『最後の一句』 (大正4年1月) 

 
 最後の一句(t4.10.1)

 「雁」、「灰塵」の破綻は、鴎外の精神の枯渇を示していた。その後の鴎外は、敵討ちや切腹といった殺伐とした歴史的エピソードを材料にして、自分の冷やかな感情と空虚な意地を描いている。鴎外はこの作品でも死を問題にしている。喜びや悲しみや怒りといった感情を失った意地によって生き、その究極として死を恐れないことを精神の力としている。
 「いち」には子供らしい感情がない。鴎外には、女房が悔恨と悲痛にうちひしがれて母親に繰り言を聞かせることが弱点に見える。「いち」には、感情がなく、意志は冷やかで無力ある。
 「大きい聲をおしでない。わたし好い事を考へたから。」いちは先づかう云つて妹を制して置いて、それから小聲でかう云ふ事をささやいた。お父つさんはあさつて殺されるのである。自分はそれを殺させぬやうにすることが出來ると思ふ。どうするかと云ふと、願書と云ふものを書いてお奉行樣に出すのである。しかし只殺さないで置いて下さいと云つたつて、それでは聽かれない。お父つさんを助けて、其代りにわたくし共子供を殺して下さいと云つて頼むのである。それをお奉行樣が聽いて下すつて、お父つさんが助かれば、それで好い。子供は本當に皆殺されるやら、わたしが殺されて、小さいものは助かるやら、それはわからない。只お願ひをする時、長太郎だけは一しよに殺して下さらないやうに書いて置く。あれはお父つさんの本當の子でないから、死ななくても好い。それにお父つさんが此家の跡を取らせようと云つて入らつしやつたのだから、殺されない方が好いのである。いちは妹にそれだけの事を話した。
 寒々とした文章である。こうした文章は長年の創作的訓練や、保守的官僚の長年の経験がなければ書けるものではない。「いち」には、妹の運命を思う感情がない。あっても表現しないのではなく鴎外はそんなものを書けないし書こうとも思わない。父親に対する愛情さえ問題にならない。ただ、命を投げ出す自分の覚悟を示すことだけに関心を持っている。「よい考え」は愛情によってではなく、冷たい意志によって思いつかれ実行される。むろん無感情な「いち」の考えはいいものではない。「お父つさんを助けて、其代りにわたくし共子供を殺して下さいと云つて頼むのである。」という文章には、意志の強さを証明するために自分の死をも他人の死をも厭わない鴎外の価値観がある。温かい感情や生きることを犠牲にすることにに意志の強さという意義を与えている。強い意志を示すことが、温かい人間的な感情を押しつぶす事に直接結びつくのが鴎外の冷酷さである。
 無感情な「いち」には葛藤がなく、「いち」を描く鴎外にも葛藤がない。鴎外は「いち」の健気な決意が自分や妹達を殺すことを好んでいる。鴎外は自分の冷たい、気味の悪い意地を示す為に、親子の愛情を描いたエピソードを見つけ、その感情を押しつぶすことに創作的な意義を見いだしている。死は、感情を抑える事、感情を持たない事の究極として肯定されている。これは強い意志や強い義務感を肯定することの結果ではない。逆である、深い人間関係を持たず、深い愛情も持たず、つまらない競争に勝ち残ることだけを考え、自己保身だけを考えていた酷薄な精神の成果として、強い意志のあり方がこのような特殊な空虚な形式になる。しかも空虚であるために決して強い意志ではない。
 歴史上、また日常的生活の上でも、意志の強さを示す現象はいくらでもある。どんな仕事も強い意志なしにはなし得ない。鴎外の意志は何らかの積極的な内容を目的としているのではない。鴎外の意志は、「意地」という言葉にふさわしく、無内容な主観の形式である。それが酷薄な精神に特有の「意地」である。「いち」の意地は、父親とも母親とも兄弟姉妹とも切り放されている。「いち」の意地は誰にも理解されず、理解を求めない、どんな愛情をも感謝をも求めない。人間関係から切り離された孤立的な意志である。人間関係での孤立と、感情の喪失と、精神の枯渇が、気味悪い意地を作り出した。死を恐れない意志の強さは、死以外の積極的な仕事によって意志の強さを示す事ができないことであり、積極的な人間関係を失って、死以外に向き合う事がなくなっていることである。
 鴎外は、「灰塵」と同様に、この空虚な意志の強さが現実に対してどんな力を持っているかを描いている。精神の空虚さがよくわかる描写である。
 
 いちが先に立つて門内に進み入ると、まつと長太郎とが背後に續いた。
 いちの態度が餘り平氣なので、門番の男は急に支へ留めようともせずにゐた。そして暫く三人の子供の玄關の方へ進むのを、目をみはつて見送つて居たが、やうやう我に歸つて、「これこれ」と聲を掛けた。
「はい」と云つて、いちはおとなしく立ち留まつて振り返つた。
「どこへ往くのだ。さつき歸れと云つたぢやないか。」
「さう仰やいましたが、わたくし共はお願を聞いて戴くまでは、どうしても歸らない積りでございます。」
「ふん。しぶとい奴だな。兎に角そんな所へ往つてはいかん。こつちへ來い。」
 「いち」は、「平気」である。意志が強いので、叱られても動揺しない、断られても門の前で静かに待つ、門番の男を問題にしない。怒りもしないし、ばかにするのでもなく、智恵を働かせるわけでもなく激情に従うわけでもない。鴎外は、「いち」が「平気」であるために、門番が唖然としてしまい、眼を見張ってあっけにとられた、と描いている。「平気」であるくらいで唖然としていては門番にならないであろう。現実はそれほど無力ではない。鴎外は、意志の強さを描いているのではなく、自分の想定する意志に合わせて現実を、「いち」以外の人物を歪めて描いている。
 鴎外としても「いち」の無感情で空虚な決意がすべてを解決する力を持つように描写する事はできない。だから、鴎外らしく器用な工夫をして、「西町奉行所の佐佐は、兩奉行の中の新參で、大阪に來てから、まだ一年立つてゐない。役向の事は總て同役の稻垣に相談して、城代に伺つて處置するのであつた。」と書き込んでいる。しかし、これだけの事情で「いち」の決意が力を発揮することに説得力をもたせるのは難しい。
 こうした工夫のほかに、「いち」について、「不束な假名文字で書いてはあるが、條理が善く整つてゐて、大人でもこれだけの短文に、これだけの事柄を書くのは、容易ではあるまいと思はれる程である。」と書き込むのも鴎外の文士根性がでていて面白い。鴎外が精神の力として空想できるのは、文章力や冷たい意志や几帳面な性格くらいのものである。現実との深刻な関係を持つ事ができないために、死をも恐れない意志の力を示すために、「お菓子を遣しまして歸さうと致しましたが、いちと申す娘がどうしても聽きませぬ。」と描いている。死の覚悟といえば大げさであるが、具体的な内容はこんなものである。
 そして次のように結論している。
 
 「・・妹娘はしくしく泣きましたが、いちは泣かずに歸りました。」
 「餘程情の剛い娘と見えますな」と、太田が佐佐を顧みて云つた。
 
 父親の死罪を前にした強い精神を、菓子でごまかそうとしてもごまかされなかった、とか、妹は泣いたが泣かなかったことで表現するのが鴎外の精神の枯渇である。強い意志が人間関係を含んでいない。菓子につられず、泣かないことで死罪の決定をつくがえすことはできない。
 
 尋問は女房から始められた。しかし名を問はれ、年を問はれた時に、かつがつ返事をしたばかりで、其外の事を問はれても、「一向に存じませぬ」、「恐れ入りました」と云ふより外、何一つ申し立てない。
 次に長女いちが調べられた。當年十六歳にしては、少し穉く見える、痩肉の小娘である。しかしこれは些の臆する氣色もなしに、一部始終の陳述をした。
 鴎外にとって、「臆する気色もなしに」が重要である。しかし、鴎外の考える「臆する気色もなしに」は、冷静に話すことと、誰にも相談せずに自分で考えたことである。感情を持たない事、誰にも頼らずに決めた事、これが鴎外の考える独立性である。何事にも臆することなく、自己を強く主張することはだれしも望む所であろう。しかし、臆する気持ちをなくすにはそれだけの経験が必要であり、精神の具体的内容が現実との対立の中で獲得されなければならない。臆する事のない精神とは、結局は多様で深い具体的内容を持つ精神である。鴎外はそれを見いだせず、ただ形式としての、結果としての臆することのない心を求めている。それは求める方法が間違っている。それは臆する心が理想として描く、臆することのない心の姿である。
 やうやう六歳になる末子の初五郎は、これも默つて役人の顏を見たが、「お前はどうぢや、死ぬるのか」と問はれて、活溌にかぶりを振つた。書院の人々は覺えず、それを見て微笑んだ。
 此時佐佐が書院の敷居際まで進み出て、「いち」と呼んだ。
「はい。」
「お前の申立には嘘はあるまいな。若し少しでも申した事に間違があつて、人に教へられたり、相談をしたりしたのなら、今すぐに申せ。隱して申さぬと、そこに並べてある道具で、誠の事を申すまで責めさせるぞ。」佐佐は責道具のある方角を指さした。
 いちは指された方角を一目見て、少しもたゆたはずに、「いえ、申した事に間違はございません」と言ひ放つた。其目は冷かで、其詞は徐かであつた。
「そんなら今一つお前に聞くが、身代りをお聞屆けになると、お前達はすぐに殺されるぞよ。父の顏を見ることは出來ぬが、それでも好いか。」
「よろしうございます」と、同じような、冷かな調子で答へたが、少し間を置いて、何か心に浮んだらしく、「お上の事には間違はございますまいから」と言ひ足した。
 これがこの作品のクライマックスである。ここにはこのとき鴎外が到達している精神のすべてが描かれている。すべてというのは、死を恐れないこと、つまり生きることに伴う感情を持たないこと、隠し事をしないことあるいは、嘘を言わないこと、責められ脅されても自己を曲げないこと、常に冷静であること、である。すべて形式的な徳目である。この形式的な徳目の具体的な内容は、意味不明な皮肉を冷やかに言い放つことである。
 「いち」の強さや率直さは虚偽であり、強がりであり、幻想である。その意志が現実によって試されていないにもかかわらず、現実的な力を持っていると確信している点で無知である。「お上の事には間違はございますまいから」という言葉をどれほど冷静に言っても、どんな言い方を工夫しても、現実的な力を持つことはない。
 「いち」には自分の死を覚悟する事や、自分の兄弟姉妹の死をも平気で犠牲にする冷たさを持つ以外にどんな現実的な準備もないし深い考えもない。ただ、突然この言葉を放つだけである。それはどういう意味か、と問われれば、それが意地の悪い質問であろうと、真面目な質問であろうと、二の句は継げないであろう。「いち」がこれを冷やかに、「最期の一句として」言い放つのは、続く言葉も方策も考えていないからである。
 「いち」の言葉は空虚で無意味である。だからその効果も空虚で無意味である。
 
 佐佐の顏には、不意打に逢つたやうな、驚愕の色が見えたが、それはすぐに消えて、險しくなつた目が、いちの面に注がれた。憎惡を帶びた驚異の目とでも云はうか。しかし佐佐は何も言はなかつた。
 佐佐も「いち」も何も言わない。内容のない不意打ちがあって、無内容な驚愕や驚異だけが残る。内容がないから具体的な対立はないし、展開もない。「いち」は言葉を発したが、その意味はわからない。知恵は、内容がありそうでしかも後を引かないような微妙な言い回しを思いつくために使われた。それを聞いて驚愕した佐佐も何にどのように驚愕しているのかわからない。だから何も言わない。ただ冷やかに言い放つ事で驚かせただけであるから、実際はどんな効果もあげなかったというのが、この描写の本当の意味である。
 白洲を下がる子供等を見送つて、佐佐は太田と稻垣とに向いて、「生先の恐ろしいものでござりますな」と云つた。心の中には、哀な孝行娘の影も殘らず、人に教唆せられた、おろかな子供の影も殘らず、只氷のやうに冷かに、刃のやうに鋭い、いちの最後の詞の最後の一句が反響してゐるのである。元文頃の徳川家の役人は、固より「マルチリウム」といふ洋語も知らず、又當時の辭書には獻身と云ふ譯語もなかつたので、人間の精神に、老若男女の別なく、罪人太郎兵衞の娘に現れたやうな作用があることを、知らなかつたのは無理もない。しかし獻身の中に潜む反抗の鋒は、いちと語を交へた佐佐のみではなく、書院にゐた役人一同の胸をも刺した。
 「氷のやうに冷かに、刃のやうに鋭い、いちの最後の詞の最後の一句」というのは鴎外の作品が与える印象であり、それは難しい言葉で表現するまでもなく、保守的な官僚の空虚で冷酷な言葉があたえる印象である。「いち」の言葉は、冷酷である。それが冷酷で不気味であるのは、はっきりしない、主張の曖昧な、明確でない言葉を自信ありげに意味ありげに吐いているからである。無意味であるから、その背後にある自信も本当の意図も、あるのかないのかさえ理解できず、つまり、何を考えているかわからず、何をやらかすかわからないからである。
 「いち」の「最後の一句」がどんな意味をもっているかは、聞けばわかる。その言葉の意味は何かと問えば、意味はなく、行動の方策も持たない事、ただただ黙り込んで居るだけでは物足りないので、意味不明の言葉を意味ありげに吐いて、それからその意味を隠すかのように黙り込むことで、再び意志の固さに逃げ込む頑迷さを示しているだけである。しかし、鴎外は自分自身がこの言葉の無意味を知らず、無意味な言葉を冷淡に言い放つことが現実的な威力を持つ、と信ずるまでに精神を枯渇させている。かつての作品では弁解を事とし、無意味な言葉を並べるのを得意としていた鴎外は、年齢を重ねた結果、何かを隠していることをできるだけ表に出す工夫をすることで精神の奥深さを描き出そうとしている。
 鴎外は保守的な官僚として、「献身の中に潜む反抗の鋒」のようなものを持っていた。そして、「いち」の「最後の一句」のような曖昧な、意味不明な「反抗」をくすぶらせていた。反抗の意志を持ち、しかし、その反抗の意志を明確に示さず、明確にも持たないことが官僚として生き抜くための鴎外的方法であった。
 「いち」の冷たい覚悟は、この官僚的な処世術の産物である。「いち」の意味不明の、空虚な、具体的な内容を持たないが故に却って強固に見える意志の形式には冷たい官僚が持つ別の側面がある。
 はっきりした主張のない形式的な決意の不気味さには、堅固さや頑さと共に特有の柔軟性と自由が備わっている。「いち」の決意は根拠を持たず突然に出てきた。具体的な人間関係や、そこで生まれる感情や判断の連続によって形成された豊かな内容を持つ決意ではない。孤立的な、「いち」だけに生まれる、他人とのつながりを持たない決意である。死を覚悟しているという以上には意志の内容を持たないから、「最後の一句」が「お上」に対する「いち」のどんな意志を表しているのかわからない。それは意味不明であるにもかかわらず冷静に言われている為に不気味さを持つが、他方では、何をいいたいのかわからない、という、何をしたいというのでもなかろう、という、何かする意志があるのでもなかろうという、逆の予測もできる。単なる厭味や思わせぶりであろうとも考えられる。それがはっきりしないのは、鴎外がはっきりさせないからであるし、はっきりさせる能力を持たず、意味のある言葉を創造できず意味を示唆することしかできなくなっているからである。
 「いち」のこの意志の堅固さは、鴎外に特有の臆病さ、妥協的な自己保身の特徴でもある。「いち」は自分の意思を明確に示さない。意志の内容を出さずに意志の強さだけを表に出している。言い換えれば意志の強さの表明によって意志の内容あるいは無内容を覆い隠している。「舞姫」であろうと、「最後の一句」であろうと、自分の意志を隠し、意志を明確に持たずにいれば、相手の出方によって、状況によって、その言葉の内容をどの様にでも作り出すことが出来る。意志の強さを見せつけながら意志の内容を見せず、常に退く事も進む事もできる状態に身をおいて、どんな状況でも自分の責任を明らかにしない方法を見いだし、うまく切り抜けていこうとする生活の知恵がこうした特殊な形式の意志の強さを生み出した。意志の形式的な強さだけを表にだし、冷たく、冷静に、黙り込んでおれば、状況が変化し意志の内容が変化しても、常に意志の強さを維持し、自分は最初から最後まで、変わることのない自己であったと自己自身においても確信することが出来るし、他人に対して本気でそのように主張することが出来る。自他を偽ることこそ本来の偽善である。自分の意志を現実との対立によって押し通すのではなく、意志を隠し、結果を自分の意思として主張できるのが形式的な意志の強さの、冷酷そうな不気味さの秘密である。意志の強さは徹底した用心深さと徹底した妥協的な精神であり、それがこの「最後の一句」に集約されている。
 意志の形式としては、正直で、端的で、純粋で、自己をまっすぐに、冷静に、冷やかに貫き通しているかに見える。しかし、実際は意志は内容を持たず、したがって内容を表に出さず、対立を避け、状況をさぐりつつ、成り行きに逆らわず、安全を第一に現実に対処しながら、しかも、誰にも頼らず、自分の内面から出てくる、純粋な意志だけに従い、感情によっても利害によっても動かされない、強固な自己を持っている、という、まったくの二重性に貫かれている。目先の利害を得る為の戦略的な自己である。どんな状況でも恥をおそれ、身を汚すことなく、自己を守り、常に身を引く覚悟で利益を確保する、臆病で粘り強い精神である。こうした無内容で臆病な精神と現実との関係は、具体的な対立的関係を形成できない。衝突を回避した意志の強さである。だから、意志の内容を隠し秘めている素振りを追求し、誰にも理解されないことを以て自分の高さの証とし、理解されるのではなく、驚きあきれられることが現実に対する威力になる。
 「灰塵」では、気味の悪い意志は目的を達した。それは相手が弱かったからである。「いち」の「最後の一句」は「お上」に対する言葉である。だから、それは意味不明な印象を与えただけである。鴎外としては、内に蔵しているものがあると示唆すると同時に、その言葉がお上の決定に何の影響も及ぼさなかったこと、つまりお上に対して「反抗」の意志を持たなかったを描くことも鴎外にとって重要であった。「いち」の強い意志は意味不明であったとしても、少なくとも「お上」に対する「反抗」の意味を持つものでないことは、どうしてもはっきりさせておかねばならなかった。だから「いちの願意は期せずして貫徹した」、と大嘗祭の恩赦によって父親は死罪を免れたことになっている。「いち」の強い意志は役人に意味不明な強い印象を与えた。そして、偶然にも大嘗祭の恩赦によってその不可思議な意志は貫徹された。意地は現実と関わる内容を持つものではなかった。結果は偶然である。だから結局「いち」の意志の力はまったく描かれていないし、描きようもないのである。
 子供が親の死を悲しみ、自分の命に代えてもと健気な決意をすることや、妻が夫の死を嘆き苦しみ、その悲しみや苦しみや健気さを不憫に思って死罪を免れる、とする場合にはお涙頂戴式の通俗小説になることもある。子供や妻の意志が社会に受け入れられるにはその意志の強さだけではたりず、まして意志の強さをほのめかすだけでは足りず、その意志を貫く情熱や智恵が必要であるし、その意志を貫かせる社会のメカニズムも描写されねばならない。親子の情や健気さが社会関係を歪めるなら通俗小説になる。しかし、だからといって、情のない、冷たい意志が通俗的でなくなるわけではない。
 鴎外の作品には温かい感情がない。それは感情を押し殺すものである。だから、通俗的な甘い作り物として、軽く扱うことができない。感情を経由しない意志の強さは残酷であるし、こうした思想は多くの感情を、個性を殺すものである。現実の社会の情勢にかかわりを持てず、あるいは、情勢とまったく相反するがために、主観的な覚悟だけを強調し、しかも、その覚悟の内容示さず、示す事も出来ず、示す必要を感じる事もなく、ただ、なにをやるかわからない、「末恐ろしい」という印象を与えるのが鴎外の意地である。こうした意志を持つ人間が、現実的な力を持っている場合は実質的な害をもたらすために不気味で冷酷である。鴎外の思想は、強い意志の名のもとに人間的な感情を押しつぶし破滅させることを肯定している。そしてこの思想が実際に多くの人間を破滅させてきたのである。
 意志の強さを感情の欠如として示すのは鴎外の特徴であって、意志の強さの一般的な特徴ではない。複雑で深い精神と感情を持ち、その合力として意志が形成され、しかも統一される場合にのみ現実的で実質的な強い意志が形成される。そして、鴎外の思っているように、強く正しい意志であることは、それが現実にそのまま貫徹し、個人の勝利をもたらすことによって証明されるのではない。高度の内容を持ち、それ故に強い意志を持つ場合は、現実との衝突もはげしく、したがって悲劇的で、個人の破滅をもたらすことが常であり、現実の運動に翻弄される事が高度の精神と歴史的必然的の関係である。「いち」に示される鴎外の強い意志は、自己を守る保身的な意志として異常な強さをもつ特殊な意志である。それは明確に意志を表明せず、あくまで自己を信じて自己を守る事に専心しており、現実との対決を回避しているために、自己の現状を守ることにおいては、どんな歴史的な自我にもまして強い自我といえるであろう。
 しかし、理性の狡智は鴎外の智恵より大きい。鴎外の自己保身も現実に翻弄され、現実と特有の衝突を引き起こす。狭い自己に執着して現実との衝突を回避することはこのうえなく強固な頑迷さを作り出し、それは精神の枯渇をもたらし、自分の死を省みないという空虚な覚悟を精神の内容とするにいたる。これも個人的な破滅でなくてなんであろう。歴史的な偉大な精神は、独創的であるが故に常に自己の精神に執着しそのために強固な意志を持ち、自己の勝利を確信し、自己の勝利をのみ目的としながら、実際は自己の破滅をも省みず突き進む。これが歴史的な情熱のあり方である。鴎外は、自己のすべてをなげうつ覚悟によって、つまり死の覚悟を示す事によって、現実的な衝突を回避し、目の前の利益を得ようとする。精神のあり方は多様で、破滅が自己の貫徹である事もあるし、自己保身が破滅であることもある。重要なのはその意志の社会的内容である。この時期の鴎外の作品に描かれた、死を賭してという覚悟は、死しか賭けるものがないという精神の枯渇を示しており、覚悟の内容は対立を回避して自己に閉じこもることを意味している。

 

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