『ル・パルナス・アンビュラン』 (明治43年6月) 

 文壇に対する批判であるらしいが、批判の内容ははっきりしない。はっきりしないのが鴎外らしい。文壇の作家が死んだという陰険な想定の上で、主義にも作品内容にも関係のない厭味を書いている。
 此人は当世第一流の作家と云はれてゐたのであるから、独逸や仏蘭西でゞもあらうものなら、ヰルヘルム陛下とか、フアリエエル大統領とかの花輪でも来てゐる筈であるが、日本の第一流は本屋位が花をくれる外には、誰も顧みるものはないのである。
 戴冠者や大統領は扱置き、国務大臣だつて花なんぞはくれない。第一流でもなんでも、小説家である以上は、政府は厄介ものだと思つてゐるのだから、死んでくれゝば喜ぶのである。中にも此人なんぞと来ては、発売禁止を五六遍食はせられてゐたのである。注意人物になつてゐたのである。いかに警察が行き届いても、泥坊の跡は絶えないと同じ事で、小説家は跡から跡から出て来るのだが、それにしても第一流と云はれる先生は三人か四人であるから、それが一人死んでくれゝば、神聖なる sensure の任務に当るお役人が大いに助かるのである。
 これは、小説家を大事にしない政府に対する皮肉ではなく、官僚の立場からする小説家の嘲笑である。鴎外にとっては、小説家はやはり一流でなければならない。そして、一流であることは、陛下や大統領や、少なくとも国務大臣や学士院や大学に顧みられなければならない。小説家の価値を決めるのも大臣の仕事である。自分は小説家としては二流であるが、日本の一流の作家よりはるかに大臣に近い立場にいる、と言いたいらしい。
 「 木屋丈は花位くれる。併しこれも教科書を書いて貰ふやうに、小説の原稿を難有がつて貰ふのではない。殊に第一流の小説と来ては、読者は男女の学生の外には余り無いのだから、木屋もさ程恩恵を蒙つてはゐない。花をくれるのも、義理にくれるのである。
 一流といっても読者は少ないのだから、一流といわれなくてもかまわない、ということであろうか。
 
 「 その跡へ四句の偈の旗を持つた人足が続く。自由恋愛はしてゐても、第一流の先生は余り経済が饒かではなかつたのであるし、それに平生やれ生の意義だの、生の受用だのとは云つてゐても、立派に生きるといふ程生きて見たのではなかつたのであるから、生滅滅已、寂滅為楽には相違ない。」
 鴎外のようにまじめな官僚として生きるのが、家内安全で、経済もそこそこ豊かで、立派に生きる見本だ、という意味であろう。文壇先生方は、人生だとかなんだとかいっても、生活はしっかり安定しているとはいえない、ということである。
 鴎外は文壇と新しい価値観で対立している。「普請中」でも官僚の立場の地位の優位を表にだしていた。この作品でも官僚の地位の優位、生活の安定を小説家に対置している。立場の優位や生活の安定の側面から批判されると、小説家は官僚には勝てない。鴎外の強みは、地位と生活の豊かさと語学力しかなくなってきたということであろうか。それはすべての作品に共通した価値観であるが、それを直接描いているのがこの作品の特徴である。偉そうなことを書いていても、地位も金も語学力も美人の奥さんもいないようでは、所詮貧乏人の強がりにすぎない、という主張である。それはそうでもあろうが、小説家としては、小説の内容を問題にしてほしいところである。たとえ鴎外が諦観的な、やけくそな気分に追い詰められているとしても、やはり精神を問題にすべきで、これほど大いばりで馬脚を露わす必要はないであろう。
 
 死んだ作家の奥さんを、「少し大き過ぎる口」だ、「少し胡座をかいた鼻」だと書いているのは、少し無理な主張である。漱石が「猫」で鼻に注目していたのには、ひけらかしている金の力を無視する、という意味があった。鴎外は「桟橋」に見られたように、上流と見れば極端に卑屈に腰を屈め、二流と見れば、別品でないといって馬鹿にする。こんな考え方を持っているのなら、「半日」でもっと奥さんを美しく魅力的に書けばよかった。自分の事はさておいて、とにかく思いつくだけの冷笑を浴びせ、自分の優位を思いつくだけ並べようとしたのであろうが、うまくいっていない。あびせかたがうまくないし、並べたものもいいものではない。
 その癖此シルクハツトの先生は、精神が至極慥かである。「青天白日にけしからん」、「不自然極まる」、「isme に背いてゐる」、「第二流だ」、「自然の誤訳だ」、「消極的だ」、「形式ばかりだ」、「半無機物主義だ」といふやうな判断が、不規則不順序にシルクハツトの下で湧き立つてゐる。
 これは鴎外の作品の特徴をうまく言い当てている。鴎外自身、下流に縁がなかったばかりでなく、上流にもなり切れず、文壇で一流になったわけではなく、自分が一流だと自覚できるのでもなかった。だから、官僚世界に向かって不満をぶつけることのできなかった鴎外にとって、自分を受け入れない文壇に対して、批判か皮肉か嘲笑か厭味か負け惜しみかで、腹の虫をおさめる必要があったのであろう。我慢強い鴎外にも限界はあった。鴎外は文壇との関係を断絶し、高級官僚の地位を肯定する立場を意識的に選択している。それが鴎外の最後の砦である。鴎外はこれまで、高級官僚の地位の力を背景に、その道徳性や精神性を肯定してきたが、それが難しくなると、現実に見えるはっきりした優位である官僚の地位を持ち出している。鴎外が地位の力を表に出し、文壇に対する無力を文壇に対する権力的な優位によって回復しようとしているのは、基本的には保守的な官僚が力を失いはじめており、権力の力を表にださざるを得なくなっているからであろう。だから、この作品は、文壇作家の葬儀を描いてのではなく、鴎外自身の葬儀を描いているように見える。

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