『杯』 (明治43年1月) 

  温泉宿から皷が滝へ登って行く途中に、清冽な泉が湧き出ている。
 水は井桁の上に凸面をなして、盛り上げたようになって、余ったのは四方へ流れ落ちるのである。
 青い美しい苔が井桁の外を掩うている。
 夏の朝である。
 泉を繞る木々の梢には、今まで立ち籠めていた靄が、まだちぎれちぎれになって残っている。
 万斛の玉を転ばすような音をさせて流れている谷川に沿うて登る小道を、温泉宿の方から数人の人が登って来るらしい。
 賑やかに話しながら近づいて来る。
 小鳥が群がって囀るような声である。
 皆子供に違ない。女の子に違ない。
「清冽な泉」、「万斛の玉を転ばすやうな音」といった俗な装飾的表現や余韻を残す短い文章、単純な文章の思わせぶりなリフレインなどがこの作品の内容を物語っている。これほどに俗な文体は徹底して俗な内容にふさわしい。個人的な対立における自己弁護には鴎外の冷酷で意地の悪い精神が表にでていたが、自分の精神の一般的肯定を目的とする場合にこうした甘ったるい、焦点のはっきりしない、曖昧な表現をする。こうして何かを暗示しながら何もない、薄気味の悪い精神が形成されていく。
 鴎外は、こういう甘ったるくて滑稽な文章によって、若々しく、美しく、幸福で、苦労を知らない、素朴に自己を信じている精神を描いている。しかし、この無内容で形式的な描写には、二重性が透けて見える。若さは未熟であり、純粋さは無知であり、幸福は労苦を知らないのであり、自己確信は自惚れでもある。鴎外は、肯定とも否定ともとれる空虚な描写を必要としている。
 この空虚なロマン主義的精神は第八の娘との対比を予定しており、この両者の対立関係が鴎外の精神の全体である。この若々しい精神も、この精神と直接対立する第八の精神も、単純で俗である。鴎外はまず両方を美しいものとして描いている。
 日が丁度一ぱいに差して来て、七つの杯はいよいよ耀く。七条の銀の蛇が泉を繞って奔る。
 銀の杯はお揃で、どれにも二字の銘がある。
 それは自然の二字である。
 妙な字体で書いてある。何か拠があって書いたものか。それとも独創の文字か。

 読んでいて恥ずかしくなるような、わざとらしい素朴ぶった会話の後で、突然こうした甘ったるいながらも直接的に厭味な文章がでてくる。それは第八の娘の登場の前触れである。

 琥珀のような顔から、サントオレアの花のような青い目が覗いている。永遠の驚を以て自然を覗いている。
 唇だけがほのかに赤い。
 黒の縁を取った鼠色の洋服を着ている。
 東洋で生れた西洋人の子か。それとも相の子か。
 第八の娘は外見は地味である、しかし「永遠の驚を以て自然を覗いている」ほどに、他の娘と違った深い精神を持っている。「永遠の驚き」というのは分かりにくいが、とにかく優れているというほどの意味である。途切れなく驚きつづけるということではない。奥深い精神をこれほどに軽薄に表現するのが鴎外らしさである。「西洋人の子か」、というのは、西洋の精神を豊富に持っているということで、端的に言えば洋行して、外国語の書物を沢山読んでいるということである。これは鴎外の明らかな実績であるからなくてはすまされない。しかし、洋行帰りは明治も末になると、官僚世界ではともかく、文学や思想の世界で幅を利かせることはなくなっている。露骨に威張れる話ではない。
 第八の娘は、藍染の湯帷子の袖と袖との間をわけて、井桁の傍に進み寄った。
 七人の娘は、この時始てこの平和の破壊者のあるのを知った。
 そしてその琥珀いろの手に持っている、黒ずんだ、小さい杯を見た。
 思い掛けない事である。
 七つの濃い紅の唇は開いたままで詞がない。
 蝉はじいじいと鳴いている。
 こうした内容は寓意でないと書けない。第八の娘が、「平和の破壊者」であり、「思い掛けない事である」という強い印象を与えるには、現実には独創性を発揮しなければならない。黙って登場して、永遠の驚きを顔色で示して、地味な杯で水を汲むだけで「平和の破壊者」であると言えるのは、馬鹿馬鹿しい程に空虚でロマンチックな空想の世界だからである。現実にはこんなお高くとまった精神が破壊者であることはない。
 一人の娘がようようの事でこう云った。
「お前さんも飲むの」
 声は訝に少しの嗔を帯びていた。
 第八の娘は黙って頷いた。
 今一人の娘がこう云った。
「お前さんの杯は妙な杯ね。一寸拝見」
 声は訝に少しの侮を帯びていた。
 これは空想の世界に忍び込んだ俗世で、これだけは寓意的象徴的表現ですますわけにいかない。美的な描写はこの刺を覆い隠すための空想であるから、これが肝心で、この種の非難、罵倒がこの後に続いている。つまり第八の娘である鴎外は文壇でこんなことを言われているということである。
 七つの喉から銀の鈴を振るような笑声が出た。
 第八の娘は両臂を自然の重みで垂れて、サントオレアの花のような目は只じいっと空を見ている。
 これは鴎外のいつものやり方である。まず自分が不当に非難されていると解釈し、そうであると宣言する。そして具体的に反論せずに、「じいつと空を見ている」。私は何を言われても自分の正しさを信じているから我慢している、反論してあなた方と同じ泥にまみれたくない、といいたい。相手に非難がましい精神を押しつけて、下らない誹謗中傷的な解釈を押しつけておいて、それから「じいつと空をみている」。お前たちは無知で無能である、と宣言してそれから黙ってしまう。反論する事ができないからこういう方法を採る。鴎外は自分が優位にあって、反論が可能な場合は、それが無茶であろうと無理であろうと、強引であろうと、やりすぎであろうと思いつく限りはやってきた。しかし、できないし、やらないほうがいいとなると黙ってしまって、その黙りかたが永遠の精神に基づくかのように表現することに努力を傾ける。私は私だ、というが、その私がどのようであるかの積極的な説明、主張をせずに「セミがじいじい鳴いている」ととぼけてみせる。無言でいるのではなく、私は無言でいる、と主張する、独自性を示すのではなく、私は独自だと主張する。平気でないから、私は平気だと宣言する。
 鴎外の42年の私小説的な暴露小説の評判はよくなかった。自分の作品が罵倒され嘲笑されていると解釈し、その不当な解釈に堪えているというのが鴎外の反論である。自分が理解されないのは分かっている、しかし、自分は理解を求めようと思わない、反論せずに静に理解を待つ、しかし、本当に優れているのは自分だという意味である。しかし、こうした自己肯定が、私小説な暴露小説より遥かに深刻に自己を暴露していることを鴎外は理解できなかった。
 「あたいのを借そうかしら」
 愍の声である。
 そして自然の銘のある、耀く銀の、大きな杯を、第八の娘の前に出した。
 第八の娘の、今まで結んでいた唇が、この時始て開かれた。
 MON. VERRE. N'EST. PAS. GRAND. MAIS. JE. BOIS. DANS. MON. VERRE
 沈んだ、しかも鋭い声であった。
「わたくしの杯は大きくはございません。それでもわたくしはわたくしの杯で戴きます」と云ったのである。
 七人の娘は可哀らしい、黒い瞳で顔を見合った。
 言語が通ぜないのである。
 第八の娘の両臂は自然の重みで垂れている。
 言語は通ぜないでも好い。
 第八の娘の態度は第八の娘の意志を表白して、誤解すべき余地を留めない。
 一人の娘は銀の杯を引っ込めた。
 自然の銘のある、耀く銀の、大きな杯を引っ込めた。
 今一人の娘は黒い杯を返した。
 火の坑から湧き出た熔巌の冷めたような色をした、黒ずんだ、小さい杯を返した。
 第八の娘は徐かに数滴の泉を汲んで、ほのかに赤い唇を潤した。
 哀れみは受けない、私は私です、と山の中で、フランス語で「沈んだ、しかも鋭い声」で言うとはあまりにも惨めである。鴎外は孤高の形式を取ろうとするが、優れた主張をするのではなく、優れていると思わせようとするだけであるから、どんなに工夫して美しそう描いても主張はひねくれているし、抑え難い負けじ魂が表に出ている。我が道を行くのは当然にしても、我が道をいくのをわざわざ触れて廻るようではどんな表現の努力をしても負け惜しみになる。それをフランス語で言うのが鴎外らしい悲しさである。
 鴎外は自分の作品の評判を非常に気にしている。自分の立場の弱さを肌で感じ取り、自分は決して敗北したのではなく、流行の自然主義とは違った永遠性のある精神を持っているし、それを実現してみせると真実思っていたのであろう。その意地を作品にするところは見苦しい性格でもあるが、鴎外なりの決意の表明である。それが寓意的な形式になるところに鴎外の精神の空虚さがある。対立すべき具体的な精神を持たなかったために思わせぶりな表現を取る以外になく、そのために猫撫で式のあまったるい文体になっている。
 批評がこんな作品の文体を褒め、反自然主義の内容を見るのは滑稽である。鴎外は時代後れになったことを感じ取り、自然主義と違った独自の道を進むと宣言しているだけであって、反自然主義の作品を描いているのではない。反自然主義の主張を直接的な内容とした、小説として形をなさない作品である。我が道をいくのだ、と主張するのは、少なくともまだ我が道を進んでいないのであろうし、世間が我が道を行っていると思っていないと鴎外が思っているからであろう。つまりは我が道を行っているには違いないが、その我が道が一般的な意義を持つ独創的な道ではなく、孤立した、顧みられない、自分勝手な我が道であると思われているために、そうではなく独自なのだ、理解しない方が悪いのだと、寓意的に曖昧に、しかし意志だけは露骨に主張しているのである。

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