2.野分
 インテリ的な孤立生活を社会に対する知的な優位として肯定する意識には常に、孤立や無力を意識する自己否定的で現実的な意識がつきまとっている。インテリ的な地位に安住している場合は自己肯定的な意識を支配的な意識としつつこの単純な矛盾の様々の形態を変遷する。漱石の天才性はこの自己否定的な精神が常に優位にあって自己を発展させることである。『野分』の道也はこの矛盾から逃れるためにその矛盾を規定しているインテリの相対的に安定した地位を放棄する。地位の放棄は自己否定的な精神の徹底であり、発展のための前提である。したがって地位の放棄は、インテリ的な矛盾を解消するのではなく矛盾を深刻化するく。現実的解決とは常に矛盾の発展であり、漱石の作品の全体のながれはこの法則に貫かれている。安楽な地位に安住するインテリは漱石が獲得した深刻な矛盾と苦悩を免れていると同時に漱石を理解する可能性も精神の発展の可能性も失っている。しかし、いずれにせよインテリの安楽な生活は一時的であり、漱石が経験した苦悩は社会的必然性としてインテリ全体に強制的に押しつけられる。この矛盾を回避することは決してできない。矛盾を克服する唯一の方法はこの矛盾を受入れ速やかに通過することだけである。

 『二百十日』は初期3作品に内在する無力感を克服するために社会に対して積極的に働きかける決意を自信に満ちた静かな形式で表明している。『野分』と『虞美人草』には啓蒙活動が地位の放棄との連関で描かれることによって、道徳的精神が必然的に到達する矛盾が描写されている。『野分』と『虞美人草』は漱石の初期の矛盾を突き詰めたものであり、この矛盾を突破できるかどうかが芸術を生み出したり理解できるかどうかの岐路になる。『野分』、『虞美人草』は漱石がインテリ的な自己満足から抜け出す試みをし、その不可能を現象的、経験的に理解する作品である。

 インテリが社会的に積極的な役割を果たすための第一の関門は、社会に積極的に関わることの困難、あるいは現実には積極的な役割を果たしていないことを理解することである。インテリの階級的な必然性が社会的な孤立であり、その必然性を肯定的に反映した思想はすべて社会的に無意義であるという自己認識なしに社会的積極性はありえない。
 インテリの社会的無力の自己認識は社会に対する積極的な働きかけによる現実との接触の成果として初めて獲得される。道也は金や地位に屈伏しない精神のために地方の有力者に排斥された結果東京に居を定めたと考えている。しかしこれは経験的事実ではない。道也のような道徳的確信を持つ個人をブルジョアが圧迫するという想定は孤立したインテリ特有の自己肯定的な社会認識であり自己認識である。学問を成功の道具としないことは権力者や金持ちに圧迫される意義を持つのではなく、インテリの社会的無知や無力を克服する第一歩としての意義を持つだけである。
 道也は窮乏生活を選択し初期の余裕派的精神の物質的な基礎であった相対的に有利な社会的地位と生活を放棄した。それによって得た人間関係上の対立は権力者や金持ちとの対立ではなく妻や兄との対立である。妻や兄との対立は金田や鈴木や地方の有力者との空想的対立と違って具体的で現実的な内容を持っている。妻や兄との対立の意義はこの作品では理解されていない。この作品で肯定されている崇高な使命は道也の精神の保守的側面であり、崇高な使命の対立物として想定されている妻の価値観が発展的な精神である。妻との対立の社会的意義は多くの媒介項を経て『道草』で初めて明らかにされる。
 漱石は窮乏生活を選択する道也の覚悟の意義を高柳と対比して描いている。道也と高柳の違いは客観的にはエリートの地位の低下の必然性に対処する方法にある。エリートの地位の没落に苦悩する高柳に対して道也はそれをインテリの崇高な使命のための条件として自ら選択した。道也はインテリの没落の社会的必然性を受け入れることでインテリの没落の必然性を自己意識化する現実的基盤を獲得している。
 学問によってエリートコースを歩くか、資本主義の発展とともにエリート内部に生ずる矛盾から脱出して金や地位と対立する学問を追求するかは学問内容の階級的岐路である。裕福な地位にある中野に学問的成果の可能性はない。高柳はこの中間で中野と道也の両者を羨みつつ苦悩している。高柳には書く内容のある自分に金と時間がなく、余裕のある成金や中野は高価な煙草や趣味的な文章に金と時間を浪費していることが不合理に見える。貧しい生活の意義を理解できず学問のために余裕が必要だと考えて余裕のある中野の生活を羨むのが高柳の弱点である。中野との分離は初期作品に見られた余裕を廃棄する過程である。
 現実には暇のある者は学問上何もやっていないしできない。積極性な学問の形成と著述のために金や余裕を求めることは矛盾する。社会的な矛盾から遠ざかることは学問から遠ざかることである。社会法則を対象にする学問の内容は高柳が抱えている生活上の諸困難である。学問の傾向は階級的利害によって規定されており、社会矛盾の具体的で現実的な理解のために社会矛盾を自分の利害として経験できる立場にいることが前提条件になる。
 初期作品の発展としての道也の禁欲主義の徹底の意義は現象的批判意識の解消である。道也は個別的な現象を批判することで自己を肯定することを止め、自己自身において積極的な人格を形成することを課題としている。俗物との対立は自分の正しさを証明する契機にならない。道也は俗物と違った独自の課題を自分の責任で果たさねばならないという厳しい自己認識を得ている。俗物に対する批判意識の放棄は俗物との分離の始まりであり自己内の俗物根性の払拭の始まりである。
 個別的な現象に対する批判を越えて社会全体を批判対象とし、その現実的な証明として窮乏生活を獲得した道也の精神は社会全体と対立するのではなく、道也の孤立した狭い生活圏であるインテリ世界と対立し孤立する。闘わず、失敗もせず、恥もかかず、頭の中での完全な準備にあくせくして道也の努力を嘲笑する臆病で高尚なインテリは精神の現実性を獲得できない。道也の敵はこのようなインテリであり自己内のこのような精神である。道也の精神は世間を自分の高さに引き上げるという非現実的な目的を実践的に追求する無謀な努力の中で彼の属する狭い現実と衝突し、それによって自己の本質を認識することができる。インテリの理想ではなく現実自体が真理である。現実を自分の高さに引き上げることではなく、自分の意識を現実にまで引き上げることがインテリの課題である。
 現実的精神とは道也の崇高な使命の無力を理解し、彼が見下している現実を真理と認めることである。崇高な使命を掲げることが道也のように生活をかけるほどに真摯であれば、崇高な使命のために犠牲にした生活が、崇高な使命の無力を具体的に認識する契機となる。道也の掲げる崇高な使命の真実性は彼が孤立と窮乏を選択していること、その結果として妻との対立を生じたことにある。崇高な使命と窮乏生活と妻との対立が結びついていることが道也の精神の現実性であり偉大さである。崇高な使命感を持ち、窮乏生活に耐え、妻との対立といった人間関係上の矛盾を獲得し、その意義を認識することが真の崇高な使命である。窮乏生活と妻との対立の中にどれほど豊かな内容が含まれているかは漱石の後期の作品に描かれている。
 漱石は道也の覚悟を繰り返し描いた後、道也の思想を演説の形式で展開している。内容を演説の形式で描写するところに道也の思想の抽象性と、この作品の文学としての未成熟がある。
 道也の社会認識には国家主義も社会主義もない。道也は門閥や権勢に反対する覚悟をしていながら資本主義社会の基本矛盾の反映である電車事件に関心を持たない。明治の現状についての抽象的な言葉の羅列は電車事件を引き起こしている明治の現実からの認識の遅れを示している。道也の言う学問の理想とは学問の具体的内容を指すのではなく、金と成功を拒否することである。金や地位からの独立は、すでに金も地位も失い電車事件を起こしている労働者には関係のないインテリの課題である。電車事件を起こしている労働者から見れば道也の抽象的な理想や覚悟は子供染みている。道也が自分のインテリ的な偏見を廃棄して現実的精神を得るために非常に長い道のりを必要としていることがわかる。

 道也は金持ちと学問の分離の理解を徹底していない。金や地位に従属する学問が学問でないなら学問が金や地位から独立すべきことを説く必要はない。学問は金と地位からすでに独立していると結論すべきである。金に支配された金持ちの弁護を目的にする学問は学問ではない。金持ちが学問の領域にのさばり出ることはありえない。道也の金や地位を持つ者に対する批判の内容はインテリの地位が低すぎることに対する抗議である。
 金や地位のある者は社会に対して働きかける力を悪用しているから、学者がその使い方を教える必要があると道也は考えている。道也は金を自由に、意図に従って使用できると考えている。社会的に孤立した状態から積極的な活動の決意をしたばかりの道也は社会のメカニズムと、社会に対する活動の方法についてまったく無知であり、それを考察する必要すら知らない。社会のメカニズムから人格が独立した力であると考えるのは社会的に孤立し、社会的な活動を具体的に経験してない道也の無知であり偏見である。
 客観的には社会に働きかける手段が働きかける主体の精神を規定しており、したがって金持ちや権力家と対立する内容を社会に与えるには特有の手段を必要とする。地位の高い者はその地位の必然性によって社会に働きかけている。道也は社会を個人の集合としてのみ認識した上で地位の高い者を啓蒙しようとしている。道也は金や地位を拒否して窮乏生活を選択したが、金や地位を持たない者が社会に働きかける便宜と力を持つとは思わず、地位の低い者を啓蒙の対象にしていない。道也は金と地位が発揮している現在の力を非難しながら、社会改良の力、社会を動かす力として金持ちや権力者だけを認め、金に執着しない人格である道也が彼らに正しい金の使い方を指定できると考えている。
 金をインテリの理想によって使うことはできない。現実には逆に金の法則が金の正しい使い方や現実への正しい対処の仕方を指定する。正しい考え方とは価値法則との一致であって価値法則に外的に変更を加えることではなく、また加え得ない。金を思想に従わせるのではなく、思想を金に従わせなければならない。金を社会関係としてではなく購買の道具とのみ考えている道也にはそれは理解できない。金の使い方、作用の仕方は道也の希望に関わりなく生産関係、階級関係によって自然法則的に決定されている。だから金は現にあるような使い方以外はできない。資本主義社会では金のどんな使い方も金持ちの利益になる。金持ちの利益はインテリの没落であり、それが現実の発展である。道也の主張の客観的な内容はこの過程を緩和し、インテリの地位を高めることである。

 道也は金持ちが別荘を建てたり高柳の月収を煙草で煙にしたりすることを堕落だと言う。彼は初期三作に共通な個人的消費形態に対する批判を踏襲している。消費形態の不合理を社会的規模で解決する方法は分配の平等である。道也は正しい分配の仕方を学者に任すべきだと言うが金の正しい使い方を具体的に考察しているわけではない。金の正しい使い方を研究する場合は、使い方を制限し規定する社会関係を研究する必要が生じ、結局道也の主張するインテリに有利な分配より、彼が抗議している現実の分配がより合理的であることが理解できる。インテリの報酬を押し下げるのは資本主義社会の合理的側面である。
 道也が要求する報酬の平等の実践は慈善である。剰余価値の一部分を慈善として搾取された者に還流することの一般的意義は、剰余価値として搾取する複雑なメカニズムを覆い隠し、対立を緩和し、金持ちの力と恩恵を貧しい者に思い知らせるとともに金持ち自身に善意と力の満足を与えることである。だから金持ちが人格性を買うために費やす慈善は必然的に分配の極度の不平等を前提しており、しかも慈善の量は悲惨をなくさないごくわずかの量に限定されている。惨状にある人間に社会的な力を与えない限りにおいて個別的に助けることの意義は社会的、闘争的感情を抑え感謝の気持ちを持たせることである。慈善は貧しい人間を搾取される状態に維持するための投資である。したがって道也がこの慈善部分を引き受けようとするのは現実にはまったくの俗物根性になる。搾取は金持ちに任せて、恩恵を施す分配=正義=慈善部分だけは学者が受け持とうというのは卑しい魂胆である。その成果に甘んじるなら貧しい人間も堕落する。金持ちから恵んでもらおうとせずに、彼らが恵んでくれる金を蓄積する過程を批判し、蓄積させないことにおいて平等を獲得するための闘いが独立的人生というものである。恵み、恵まれるという関係自体が批判対象として認識されねばならない。
 生産関係を問題にしない分配が感情レベルで引き起こす矛盾がこの作品に描写されている。慈善は高柳のように恩恵を受ける者にとって屈辱的である。卑屈さと絶望だけがこの屈辱に無感覚になれる。漱石が神経質にこだわる金銭や恩恵をめぐる自尊心の問題はその背後にある社会関係に深化するための入口になっている。
 中野が高柳に与える百円が中野にとって負担でないほど高柳らの貧しい生活を前提しており、したがって彼らの生活にとって決定的な意義を持つ。高柳が一月生活するための二十円を商人は煙草の煙にしている。だから商人が煙草を我慢すれば高柳の一月の生活を保証し、商人は健康を害せずに済むから双方にとっても社会全体にとっても利益になるはずである。ところがこんな全体は階級社会では存在しない。一月二十円で生活する高柳には特有の社会的利害があり、商人には煙草を吸うことの特有の社会的利害がある。高柳は彼の欲望を実現するために決定的に重要なこの金を商人からは無論のこと、親友である中野からも「正しい」使い方として受け取ることができない。
 高柳は学生時代は中野に金を貸せとか御馳走しろと言っていた。しかし社会に出て道也の言う分配の不平等がはっきりした結果この関係にひびが入った。大学時代は高柳も中野と同等とは言わないまでも一方的に恩を受ける関係ではなく、中野の親切が中野自身の利益であると高柳も感じることができたから中野の親切も負担ではなかった。卒業して職もなく肺病になって一方的に助けられる「不合理」な関係が生ずると同時に中野に金を貰うことが負担になる。
 分配の平均化の観点からすれば貧富の差が大きいほど感謝と善意は一致し、施す方も貰う方も喜びが増すはずであるが事実は逆である。一方の余裕が大きく他方の貧しさが大きい場合高柳にとっての大きな意義が中野にとっての小さな意義と同等になる。この落差が大きくなると善意と感謝でなく侮辱と屈辱という感情が生じる。対立が大きいほど中野と高柳の感情のギャップも大きくなり道也の言う正しい使い方ができなくなる。高柳は慈善の対象になるより煙草で煙にされたり別荘で楽しまれた方がましだと感じるようになる。ブルジョアの利益の配分に与かるために卑屈さに耐えるより、ブルジョアと対立する独立的な学問の道に入る方を選択したいという感情が生まれてくる。道也の演説は高柳に描写された具体的感情と対立している。道也の一般論と感情のレベルが一致して善意、同情を売りものとして生きるのが平凡なインテリである。漱石の具体的感情はこの一般論を批判し破壊していく。中野にとって善意であり高柳にとって死活問題である百円はもともと中野の搾取によって生じた必要である。だからこの基本的関係を前提した上で金を貧しい人間に正しく、自然に流す方法はない。
 では何が正しいのか。道也が思想的に抵抗している分離の発展である。この観点からのみ浪費や慈善の批判は意味を持つ。蓄積した金を個人消費に費やすことはブルジョア的利害からしても不生産的である。すべての富を生産的に消費するのがブルジョア的な合理性である。ブルジョアがブルジョアであり続けるためには怠惰な浪費家ではあり得ない。彼らはブルジョアとして生き残るために生産的に投資する。生産された価値の大部分は生産手段として、ブルジョアの社会的勢力の物質的基盤として蓄積される。ブルジョア世界ではすべての階級にとってこれがもっとも合理的な、法則によって規定された金の使い方である。したがってそれを不合理として反対する反動的な道也の啓蒙にもかかわらず事態はそのように発展している。生産手段として投資するとは、つまりブルジョア的に生産的な方法とはいっそう大規模に効率的に搾取する物質的基盤を蓄積することである。相対的にはますます贅沢を可能にし慈善も可能にするような、今まさに道也の眼前で進行し道也の批判意識を生み出している資本の万能の力を蓄積することである。この方法は矛盾を発展させる。現象的「弊害」はこの「弊害」を非難することによってではなく、この「弊害」を引き起こしている矛盾を発展させることで解決される。
 資本主義社会の基本矛盾の理解は漱石の課題ではない。漱石の課題はその基本矛盾から相対的に独立し、社会発展から取り残された道也のようなインテリの運命の法則を理解することである。漱石はまだ自分の課題の歴史的な限定を理解しておらず、社会一般を啓蒙の対象としている。社会を全体として理解し、批判し、改革できると考えるのがこの時期の漱石の無知であり幻想である。このような批判意識は社会全体にではなくインテリの孤立世界で生じた、この世界にのみ通用する道徳的な教訓である。道徳的な教訓を具体的な現実に適用した場合の矛盾を描写したのが『虞美人草』である。

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