『野分』ノート

 『野分』ノート (9)  (10)  (11)  (12)



 零落を肯定する道也と高柳の意識の具体的内容は容易に獲得されない。彼らの意識を流動化し、内容を形成するのは、一層の零落である。高柳は、自分が肺病ではないかという危惧を持って零落の道を進んでいる。不満が蓄積され、自信と希望が薄れていき、絶望的に自分の運命を認識している。それが、高柳の「一人坊っち」という自己認識である。この自己認識によって高柳は道也に近づくことができる。
 中野を批判し中野に拘泥している場合はまだ孤立ではない。零落が進んで、中野との間の溝が深くなると、孤立を意識するようになる。中野を批判している段階では、高柳は自分自身を問題にしていない。零落が深刻になると、中野の余裕を批判することで自己を肯定することはできなくなり、自分自身の運命に対する絶望的な関心が発展している。実際こうした精神は普遍的に社会に広がっており、絶望のうちに多くの精神が破滅していく。だから高柳の運命と精神が普遍的な意義をもってくる。
 高柳は音楽会の席で、自分が異種類の動物で、下等席に入るべき者だと自覚している。零落には零落にふさわしい人間関係と意識が必要である。その立場の意識化が高柳の自我である。漱石にとって、高柳の意識は、中野の世界を相対化し、批判的に認識するために重要な意味を持っている。中野の世界が高柳の精神を排除し、それと対立していることは、それ自体には表れない。漱石は、ここで排除されている高柳の精神を肯定し、その視点から中野の世界を認識している。こうした相対化と客観化の視点を持たない場合には鴎外の精神の系列が展開される。
 漱石は、音楽会での中野の手慣れた様子やしぐさを、中野がいかに優れているかという視点からではなく、日常の生活と精神の全体においていかに高柳と対立的な生活と精神であるか、という視点から描いている。こうした客観的な描写は、零落を覚悟した道也の人格を経由した成果としてのみ描写することができる。それ自体では抽象的で頑固に見える道也の決意が社会認識上いかに重要であるかが解る。
 高柳と音楽会も、そして、高柳と中野も、「やはり両立しない」。漱石は高柳に音楽の趣味がないことを強調している。漱石は道也と高柳の孤立の感情がインテリ的な趣味や教養より重要であると考えている。中野の精神も高柳の精神もまだ具体的ではなく、余裕があるかないかという表面的な特徴がまず対比されている。この対立から、中野は余裕のある世界に取り残され、道也と高柳には、「一人ぼっち」という感情が得られる。中野の世界には切実な精神はない。それを克服するための第一歩が、この世界から排除され、この世界の余裕を失うことである。この世界での孤立の後に別の人間関係や積極的な精神を得る方法は見つかっていない。しかし、第一歩として中野の世界から排除されねばならず、「ひとり坊っち」を受け入れなければならない。
 こうした破滅的な人生の中での高柳の唯一の希望は、その人生で生まれる精神を記録して、人々に訴えることである。破滅的な人生には音楽の趣味は必要ないし、「カラーセンス」も必要ない。漱石は高柳の孤独を強調した上で、再び高柳と道也の零落の意義を繰り返している。
 
 ▲ 自分の左右前後は活動している。うつくしく活動している。しかし衣食のために活動しているのではない。娯楽のために活動している。胡蝶の花に戯むるるがごとく、浮藻の漣に靡くがごとく、実用以上の活動を示している。この堂に入るものは実用以上に余裕のある人でなくてはならぬ。
 自分の活動は食うか食わぬかの活動である。和煦の作用ではない粛殺の運行である。儼たる天命に制せられて、無条件に生を享けたる罪業を償わんがために働らくのである。頭から云えば胡蝶のごとく、かく翩々たる公衆のいずれを捕え来って比較されても、少しも恥かしいとは思わぬ。云いたき事、云うて人が点頭く事、云うて人が尊ぶ事はないから云わぬのではない。生活の競争にすべての時間を捧げて、云うべき機会を与えてくれぬからである。
 
 漱石にとってこの主張が物を書く上での新しい出発点である。抽象的であるが、中野の精神世界との違いを、基本的な立場の違いを基準にして規定しようとしている。趣味や精神を、客観的立場によって規定するために、11は自分を零落した立場に置こうとしている。娯楽のために活動している世界と、食うか食わぬかの活動をしている世界によって、精神の内容を区別することが漱石の社会認識の飛躍である。こうした視点は、零落を肯定する意識的な選択によってのみ可能になる。趣味の善し悪しや教養のあるなしを問題にするのは、中野の世界内部での詮索である。この世界での精神的な詮索の全体を、娯楽のための活動として総括し、衣食のための活動と対立させることが、中野の世界の批判的な客観的な認識である。
 この時点では、衣食のために活動している精神と娯楽のために活動している精神のそれぞれが具体的にどのような内容を持つかは問題にならない。衣食のためか娯楽のためか、というこの基準が出発点としての決定的な価値観であるために、このことを繰り返し確認し、この価値観を確定しようとしている。
 高柳は、中野の世界との関係で圧迫を感じ、孤立を感じる。趣味や態度や振る舞いの上品さはこの階級にとっては下層に対する優位を意味している。その意味は表には現れないが、零落した高柳は、この世界に交わることでそれを強く感じている。それは金と地位によって得られた精神の体系の一部分である。地位や金に依存しない、という道也の決意はこうして、この中野の世界と対立する精神の肯定的理解を作り出している。
 しかし、高柳は、言いたいことが山ほどあるが、それを書く条件がないことに苦しんでいる。零落した道也や高柳には、著述をするための時間がない。しかし、本質的な困難は、高柳の言いたいことは、中野の趣味性と違って高度であるために、それが何かを認識し表現することが難しいことである。その言うべき内容が高柳にも道也にも明らかになっていないから書くことができない。葛藤に満ちた精神を持ちながらも、多くの人間が破滅し、破滅を蓄積し、それを明らかな言葉や芸術として表現する人間を待っており、表現する人間を生み出すのが現実である。
 高柳は自分の精神の表現を拘束するものが外的な障害である、と考えている。11はそうではない、主張している。余裕のある世界は、余裕によって手と口を束縛される。余裕のない世界は余裕の無いことによって手と口を束縛される。その束縛を克服することがそれぞれの課題である。そして、両者にとって、その束縛こそが精神の内容である。束縛がないように見える上流の世界にどのような束縛があるかは、鴎外を読めばわかる。鴎外は中野の世界で形成される精神の優位を描こうとしながら客観的にはその涸渇を描いており、そこに中野から道也へ、さらに高柳への移行の必然が示されている。
 高柳が零落と孤立を深く感じる過程は、道也に接近する過程として描かれている。道也は立場としても精神としても早くから零落して、高柳の零落を待っている。音楽会のあと、高柳は、中野の談話を口述しに来た道也の話を聞いた。道也を見て中野も気の毒に思ったが、それは自分と違った運命に対してである。自分が音楽会とも、中野とも両立しないことを経験した高柳は、道也の零落ぶりを聞いて、自分の同類を発見している。同じ気の毒に思うにしても、立場によって内容がまったく違っている。

 
『野分』ノート(10)

 (五)

 ここで漱石はまず高柳の零落したわびしい生活と感情を描いている。希望のない孤立的な精神が漱石にとっては価値がある。こういう状況に身をおいて、その視点から世間を認識しなおすのが漱石の決意である。
 まず中野の恋愛論が引き合いに出され、「恋愛観の結末に同じく色鉛筆で色情狂!」と書いてあるのを読んで高柳はにやりと笑った、と漱石は書いている。中野は大いに真面目であるが、立場が違うとそのように見える。明治39年3月の東京朝日新聞に四迷が「老の繰言」という文章を書いており、新体詩を「全然色情狂の譫言を陳べたやうなものぢや」(まるでいろきちがひのうわごとをならべた・・)と評している。漱石はこの文章を読んで、にやりと笑ったのではないだろうか。
 中野の「僕の恋愛論」に続く「現代青年の煩悶に対する諸家の解決」に対する軽い批判は、四迷ほどの鋭さはないにしてもよくできている。
 
 ▲ 第一は静心の工夫を積めと云う注意だ。積めとはどう積むのかちっともわからない。第二は運動をして冷水摩擦をやれと云う。簡単なものである。第三は読書もせず、世間も知らぬ青年が煩悶する法がないと論じている。無いと云っても有れば仕方がない。第四は休暇ごとに必ず旅行せよと勧告している。しかし旅費の出処は明記してない。――高柳君はあとを読むのが厭になった。颯と引っくりかえして、第一頁をあける。「解脱と拘泥……憂世子」と云うのがある。標題が面白いのでちょっと目を通す。

 積めとはどう積むのか、無いと云っても有れば仕方がない、旅費の出所は明記していない、というのは、漱石らしい軽い批判である。道也の「解脱と拘泥」はこうした文章と同じ雑誌に載っている。道也の文章は、批判に耐えるであろうか。
 道也はまず、拘泥すべきではない、と主張し、体の局所にこだわる実例を示している。実例は本来の主張とは別の内容を含んで主旨を分かりにくくするだけで、大した意味はないし効果もない。道也が多く実例を使うのは、まだ主張の具体的な内容を得ていないからである。まとまりのない道也の文章のなかから多少とも意味のある部分を取り出しておこう。
 拘泥というのは、一般的に言えば具体的な関係であり関心であるから、解脱の実現は一切の関心を失うことである。しかし、道也にとって解脱は方便にすぎず、抽象的な目的として掲げられているにすぎない。そこで特徴的なことは、「得意の方は前云う通り祟りを避け易い。しかし不面目の側はなかなか強情に祟る。」としていることである。これは、高柳が音楽会で感じたことを別の言葉で表現したものである。道也の主な関心は中野の世界からの分離である。地方の有力者との対立は零落するための単なる手続きで、道也の現実的な関心は、中野の世界で生ずる、零落した生活に対する罵詈や冷評に煩わされない自我を持つことである。だから、拘泥というのは案外つまらない内容である。拘泥の内容に積極的な意義があると見えないからこそ、解脱としてそれを払拭することを必要としている。
 解脱の第二の方法は、批判を受けない立場に身を置くこと、妥協することである。
 
 ▲「第二の解脱法は常人の解脱法である。常人の解脱法は拘泥を免かるるのではない、拘泥せねばならぬような苦しい地位に身を置くのを避けるのである。人の視聴を惹くの結果、われより苦痛が反射せぬようにと始めから用心するのである。したがって始めより流俗に媚びて一世に附和する心底がなければ成功せぬ。江戸風な町人はこの解脱法を心得ている。芸妓通客はこの解脱法を心得ている。西洋のいわゆる紳士はもっともよくこの解脱法を心得たものである。……」

 道也は、まず、拘泥せねばならぬような苦しい地位に身を置かねばならない、としている。その上で、対立を避け、用心して、流俗に媚びることを批判している。道也は、対立を避けて世間を渡ることの逆を実践している。道也は敢えて対立と孤立を選ばなければならない立場にいる。禁欲主義的に孤立を求めなければ自分の世界の価値観に流されてしまうという危機意識を持っている。つまり、道也は、対立を避け、用心し、媚びれば、つまり妥協し、相手との一致を望めば宥和できる立場におり、その立場を超える事を課題にしている。主観による困難の選択という11が、主観のありかたとしての解脱を必要としている。
 これは、道也の立場が必要とする心構えである。音楽会での高柳はこのんで孤立的な立場に立とうとしたのではないし、媚びて宥和する方法もなかった。媚びても拒否されることがはっきりしているので媚びる気持ちも起こらなかった。だから、道也の当為は、高柳には当てはまらない。道也のいう第二の解脱は、町人や紳士を対象にしているが、こうした解脱は高柳のように零落する人間の運命には関わりのないものである。11は、高柳の経験として描写されている人間関係と精神をまだ肯定的に認識できていない。高柳のように零落する過程を普遍化することは非常に困難であり、道也の手に負える課題ではない。高柳は中野との関係にわずらわされているが、そんなものを無視して独自の課題に取り組むべきだ、というのが道也の人格であるが、高柳の零落にはそうした人格がより徹底した内容において形成されている。それを、認識できないのが、意識的な、主体的人格である道也の限界である。
 道也の抽象的な現実認識は実例によって脱線しやすくできている。道也はまだ自分の目的や実践の意味をはっきり認識することができない。だから、拘泥をも解脱をも具体的に規定することができずに実例に脱線をして、主旨を解らなくしてしまう。面倒なことをいろいろ書いているが、要するに、この段階で道也が言いたいのは次のことである。
 
 ▲ 高柳君は今まで解脱の二字においてかつて考えた事はなかった。ただ文界に立って、ある物になりたい、なりたいがなれない、なれんのではない、金がない、時がない、世間が寄ってたかって己れを苦しめる、残念だ無念だとばかり思っていた。
 
 零落の困難に耐える事、余裕が無い事に耐える事、零落にともなう世間の冷たい視線に耐えること、そのために、自分自身の、金や地位に対する羨望や恨みや妬みをなくすこと、それが道也の解脱である。零落を自ら選択したと考える道也にとっては、この解脱が大きな意味を持っている。道也は拘泥が学問の障害だと思っている。しかし、学問を得る前にあらかじめ解脱することはできない。解脱の過程と真の学問を形成する過程は同じである。だから、解脱をかかげることは拘泥することである。高柳の拘泥は零落とともに払拭されている。高柳の拘泥が高柳の著述の邪魔をしているのではない。高柳の拘泥は、高柳の得た新しい自我であり、それは解脱して忘れるべきものではなく、形成され、維持され蓄積されるべきものである。道也はその意義を認識できないから、解脱すべきだと考えている。
 
 ▲ 「解脱は便法に過ぎぬ。下れる世に立って、わが真を貫徹し、わが善を標榜し、わが美を提唱するの際、?泥帯水の弊をまぬがれ、勇猛精進の志を固くして、現代下根の衆生より受くる迫害の苦痛を委却するための便法である。この便法を証得し得ざる時、英霊の俊児、またついに鬼窟裏に堕在して彼のいわゆる芸妓紳士通人と得失を較するの愚を演じて憚からず。国家のため悲しむべき事である。

 文章が大げさで、それだけに内容は乏しい。真、善、美を提唱する場合に、衆生より受ける迫害を委却する便法をまず身につけるというのは無駄な努力である。世間と対立した真、善、美を提唱する場合に、まず邪魔者を払いのけることを手段として前に置くのは、はなはだしい迂回であるし、邪魔者を払いのけることを目的とすることは邪魔者に拘泥することであるから、払いのけることはできない。むろん、真、善、美を標榜しても、それをすでに得ているわけではない。それを得るために、それを実現しようとして遭遇する人間関係上の対立が本来の目的であり内容である。しかし、道也は自分と現実社会とのこうした関係をまだ認識できていない。ただ、道也が解脱を方便であると繰り返し主張しているのは、客観的には、11が零落自体に満足することなく、それを過程として、内容として必要としていることを意味している。解脱を抽象的な目的として掲げて、決して解脱しないことが解脱を目的として掲げる意識の限界を超える力である。
 
 ▲ 「解脱は便法である。この方便門を通じて出頭し来る行為、動作、言説の是非は解脱の関するところではない。したがって吾人は解脱を修得する前に正鵠にあたれる趣味を養成せねばならぬ。下劣なる趣味を拘泥なく一代に塗抹するは学人の恥辱である。彼らが貴重なる十年二十年を挙げて故紙堆裏に兀々たるは、衣食のためではない、名聞のためではない、ないし爵禄財宝のためではない。微かなる墨痕のうちに、光明の一炬を点じ得て、点じ得たる道火を解脱の方便門より担い出して暗黒世界を遍照せんがためである。

 解脱は方便であって、解脱を習得する前に趣味を養成せねばならない。つまり、解脱は後の目的として、まず趣味を養成しなければならない。しかし、この趣味がどういうものかを道也は説明することができない。衣食のためでなく、名門のためでなく、爵禄財宝のためでないことは解っても、それが何かは解らない。「暗黒世界を遍照せんがため」に努力する、といっても、社会をどのようにするために、どのように努力するのかという方法は示されていない。社会を「暗黒世界」と認識することはすでに社会についての認識の欠如を示している。だから、道也の目的とする学問ないし趣味、その内容である、真、善、美は、どのような名前で呼ばれようと、具体的には何であるかはまだ道也に理解されておらず、したがって示すことができず、だからこそまた、そのような抽象物があるものと信じることができる。ただはっきりしているのは、それが衣食のためでなく、名門のためでなく、爵禄財宝のためでないことであって、そのために零落を必要としている事である。
 道也は、自分が掲げる目的やその目的のもとでの実践の意義を認識することができない。金持ちや有力者に対立し、金や地位に従属しない人格を当為としてかかげつつ、地位や金を失うことでそれをすでに得たものと考えている。そして、得られたその人格を維持し貫くことを現在の目的としている。客観的には、道也の人格は、零落による経験と、その経験についての反省によって形成されるのであって、道也はその形成の第一歩を踏み出したところである。したがって、道也の掲げる抽象的目的はそれ自体としては無内容であり、意味を持たない。
 
 ▲ 「光明は趣味の先駆である。趣味は社会の油である。油なき社会は成立せぬ。汚れたる油に廻転する社会は堕落する。かの紳士、通人、芸妓の徒は、汚れたる油の上を滑って墓に入るものである。華族と云い貴顕と云い豪商と云うものは門閥の油、権勢の油、黄白の油をもって一世を逆しまに廻転せんと欲するものである。

 こうした悲憤慷慨は、社会認識として無内容である。道也の実践の本当の内的な目的はこうした軽薄な悲憤慷慨を払拭することである。このあとも道也は変わり映えのしない平凡な、大げさで凝った文章を連ねている。漱石は、道也の文章を読んで、「高柳君は雑誌を開いたまま、茫然として眼を挙げた。」と書いている。しかし、こうした空虚な文章は、高柳の境遇にはふさわしくないし必要でもない。
 道也の立てる目的は無内容であるが、基本的な傾向として零落を肯定していることと、それに至るための努力に漱石らしさがある。道也は、自分が馬鹿にされ、軽蔑される立場に身をおくことをまず第一の目的としており、その成果として、馬鹿にされ、軽蔑され、批判されることに耐えうる自己を形成しようとしている。それは方便であるとされているが、この対立形式自体が具体的な精神を作り出しており、目的であり内容である。高い人格を、中野の世界を意味する世間から軽蔑される境地としてを描くのが漱石の特徴である。鴎外が、世間一般から尊敬される高い精神を描こうとするのと対照的である。鴎外の場合は自ら世間を軽蔑している精神を描き、いかに世間より高いかを描くが、漱石の場合、高いい人格であることは、いかに世間から馬鹿にされる地位に身をおいて、世間と対決する自我を確立するかである。そして、この世間というのは、漱石や鴎外のエリートの世界のことである。
 道也の文章は厳めしいと同時に冗談めいている。まだ具体的な内容を持っていないから、形式張って真面目腐ってばかりもいられないので冗談めいた文章が必要である。実際こんな空虚な内容を本気で真面目腐って書いていると寧ろ軽薄になる。
 
 ▲「あれは、よく食う奴じゃな」
 「食う、食う」と答えたところによるとよほど食うと見える。
 「人間は食う割に肥らんものだな。あいつはあんなに食う癖にいっこう肥えん」
 「書物は沢山読むが、ちっとも、えろうならんのがおると同じ事じゃ」
 「そうよ。御互に勉強はなるべくせん方がいいの」

 これは、道也の文章より深い内容を表現しているわけではないが、道也の堅苦しい文章の後には必要な描写である。先は長い。漱石は、中野の世界であるインテリ的な精神の拘泥から解脱したかった。しかし、いかに厳しい零落を想定してもこれを洗い流すことはできない。日本の歴史と漱石の経験が蓄積してきたエリート精神をひとつずつ、一歩ずつ認識し克服することでのみ新しい精神を獲得できる。道也は零落を選択し、可能な限り厳しい覚悟を追究しており、そのために自分の苦悩と成果を大げさに表現しているが、それはむしろ甘い幻想である。道也の得た成果は、それまでの漱石の精神の到達点であると同時に、この時点の漱石には想像できないほど困難に満ちた、そして成果の多い精神世界への出発点であった。

『野分』ノート(11)

 六 
 ▲同類に対する愛憐の念より生ずる真正の御辞儀である。世間に対する御辞儀はこの野郎がと心中に思いながらも、公然には反比例に丁寧を極めたる虚偽の御辞儀でありますと断わりたいくらいに思って、高柳君は頭を下げた。道也先生はそれと覚ったかどうか知らぬ。
  「ああ、そうですか、私が白井道也で……」とつくろった景色もなく云う。高柳君にはこの挨拶振りが気に入った。両人はしばらくの間黙って控えている。道也は相手の来意がわからぬから、先方の切り出すのを待つのが当然と考える。高柳君は昔しの関係を残りなく打ち開けて、一刻も早く同類相憐むの間柄になりたい。・・

 この作品で唯一の、そして「真正の」信頼関係は、零落した者の同類相哀れむ関係である。道也と高柳の零落自体は客観的には深刻ではないが、彼らにとっては、最大限の困難であり、零落を共有する信頼には現実性がある。道也は高柳に対しては泰然とした態度をとらない。高柳もなんら拘泥する意識を持っていない。道也も高柳もこの同類相哀む関係においては、拘泥しておらず、解脱している。
 零落を共有することが道也の言う解脱の本質的な契機である。しかし、道也はそれを認識することができず、零落の社会的な必然の意味が目の前にあるにもかかわらず、高柳に対して主観のあり方による解脱の必要を説いている。零落と解脱を目的として意識している11には、その両方の意義を理解することができない。当為として掲げること自体、その意味の具体的認識が課題として意識されていないことを示している。しかし、実は11の立場においては、これが合法則的な認識方法である。零落の意味を認識するためには、道也はまず解脱を遠い目的として掲げつつ、その為の実践にまみれて意識を蓄積することを当面の課題としている。中野の世界で拘泥しないことは、中野の世界から分離されて、その分離された世界で、同類相哀れむ人間関係と精神が形成されることである。道也は実践的にその必然に従っているにも関わらず、その必然を認識する前に、零落を主観的に選択することの意義を問題にしなければならない。この主観的選択の人格性が、道也につきまとう矛盾である。
 
 ▲ 「ほかの学問はですね。その学問や、その学問の研究を阻害するものが敵である。たとえば貧とか、多忙とか、圧迫とか、不幸とか、悲酸な事情とか、不和とか、喧嘩とかですね。これがあると学問ができない。だからなるべくこれを避けて時と心の余裕を得ようとする。文学者も今まではやはりそう云う了簡でいたのです。そう云う了簡どころではない。あらゆる学問のうちで、文学者が一番呑気な閑日月がなくてはならんように思われていた。おかしいのは当人自身までがその気でいた。しかしそれは間違です。文学は人生そのものである。苦痛にあれ、困窮にあれ、窮愁にあれ、凡そ人生の行路にあたるものはすなわち文学で、それらを甞め得たものが文学者である。文学者と云うのは原稿紙を前に置いて、熟語字典を参考して、首をひねっているような閑人じゃありません。円熟して深厚な趣味を体して、人間の万事を臆面なく取り捌いたり、感得したりする普通以上の吾々を指すのであります。その取り捌き方や感得し具合を紙に写したのが文学書になるのです、だから書物は読まないでも実際その事にあたれば立派な文学者です。したがってほかの学問ができ得る限り研究を妨害する事物を避けて、しだいに人世に遠かるに引き易えて文学者は進んでこの障害のなかに飛び込むのであります」

 これが、この作品の主旨である。道也は、文学者は余裕のある暇人の仕事ではない、と信じて、その実践として零落し、嘲罵と非難を得た。それが文学者になるための資格である、と道也は考えている。このこと自体は、抽象的には平凡で、常識的な考え方である。しかし、「進んでこの障害のなかに飛び込む」ことが、中野の世界との分離を意味していることは、道也にとって本質的な意義を持っている。道也の考える「障害」と拘泥は、中野と道也の世界の具体的精神のあり方である。この世界の精神の限界を超える事は、この世界の精神を具体的に認識する事である。そのためには、この世界がどのような内容を持っているかを、この世界に矛盾を持ち込むことで現象化しなければならない。だから、漱石も道也も解脱を求めているが、その方法は、拘泥を作り出し、その拘泥する自己を認識することである。したがって、道也が掲げる主張自体は平凡であり、内容は背後に隠されているとしても、実践的には合理的な手順をとっている。
 道也は文学者の困難を強調しているが、まだ外的な困難であって、深刻な困難には突き当たっていない。文学者になるためであろうとなんであろうと、状況によっては孤独に耐えなければならない。妻にまで馬鹿にされて、しまいには下女にまでからかわれる、ということは特別の困難ではない。道也のこの主張は抽象的で平凡な主張の繰り返しである。だから、こうした平凡な教訓的な主張にまどわされて、こうした主張の背後で形成されている漱石の新しい精神を見失ってはならない、というのが、この平凡な主張を読むにあたって必要な教訓である。
 道也は世の中が生きていくには苦しいことを知った、と主張している。それは道也として最大限の苦悩であっても特有の限界を持っている。世の中が生み出す苦しみは無限的であり、それを味わう力量も無限的に歴史的に形成される。高柳は物質的な困窮と孤独に苦しんでいる。道也はこの苦しみに耐える覚悟をしている。後期の漱石と比較しても、そして現実に存在するあらゆる困窮や苦悩と比較しても、道也と高柳の苦悩は相対的に平凡である。しかし、この作品は、漱石の立場として可能な限り零落を肯定し、それに伴う苦悩を肯定することを、自分の基本的な傾向として確認しているのであり、これが後の漱石を生み出す力である。

 (七)

 漱石は、道也と高柳の同類相哀れむ信頼関係を、中野の世界の信頼関係と対比している。中野の世界も中野の同類の世界であるが、相哀れむのではなく、相愛する世界である。漱石は、この相愛する中野の精神世界を、たわいない会話や、知的なような気取ったような、退屈な会話によって描写している。漱石は、零落した道也や高柳の精神世界に内容があり、信頼関係があると考えている。道也や高柳の精神世界を肯定し、中野の世界を批判することが漱石の課題である。漱石がよく知るのは、中野の世界である。零落した生活を描くのは、零落した生活自体を肯定するためではなく、自分のよく知る中野の世界を批判的に、零落した立場を肯定する視点から認識すためである。漱石は自分の知る中野の世界を、道也や高柳の世界よりも自由に、楽に描いている。漱石の精神は中野の世界にいるが、道也と中野の世界と対比することによって、この世界から自由になり、この世界を客観的に描こうとしている。
 しかし、中野の世界の内的矛盾を描くことはまだ課題ではない。道也や高柳の世界と精神との対比によって、愛についての空虚な言葉や教養のつまらなさや、彼らの善良さの限界を描くことは、中野の世界のごく表面的で現象的な認識である。しかし、全体として言葉や善良さなどの抽象的な形式は同じでも、道也と中野の世界の階級的な対立によって言葉の具体的な内容が違うことが繰返し描写されている。それが何であるかは具体的には解らないが、それを理解するには、零落した立場を視点にしなければならないことを直感的に確信している。道也は、自分の苦悩と課題が零落とそれに対する非難に耐えることだと考えているが、客観的にはこうした認識上の困難に直面しており、それが本来の苦悩である。

『野分』ノート(12)

 (八)
 
 ▲ 筆硯に命を籠むる道也先生は、ただ人生の一大事因縁に着して、他を顧みるの暇なきが故に、暮るる秋の寒きを知らず、虫の音の細るを知らず、世の人のわれにつれなきを知らず、爪の先に垢のたまるを知らず、蛸寺の柿の落ちた事は無論知らぬ。動くべき社会をわが力にて動かすが道也先生の天職である。高く、偉いなる、公けなる、あるものの方に一歩なりとも動かすが道也先生の使命である。道也先生はその他を知らぬ。
 
 道也の肯定的な意識は、「一大事因縁」とだけ表現されていて、具体的にどのようなものかはわからない。「高く、偉いなる、公けなる、あるものの方に」と表現されていることからも、それが何であるかが規定されていないことは、道也自身にも理解されているであろう。道也にとっては、その目的の内容を明らかにすることは課題ではない。自分が既知の価値観ではないものを求めていること自体が意味をもっている。そのために、道也はこの目的の観点から、自分が「知らない」ことについてだけ具体的に書いている。
 「動くべき社会をわが力にて動かすが道也先生の天職である。」とも書いてあるが、その社会について道也は、自分につれない下れる世の中であると、否定的に認識しているのであって、その社会がどのようなものであり、どのように動かすことができるかを具体的には考察しておらず、それを課題にしていない。社会から分離され、独立した人格を形成することが道也の実践的な課題である。しかし、その孤立は目的ではなく、社会を啓蒙するための人格を形成する手段である。だから、社会変革の抽象的目的は、孤立を目的とせず、手段に貶めるために重要な意味をもっている。孤立的な人格を直接に肯定しないことが、啓蒙を遠い目的として抽象化していることの意味である。社会変革の使命感、目的によって自己を肯定しているのではなく、それを飽くまで抽象的目的にとどめて、そこに至る過程に取り組むことにおいて具体的で現実的で真摯である。
 道也の精神は、社会変革の直接的主体ではあり得ない、という限定の内部において、高柳との関係で「知る」ことと「知らない」ことの対立として、より具体的に規定されている。こうした細かな分割が漱石の才能であり、発展の形式である。
 
 ▲ 高柳君はそうは行かぬ。道也先生の何事をも知らざるに反して、彼は何事をも知る。往来の人の眼つきも知る。肌寒く吹く風の鋭どきも知る。かすれて渡る雁の数も知る。美くしき女も知る。黄金の貴きも知る。木屑のごとく取り扱わるる吾身のはかなくて、浮世の苦しみの骨に食い入る夕々を知る。下宿の菜の憐れにして芋ばかりなるはもとより知る。知り過ぎたるが君の癖にして、この癖を増長せしめたるが君の病である。天下に、人間は殺しても殺し切れぬほどある。しかしこの病を癒してくれるものは一人もない。この病を癒してくれぬ以上は何千万人いるも、おらぬと同様である。彼は一人坊っちになった。己れに足りて人に待つ事なき呑気な一人坊っちではない。同情に餓え、人間に渇してやるせなき一人坊っちである。中野君は病気と云う、われも病気と思う。しかし自分を一人坊っちの病気にしたものは世間である。自分を一人坊っちの病気にした世間は危篤なる病人を眼前に控えて嘯いている。世間は自分を病気にしたばかりでは満足せぬ。半死の病人を殺さねばやまぬ。高柳君は世間を呪わざるを得ぬ。
 
 これは、零落する高柳と世間との関係である。ここに現実社会の豊かな人間関係があり精神がある。漱石はその内容を追究することができず、抽象的にまとめているが、これこそが探求すべき内容である。この段階で漱石は、これを道也の精神としては解脱の対象として捕らえている。高柳が持つこうした社会的な関係と精神を、独立的な精神を持つことのできない、世間との対立によって破滅させられる精神として捕らえ、世間との関係に煩わされない自己を確立することを課題として、それをなし遂げているのが道也である。したがって、実は、高柳が持つこれらの具体的内容を道也も共有している。こうしたすべての関係と精神を前提として、それを拘泥とし、それに煩わされ、それにまみれて自己を失うことのないことを目的としており、高柳のもつさまざまの拘泥との対立関係において道也の独立性は形成されているからである。道也にとっても高柳のもつ関係と精神が自分の具体的内容であり、それをどう内化するかが課題になっている。11の独立的な人格は、拘泥する22の抽象的な対立物であり、高柳の持つ内容を具体的に我が物とできないことに道也の限界がある。しかし、これは、高柳の持つ拘泥を我が物とするために不可欠の、なくてはならない方法である。
 道也の独立的な自我は高柳の拘泥を基礎とした上での、それを持たない精神という抽象的対立物である。高柳の拘泥と道也の解脱を対立させることには、零落した人間の精神の中に、零落に苦しむ精神と、その中でのみ成立する独立的で自由な精神の二つの要素を発見して取り出すことである。この両者を分離した後に、この二つの精神の統一的な認識が可能になる。高柳の拘泥は、道也のように、それを知らなくなる事においてではなく、拘泥を多様に、多量に、深刻に形成し蓄積することによってのみ独立的精神として形成されるからである。そして、その統一的連関を認識することの困難を、こうした分離において課題にする事が、漱石の天才性である。
 この分離は、社会的・歴史的な意味を持っている。零落する高柳の生活と精神は、道也を通り越しており、道也には認識できない世界に入りつつある。高柳の零落の傍らで、道也は使命感に満ちた人格者としてエリート世界にとどまっている。例え転倒した形式であっても、この二つの精神を厳しく分離し、この両者の統一を遠い課題とすることに漱石の優れた現実感覚である。この両者の間には無限的な媒介項があり、その関係を明らかにするためには、『明暗』までの長い道のりを必要とする。この媒介項の現実性を理解することができない場合には、すべての批判意識は、道徳的で抽象的な批判意識となる。この作品で重要なことは、道徳的な精神の矛盾の中にあって、道徳的な精神を具体的な手順を追って超えようとしていることである。
 
 ▲ 道也先生から見た天地は人のためにする天地である。高柳君から見た天地は己れのためにする天地である。人のためにする天地であるから、世話をしてくれ手がなくても恨とは思わぬ。己れのためにする天地であるから、己れをかまってくれぬ世を残酷と思う。
 世話をするために生れた人と、世話をされに生れた人とはこれほど違う。人を指導するものと、人にたよるものとはこれほど違う。同じく一人坊っちでありながらこれほど違う。高柳君にはこの違いがわからぬ。

 道也と高柳はさらに、社会のために働く道也と、自分を目的としている高柳として区別されている。零落した生活にまみれ、埋没することが高柳の拘泥である。自分を弱い立場にあるものと認識して同情を求めるのが高柳の限界である、という視点から道也の独立性が想定されている。零落と孤立の中で独立的であるためには、天地のために、社会のために働くこと、零落して孤立した人格こそが社会を変革する主体であることを自覚することが、高柳の限界の克服である。しかし、零落して孤立した人格は、社会的な変革主体になることはできない。それは抽象的な目的にすぎず、この目的において、道也の人格性が変革的な主体でありえないことを認識する事が道也の自我の形成過程である。
 漱石は、道也と高柳の分離をもっぱらの課題としており、それは社会認識の方法として決定的に重要である。道也の人格は社会と分離されており、社会変革の主体ではあり得ないし、社会変革を課題としているのでもない。道也の主体性・独立性は、具体的な描写によれば、中野の世界と精神からの独立を意味すると同時に、高柳の世界と精神からの分離独立をも意味している。この分離自体が道也の目的であり具体的な課題である。この分離の徹底は、この両者の世界の人間関係と精神が現実にいかに深刻に分離されているかを認識するための端緒である。この両者を現実の深淵で分離したうえでその統一を求めない場合には、道徳的な当為による同一性になる。そのもっとも表面的な一致の形式が同情である。漱石は、道也を社会の中心的な位置に据えて、中野と高柳の世界から分離しようとしている。分離を見いだす努力は、ここに描かれた世界の相互の関係を見いだすための、不可欠の契機である。
 変革的な意識を持つかどうか、社会のためという一般的意識を持つかどうか、というのは、道也が意識している表面的な区別である。拘泥をすてされば、変革的な意識は内容を失う。だから、変革の具体的内容を得るためには、解脱してはならない。しかし、解脱することが、具体的内容を得るための不可欠の契機である。しかも、道也は解脱を目的として掲げながら、解脱していないし、解脱しようとしていない。解脱は空虚な抽象物である。それは道也の認識の限界であるが、同時に、空虚な抽象物に満足せず、現実との具体的な関係のなかに踏みとどまり、自己を変革するための契機である。この目的が遠い抽象物であるほど、この世界に含まれた精神の相互の関係はより深く具体的に認識すべき課題となる。日本史上では、中野と高柳の対立的な精神はむしろ近く見えるのであって、その分離の形式がはっきりしないところに特徴がある。そのために、漱石のこうした頑固な、そして確信をもった分離的精神が形成される。しかし、このことはインテリ的な世界に固執している批評家には決して理解されない。そして、そのことを漱石が直感的に理解しているからこそ、この分離に固執し、徹底的に押し進めることに意義を感じており、しかもそれによる孤立を想定している。
 地方回りの経験においては、道也は、金持や有力者と対立し、孤立する人格であった。その人格は、実践の過程において、妻と分離され、兄と分離され、そして中野と分離され、さらに高柳と分離されることにおいて自分の精神そのものを分割し続け、発展し続けている。孤立化の過程で生じる具体的な分離のすべてが道也の人格の形成過程であり、精神の果実である。
 
 ▲ 単なる生命は彼らの目的にあらずとするも、幸福を享け得る必須条件として、あらゆる苦痛のもとに維持せねばならぬ。彼らがこの矛盾を冒して塵界に流転するとき死なんとして死ぬ能わず、しかも日ごとに死に引き入れらるる事を自覚する。負債を償うの目的をもって月々に負債を新たにしつつあると変りはない。これを悲酸なる煩悶と云う。

 これは不幸の具体的認識ではないが、社会に広がる不幸についての一般的認識である。高柳がこうした不幸の具体像である。高柳は病気のために創作ができないという。一般的にはこういう状況は克服されるが個別的にはこういう状況が重くのしかかっている。そして、道也の著述と高柳の孤独の深刻化が並行して進んでいる。零落に伴う高柳の不幸と、その一般的な広がりが道也の人格と著述の内容を押し進めている。しかも、その著述が具体的な内容として実現されないことを直感することも、漱石の現実的で厳しい感性である。
 高柳は道也を信頼しており、道也に逢うと元気になる。しかし、道也にとっても高柳にとっても、こうした信頼関係そのものは安住の地ではなく、「ある目的」のための過程に生じた信頼関係である。こうした信頼関係と道也の孤独感は矛盾しない。こうした信頼を超えてなお一人ぼっちの使命感を持つのが、正確に言えば現実認識を持つのが道也の覚悟である。漱石が、ひとりぼっちになる覚悟をしており、それがいかに深刻であったかがわかる。漱石には自分が理解されない世界に入るという予感と覚悟があり、実際に理解されなくなっていく。漱石は自分の運命を直感的に認識しており、その能力において孤独な世界に入っていく覚悟を持っていたのであろう。
 
 ▲「そう思うと愉快ですが、岩崎の塀などを見ると頭をぶつけて、壊してやりたくなります」
「頭をぶつけて、壊せりゃ、君より先に壊してるものがあるかも知れない。そんな愚な事を云わずに正々堂々と創作なら、創作をなされば、それで君の寿命は岩崎などよりも長く伝わるのです」
「その創作をさせてくれないのです」
「誰が」
「誰がって訳じゃないですが、できないのです」
「からだでも悪いですか」と道也先生横から覗き込む。高柳君の頬は熱を帯びて、蒼い中から、ほてっている。道也は首を傾けた。

 道也の孤立の覚悟の深刻さと意義は、社会変革が遠い抽象的目的であることにある。岩崎の塀に頭をぶつけても、岩崎に対しても世間に対してもなんの影響もない。11は地方回りの有力者との対立でその無力を経験した。道也の孤立の覚悟は、岩崎の塀に頭をぶつけるといった直接的な方法の無力を知り、目的を遠くに押しやることである。直接的な対立に満足するのではなく、創作なら創作を堂々とすることが必要であり、しかもそれは世間に支持されず孤立が必然である事を覚悟しなければならないことを道也は理解している。社会との関係において、どのような直接的な対立においても直接的な成果がないことを認識し、直接的な個別的な対立において自己を肯定しない事が孤立の意味である。
 金持や有力者を批判することによって評判をとり、信用される、という安易な自己肯定を否定することが道也の孤立的意識である。岩崎の塀に頭をぶつけることで、自分の批判的な意識を表明し、そのことで自己を道徳的に肯定するのではなく、その無力を知って、さらに困難な課題を求め、その必然的な結果である孤立を受け入れることが人格である。高柳は現実的な成果と、それに対する評価によって世間を見返してやりたいと考えている。しかし、道也は、そうした成果は遠い未来の話であって、自分が世間を直接的に変革し、成果を得ることを問題にしておらず、その成果をないものとして当為を立てている。それが道也の孤独感である。それが自己認識であり、社会認識であり、歴史的な正しい現実感覚である。
 
 ▲「先生、私の歴史を聞いて下さいますか」
「ええ、聞きますとも」
「おやじは町で郵便局の役人でした。私が七つの年に拘引されてしまいました」
 道也先生は、だまったまま、話し手といっしょにゆるく歩を運ばして行く。

 道也には高柳の不幸を聞く力がある。道也は遠い目的を持っているものの、現実には自分と同等に零落している高柳を信頼している。そして、こうした不幸を前提として、道也はそれにどのように対処すべきか、を語っている。こうした深い信頼と、なおそこに存在する深淵と、その深淵ゆえに生ずる特有の信頼は、『こころ』を思わせるものがある。
 
 ▲「君は自分だけが一人坊っちだと思うかも知れないが、僕も一人坊っちですよ。一人坊っちは崇高なものです」
 高柳君にはこの言葉の意味がわからなかった。
 「わかったですか」と道也先生がきく。
 「崇高――なぜ……」
 「それが、わからなければ、とうてい一人坊っちでは生きていられません。――君は人より高い平面にいると自信しながら、人がその平面を認めてくれないために一人坊っちなのでしょう。しかし人が認めてくれるような平面ならば人も上ってくる平面です。芸者や車引に理会されるような人格なら低いにきまってます。それを芸者や車引も自分と同等なものと思い込んでしまうから、先方から見くびられた時腹が立ったり、煩悶するのです。もしあんなものと同等なら創作をしたって、やっぱり同等の創作しかできない訳だ。同等でなければこそ、立派な人格を発揮する作物もできる。立派な人格を発揮する作物ができなければ、彼らからは見くびられるのはもっともでしょう」
 
 人格の具体的内容はまだ明らかでないから、人格が高いか低いかは第二義的である。重要な事はこの人格において世間の常識と対立し、孤立することである。孤立は、道也の人格が世間一般を否定的に評価することであると同時に、世間が道也を否定的に評価することである。この対立関係の中に位置することが認識の発展過程であるという意味で、独りぼっちは崇高である。
 金や有力者に屈することなく、屈する世間に迎合しないことに、「坊ちゃん」の場合は正義感としての満足があった。余裕派としての初期作品では、批判意識を持ち、世間に通用しないことにおける満足があった。しかし、この作品では、金や有力者に依存しないことは零落と孤立を意味しており、批判意識と世間との関係が変化している。道也は、社会に対する批判意識そのものによって人格を肯定しているのではない。世間との関係で孤立し、批判され、徹底して否定されることが人格である。世間との関係で、肯定を求めないこと、肯定されないことか人格であり、しかも、そのことによって自己を肯定するのではなく、それを手段として、自己肯定を遠い目的としていることが、道也の人格の特徴である。世間に対する道徳的な批判意識における自己肯定と、その肯定を世間に認められる、という妥協を排除するもっとも現実的で歴史的で合理的な方法が零落と孤立である。
 「坊ちゃん」との関係で見れば、赤シャツとの対立関係は地方回りでの対立として背後に押しやられ、より具体的な対立関係として、善良な中野との対立や、零落する高柳との対立といった、エリートインテリ世界内部の精神の対立が捕らえられている。そして現実認識の具体化とともに、一般的な目的意識がはっきりと登場し、さらに具体的な対立関係から分離した遠い目的として掲げられている。
 金と地位に隷属する精神は、赤シャツに対する野だいこのような単純な形式で存在するわけではなく、対立的精神は、鼻子に対する苦沙弥のような形式で存在するわけでもない。依存的で隷属的な精神が具体的にどのようなものであるかはまだ解らない。それを理解するためには、道也が属する社会における金や権力との一切の関係を絶ち、一切の精神を排除して、零落を肯定することからはじめなければならない。どのような精神が依存的であり隷属的であり、また現実的に対立的な精神であるかは、まだ認識されておらず、形成されていない、というのが道也の新たな、余裕派を超えようとする現実認識である。こうした過程の成果によって、漱石は、『明暗』において、もっとも洗練された、日本的な依存的関係と、隷属的な精神を描写することができた。
 
 ▲ 「わたしは名前なんてあてにならないものはどうでもいい。ただ自分の満足を得るために世のために働くのです。結果は悪名になろうと、臭名になろうと気狂になろうと仕方がない。ただこう働かなくっては満足ができないから働くまでの事です。こう働かなくって満足ができないところをもって見ると、これが、わたしの道に相違ない。人間は道に従うよりほかにやりようのないものだ。人間は道の動物であるから、道に従うのが一番貴いのだろうと思っています。道に従う人は神も避けねばならんのです。岩崎の塀なんか何でもない。ハハハハ」

 自分が理解されないということも重要な自己認識であり、それは、自分が世間に理解されないほどの認識を得ているか、あるいは得ることができるという確信でもある。それほど世間の常識的な観念と対立する傾向を自分が持っていることと、世間がその方向に向かいつつあることの認識である。それは漱石自身の確信でもあっであろう。この認識をすでに四迷と一葉は得ていたが、それをまだ漱石は深刻には理解していなかった。しかし、11の孤立の覚悟において、実は四迷と一葉の作品の内容と一致している。
 道也が、名前をあてにせず、ただ内的必然として、自分のためだけに仕事をすることも、深刻な孤立的な意識である。自分の向かう方向の結果は解らないし、だれのためという対象すら解らない、それを発見する事が困難であり、それを発見する事こそが課題であることが発見されている。看板として当為を掲げることで自己を肯定するのではなく、普遍的目的は自己肯定の手段ではない。社会のために、一般的目的のために自己を位置づける事自体がどのようなものであるかが具体的に認識されなければならないのであって、社会のために、普遍的目的のために働く事はあらかじめ理解されるものではないし、簡単に認識できるものでもない。社会を変革するためには、社会と自分の関係が認識されねばならないのであって、社会のためという善意を持つ事が問題ではない。道也の変革的な意志は、個別的な批判や善の実践ではないことを本質的な特徴としている。社会を変革することを目的としていながら、当面は、社会との関係を具体的に分離することだけが、つまり個別の成果の否定だけが、課題になっている。社会的貢献という一般的な目的から、名誉、虚栄心、利益等々のあらゆる具体的内容、成果を排除するのが道也の人格の目的であり、孤立である。
 高柳には一般性の意識がなく、後世の名誉を求めている。徹底した道也の批判精神からすると、これも拘泥である。しかし、この観点から高柳を否定するのではなく、高柳の欲望を認めている。それも道也の孤立的な意識である。道也は自分自身の内的目的に従っているから、その内的目的を他人に、たとえ高柳に対してであっても押しつける事はできない。自分だけの、内的な目的に従う事がもっとも重要である。11が、世間からの孤立的な自己を徹底して追究していくことには現実認識上の深い意味がある。道也は世間に対する自分の優位を信じているが、それは孤立を必然としており、後世での一致の必然を示していない。道也が社会との変革的一致のために人生のすべてをかける覚悟は、社会との一致の必然が見えない事において成立している。そして、見えないこと、見えなくなる事、この道徳的な変革的意志は、直接には歴史の必然と一致しておらず、それが破壊されなければならない、ということの認識が日本史にとって決定的に重要であり、この点において漱石は、四迷や一葉に接近しはじ めている。



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