「 三四郎」ノート (五) (六) (七)  (八)


 『三四郎』 (五)

 ■ 三四郎は蒲団を敷いた。門をはいってから、三四郎はまだ一言も口を開かない。この単純な少女はただ自分の思うとおりを三四郎に言うが、三四郎からは毫も返事を求めていないように思われる。三四郎は無邪気なる女王の前に出た心持ちがした。命を聞くだけである。お世辞を使う必要がない。一言でも先方の意を迎えるような事をいえば、急に卑しくなる、唖の奴隷のごとく、さきのいうがままにふるまっていれば愉快である。三四郎は子供のようなよし子から子供扱いにされながら、少しもわが自尊心を傷つけたとは感じえなかった。
 
 ■ 「なかなかうまい」と三四郎が絵をながめながら言う。
 「これが?」とよし子は少し驚いた。本当に驚いたのである。三四郎のようなわざとらしい調子は少しもなかった。
 三四郎はいまさら自分の言葉を冗談にすることもできず、またまじめにすることもできなくなった。どっちにしても、よし子から軽蔑されそうである。三四郎は絵をながめながら、腹の中で赤面した。

 漱石は、四迷や一葉の世界から見るとこそばゆくなるほどの単純な性格問題を真面目に描写している。漱石の生きている第二の世界では、単純で無邪気で余計なものがないよし子の精神が形成されにくい。消極的で非生産的な矛盾に満ちた第二の世界の理想としてこうした単純な精神が求められている。漱石が理想とする則天去私は、形式的にはこうした精神である。それがどんな社会的意味をもつのかは漱石にもまだわからない。経験的な現象としてわかっているのは、三四郎がよし子の前では自然でいられることである。藤尾や美禰子の前では人は自己本位ではいられず、どういう態度をとればいいのかわからない。彼女たちは彼女たちに合わせる必要を感じさせ、他人に気をつかわせる。しかし、よし子は、気をつかわせない。
 この性格論議は、現実社会を三つに分離した成果として、あれこれの女性や個人の性格の問題を超えた社会的な問題を含んでいる。この作品では性格は社会的な関係の現象形態として意識的に描写されている。よし子が三四郎に気をつかわせない事は、よし子の性格についての単純な規定ではない。三四郎は美禰子に対してだけでなく、汽車で乗り合わせた色の黒い女に対しても自然体になれない。三四郎は第三の世界の美禰子に対しても、第一の世界の色の黒い女の前に対しても自然体になれない。ふたつの世界に対するには度胸が必要である事と、その度胸がないことを実感させられている。三四郎と第一の世界、第三の世界には深い断絶がある。
 色の黒い女は他人に気をつかわせる性格として描かれているのではない。乗り合わせた爺さんは色の黒い女とすぐに懇意になっている。したがって、三四郎が美禰子に対して、あるいは甲野、小野が藤尾に対して自然体でいられないのは、少なくとも彼女たちの精神だけの特徴ではなく、彼女たちに対する三四郎や甲野、小野自身の精神の特徴であり、両者の関係による特徴である。第二の世界に入りつつある三四郎は、第一と第三の世界に対して気をつかう精神を持っており、第二の世界と他の世界との関係を代表した特別の個性である。というのは、与次郎は誰にも気をつかっていないからである。三四郎はよし子の性格がよし子の個人的な特徴であると考えているが、与次郎と美禰子との関係を対比的に描いている漱石は、三四郎の理解が、自他の関係を客観化できない一面的な理解であることをすでに意識している。
 漱石は藤尾を、他人に勝とうとする意識のある女として批判的に描いた。甲野はその性格を批判的に見ていたが、それと争うことは無益だと考えていた。それは、藤尾に対する批判意識の深化であり解消の過程であり、その批判意識を自己認識へと取り戻す過程である。藤尾の性格を自己と対比して勝とう勝とうの気持ちを持つ女として批判的対に対処せずにいられない自己を批判的に意識する過程である。藤尾に対する性格的批判を重要な価値観として持っていれば、藤尾の前で平気になることはできない。批判意識の強さは藤尾への拘泥の強さである。藤尾から分離して、自己自身において自然に生きることが漱石の求める精神である。しかし、批判意識を本質的な属性としている漱石にとって、それは与次郎のように批判意識をなくすことで得られる境地ではない。漱石は、よし子や与次郎によって形式的に自由で自然な精神を想定し、美禰子との分離を具体的に追求する過程で、この精神状態を社会的に形成すること、あるいはこの精神が形成されないことの必然を研究している。
 漱石は自分の経験する人間関係と理想とする人間関係をまだ分離できていない。よし子と美禰子はよく似ており、具体的な描き分けができておらず、説明的に描いている。しかし、第二の世界が相対化されたことによって、この世界内部での人間関係と精神の関係は『虞美人草』に比べて飛躍的に複雑になっている。甲野・宗近・糸子・小夜子を肯定し、藤尾と小野否定する単純な関係は解消されている。よし子は糸子や小夜子に比べるとより自由な個性であり、同時に美禰子も自由な個性として描かれた上で区別されている。漱石は、二人の個性の違いに、第二の世界と第三の世界の違いを描き込もうとしている。漱石はよし子と対比することで、美禰子が三四郎を受け入れる事のできない世界に住んでいる事を示そうとしている。よし子と美禰子の描き分けは、漱石が第三の世界と第二の世界を具体的に分離するための試みである。運命によって分ける前に精神において分離しようと努力している。よし子にわざとらしいところがないことの強調が、描き方としてはわざとらしくなっているにしても、それは漱石にとっては現実認識の深化の契機としてなくてはならない一段階である。
 
 このあと漱石は美禰子が第二の世界にいる事情を説明している。広田は野々宮の元の先生で、美禰子の兄が野々宮と同級生で、美禰子の上の兄が広田の友人であった。その上の兄は亡くなって、父も母もいない。こうした偶然の事情によって美禰子と広田や野々宮との関係ができている。そして、三四郎以外は美禰子との人間関係が、美禰子が結婚するまでの一時的な関係であることを理解している。三四郎はすでに確定しているこの分離を理解することができない。それは同時に、この分離の必然がまだはっきりつかめない漱石の精神状態でもある。「明暗」にいたって、こうした曖昧な人間関係と精神の関係は、吉川夫人、お延、お秀、清子等のはっきりした性格の描き分けに発展し、それぞれの個性はそれぞれの社会的な関係を反映した個性となっている。個性の描き分けは漱石の場合は、単に個性の描写ではなく、『三四郎』ではまだ抽象的ではあるものの、第一、第二、第三の世界の意識した描き分けとしての社会的規定である。
 漱石は、よし子の素朴な意識として、よし子に対する野々宮の態度を問題にしている。これは轢死の女との関係と同じ問題である。よし子は、「研究心の強い学問好きの人は、万事を研究する気で見るから、情愛が薄くなるわけである」と思うが、その研究好きの兄が自分を可愛がってくれるのだから、兄は日本じゅうでいちばんいい人に違いないということである。
 
 ■ 三四郎はこの説を聞いて、大いにもっともなような、またどこか抜けているような気がしたが、さてどこが抜けているんだか、頭がぼんやりして、ちょっとわからなかった。それでおもてむきこの説に対してはべつだんの批評を加えなかった。ただ腹の中で、これしきの女の言う事を、明瞭に批評しえないのは、男児としてふがいないことだと、いたく赤面した。同時に、東京の女学生はけっしてばかにできないものだということを悟った。
 
 知と情の対立は、平凡な現実認識のパターンである。この単純な現実認識を批判する事も超える事も難しい。理性と感情の関係は現実にはこのような対立関係にはないが、では現実はどのようなものであるか、という別の答えを必要とするからである。その意味でこの疑問は疑問としてはどこか抜けたところがあるが疑問に答える事は難しい。よし子は野々宮が実際には自分に愛情を注いでいる、と感じているから深刻な矛盾を感じているわけではない。しかし、一般論として理性と感情を対立的に考える表面的な現実認識を超えることをこの時期の漱石は意識している。それが現実との接触の問題である。感情的で実践的であることと、理性的で傍観者的であることが現実とどのような関係にあるかを漱石は考え始めている。感情的で実践的であることが現実に接しており、理知的で傍観者的であることが現実と距離をおいている、という考え方を克服しなければならない、と考えており、それが非常に難しい事を理解している。
 鴎外は感情と理知の対立をそのまま認めて、自分が理知的であるために感情のない冷たい人間に見えるのであろうと自己を弁護している。これは鴎外の無知である。ある人間、ある精神、ある人間関係を知と情の関係によって規定する事はできない。具体的に見ればそんな対立関係はどこにもないことがわかる。知も情の関係も、両者の内容を社会的に規定することによってのみ明かにすることができる。知と情の直接的な関係を問題にする事は、その内容である社会的規定に入っていかないか、否定する事である。漱石は、『野分』から飛躍的に前進して世界を三つに分けることによって、個別的な精神を社会的に規定する事ができるようになり、知と情の対立といった抽象的な形式が無意味である事を理解している。しかし、具体的な社会的規定ができないかぎり、こうした抽象的規定を批判する事は難しい。そうでないかぎりこの疑問への解ではありえない。現実認識をこうした抽象的カテゴリーの対立において捕らえる事自体が間違いである。それは理解できても、それに対置すべき方法を見つける事は難しいことを理解しており、このたぐいの問題を自分の課題としていくつも並べている。
 
 『三四郎』は、『虞美人草』までの現実認識を克服することを課題にしているために、理屈を並べた部分が多い。知と情の対立に続いて、準備して実践するか思い切って実践するか、という問題を書き込んでいる。漱石はこういうカテゴリーの常識的な理解の見直しをしている。現実認識の見直しという点で一貫性があり、内容の必然性があるが、自然主義的ないかにもありそうな現実という意味での自然さを描写していない。カテゴリーについてのややこしい会話をしているのは漱石的な自然さである。自然主義者が描く家庭生活の自然さにはこんな現実認識が入り込む余地がない。
 美禰子は藤尾の詩人的な性格を継承して、思い切った実践を重んじている。野々宮は実践の前に準備すべきだと主張している。それぞれの立場から、それぞれを肯定できるし否定もできる。準備なしの実践も、思い切った覚悟なしの実践も、肯定すべきであるし否定すべきでもあり、それは場合による。だから、本質的にはこの対立自体が意味を持たないものとして、より深い現実認識によって否定されねばならない。その意味ではこの対立も現実認識の入り口である。
 広田はどちらとも就かない判断をしている。この時点での漱石は「頭の方が先に要るに違いないぢゃありませんか」とする野々宮の立場にいる。直接的な実践的な課題を失っているからである。実践すべき内容が分かっている場合は、たとえそれが危険であろうと、成果を生む可能性が少ないかまったくないとしても、実践の意義はある。道也の場合のように覚悟による実践の意義が誰にも認められず、自分にも意義がはっきり認識できていない場合でも同じであり、実際に大きな成果があった。しかし、実践の成果として実践すべき内容がわからないことを理解している場合は、思い切って実践すべきである、という当為は生まれない。漱石は、道也の覚悟を描き、小夜子と小野を道義によって助けることを描いた結果として、それが社会的な変革を意味する一般的な価値を持つものではない事を理解できた。他に変わるべき社会的な実践の内容は発見できない。だから、まずのしかかっているのは何をなすべきかがはっきりわからない、ということを発見した者に特有の課題である。それははっきりしているから苦悩という形式をとらない。傍観者と見られる事を理解しているが、それは自分の必然的な立場であり、それ以外に無いことを確信している。美禰子はその意味を理解することができず、安全を求めるという弱点の形式で理解している。それは社会変革を求める課題を持たずに、自己自身の生き方の問題として、思い切った実践的精神を持つ事に価値を置く美禰子らしい、迷いの無い、迷う必要のない精神の現実認識である。
 『野分』の道也は、維新の志士の覚悟をもって実践すべき事を訴えていた。『虞美人草』の甲野は実践から退いて、死というもっとも抽象的な必然に期待している。そして、『三四郎』では、覚悟と決意による実践の必要を説くのは美禰子であり、野々宮は準備の必要を解き、広田は個別の方法としてその両方を認めており、この対立に関心を示していない。現実との接触の関係では、漱石の認識の形式は意識的に現実から離れる形式をとっている。それが批評家的、傍観者的、低回趣味的、といわれる精神で、漱石はそれが現実との接触の発展である事を意識して『三四郎』を書いている。ここにこの作品の主な関心がある。こうした社会的な意識の基本的な変化の中で個別の精神が再認識され、新しく規定し直されている。
 
 ■ この一団の影を高い空気の下に認めた時、三四郎は自分の今の生活が熊本当時のそれよりも、ずっと意味の深いものになりつつあると感じた。かつて考えた三個の世界のうちで、第二第三の世界はまさにこの一団の影で代表されている。影の半分は薄黒い。半分は花野のごとく明らかである。そうして三四郎の頭のなかではこの両方が渾然として調和されている。のみならず、自分もいつのまにか、しぜんとこの経緯のなかに織りこまれている。ただそのうちのどこかにおちつかないところがある。それが不安である。歩きながら考えると、いまさき庭のうちで、野々宮と美禰子が話していた談柄が近因である。三四郎はこの不安の念を駆るために、二人の談柄をふたたびほじくり出してみたい気がした。

 思い切ってやること、あるいは度胸を持つ事は、一般的な個別的実践を意味しているのではないことを漱石は説明している。この第二、第三の世界の中での人間関係の問題である。三四郎の頭ではこのふたつの世界の関係がはっきりしていない。不安というのは、このふたつの世界が織りなしている微妙な世界で、自分の居場所がわからないということである。この世界でどのように生きるべきかを決断によって選択する事ができるであろうか、という問題である。
 この問題について漱石は次のように念を押している。
 
 ■三四郎はようやく質問の機会を得た。
 「今のは何のお話なんですか」
 「なに空中飛行機の事です」と野々宮さんが無造作に言った。三四郎は落語のおちを聞くような気がした。
 
 つまり、野々宮と美禰子の話は、飛行機の話ではなくて、三つの世界の関係の話であるという意味である。この流れの中で、乞食や迷子の子供に対する感情が問題にされている。轢死の女との関係と同じである。すべてが現実との接触の問題として考察されはじめており、現実との接触の問題は三つの世界の相互の関係の問題であり、その関係の現象形態として個別の感情、現象が考察されている。しかし、漱石は新しい方法によって現象を考察し直すべきである事を直感的に理解した段階にあり、具体的な規定を得ているわけではない。現象についての具体的理解は、美禰子との分離がはっきり形成された成果として、独自の必然として形成される。この作品の主な関心は方法である。三つの世界の分離と相互関係の中にすべての現象を組み込んで認識しなければならない。それは、すべての人間関係がこの三つの世界に分解されつつある現実を、ありのままに認識することである。
 
 広田は乞食との関係の疑問を受けて、「君あの乞食に銭を遣りましたか」と問いを発している。よし子はやる気にならない、と素直に答え、野々宮が「なぜ」と聞いている。銭をやる気にならないことの善悪を問う事はない。それを一つの現実として、その現実とは何かと問うのが野々宮の一貫した態度である。善悪を問う前に其が何かを考えてみると、それがどういう現象であるか、それがどういう現実であるかがわからない。したがって、それが善であるか悪であるかもわからない。同情を無批判的に肯定する態度は解消されている。同情に対するこうした態度は、汽車で乗り合わせた色の黒い女や轢死の女や乞食に対する感情が、さらには、彼らとの関係が現実にはどのようなものかを考察する必要を理解し、その認識が遥かに遠い課題であることを意識したことの成果である。
 
 ■ 三四郎は四人の乞食に対する批評を聞いて、自分が今日まで養成した徳義上の観念を幾分か傷つけられるような気がした。けれども自分が乞食の前を通る時、一銭も投げてやる了見が起こらなかったのみならず、実をいえば、むしろ不愉快な感じが募った事実を反省してみると、自分よりもこれら四人のほうがかえって己に誠であると思いついた。また彼らは己に誠でありうるほどな広い天地の下に呼吸する都会人種であるということを悟った。

 これは田舎から出てきた青年の反省ではなくて、『虞美人草』までの作品を書いてきた漱石の反省である。道徳的に堕落した世間と対立する道徳的な人格であった道也の現実認識と自己認識の発展である。
 漱石は、迷子の子供に対する人々の関係を「不思議な現象」という。これに批判を与えないが、無批判的に肯定するのではない。それはどういう事か、と問うている。現実の変革を当為として掲げるのではなく、その現実とは何かを問うている。変革の内容と方法が、つまり現実問題の解決とは何かがわからない、ということである。
 より深刻には、この集団が迷子の子供や乞食の世界には入っていけないこと、つまり第一の世界とどのように関わるかがわからないということである。第二の世界のどのような実践が第一の世界の利益であるかがわからない。個別に対する同情を普遍的な意識として肯定することは、第二の世界が持つ個別を援助する力を普遍的に肯定することである。第二の世界と第一の世界の関係は個別的な援助であり、世界としての分離は確定されている。その分離において援助によって自己を肯定する事が第二の世界に生まれる平凡な道徳的意識である。鴎外は、この単純な自己肯定を普遍的精神として作品に描いている。鴎外の現実認識では、乞食に金をやらないのはなぜかという問題意識が生じない。同情という形式が自己肯定の限界である。対象との関係では、同情を持たないのは相手が悪いからだ、となる。鴎外の自己は、個としての自分と個としての他の関係でのみ自己を肯定する狭い自己である。
 
 広田と野々宮は現実に対する認識的関心によって菊の育て方に興味を持っている。こうした関心を持つ事ができない美禰子と三四郎は彼らの集団から離れる。美禰子と三四郎は、第三の世界と第二の世界の関係の中で迷っている。漱石は、この二つの集団の違いをこのあとに詳しく描写している。
 美禰子は甘えた歩き方をしない。だから、「無闇に此方から手を貸す訳に行かない。」唐辛子を干したのを見て「美しい事」と言いながら、草の上に腰を卸した。「派手な着物の汚れるのを、丸で苦にしてゐない」。理屈を離れたこうした描写は、漱石がすでに理解している内容である。だからから雄弁になる。
 
 ■ 「空の色が濁りました」と美禰子が言った。
 三四郎は流れから目を放して、上を見た。こういう空の模様を見たのははじめてではない。けれども空が濁ったという言葉を聞いたのはこの時がはじめてである。気がついて見ると、濁ったと形容するよりほかに形容のしかたのない色であった。三四郎が何か答えようとするまえに、女はまた言った。
 「重いこと。大理石《マーブル》のように見えます」
 美禰子は二重瞼を細くして高い所をながめていた。それから、その細くなったままの目を静かに三四郎の方に向けた。そうして、
 「大理石のように見えるでしょう」と聞いた。三四郎は、
 「ええ、大理石のように見えます」と答えるよりほかはなかった。女はそれで黙った。
 
 美禰子の形容は適切で鋭く詩的である。藤尾に似ている。詩的で適切であるが、それは三四郎には分かりにくい。分かりにくいというのは、わかる必要を認め、わかろうとすることである。美禰子は、広田や野々宮に対してはこのような会話をしないであろうし、広田も野々宮も美禰子のこんな言葉を真面目に聞く事はないだろう。三四郎は美禰子の見方が適切である感じると同時に自分とは自然のとらえ方、感じ方が違うと感じている。三四郎は美禰子に合わせる努力をしているがどうしても食い違っている。美禰子に合わせることのできない自己を持っている。対立しようとしているのではないが食い違っているので、気をつかうことになる。しかし、美禰子に合わせる事ができない自己を積極的な自己として肯定する事はできない。『虞美人草』では藤尾が小野を弄ぶことは藤尾の露骨な意志であったが、『三四郎』では、第三と第二の世界の関係の現象形態として深く捕らえられている。自我と自我の独立的な関係において美禰子は三四郎を弄ぶ事になっている。それは、美禰子の意志でもなく、三四郎の意志でもなく、違う世界に住んでいる二人の関係の社会的な必然である。『虞美人草』では説明であったことが、ここでは客観的で具体的な描写に近づいている。
 美禰子は、自分と三四郎を「大きな迷子」としている。そして、広田・野々宮を「責任をのがれたがる人」と評価している。三四郎には美禰子の言葉の意味が理解できない。
 
 ■ 迷える子《ストレイ・シープ》という言葉はわかったようでもある。またわからないようでもある。わかるわからないはこの言葉の意味よりも、むしろこの言葉を使った女の意味である。三四郎はいたずらに女の顔をながめて黙っていた。すると女は急にまじめになった。
 「私そんなに生意気に見えますか」
 その調子には弁解の心持ちがある。三四郎は意外の感に打たれた。今までは霧の中にいた。霧が晴れればいいと思っていた。この言葉で霧が晴れた。明瞭な女が出て来た。晴れたのが恨めしい気がする。
 三四郎は美禰子の態度をもとのような、――二人の頭の上に広がっている、澄むとも濁るとも片づかない空のような、――意味のあるものにしたかった。けれども、それは女のきげんを取るための挨拶ぐらいで戻せるものではないと思った。女は卒然として、
 「じゃ、もう帰りましょう」と言った。厭味のある言い方ではなかった。ただ三四郎にとって自分は興味のないものとあきらめるように静かな口調であった。
 
 広田も野々宮も、轢死の女を扶けようとする直接的な意志を持たない。乞食に銭をやろうと思わないし、迷子の子供を扶けようとしない。そうした意志を持たない事を自覚しており、そうした自分の精神はどんなものであるのか、という問題意識を持っている。常に直接的な関係を問題にしている美禰子は、実践的な意志を持たないことを肯定している広田・野々宮を責任逃れをする人達だ、と評価している。『野分』の道也の道徳的で実践的な意識は、ここでは、社会的に分化して美禰子の精神として位置づけられている。
 第二の世界に住む広田・野々宮が轢死の女や乞食と分離していることを自覚することは、同時に彼らが美禰子の世界・精神と分離したことをも意味している。『虞美人草』では、藤尾を非難する事は、藤尾を矯正し救うことでもあった。一般的に言えば、人としての間違った道を歩いている藤尾に正しい道を教える責任を道也も甲野・宗近も持っていると自認していた。そこに自分の価値があった。それが同時に小野や小夜子を扶けることでもあった。
 広田、野々宮は道也、甲野と違って現象に対する直接的な批判意識を持たない。美禰子との関係で言えば、美禰子に対する批判意識を持たず、美禰子と分離した自分自身の世界に閉じこもっている。この意味で第一、第二、第三のいずれの世界に対しても責任を持たない態度で接している。彼らは美禰子の世界にも色の黒い女の世界にも傍観者的で観察的な関心を持つだけで、それについての自分自身の積極的な判断を下そうとしない無責任な態度をとっており、第二の世界に安住している。関係を回避した安全な立場を守っている。それが広田と野々宮の精神の外見的な特徴であり、それを美禰子は批判的に見ている。それは、美禰子が自分自身の独自の精神世界を形成し自覚していく過程でもあり、漱石の現実認識が具体化し広がっていく過程でもある。
 広田・野々宮に対する批判意識を形成しつつあり、確定していない、という意味で美禰子は迷子である。色の黒い女にも、美禰子にも関心を持ち、しかも積極的に関係を持つ事もできず、自分自身の居場所を確定しておらず、その自分自身について自覚することもできていない三四郎も迷子である。そして、迷子である美禰子と三四郎の迷いを解くことにも、批判することにも関心を持たず、それぞれの個人の自然の発展に任せる事が解決であると考えているのが広田・野々宮である。
 
 「私そんなに生意気に見えますか」という美禰子の言葉は、『虞美人草』の藤尾の言葉であり、藤尾についての漱石のより深い認識である。藤尾・美禰子は、道也・甲野・広田・野々宮の世界と相入れない。それを『虞美人草』では生意気だとしていた。しかし、彼女たちを生意気と言うことができるだろうか。彼女たちの精神を生意気という権利や力が彼らにあるだろうか。さらには、生意気と見る彼らの現実認識は正当であろうか。それは彼らの偏見であり、自己自身の対象化にすぎないのではないか。藤尾や美禰子を生意気だとしてよいのかという疑問は、一般的には人格的な個を現実認識の本質とする方法の解消である。藤尾や美禰子が生意気で、それを人格的に矯正する、というのは第二の世界を優位とする現実認識である。インテリの優位の意識が、善や義や改革の内容である。この現実認識の修正の基本は三つの世界の分離である。漱石は批判的な描写の中にも独立性を描いていた。生意気という甲野や宗近の認識を藤尾は認めなかったし、漱石は作品の中で無理に反省させることもなかった。反省しなければならないのは、また反省する能力を持つのは甲野であり漱石である。漱石の場合、藤尾に対する批判は、自己に対する批判的認識として曲げ戻される必然を持っている。
 『虞美人草』までの現実認識の修正は、彼女たちが生意気なのではない、とすることではない。彼女達を生意気とみる現実認識の方法の全体に対する批判意識によってのみこの限界を克服し、彼女たちの個性に拘泥する現実認識から自由になる事ができる。道也・甲野の現実認識は、色の黒い女や美禰子の世界の独自性を認識することができなかった。第一、第三の世界を全体として否定し、第二の世界を肯定する立場による現実認識が彼らの道徳的な意識の偏狭さである。第二の世界を、第一第三の世界から分離し、第一、第三の世界の優位のもとに現実を認識する事が『三四郎』の新しい方法である。
 世界を三つに分割した漱石の新しい現実認識の観点から言えば、美禰子は生意気ではない。美禰子は第二の世界から独立した、自分自身に忠実に生きる個性として描かれている。藤尾も実際は生意気ではなく自立的で個性的であった。「私は生意気でしょうか」という美禰子を描くためには、現実認識の方法の飛躍的な発展が必要である。それによってのみ、自我を強く主張する美禰子から生意気という印象を取り除くことができる。
 この新しい現実認識は、藤尾を生意気と思い、人格的に批判すべきだという強い意志を貫徹することによる矛盾の発展によって得られる。三四郎は美禰子を生意気と思っていない。しかし、生意気でないとも思っていない。なんと思っていいかわからない状態にある。漱石や広田・野々宮は、美禰子を生意気とすることが美禰子の精神の理解ではないことを理解している。しかし、美禰子がどういう現実であり、自分たちが第三の世界や第一の世界とどのような関係にあるかを漱石はまだ理解していない。理解していない事、理解する事が非常に困難であること、さらには、第一、第三の世界に対して批判的な認識をもっていた精神はどういう存在であるかを考え始めたのが広田・野々宮である。だから、彼らは美禰子に接近している三四郎に対しても批判的ではなく、同等に現実への接近の過程にあるものと考えている。美禰子との具体的な関係の経験なしに、頭の中だけで理解できることではないからである。
 藤尾の性格についての批判的認識は、第一義には甲野の現実認識の特徴であり、藤尾の特徴ではない。それは両者の関係の一側面であって、藤尾自身の特徴ではない。道也・甲野には、美禰子や色の黒い女の世界が見えていない。その世界に対象化した自分の姿を見ていた。その虚偽意識を広田・野々宮は解消する過程にある。現実認識のこうした深化は明治の社会がこの三つの世界の分離を発展させることによって得られた歴史的な成果である。歴史の発展によって第一、第二、第三の世界の運命の分離が明確になった。だから、分離的な世界の個人を生意気として修正することが正義ではありえない。漱石は、この生意気を、美禰子自身の性格ではなく、美禰子とインテリの現実的な関係を反映した、インテリ自身の精神としてて理解しはじめている。


『三四郎』 (六)


 与次郎は実践的である。実践の社会的な意義も、実践の結果すらも問わない無責任で気楽な実践家である。忙しく働いているだけで意味はないが、本人は真面目で実践家としての面白さを味わって満足している。漱石は与次郎・美禰子の実践的態度と、広田・野々宮の傍観者的な態度を対比している。
 
 ■ 「先生、どうです」
 「堅いね」
 「堅いけれどもうまいでしょう。よくかまなくっちゃいけません。かむと味が出る」
 「味が出るまでかんでいちゃ、歯が疲れてしまう。なんでこんな古風なものを買ってきたものかな」
 「いけませんか。こりゃ、ことによると先生にはだめかもしれない。里見の美禰子さんならいいだろう」
 「なぜ」と三四郎が聞いた。
 「ああおちついていりゃ味の出るまできっとかんでるに違いない」
 「あの女はおちついていて、乱暴だ」と広田が言った。
 「ええ乱暴です。イブセンの女のようなところがある」
 「イブセンの女は露骨だが、あの女は心が乱暴だ。もっとも乱暴といっても、普通の乱暴とは意味が違うが。野々宮の妹のほうが、ちょっと見ると乱暴のようで、やっぱり女らしい。妙なものだね」
 「里見のは乱暴の内訌ですか」
 三四郎は黙って二人の批評を聞いていた。どっちの批評もふにおちない。乱暴という言葉が、どうして美禰子の上に使えるか、それからが第一不思議であった。

 この描写は面白い。会話ではなく、会話の状況が内容である。広田と与次郎は、「馬鹿貝の剥身の干したのをつけ焼にしたの」を噛みながら美禰子の性格を批評している。漱石は美禰子の性格を批評する事を重視していない。「美禰子の顔でもっとも三四郎を驚かしたものは目つきと歯並である。与次郎の説によると、あの女は反っ歯の気味だから、ああしじゅう歯が出るんだそうだが、三四郎にはけっしてそうは思えない。」とも書いている。広田と与次郎は美禰子に囚われていない。三四郎は囚われている。そして、三四郎が美禰子に囚われる事の意義がこの後描かれている。
 三四郎は運動会の華やかさに気後れしている。三四郎は華やかな生活に憧れると同時に、その世界に入っていけない自分を意識している。『野分』の高柳の場合は、相手から拒否されている意識がはっきり出ていたが、ここでは第三の世界は独自に自由に存在しており、それとの関係で三四郎内部に独特の矛盾した精神が生まれている。この憧れと分離の意識を、広田の立場から批判的に描写しているのが『彼岸過ぎまで』からの三部作である。この分離的な精神の内部矛盾を展開し深化する事によって第二の世界の独立的な精神を生み出す事ができる。その生み出す精神の全体が第二の世界の精神の典型である。『虞美人草』までの確信に満ちた批判は、三四郎の気後れと孤立的な感情への発展として受け継がれている。
 運動場から逃れて一人で丘の上に逃げる三四郎は、「こころ」の先生を思わせる。「この上には何かおもしろいものがあって?」という美禰子の言葉に対して、漱石は「おもしろいものがありようはずがない」と書いている。しかし、この気後れの中には、どうしても克服しなければならない複雑で豊な精神が含まれている。三四郎が美禰子と野々宮の関係を疑うのも度胸のない気後れする精神である。この屈折した精神は、藤尾に対する批判を解消した成果として表に現れてきた新しい、重要な精神の萌芽である。美禰子と分離した精神を持つ事のできない三四郎の精神が分離され大きな意義を持ち始めている。広田と野々宮は美禰子からすでに分離している。このあとの漱石の作品の中心的な内容を形作っていくのは、美禰子から分離できない第二の世界の特徴を代表するこの屈折した精神である。
 
 ■ 「宗八さんのようなかたは、我々の考えじゃわかりませんよ。ずっと高い所にいて、大きな事を考えていらっしゃるんだから」と大いに野々宮さんをほめだした。よし子は黙って聞いている。
 学問をする人がうるさい俗用を避けて、なるべく単純な生活にがまんするのは、みんな研究のためやむをえないんだからしかたがない。野々宮のような外国にまで聞こえるほどの仕事をする人が、普通の学生同様な下宿にはいっているのも必竟野々宮が偉いからのことで、下宿がきたなければきたないほど尊敬しなくってはならない。――美禰子の野々宮に対する賛辞のつづきは、ざっとこうである。
 三四郎は赤門の所で二人に別れた。追分の方へ足を向けながら考えだした。――なるほど美禰子の言ったとおりである。自分と野々宮を比較してみるとだいぶ段が違う。自分は田舎から出て大学へはいったばかりである。学問という学問もなければ、見識という見識もない。自分が、野々宮に対するほどな尊敬を美禰子から受けえないのは当然である。そういえばなんだか、あの女からばかにされているようでもある。さっき、運動会はつまらないから、ここにいると、丘の上で答えた時に、美禰子はまじめな顔をして、この上には何かおもしろいものがありますかと聞いた。あの時は気がつかなかったが、いま解釈してみると、故意に自分を愚弄した言葉かもしれない。――三四郎は気がついて、きょうまで美禰子の自分に対する態度や言語を一々繰り返してみると、どれもこれもみんな悪い意味がつけられる。三四郎は往来のまん中でまっ赤になってうつむいた。ふと、顔を上げると向こうから、与次郎とゆうべの会で演説をした学生が並んで来た。与次郎は首を縦に振ったぎり黙っている。学生は帽子をとって礼をしながら、
 「昨夜は。どうですか。とらわれちゃいけませんよ」と笑って行き過ぎた。

 美禰子は、外国にまで聞こえるほどの仕事をする人物として野々宮を尊敬している。それは、藤尾が金時計の小野を高く評価するのと同じである。ブルジョア的な成功が美禰子の考える実践の内容である。第三の世界のこの価値観と対峙するとき、三四郎は自分がばかにされているような気がする。愚弄されていると感じるのは、自分がまだ成功しておらず、自分の成功を確信しているわけではなく、成功の道を歩き始めているわけでもないからである。美禰子に認められるにはブルジョア的に成功しなければならない。しかし、それは容易ではない。第二の世界には、それができないために第三の世界を批判すると卑屈な僻み根性が生まれる。漱石は、自分の批判意識の中からこの卑屈な意識を抽出しようとしている。それは独立的な批判意識を形成するために決定的に重要な契機である。
 広田も野々宮も与次郎も、美禰子が認める世俗的な成功に感心を持っていない。それはできないと思っており出来る立場にいない。野々宮は自然科学者としての研究に打ち込んでおり、世俗的な成功を求めているのではない。だから、美禰子の高い評価には感心を持たず、成功していなくても価値観としては同じである広田や与次郎との自己本位の関係の中に生きている。
 しかし、三四郎は迷子である。まだ自分の生きるべき道がわからないし、確定できない。この立場が明かになったとき、「とらわれちゃいけませんよ」という言葉は、新しい意義を持ってくる。美禰子に囚われないというのは意識の持ち方の問題ではない。美禰子から独立した生き方を発見できるかどうか、そういう運命に恵まれるかどうか、美禰子の世界に対する憧れや欲望をもてない状況に追い込まれる事が出来るかどうか、そういう歴史的な必然の中に巻き込まれる事が出来るかどうか、それを意識として獲得できるかどうか、である。
 美禰子の世界は第二の世界の住人を魅了する。『虞美人草』では魅了されてはならないことを小野に教えようとしていた。しかし、第三の世界は第二の世界を魅了しつつ拒否する傾向、あるいは、インテリを奴隷としてのみ認める傾向を持っている。だから憧れと反発する心の両方を生みだす。この関係が第二の世界の葛藤の基本的な内容である。この葛藤から逃れる方法は、第二の世界内部の矛盾を発展させることである。しかし、一般的には独自にこの矛盾を発展させる事は出来ない。この矛盾は、第三の世界と第一の世界の対立に規定されており、しかも、この世界で生み出される矛盾を認識するには天才が必要であり、日本では特に困難な課題である。鴎外はその能力を矛盾を糊塗するために使った。矛盾を発見し発展させるほどの能力はなかった。


『三四郎』 (七)

 ■ 与次郎の話に、うちの先生は時々何か書いている。しかし何を書いているんだか、ほかの者が読んでもちっともわからない。生きているうちに、大著述にでもまとめられれば結構だが、あれで死んでしまっちゃあ、反古がたまるばかりだ。じつにつまらない。と嘆息していたことがある。三四郎は広田の机の上を見て、すぐ与次郎の話を思い出した。
 
 広田は自分の仕事について、「そう急に片づけるたちのものをやっていたんじゃない」と言っている。三四郎は「この人のような気分になれたら、勉強も楽にできてよかろうと思った」。広田は、気分も心構えも道也や甲野とちがって低回的で気楽に見える。漱石はようやくこの地点にまでたどり着いた。『三四郎』自体がこうした視点によって描かれており、作品全体が気楽に、気長に、現実のすがたをありのままに見て、作家の主観を加えずに描写しているように見える。拵え物であるとしても、そこに何らかの解決を与えようとする作者の意図は現れておらず、作品の内容は自然な流れに任されている。
 三四郎が気楽と見る広田の低回趣味は、現実に対する変革的な実践を否定した事による傍観者的態度である。『野分』の段階の抽象的な形式で言えば、現実からの分離・孤立であり、その分離・孤立を肯定する精神を得ている。現実を三つに分ける『三四郎』の現実認識においては、第一と第三の世界から分離した第二の世界内部での分離・孤立である。三つの世界を分離した上での第二の世界内部での分離・孤立は、漱石の場合抽象的な孤立ではなく、第一の世界への接近を意味している。だから、広田の呑気さには道也以上の具体的内容を持っている。
 三四郎と違って広田が呑気でいられるのは、美禰子に囚われていないからである。広田は美禰子を重視していない。しかし、広田は美禰子を見下しているのではない。呑気さは、美禰子を見上げる視点を持つことで得られた。初期三部作での漱石の現実を見る眼は高踏的であった。これは『三四郎』の低回趣味とは質的に違う。漱石は、世間を高踏的に認識する立場を『野分』ではっきり打ち出した。金持ちは商売が専門であるから、道については学者に教えを請うべきだ、と考えている。第二の世界にある学者が精神的に最も高い地位に想定されている。『虞美人草』では、教えを請わない迄も、学問のある人間の鼻面を引きずり回したり軽蔑したりすべきではないとし、道を無視する場合は悲劇を経験するだろうと予告した。しかし、甲野の忠告にも関わらず、藤尾は反省することはなく、甲野の忠告は無力であった。
 漱石の現実認識を代表する人物は、第三の世界と対立し、敗北する事によって自分の立場と現実認識の視点を低くしていく傾向を持っている。広田は自分が美禰子に届かない世界にいることを自覚しており、美禰子を啓蒙の対象としていない。広田は他に対する自分の優位を意識していない。美禰子の性格について乱暴なところがあるというのは個性の特性を指摘したのであって非難ではない。
 漱石のこうした視点の変化は、基本的には明治社会におけるブルジョアの地位が高くなり確立していく過程を反映している。現実に第二の世界から第一の世界が遠ざかっていく過程を冷静に、自己肯定的に認識している。漱石はこの新しい現実認識を持つ広田を想定することによって、この現実認識を得ていない青年として三四郎を描写し、美禰子との関係を考察している。明治の現実を新しい形式で捕らえたこの人物の配置は、『浮雲』の文三とお勢と昇の関係に似ている。広田は文三と違って美禰子との関係から三四郎を扶けようとする意志を持たない。それは、第二の世界では、美禰子と三四郎の分離がはっきりしても、それは三四郎の破滅を意味するわけではないからである。漱石は『虞美人草』では、この世界内部での道徳的堕落を破滅と想定していたから、これも現実認識の大きな変化である。
 三四郎は美禰子との関係の可能性もなく、破滅の可能性もない中で、自分と美禰子との関係がはっきりしないことに悩んでいる。美禰子の愛情を得たいというはっきりした欲望を持っているのではなく、曖昧な関係をはっきりさせたいと思っている。そして、関係をはっきりさせるために広田の話を聞こうとすることにも、はっきりしない関係を持つ事になる三四郎の立場と度胸のなさが現れている。三四郎はこの観点から、美禰子にかかわりを持たず太平に暮らしている広田に興味を持っており、美禰子と同様にその精神を理解できないでいる。三四郎は、広田と美禰子と自分の関係が、つまり第三の世界と第二の世界のなかでの自分の位置が掴めない。それが三四郎の基本的な苦悩であり、同時に漱石が捕らえた新しい苦悩である。
 
 ■ 三四郎が広田の家へ来るにはいろいろな意味がある。一つは、この人の生活その他が普通のものと変っている。ことに自分の性情とはまったく容れないようなところがある。そこで三四郎はどうしたらああなるだろうという好奇心から参考のため研究に来る。次にこの人の前に出るとのん気になる。世の中の競争があまり苦にならない。野々宮さんも広田先生と同じく世外の趣はあるが、世外の功名心のために、流俗の嗜欲を遠ざけているかのように思われる。だから野々宮さんを相手に二人ぎりで話していると、自分もはやく一人前の仕事をして、学海に貢献しなくては済まないような気が起こる。いらついてたまらない。そこへゆくと広田先生は太平である。先生は高等学校でただ語学を教えるだけで、ほかになんの芸もない――といっては失礼だが、ほかになんらの研究も公けにしない。しかも泰然と取り澄ましている。そこに、こののん気の源は伏在しているのだろうと思う。三四郎は近ごろ女にとらわれた。恋人にとらわれたのなら、かえっておもしろいが、ほれられているんだか、ばかにされているんだか、こわがっていいんだか、さげすんでいいんだか、よすべきだか、続けべきだかわけのわからないとらわれ方である。三四郎はいまいましくなった。そういう時は広田さんにかぎる。三十分ほど先生と相対していると心持ちが悠揚になる。女の一人や二人どうなってもかまわないと思う。実をいうと、三四郎が今夜出かけてきたのは七分方この意味である。

 広田とは何かということと美禰子とは何かが一つの問題である事がここで説明されている。広田とは何かは、第二の世界の広田が第三の世界の美禰子とどんな関係にあるか、という問題である。この問題は初期作品以来一貫して追求されてきた漱石特有の現実認識であり、具体化しつつ『明暗』まで継続される。『三四郎』では、漱石は美禰子と第二の世界の関係を、美禰子と与次郎、美禰子と原口、美禰子と三四郎、美禰子と野々宮、美禰子と広田、という関係に分類しており、それぞれをばらばらに考察している。つまり、第二の世界と第三の世界の全体的な関係はまだ捕らえられておらず、その関係を探っているところである。
 漱石は美禰子と分離した関係の中で、美禰子に評価されない原口と与次郎を別にして、美禰子に囚われない態度を二つに分けている。野々宮は世外の独自の功名心があるために世俗的な評価を問題にせず、世俗的な競争の中に入らない。これは、特殊な立場によって美禰子から独立している場合なので、三四郎にも理解できるほどの単純な関係である。広田は実績もなく、地位もなく、競争を避けて独自の世界に住んでいる。自分の世界に閉じこもっているから太平である。しかし、太平になりたいと思ってもなれるわけではなく、競争の世界を回避するだけで満足が得られるわけではない。広田は道也と甲野を経由して、第三の世界との関係を否定し、そのことによって第二の世界での孤立を得て、第一の世界への接近を傾向として得たことによって初めて低回趣味を得ている。
 広田の低回趣味は美禰子からの分離の完成ではなく、具体的分離の出発点としての抽象的な分離を想定した精神である。漱石の作品での第二の世界での孤立は第一の世界への接近を意味するが、それは第二の世界内部での本質的な矛盾の展開という形式をとり、複雑な手順を必要としている。社会全体から孤立していた道也の覚悟と孤立の意味は誰でも理解できる。道也の覚悟を肯定する場合でも否定する場合でも、その覚悟の意味はわかる。ただ、その覚悟を肯定し認めるという意味での理解がないだけである。道也は、自分意図と覚悟の意味が評価されないことを前提として、認められない事に耐える覚悟をしている。しかし、広田の場合は、道也の覚悟を継承しているにも関わらず、その意図も覚悟も理解されず、また表に出すべき内容として持っていない。そのために広田は気楽と思われ、低回趣味と思われ、自分をまったく理解していない与次郎を友として、気の長い仕事をしている。
 高柳と道也はお互いに理解し合える信頼関係があった。ここでは『野分』の段階の信頼関係は失われている。信頼関係はあるが、三四郎は広田を理解できないと想定されており、広田も理解を求めていない。ここには深刻な孤立化の傾向が現れ始めている。広田はすでに三四郎には理解されず、理解を求める事もできない人物になっており、与次郎にも、美禰子にもよし子にもさらには野々宮にも理解されない精神を得ていかねばならない。広田は気楽に見えることにおいて、すでにもっとも太平でない精神世界に一歩を踏み込んでいる。
 美禰子との合法則的な分離が第二の関係での孤立を含むのは、第二の世界が第三の世界への依存関係を含むからである。道也は、華やかな第三の世界から覚悟によって離れ、貧しい世界に身を置くことに価値を認め、そうした価値観を啓蒙しようとしていた。『三四郎』では、貧しい生活をする広田は第二の世界内部での孤立として限定されており、第二の世界に対してその価値観を啓蒙することはできないこと、啓蒙するための内容はまったく得られていない事をはっきり意識している。それは、広田個人の価値観の形成過程であり、さらには歴史的に新しい精神の形成過程であり、これから歴史と広田の主観が創り出さねばならない精神である。道也が貧しい生活を覚悟によって選択したことの成果は、現実が三つの世界に分解されていく過程を深刻に認識できたことである。道也の覚悟は第三の世界からの分離の努力であり、貧しい生活を平凡な事実として太平に受け入れている広田の生活はその成果である。それは、美禰子から自由になり、美禰子に囚われない事である。そして、囚われない広田を第三の世界から分離することによって、美禰子に囚われる三四郎の精神がどのような内容を持つのかという研究が課題になり、さらには、分離と孤立を得た広田の精神の具体的内容は何かが新しい課題になる。
 広田は、美禰子に囚われていない。結果として太平であることは三四郎にはよくわかる。しかし、それが具体的にどのようなものであり、どうすれば囚われなくなるのかは広田を見ても理解できない。それは示されていない。広田の存在は三四郎にとって何等解決ではないし参考にもならない。広田が美禰子に囚われていないことと、太平で気楽に生きている事は漱石の作品では同語反覆であり、説明の必要を感じさせるだけである。道也の覚悟と甲野の諦観を経由して広田の低回趣味を得たが、この形成された広田の精神の具体的な内容を理解するためには、というより正確に言えば、具体的な内容を形成するためには、広田の視点から美禰子に囚われた精神がどのような内容を持つのかの具体的な研究に引き返さねばならない。そして、その研究の成果として初めて『明暗』の具体的規定にたどり着くことができる。
 
 広田の現実認識が深化する過程で得られた現象的な現実認識がこのあといくつか紹介されている。これは、『虞美人草』の甲野・宗近の文明批判と同じで、広田の表面的な現実認識の一部分である。そうした表面的な現実認識にも、現実認識の深化が反映している。広田の時代には「すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位であった」。それは自己を忘れている点で偽善的である。この偽善が張り通せなくなった時代になった今の青年は、「漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある」と広田は言う。漱石は、露悪家というのは広田がこの時思いついた言葉であると注意している。広田が取り組んでいる著述の内容から出てきた言葉ではない。広田の低回趣味の現実認識としての意義は、この両者の対立を正常な現実として認める事にある。
 
 ■形式だけ見事だって面倒なばかりだから、みんな節約して木地だけで用を足している。はなはだ痛快である。天醜爛漫としている。ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えばさしつかえない。そうしてゆくうちに進歩する。英国を見たまえ。この両主義が昔からうまく平衡がとれている。だから動かない。だから進歩しない。イブセンも出なければニイチェも出ない。気の毒なものだ。自分だけは得意のようだが、はたから見れば堅くなって、化石しかかっている。……」
 
 観察自体は単純であるが、現象についての理解として、『三四郎』の特徴である矛盾を認める態度がここでも披露されている。矛盾し、対立していることが社会を発展させる事だと考えており、矛盾を解消すると言う意味での解決を与えようとしているのではない。だから、方法論としての形式論議である。矛盾を道徳的な啓蒙によって解決するのではなく、この矛盾によって社会が進歩するという考え方に移行している。
 広田は、ついでに、御役目の親切ではなく、それ自身が目的である親切を区別し、利他本位を利己本位で充たす遣り口を紹介している。「人の感触を害する為めにわざわざ偽善をやる」というのもよくある現象である。これも、現象的な説明であり、分かりやすいが深い現実認識ではない。それは広田の生活から出てきた太平な観察の一つである。現象的な観察の部分は三四郎にも簡単に理解できる。こうした観察は、『明暗』にいたると、この作品で同時に深化している現実認識の成果に基づいて、社会的な法則の現象形態としての意味を与えられて描写されることになる。
 漱石はここでは、個人を露悪家として観察し、与次郎もよし子も美禰子も三四郎をも同等に捕らえている。それはごく抽象に、一般的形式として捕らえられた、現実認識の入り口である。藤尾も鼻子も甲野も二重性の多様な変化としてとらえられている。『虞美人草』まで質的な違いとしていたものを、個人の形式のさまざまの違いとして同等化しているところに意義がある。
 三四郎が聞きたいのはこんな一般論や方法論ではない。三四郎が知りたいのは美禰子との関係の具体的な意味である。しかし、それは漱石自身の関心でもある。広田の表面的な現実認識は美禰子との関係の具体的内容を含んでいない。それは広田と漱石の隠された課題であって、雑談で話すことができるような内容ではなく、広田との人生全体が語るものである。そしてそれを認識するのがこれからの漱石の作品の課題である。
 漱石は、(七)のまとめとして田舎からの手紙を書いている。田舎からの手紙は、都会での矛盾を一瞬わすれさせてくれる。しかし、そこには三四郎の本質的な特徴である度胸がない、という指摘がある。度胸がないということは、第三の世界とどのように関わるかという問題である事を漱石は意識しており、この課題が重くのしかかると共に、新しい具体的な現実認識の内容として漱石の前に姿を現わそうとしている。手紙についての文章は、そういう期待と恐れを感じさせる文章である。『こころ』の悲劇をかすかに感じさせる文章である。



 『三四郎』 (八)

 与次郎は、『虞美人草』の浅井と同じ役割を果たしている。しかし、人間関係の展開における与次郎の位置は漱石の社会認識の深化を反映して非常に深い意味をもつようになっている。三四郎にも広田にも野々宮にもない与次郎のいいかげんな個性が、人間関係の展開の推進力になっている。与次郎が、野々宮に返すはずの広田の金で馬券を買ったことが、美禰子との関係を一歩前進させることの意味を漱石は非常に巧く描き、深く考察している。巧く、深く、というのは、それぞれが独立的な欲望を持つ個性として自由に生きる事が、それぞれの主観から独立して三四郎の運命を規定していることである。
 『虞美人草』の小野は自分では動けなかった。三四郎も自分では動かない。小野は浅井に頼むほどの主体性を持っていた。つまり人間関係の展開の要素として主観の目的意識が大きな意義を持っていた。しかし、三四郎は与次郎の気まぐれによって、偶然の組み合わせによって動かされている。漱石は、三四郎の運命の展開において、主体的な目的意識の意義を消し去り、人間関係の独立的な展開が運命を規定している、という社会認識を得ており、その方法論的な見方によって与次郎と三四郎と美禰子の関係を描いている。三四郎の運命にとって与次郎の気まぐれの意義が大きくなることは、三四郎が運命が人間関係によって翻弄され愚弄されることを捕らえる事である。この現実認識の方法をより深化することによって『それから』の展開が構成される。
 
 ■ 三四郎はその晩与次郎の性格を考えた。長く東京にいるとあんなになるものかと思った。それから里見へ金を借りに行くことを考えた。美禰子の所へ行く用事ができたのはうれしいような気がする。しかし頭を下げて金を借りるのはありがたくない。三四郎は生まれてから今日にいたるまで、人に金を借りた経験のない男である。その上貸すという当人が娘である。独立した人間ではない。
 
 漱石は、与次郎の性格を三四郎との関係で深刻に考えているであろう。漱石も三四郎も、与次郎のように生きる事はできない。与次郎は軽薄である。しかし、たとえ表面的な関係であっても、ここで三四郎の運命を規定しているのは与次郎の気まぐれである。広田の金で馬券を買ってしまう与次郎と違って、三四郎は頭を下げて金を借りるのはありがたくないと考える人間である。漱石は、この二つの性格と運命について考えている。この自尊心が美禰子との人間関係に関係しているように見える。美禰子が独立した人間ではないというのは、美禰子に金を借りる事を躊躇することからくる派生的な、どのようにも広がっていく観念の一つにすぎない。
 三四郎の自尊心は『明暗』の津田を思い出させる。三四郎は美禰子に従属したくないという自尊心を持っており、津田には吉川夫人に従属したくない、という自尊心がある。そして、重要な事はその自尊心を持たない与次郎は美禰子に従属しておらず、そのために端的な関係になっていることである。そのために、広田の金を平気で馬券にすってしまう与次郎の性格は、三四郎の性格を考える上で大きな意味を持っている。
 三四郎のこの自尊心は美禰子との関係の中で生まれる精神である。それは美禰子と三四郎の関係を反映した精神である。三四郎は金にこだわっているのではない。三四郎は、与次郎が自分の金を使ってしまって返さない事を気にしていない。三四郎は、美禰子に対してどう対応をすべきかがわからず、美禰子に関わると複雑な心理が自然に沸き起こってくる。金を借りる事に躊躇するのは、美禰子が独立した人間ではないからではなく、美禰子が第一の世界の人間だからである。
 漱石にとっても三四郎が美禰子に対してどんな態度をとるかは興味深く、また書いてみなければわからない問題であり、書きながら探求した問題であろう。三四郎が美禰子に対してどんな態度を取るべきか、という『虞美人草』までの当為はここでは消えている。『虞美人草』までは、藤尾や美禰子がどういう人間であるかを、どういう弱点をもっているかという視点からの批判的な課題としていた。美禰子を否定的な人格とみる批判意識はここでは消えているだけでなく、美禰子がどのような人格であるかという問題意識は、美禰子にどのように対処すべきかの問題になっている。その場合、美禰子の態度をはっきりさせるためには自分の態度をはっきりさせなければならないことが課題になるのであり、三四郎の意志と態度がはっきりしていないことが明かになる。
 美禰子の性格や意思を問題にしているかぎり美禰子の謎は解けない。しかし、美禰子に対する態度を謎とする事は自分自身の謎を解く事である。美禰子との関係における自分自身の運命を認識することができないことが謎として意識されているからである。この謎を理解することは謎の女を理解することではなく自分自身を理解することである。美禰子を謎として捕らえる事は、自己を謎として捕らえる事の端緒であり、それが色の黒い女の第一の世界との関係を認識する第一歩でもあり、現実認識としては、第三と第二、第一の世界がどのような関係にあるかを具体的に認識することである。美禰子の謎は、美禰子から離れた自己認識になることによってのみ明かになる。美禰子の謎は美禰子の謎としては解く事ができない。
 
 ■ ことに今夜は自分のほうを想像する余地がない。三四郎はこのあいだから美禰子を疑っている。しかし疑うばかりでいっこうらちがあかない。そうかといって面と向かって、聞きただすべき事件は一つもないのだから、一刀両断の解決などは思いもよらぬことである。もし三四郎の安心のために解決が必要なら、それはただ美禰子に接触する機会を利用して、先方の様子から、いいかげんに最後の判決を自分に与えてしまうだけである。あしたの会見はこの判決に欠くべからざる材料である。だから、いろいろに向こうを想像してみる。しかし、どう想像しても、自分につごうのいい光景ばかり出てくる。それでいて、実際ははなはだ疑わしい。ちょうどきたない所をきれいな写真にとってながめているような気がする。写真は写真としてどこまでも本当に違いないが、実物のきたないことも争われないと一般で、同じでなければならぬはずの二つがけっして一致しない。
 
 美禰子は自分に好意を持っているようにも見えるし、愚弄しているようにも見える。あれこれ考えずに美禰子に聞けばはっきりすることであるが、因果関係は逆で、美禰子に積極的に対処する度胸がない三四郎だからこそ、対処しないことを前提とした解釈をあれこれと考えている。三四郎が美禰子との関係ではっきりした意志を持つ事ができないことが、美禰子がはっきりしない、美禰子が謎である、という形式の意識になることを漱石は意識して描いている。この転倒が第二の世界の特徴である。漱石はここで、三四郎が自分のことを考えるのではなく、美禰子を疑っていることに注意を促している。美禰子の様子を観察して、美禰子の気持ちを見て対応を決めようと思うのが三四郎の特徴である。さらには、三四郎にそのような対応を迫るのが美禰子の立場の必然である。三四郎は、現実的な関係が展開することなく、わずかな表面的な関係をあれこれ解釈している。はっきりした態度を求める、というのははっきりした態度をとれない三四郎に特有の欲望である。事実の解釈がはっきりしないから前に進めないのではなく、前に進めないからはっきりしない解釈を並べている。こうした身動きのとれない状態から前進するために、三四郎は与次郎の気まぐれを必要としている。これが三四郎の感じている愚弄である。
 三四郎は積極的な意志を持たない。人間関係をはっきり理解することができず、はっきりした欲望を持つ事ができない。そのために、自分で決断するのではなく、決断するはずのない美禰子に決断を求め、美禰子を曖昧で決断しない個性だと感じている。これが三四郎の度胸のなさであり、三四郎の精神の本質的な特徴である。本質的というのは、この特徴に、美禰子と三四郎の関係、第三の世界と第二の世界の関係が端的に現れているからである。三四郎は美禰子の世界から分離しようとする意識をもつと同時にその世界に依存している点で、『野分』の道也や高柳と同じである。また『虞美人草』の甲野・宗近と同じである。三四郎と彼等の大きな違いは、自分と美禰子との関係を、分離的な視点から、美禰子との関係を美禰子の優位のもとに理解している事である。
 
 ■ 「やっぱり愚弄じゃないか」と考えだして、急に赤くなった。もし、ある人があって、その女はなんのために君を愚弄するのかと聞いたら、三四郎はおそらく答ええなかったろう。しいて考えてみろと言われたら、三四郎は愚弄そのものに興味をもっている女だからとまでは答えたかもしれない。自分の己惚れを罰するためとはまったく考ええなかったに違いない。――三四郎は美禰子のために己惚れしめられたんだと信じている。

 漱石はここで愚弄の意味を解説している。三四郎は美禰子との関係で愚弄されるが、それは美禰子の意志によるのではない。美禰子と三四郎との関係が愚弄という形式を取る。美禰子が愚弄そのものに興味を持っている、というのは三四郎を愚弄する事に意味がないということである。つまり、三四郎は、美禰子にとって三四郎が愚弄するための意味を持っていない事を理解することができる。三四郎は美禰子が三四郎を愚弄しているわけではない事を知る直前にいる。美禰子は三四郎を愚弄する意志を持たないし、自惚れを罰する意志も持たない。しかし、美禰子の存在自体が三四郎の自惚れを罰する意味を持っている。客観的にそのような関係にある。愚弄は三四郎の自惚れによって生じ、それがもたらす人間関係の現実的結果によって三四郎を罰する。それが美禰子との関係によって生じるから、三四郎にはそれが美禰子の意志に見える。さらに、三四郎は美禰子が自分を自惚れさせたのだと考える。美禰子の意志は、三四郎の意志を対象化したものである。三四郎のこうした意識の全体は美禰子の意志とかかわりを持たない、三四郎自身の内的な意識の展開である。
 
 漱石は三四郎と美禰子を隔てる現実として美禰子の部屋を描いている。三四郎が美禰子の部屋に入った時の雰囲気は、『野分』の高柳が中野パーティで感じた気後れと同じである。しかし、三四郎の自惚れがこの身分の違いをはっきりと認識することを妨げている。第三の世界と第二の世界の断絶をどのように受け入れるかが現実認識の方向を決める鍵である。三四郎以外の人物はすべて美禰子の世界との断絶を意識しているが、分離は抽象的である。この愚弄の秘密を具体的に明かにすることが具体的な分離である。広田は、この分離を認識するための視点となっている。
 漱石は、三四郎と縁の遠い美禰子の部屋を描くと同時に、この場所で二人の会話のすれ違いをうまく描いている。焦点のあわないことを話している点では、引っ越しの場面と同じであるが、この場面のすれ違いには緊張感がある。会話ははっきりと、鋭くすれ違っている。
 
 ■ 「馬券を買ったのです」
 女は「まあ」と言った。まあと言ったわりに顔は驚いていない。かえって笑っている。すこしたって、「悪いかたね」とつけ加えた。三四郎は答えずにいた。
 「馬券であてるのは、人の心をあてるよりむずかしいじゃありませんか。あなたは索引のついている人の心さえあててみようとなさらないのん気なかただのに」
 「ぼくが馬券を買ったんじゃありません」
 「あら。だれが買ったの」
 「佐々木が買ったのです」
 女は急に笑いだした。三四郎もおかしくなった。
 「じゃ、あなたがお金がお入用じゃなかったのね。ばかばかしい」

 「人の心さえあててみようとなさらないのん気なかただのに」と美禰子が一歩踏み込むと、三四郎は、馬券を買ったのが与次郎であることに話をずらしている。ここにも与次郎の影が動いている。三四郎が踏み込むと美禰子が退き、美禰子が踏み込むと三四郎が退く関係にあり、お互いにそのような関係にある者らしい踏み込み方をしている。関係が深まらない関係に特有の関係の展開である。三四郎は美禰子の世界に入る事ができない。その反映として入るための積極的な意志を持たない。しかし、美禰子の世界から離れる意志ももっておらず、どうすることがよいのかの判断もつかない。だから、美禰子の積極性によって、美禰子に依存して自分の態度を見極めようとしている。しかし、美禰子は三四郎との関係に対して三四郎よりさらに消極的である。そのことは次のような会話ですぐに表に現れる。
 
 ■ 「そうですか。じゃ借りてもいい。――しかし借りないでもいい。家へそう言ってやりさえすれば、一週間ぐらいすると来ますから」
 「御迷惑なら、しいて……」
 美禰子は急に冷淡になった。今までそばにいたものが一町ばかり遠のいた気がする。三四郎は借りておけばよかったと思った。けれども、もうしかたがない。蝋燭立を見てすましている。三四郎は自分から進んで、ひとのきげんをとったことのない男である。女も遠ざかったぎり近づいて来ない。
 
 このあと漱石は、「光る絹を着換えたのも自分のためではなかった」と書き添えている。お互いに、相手が自分に対して積極的でないと感じれば一瞬で冷淡になる。お互いに相手に対して積極的な感情を持っているわけではない。しかし、はっきり分離しているわけでもない。不思議な、不可解な、しかし現実的で法則的な関係である。接近すれば分離が見えてくる。だから、積極的に接近しない。しかし、分離すれば誘惑や愛情が見えてくる。基本的な傾向は分離であるが、それがはっきり認識できない関係にあると同時に認識したくないという欲望が働くのが第二の世界の特徴である。第三の世界と第二の世界は法則的に分離されている。しかし、現実にどんな事実があっても、美禰子に好意を持たれており、誘惑されており、愚弄されていると感じるのが三四郎の立場の特徴であり、この幻想を破るのは非常に困難である。この分離を認めることは、孤立を認めるか、あるいは第一の世界に接近するかであり、第一の世界への接近は第二の世界からの没落を意味している。したがって、孤立か没落を受け入れない限りこの幻想を持ち続け、守り抜くための努力をしなければならない。多くの批評がそうしている。
 
 ■ 少し待てばやみそうである。二人は大きな杉の下にはいった。雨を防ぐにはつごうのよくない木である。けれども二人とも動かない。ぬれても立っている。二人とも寒くなった。女が「小川さん」と言う。男は八の字を寄せて、空を見ていた顔を女の方へ向けた。
 「悪くって? さっきのこと」
 「いいです」
 「だって」と言いながら、寄って来た。「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」
 女は瞳を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳のなかに言葉よりも深き訴えを認めた。――必竟あなたのためにした事じゃありませんかと、二重瞼の奥で訴えている。三四郎は、もう一ぺん、
 「だから、いいです」と答えた。
 
 美禰子は「なぜだかああしたかった」と素直に言っている。非難されるほどの事ではないから、三四郎も「だから、いいです」と答えている。美禰子と野々宮は個人としては愛し合い結婚する条件を持っている。しかし、野々宮は美禰子の世界に入る事を嫌っている。だから、たとえ美禰子が野々宮を選ぶ可能性がないとしても、美禰子が野々宮を愚弄するのは自然であるし、たいした事ではない。三四郎もそのことを気にするほど恋に支配されているわけではない。三四郎が野々宮に対する美禰子の態度を気にするのは、美禰子の自分に対する気持ちがはっきりしないからだけである。野々宮が美禰子に関心をもっていないことがはっきりしていれば、美禰子にとっても三四郎にとっても野々宮は大きな意義を持つ事はできない。これが、広田や野々宮が美禰子との分離を前提としている、つまり三四郎と美禰子の関係に展開が起こらないという、この作品の限界である。『彼岸過迄』の須永や『こころ』の先生は、野々宮と美禰子との愛情を無理にでも想定し、嫉妬を力としてこの曖昧な関係、曖昧な自己を超えて前に進もうとする。


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