『野分』ノート

 『野分』ノート (13)  (14)  (15)


  (九)
 中野の結婚の披露の場面は、音楽会の場面の延長である。この世界と高柳の関係はすでに語り尽くされている。「富と勢と得意と満足の跋扈する所は東西球を極めて高柳君には敵地である。」とここでまとめている。
 
   (十)
 
 道也は厳しい生活の中で原稿を書いたが売れない。「本も借金と同じ事で保証人がないと駄目だぜ」と道也は説明している。道也の人格は本を書いて成功することには縁遠い。その上零落自体に意義を見いだす道徳家ではないから、余裕を持って非難に答えている。妻も雄弁で会話の全体が面白い。零落をネタにしたこういう描写は「猫」以来の手際で、日本史的な複雑な内容が漱石の独特の雰囲気を作り出している。

 ▲「だって、あなたも、あんまり無考じゃござんせんか。楽に暮せる教師の口はみんな断っておしまいなすって、そうして何でも筆で食うと頑固を御張りになるんですもの」
 「その通りだよ。筆で食うつもりなんだよ。御前もそのつもりにするがいい」
 「食べるものが食べられれば私だってそのつもりになりますわ。私も女房ですもの、あなたの御好きでおやりになる事をとやかく云うような差し出口はききゃあしません」
 「それじゃ、それでいいじゃないか」
 「だって食べられないんですもの」
 「たべられるよ」
 「随分ね、あなたも。現に教師をしていた方が楽で、今の方がよっぽど苦しいじゃありませんか。あなたはやっぱり教師の方が御上手なんですよ。書く方は性に合わないんですよ」
 「よくそんな事がわかるな」

 道也と妻の会話では、妻の方が雄弁で、気が利いている。妻の率直な指摘も、それを受け入れる道也の精神も、漱石らしい余裕派の特徴である。妻の雄弁は現実的な内容をもっており、妻の言葉から微妙にはぐれてしまう道也の言葉にも深い現実的な内容がある。道也は、妻について「女は与えられたものを正しいものと考える。そのなかで差し当りのないように暮らすのを至善と心得ている。・・それより以上の見識は持たぬ。」と評価している。妻から見ると、道也は逆に差し当たりのあるように暮らすのを至善と心得ているように見える。しかし、二人のそれぞれの精神が、こうした単純な特徴付けではすまされないことが明らかになりつつある。
 妻の指摘によると、道也は楽に暮らせる教師をやめて、先行きのはっきりしない著述家になる覚悟をした、ということである。これは、有力者と対立して零落を選択した、ということとは違う。妻は、「あなたはやっぱり教師の方が御上手なんですよ。書く方は性に合わないんですよ」と、職業の選択と適正の問題として非難している。妻は、生活に困ることだけを問題にしているのであって、学問の内容を問題にしないし、職業も問題にしない。これは、夫婦でなくても生じる平凡な日常的対立であり、しかも非常に率直な会話である。
 道也の自分の生活や精神についての位置づけは、気負っているだけで具体的な内容を持たなかった。ここでは、著述家になることで生活が不安定になることが現実的な基礎にあり、そこに、その不安定な生活を受け入れる自然な意志があり、そこに、金や地位を目的とした著述をしない、という覚悟が伴っている。この不安定な生活と覚悟が、漱石と道也の予想外の人間関係や精神を生み出し、それが認識対象になる、というのが、本来の流れである。
 道也は、差し当たりのないように暮らすことを至善と考え妻より差し当たりのあるように暮らす自分の方が高い見識を持っていると考えている。道也は、妻以上かどうかは別問題として、部分的には妻とは別の見識を持たねばならない立場にある。道也は、自分の原稿を売るために、大学教授の足立に序文を頼んで断られた。しかし、地方回りでの位置づけと違って、そのことで道徳的な意地を張っているのではない。
 
 ▲「あなたは、それだから困るのね。どうせ、あんな、豪い方になれば、すぐ、おいそれと書いて下さる事はないでしょうから……」
 「あんな豪い方って――足立がかい」
 「そりゃ、あなたも豪いでしょうさ――しかし向はともかくも大学校の先生ですから頭を下げたって損はないでしょう」
 「そうか、それじゃおおせに従って、もう一返頼んで見ようよ。――時に何時かな。や、大変だ、ちょっと社まで行って、校正をしてこなければならない。袴を出してくれ」
 
 道也は自分が豪いから、自分が豪いと思っていない足立に頭を下げるのが嫌だ、と主張しているのではない。嫌であるが頼んでいるし、無駄と思っても「それじゃおおせに従って、もう一返頼んで見ようよ。」と言っている。ここには妻と道也の見識の違いが現れる。
 零落した道也と、地位をもつ足立との関係は疎遠になる。頼る事ができなくなるから、頼らない意識が形成される。それは意地ではなくて現実的な認識である。足立にしても、地位が高くなるほど道也との個人的関係に引きずられることはできなくなり、立場に応じた独自の人間関係と意識が形成される。足立が道也の著述の内容を保証しなくなるのは、立場にもよるし、金と地位に依存しないことを内容とする事にもよるであろう。道也は、それを当然だと考えている。足立に頼むように主張する妻はこの関係を知らないのであるし、道也が自分を豪いと思っているから足立に頼らないと考えるのは、間違いであり、道也を道徳家とみなす事である。しかし、道也の気負った人格的意識には、地位と金に依存しない人格や学問の内容と、こうした個別の人間関係において依存することを拒否することが結びついており、この場面の描写と微妙に食い違っている。
 道也と足立の関係が現実に分離されるとともに、足立に依存しない意識は、主観の選択としてではなく、現実的な関係として認識されるようになる。道也が、金や地位に依存しないことを、人間関係における主観的な、道徳的選択として意識するのは、道也の立場がまだはっきりせず、したがって現実認識も自己認識も明確でないためである。しかし、地方回りのあとの零落を前提にすることで、道也は足立に頼ろうとする意志を肯定することができるようになっている。頼ろうとしても頼ることができないので、妻の言葉に従って足立に頼んだとしても道也の人格が傷つくことはなく、零落をくい止める事もできず、偶然的で一時的な幸運にすぎない。零落によって、道也の気負った道徳的な意識が意味を失っている。そのことを道也自身ははっきり意識していないが、それは道徳的な精神と対立する新しい精神である。
 金と地位に依存しない覚悟は、金と地位に依存できる立場に生まれる道徳的信条である。道也はこの道徳的覚悟をもって著述家の不安定な生活に入った。そして、道也の覚悟は、この生活にふさわしい意識を得ている。金と地位に依存しないことは、零落によって信条ではなく日常的な意識として定着する。依存できず、できても一時的であれば、依存できない意識は、道徳的信条より遥かに強固で冷静で、気負いのない現実的精神である。そして、重要な事は、金と地位に依存しないという道徳的信条は、零落した生活が生み出す新しい意識を生み出すための端緒であるとともに、その意識を生み出す障害ともなる、ということである。零落を肯定する道也の道徳的な意識と、零落によって得られる精神は、道也にはまったく予期できないほど違った内容をもっている。零落によって、零落を肯定する道徳的意識は修正され、現実化され、金や地位に依存した精神、という世間に対する批判的認識も否定され、現実化されなければならない。現実社会を、金と地位を誇るものと、それに追従するものとの対立とするのは、あまりにも見すぼらしい単純化である。この単純さが、零落による現実との接触によって破壊され具体的な内容を得なければならない。
 金や地位に依存しない覚悟と零落は違う。金や地位に依存しない人格自体は世間と対立するものではないが、どのような価値観を持っていようと、零落に対しては、特有のあらゆる人間関係が押し寄せてくる。そして、金や地位に依存しない覚悟は大きな意味をもたなくなる。道也は零落によってこのことを思い知らされる。道也の人格的な覚悟は、零落する以前の生活で得られた価値観であり、零落した生活には届かない。金と地位に依存しない道也の覚悟は、零落によって使命を終えており、道也の道徳的な精神は道也の古い生活の残滓である。道也の道徳的な意識の非現実性が現実との関係で明らかになってくる。
 資本主義の発展によって金と地位の社会的な力が大きくなり、金と地位に対する依存的で隷属的な精神も無限的な広がりを持ってくるのであって、道也が考えているような単純な関係は社会のごく部分的な現象にすぎなくなる。だから、道也の零落に高柳の零落が続き、発展してくるにしたがって、金と地位に依存しない、という道也の道徳的人格は、社会認識として無力になり、価値を失ってくる。道也の価値観と現実の衝突による精神の発展は、金と地位に依存しない覚悟が作り出す矛盾を自己として認識することであるから、その覚悟が徹底する力が、その覚悟を破壊し新しい認識を生み出す力でもある。道也は、自分の人格的な意識が実践によって堅固になり、高度になると思っているが、実際は、道也の現実認識の発展は、道也の道徳的な覚悟を破壊する過程である。
 道也の人格は、道也の世界で広がっている金と地位に隷属した精神から生まれた。世間というのは、金と地位を持ち、金と地位に依存しているエリート世界である。この限定された世間でさえ、またその堕落の側面だけでも、「富と勢と得意と満足の跋扈する」だけの世界ではない。それは複雑化し、金と地位との直接的な関係は現象の背後に退き、しかも内部矛盾が発展してくる。したがって、道也の人格は、零落する高柳の現実に届かないばかりでなく、金と地位に隷属するエリート世界の現実にも届かなくなる。しかし、重要なことは、この世界の多様性を客観的に認識するためには、零落を肯定する道也の覚悟が不可欠の契機となることである。そして、さらに重要なことは、金と地位に依存することを批判する道也の精神自体を、金と地位に従属する世界の一部分として批判的に捕らえる可能性を得られることである。このもっとも深刻な自己否定において、道也の世間との対立は、道也には予想できない分化を遂げて具体化する。

 漱石は道也と妻の会話の後、妻の不満を長々と書いている。妻の不満は、道也の主義・価値観を問題にしていない。しかし、そのことで妻の立場の主張は、道也の価値観と深刻な矛盾を生じており、それを漱石はうまく書いている。妻は、道也との関係が自分の思うようにならなかったことを、結果として苦しんでおり、それが道也の価値観との対立によるとは思っていない。しかし、学問と人格を何よりも重視する道也は、妻との関係を、自分の価値観による対立と考えている。漱石は理解しておらず、道也は現実をまったく転倒して認識しているが、妻との対立は、道也の持つ人格によるものである。
 道也の社会認識も、妻との関係の認識も一面的で、自己肯定的な意識の対象化である。道也の価値観の一面性は、妻との会話や妻の不満に描写されており、漱石は妻の不満を道也から独立したものとして描いている。しかし、道也はその独立性を認識できず、漱石の中の道也は、妻の認識に抵抗して、金と地位に依存しない人格という側面から妻を批判する事を見識だと考えている。しかし、道也の精神と妻の精神の関係は、それほど単純ではない。

 ▲ 道也は夫の世話をするのが女房の役だと済ましているらしい。それはこっちで云いたい事である。女は弱いもの、年の足らぬもの、したがって夫の世話を受くべきものである。夫を世話する以上に、夫から世話されるべきものである。だから夫に自分の云う通りになれと云う。夫はけっして聞き入れた事がない。家庭の生涯はむしろ女房の生涯である。道也は夫の生涯と心得ているらしい。それだから治まらない。世間の夫は皆道也のようなものかしらん。みんな道也のようだとすれば、この先結婚をする女はだんだん減るだろう。減らないところで見るとほかの旦那様は旦那様らしくしているに違ない。広い世界に自分一人がこんな思をしているかと気がつくと生涯の不幸である。どうせ嫁に来たからには出る訳には行かぬ。しかし連れ添う夫がこんなでは、臨終まで本当の妻と云う心持ちが起らぬ。これはどうかせねばならぬ。どうにかして夫を自分の考え通りの夫にしなくては生きている甲斐がない。――細君はこう思案しながら、火鉢をいじくっている。風が枯芭蕉を吹き倒すほど鳴る。
 
 この描写は、『明暗』のお延を思わせる。これは、漱石の現実認識であり道也の現実認識でもある。自分が愛されていないこと、二人の間に愛情や信頼関係がないことが妻の不満である。道也はこの妻の不満を、地位や金を求め、自分の幸福だけを、装飾だけを求め、差し当たりのないことを至善とする不見識だと考えている。しかし、道也が引き起こしている妻との対立は、金や地位に依存しない人格と依存する人格の対立であろうか。道也はそのように思っているが、妻はそのように思っていないことを漱石も道也も知っている。
 妻との対立関係を引き起こしているのは道也である。そして、妻の不満は金と地位を失ったことにある。しかし、妻の不満には、もっと重要な問題として、道也と自分に信頼関係がないことが含まれている。妻は貧しい生活に可能な限り耐えている。その上に、道也の人格との間に深淵が広がりつつある。道也が自分の不満について考慮しないことが妻の不満であり不安である。道也の人格が、金も地位も持たない妻との間にこうした矛盾を持ち込むのは何故であろうか。道也の人格が持ち込むこの矛盾の正体は、したがって、道也の人格の正体はなんであろうか。道也と妻との関係には、金や地位に依存する精神と依存しない精神との違い、ということでは説明できない不可解なものが含まれている。妻はごく平凡な意識を持っているだけであるから、すべての不可解な関係と感情は道也の人格の対象化である。
 妻との関係についての反省は、道也と世間との関係についても深刻な反省を促す。道也は金と地位に依存しない高い人格のゆえに孤立し世間と対立している、と考えている。道也の人格の現実的内容は、それが引き起こした矛盾であるが、それが何であるかを認識する前に、それが高い、と道也は思い込んでいる。対立を目的として対立を肯定しており、その対立が何であるかを問題にしていない。道也が引き起こす矛盾は、道也の高さを証明しているのか、さらにさかのぼれば、道也の人格と見識は、地位と金に依存しない独立的な精神と言えるのか、現実的には地位や金とどのような関係にあるのか、という疑問が道也に突きつけている。
 妻の不満は、学問の内容を理解できず、地位と金を求めることに起因している、と道也は考えている。しかし、妻は道也の学問の内容を問題にしておらず、貧しい生活にもよく耐えている。すべての現象を金と地位に依存するかしないか、という視点で見るのは道也の偏狭な道徳的意識である。社会的な成功如何によって人間の価値を測っているのは道也である。妻との関係で、日常的な生活の幸福を求めることを、地位と金を求めることと同列に扱うことに、地位と金に依存しない人格の偏狭さが表れている。道也は自分の零落が引き起こした人間関係の矛盾を、零落が引き起こしたと考えている。それは、零落する前の価値観による現実認識である。道也の偏狭さは、自分の生み出した矛盾のすべてを零落がもたらしたと考えていることであり、道也の人格が生み出したものであることを認識できないことである。その矛盾は道也の人格の具体的内容を示しており、その内容は、金や地位に依存するか独立するか、という抽象的な価値観をはるかに超えて展開している。しかし、こうした矛盾を生み出し、矛盾に直面することができたのは、「「富と勢と得意と満足」する世界を超える覚悟をした道也の人格の力であり、この矛盾において人格性を限界を超えるのが、道也の精神の発展である。

 道也は、金や地位に依存しない人格の形成を目的として零落を得た結果、妻との関係で、その人格に特有の矛盾を生み出し、人格的自己の内実を表に出しつつある。道也は自分の人格の正しさを確信しており、自分に対する批判的認識の必要をまだ感じていない。しかし、妻との対立は人格の肯定では対処できなくなるほどに具体的な矛盾を生み出すであろうし、世間との関係でも道也の変革的人格の無力が明らかになる事は間違いない。地位と金を求めていないことは、世間にとっても妻にとっても、したがって道也にとってもますます意味を持たなくなる。零落は手段にすぎないとする道也の主張は零落によって実現しつつあり、零落自身は人格の支えてはなくなりつつある。
 妻と同様、道也の本当の苦悩は、価値観・社会認識の苦悩である。貧しさには十分に耐えているし、それ自体は自慢にもならず、自己肯定の手段になるものではない。道也は、妻の不満が装飾を求めることによる、と考えているが、この考え方自体が、妻との信頼関係を破壊し、妻を苦しめていることを理解していない。むしろ、この苦しみを貧しさの労苦が覆い隠しているのであって、道也の人格性と見識が、妻との関係を認識する妨げになっている。
 金と地位に依存しない道也の人格は、なぜ見識を持たない妻との間に深刻な矛盾を引き起こすのか。道也の実践がもたらしたこの疑問こそ、本来の思想的な学問的な課題であり、複雑極まりない内容を含んでいる。金と地位に依存しない人格がどういうものであるか、という学問的な課題を生み出したことが道也の覚悟の歴史的な成果である。漱石は歴史的に生じた道徳的精神を徹底して道也に対象化することで、その道徳的精神の矛盾を批判的に認識する課題を得ている。道徳的な意識に染まっていない妻の精神は、道也の精神を映し出す鏡になり、道也は自分の精神の反映に直面している。自分の幸福に関心を持たず、高柳のような零落した人間に対する一般的な義務を感じる能力において、道也は、妻の不満と自分の人格との関係を考えざるを得ない。妻との関係は、道也の人格の内容である。
 道也の単純な自己肯定的な認識は、(十)において綻びが見え始めている。見識を持たない妻との対立が、特に妻の不満によって詳しく描かれた後、それと区別された兄との対立が描写されていることが、道也の自己認識の新たな発展である。兄の描写によって妻の不満は相対化され、金と地位に依存するかしないか、という対立関係ではないことが表面化している。


『野分』ノート(14)

 道也と兄の関係には地位の対立が介在している。兄は、自分の立場による出世主義的な観点から道也を批判しており、この点に妻との違いがある。妻の不満を思想的な否定に導くのが兄の役割で、妻は自分の不満と道也に対する兄の批判の違いが解らないまま、兄にひきずられている。両者の相互の関係を漱石はまだ深く認識することはできないが、違いを意識してうまく描いている。
 兄は、大人しく教師をして、金持と衝突すべきではないと主張している。兄の批判の要点は、道也が金持や有力者を批判するから零落する、という因果関係の指摘である。そして、批判するなら経済的に困らせてやるという圧力をかけている。妻は、困窮した生活を何とかしたいと考えているが、兄は困窮した生活を圧力にして、道也の考え方を変えたいと考えている。兄の主張は、金や地位に依存しないという道也の主張と直接的に対立している。兄の見解は道也と同じレベルの社会認識において対立しているから、道也の精神からすれば、見識というべきである。経済の発展とともに、貧しい生活からエリート層に抜け出したインテリに対しては、特にこの圧力は有効である。
 道也は、中野や兄の価値観と対立的な価値観を持っている。道也は、中野や兄が豊かな生活を享受していることを、金と地位への依存と考え、貧しい人々の生活と精神を知らず、考慮しない精神として否定的に評価し、それに対立する人格を形成しようとしている。しかし、彼らとの対立のなかにとどまる事に価値を見いだしているのではない。彼らとの対立関係を離れた独自の人格を形成しようとしている。
 道也が、兄や足立や中野の世界と縁のない精神を形成するには細かな手順が必要である。道也は彼らとの対立に依存し、彼らとの対立の中に、したがって彼らと同じ世界の、同じ価値観の中に生きている。この同一の価値観内部での分離は、道也の人格が、決して彼らから分離しているのでも独立しているのでもなく、同一的な関係にあることを認識することによってのみ果たされる。同一性の認識が、限界内部における合法則的な分離であり、独立性の形成である。それを認識できるまでは、対立と分離の意志であり、表面的で内部的な対立である。
 道也が兄や中野との内部的な矛盾の中にいることが、妻との関係に特有の矛盾を引き起こしている。道也の人格は、彼らとの関係では、分離と対立の意志として積極的な意義を持っている。しかし、それを妻との関係に持ち込むと、その意志の限界が明らかになる。道也の決意は兄や足立や中野の精神との関係で形成され、彼らとの対立において積極的な意義を持っているが、彼らの世界を超えた妻との関係では積極的な意味を持たないからである。道也の人格は決して妻との対立や分離を意図していないにもかかわらず、結果としては対立を引き起こしていることからも道也の意志と現実との対立は明らかである。

 道也の兄は、大人しく教師をしていれば生活は安泰である、批判するから破滅する、と説教している。資本主義社会には、批判意識と関わりなく零落の必然性があるにもかかわらず、兄は零落の原因が批判意識であり、批判意識さえもたねば、金持ちや有力者に媚びへつらいさえすれば零落しなくてすむと言っている。この愚かな現実認識を部分的には道也も共有している。それは、道也がこういう兄の批判が直接当てはまる立場におり、こうした批判に対抗する事を必要としているからである。そしてそれは、日本のすべてのインテリや中間層に浸透した、払拭しがたい、根強い現実認識である。
 漱石はまず、社会に広がった、そしてますます社会を浸食しつつあるこの対立関係をもっとも重要な課題として捕らえ、この対立の徹底においてこの対立を超えようとしている。道也は兄との対立において自己を肯定するのではない。兄の主張に抵抗せず、兄の主張と直接対立せず、兄の主張を無視して、零落した自分の独自の課題を求める意志において兄との抽象的な対立を超えている。これは中野との関係と同じである。兄との対立関係がごく平凡な関係であることは、兄の説教が非常に通俗的で俗物的であることからもはっきりしている。道也は兄を相手にせず、兄の価値観と対立しておらず、したがって、金と地位に依存しない人格であるかどうかを直接問題にしているのは、兄だけである。
 道也は兄との関係を無視し、遠ざかろうとしているのであるから、自分と兄が立場と価値観においてどのような関係にあるかを認識していないし、認識する必要を感じていない。それが道也の意識の限界である。道也は実践的には新しい矛盾を作り出したことでその限界をすでに超えている。それが道也の孤立の意味である。金と地位に依存することを批判することにおいて直接自己を肯定するのではなく、兄との関係の認識を内的な課題にしている。具体的な成果を見いだせない事に確信を見いだしていることがこの課題の把握である。
 
 ▲「じゃ大丈夫、その方でだんだん責めて行く。――いえ、わたしは黙って見ている。証文の上の貸手が催促に来るのです。あなたも済していなくっちゃいけません。――何を云っても冷淡に済ましていなくっちゃいけません。けっしてこちらから、一言も云わないのです。――それで当人いくら頑固だって苦しいから、また、わたしの方へ頭を下げて来る。いえ来なけりゃならないです。その、頭を下げて来た時に、取って抑えるのです。いいですか。そうたよって来るなら、おれの云う事を聞くがいい。聞かなければおれは構わん。と云いやあ、向でも否とは云われんです。そこでわたしが、御政さんだって、あんなに苦労してやっている。雑誌なんかで法螺ばかり吹き立てていたって始まらない、これから性根を入れかえて、もっと着実な世間に害のないような職業をやれ、教師になる気なら心当りを奔走してやろう、と持ち懸けるのですね。――そうすればきっと我々の思わく通りになると思うが、どうでしょう」

 兄が問題にしているのは、道也が金持を批判すること、「世間に害」があるような職業を選んだことである。道也の主張の主眼もここにあり、この対立は地方回りでの対立と同じである。兄のこの主張と基本的に対立することに人格の意義があるから、道也をこの点で批判しても効果はない。だから、道也に対する批判は、社会的な媒介を経て迂回しなければならない。それが兄の主張の具体化になる。
 兄が道也に圧力をかけ、妥協を強いるのは、道也がまだ自分への依存関係にあり、零落を苦痛としており、結局は自分の経済力に依存せざるをえない、と考えているからである。しかし、こうした妥協を拒否することこそ道也の人格の価値である。こうした妥協の圧力は、道也としては、自分の価値観の確認であると同時に、道也が得た矛盾を展開するための力でもある。兄の価値観による圧力は、道也に常にのしかかっている。金持を弁護することで金と地位を得る事ができる立場にいることは、この圧力をもっとも強く受けることであり、それに抵抗し、拒否し、無視する事をもっとも重要な課題とする立場にいる事である。零落の結果として足立の援助を受けることができなくなり、さらに兄の援助を受けることで一層の危機を得て、兄は自分の言う事を「聞かなければおれは構わん。」という分岐点に道也を追い込んでいる。ここから一歩進んで、兄が道也を援助しない関係になれば、道也は兄の援助を価値観によって拒否するのではなく、足立との関係と同じように、求めても援助を得られない関係になることができる。兄は、そのような分離的関係になっていないと考えているから圧力をかけることで、分離を押し進めている。そして、兄は道也が自分に頼ろうとしていないことを理解しているために、迂遠な手段を講じているのだから、その点まではすでに分離は進んでおり、道也の非妥協的な精神は承認されている。
 
 金や地位に依存しない人格はこうして具体的に形成されつつある。道也の人格は、自己の本質である兄や道也の世界を客観化し、認識対象として我が物とする主体である。道也の人格は、兄の精神の新しい側面を映し出している。それは、金と地位に頼ることが、彼らの立場の批判をしない、という、彼らへの従属を条件にしている事である。彼らの地位と金に従属する限りで、彼らとの人間関係は平穏で円満な信頼関係として展開され、そこにある従属と対立関係は表に出ないし、意識されない。しかし、道也が、金と地位に依存しない意志を明らかにし、金と地位を批判することによって、零落した人間と金と地位の対立的な関係と、道也に対する兄の特有の敵対的な意識が表に出る。だから、道也の人格はこの内在的な関係において対立しているのであり、その内在的な関係を暴露する力を持っている。兄の圧力に抵抗する道也の人格の意義は、この世界の矛盾を暴露し、認識対象にすることである。
 道也の零落は、兄の現実認識とのずれを生み出す事で、兄の現実認識の内容を暴露している。道也の零落を、道也の人格が生み出したとすることで、金や地位に対する批判意識を否定する事が兄の現実認識の特徴である。兄は、道也の零落を根拠にして、道也の人格と能力を否定している。兄の立場では、覚悟が生み出す矛盾の積極的な意義を認識することはできない。兄は人間的価値のすべてを地位と金で評価している。これは零落を肯定する道也とまったく逆の現実認識であり、その特徴は、道也の人格が生み出す現実的な対立を覆い隠すことにある。つまり、金と地位に依存し、従属する人間関係を、恩恵ほどこす肯定的な人間関係であり、現実世界だとすることが兄の現実認識である。これは道也の言う「常人の解脱法」である。兄と道也の対立関係を覆い隠して、拘泥が無い状態にするのが兄の立場の安定である。その安定が、従属と隷属を意味するにすぎない事を道也の人格は明らかにしている。それは、道也が自分の住む世界の矛盾を暴露すべく実践して得た成果であり、非生産的な矛盾に流動性を与えたことでもある。
 道也は、兄と自分の複雑な関係を認識する端緒に立っている。道也の人格が徹底することによって、金と地位に従属させようとする人間関係や精神が、新たに対立的に関係してくるのであり、そのことによって対象とそれに関わる自己の姿が明らかになっていく。兄の主張は道也との直接的な対立を回避しながら、道也をからめ捕るための経済的な圧力の本質の認識と同時に、人間関係の抽象的な認識形式である道徳的な意識の本質の認識を課題として突きつけている。「御政さんだって、あんなに苦労してやっている。」という説教がそれである。

 兄の金と地位の力は、妻を経由して人間関係に進入することで、特有の発展を遂げる。零落した人間には零落故の深い人間関係が形成されているから、『浮雲』で厳しく描写されているように、経済的な圧力をかける意識的な契機として、誰かに迷惑をかけるという道徳的な意識が意義を持ってくる。道也は兄や足立や中野との関係に対立を持ち込んだばかりでなく、彼らとは立場の違う妻との関係にも同じ意識による対立を持ち込んだ。道也はこのことによって非常に複雑な現実認識の課題を得ると同時に、妻との関係に内在する矛盾を歪め、混乱させようとする兄の現実認識と闘わなければならなくなる。金と地位に依存しない人格を徹底する事で次々に複雑な課題を得ていくのが漱石の精神の力である。
 兄は、道也の人格が零落の原因であるとしている。零落に伴うすべての困難の責任が道也の人格にあるという現実認識である。これは金と地位によって自分を肯定し、道也を否定する兄の自然な現実認識である。この認識が経済的な圧力とともにのしかかってくる事を、『浮雲』は、『野分』より遥かに深刻に描写していた。文三の人格が零落の選択によって、文三の母親を苦しめている、と道徳的に批判する事と、道也の人格が零落の選択によって妻を苦しめている、と批判する事は同じである。それは道也の兄の現実認識であり、『浮雲』のお政の現実認識である。この現実認識とまったく対立する、道徳的な形式をとらない現実認識が、文三の立場には必要となり形成されている。それは一葉の作品でも同じである。漱石は、出発点として、零落を選択する人格があり、それが引き起こすさまざまの人間関係と認識の矛盾を経由して、ようやく道徳的な意識を超えた現実認識を得る事が出来る。
 零落によって生じる人間関係の矛盾は、道也の価値観・人格を原因として起こる矛盾とは違う。たとえ、零落が道也の人格を原因にしていたとしても、たとえば、『門』に描かれている零落にみられるように、零落は人間関係の矛盾を規定する必然としては独自の内容をもつのであり、道也が生み出している矛盾は零落による矛盾そのものではない。道也が生み出している矛盾は、兄や中野や道也の世界の必然性として存在する矛盾である。そのことを道也は未だ認識できていない。しかし、道也の人格が妻を苦しめている、という兄の指摘は、そのことの認識を促している。というのは、妻との関係の矛盾を作り出しているのが自分の人格ではなく、零落であり、妻が零落に耐える事の出来ない人格であり、見識を持たない女だからである、という道也の現実認識が、正当であるかどうかを問う事になっているからである。
 道也は金と地位に依存しない人格を肯定することによって、人間関係一般に、その具体的な結果として妻との関係に人格的な対立を持ち込んだ。道也は妻を見識を持たない人格として否定的に評価している。このような対立関係は、『浮雲』にはみられない。これは、兄や道也の世界に生ずる特有の対立関係であり、兄をも道也をも妻をも苦しめる矛盾の巣窟である。兄は道也の人格を否定的に評価しており、道也は兄の人格を否定的に評価して、その評価と対立を、妻との関係にも持ち込んでいる。これは、あらゆる人間関係についての、兄や道也の世界での道徳的な認識方法である。道也はこの価値観の徹底においてこの価値観を超えようとしており、兄は、自分の価値観の世界に引き戻そうとしている。地位と金に依存しない人格を徹底して貫こうとすることで生まれる道徳的な意識の矛盾の巣窟を研究する事が漱石の課題であり、妻との関係では、この道徳的な意識の人間関係における否定的な力の認識が、もっとも困難な課題として表に出ている。
 兄は、生活のために金と地位に依存するか、それとも金と地位を拒否するのか、の道徳的選択に引き戻そうとしているが、道也はこの対立を問題にしていない。問題にしない努力をしている。道也は、この選択を地方回りの経験ですでに終わったものとして生活している。この選択をすでに終わったものとして零落している道也は、妻との関係の矛盾をどのように弁明するのか、という新しい課題を得ている。兄は、その課題の意味を理解することなく、古い道徳的な選択を道也に突きつけている。妻との関係に人格的な対立を引き起こした道也は、兄の突きつける疑問に対してまったく違った次元において答えねばならない。というのは、兄との妥協によって妻との関係を解決する意志を持たないからである。
 妻との信頼関係の形成は、兄の介入からも推測できるように、社会的な一般的意識の形成過程と深く関わっている。妻との人間関係の形成を難しくしているのは、道也が社会的な批判意識の問題を妻との関係に持ち込んだからである。そして重要な事は、こうした社会的な関係や意識は、個別的な人間関係に常に進入してくるものであり、矛盾を回避することはできない、ということである。兄の言葉に従って妻と和解することは、矛盾の回避ではなくて、別の矛盾を形成する事である。生活の豊かさに対する信頼が人間関係の矛盾を覆い隠すこともあり、困窮に対する不満が人間関係の矛盾を覆い隠すこともある。しかし、常に特有の矛盾が内在しており、それは現象化するものであり、その全体が信頼関係の形成過程でありまた崩壊過程であり、その全体が日本の資本主義的発展の反映である。


 『野分』ノート(15)

 (十一)

 道也の第一の啓蒙活動は演説である。演説は、道也がはっきり意識できていることだけを内容としているから、それほど高度の内容をもつわけではなく、単純で抽象的である。しかし、演説という実践には、道也が得た矛盾がつきまとっている。妻は、まず、演説なんかしない方が得だ、という。次に、手紙をよこした兄に不義理だ、という。それから、自分の事も考えるように訴えている。しかし、道也は、自分の利益を求めておらず、兄や妻への義理より、人を助ける義理を優先している。
 
 ▲「社のもので、この間の電車事件を煽動したと云う嫌疑で引っ張られたものがある。――ところがその家族が非常な惨状に陥って見るに忍びないから、演説会をしてその収入をそちらへ廻してやる計画なんだよ」
 「そんな人の家族を救うのは結構な事に相違ないでしょうが、社会主義だなんて間違えられるとあとが困りますから……」
 「間違えたって構わないさ。国家主義も社会主義もあるものか、ただ正しい道がいいのさ」
 「だって、もしあなたが、その人のようになったとして御覧なさい。私はやっぱり、その人の奥さん同様な、ひどい目に逢わなけりゃならないでしょう。人を御救いなさるのも結構ですが、ちっとは私の事も考えて、やって下さらなくっちゃ、あんまりですわ」
 道也先生はしばらく沈吟していたが、やがて、机の前を立ちながら「そんな事はないよ。そんな馬鹿な事はないよ。徳川政府の時代じゃあるまいし」と云った。

 道也の関心は、惨状に陥っている家族を救うことである。それは主義と関わりない人道的な活動として意識されている。煽動した嫌疑で引っ張られた事件自体の、国家権力との対立の問題は視野に入っていない。道也にとって、ここで重要な問題は、自分や妻の利益より、惨状にある人間を救うことを優先する事である。演説をすることは、まず兄の立場と対立しており、その兄の手紙を無視することと、「社会主義と間違えられるとあとが困りますから」という妻の主張と対立していることに意義がある。道也の人格は、電車事件という具体的な社会的現象とは関わりをもっていない。しかし、漱石にとって、また歴史的精神にとって、電車事件のような社会現象と具体的に関わる事のできる精神を持つために、兄や妻との関係は、避けて通る事のできない、非常に重要な、不可欠の契機である。
 漱石は、道也の演説について「三百の聴衆のうちには、道也先生をひやかす目的をもって入場しているものがある。彼らに一寸の隙でも与えれば道也先生は壇上に嘲殺されねばならぬ。」と書いており、道也がすでに影響力を持っているかのように描いている。対立の中で耐える事を重視しており、自己肯定のための対立を必要としているために、影響力をもたないほどの孤立に到達することができない。道也らしい矛盾であり限界である。
 演説は非常に抽象的な話から入っている。漱石はそれを意識している。抽象的な演説に対して「もうわかった」と聴衆が叫んでいる。しかし、道也は未だ抽象的な主張しか持たない。そのために、同じ事を形を変えて繰り返して主張しており、実例を多用している。
 まず、現代の青年は理想をもっていない、理想を持つべきであるという。どんな理想をどのように持つべきかは問題になっていない。「理想は諸君の内部から湧き出なければならぬ。・・付焼刃は何にもならない」とも主張しているが、外部から受け取るのがいいとも、付け焼き刃の理想がいい、とも誰も思はないからこれも具体的な内容を欠いている。
 
 ▲「諸君のうちには、どこまで歩くつもりだと聞くものがあるかも知れぬ。知れた事である。行ける所まで行くのが人生である。誰しも自分の寿命を知ってるものはない。自分に知れない寿命は他人にはなおさらわからない。・・・自己がどれほどに自己の理想を現実にし得るかは自己自身にさえ計られん。過去がこうであるから、未来もこうであろうぞと臆測するのは、今まで生きていたから、これからも生きるだろうと速断するようなものである。一種の山である。成功を目的にして人生の街頭に立つものはすべて山師である」
 
 理想の内容を示すべきである、という反論は予測されており、その答えとして、内容も結論もないことが強調されている。しかし、それでは、抽象性を克服できないのですぐに横道に逸れてしまう。道也らしく意味のあるところは、理想の内容も、実現の手段も示す事ができない事を意識していることである。道也にとって理想は、自己に発する大なる理想で、成功を目的としていない、ということだけがはっきりしており、それで十分であり、それ以上を求めていない。
 
 ▲「諸君は道を行かんがために、道を遮ぎるものを追わねばならん。彼らと戦うときに始めて、わが生涯の内生命に、勤王の諸士があえてしたる以上の煩悶と辛惨とを見出し得るのである。――今日は風が吹く。昨日も風が吹いた。この頃の天候は不穏である。しかし胸裏の不穏はこんなものではない」

 道也の主張の主眼はここにある。自己に発する大なる理想をもって、成功を求めるのではなく、闘い、煩悶と辛惨を見いだす事が目的である。しかし、社会において、闘いを作り出し、煩悶するには、闘いを生み出すほどの具体的な精神と実践能力を持たねばならない。それが何かが分からず、求めているのが現在の道也の煩悶である。そして、道也は、さしあたって、零落を得る事によって、その端緒を、しかし、決定的に重要な端緒を得ている。
 道也は、学問をするものの理想は金ではない、と主張している。道也の学問が金を目的にしているかどうかはわからないが、結びついていない事は道也の服装をみれば分かる。しかし、貧しい生活は学問の内容の証ではなく、したがって金を目的にしていないことの証でもない。学問が金儲けや出世の手段になっており、学問の価値も金と地位によって評価されている、というのは学問や学者についての誰にでも分かる現象である。そのために、学問を金や地位と切り離そうとする意識も自然に生じてくるが、たとえ貧しい生活を得たにしても、金や地位から独立した学問を得ることができるわけではない。
 金や地位を目的としないことと学問の内容は結びついており、この分離を意識することが学問の内容にとって重要な意義を持っている。道也は金や地位に依存しない学問を意識的に追究する当為を掲げて、その覚悟の証として、零落に耐えている。一般性を追求する方法として貧しい生活を選択するのはすでに特殊な選択であり、学問の傾向の選択である。このような実践に頼らずに一般性を追求することはいくらでもできるが、道也は学問の現状に反発して、零落を選択している。それは学問の内容ではないが、その実践が生み出すさまざまの矛盾が学問の内容になるという意味で学問の内容が選択されている。
 学問の目的が金ではない、というのは、批判的な意識にとっては、分かりやすい事実であるとしても、学問と地位や金との関係は、はっきりしているものではなく、その関係自体学問的な課題である。だから、この意味でも道也は正当な学問的課題を得ていることになる。学者は、金や地位が目的であるとは表明しないし、意識しているとも限らないし、影響力を得て金と地位に有効に隷属するためには、金や地位を目的としない一般的目的を掲げるものである。学者が金と地位を持ち、金持や有力者と交友関係を持つなどの生活を学問の堕落として批判する事は、道也の貧相な生活をもって、高度の学問の証とするのと同じで、学問の内容とは関わりのない批判である。だから、学問が、金を目的にしていない、という道也の主張には、それでは、学問を何を目的として、どのような内容をもてばよいのか、という課題が含まれている。そして、この課題も、道也の主張が生み出す対立によって示されている。
 
 ▲ 「学問すなわち物の理がわかると云う事と生活の自由すなわち金があると云う事とは独立して関係のないのみならず、かえって反対のものである。学者であればこそ金がないのである。金を取るから学者にはなれないのである。学者は金がない代りに物の理がわかるので、町人は理窟がわからないから、その代りに金を儲ける」
 何か云うだろうと思って道也先生は二十秒ほど絶句して待っている。誰も何も云わない。
 「それを心得んで金のある所には理窟もあると考えているのは愚の極である。しかも世間一般はそう誤認している。あの人は金持ちで世間が尊敬しているからして理窟もわかっているに違ない、カルチュアーもあるにきまっていると――こう考える。ところがその実はカルチュアーを受ける暇がなければこそ金をもうける時間ができたのである。自然は公平なもので一人の男に金ももうけさせる、同時にカルチュアーも授けると云うほど贔屓にはせんのである。この見やすき道理も弁ぜずして、かの金持ち共は己惚れて……」
 「ひや、ひや」「焼くな」「しっ、しっ」だいぶ賑やかになる。

 道也は、ここでもはもっぱら金や地位と学問の、分離的・対立的側面を取り上げている。「物の理」というのは、道也はまだはっきり意識することができないが、自然科学と違った、人間の生き方、あるいは人生のあり方、等々といった、社会認識のことである。この学問において、金や地位との関係が重要な問題になり、とくに金や地位への従属が学問の堕落として問題になる。金や地位に従属するかしないかを学問の内容として示す事のできない道也は、両方を得る時間がないこと、つまり専門分野の違いによって対立を説明している。立場によって社会認識の内容の対立が生じる事を、中野や兄と自分の考え方の対立によって経験しているにもかかわらず、まだその具体的内容を理解していない。ただ、現象として、金や地位のある足立や兄や中野の世界には学問がない事を知っている。
 道也の主張が、具体的な内容を欠いた形式的な主張であるという側面はすぐにわかる。こうした主張は、世間の常識と同じ現実認識の対立物であるから、すぐさま、同様に学問の内容とは関係のない反発を招くことになる。これも分かりやすい現実として漱石は、「『ひや、ひや』『焼くな』『しっ、しっ』だいぶ賑やかになる。」という文章でそれを描いている。「何か云うだろうと思って」というのはこのことである。金と地位に依存しない学問の内容を得る事はできていなくても、自ら零落し、その零落において金持と独立した学問の権威を主張する事によって、その主張と零落に対する嘲笑を得ることが道也の人格の成果である。「勤王の諸士があえてしたる以上の煩悶と辛惨とを見出し得るのである」という道也の主張がここに実現されている。
 金のないことは学問の正しさの証明でも内容でもない。しかし、学問が金や地位に従属し、学問の価値が金や地位で計られる社会で、学問がわかることと金があることは違う、と主張し、しかも、金と地位を持たずに主張することが、特有の対立を引き起こす。金と地位を得た上で、学問と金と地位は独立している、と主張すれば、対立を引き起こす事はなく、嘲笑される事はない。世間の常識と対立することに意義を見いだしている道也にとって、いかに嘲笑され、非難される立場に身を置き、しかも対立的な主張ができるかが人格の高さである。
 金や地位が対立することを自分の傾向性として意識することは、社会認識の基本的な傾向を規定している。こうした意識性を持つ場合と持たない場合の社会認識の違いは、小説では、漱石と鴎外の違いとして文学史に記録されている。両者の作品内容の違いはこうした意識性においてのみ理解することができる。金に遠ざかることを道徳的な当為として掲げるのは、学問の内容が明らかでないからであるが、こうしたに対する非難や嘲笑を深刻に受け取る事が、この当為に基づいた学問の内容を形成する力である。零落の選択自体は高度の認識ではないが、高度の矛盾を含むことにおいて、高度の意識性である。

 ▲「学問のある人、訳のわかった人は金持が金の力で世間に利益を与うると同様の意味において、学問をもって、わけの分ったところをもって社会に幸福を与えるのである。だからして立場こそ違え、彼らはとうてい冒し得べからざる地位に確たる尻を据えているのである。
「学者がもし金銭問題にかかれば、自己の本領を棄てて他の縄張内に這入るのだから、金持ちに頭を下げるが順当であろう。同時に金以上の趣味とか文学とか人生とか社会とか云う問題に関しては金持ちの方が学者に恐れ入って来なければならん。
 
 この主張では、金持と学問は必然的な対立関係にない。金持や世間が学問と対立しているのは、その無知や心得違いからである。学問は、社会、人事について、大理想に基づいた内容を作り出し、金持や有力者を啓蒙すべきもので、この意味でのみ対立している。金持や有力者とより高度に一致するために、彼らに従属するのではなく、彼らより高くなることによって啓蒙する力を得なければならない、という主張である。ここに地位や金に依存しない道也の学問の限界があるが、この限界も実践によってすぐに意識される。というのは、金や地位に依存しない覚悟をしている道也は具体的な啓蒙をできないだろうからである。道也の主張は空想的な当為の段階にあるために、学問の具体的な内容において金持や有力者との一致が可能であると確信している。しかし、こうした当為でさえ、エリート世界の平安をかき乱しており、一致を当為としていても、その手段である第一の分離の過程が、一層の分離と対立を生み出すからである。
 道也は、電車事件によって惨状に陥った家族を救うために演説会に参加した。彼らを救済することは学問の内容目的ではなく、演説という実践の目的であり、したがって彼らは救済の対象である。そして、零落し惨状に陥る人々を救うことが、自分の利益や兄や妻との義理に優先する関心である。そうした目的を実現するための啓蒙の対象は、金持であり有力者であり、それに隷属する堕落した学者である。こうして、徹底した零落を経験した上で、道也の社会的な意識は、エリート社会の限界を超えていなかった事が明らかになる。零落した人間を視野にいれ、金持や有力者に隷属しないことを当為として掲げ、零落によってその覚悟を示し、そのことでエリート社会の中に、そしてエリート社会を反映した自分の意識の中に矛盾を取り込んで、それを成果として、エリート社会の全体の認識を課題にすることが、道也の精神の遍歴である。零落が手段である、という道也の主張の本当の意味がここにある。
 
 (十二)

 高柳は道也の演説を聞いて痛快になって、それから喀血する。道徳的な意識における救済はない。破滅において自己を肯定する甘いロマン主義でもない。妻との会話やこの最終章には、漱石の、現実的でなおかつ非妥協的な社会認識の側面がよくでている。

 ▲「六ずかしい男だね。何だってそんなにやかましくいうのだい。学校にいる時分は、よく君の方から金を借せの、西洋料理を奢れのとせびったじゃないか」
 「学校にいた時分は病気なんぞありゃしなかったよ」
 「平生ですら、そうなら病気の時はなおさらだ。病気の時に友達が世話をするのは、誰から云ったっておかしくはないはずだ」
 「そりゃ世話をする方から云えばそうだろう」
 「じゃ君は何か僕に対して不平な事でもあるのかい」
 「不平はないさありがたいと思ってるくらいだ」
 「それじゃ心快く僕の云う事を聞いてくれてもよかろう。自分で不愉快の眼鏡を掛けて世の中を見て、見られる僕らまでを不愉快にする必要はないじゃないか」

 高柳と中野の関係を漱石はうまく描いている。中野は親切で、友情に厚く、率直で、言う事は理に適っている。しかし、高柳は、中野の好意を率直に受け入れる事ができない。中野に比べると、歪んでいじけた印象を与え、自分の感情をうまく説明する事ができない。こうした関係は、道也と妻の関係でも同じで、これが漱石の精神の特徴である。妻や中野の言い分を十分に理解しているものの、そうした価値観や感情とは別のものが生まれつつあり、それを求めている。しかし、それが何であるかが分からないので、妻や中野と比較すると、道也は頑固であり、高柳は屈折していじけて見えるし、そういう側面を持っている。
 道也の頑固も高柳の歪みも、零落した立場を受け入れようとする意識である。職にも就けず、病気になった高柳は、中野との関係を素直に受け入れる事が出来なくなった。中野が原因ではなく、中野が変わったのではなく、中野に不平があるわけではないことを高柳は自覚しているが、自尊心として「どうせ死ぬのだから、なまじい人の情を恩に着るのはかえって心苦しい。」という気持ちが生まれている。中野をもっとも善良で友情に厚い人物に描く事によって、高柳の歪んだ感情が高柳自身に由来することが捕らえられている。こういう描き方は、漱石にとって、中野の精神が認識の課題ではなく、高柳の精神に生まれる矛盾が創作的な課題として迫っていること示している。
 高柳は、中野とは対等ではないから、対等でない事が意識される。高柳の感情は、中野の眼からは個性の歪みに見える。しかし、高柳は、同類相哀れむ関係にある道也に対しては素直さと堅固さを示しており、その両者がともに高柳の特徴である。しかも、中野に対する高柳の歪んだ感情が、道也に対する信頼を生み出しており、信頼の内容でもある。したがって、こうした歪みを持つ事のない中野の世界には、高柳の道也にみられる人生をかけた信頼は生まれない。そこで生まれるのは、中野と恋人との関係で示され、そして高柳に対する友情で示された、善良で同情に満ちた精神である。そこには深刻な矛盾が欠けている。

 ▲「久しく書きかけて、それなりにして置いたものだ」
 「あの小説か。君の一代の傑作か。いよいよ完成するつもりなのかい」
 「病気になると、なおやりたくなる。今まではひまになったらと思っていたが、もうそれまで待っちゃいられない。死ぬ前に是非書き上げないと気が済まない」

 22はここで道也の現実認識を共有している。高柳は、いよいよ時間がなくなり余裕がなくなることでようやく小説を書く気になっている。作品ができなければ生きている意味はないから、転地をしても仕方がない、と覚悟している。中野はこの覚悟にそって、「僕は費用を担任した代り君に一大傑作を世間へ出して貰う。どうだい。それなら僕の主意も立ち、君の望も叶う。一挙両得じゃないか」と提案している。漱石は中野の世界から分離する力量を持っている。漱石の独立的な人格は、中野の世界をもっとも高度に想定した上で、それを超えようとする意志である。だから、妻と同様中野も否定的に描写される必要がない。漱石は、中野の世界で可能な限りの善良さと対立しており、それが、中野の世界の常識とも、世間の常識ともまったく対立的に、頑固な、いじけた、素直でない、矛盾に満ちた人格である。しかし、それにも関わらず、というより漱石はまだはっきり意識していないが、ここに示される高柳の覚悟も道也の覚悟も、複雑で不可解な矛盾を内包しているからこそ、独立的で独自の価値を持っており、それをはっきり認識していくのが漱石の作品の系列である。
 
 ▲ 百円の金は聞いた事がある。が見たのはこれが始めてである。使うのはもちろんの事始めてである。かねてから自分を代表するほどの作物を何か書いて見たいと思うていた。生活難の合間合間に一頁二頁と筆を執った事はあるが、興が催すと、すぐやめねばならぬほど、饑は寒は容赦なくわれを追うてくる。この容子では当分仕事らしい仕事はできそうもない。ただ地理学教授法を訳して露命を繋いでいるようでは馬車馬が秣を食って終日馳けあるくと変りはなさそうだ。おれにはおれがある。このおれを出さないでぶらぶらと死んでしまうのはもったいない。のみならず親の手前世間の手前面目ない。人から土偶のようにうとまれるのも、このおれを出す機会がなくて、鈍根にさえ立派にできる翻訳の下働きなどで日を暮らしているからである。どうしても無念だ。石に噛みついてもと思う矢先に道也の演説を聞いて床についた。医者は大胆にも結核の初期だと云う。いよいよ結核なら、とても助からない。命のあるうちにとまた旧稿に向って見たが、綯る縄は遅く、逃げる泥棒は早い。何一つ見やげも置かないで、消えて行くかと思うと、熱さえ余計に出る。これ一つ纏めれば死んでも言訳は立つ。立つ言訳を作るには手当もしなければならん。今の百円は他日の万金よりも貴い。

 零落によって、こうした一般的な意識が生まれてくる。金や地位を残す事は出来ないが、それとは違ったものを社会に「何か一つ見やげ」をおいて死にたいと思う。それが、おのれを出すことである。道也や高柳の世界で生み出される学問や小説の内容は中野の世界で生み出される一般性とは違っている。漱石は、ここで、高柳の零落と、零落に伴う絶望的な意識と、その絶望的な意識が生み出した決意の中で、中野がもたらした偶然による幸福と充実を描いている。高柳の人生全体の帰結とも言うべきこの高揚した感情のすべてが道也への信頼を作り出す力であり、その内容になっている。
 
 ▲ 道也先生に逢って、実はこれこれだと云ったら先生はそうかと微笑するだろう。あす立ちますと云ったらあるいは驚ろくだろう。一世一代の作を仕上げてかえるつもりだと云ったらさぞ喜ぶであろう。――空想は空想の子である。もっとも繁殖力に富むものを脳裏に植えつけた高柳君は、病の身にある事を忘れて、いつの間にか先生の門口に立った。

 高柳は中野に対してはいじけた心を払拭することができない。道也に対しては、尊敬のための遠慮する気持ちを払拭することができない。しかし、「一世一代の作を仕上げてかえる」希望を得たとき、それを自分と同様に道也が喜ぶだろうことを確信しており、その信頼のもとに充実し満足し、希望に燃えている。道也が喜んでくれると確信できるのは、道也の運命が自分と一致しており、同類であることが分かっているからである。そしてこの同類は単に零落の同類ではなく、意識的な同類である。零落は、同類であるための最も重要な前提条件であるが、この零落のなかで、中野の世界と独立した、零落した者に独自の学問や芸術を目指すことによって得られた信頼である。道也も高柳も零落によって、零落の経験的な精神を蓄積しているのではなく、零落に耐えた目的意識的な一般的意識において信頼しあっている。エリート社会に特有のこうした信頼関係は、独特の矛盾を作り出していく。そしてその矛盾を受け止め、その矛盾の中に生きる事だけが積極的な精神を作り出し、この世界の限界を、現実的で歴史的な手順を経て克服する事ができる。
 高柳が、転地のための金を道也に渡すことに満足するのは、高柳も一般的な意識を共有しているからである。道也の著作を世に送ることが、「このおれを出す」ことでもあり、世の中に見やげを置く事である、と考えて、それで中野夫婦の好意に報いる事もできる、と考えている。道也も高柳も零落と破滅において一般性に生きる事を人生の意義だと思っており、その信条が二人の信頼の基礎である。一般性のために生きようとする圧力が零落した生活にはある。高柳の零落の必然性として、自己を生かしたいという必死の努力は、金持になる事ではありえず、一般性において生きることの意義を道也に教えられた。高柳はすでに金や地位を求める希望と可能性を持たない。これが個人的な没落として終わるのでないのは、彼らの一般性における精神を蓄積することに普遍的な意義があり、現実に、こうした零落が普遍的な現象として生じ、それに応じた精神をも生み出すことが資本主義社会の必然だからである。
 道也の人格と高柳の犠牲を結びつけるのは漱石の度胸であり、道也の人格の力であり、個人的な利益より一般的な利益を優先する二人の覚悟の一致についての確信によるものである。道也は、高柳との信頼関係を肯定している。道也は自己をのみ肯定し、自己の潔白にのみ固執する人格ではない。それは、鴎外にみられる信頼関係のない、求める事の無い孤立ではない。
 高柳が、尊敬する道也の偉大な人格は、高柳の犠牲を受け入れる事で矛盾を含むことになる。その矛盾がいかに大きいかを、直前に漱石は描いている。高柳は自分の決意と希望において自分の人生を諦め、道也の著述に希望を託している。漱石は、高柳の絶望的な状況と、その絶望的な状況で得た希望を書き込み、それを犠牲にすることに高柳の幸福を見いだしている。高柳が転地を犠牲にして得た道也の原稿が売れる可能性はない。高柳の信頼は、原稿の成功という意味では幻想である。しかし、高柳としても成功そのものを求めているのではなく、まずそれを世に出す事だけを望んでいる。道也が強調しているように、それがどんな意味をもち、社会においてどんな位置を占めるかはまだ分からない。しかし、それが分からないからこそ、人生を掛けて闘うものでもある。こういう精神は、高度成長時代の批評には、この矛盾ゆえに滑稽に見えるであろう。しかし、零落した人間の信頼関係にはこうした深刻な矛盾が常に内在しており、それを信頼関係の内容として信頼は発展する。こうした矛盾を一切含まない、平穏な関係を信頼関係とする事こそ信頼関係の喪失であり、地位と金と安定を価値基準とすることである。信頼関係の深さは、その関係と運命が含む矛盾の大きさと同じである。
 高柳の犠牲にも関わらず、道也の著述が成功することはない。道也が著述によって成功することは、道也の人格が得た妻や兄や世間との対立を解消することであり、これまでの対立の成果を、著述による成功に収束させることであり、著述によって地位と金を得るための手段に貶めることである。道也の人格はそういう個別的な解決の否定を本質としており、そうした解決はあり得ない。高柳は結核で破滅し、道也の本は売れないことによって、深刻な矛盾を促進し、学問の課題と内容を獲得する。それが、出世主義的な学問と対立する学問の基本的な傾向である。
 道也と高柳の関係の矛盾は単純である。22の犠牲は、すでに破滅の淵に立つ矛盾を推進力にしているとはいえ、十分な深さを持っては描かれていない。それは、道也があらゆる覚悟において抽象的であり、矛盾の展開の端緒に立っているのと同じである。漱石は、道也の人格において、こうした矛盾を内包した信頼関係とそこに生まれる感情・精神を捕らたことによって、「こころ」では深い信頼関係の中で生まれる葛藤を捕らえる事ができた。信頼関係を破壊した結果としての孤立を、つまり、発展的な矛盾を得る事ができなくなったことによる空虚な、矛盾を失った孤独を描く晩年の鴎外は、漱石とはまったく対立した方向に展開している。零落を受け入れ、そこで生まれる矛盾を我が物としようとする道也の人格的覚悟は、抽象的であるとは言え、非常に重要な、歴史的な意義をもっている。



HOME   漱石 野分(四〜九)