『青年』-1 (明治43年3月) 

 「青年」というのは、明治の社会で発展しはじめた都会の生活に巻き込まれ、新しい自我を形成する若者という意味を持っている。田舎から都会に出てきて、新しい社会的矛盾に直面する運命を描くのは、漱石の「三四郎」と同じ歴史的課題である。
 漱石の三四郎は、都会で発展しつつある新しい人間関係に深く関係する事なく終わる。都会の人間関係を新たな視点で観察しはじめた漱石は、三四郎が都会の表面に触れただけである事を漱石自身の社会認識の新たな出発点として描いている。社会的認識が表面的であることの自覚が、漱石のこれまでの作品の成果であった。都会の具体的な矛盾に触れる事のない三四郎にくらべると、「青年」の純一は、具体的な矛盾にまみれているように見える。運命の通過を眺めているかのような三四郎に対して、純一は、自分の経験を反省し、苦悩として受け止め、その意味を明らかにしようと苦闘している。こうした違いは、「三四郎」でようやく作家としての出発点に立った漱石と、作家としての終盤を迎えようとしている鴎外の違いでもある。
 純一はまず、都会の汚濁にまみれていない純真な青年として描かれている。「色の白い、卵から孵つたばかりの雛のやうな目をしてゐる青年で」、「理想主義の看板のような、純一の黒く澄んだ瞳」を持ち、財産家の子息で、作家になるために上京してきた。鴎外は、「曇のない黒い瞳」で表される純一の純真さに、能力の可能性を認めている。鴎外は、この純粋性を『舞姫』以来高く評価している。純一は、『舞姫』の豊太郎の別の側面である。
 純一は金持ちの子息で、「下宿屋というものが厭になっているので、どこか静かな処で小さい家を借り」ることのできる地位が想定されている。貸家の「婆あさんの方でも、純一の大人しそうな、品の好いのが、一目見て気に入ったので」とも書いており、上流の世界の青年である。こうした境遇を漱石は「こころ」の中で先生の悲劇的な運命の必然として描いている。この作品でもこの境遇の持つ必然が展開される。このような境遇は日本史の必然としての深刻な矛盾を孕んでおり、純一の運命もその必然を逃れる事はできない。鴎外は、これまでの人生の集大成とも言えるこの作品で、漱石が明らかにした、この境遇の矛盾の淵に飲み込まれようとしている。
 今東京で社会の表面に立っている人に、国の人は沢山ある。世はY県の世である。国を立つとき某元老に紹介して遣ろう、某大臣に紹介して遣ろうと云った人があったのを皆ことわった。それはそういう人達がどんなに偉大であろうが、どんなに権勢があろうが、そんな事は自分の目中に置いていなかったからである。それから又こんな事を思った。人の遭遇というものは、紹介状や何ぞで得られるものではない。紹介状や何ぞで得られたような遭遇は、別に或物が土台を造っていたのである。紹介状は偶然そこへ出くわしたのである。開いている扉があったら足を容れよう。扉が閉じられていたら通り過ぎよう。こう思って、田中さんの紹介状一本の外は、皆貰わずに置いたのである。
 自分は東京に来ているには違ない。しかしこんなにしていて、東京が分かるだろうか。こうしていては国の書斎にいるのも同じ事ではあるまいか。同じ事なら、まだ好い。国で中学を済ませた時、高等学校の試験を受けに東京へ出て、今では大学にはいっているものもある。瀬戸のように美術学校にはいっているものもある。直ぐに社会に出て、職業を求めたものもある。自分が優等の成績を以て卒業しながら、仏蘭西語の研究を続けて、暫く国に留まっていたのは、自信があり抱負があっての事であった。学士や博士になることは余り希望しない。世間にこれぞと云って、為て見たい職業もない。家には今のように支配人任せにしていても、一族が楽に暮らして行かれるだけの財産がある。そこで親類の異議のうるさいのを排して創作家になりたいと決心したのであった。(p75)
 鴎外は青年の能力と独立性を、有名な作家に頼る事も、高官に頼る事もせず、学士や博士になることも望まず、地位や金を求めるのでもなく、純粋に創作だけを望み、自分の精神の力によって社会と対峙する決意を持つ青年として、つまり実際の鴎外とまったく逆の立場を想定している。純一は都会の現実に一人で立ち向かい、しかもその自分を深く反省している。自分は都会の渦巻きの中に入っていないのではないか、と考え、その渦巻きを自分の力だけで経験しようとしている。これが鴎外の想定する、青年の自我の出発点である。無知で素朴な田舎者の三四郎を遥かに超えているかに見えるが、実際は鴎外の想定とは全く違う青年が描かれている。
 純一の決意は形式的には「三四郎」以前の漱石に似ている。漱石はこうした決意が、都会の現実との対立や独立性を意味せず、精神の無力と孤立性を意味することを理解した結果、「三四郎」でもう一度社会を見直そうとしている。老成した鴎外は素朴にも、この単純な決意が独立的な精神であると思い、純一が都会の人物を超えた優れた青年であると思っている。漱石が三四郎を無知な田舎者として描くのは、歴史的に新しく形成されている都会の矛盾を知らないからである。三四郎の田舎者のエリートらしい自負は都会の人間関係に接触する事で壊されていく。どれほど有能であっても、都会の矛盾にまみれることなしに歴史的な社会認識を得る事はできない。鴎外は、社会的認識の深さを精神の本質とする視点を持たなかった。そのために、知的な教養や純真さや趣味のよさを精神的な優位として描いている。青年を評価する価値基準が狭いエリート世界の教養的な資質に限られており、そのために純一の田舎者らしいエリート意識は壊されるのではなく、強化されている。
 純一は博識のために都会に出ても気後れせず、都会の人間にも一目置かれる。その博識は、現実の認識とは関わりのない知識の羅列である。汽車や自動車が都会を変える基本的な力であることを漱石は初期作品からつよく意識していた。しかし、鴎外にはそんな現実は見えず、汽車をみても自動車をみても、どの小説にそれを旨く描いているかという自分の博識に関心を持っている。博識の披露が社会的な無知の披露になっている。赤シャツと野太鼓の会話かと思われるような描写のあと、「拊石といふ人は流行に遅れたやうではあるが」とついでのように書いている。漱石は時代に遅れていると自覚し、時代に追いつこうと努力して時代を捕らえることができた。鴎外はロマン主義や自然主義の流行にすぐに反応して書き方をまねる器用さを備えていた。しかし、その器用さをもってしては時代に追いつく事ができなくなっていることをこの作品は示している。
 純一は、「まだ田舎から出たばかりで、なんにも遣つてゐないのです」、と謙遜しているが、「大村の方では田舎もなかなか馬鹿にはならない、自分の知っている文科の学生の或るものよりは、この独学の青年の方が、眼識も能力も優れていると思うのである。」と書いている。それは、純一が、語学ができて、その証拠にマアテルリンクの要点が掴みにくいことを理解できているからで、大村との信頼関係がこの一点で形成されている。大村と純一は、無意味な形式的な、大雑把で、なにか大きな事を知っているような雰囲気を描いているが、実際は何も描かれていない。これは鴎外自身の知識のあり方である。二人の会話は、すぐれた人物の描写ではなく、お互いを優れた人物だと思っており、優れた人物だという印象を与えたいと思っている人物の描写である。「微笑が閃く」などと繰り返される描写はいかにも自己満足的で形式的である。
 
 純真で有能な純一は、有力者の紹介によるのでもなく、望んだのでもなく、自分の博識と語学力の力で、金持ちの未亡人に信頼された。坂井夫人は、「旧藩主を始め、同県の人と全く交際を絶って」、「その生活は一の秘密だということであった。」という特別な夫人である。人間関係の喧騒を離れて孤立的に生活している坂井夫人との関係では、都会の複雑に絡み合った人間関係に巻き込まれる危険がない。鴎外は夫人との関係に、複雑な秘密めいた、予測できない何かがある、と描いているが、それは夫人の個人的な秘密であって、都会の複雑な人間関係としての秘密ではない。
 都市が人々を引き寄せ、複雑で流動的な人間関係と新しい精神を形成していた。都会が形成する新しい人間関係は、謎に満ち、秘密に満ちており、三四郎にとっては自分自身の運命や意識すら謎であり秘密であった。純一は都会や文壇について、悟りきった様に冷やかに語っている。純一は、都会の現実にも人物にも気後れすることなく、都会になじみ、すでに多くを知り尽くしている。そこで、純一が関心を持つのは、都会の渦巻きから離れた未亡人の生活と「妙な目」の謎である。しかも、この孤立的な関係のなかで、純一はさらに孤立的な精神を成長させていく。純一は、偶然のいたずらによって、自分の意志とかかわりなく、特別の秘密に興味を抱いたかのように描写されているが、実は純一のよく知った、通い慣れた、自分自身の世界に閉じこもろううとしている。
 偶然によるか、夫人に対する知的な関心によるか、情欲によるかにかかわらず、夫人との関係に入ることは都会の渦巻きから離れることである。純一は純真なまま、社会的な経験や認識を得ることなく、また社会的な矛盾との関係で自己を検証される恐れもなく、鴎外が知る自己自身の矛盾のなかに止まる事ができる。鴎外の精神は、こうした自己限定の過程を精神の拡大であり発展であると考えるほどに限定され、広がりを失っていた。鴎外は、有能で独立的な青年を想定しながら、不自由で閉ざされた世界に入り込む青年を描いている。純真で有能だからではなく、精神の限定と歪んだ関心のために坂井夫人との関係が生ずる。そして関係の結果は純一の孤立的な傾向の確定である。
 そんならどうしたら好いか。
 生きる。生活する。
 答は簡単である。しかしその内容は簡単どころではない。
 一体日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門を潜ってからというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駈け抜けようとする。その先きには生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり附くと、その職業を為し遂げてしまおうとする。その先きには生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。(p105)
 なにやら深刻そうな自問である。こうした抽象的な疑問は中学生や高校生くらいになると自然に沸いてくる。生きるとは何か、生活とは何か、といった抽象的な疑問が思想の形式として生ずる。こうした抽象的な疑問を具体化していくのが思想の発展である。こうした疑問自体を深刻であると考えている間は思想の世界には一歩に入る事ができない。思想を気取っているだけである。大量の本を読んでいても、こんなことを真面目に日記に書いている純一は、まだ思想を知らない青年である。純一は、こうした抽象的な問題意識を持つと同時に、未亡人との関係や瀬戸に金を貸すことに係わる細かな処方箋的な関心も同時に一般世を持つと考えている。金の借り方の形式や、断ることのさまざまの結果を、鴎外らしく几帳面に、厳格に、小理屈に満ちて考察することの要点は、面倒な関係に巻き込まれない処方を探すことである。鴎外にとってはこうした状況こそ自分の毅然とした態度を示し、自分の地位の高さを確認し示すための状況であり機会であった。
 日常生活における直接的で空虚な道徳的反省には、もう一つの意味がある。それは本当の動機を隠し、奥深い関心を装うことである。純一は日記の中で、なぜ日記を書くかを問題にし、生きるとは何か、生活とは何か、を問題にし、日曜だから瀬戸が来た、と書いて、金の貸し借りについて書いている。これらはすべて鴎外らしい日常的な関心事である。ところが鴎外はこの同じ関心を加工して、「しかし俺はこんなことを書くつもりで日記を開けたのではなかった」と、自分の日常的な、本当の関心が、別の本質的な関心を覆い隠しているかのような書きかたをしている。「舞姫」にも、「あらず、これは別に故あり」とあった。自分の自然な関心を思い入れたっぷりに描いたあと、それがより深い内容を隠すための虚偽であったかのように振る舞う虚偽である。これは意識した、工夫した虚偽ではなく、鴎外の自然な心理のあり方で本能的な技巧である。深刻な苦悩を持たない鴎外が深刻さを表現するために必要とする知恵である。自己を偽ることなく他を偽る自然な知恵の巧みさには、決していい印象を受けないものの感心させられることが多い。
 こうした思わせぶりは、隠された内容の貧しさから来るものなので、その隠されたものが描かれると効果は帳消しになる。純一が日記で隠しているふりをしているのは、坂井婦人に対する関心である。坂井夫人との関係を複雑に、深刻に見せる工夫である。苦悩が深いから直接ふれることができないのではなく、苦悩が浅いために、端的に書くと薄っぺらになること、より深刻には、鴎外がどのような内容であろうと、端的に内容に入っていけないこと、さらに言えば、端的に表現することができない関係のなかにいつも身を置いているということ、そして決定的には自分の行動と精神の意味を認識することができない、ということである。だから、なかなか書けないという、苦悩と関係のない前振り自体が鴎外の本来の精神の内容であり、その背後に客観的な内容が隠されている。
 午後から坂井夫人を訪ねて見た。有楽座で識りあいになってから、今日尋ねて行くまでには、実は多少の思慮を費していた。行こうか行くまいかと、理性に問うて見た。フランスの本が集めてあるというのだから、往って見たら、利益を得ることもあろうとは思ったが、人の噂に身の上が疑問になっている奥さんの邸に行くのは、好くあるまいかと思った。ところが、理性の上でproの側の理由とcontraの側の理由とが争っている中へ、意志が容喙した。己は往って見たかった。その往って見たかったというのは、書物も見たかったには相違ない。しかし容赦なく自己を解剖して見たら、どうもそればかりであったとは云われまい。
 己はあの奥さんの目の奥の秘密が知りたかったのだ。(p108)
 鴎外は深い葛藤を描けないが、深いと見せかける方法は随分訓練し、熟練している。鴎外自身はこれを深刻な葛藤と思い、表現を工夫しているが、その工夫が葛藤の無内容を示している。つまらない葛藤の大げさな描写はつまらなさの強調である。思慮を費やし、理性に問うてみたことの内容は、とかくの噂のある未亡人の所に行くべきか、ということである。未亡人のところに行ってみたいのは、書物を見たいからである、しかし、容赦なく解剖すれば、本ではなく奥さんの目の奥の秘密が知りたかったのだ、と自己を告白している。この告白に純一の精神が表れている。書物にではなく、奥さんに興味がある、というのが純一の秘密ではない。こうした無意味な自己解剖を、深刻な自己認識だと考える無能が純一の秘密である。
 純一は、坂井夫人のところに行く動機の二重性、動機の不純を問題にしており、鴎外はそれが深刻な自己認識であると、考えている。多重な動機を持ち、多重な動機を詮索する平凡な自己認識が鴎外の初期作品からの特徴である。鴎外はこうした反省をする純一を客観化できず、純一と坂井夫人との関係の必然を認識対象にできない。純一の葛藤の背後には、この葛藤を生み出す坂井夫人との関係の必然があり、この堕落した関係がこの軽薄な葛藤を生み出している。金持ちの未亡人の所に行くことの本当の動機が情欲であるかどうかの葛藤は深刻ではない。しかし、この軽薄な葛藤を生み出すだけでなく、この軽薄な葛藤を深刻だと思い込むことをこの必然が強制している。この関係が無内容であるからこそ、純一は深刻な葛藤を探し、深刻な葛藤の中に安住することができる。自分自身にとっても深刻であり得ないほどの単純な葛藤を、深刻な葛藤と信じて葛藤を演じることができるのは、坂井夫人との関係がどんな危険をも含んでいないからである。
 純一は、坂井夫人との関係を悪いもの、不純なものと認識した上で関係し、坂井夫人との関係が間違いであったと理解して関係を絶つことになる。この上流的で孤立的な情事から純一は自分を救い出すことで成長する。この経験は深刻な結果をもたらした。鴎外はそれを精神の成長であると信じているが、実際は堕落の過程である。そして、非常に重要なことは、この堕落が、鴎外自身に深刻な自己認識を迫ることである。
 己の日記の筆はまだ迂路を取っている。己は怯懦である。
 久しく棄てて顧みなかったこの日記を開いて、筆を把ってこれに臨んだのは何の為めであるか。或る閲歴を書こうと思ったからではないか。なぜその閲歴を為す勇気があって、それを書く勇気がないか。それとも勇気があって敢て為したのではなくて、人に余儀なくせられて漫りに為したのであるか。漫りに為して恥じないのであるか。(p111)
 坂井夫人との関係には複雑な内容はない。しかし、純一はその無内容な関係について反省しなければならない。鴎外はここで、坂井夫人の部屋の様子や坂井夫人の服装やしぐさの観察を描いている。こうした関心の背後に、重要な内容が隠されているかのように鴎外は描いているが、実は何もなく、葛藤を深刻に見せるる努力だけがある。金持ちの未亡人の様子を、つやっぽいような、秘密のような、罪のような、後ろめたいような謎を予想させて描くことが鴎外の力量である。純一は、こうした文士的な興味を持って艶っぽい未亡人に関心をもっている。そして、こうした関心の背後に純一が意識しているのとは別の、深刻に堕落した関心が隠されている。
 純一は「おれは怯懦である」と書いている。実際に怯懦である。純一は、書かねばならない事を明確に書かない事を怯懦としているが、本当の怯懦は端的に書くべきものを持たないことである。金持ちの未亡人との関係にぐずぐずと人生を浪費していることが怯懦であり、それについてつまらない思考を巡らすのはその関係が生み出す第二の怯懦である。そしてこの二つの怯懦は、より深刻で本質的な怯懦を隠す役割を果たしている。「俺は怯懦である」という反省は、怯懦を超えるのではなく、怯懦な性格に特有の葛藤である。怯懦の否定や批判ではなく怯懦そのものであり、怯懦の肯定であり実践である。

 純一は、坂井夫人との関係で、涌き立つ血や一種の力を感じた。平生の自分が「魚の血を蓄えていたのではないか」と思っていた純一にとって、新たな自分の発見であった。これは『ヰタ・セクスアリス』に描かれていた鴎外の自己認識である。自分に性欲があることを坂井夫人との関係ではじめて自覚することには意味がある。涌き立っていた血がひいた後、「思想が段々秩序を恢復して来た。澄んだ喜びが涌いて来た。」と書いている。純一が、沸き立つ血や一種の力を経験しなかったのは、悟性が勝っていたからである。純一の悟性は性欲を抑制する働きをもっていた。純一の悟性の役割は性欲を抑制することであった。
 坂井夫人との関係は血を涌かせ、坂井夫人との関係を抜け出せば、冷静な整然とした思想の世界、澄んだ喜びの世界に帰る事ができる。だから、素質として情熱も悟性も持っている。今、理性的な喜びの中に生きる自分と、坂井夫人との関係を求める自分が葛藤している。金持ちの未亡人に対する情欲と、勉強しようとする悟性が葛藤している。そして、鴎外はこの葛藤が深刻であること考え、この葛藤がいかに深刻であるかを描こうとしている。難しい課題である。
 苦みはない。そんなら甘みがあるかというに、それもない。あのとき一時発現した力の感じ、発揚の心状は、すぐに迹もなく消え失せてしまって、この部屋に帰って、この机の前に据わってからは、何の積極的な感じもない。この体に大いなる生理的変動を生じたものとは思われない。尤も幾分かいつもより寂しいようには思う。しかしその寂しさはあの根岸の家に引き寄せられる寂しさではない。恋愛もなければ、係恋もない。
 一体こんな閲歴が生活であろうか。どうもそうは思われない。真の充実した生活では慥にない。
 己には真の生活は出来ないのであろうか。己もデカダンスの沼に生えた、根のない浮草で、花は咲いても、夢のような蒼白い花に過ぎないのであろうか。(p115)
 坂井夫人との関係には、霊はない。愛情はない。充実はない。しかし、これが純一の唯一の深刻な経験である。坂井夫人との関係が情欲的なだけであったことは、単純な経験的事実である。このような関係が純一を持つことが必然である。そして、これが真の生活であろうか、という疑問の答えは単純である。それは真の生活ではない。そして、真の生活でない生活が純一の唯一の生活であり、重要な意義を持っていることも真である。
 とかくの噂のある、秘密めいた金持ちの未亡人との情事は、純真で作家志望の純一にふさわしくない。しかし、純一は、坂井夫人との関係が充実でないことを認識している。ここに葛藤がある。純一には、坂井夫人と自分の関係を道徳的に非難する力を持っている。だから、堕落した関係の経験は、純一の高度の道徳的精神の検証であり、その力が発揮される場でもある。堕落した関係を否定することで、純真で理性的な自己に、検証を経て回帰することができる。坂井夫人は積極的であるが愛情があるように見えない。それは何であろうか、という疑問は、純一の知的な好奇心の表現であると同時に、坂井夫人の不誠実や悪意を予測させる。鴎外は人間関係の中にこうした否定的なものを求め、見つけ出し、形成する。無駄とも思える人間関係へのこうしたかかわり方は鴎外の多くの作品に描かれている。純一にとって人間関係は、他を否定し、自己を肯定するための手段である。人間関係を否定的に認識することが、人間関係から離れる自己の道徳的肯定を意味している。そのために純一は、坂井夫人との関係を、初めから、表面的に全体的に否定的に認識した上で敢えて近づいている。
 坂井夫人との関係を否定的に認識することは、純一が坂井夫人との関係から自由であること、坂井夫人との関係に従属せず、独立的であること、関係の中で自分自身でありつづけることを意味しているように見える。純一にとって、関係が希薄であること、消極的であることが自分の独立性と自由である。これが鴎外の基本的な考えかたである。しかし、独立的に見える純一の精神は坂井夫人への従属である。坂井夫人の表面的な否定に依存して自己を肯定するからである。
 純一は坂井夫人との堕落した関係に依存して、この関係の否定によって自己を形成している。わかりきったほど否定的な関係を否定することで、自己を肯定することは、錬金術的な課題である。この無意味な肯定の努力において純一は一層堕落する。他人を道徳的に否定することを自分の高さとする価値観の実践は堕落の過程であり、精神の枯渇の過程である。あらゆる人間関係から孤立する過程であり、孤立を肯定する過程である。鴎外は、この過程を新しい精神の誕生の過程として描写している。
 純一は坂井夫人と同じ価値観を持っている。鴎外は坂井夫人の価値観を超えることはできない。鴎外にとって、夫人の価値観において高く評価されることが独立性の前提である。純一は同じ価値観の中で、道徳的により高い精神を持つことで独立的であろうとする。そのために、坂井夫人と同じ価値観の内部で、坂井夫人にまず高く評価されることが必要になる。語学力と美少年ぶりで上流夫人に受け入れられたが、純一にはそれ以上の能力がある、という自尊心である。純一は、他人の高い評価による自己肯定においても、対象の否定による自己肯定においても、坂井夫人に依存している。
 それに宿主なしに勘定は出来ない。問題はこっちがどう思うかというばかりではない。向うの思わくも勘定に入れなくてはならない。有楽座で始て逢ってから、向うは目的に向って一直線に進んで来ている。自分は受身である。これから先きを自分がどうしようかというよりは、向うがどうしてくれるかという方が問題かも知れない。恋愛があるのないのと生利な事を思ったが、向うこそ恋愛はないのであろう。そうして見れば、我が為めに恥ずべきこの交際を、向うがいつまで継続しようと思っているかが問題ではあるまいか。(p117)
 ここで自己弁護、責任転嫁の症状が出ている。自分の意志ではなく坂井夫人の意志が問題である。この関係は恥づべき交際である、自分は受け身である、と考え、純一は、坂井夫人はいったいどんな意図を持っているのか、という知的な好奇心によって坂井夫人とつながることになる。坂井夫人との関係から、自分の積極的な意志を消し去るのが自己保身の第一歩である。純一は坂井夫人に引きずり回されている。坂井夫人が純一を誘惑し、純真な純一は、その誘惑に抵抗しきれない。それは純一が若く純真だからで、この関係を断絶する強い意志を持つことが、純一の自己の回復であり独立であり、成長であるという内容で坂井夫人との関係が理解されようとしている。坂井夫人との関係は、純粋さ故の弱点であり、分離によって純真さは回復される。非常に単純な手続きである。

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