7.三四郎
 漱石は金田や赤シャツや権力者一般との分離を掲げ、その結果貧しさとともに偏屈や滑稽や煮え切らない等々の小市民社会における否定的な性格を獲得した。これらの特徴を、金や権力者との非妥協性を貫徹することにおいて特有の形態で克服した結果、これまでの努力を内包した内容豊かな力強い精神が開花する。平凡で消耗的に見えるこれまでの努力の結果現実的精神を獲得し、一般に読まれるに値する作品となったのが『三四郎』である。『三四郎』以降の作品が芸術的価値を持つことの意味を理論的に理解することは非常に困難であるが、例えば似た設定にありながら漱石のこれまでの過程を経由することのなかった鴎外の『青年』と比較すれば違いは明らかである。
 どのようなインテリにもブルジョア社会における不安定な地位の矛盾は反映する。漱石と鴎外の違いはその矛盾を下層に向かうことで解決するか、上昇することで解決するか、にある。上流に対して自分が非常に高い価値を持つことを主張し、あるいは想定する鴎外の精神は客観的にはブルジョア的出世に食い下がろうとする、上流の仲間に入ろうとする小市民的欲望である。
 漱石の場合、金持ちや権力者に対する依存を拒否する真摯な、外的には子ども染みて見える決意によって、その決意が現実には無意味であることの認識が獲得される。漱石が当為として掲げた分離は自然的な過程であること、さらにそれはもともと分離しており現実には一致はないこと、これまではあったとする幻想を否定する努力をしていたのだということの理解にまで到達する。これまでの作品の内容は漱石自身のの幻想、誤解、無知との戦いであったことを知るのがこれまでの作品の課題であった。この自覚において初めてインテリは小市民的な偏見、幻想からの思想的な自由を獲得する。
 『青年』の純一はこのような変遷をたどらない。家が金持ちで語学ができて美しい目をしていることですべての美しい女に気に入られるという純一の特徴が能力の証であるかのように描写されている。客観的にはこのような特徴は無能の証明である。常に自分に対する他人の評価を気にしていることにおいて独自の課題を持たないことを証明している。実際はこの無能において信頼関係を失い、人間関係が崩壊する。この否定的特徴は危機の時代には自覚を強制される。出世を求める人が人間関係を失ったことに気がつくのは出世の可能性がなくなったときである。それまでは出世が新しい、より高度の人間関係の形成過程であるように思われる。だれもが自分の能力を認め、羨み、関係を求めているが自分はそこから抜け出して、より高級な社会に入ろうとしていると幻想する。しかし実際はわずかの金と地位と引き換えにすべての人間関係を破壊するのであり、それに気がつくのは人間関係にの崩壊が悲惨な現実的結果を引き起し、取りかえしがつかなくなったときである。
 漱石の人物も同じエリート的な地位の必然として人間関係の崩壊の道をたどる。漱石の場合自分の必然が人間関係の破壊であることを認識することで、いっそう人間関係の崩壊を促進するが、それはこの限界内での信頼関係の形成過程でもある。それがこの階級における信頼関係の唯一の形成過程であることを漱石は発見する。自己の没落の必然性を認識する悲劇的な人生においては信頼関係の崩壊の頂点が信頼関係の形成頂点と一致していることが『こころ』には感動的な形式で描かれている。どこまでも自己肯定に固執する鴎外においては信頼関係の形成は決してありえない。
 作品の描写上の違いはさらに決定的に違っている。鴎外の作品は自然主義的な描写を抜け出すことができない。それはこの分離を認識できないからである。鴎外は人物を社会的に規定することができない。資本主義社会においてこの階級的分離過程を受け入れないかぎりどんな作家にも人物を社会的に描写することはできない。自然主義とリアリズムの違いはここにある。鴎外の小説にも作品系列全体にも展開の発展は生じないのは鴎外が小市民の主観の世界という狭い限界を越えないからである。漱石はこの作品から小市民の主観性の限界を抜け出し小市民の主観の二重性を客観的な必然性の規定のもとに描く方法を『三四郎』から確立している。それがどのような目ざましい成果をあげるのかはこれからの作品分析で明らかになる。漱石はこの作品から自分が何を描写しているかを明確に意識しており、各作品の冒頭にそれまでの作品の総括を描写している。このような自己意識がさらに作品内容を豊富にし発展を促進している。

 「手間は此空気のうちに是等の人間を放す丈である、あとは人間が勝手に泳いで、自ら波瀾が出来るだらうと思ふ」という漱石の予告は漱石の精神が道義の束縛から解放され、小説中の人物を道義から解き放ったことの宣言である。道徳性や趣味性等のインテリ精神が人物の価値基準になっていた『虞美人草』までの作品と違ってこの作品からは現実との関係が価値基準になる。人物を規定する方法が本質的に転換するとともに装飾的で形式的な文章が消えている。
 『三四郎』では田舎と都会の分離は必然性として承認され、都会は矛盾に満ちたままの姿で客観的現実として前提され受け入れられている。都会を自分の精神から独立した未知の世界とする三四郎の無知や素朴にはこれまでのインテリ的偏見を解消した高度の精神が対象化されている。
 この作品で初めて使われる「現実」という概念の第一の内容が汽車で会った女や爺さんの世界である。女の積極性に気後れする三四郎の精神は『草枕』の画工よりはるかに現実的である。女が風呂に入ってくる場面は那美さんと画工の関係を超えた力強い精神の誕生を示している。一瞬で身を翻す那美さんと違って、「ちいと流しませうか」というこの女は三四郎の臆病を否定し、三四郎の精神の発展を促している。狭苦しい人間関係を大胆で端的な関係と考えていた『草枕』の幻想はこの「ちいと流しませうか」の一言で破壊される。三四郎にはこの女の積極性に気後れする自分を臆病と感じる現実的な自己認識がある。自分を臆病と自覚する三四郎はそれを自覚できない画工よりはるかに高度の現実的精神である。
 宿で一夜を過ごした後の「あなたは余つ程度胸のない方ですね」という女の言葉はこれまでのすべてのインテリ的登場人物の自惚れを破壊する、漱石の新しい思想的出発点である。漱石はこれまでに描かれたインテリ的精神と現実社会との関係を度胸という言葉で特徴づけている。度胸がないという規定はこれまでの登場人物のすべての特徴づけを契機に貶める本質的規定である。
 エリートの世界の孤立性をはっきり意識した漱石は、エリート世界内部にもエリート世界と女や爺さんの対立を反映した対立を導入して広田を描いている。広田は出世コースを歩かないエリートである。日露戦争後の日本を「亡びる」と評価する広田の言葉は三四郎のエリート的楽観と対立している。これまでのすべての作品には日本の社会的な発展を自分の価値観によって指導できると考えるエリートの幻想があった。広田は日本の発展にエリートとして参画し出世することに幻想を持たない。日本を一等国と評価するのは日本の発展の中で出世による果実を得ることで満足し、文明化の矛盾を認識する必要のないエリート的価値観である。広田はその現実に対してどのように働きかけるべきかを認識できないこと、それが遠い課題であることを自覚している。現実と自分の距離の大きさを認識したことが広田の呑気さと余裕である。
 野々宮や広田の活動は現実と直接関係してない。現実との本質的な一致のために現象と分離し現象世界の背後に沈み込むことが学問的精神である。現実社会がインテリ精神と独立して発展していることが現象として明らかになると、インテリ精神が現実社会と一致するためには現実の激烈な活動を背後で規定する必然性を認識する必要が生ずる。必然性の研究を前提しない道徳性や趣味性を啓蒙するのは理想家や偽善家である。ここで繰り返される「現実世界」という言葉はインテリ精神による社会発展の規定から、社会的必然性によるインテリ精神の規定への社会認識のコペルニクス的転回を意味する内容豊かな概念である。
 自殺した女に対する同情的、直接的関心は三四郎の自己満足であり女にとって実質的な意味を持たない。自分と女の階級的な分離を理解できない三四郎は、現象的な直接的関心を超えた本質的一致のための努力をしている広田や野々宮の研究や関心を傍観者的態度と否定的に評価している。女の轢死という現象と広田の研究、妹の病気と野々宮の研究は直接的連関を持たない。しかし広田・野々宮は都会の人物としてすでに多くの悲惨な現象を経験し、現象に対する個別的同情の無意義を経験的に理解して、現象を本質的に理解しようとする高度の精神を持っている。轢死を見て無残と思い、広田を見て無事と思うのが無知な傍観者的批評である。悲惨な現象に同情を感じることを善とした『虞美人草』までの精神は現象の本質の認識を課題としない独善であり自己満足であった。善意の表明に満足せず、対象の具体的内容を理解するという困難な無限的課題の入口にいる広田と野々宮は同情の段階にある三四郎との対立において肯定されている。三四郎の批判的精神が軽薄であることは、彼が切実と言いながらすぐにとりとめのない空想に移行することで示されている。
 三四郎は自分に与えられた世界を三つに分けている。この分け方と評価にはこれまでの作品と違った現実認識が反映している。
 三四郎は田舎から抜け出しつつある。三四郎と田舎のお光さんの間には『虞美人草』の小野と小夜子に想定された喜劇は存在し得ない。都市と田舎の分離は前提され、初期作品にあった田舎への幻想は廃棄されている。
 第二は書物の世界である。インテリ世界を他の階級から明確に区別された特殊な世界とすることは漱石の社会認識にとって決定的な意義を持っている。
 第三は美禰子の世界である。初期作品ではこの世界にインテリが入れるというエリート的な偏見のもとに、この世界に入ることを批判していた。三四郎にとって研究世界も美禰子の現実世界もそれぞれの魅力を持っている。しかしその世界は自由に選択できるものではない。三四郎の運命も階級的に規定されている。
 美禰子に対する憧れは美禰子の世界に近づくことができるという三四郎の未来に対する幻想である。すでに確定された人生を歩いている広田・野々宮には美禰子に対する幻想は生まれない。三四郎と美禰子は深まる可能性のない関係の中で互いに関心を持っている点では画工と那美さんの関係と同じである。逆に言えば画工の那美さんに対する臆病な関心の社会的な本質は階級的な分離であることが明らかにされている。
 引っ越しの場面で漱石は三四郎と美禰子の関係が進展しそうで決して進展しないことを繰り返し描いている。三四郎と美禰子の希薄な関係を表す「PITYS AKINTO LOVE」はマドンナ、那美さん、藤尾、美禰子とインテリ精神の関係を本質的に総括した言葉である。「可哀想だた惚れたつて事よ」という与次郎の軽妙な訳語は美禰子のような美しさを描くのに堪能な漱石がすでにこの美しさから自由になったことを示している。マドンナと赤シャツの関係に矛盾や悲劇を想定するのはマドンナや美禰子に惚れたこと、つまりマドンナとの未分離を意味している。美禰子の美しさは彼女と同じ階級の人物にふさわしい美しさであり、三四郎や広田のような人生に結びつくことが不合理である。美禰子の美しさに魅力も哀れも感じない与次郎、広田、野々宮はすでにこの言葉の内容にすら関心を示さず、もっぱら訳し方に関心を持っている。
 漱石はこの作品で初期作品にあった単純なカテゴリーを羅列的に並べて新たに位置づけている。初期作品では現象形態での対立したカテゴリーの一方を真理としていた。この作品ではすべての現象形態は本質と対立する現象形態として相互作用の観点から並列的に扱われている。ここで描写されているのは感情と理性、人情と研究の対立、研究と実践、準備の必要と実践の度胸の対立である。これについてはここでは説明しない。『虞美人草』で問題になっていた同情の問題についてだけ触れておこう。
 同情の問題は哀願している乞食に誰も金をやらなかった事を契機に独立的に取り上げられている。
 「遣る気にならない」というよし子の都会的な常識的感覚は三四郎にとって新鮮な感覚とされ、その意味が問われている。野々宮はよし子の心理を非難するのではなく分析しようとしている。『虞美人草』までは同情のないことが非難されていた。広田と野々宮は現実の現象を承認し、その社会的意義を認識しようとしている。この「何故」という疑問の形式は概念的ではないが、道徳的批判意識を克服した社会認識の始まりという意義を持っている。
 美禰子はこの感情の原因を乞食の悪い意図や技巧つまり主観の形態に求める。乞食は社会現象として理解されず、乞食自体の責任が問われる。美禰子の同情の対象になるにはもっと哀れにならねばならない。美禰子は主観の現象形態を因果関係の形式に構成することでこの現象を認識したつもりでいる。初期作品と違って美禰子は派手とか形式的な洗練等々の上流の現象的特徴においてではなく、認識能力の階級的限界によって特徴づけられている。
 広田と野々宮は主観の形態を離れ、客観的条件の分析に移行している。乞食の主観の形態から離れ、場所という客観的な条件を根拠とする広田の説明が十分でないことは野々宮の指摘からも明らかである。しかし社会現象を客観的に認識することを課題にすることにおいて美禰子と対立している。
 この問題はさらに迷子に対する心理と対応の方法で検討されている。「子供は凡ての人の注意と同情を惹きつゝ、しきりに泣き号んで御婆さんを探してゐる。不可思議の現象である」この現象を不可思議とするのは高度の精神である。同情を善として掲げる道徳的意識にはこの不可思議の感覚はない。同情を掲げる当為から不可思議の感覚への移行は認識への関心の移行である。都会の大量の乞食や迷子を視野に置けば、この現象を悪とし助けるべきだという当為を掲げるのは自分の善意を示すだけの無責任な自己満足であることがわかる。個別的援助に満足することは一般的現象に対する無批判性であり、個別に対する対応も非本質的で偽善的になる。野々宮は広田の視点を転用して「これも場所が悪い所為ぢやないか」と言い、広田は「今に巡査が始末をつけるに極つてゐるから、みんな責任を逃れるんだね」と説明している。
 巡査が始末をつけるから、というのは正しい。しかし責任を逃れるという説明は正しくない。巡査が始末をつけるのが都会の解決の仕方である。責任のとり方というのは個人的解決を前提にした表現であるが、社会問題の社会的解決が実際は問題になっている。迷子や乞食といった社会問題を個人の善意で個別的に解決することはできない。資本主義的矛盾の発展に伴って個人的責任の範囲が量的に拡大するのではなく、責任のとり方が質的に変化し、社会的責任、社会政策が登場する。その場合個人的責任の形式で言えば、社会的政策を発見し実現するための社会的責任が生まれる。したがってこの社会的責任のとり方と道義的責任のとり方が対置されるか、責任がもっぱら個別的道義の形で語られる場合は、社会的責任の放棄、隠蔽になる。社会問題を社会的に解決するための方策を発見し現実化する困難な課題が一般化していない日本では社会問題が個別的善意と個別的破滅の中に放置される。認識が遅れ偽善がはびこる。社会政策は階級社会では階級的利害に関わる問題であり、同情の延長の社会的実践として社会政策があるわけではなく両者は対立している。
 資本主義的関係の発展した都会では人間関係の本質としての社会的関係が明確になる。個人と個人が相対的に直接的関係にある田舎では、個別的で直接的な人情と責任が資本主義的に整理されることなく歪んだ形式で残っている。田舎の関係を経験も理解もせずに、都会の矛盾からの逃避場所としてのみ田舎に憧れている都会人だけが遅れた人間関係を人情が厚い等と外的に評価する。現実には都会での人間関係とそこで形成される社会的責任感はより発展した合理的関係であり精神である。社会的保障を実現するための闘争は社会的発展の促進であり、社会的活動という一般性を媒介に関係する場合には、利益を与える場合も受ける場合も『野分』や『虞美人草』に描かれた歪みが生じない。この社会的関係が発展している場合は個別的関係もその精神の一部分になり、道義の持つ従属や優位の確認の側面が消えていく。この意味で同情や恩義という道義的感情が薄れていくのが人間関係の合理化、高度化である。広田・野々宮の結論が如何に短絡的でも彼らの観点から見れば甲野や宗近はすでに幼稚である。
 競技会の場面では野々宮に対する美禰子の認識の誤りと、それによって美禰子と三四郎の分離が促進される過程が描かれている。
 『野分』の道也の価値観が美禰子に受け継がれている。道也の禁欲的精神は形式上では華やかな美禰子の精神と対立するが認識レベルでは一致する。美禰子は野々宮の世界的名声と簡素な生活を形式的に評価している。広田・野々宮には自分に対する美禰子のこのような評価に関心がない。三四郎は野々宮と美禰子の対立関係を理解できず、学問的実力を持つ者が美禰子に近いと感じている。現実には広田・野々宮の学問的実力は美禰子との距離の大きさに比例する。三四郎は野々宮の評価をきっかけに自分に実力がないことと、美禰子との距離の大きさを理解する。現実的実績が問題になると無力な憧れは破壊される。
 (九)から美禰子と三四郎の分離の描写が始まる。三四郎の意識は野々宮・広田、よし子、田舎の生活を再認識することによって美禰子と分離されていく。三四郎自身は分離を明確には自覚せず、彼の積極的働きかけによって分離するわけでもない。三四郎と美禰子の関係は積極的意志も活動もなしに認識の進展とともに自然に解消する。
 三四郎は美禰子に金を返しに行く前に全員に会い、自分の生活と対比することで自己認識を得る。原口の家にいるという美禰子に会いに行く途中彼は病気だという広田を見舞って最後の対比を経験している。漱石にとって広田との対比がもっとも重要である。
 野々宮は穴蔵で研究することで世界と関係をもっており、広田は貧乏教師の世界に人間関係を持っている。インフレを問題にする汽車の女や爺さんや広田やその友人の生活には美禰子を相手にダチョウのボーアがどうとかいう会話はあり得ない。汽車の女や野々宮や広田と友人の貧しい教師の生活の前では三四郎と美禰子の関係はまったく馬鹿げている。
 美禰子の苦悶は三四郎の想定である。この苦悶を除く方法は美禰子に近づくことではなく退くことである。美禰子から分離すれば美禰子を美しい享楽のなかに生きる女性として客観的に、冷静に見ることができる。この段階では全体として美禰子との分離は当為として掲げられている。美禰子から退くことは現実には非常に困難な課題であり、多くの媒介項を経由しなければならない。それは漱石のこれ以後の作品すべての展開によって明らかにされる。
 美禰子は野々宮や広田や三四郎と関係のない世界に生きる運命にある。まだ自分の人生を確定できない三四郎にはそれが理解できなかった。人生が未確定であることによって初めて生じた三四郎と美禰子の関係は時間の経過だけであっけなく終わる。広田を大学教授にするという与次郎の策動も策動の内容にふさわしく下らない結果に終わった。三四郎と美禰子の関係が解消すると同時に三四郎と広田の距離も明らかになる。広田と三四郎の主な関係は、三四郎が美禰子に関心を持ち、広田が持たないという対立にあった。美禰子を媒介にした三四郎と広田の関係が消えると、彼らもまたレベルの違った世界に生きていることが表面化する。美禰子との分離によってここには再びペーソスと孤独な決意が現れる。
 演芸会の賑やかさと対比された広田の覚悟は道也の覚悟より堅固であり、悲壮感を解消している。新しい方法の確信に基づく覚悟の未来には道也の場合と違って無限の精神世界が広がっている。この出発点の意識の正しさは次の作品からの具体的描写によって証明されている。
 美禰子の結婚が決まった後も美禰子の言葉に謎や深い意味や愛等々の内容が含まれていると感じる精神は現象的な認識の限界を越えることはできない。美禰子は三四郎との関係や結婚に関わりなくこうした曖昧な言葉を口にする曖昧な精神を持った女性である。曖昧さが本質であって、そこに深い意味や隠された意味はない。しかし美禰子の言葉の無意味さはそれ自体の観察によっては理解されない。美禰子の言葉の空虚さを理解するには、美禰子の世界から離れた、対立的な世界でのみ形成される具体的精神を獲得していなければならない。それが美禰子を理解する場合の困難である。広田・野々宮はまだその具体的精神を体現しておらず、美禰子との分離が先行している。分離は始まったばかりでありしたがってまだ分離していない状態にある。
 ラストの場面でも広田・野々宮は美禰子を描いた絵の内容に関心を持たず、絵の技巧だけに関心を持つことで美禰子の世界や精神と分離していることが強調されている。美禰子の世界はそれ自体においては無意味である。美禰子の世界は批判されることで価値があるかのような外見を持ち、同時に批判する者はそれが無価値だと批判することにおいて自分の価値を持ち得ると幻想する。この相互依存関係を断ち切るのが広田・野々宮の決意である。具体的な社会認識の獲得と、美禰子の世界からの分離過程は一致している。漱石の社会認識は汽車の女や爺さんの世界と分離した世界内部での美禰子の世界と広田・野々宮の世界の分離にまで具体化している。社会を認識するための階級的な分割が始まった時点にあるこの作品では美禰子も広田も抽象的であり、広田に決意が残るのと同等に美禰子に空虚さが残る。美禰子の精神を空虚とする精神はその具体相を知らないと言う意味で同じく空虚であり、この分離において双方が抽象的である。それがこの作品の抽象性であり、淡い印象を残す所以である。

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