『青年』-2 (明治43年3月) 

 坂井夫人との関係が深まるにしたがって、純一は、「手管」や「手段」を感じるようになり、坂井夫人への不満や恨みを意識し始める。しかし、そうした感情に支配されているのではなく、自分の中にそうした感情が生まれてくるのを冷静に理解し、受け入れている。鴎外は同時に、純一の精神の他の側面を示すために、「お雪さん」との関係を対比的に描いている。鴎外の貧しい精神世界の中で、この二つの対利的精神は、ともに空虚であるとはいえ非常に重要な意味を持っている。
 お雪さんは自分を見られることを意識しているということに気が附いた。それは当り前の事であるのに、純一の為めには、そう思った刹那に、大いなる発見をしたように感ぜられたのである。なぜかというに、この娘が人の見るに任す心持は、同時に人の為すに任す心持だと思ったからである。人の為すに任すと云っては、まだ十分でない、人の為すを待つ、人の為すを促すと云っても好さそうである。しかし我一歩を進めたら、彼一歩を迎えるだろうか。それとも一歩を退くだろうか。それとも守勢を取って踏み応えるであろうか。それは我には分からない。又多分彼にも分からないのであろう。とにかく彼には強い智識欲がある。それが彼をして待つような促すような態度に出でしむるのである。
 純一はこう思うと同時に、この娘を或る破砕し易い物、こわれ物、危殆なる物として、これに保護を加えなくてはならないように感じた。今の自分の位置にいるものが自分でなかったら、お雪さんの危いことは実に甚だしいと思ったのである。そしてお雪さんがこの間に這入った時から、自分の身の内に漂っていた、不安なような、衝動的なような感じが、払い尽されたように消え失せてしまった。(p145)
 鴎外の作品では美しい女についてのこうした空想が繰り返し出てくる。お雪さんに対する情欲的な好奇心から自分が一歩進んだら、それを受け入れるかどうか、と考え、他の男だったら、お雪さんはひどい目にあうだろうが、純一は保護する必要を感じている、という展開も鴎外の好みの空想である。お雪さんとの関係は秘密の生活をしている未亡人との関係と違って、純一を都会の未知人間関係に引きずりこむ危険がある。少なくともお雪さんの人生とまともに向き合わなければならなくなる。しかし、坂井夫人との関係は肉の関係だけで終わり、坂井夫人と関わりなく、深い反省を得て安全に身を引くことができる。お雪さんの好意を感じ取る色気はあるが、純一の主な関心ではない。お雪さんを「破砕し易い」、「危殆なる物」と観察し、保護を加えなくてはならないと感じ、積極的な関係を持とうとせず、坂井夫人との関係に積極的である。お雪さんとの関係は、鴎外の処理できない矛盾を持つ関係として回避されている。
 純一は自分に対するお雪さんの好意を味わった後、ラシーヌを抱えて坂井夫人の所に行く。『舞姫』の時代のように、純真な若い娘と関係して、その関係を分離するために精力的にごまかしつづける運命を描く気力はもうないし、それは社会的に通用しなくなっている。お雪さんとの関係は空想の世界に追いやられている。坂井夫人との関係は、鴎外が追い込まれた安住の地である。鴎外もこの時代には罪に汚れない道徳的な潔白だけで自分を肯定することはできない。矛盾を回避する臆病で孤立的な精神にとっても新しい境地が必要になっている。
 鴎外は、孤立的精神の新しい境地を探るにあたって、坂井夫人との関係を、純一がなぜ必要とするのかを、様々の道徳的な葛藤として繰り返し描いている。鴎外はこの葛藤に何かが隠されているし、ここに活路を見いだす以外にないことを感じているのであろう。純一は自分の行動と意識を日記の形式で反省し、しかも、恥辱を語るペエジを日記に添えたくない、と書き添えている。この添えたくない意識も反省の対象である。純一は恥辱的な関係の中になぜ入っていくのか、またなぜその恥辱的な関係を日記に書き残さねばならないのか。「舞姫」の場合は自己を美しく偽るためであることがはっきりしていた。しかし、純一は豊太郎と違って、恥辱の経験を書きつけている。ロマン的な豊太郎が恥辱を記録しなければならない運命にたどり着いたことは鴎外にとっても意外な展開であっただろう。純一には、豊太郎のようなロマン的な愛情物語ではなく、恥辱的な関係が必要であり、それを必要とする自己の認識が必要である。書き添えたくない、内容を、書き添えたくない自己とともに記録し自覚しなければならない。
 純一は自分が坂井夫人の所に行くのは、情欲のためである、と繰り返し書いている。しかし、それが恥辱的な関係であることも理解している。その恥辱を経験するために坂井夫人の所に行く理由は純一自身にも分からない。純一は、情欲の満足を求めているのではないし、恥辱を求めているとも思えないからである。したがって、純一は、自己を解剖して、坂井夫人の所にいくのは情欲のためである、そしてそれを告白することが恥辱的である、という自分の行為の表面的な観察にまで到達しても、なお自分の行為と意識の正体が理解できない。そしてこの正体不明の自己を明らかにするために、敢えて坂井夫人に会いに行く。純一がな坂井夫人の所に行く重要な理由の一つは、なぜ行くのかわからないことである。
 
 純一が自己解剖して、人間関係を形成する積極的な動機として思いつく第一のものが情欲である。第二は情欲を押さえた、霊の関係、道徳的な意識による関係である。鴎外は情欲を一つの動機とした上で、その対立的な動機として、お雪さんに情欲を刺激された結果生まれた、お雪さんを保護したいという道徳的な意識を導入している。鴎外は、この道徳的葛藤のなかで無我夢中になって、酔ったような、熱を病んでいるような状態で坂井夫人の所にいく事になった、と説明している。困った時に熱病にかかるのは鴎外の病気である。しかし、「舞姫」の時と違ってこの時点での病気は本物である。「舞姫」での無我夢中は、自己保身のためのごまかしであったが、ここでは本当に自分の行動と精神が理解できない、という苦しみを含んでいる。鴎外にとっても純一が坂井夫人のところに行く理由がはっきりしない。しかも、鴎外の精神の中には、想定できる動機として、情欲と、情欲を押さえる道徳的な意識しかない。この貧弱な精神の中で生まれる最後の未知の精神が求められている。
 純一の反省の結果は、坂井夫人との関係を否定する意識を生み出すだけである。坂井夫人との関係自体が恥辱的である上に、積極的な欲望も意義も自分の中に認められない。そして、純一は、坂井夫人の所に行く動機がはっきりしないことが明らかになった時点で、自分が主動者であることを認めている。主動性、自分の意志をはっきりさせないことを主眼としてきた鴎外が、ここでは珍しく主動性を認めている。坂井夫人との関係に積極的な意義がないことにおいて、自分の主動性を発見するというのは、いかにも鴎外らしく、鴎外に定められた運命である。
 
 己は奥さんの態度に意外な真面目と意外な落着きとを感じた。只例の謎の目のうちに、微かな笑の影がほのめいているだけであった。奥さんがどんな態度で己に対するだろうという、はっきりした想像を画くことは、己には出来なかった。しかし目前の態度が意外だということだけは直ぐに感ぜられた。そして一種の物足らぬような情と、萌芽のような反抗心とが、己の意識の底に起った。己が奥さんを「敵」として視る最初は、この瞬間であったかと思う。(p150)
 鴎外は、坂井夫人の真面目さと落ち着きを描写して、謎の目にも何もなかったとしている。そして、純一はそれにもかかわらず、「一種の物足らぬような情と、萌芽のような反抗心」を感じたと書いている。坂井夫人が純一の敵意をもたらしたのではなく、坂井夫人によって敵意が芽生えたのではなく、坂井夫人の落ち着いた真面目な態度にもかかわらず、純一が自分自身によって敵意を生み出したことを鴎外はうまく捕らえている。
 坂井夫人自身に変化はないが、坂井夫人に対する純一の認識が変化してきた。純一の坂井夫人についての認識は、自己の像であり、意外であると同時に意外でなく、純一の必然が外に現れた期待通りの自己である。坂井夫人に初めて会った時、純一の自尊心は、坂井夫人の自分に対する高い評価を求め、見いだしていた。ここでは、自分を否定する坂井夫人を見いだそうとしている。純一にとって、坂井夫人に否定される自己が本当の自己である。
 坂井夫人についての、仮面だとか死人の顔色、などという細かな観察は、坂井夫人の一面であるとしても、会った当初は純一にはまったく意識されなかった。純一は、坂井夫人との関係が深まるに連れて、こうした否定的な観察を蓄積している。純一を高く評価した坂井夫人も、仮面のような坂井夫人も、坂井夫人を鏡にした純一自身の像である。鴎外は、褒める様な、冷静なような、奥深いような観察をして、奥さんが仮面を持ち、二重性を持ち、重苦しくて、死人のようだ、といった陰気な観察をながながと書き込んでいる。これは、鴎外が自分の心の底を覗き込んで見いだした自画像である。こうした観察は、現実に対して積極的に働きかけるための認識ではない。この認識の真実性は問題にされることなく、純一にとってはこれが結論である。こうした観察にもとづいて関係を解消していくから、この観察は坂井夫人自体の像として真実であるかどうかは問題にされることはない。関係をつくるきっかけとしての認識ではなく、関係を破壊するための対象認識である。
 坂井夫人を否定的に観察する状況を造り出しした鴎外は雄弁になり、いきいきとした、内容を含んだ文章を日記に書き込んでいる。鴎外がいきいきした観察を描くことができるのは、それは鴎外のよく知った自分の像だからである。鴎外は坂井夫人の否定的な観察のなかに自己を見いだしている。坂井夫人の中にこれまでの自己を見いだし、それをいかに否定し、超えるかが課題である。この自己の単純な対立物を求めるのではなく、冷静に、深刻に、自己を肯定するもっとも高度の形式を求める必要を鴎外は感じており、純一を否定する精神を残らず認識して、それを否定する覚悟をしている。
 己はこういう時間の非常に長いのを感じた。その時間は苦痛の時間である。そして或る瞬間に、今あからさまに覚える苦痛を、この奥さんを知ってからは、意識の下で絶間なく、微に覚えているのであったという発見が、稲妻のように、地獄の焔と烟とに巻かれている、己の意識を掠めて過ぎた。
 この間に苦痛は次第に奥さんを敵として見させるようになった。時間が延びて行くに連れて、この感じが段々長じて来た。若し己が強烈な意志を持っていたならば、この時席を蹴て起って帰っただろう。そして奥さんの白い滑かな頬を批たずに帰ったのを遺憾としただろう。
 突然なんの著明な動機もなく、なんの過渡もなしに。(この下日記の紙一枚引き裂きあり)
 その時己は奥さんの目の中の微笑が、凱歌を奏するような笑に変じているのを見た。そして一たび断えた無意味な、余所々々しい対話が又続けられた。奥さんを敵とする己の感じは愈々強まった。(p153)
 純一は、必要もなく、動機も持たずに会いに来た屈折した情熱のすべてをかけて敵意を生み出している。強烈な意志をもっていたらこの時席を蹴て帰っただろう、というのは嘘である。純一は強い意志を持って必要もないのに会いにきて、強い意志をもって必要もないのに坂井夫人と対座し、地獄の焔と烟に巻かれようとしている。これは純一の奥深い内的な意志であり欲望である。ここに外的な強制はなく坂井夫人の誘惑もない。お雪さんとの関係を挑発的に感じ取り、熱病のようになって、坂井夫人に会って地獄の様な敵意を育てるのはすべて純一の意志である。自分の意志にさえ逆らうこれほどに屈折した不可解な行動は、純一にも意識されない純一自身の内的必然に基づく強い意志なしには実践できない。
 純一は、ここに示された恥辱と敵意を必要としており、坂井夫人との関係はそれを提供できる関係であった。純一の強い意志はこの恥辱的な関係を維持する事に費やされている。恥ずべき関係と思いながら始まった関係を断ち切れば、坂井夫人との関係の全体が無意味になる。純一が坂井夫人との関係を断ち切るには、この関係を断ち切ることの意義を見いださねばならない。純一は強い意志によって、この恥辱的な関係のなかに自己を求めようと努力しているのであり、しかも、自分の意志としては断ち切りたいが断ち切る事のできない、自分では理解できない力に支配されており、どのような自己を求めているのかもはっきりしない。はっきりさせれば自己の破滅が見えることになり、純一には決して発見できない必然がそこに隠されており、発見の努力は、その必然を覆い隠す努力でもある。
 純一は情欲を含めて坂井夫人との関係を求める積極的な意志を持たない。関係を求め、関係のきっかけをつくったのは坂井夫人であり、関係が生じた後は、純一は、関係の発展を望んでいるのではなくて、関係の断絶を望んでいる。だから、坂井夫人に会いに行く理由は見つからない。複雑になるのは、単に関係の断絶が望まれているのではなく、関係の断絶によって自己を肯定できる具体的な断絶が望まれているからである。この点は「舞姫」と同じであるが、恥辱的な関係の中で自分をどのように救い出すかは、「舞姫」より難しい課題である。
 鴎外=純一は積極的な人間関係を形成する事ができないしそのなんたるかを知らないし、人間関係の形成において自己を確認し自己を肯定することができない。鴎外は常に、人間関係の崩壊ないし破壊において、自己を肯定する方法を模索している。しかし、孤立にとって、人間関係がどんな意義を持つかを明らかにすることは非常に難しい。純一は、人間関係に何も求めていないことを明らかにするために人間関係を求めているのであるから、何を求めているかをいかに追求しても明らかにならない。しかし、肝心なことは、散々骨を折って、人間関係は結局なにも与えないことを自己に説得力のある形で示した上で自己に閉じこもることである。こういう空虚な課題を背負うことが、人間関係を形成できない孤立的なエリートらしい鴎外の運命である。
 この作品の重要な特徴は、純一が坂井夫人との関係で、自分を敗北者であると意識しはじめていることである。自分の意志を外的な、他人による運命の強制として意識している。坂井夫人の誘惑や敵意を日記に書きつらねて、自虐的に自己を否定し続けている。純一はこのような感情にもかかわらず坂井夫人との関係を絶つことができない。坂井夫人との関係に踏み込み、自分を恥辱的な関係に塗れた敗北者であると意識することはできたが、まだ自分を肯定することができていない。坂井夫人の謎や意志や敵意が問題になっているなら、それを確かめればよいし確かめる方法はある。確かめるまでもなく分かっているなら強い意志で立ち去ればよい。しかし、純一は確かめないし、確かめる必要を感じていない。坂井夫人の意志というのは、坂井夫人が自分に対して悪意を持っているから、自分は坂井夫人との関係を断絶したいのか、という自分自身の意志の問題である。しかし、坂井夫人の悪意を発見しても純一はそれを原因として関係を断絶することはない。それは、坂井夫人の否定であって、自己の肯定ではないからである。
 社会のあらゆる方面は、相接触する機会のある度に、容赦なく純一のillusionを打破してくれる。殊に東京に出てからは、どの階級にもせよ、少し社会の水面に頭を出して泳いでいる人間を見る毎に、もはや純一はその人が趣味を有しているなんぞとは予期していない。そこで芸者が趣味を解していようとは初めから思っていない。(p170)
 これは、県人会の様子を、芸者の観察などを交えながらながながと描写した部分の挿入句である。純一は、illusion の打破という流行りの言葉の意味を純一らしく理解している。純一が東京に出て感じた幻滅は、「趣味を有している」人間がいないことである。純一は東京に趣味を解する人間を求めて出てきたのであろうし、自分が趣味を解することを確信している。「illusionの打破」という言葉は、自分の趣味を肯定するだけの意味に解釈されている。しかし、客観的には、純一は自分が持っているillusionを打破する課題に対峙している。それを純一が認識できないだけである。
 この会合の席で、鴎外は、他の作品にも見られる、自分が美しい女に注目されているという観察と、それをどう解釈するか、について、少し踏み込んで説明している。こうした説明にも、鴎外自身の「illusionを打破」する傾向が見られる。
 視線が暫く往来をしているうちに、純一は次第に一種の緊張を感じて来た。どうにか解決を与えなくてはならない問題を与えられているようで、窘迫と不安とに襲われる。物でも言ったら、この不愉快な縛が解けよう。しかし人の前に来て据わっているものに物は言いにくい。いや。己の前に来たって、旨く物が言われるかどうだか、少し覚束ない。一体あんなに己の方を見るようなら、己の前へ来れば好い。己の前へ来たって、外の客のするように、杯を遣るなんという事が出来るかどうだか分からない。どうもそんな事をするのは、己には不自然なようである。強いてしても柄にないようでまずかろう。向うが誰にでも薦めるように、己に酒を薦めるのは造作はない筈である。なぜ己の前に来ないか。そして酌をしないか。向うがそうするには、先ず打勝たなくてはならない何物も存在していないではないか。
 ここまで考えると、純一の心の中には、例の女性に対する敵意が萌して来た。そしてあいつは己を不言の間に飜弄していると感じた。勿論この感じは的のあなたを射るようなもので、女性に多少の冤屈を負わせているかも知れないとは、同時に思っている。しかしそんな顧慮は敵意を消滅させるには足らないのである。
 幸におちゃらの純一の上に働かせている誘惑の力が余り強くないのと、二人の間にまだ直接なcollisionを来たしていなかったのとの二つの為めに、純一はこの可哀らしい敵の前で退却の決心をするだけの自由を有していた。
 退路は瀬戸の方向へ取ることになった。(p172)
 鴎外の作品には、美しい女との関係でこの屈折した心理が表れる。自分が美しい女に注目されている、という意識が、鴎外の主人公には、いつもボウフラのように湧いてくる。この同じ関係で、この作品では、自分を拒否している、愚弄している、という側面が意識され始めている。美しい女の好意は人間関係を形成する契機にならず、すぐさま愚弄しているのではないか、という意識が生まれ、それが敵意となり、対立的で分離的な意識が表に出ている。好意を期待し、好意によって自分を肯定する、という初期作品や、坂井夫人に会った時の精神が否定されている。これが鴎外の精神の発展である。
 関心を持つのなら、積極的に態度で示すべきで、それをはっきり示さないことは不誠実であり愚弄である。これは実は、鴎外と純一の精神の特徴である。鴎外は自己認識の直前にいる。それはおちゃらの意識として対象化されているために深く追窮されないが、自分がそういう精神の運動に巻き込まれていることを意識している。純一は、おちゃらの愚弄を感じても、おちゃらの意志を確認しようと思わないし、敵意を払拭しようとも思わない。人間関係の崩壊の過程で生ずるこうした意識を克服し、排除して積極的な関係を形成しようと苦悩しているのではない。人間関係の中で生じる敵意や愚弄といった、関係を否定する意識を重視するのは、関係を分離するためである。自分が好意を持たれていながら偶然によって関係が引き裂かれる、という初期作品の意識を超えた鴎外は、この作品では、自分が愚弄されていることを新たな自己意識として獲得することで、分離における主動的な意志を持とうとしている。
 鴎外は自分が愚弄されているという現実認識に到達した。それは人間関係を形成できない自分自身の意識である。この意識を排除して積極的な意識を形成することは鴎外の課題ではあり得ない。それは鴎外にとっては閉ざされた道である。愚弄でない関係を求めるのではなく、人間関係が愚弄であるから人間関係を持たない、という方向に進むことで、愚弄されない自己を形成しようとする。それは愚弄の完成である。鴎外は愚弄の徹底によってのみ愚弄を回避することができる。坂井夫人との関係で、愚弄される自己を認識し、確認し、関係から分離し孤立することを愚弄されない自己の確立として意識するのが新しい自己肯定である。美しい女を見れば自分に注目していると考える希望的な自尊心は、卑屈で傷つきやすい自尊心でもある。空虚な虚飾に疲れた自尊心は、傷ついた自己を確認することを、現実的な関係を回避し、自己に閉じこもる契機として意識し始めている。自己自身において肯定しうる精神を持たなかった鴎外にとって、他人に高く評価され、好意をもって見られることは自己肯定になくてはならない手段であった。しかし、そうした空虚な希望によって自己を充足することは苦痛でもある。空虚な希望は確信になることができず、愚弄されているという認識にたどり着く必然を持っている。希望的な観測に疲れた鴎外は、恥辱に満ちた坂井夫人との関係で安息を得ようとしている。しかし、この新しい安息を得るには勇気が必要である。その勇気を得るために、この古い自己肯定を何度となく持ち出している。自分が愚弄されているという新たな自己意識は、古い自己肯定の必然的な結果であり、客観的には鴎外は古い自己肯定の徹底としての新しい自己肯定に辿り着いたことになる。

 純一が、おちゃらに好意をもたれるのは、純一と坂井夫人の最初の関係と同じである。鴎外の純一は美しい女性をみると憧憬と諦観の入り交じった感情を持つ。これは、鴎外の現実認識の第一歩であると同時に、肯定的な自己認識の第一歩である。そして、この現実認識と自己認識は、現実的な矛盾を経験する以前の鴎外の、深刻な葛藤を持たない、空虚な、若い時代の意識である。明治43年の鴎外が具体的に必要としているのは、自分が愚弄されているという自覚であり敵意である。現実が自分を愚弄し、自分に敵意を持つという現実認識を受け入れることである。おちゃらとの関係で鴎外は希望的自己認識を思い出すとともに、この空虚で労苦の多い希望的観測から逃れて、自分が愚弄されているという自己認識を受け入れるための内的な力にしている。自分が好意をもって観察されているという自己認識と、その自己認識が必然的に生み出す、自分が愚弄されているという自己認識の葛藤に到達した鴎外は、自分が愚弄されているという自己認識を受け入れるために非常な労力を払っている。鴎外にとってその自覚のほうが現実に即しており、自己を安住させることができるほどに社会との対立と孤立化が進行していたにしても、自分が高く評価されているという意識を捨て去ることは容易ではない。
 鴎外が自分の精神の運動として感じ取っている、坂井夫人やおちゃらによる愚弄は、明治のインテリが遭遇した自意識の運動である。漱石は、「三四郎」でこの愚弄を描いている。
 三四郎は自分が美禰子に愚弄されていると感じている。しかし、それは美禰子の主観によるのではないことを漱石は明らかにしようとしている。漱石は三四郎が、汽車に偶然乗り合わせた女にも愚弄されていることを意識して描いている。美禰子との関係でも、汽車の女との関係でも、階級的必然によるすれちがいが愚弄として反映する。現実社会の運動と三四郎の主観の関係が、愚弄という形式をとる必然を漱石は捕らえた。三四郎は美禰子との関係に踏み込むことがなく愚弄を感じて分離された。三四郎は、美禰子に憧憬を感じながら、愚弄を感じながら運命の分離を従順に受け入れており、漱石は三四郎を愚弄の中に放置している。それが作品に淡い印象を与える。
 しかし、鴎外は愚弄の中に自分を、純一を放置することなど決してできないし、この愚弄から逃れることができないという深刻な現実認識を持つことができなかった。そのために、愚弄という現象を経験しながらも、それを一面的に軽薄に捕らえ、それを克服する自信を持って、この危険な愚弄の中に踏み込んだ。これまてすべての人間関係に対して消極的で、度胸を持つことがなかっ鴎外は、この愚弄的な関係にだけは踏み込む度胸を持っていた。しかし、それは消極性に特有の度胸であって、しかもその度胸をすら最終的に失うための度胸である。
 漱石の愚弄は人間関係の階級的分離を反映している。したがって、漱石の人間関係の分離は、その対立物である積極的な人間関係を含んでいる。階級分離によってそれぞれの階級に独自の関係が生ずるからである。しかし、階級的な関係を見ることのできない鴎外は、自己と社会一般の対立関係を愚弄として意識している。鴎外は、恥辱的な人間関係の中に、人間関係を破壊する度胸をもって一歩を踏み込むのであって、エリスとの関係の必然的な結果としての坂井夫人との関係に踏み込む度胸は、積極的な関係の可能性の最後の一片をも破壊しようとする度胸である。鴎外が坂井夫人との関係で見いだす新たな感情と意識は、人間関係の崩壊の深化を反映した感情と意識である。鴎外が発見する愚弄は、主観の二重性であり、そこから、人間に対する不審感を確信として得ている。美禰子の主観の背後の必然に秘密を見いだした漱石は、美禰子の主観から離れることが、同時にその世界と対立する世界に向かう精神を示唆し、そこに美禰子の世界と分離し独立した精神を予測している。だから、美禰子の主観と三四郎や広田の主観世界は、敵対関係を持つことなく分離され、主観的な関係は青春の淡い残照となる。漱石は主観相互の好意のままに愚弄という関係が生ずる必然を捕らえ、それを謎としている。美禰子と三四郎は必然によって分離されるのであり、それは主観の謎ではなく、美禰子も三四郎も支配され弄ばれる、日本史の必然の謎である。認識がこの必然に届く事で「虞美人草」の藤尾に対する敵意は解消され、人間不審に代わって、必然の認識が課題として現れる。しかし、鴎外の場合は、愚弄も謎も、人間不審を増幅するための意識であり、解消されるのではなく、形成され蓄積される。
 鴎外は、愚弄する自己を内面に持っていた。その自己意識の社会的必然を理解できないまま、自分自身がこの自己認識の運動に翻弄され、愚弄されない自己を求めていた。鴎外は愚弄されている自己を認識し、それが何かを明らかにしようとし、坂井夫人との関係で愚弄を具体的に経験し、その正体を知ろうとしている。正しくは、知る努力によって、その正体を覆い隠そうとしているが、その努力の意味を認識することができない。鴎外は、坂井夫人自身には愚弄する意志がないことを理解している。しかし、愚弄されているという事実は動かない。自分に好意を持つ美しい女の誰にでも見いだされる愚弄と敵意を、坂井夫人との関係でははっきり見つけ出すことができるかもしれない。そうすれば愚弄されない自己を得ることができるであろう、というのが純一の期待である。純一には、こういう意識を生み出すこと自体が愚弄の本来の意味であることが理解できない。
 人間関係に対する消極性を肯定的に解釈する虚しい努力に疲れた鴎外は、人間関係からの逃避を自由であると考えるにいたっている。おちゃらの好意を感じながら、何の関係も持たなかったことを、純一は誘惑に勝ったと感じている。鴎外は純一のおちゃらに対する敵意をも描き、純一の寛容な対応も客観的に描いており、おちゃらから距離を持った描き方をしている。鴎外の自尊心が、自分が否定されるという形式をも受け入れるようになったためである。「舞姫」では、エリスを切り捨てることは、上流の世界で認められる事を意味していたが、上流の世界での生活を経験した鴎外にとって、人間関係一般が否定的な意味を持ち始めており、自分の生きる社会全体が自分を受け入れていない、と自覚し、この状況を受け入れて肯定的に解釈することに最後の安息の境地を求めている。
 この境地を肯定する努力はすでに「ヰタ・セクスアリス」にも現れていた。純一の思慮は若いにもかかわらず、冷やかで老人のようであることを認めている。恋愛をしようと思っていたがそれもしないことも自認している。美人と見れば自分に対する好意を予測するのは変わらないが、それも冷やかな観察で、恋愛になる予感すらない。鴎外がこれまでに描いてきた精神の背後にはこうした冷やかな精神があった。それを冷やかでないものと解釈することで自己を弁護することの不可能を悟って、鴎外はこれから、自分が冷やかな精神をもっていることを認め、この冷やかな精神がいかに優れた精神であるかを解釈することに努力を傾ける。自己弁護の虚偽を一つなくして、より深い虚偽を生み出そうとしている。
 
 鴎外は純一のこうした苦し紛れの努力の合間に、大村との友情を書き込んでいる。坂井夫人、お雪さん、おちゃらとの関係では、愚弄や敵意が意識される。色気の多い純一が、自分自身の精神に愚弄される。しかし、官能も敵意もない友情はばかばかしいほどに無内容で形式的である。困難の共有はなく、信頼の根拠はなく、自分たちが特別に優れた人物だという自己満足によるだけの孤独な友情である。彼等は寂しさを自覚しているが、この「寂しがる性」というのは、自分たちが特別に優れた、孤高の存在だという満足でもある。具体的な内容を持つ関係には常に自分の意識によって愚弄されてきた鴎外にとって、こうした無内容な関係がありがたく、気が休まるのであろう。友情の証として、おきまりの外国の本の話をしている。これは鴎外にとってなくてはならない心の支えであり、ほとんど一人芝居の形式でお互いに褒めあっている。「純一は大きい涼しい目を輝かして、大村の顔を仰ぎ見た」と書くことで友情や敬意を表現できていると考えるのは鴎外の年齢ではあまりにも無知であるし精神的に貧しい。しかし、おちゃらや坂井夫人との関係のような期待や敵意や愚弄のない世界である。大村は「そんなら無遠慮に大風呂敷を広げるよ。」と宣言して、宣言通り大風呂敷を広げている。老荘、朱子学、陽明学、プラトン、キリスト、ショペンハウエル、ニイチエ、ルソオ、契沖、真淵、トルストイ、等短い文章に人名辞典より密度が濃い程に名前を並べて、「大村は再び歯を露はして笑つた」と書いている。純一=鴎外はこの書物の世界に逃げ込もうとしているかのようである。

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