべき内容も違っている。高柳はその違いを理解しながら、矛盾に満ちた精神を抱えており、まだ書くべき内容を見つけられない。それは書くべき内容が高度で発見しにくいからである。中野は矛盾を持たず、書くべき内容もはっきりしており、生活に余裕があり、楽観的である。
 中野の立場を、趣味的に好きなことを書いている気楽な生活だと見るのは、高柳が自分自身について、書くべきものがあるのに書く余裕がない、と認識していることの対象化である。高柳は余裕がない生活だからこそ書べき内容をもっているが、余裕がないから各時間がない、という葛藤を抱えている。余裕を持てば中野と同じ生活になり、書くべき内容は失われる。高柳は零落した生活を受け入れる力を持たないためにこうした矛盾を抱えている。
 高柳の葛藤は、道也との関係を反映したもので、禁欲主義的な覚悟を徹底できるかどうか、拘泥しない人格になれるかどうか、という視点から、未熟な精神として描かれている。漱石は高柳のこの矛盾を現象としてすでに捕らえているが、高柳の矛盾を、克服すべき精神として認識している。道也と高柳はエリート的な禁欲主義的精神の中での対立関係にある。
 ここで文学士であっても「田舎の中学の教師の口だって、容易にあるもんじゃないな」という、厳しい現実が示されて、そのことから高柳は、道也を思い出している。それは高柳個人の考え方や偶然的な思いつきではない。多くの文学士が、教師の口にも付けなくなっている明治の状況が道也の行動を思い出させている。このことから見ると道也の運命が、社会的な運命として高柳の人生にのしかかっていること、明治の社会が道也と同じ運命を強制的に作り出していることがわかる。道也が人格の成果として得た零落を、社会的な状況が高柳の運命として別の方法で形成し、道也の運命と多くの高柳の運命の一致が形成されている。人格性において対立しているものの、運命は同じである。金持や権力者に依存しないことを人格とするのではないが、依存したくてもできない人格が生まれており、そうした情勢によって、依存したくない気持ちを持つ人格が、道也とはまったく別の仕方で生まれている。道也は田舎の生徒に囃されて追い出された。高柳は、誰に追い出されたわけでもないが、同じように零落し、職を得ないでいる。

 ▲「諸君、吾々は教師のために生きべきものではない。道のために生きべきものである。道は尊いものである。この理窟がわからないうちは、まだ一人前になったのではない。諸君も精出してわかるようにおなり」
 
 道也は、かつて生徒にこう言った。道也の言葉の意味は誰にも解らなかった。道也も理解されないことを承知で、「諸君も精出してわかるようにおなり」と忠告している。文学士になった高柳にも道が何であるかはわからない。しかし、文学士になりながら、田舎で自分の出世を待つ母親を持ちながら、零落の運命をたどりつつあることを自覚すると、道也の言葉が身近になる。高柳は教師の職を拒否して道のために生きようと思っているのではない。しかし、教師のためにであれ、何のためにであれ生きる方法が閉ざされている。だから、教師のためではない、金のためでもなく地位のためでもない人生があるのならば、その道が何であるかに興味が沸くであろう。道也は、高柳が今辿っている運命を、自ら選択んでそれを道だと主張した。零落の運命が避けられないのなら、その道に果実を求める以外にない。道也と高柳の運命は接近し、その精神も接近し、道也の人格の主張は、訴える対象を得つつある。道也は明治社会の分解過程を、その零落の傾向において意識的に自分の運命としていたことになる。道也の道は、孤立した零落者の人格であったが、時代の進行ともに零落する多くの運命との一致の可能性が見え始めている。そこにはまだ多くの媒介項があり、曲折があるが、それが、歴史が作り出す一致の具体的内容である。
 
 ▲「自然なんて、どうでもいいじゃないか。この痛切な二十世紀にそんな気楽な事が云っていられるものか。僕のは書けば、そんな夢見たようなものじゃないんだからな。奇麗でなくっても、痛くっても、苦しくっても、僕の内面の消息にどこか、触れていればそれで満足するんだ。詩的でも詩的でなくっても、そんな事は構わない。たとい飛び立つほど痛くっても、自分で自分の身体を切って見て、なるほど痛いなと云うところを充分書いて、人に知らせてやりたい。呑気なものや気楽なものはとうてい夢にも想像し得られぬ奥の方にこんな事実がある、人間の本体はここにあるのを知らないかと、世の道楽ものに教えて、おやそうか、おれは、まさか、こんなものとは思っていなかったが、云われて見るとなるほど一言もない、恐れ入ったと頭を下げさせるのが僕の願なんだ。君とはだいぶ方角が違う」
 「しかしそんな文学は何だか心持ちがわるい。――そりゃ御随意だが、どうだい妙花園に行く気はないかい」
  「妙花園へ行くひまがあれば一頁でも僕の主張をかくがなあ。何だか考えると身体がむずむずするようだ。実際こんなに呑気にして、生焼のビステッキなどを食っちゃいられないんだ」
 「ハハハハまたあせる。いいじゃないか、さっきの商人見たような連中もいるんだから」
 「あんなのがいるから、こっちはなお仕事がしたくなる。せめて、あの連中の十分一の金と時があれば、書いて見せるがな」

 これが、この(二)のまとめである。中野は花鳥風月や優雅を好む。高柳は、痛みや苦しみなどの自分の内面に触れるものを書きたい。零落する高柳は、社会的な運命の痛みに関する関心を持っている。そして、その内容は、余裕のある人間に対する反発でもある。中野は実業家と違った優雅な世界に生きている。高柳は実業家と中野の余裕が羨ましくもあり憎くもあり、それが高柳にとっては身を切るような感覚の一つである。その感覚は、人間の内奥として自然に備わるものではなく、この分離の発展と、発展による相互の関係の中で生み出されるものである。裕福な中野にもこの分離過程で独自の矛盾が形成されている。
 趣味性や悲観性についての二人の意識の違いは、次第に、境遇の違いによる社会認識の違いであり、境遇の違いによって独自に形成されている自我の違いであり、その自我についての自己認識の違いであることがわかってくる。ただ、漱石は、両者の対立を明らかにし、零落を対立において肯定する事を課題にしており、両者のそれぞれの矛盾の認識は後の課題である。中野の立場の独自の困難や苦悩を認めないのは、道也と高柳を生活の困難の点で肯定する意識による、中野の立場の一面的な認識である。中野と高柳のそれぞれの精神の矛盾を深刻に捕らえるには、その前提として中野と高柳が社会的分解され対立的な運命をたどることを認識しなければならない。高柳と中野の立場の表面的な対比は、彼らが分離し始めたばかりの、まだ独自性を形成していない段階での精神の特徴である。
 このような分解の方向性において、呑気でなく気楽でない高柳の精神は具体的内容を持つ可能性を得ている。そして、このことを折り返してのみ、呑気で気楽と見える、単純化された中野の精神を必然において認識することができる。
 草枕的な情緒からの決別は、抽象的で単純な廃棄ではない。それを中野の属性として社会的に規定し、その情緒を克服するのは、道也や高柳のような零落した人間の特有の価値観である、と漱石は描写している。呑気で気楽でないもの、というのは零落する運命を反映した精神、という社会的規定を持っている。道也も高柳も、それと対立する中野の精神も、まだ具体的に捕らえられていないが、生活の余裕の中で生まれる精神と、零落を肯定する精神の対立として本質的に規定されている。この意味で、道也と高柳の精神は、合法則的で、社会的な独自性を内包しており、明治社会における精神の発展を反映している。


『野分』ノート(7)

 三

 この作品の課題は、金と地位から独立した人格を得ることである。中野と高柳は親友であり、二人の分離は始まったばかりである。高柳に比べると道也は零落の経歴が長く、中野との個人的な関係もない。漱石は(三)で、高柳君と対比して、道也がいかに中野から分離され独立的であるかを描いている。道也の独立性というのは高柳の拘泥を持たないことである。
 漱石は、道也の動じない精神を描くために、中野の家の様子を厳めしく、ものものしく描いて、「道也先生は親指の凹んで、前緒のゆるんだ下駄を立派な沓脱へ残して」と道也の貧しさを対比し、さらに、道也が中野の生活や趣味に無関心であることを強調し、まずこの表面的な分離を徹底しようとしている。地方から飄然と去ったのと同じように、道也は中野の世界を自分とは接点の無い世界として、批判の必要すら認めていない。高柳のように中野の趣味性に対する批判的な羨望的な意識を持つこともない、というのが道也の無関心の意味である。
 もう一つ高柳との違いで重要な精神は同情との関係である。中野は善良で同情心が深い。しかし、道也はそれを受け付けない態度をとっている。
 
 ▲人に同情を寄せたいと思うとき、向が泰然の具足で身を固めていては芝居にはならん。器用なものはこの泰然の一角を針で突き透しても思を遂げる。中野君は好人物ながらそれほどに人を取り扱い得るほど世の中を知らない。
 
 高柳が中野の同情を嫌っていても、中野は高柳に同情している。高柳は中野との関係で、まだ独立的な精神を形成していない。同情を受け入れることではなく、同情されること自体が道也にとっては中野に精神的に依存することである。零落していながら、同情されない精神を持つことが道也の泰然たる人格である。道也は中野に零落した生活を見せつけながら、同情を受け付けず、羨ましくも思わず、仇討ちをしたいとも思わない。
 この泰然は、反発すらしないという分離の徹底である。しかし、それを泰然たる態度として主張することは、反発すらないという形式の反発である。中野の精神を客観化し、具体的に認識する課題を持つ場合は、反発がないという反発も消える。しかし、中野との分離そのものを課題としている漱石は、抽象的な対立の中で、対立形式をなくすことによって対立を克服しようとしている。対立すらない、という態度を示すためには、中野の家を訪問して、そこで対比し、中野の関心を無視する、という形式が必要であり、中野の積極性を必要としている。徹底した零落を外面的には描くことは出来るにしても、零落にともなう現実的な精神を形成し、中野と分離的な精神に到達するのは漱石にとっては容易でなかった。
 同情というのは、日本のインテリにとって重要な意味をもっている。道也にとって、同情される立場に身を置くことと、同情を拒否することが重要な意味を持っている。同情される立場に立つことが、同情という人間関係や感情を超えるための現実的な方法である。同情の拒否は、中野の階級から独立し、一般的に言えば、金や地位に対する依存を拒否して、独立的な人格を得る意志である。同情することも同情を求めることもない精神が求められている。
 この人格は鴎外と逆の傾向を持っている。鴎外は余裕のある同情する立場を独立性と考え、同情することを人格性の重要な一部分と考えており、それは、鴎外が貧しい人間に対する優位によって自己を肯定し、独立性を感じ取る精神である。漱石は、道也と高柳の零落を強調した上で、中野から独立した精神を追究している。独立を当為として掲げるのではなく、実際に独立的で主体的な精神を獲得する事は漱石にとっても容易ではなかった。しかし、いかに困難な課題であるとはいえ、独立性を零落した道也の立場において追究することは現実的であった。漱石がこの作品で、余裕と教養と善意があっても単純で呑気だとしている中野を、鴎外は、知的にも人格的にも優れた人物として描こうとしている。それは結果から見ても解る通り、困難な課題ではなく、無理な課題である。
 ここで漱石は中野に、現代の青年の煩悶について語らせている。中野のもっともそうな話は、道也にとっては、「道也先生はぴたりと筆記をやめて、妙な顔をして、相手を見た。」というほど自分の世界と異質なものであった。
 
 ▲「自分が明瞭とは?」
 「自分の存在がです。自分が生きているような心持ちが確然と出てくるのです。だから恋は一方から云えば煩悶に相違ないが、しかしこの煩悶を経過しないと自分の存在を生涯悟る事が出来ないのです。この浄罪界に足を入れたものでなければけっして天国へは登れまいと思うのです。ただ楽天だってしようがない。恋の苦みを甞めて人生の意義を確かめた上の楽天でなくっちゃ、うそです。それだから恋の煩悶はけっして他の方法によって解決されない。恋を解決するものは恋よりほかにないです。恋は吾人をして煩悶せしめて、また吾人をして解脱せしむるのである。……」
 「そのくらいなところで」と道也先生は三度目に顔を挙げた。
 「まだ少しあるんですが……」

 中野も道也と同じように、自分の存在を悟るだとか、解脱という言葉を使っている。しかし、言葉の意味は、使う者の立場によって違ってくる。道也は中野の言葉がどれほどもっともらしくても、問題にしていない。「彼はかかる愚な問題を、かかる青年の口から解決して貰いたいとは考えていない。」と漱石は書いている。道也は、青年の煩悶だからではなく、余裕のある「かかる」青年の煩悶だから煩悶として認めていない。高柳も中野の煩悶を認めなかった。まして道也にとって中野の煩悶など論外である。中野も高柳も同じ青年であっても、煩悶の内容は全く違っており、道也の煩悶とも違う。青年の煩悶が社会的に区別されており、煩悶一般として扱う愚を避けることができているのは、道也が零落を肯定し、中野の精神世界と対立する視点を得た成果である。道也は、中野の煩悶を徹底して否定しており、ばかばかしさを嘲笑するでもなく批判するでもない。泰然として仕事をこなすのが、道也らしい分離的意識である。
 道也は零落者としてどんなつまらない仕事も引き受ける覚悟をしている。そのどんなつまらない仕事でも、という零落者の自尊心を示すためのつまらない仕事が、中野の口述の筆記である。こうした、インテリ的な自尊心は、生活とは独立的に思想的課題が存在することを意味している。生活のためにどんな仕事も厭わないのは、生活が目的ではなく、生活は手段であり、一般的思想目的が別に存在している、という強い意識を持つからである。しかも、こうした仕事に耐えることもその一般的目的を追究する過程である。中野の世界との分離という意識的な課題において、中野の下らない話を拝聴し、筆記する自尊心が現れている。中野の精神は、好きな趣味を仕事にして楽しみがら形成される。道也は余裕のない生活の中で、中野の話を拝聴し、丁寧に筆記することに誇りを感じる精神を形成している。その事自体に大きな意義はないが、分離の端緒として、思想の出発点として重要な意味を持っている。
 漱石はそのあと中野家と対比して道也の貧しい家と生活を強調している。道也は、装飾のために生きるのではない。そして、
 
 ▲ 道也先生はやがて懐から例の筆記帳を出して、原稿紙の上へ写し始めた。袴を着けたままである。かしこまったままである。袴を着けたまま、かしこまったままで、中野輝一の恋愛論を筆記している。恋とこの室、恋とこの道也とはとうてい調和しない。道也は何と思って浄書しているかしらん。人は様々である、世も様々である。様々の世に、様々の人が動くのもまた自然の理である。ただ大きく動くものが勝ち、深く動くものが勝たねばならぬ。道也は、あの金縁の眼鏡を掛けた恋愛論よりも、小さくかつ浅いと自覚して、かく慎重に筆記を写し直しているのであろうか。床の後ろでこおろぎが鳴いている。

 中野の口述を筆記して、その後自分の著述をしている。零落に対処することが第一である。零落を受け入れ、零落について嘆きもせずグチも言わず、それを当然のこととするのが道也の人格である。たとえ、中野の愚な口述の筆記であっても、零落した生活のためだと割り切ってやること、そこに中野の生活に対する羨望や反発を一切持たない零落の意義がある。中野の口述を丁寧に筆記することが中野の世界の価値観との決別である。道也の価値観においては、中野の口述の筆記を、自分の原稿の作業に先行させることは、その原稿の内容として、それを書く自分の精神の内容としての満足がある。中野の口述を筆記する、という生活を受け入れることが道也の人格であり人格の形成である。そして、道也の書くべき原稿は、その人格の内容であるから、実際に、中野の口述を筆記した後でなければ、人格論は書けないものである。


『野分』ノート(8)

 漱石は、道也と中野の分離を描いたあと、妻との関係を描いている。道也は中野とは階級も違い個人的な関係を持たないから、単純に分離できる。高柳は中野と親友であることから分離に伴う矛盾が生じていた。道也は中野とは単純に分離されるものの、妻との関係という深刻な人間関係を抱えており、ここで高柳にはない具体的な精神が成立する。
 道也にとっては、零落に耐えること、中野の口述を筆記することは、自分の人格の肯定であり、精神の充実である。しかし、道也の価値観を持たない妻は、道也の精神が充実するほど不満である。道也が忙しがるのは、余裕のなさを強調するためである。しかし、金にならない忙しさは妻にとっては酔狂であり不満のもとである。中野の同情は単純に拒否できるが、妻の不満には具体的に対処しなければならない。
 
 「だって、楽で御金の取れる口は断っておしまいなすって、忙がしくって、一文にもならない事ばかりなさるんですもの、誰だって酔興と思いますわ」
 「思われてもしようがない。これがおれの主義なんだから」
 「あなたは主義だからそれでいいでしょうさ。しかし私は……」
 「御前は主義が嫌だと云うのかね」
 「嫌も好もないんですけれども、せめて――人並には――なんぼ私だって……」
 「食えさえすればいいじゃないか、贅沢を云や誰だって際限はない」
 「どうせ、そうでしょう。私なんざどんなになっても御構いなすっちゃ下さらないのでしょう」

 この妻との会話には道也の限界が深刻に現れている。道也の限界は、『浮雲』の文三と比較するとよくわかる。『浮雲』の文三は、主義主張のためでなく免職になったにもかかわらず、文三の責任であり、主義主張の結果であるかのように厳しく説教された。免職になったことは文三にとって悲惨な結果であるが、お政はその弱い立場にのしかかって不当に責めたてている。しかし、道也の場合、「楽で御金の取れる口は断っておしまいなすって、忙がしくって、一文にもならない事ばかりなさる」のなら酔狂と言われても仕方がない。失職は道也の主観的な選択だからである。道也の主義にとっては零落は満足であり誇りであるが、そんな主義を持たない妻にとっては、零落は道也に持ち込まれた労苦にすぎない。だから、道也が主義だけを大事にして、自分のことを考えていない、と主張する『野分』のお政は不当ではない。しかし、主観的な選択が可能な地位にいるからこそ、この地位からさらに零落した精神を得るためには、道也の立場に則した「お政」の批判が必要である。
 それに対する道也の回答は次の文章である。
 
 ▲ 影の隣りに糸織かとも思われる、女の晴衣が衣紋竹につるしてかけてある。細君のものにしては少し派出過ぎるが、これは多少景気のいい時、田舎で買ってやったものだと今だに記憶している。あの時分は今とはだいぶ考えも違っていた。己れと同じような思想やら、感情やら持っているものは珍らしくあるまいと信じていた。したがって文筆の力で自分から卒先して世間を警醒しようと云う気にもならなかった。
 今はまるで反対だ。世は名門を謳歌する、世は富豪を謳歌する、世は博士、学士までをも謳歌する。しかし・・・。われはこの人格を維持せんがために生れたるのほか、人世において何らの意義をも認め得ぬ。寒に衣し、餓に食するはこの人格を維持するの一便法に過ぎぬ。筆を呵し硯を磨するのもまたこの人格を他の面上に貫徹するの方策に過ぎぬ。――これが今の道也の信念である。この信念を抱いて世に処する道也は細君の御機嫌ばかり取ってはおれぬ。

 これは、やむを得ない事情によって零落したことの再度の説明である。道也は自分と同じ考え方をする人間がいるものと思っていたから、自分が孤立するとは思わなかった。実践の後に、世の中は自分の思っていたものとは違っていたのが解った。しかし、信念を曲げることはできない。だから、妻のご機嫌を取っては居れない、という説明である。妻の言い分は当然であるが、妥協はできない。妻との対立関係は予想外の結果である。妻に対する義務や優しさといった人格性を理由に主義を放棄し主義を歪めることはできない、というのが道也の主張である。
 自分の個別的な人間関係の肯定を理由にして主義を曲げるという「主義」もあり、それを鴎外は「かのやうに」に描いている。父との関係を重視して、学問の内容を父の主張に合わせるという方法に従うならば、道也は妻の主張に合わせて、その学問の内容、人格の内容を変更すべきであるが、道也はそうしない。しかも、道也の場合は、道也の零落が妻を不幸にしていることは明らかである上に、その零落が道也の主義・人格の結果であることも明らかであり、その零落について妻には何の責任もないし、妻が零落に不満を持つことが当然であることもはっきりしている。作品もそのように描いているし、道也もそのような状況であることの全体を理解している。
 こうした状況の中で、道也は妻のご機嫌をとるわけにはいかない、と主張している。しかも、貧しさは便法であるというが、目的である人格の内容ははっきりしない。したがって、妻の主張が当然である事が解っていても、道也は自分自身の正当性を説明できない。だから、妻は道也を頑固だと非難する。そして、自分が頑固であることを道也も知っている。頑固である、というのは自分の主義を主張しながら、その主義の正当性を説明できないことである。
 道也は客観的には零落によるさまざまの精神的果実を得ている。しかし、具体的な精神を形成することと、その精神を対象化し、その意義を認識することは全く別の課題であり、新しい精神を形成しつつある道也にはその精神の意義は認識できない。しかし、現実の成果を得ているからこそ、非妥協的でいることができるのであるから、道也の覚悟は揺らぐことがない。そして、こうした確信を支えているものは、道也に対する妻の批判である。

 道也が妻との関係より主義を重視し、妻との関係において非妥協的であることは、家庭の人間関係を無視し、破壊する必然を持つわけではない。家庭の人間関係をもっとも重視することによって家庭的な人間関係をうまく形成できるわけではないことと同じである。いずれの場合でも、人間関係における一つの主観の契機にすぎず、主観の意図にすぎず、具体的な状況に応じてそれぞれの矛盾が展開され具体的な関係が形成される。ここに描かれた道也と妻の関係はそれほど深刻な対立関係ではないし、信頼関係が崩壊しているわけではない。
 道也と妻との対立が深刻ではないのは、中野との関係が道也が思っているほど深刻でないのと同じである。道也は深刻な対立を形成できるほど零落していないし、零落した精神をもっているわけではない。道也は妻の考え方が世間並みで、自分がそれよりはるかに高い精神を持っていると確信しているが、道也はまだ世間や妻と対立的な高い精神を得ているわけではない。中野の考え方を、順当で当たり前で、批判する必要を感じなかったのと同じで、妻を特別に悪い人間であるとは思っておらず、自分が高いという確信の元で、余裕をもって寛大に対処している。主義を譲らない事が頑固であって、対立を求めているわけではない。妻が世間一般と同じ意識を持つ一人であれば、個人として批判対象になることはない。道也は妻や中野と対立し、彼らに対して優位を持つことで自己を肯定しようとしているのではない。優位はすでに明らかである。つまり、対立において対立しないことが道也の高さであり、高い精神を非対立的な対立形式によって示している。しかし、こうした特徴のすべては、道也がまだ世間や妻の理解を超えるほどの思想をえておらず、対立を当為として掲げ、すでに対立していると信じていることによって生じている。深刻な対立を生じさせようとしているのであって、深刻な対立はまだ生じていない。
 道也は自己を自己自身において肯定しており、世間を変革することを課題としており、中野や妻との対立に意義を認めていない。道也は一般的課題だけを問題にしており、中野や妻とは次元の違った高い立場に居る。漱石はこのように意識して妻との関係を描いている。しかし、道也は実際はそのような立場にいるのではなく、妻はこの道也の幻想を破壊するという重要な役目をもって登場している。
 道也は自分の孤立と零落を手段であり目的ではない、と主張しているが目的ははっきりしておらず、手段が本当の内容であり成果である。高い目的は掲げられているだけで、道也の精神の具体的な内容は、中野との対立や妻との対立であり、『浮雲』と同じように、弁解の余地のないほど「お政」に非難され、その非難との関係で自己を貫き、自己を認識することに人格の意義がある。道也は、目的においてではなく、この対立において自己を肯定している。抽象的には、地位と金に依存しない人格である事が道也の目的であるが、それは現実には職をうしなうこと以上の意味をもっておらず、人格の具体的な内容を与える事が出来るのは、「お政」の批判である。道也にとって、妻との対立は、人格の形成にとってもっとも重要な意味をもっている。この対立以外に道也は具体的な対立関係を持っていない。道也が著述している人格論の中身はこうした対立の中で今形成されているのであり、決して道也の頭にすでにあるものを書き記そうとしているのではない。
 道也の人格の内容は零落の結果としてもたらされる。零落に対する同情を拒否し、零落を酔狂だと批判されることが零落した自我の内容である。したがって、道也がどれほど高度の精神を形成できるかは、いかに徹底して零落し、零落をいかに厳しく批判されるかにかかっている。零落は文三に近づき、お政を得るための手段である。零落に耐えること自体に意義を感じているのであれば、禁欲主義の立場から妻を批判し、自分の零落そのものを成果として人格として誇ればすむことである。しかし、道也は、零落を求めているのではない。道也は、零落したことを徹底して批判される立場を可能な限り追究している。しかし、『野分』のお政は、『浮雲』のお政の厳しさに遥かに及ばない。
 個人的な幸福をあきらめる道也の禁欲主義は、貧しさに耐えるだけでは我慢強いという抽象的な精神以上の成果を得られない。課題はいかに社会的な精神を獲得するか、余裕のある中野が得られない社会的精神を得られるかである。それは社会との関係で得られるが、その社会と道也をつなぐのが妻の役割である。中野との関係では、道也は中野の同情を拒否する泰然とした精神を持つことを重視していた。しかし、妻は、道也の立場に則して、道也が泰然としていられないような批判をしている。この批判が漱石の力量の到達点である。
 
 ▲「それが痩我慢ですよ。あなたはそれが癖なんですよ。損じゃあ、ありませんか、好んで人に嫌われて……」
 
 人格が通用しなくなった世の中で、人に嫌われても、孤立しても、人格を貫く、と道也は主張しているのであるから、これは褒めた言葉とはいえないまでも、道也の主張をそのまま認めた上で、それをやせ我慢と主張していることになる。しかし、「あなたはそれが癖なんですよ。」というのは厳しく、漱石らしいセンスである。こうした妻の言葉に添えて道也は、さらに次のように念を押している。
 
 ▲ 細君は大功名をしたように頬骨の高い顔を持ち上げて、夫を覗き込んだ。細君の眼つきが云う。夫は意気地なしである。終日終夜、机と首っ引をして、兀々と出精しながら、妻と自分を安らかに養うほどの働きもない。

 妻は目付きでさえも道也の人格の都合のいいように喋らされている。細君の眼付きが言う言葉は道也自身の自己肯定的な言葉である。世間にはこのように見えて、このように言われてもなお主義を貫くのが道也の人格である。道也の人格性は、世間の常識との対立を意味しており、その具体的な対立は妻との関係であり、道也の人格性は、妻との対立関係に依存している。道也の人格性の具体的な内容は非常に乏しく、中野や妻との関係描写されていることがすべてであり、それ以上の内容は示唆されているにすぎない。
 道也とお政という名の妻の価値観は一致しており、同じレベルでの同等の対立関係を超えていないことは、『浮雲』と比較するとよくわかる。道也と妻の関係は、形式的には『浮雲』に似ている。道也の妻のお政は、生活のために兄のご機嫌をとるべきで、それをしないのがお高くとまっていることで、そのために損ばかりしている、と非難している。道也の価値観からすると、こうした非難は、否定の形式をとっているものの、道也の人格を承認していることである。こうした対立関係は、『浮雲』と似ているし、漱石も『浮雲』を意識しているであろうが、漱石はまだ『浮雲』には全然届かない。
 道也は兄のご機嫌をとることも、妻のご機嫌をとることもできない、と主張しており、自分の零落が、できたこととして仕方がない、と主張している。これは文三と同じである。しかし、中身が違う。文三は母親とともに破滅の淵に立っていながら、ゴマをすることに気が進まない。そして仕事もできるのに、他の多くの人間と一緒に免職になった。この事態の全体について、文三は「できたことは仕方がない」と言って、お政にその不心得を徹底的に批判されている。しかし、お政の非難はまったく不当であり、事実を歪めている。文三は免職になることに意義を認めているわけではない。免職になったことに心底苦しんでおり、主義主張の結果として免職になったのではなく、社会情勢と自分の性格のごく小さな力の合力の結果として免職になったのであり、最大限の努力をしていたにもかかわらず、予想外の、しかたのない社会的な結果として受け入れているのであるし、したがって、免職になったことを、主義主張の、自分の人格の高さの証として認識することなど論外である。失職は現実的な厳しい結果としてのみ受け入れられており、人格性はその結果とは別である。文三は自分の人格性に重要な関心を持っているのではないし、世間ともお政とも対立しようとしているのではない。それにも関わらず、お政は失職に伴うすべての結果を文三自身の責任で起こったことだと非難している。母親を破滅させても、お政を落胆させても平気で、他人のことなど何とも思っていない、そういう人格なのだ、と非難されている。文三は決してそんな性格をもっていないし、お政もそう思っているわけではないが、文三は、結果による力関係のために、そうではないと説明することができないし、お政は一切の弁解を認めず、失職の結果のすべてを文三の意図が作り上げたものだとして、文三の人格を没落と同等の、同質のものとして否定している。だから文三を批判するお政と文三の価値観はまったく違っており、批判はまったく受け入れがたいほど悉く不当である。しかし、これが現実に形成されている力関係であり、お政に非難される文三は平静どころではなく、道也と違って遥かに深刻な現実認識を形成している。
 道也は人格的な、自覚的な零落者であるから、たとえ同じ名前のお政が、同じ形式で道也を批判しても、それを道也は受け入れることができるばかりでなく、その非難をこそ必要としており、その非難が道也の価値観と一致しており、不当でもなんでもない。だから、道也と妻の価値観は対立において一致しており、漱石はいかに零落を目指していても『浮雲』の文三とお政との対立関係には到底入っていくことができない。『浮雲』のお政ほどの高度の精神によって、厳しい批判を受ける立場に身を置くことができないのが道也の人格性の限界である。文三は生活が破綻した上に、人格として徹底して批判され、しかも反論する立場と言葉を持たない。それにもかかわらず自分の価値観を肯定し、お勢に期待し、お勢の変化をも現実の必然として認識する方向に向かうほど強靱で豊かな精神を持っている。
 道也と妻との対立は、価値観の一致において対立しているために、深刻で具体的な内容を持つことができない。妻は『浮雲』のお政と違ってご機嫌をとることを当然と思っているのではない。生活が破綻しかかってはじめて兄のご機嫌をとることを一つの手段として勧めている。それは妻がすでに質に持っていくものもなくなっていると話していることからわかる。妻は贅沢を望んでいるのではなく、普通の生活を望んでおり、彼女の立場として十分に貧しい生活に耐えている。そのことを、禁欲的に零落に耐えることを人格としている道也は認めることができず、しかも、妻に批判されることを必要としている。道也は、妻を否定することで自己を肯定することを目的としていないから、妻との妥協点を探る努力を最大限しながら、なお非妥協的である。これも、主観の意図によるのではない、やむを得ない事情による対立という、形式としては『浮雲』に近づこうとする努力である。こうした矛盾に満ちた関係はすべて、道也が、人格性によって零落を選択している、という禁欲主義的な意識がもたらしたものである。
 全体として道也は自分を、妻や世間から徹底して否定される立場に置こうとして、その人格性のために、なかなか零落しきれない矛盾を抱えている。しかし、基本的な傾向としてなお零落を手段として受け入れようとしており、妻との妥協を拒否している。この妻との関係の限界を克服するのも、道也の人格性である。もし道也が妻の言葉に妥協するならば、ここにある信頼関係も崩壊する。そのことを後に漱石は深刻に理解することができるようになる。



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