『里芋の芽と不動の目』 (明治43年2月) 

 この作品は、珍しく鴎外の社会的関心を積極的な形式で描いている。そのために、鴎外の俗物根性や頑迷で無知な保守的官僚らしい精神が露骨に出ている。出世主義的な精神に教養をまぶした典型的な俗物インテリの精神である。
 攻撃は職工の賃銀問題である。賃銀は上げて遣れば好い。しかしどこまでも上げて遣るというわけには行かない。そんならその度合はどうして極まるか。職工の生活の需要であろうか。生活の需要なんぞというものも、高まろうとしている傾はいつまでも止まることはあるまい。そんなら工場の利益の幾分を職工に分けて遣れば好いか。その幾分というものも、極まった度合にはならない。
 工場を立てて行くには金がいる。しかし金ばかりでは機関が運転して行くものではない。職工の多数の意志に対抗する工場主の一人の意志がなくてはならない。工場主は自分の意志で機関を運転させて行くのである。
 社会問題にいくら高尚な理論があっても、いくら緻密な研究があっても、己は己の意志で遣る。職工にどれだけのものを与えるかは、己の意志でその度合が極まるのである。東京化学製造所長になって、二十五年の間に、初め基礎の危かった工場を、兎に角今の地位まで高めた理学博士増田翼はかく信じているのである。
 賃金問題は、日露戦争後、工場も労働者も多くなり、大きな社会問題として浮上していた。鴎外が賃金の決定について無知であってもやむをえない。賃金問題、労働者問題は、資本家にとっても政治家にとっても、日本史が初めて経験する深刻な問題であったから、それについて、例え反動的であろうとなんであろうと、ブルジョア的な意味であっても現実的な見識を持つのは難しいことである。鴎外の無知は、そういう歴史的状況の中であっても、資本家と労働者の階級的な対立と離れた、社会的発展や経済の問題に縁の遠い保守的な官僚らしい特別の無知である。社会発展の矛盾からかけ離れた場所にいて、身の保身にのみ関心を持ち、また持てる立場にあった鴎外は、この社会問題を、工場主個人の強い意志で解決できると考えている。鴎外が個人の意志や能力について愚かな自信を持っているのは、鴎外が傍観者であり、社会問題の深刻さをなんら認識することができなかったからである。「賃金は上げて遣れば好い。しかしどこまでも上げて遣るというわけには行かない」と官僚らしく、温情を示すことも厳しく対処することも自由にできると考えるのは、鴎外の社会的な無知と無能である。自己保身しか頭にない鴎外は社会問題を理論や法則として考えることができない。「己は己の意志で遣る。職工にどれだけのものを与えるかは、己の意志でその度合が極まるのである。」という言葉に、極端な無知と、無知故の傲慢がある。しかし、こうした社会認識上の無知は博士の愚かな観念のごく一部分である。
 増田博士は胡坐を掻いて、大きい剛い目の目尻に皺を寄せて、ちびりちびり飲んでいる。抜け上がった額の下に光っている白目勝の目は頗る剛い。それに皺を寄せて笑っている処がひどく優しい。この矛盾が博士の顔に一種の滑稽を生ずる。それで誰でも博士の機嫌の好い時の顔に対するときは、微笑を禁じ得ないのである。
 鴎外がこのんで描く「微笑」の性質の一端が示されている。博士は、厳しくもあり、優しくもある。これが鴎外の想定する力量である。職工との関係で、「賃銀は上げて遣れば好い。しかしどこまでも上げて遣るというわけには行かない。」と表現されているのと同じで、自分の意志が自由である、という愚かな自信にもとづいて、自分の気に入れば寛大であるが、しかし、いつでも厳しく対処できる力を持っていることをも示すのがこの薄気味悪い「微笑」である。鴎外は他人に評価されるために卑屈な印象を与える優しさや愛想を持っている。だから、自分の評価を気にする実力のない人間らしく、優しさや愛想が弱さではないこと、無能ではないことを印象づける必要を常に感じている。そのためにこの「ひどく優しい」顔は常に毒々しい底意地の悪い意志を内包していて、それが偽善的な気持ちの悪い印象を与える。それが鴎外の「微笑」である。
 鴎外は、博士の微笑が媚びへつらいではなくて力を背景にした余裕であることを恐ろしく馬鹿げたやり方で説明している。
 「あれか。あれは樺太へ立つ前に己の処へ来たから、己が気を附けて遣つたのだ。」
 一同耳を欹てた。この席にいるだけのものは、皆博士が人の功を奪うような人でないことを知つている。それだから、皆博士のこの詞に信を置くのである。博士は再び無邪気らしい、短い笑声を洩して語り続けた。
 「あればかりではないよ。己の処へは己の思付を貰いに来る奴が沢山あるのだ。むつかしく云えば落想とでも云うのかなあ。独逸語ならEinfaelleとでも云うのだろう。しかし己は嘘は言わないから、誰も落ち込みはしない。己は遣って来る人の性質や伎倆や境遇を見て、その人に出来そうな為事を授けるのだ。それで成功したものが、これまでに随分あるよ。妻がいつも傍で聞いていてそういうのだ。あなたそんなにお金になるような事を沢山知っていらっしゃるなら、御自分で少しして御覧なすってはどうですと云うのだ。女なんというものは馬鹿なものだ。なんでも余所でする事を好い事だと思っている。己には己の為事がある。己なんぞは会社の為事をして給料を貰っていりゃあ好いのだ。為事は一つありゃあ好いのだ。思付なんぞはいくらでもあるから、片っ端から人にくれて遣る。それを一つ掴まえて為事にする奴が成功するのだ。中には己の思付で己より沢山金をこしらえるものもある。金が何だ。金くらい詰まらないものが、世の中にありゃあしねえ。」
 博士はそろそろ巻舌になって来た。博士は純粋の江戸子で、何か話をして興に乗じて来ると、巻舌になって来る。これが平生寡言沈黙の人たる博士が、天賦の雄弁を発揮する時である。そして博士に親しい人々、今夜この席に居残っているような人々は、いつもこういう時の来るのを楽み待っているのである。
 「皆博士が人の功を奪う意志を持たない人間であることを知っている」という説明的な描写は、鴎外の人物描写のいつもの方法である。そう説明しても、無知でほら吹きである事は隠しきれない。農業も工業も生産力がひどく遅れた日本が先進諸国と競争しながら資本主義を立ち上げていくのは容易でない。それは資本家にとっても労働者にとっても同じことである。ところが傍観者で無知で、保守的な博士は、職工の死活問題である賃金を決める事も、資本家として金を儲ける事も、いとも簡単なことのように考えている。その気になれば、賃金を決める事も金儲けをすることも簡単にできるが、自分は金儲けをしたいのではない、と主張している。何でもできるが、自分の意志として愚かなインテリとして生きているのだと主張している。この無知な頭からどんなアイデアが沸き出したのかは分からない。たとえ、アイデアを生み出しても現実に利潤を生み出すには独自の能力を必要とする。しかし、博士はそんなことにはおかまいなしに、「金が何だ。金くらい詰まらないものが、世の中にありゃあしねえ。」と法螺を吹いている。博士は無知である。博士は無能であるが、遅れた資本主義国に生まれ合わせたおかげで、現在の傍観者的な立場にひっかかって生きている。遅れた資本主義の国は、こうした無駄な博士を生み出し、引きずりつつ発展しなければならない。博士は無能によって得たこの幸運を、自分の有能さと無欲による選択だと考えている。こうした意識の全体が、遅れた資本主義が生み出す精神である。しかし、こうした極端な無能の形成は、すでにこうした精神を振り捨てつつある現実をも示唆している。無知な傍観者の法螺話は没落に伴う郷愁のようなものであろう。
 「金が何だ。会社は事業をするために金がいる。己はいらねえ。己達夫婦が飯を食って、餓鬼共の学校へ行く銭が出せれば好い。金を溜めるようなしみつたれは江戸子じやあねえ。」
 こういう話になると、独り博士の友達が喜んで聞くばかりではない。女中達も面白がつて聞く。児髷の子供も、何か分からないなりに、その爽快な音吐に耳を傾けるのである。
 鴎外にはこの馬鹿話が爽快に見える。やはり鴎外の力量は、自己を偽り自己を飾り、自己を覆い隠す事に本領があって、自己を露骨に肯定しようとすると恥をさらす事になる。臆病な鴎外は、金などいらないという啖呵を切るまえに、自分はいくらでも金を儲けることができる、と説明している。負け惜しみでないと言わねばならないと感じているために、まず金儲けの能力があることを証明したつもりになって、そのうえで、金は入らないと主張している。金は入らないというのが負け惜しみでない事を証明するために、金を儲ける事はいつでもできると主張するのは負け惜しみであるだけでなく、無知である。金儲けとは別の利害や目的を追求することに能力を発揮するなら、金儲けができないことは負け惜しみではないであろう。しかし、博士には色気がある。出世だけを目的に生きてきたが、それは自分が欲を持たないからであって、やろうと思えばなんでもできたが、敢えてしなかったのだ、という負け惜しみがある。博士は地道な出世の努力しかできなかった。それだけでなく、その立場への固執の結果として、金儲けに必要な能力や努力の意味を知らないことすら理解できずに、こんな法螺を吹くにいたっている。資本家にとってもこんな無知な官僚はまったくのお荷物であろうし、実際にそうであった。
 前半の描写はあまりにも馬鹿馬鹿しいが、実はこれは博士がいかにすぐれた人物であるかをあらかじめ示しておくための前振りで、本来の主張はこのあとにある。その主張は、これまでに示された博士の優れかたと同等以上に馬鹿げている。社会問題をどうにでも解決できると豪語するこの愚かな博士は何を求めているのであろうか。
 「ある日の事、かますというものに入れた里芋を出しやがって餓鬼共にむしらせていやぁがるのだ。餓鬼は大勢いたのだ。・・江戸の坊様も手伝ってお遣なさいと抜かしやぁがる。大ぶ江戸の坊様を安く踏むようになりやあがったんだな。こうなっちやあ為方がねえ。己もそこへ胡座を掻いて里芋の選分を遣つ附けた。ところが己はちびでも江戸子だ。こんな事は朝飯前だ。外の餓鬼が笊に一ぱい遣るうちに、己は二はい遣るのだ。百姓奴びっくりしやぁがった。そして言草が好いや。里芋の選分は江戸の坊様に限ると抜かしやぁがる。」
 これがタイトルにある「里芋の芽」のことである。わけのわからない気負った言い方は別として、これだけのことなら、江戸の坊ちゃんが田舎の子供の二倍も速く里芋の芽をむしったのだから、自慢としても悪くはない。しかし、このことから針小棒大な結論を引き出すことがあまりにも非常識でインテリとしても珍しいほどの俗物根性を示している。
 「そこへ兄きがひょっこり帰って来た。お袋が馬鹿に喜んで、こうして毎日拝んだ甲斐があると云って不動様の掛物の方へ指ざしをしたのだ。そうすると、兄きは妙な奴さ。ふうん、おっ母さんはこんな物を拝んだのですかと云って、ついと立って掛物の前に行って、香炉に立ててある線香を引っこ抜くのだ。己はどうするかと思って見ていたよ。そうすると、兄きは線香の燃えている尖を不動様の目の所に追っ附けて焼き抜きゃがるのだ。片っ方が焼穴になったら、また片っ方へ押っ附けて焼き抜きゃあがるのだ。とうとう両方共焼穴にしてしまやぁがった。」
 「兄きは妙な奴だったよ。それ何とか云ったっけ。うん、田口卯吉というのだ。あれなんぞが友達だったのだ。旧思想の破壊というような事に、恐ろしく力瘤を入れていたのだな。不動様の罰だか、親の罰だか、知らねえが、間もなく病気になって死んじまやぁがった。」
 「まあ言って見れば、Fanatiker(ファナチィケル)というような人間だったのだな。古くなったがらくたを取り片附けなけりゃあならない時代には、あんな焼けな人間も道具かも知れない。兄きなんぞも、廻り合せでは大きい為事をしたのかも知れねえんだよ。」
 これが「不動の目」である。社会問題に関しては鴎外はまともな神経をもっていないことがよくわかる。息子の帰りを待って毎日拝んでいた不動の目を線香で焼き抜くというような、しかも「片っ方が焼穴になったら、また片っ方へ押っ附けて焼き抜きゃあがるのだ。」などという、底意地の悪い人間を細かに描くのは鴎外の趣味である。他でもない鴎外自身の精神の対象化である。その悪趣味な自画像を「旧思想の破壊」という思想的な立場を代表する行為として描くのは、鴎外の社会認識としての思想である。鴎外は台頭してきた自然主義や漱石や、職工の賃金問題などという、旧思想ないし旧秩序の破壊に対して陰険な憎しみに満ちた認識を持ち、それを表現せずにいられないようである。鴎外の認識は現実の社会や思想の運動にまったく届かず、ただ社会と思想の新しい動きが自分と対立しており、それを到底受け入れられることができない事、しかも、それに対抗することもできず、憎悪し恐れることしかできないことを自覚しはじめている。
 このようなFanatikerなやけくその思想に対して、鴎外はどのような思想を健全と考えているのか、それも書いている。
 「己なんぞも西洋の学問をした。でも己は不動の目玉は焼かねえ。ぽつぽつ遣って行くのだ。里芋を選り分けるような工合に遣って行くのだ。兄きなんぞの前へ里芋の泥だらけな奴なんぞを出そうもんなら、かます籠め百姓の面へ敲き附けちまうだろうよ。」
「己は化学者になって好かったよ。化学なんという奴は丁度己の性分に合っているよ。酸素や水素は液体にはならねえという。ならねえという間はその積りで遣っている。液体になっても別に驚きゃあしねえ。なるならなるで遣っている。元子は切ったり毀したりは出来ねえ。Atom(アトオム)はatemnein(アテムネイン)で切れねえんだという。切れねえという間はその積りで遣っている。切れたって別に驚きゃあしねえ。切れるなら切れるで遣っている。同じ江戸子でも、己は兄きのようなFanatiker(ファナチィケル)とは違うんだ。どこまでもねちねちへこまずに遣って行くのも江戸子だよ。ああ馬鹿に饒舌ったな。もう何時だろう。」
 博士が西洋の学問をしたことについては目に蛸が出来るくらいに読まされている。博士が不動の目玉を焼くような破壊的な思想を持たないのも分かっている。しかし、そのことと「ぼつぼつ遣つて行くのだ」は関係ないであろう。不動の目玉を焼くという無茶な行動で代表させているのは旧思想の破壊という、あまりにも抽象的とは言え、一応社会的な内容を持っている。それに対立するのはもっとも抽象的には旧思想を守るということであろう。ところが鴎外は「ぼつぼつ遣る」などという、やり方、形式の話にしてしまう。どこまでもねじ歪んだ、端的さのない精神である。旧思想を守るのだとは言いにくいのであろうか、それとも思考上の単なる無知無能であろうか。ぼつぼつ旧思想を守るのが鴎外らしい所であるし鴎外にはそれしかできない。しかし、ぼつぼつ遣るかどうかは内容とかかわらない。ぼつぼつ下らない事を遣る事もあろうし、ぼつぼつ優れた仕事をすることもあるし、実際は大胆な仕事のためにはぼつぼつ遣る必要もあるし、大胆なやりかたとぼつぼつ遣るやり方を分離することなどできるものではない。「どこまでもねちねちへこまずに遣つて行く」のは鴎外のやり方である。しかし、内容抜きに、ぼつぼつ遣るとかねちねち遣ることを社会問題に対置するのはあまりにも無知である。鴎外が社会問題に関していかに無縁になり思想が貧弱になっているかがわかる。鴎外は自分を肯定する思想を持たす、ねちねち、ぼつぼつやるという、内容を不問にした、意地だけでやりつづける几帳面な自分の性格だけを肯定している。鴎外は保守的な官僚としてすでに資本主義の発展に対しても何ら積極的な役割を果たすことができないどころか、思想としては敵対的ですらあり得なくなっている。社会的に意義のない、社会に対して傍観者の立場にいる保守的な官僚は、反動的で無意味な仕事をねちねちぼつぼつ遣っていく以外にないであろう。それには意地や負けじ魂が必要である。やるべき内容が社会的な意義を持っている場合は、それをやり遂げるのに意地とか負けじ魂という形式は取らないものである。内容がなんであれ、山県有朋にすり寄りながら、自分の立場をねちねち、ぼちぼち守っていくのがこれからの鴎外の人生である。

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