芥川龍之介 1946年 大正04年    『羅生門』


1946年(大正04年) 




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『羅生門』

 京都は災がつゞいて荒廃し、羅生門は死体置き場になった。それでカラスが死人の肉を啄みにくる、石段には鴉の糞がこびりついている。こう書くと何となく気持ちが悪い。芥川はこれを一種の文学的雰囲気として描いているが、これは内容ではない。滑稽な喜劇を深刻に見せるための舞台である。
 京都の荒廃の中で暇を出さた下人は、特に深刻な様子もなく、雨に降り込められてセンチメンタルになっている。下人は、「どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない。」とどうでもいいようなことに悩んで、短絡的に「選ばないとすれば」「盗人になるよりほかに仕方がない」と結論している。残る問題は、「積極的に肯定するだけの、勇気が」でるかどうかである。飢饉のさなかにこんな抽象的な葛藤を抱えているのだからよほど気楽である。
 下人は、直接的な欲望や利害を持っておらず、経験的な現実的関心や現実感覚を持たない。その代わり知的な関心を持っているが、それが単純で現実と接触できるほどの知性ではない。下人が現実離れしているために、現実自体は「丹塗の柱にとまっていた蟋蟀も、もうどこかへ行ってしまった。」といった具合に、これまた無意味に描写されている。飢饉の京都で、餓死か盗人かという図式的な葛藤をしているのが下人の Sentimentalisme であり非現実性である。
 センチな下人は、羅生門の死体の傍で寝ようと思うほど変わった男である。しかし、楼の下で死臭に気がつかないことも、「死骸の腐爛した臭気に思わず、鼻を掩った」程度であることも、鼻の機能の弱点にすぎない。鼻より鼻の奥の精神の弱点の方が深刻である。
 下人は、羅生門で老婆が「死骸の一つの顔を覗きこむように眺めていた」のを見て、「六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸をするのさえ忘れていた。」という。センチな下人だから大げさなのは仕方がないが、そこから沸きだしてくる感情の歪みは仕方がないとすませるようなものではない。
 
 ■ その髪の毛が、一本ずつ抜けるのに従って、下人の心からは、恐怖が少しずつ消えて行った。そうして、それと同時に、この老婆に対するはげしい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この老婆に対すると云っては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かがこの下人に、さっき門の下でこの男が考えていた、饑死をするか盗人になるかと云う問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であろう。それほど、この男の悪を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のように、勢いよく燃え上り出していたのである。
 
 飢饉の最中に、餓死か盗人かという暇な葛藤を抱えていると、人に接してこんな感情を持つ事になる。下人は死体の髪の毛を抜く事がよほど悪いと感じる。それだけならいいが、それを見て、「あらゆる悪に対する反感」にまで感情を増幅している。そして、悪に対する反感で頭をいっぱいにして、餓死するか盗人になるかと聞かれたら何の未練もなく餓死を選んだ、と考えている。二つしかないし実践的な意味を持たないからどっちを選んでも同じであるが、下人は重大な選択だと思っている。
 餓死するか盗人になるかと悩んでいる下人に出会ったのが老婆の不幸の始まりである。下人は短絡的で、現実にかするほどでも接触すると極端な結論に走る傾向があり、その結論が非現実的である。本人は知的で真面目で真剣だと思い込んでいるが、実際は単にいいかげんである。下人は経験もなく教養もなく、その頭で拵えた理屈で動くので、小さな情況によってどう刺激されてどう転ぶかは老婆にも本人にも分からない。
 
 ■ 下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くと云う事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、下人は、さっきまで自分が、盗人になる気でいた事なぞは、とうに忘れていたのである。
 
 下人は、死人の髪の毛を抜くことを善悪のいづれかに片づける必要があると思い、何故抜くかが分かれば合理的に片づけることができると思っている。しかも、こううねくねするにもかかわらず、まず許すべからざる悪である、と断定している。支離滅裂で、飢饉の京都で暇を出された下人ではなく、善悪について抽象的に考え始めた中学生ような男である。
 妙な確信を持った下人は老婆を追い回して、「腕をつかんで、無理にそこねじ倒した」。死体の髪を抜くより生きた老婆をねじ倒す方がよほど悪い。しかし、下人は、反省するどころではなく、自分の悪行に満足している。反省のかけらもなく、理性のかけらもない。
 
 ■ これを見ると、下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。そうしてこの意識は、今までけわしく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。後に残ったのは、ただ、ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。
 
 主人に暇を出されて、餓死か盗人かと葛藤して、羅生門の死体の傍で寝ようと考えて、火を灯している老婆をみて、「どうせただの者ではない。」と思いついて、老婆が死骸の顔を覗き込んでいるの見ると「六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて」、老婆が髪の毛を抜いているのを知って、恐怖が憎悪に変わって、それがあらゆる悪に対する反感にまで膨らんで、その妙な正義感から老婆をねじ伏せて、何をしていたか、と問いただす、という下人の感情の変化は余りに変則的である。その上で老婆をねじ伏せて「安らかな得意と満足」を感じている。老婆をねじ伏せて満足する正義漢は愚か者である。
 
 ■ 「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘にしようと思うたのじゃ。」
 下人は、老婆の答が存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑と一しょに、心の中へはいって来た。
 
 老婆が何をしているか見れば分かりそうなものだし、この説明を聞けば納得しそうなものであるが、下人は老婆の答えの「平凡」に失望している。老婆の答の平凡さに失望するのは単純な非常識としても、平凡さに失望した結果「憎悪」をかき立てるのは尋常でない。下人を満足させることのできる解答とは何であろうか。
 暇を出された下人というより暇なインテリ風な下人は、老婆には気の毒な話であるが、死人の髪の毛を抜く事がとにかく気に入らない。そして、この感情の奥に下らない知的な関心が潜んでいる。老婆は、このあとこの知的関心に答えさせられている。これは芥川の作意である。老婆には災難が続くようにできている。
 自分が髪を抜いている女は蛇を干魚だとだまして売っていた、飢え死にしないためである。自分も飢えないためにこの女の髪の毛で鬘を作る、だから、この女も自分のすることを大目に見てくれるだろう、と老婆は答えた。本来は、飢えないために髪を抜いているというだけで十分な答であるが下人には盗人になる事の正当化が必要である。下人も芥川も、餓死か盗人かの二者択一しか頭にないために、ここから盗人になっても良い、という飛躍した結論を引き出している。しかし、この答には、餓死か盗人か、という選択以外に方法があることが含まれている。
 下人は、「冷然として、この話を聞いていた。」というから、下人が老婆の話に大きな意義を認めていることがわかる。そして、「下人の心には、ある勇気が生まれて来た。」と書いている。ある勇気というのは大げさであるが、下人が抱えていた餓死か盗人かの選択で、盗人になるという意味である。下人は、「きっとそうさうか 」と念を押して、
 
 ■ 「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ。」
 
 と言って老婆の着物を剥ぎ取った。この「では」は相手の論理をうまく逆手にとった、という知的な勝利の意味であろうがばかばかしく飛躍している。ニキビをひねっては何か物を考えているそぶりをしているが、無経験で無知で思考力のない男である。老婆の言葉を逆手にとって同じ事をやっていると思っているが、下人の遣る事は蛇を魚と偽って売った女よりも、死体の髪の毛を抜いて鬘を作ろうとしている老婆よりもよほど質が悪い。女と老婆と下人はそれぞれ置かれた事情が違い、やっていることも違う。下人が一番気楽で下らない。
 盗人になるといっても、つまりは老婆の着物を剥ぎ取るだけのことで、そのためにこれだけの小理屈を並べるのだから、下人には勇気がなく度胸がなく主体性がないし、知恵もなく分別もない。老婆の言葉を聞いて、何の脈絡もなく自分が持っていた結論を勝手に引き出すのだから、下人がどんな動機を持ち、なにを根拠にどんな行動にでて、どんな正当化をするかは予測できない。実践的な結論は老婆の服を剥ぐだけのことで、そこにいたる道筋もインテリ的にややこしいだけで内容は同等である。老婆の着物を剥ぎ取るために理屈を並べるのは精神の貧困である。
 老婆の着物をはぎとることは、議論すべきほどの内容を含まない。下人の理由付けも内容を含まない。下人の理屈と実践は同じ内容で、単に老婆を憎悪し軽蔑しいじめて満足することである。この単純な行動の内部に一般的な価値を捜し求めるのは無理であるし無知である。
 餓死か盗人か、という抽象的な図式から出発し、それを形象的に加工しただけの作品であるからこの図式以上の内容を持たない。個別の描写から象徴的に任意の結論を引き出すのは容易であるが、それこそこの作品から誘発された精神の貧困である。単純な作品は単純な作品として読むべきである。この作品には複雑な内容は含まれていない。







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