『青年』-3 (明治43年3月) 

 寂しさ。純一を駆って箱根に来させたのは、果して寂しさであろうか。Solitudeであろうか。そうではない。気の毒ながらそうではない。ニイチェの詞遣で言えば、純一はeinsam なることを恐れたのではなくて、zweisam ならんことを願ったのである。
 それも恋愛ゆえだと云うことが出来るなら、弁護にもなるだろう。純一は坂井夫人を愛しているのではない。純一を左右したものはなんだと、追窮して見れば、つまり動物的の策励だと云わなくてはなるまい。これはどうしたって庇護をも文飾をも加える余地が無さそうだ。(p197)
 坂井夫人の所にいく動機を思いつきで並べては、そうであろうか、と飽きもせずに何度も自問している。「追窮して見れば」肉欲であると書いているが、肉欲はもっともありそうもない動機である。肉欲は追窮しなければ分からないような動機ではない。しかし、寂しさのために来たのでもない。はっきりしているのは、純一には自分の行動の動機、意志がはっきりしない、ということ、さらにいえば、はっきりしないことを明らかにするために、様々の動機を思いついては否定し、そして、もっともありそうもない肉欲のためであろう、と結論しているということである。
 鴎外はここで、純一が性欲に支配されているかどうかを瀬戸と自分を比較して再び問題にしている。純一は、瀬戸が「最初から計画して、けがれた行いをする」めたに人柄を陋しいと見て軽蔑している。そして、今の自分は進んで坂井夫人の所にいくのであるから、瀬戸と同じである、と厳しく反省している。しかし、純一は、性欲を満足させるために箱根に行くわけではない。純一は、自分が箱根に行く動機がはっきりしないことの意義を理解しはじめている。箱根に行くことについて、とりとめもなく、何が動機か分からないことを示すために、瀬戸と比較して自分を否定することまでやっている。これはすでに不真面目であり自己に対して真摯でない。
 鴎外は純一が箱根に行く過程を、落ちついて、ゆったりと描いている。鴎外にとって、もっとも難しい、坂井夫人のところに行く動機を処理したからであろう。純一にとって、坂井夫人の所いく理由がはっきりしないことが肝心である。小理屈や、無理な忘我の状態やお雪さんや瀬戸までも動員して、可能な限りの理由を詮索して結論を得ずに箱根に来た。箱根行きの電車に乗ってしまえば、後は坂井夫人との関係で、どのような分離がはじまるかを期待するだけである。
 この後、挿入的に次のような描写がある。
 こんな事を思っているうちに、給仕がham-eggsか何か持って来たので、純一はそれを食っていると、一人の女が這入って来た。薄給の家庭教師ででもあろうかと思われる、痩せた、醜い女である。竿のように真っ直な体附きをして、引き詰めた束髪の下に、細長い頸を露わしている。持って来た蝙蝠傘を椅子に倚せ掛けて腰を掛けたのが丁度純一のいる所と対角線で結び附けられている隅の卓で、純一にはその幅の狭い背中が見える。珈琲に creme を誂えたが、クレエムが来たかと思うと、直ぐに代りを言い付けて、ぺろりと舐めてしまう。又代りを言い付ける。見る間に四皿舐めた。どうしても生涯に一度クレエムを食べたい程食べて見たいと思っていたとしか思われない。純一はなんとなく無気味なように感じて、食べているものの味が無くなった。(p200)
 偶然見かけた女に対して非常に軽蔑的である。気が緩んでリラックスすると、こういうエリート意識が自然に吐露される。電車の中では自分が特別のエリートであり教養人である事を堪能している。こんな精神が、大村との会話では上品で知的で友情に満ちた精神として描写される。この精神において瀬戸と違って人格的であると思っている。純一や大村の上品さや上等さは、こうした下品な人間と違って、趣味をもっていて、語学ができて教養がある、ということである。読書や知識は、下層の教養のない人間と自分を区別して自分を高く保つための手段になる。漱石にとって知識は、こうした女の世界と自分の世界との関係を知り、その深淵を埋める手段である。電車の中で、「象牙の紙切り小刀」を使って本を読んでいるこの教養人の悩みは、美人の未亡人との関係をどう処理するかである。この葛藤がどれほどつまらないかがこの教養人にはわからない。純一が気にするまでもなく、純一の精神の全体、苦悩の全体はすでに「薄給の家庭教師」とは無縁の、保守的なエリートだけの精神であり苦悩である。そして、この苦悩の全体が内容として下らないにもかかわらず深刻な意味を持っているのは、こうした苦悩の全体の必然が、純一の孤立的な運命を反映しているからである。つまらない葛藤をくり返すことが鴎外の孤立的な運命の反映であることが葛藤の意味を深刻にしている。葛藤自体に積極的な意義が或るのではなく、その葛藤の空虚さ、無内容が重要な意味を持っているのである。
 鴎外は、このような描写と関連して、宿屋についた純一が、若い女と部屋を共にする場面を、わざわざ書き込んでいる。「三四郎」に描かれている場面が鴎外にも印象深かったのであろう。
 「あの東京へ参りますのですが、上りの一番は何時に出ますでしょうか」
 純一は強情に女の方を見ずに答えた。「そうですね。僕も知らないのですが、革包の中に旅行案内があるから、起きて見て上げましょうか」
 女は短い笑声を漏した。「いいえ。それでは宜しゅうございます。どうせ起して貰うように頼んで置きましたから」
 こう云ったきり、女は黙ってしまった。純一はやはり強情に見ずにいる。女の寐附かれないらしい様子で、度々寝返りをする音が聞える。どんな女か見たいとも思ったが、今更見るのは弥(いよいよ)間が悪いので見ずにいる。そのうちに純一は又寐入った。
 ・・同じ間に寝て、詞を交しながら、とうとう姿を見ずにしまった、不思議な女のあったのを、せめてもの記念だと思った。奉公に都へ出る、醜い女であったかも知れない。それはどうでも好い。どんな女とも知らずに落ち合って、知らずに別れたのを面白く思ったのである。
 これから坂井夫人に会いに行く純一が、三四郎と同じ経験をするのは、文学史上の因縁めいている。「どんな女とも知らずに落ち合って、知らずに分かれたのを面白く思ったのである」と書いている通り、鴎外はこうした邂逅と、何かありそうで何もない別れが興味深かったのであろう。しかし、具体的な関心として描かれているのは、「奉公に都へ出る、醜い女であったかも知れない」という女の容姿である。しかし、鴎外が意識できないにしても、この現象は実は鴎外のよく知る、鴎外にとって感慨の深い人間関係であり感情である。三四郎にもエリートとしての自尊心があり、エリートが特別の魅力を放っている時代に、行きずりの人間が好意をもって見てくれるという経験があり、それにともなう自負があった。しかし、エリートの世界を目指している青年が、行きずりの女との関係に深入りする事はできない。田舎から、希望をもって、期待を寄せられて都会に出てきたエリートの運命を歪める事はできない。エリートへのコースを守ることは道徳的な堅固さであるし、優秀な青年としての向上心である。どんな女とも知らずに落ち合って、何かいい印象を残しながら別れていくのが、鴎外としてはエリート的な運命を味わう感慨である。鴎外はこの人生に伴う優越と寂しさを深く味わっていた。
 漱石はこのような人生を嫌った。そのために、エリートの出世欲が生み出すこの道徳的精神を、度胸のなさという側面から重視した。三四郎はこの女の「度胸がない」という言葉に非常なショックを受け、これから自分が大学をでて出世する、と考えて元気を取り戻す事ができたと、漱石は描いている。だから度胸がない事と、エリートコースを走ることが同じである。エリートとしての人生は、社会の深刻な矛盾から抜け出し、そこに目を向ける能力を失い、そこで生きるために必要な社会的な積極性を失う人生でもある。自分を上流的に綺麗に保とうとする人格には度胸がない。それは社会全体の認識能力という側面から見た度胸の無さであり、社会のもっとも深い矛盾に対する積極的な実践的な対処能力という側面から見た度胸の無さである。
 田舎からでてきたエリートの青年である三四郎と純一は、旅館ですごす女との一夜によって、本質的に違った運命を示唆している。純一は、漱石が「三四郎」で発見し、「こころ」までの長い過程でその内容を明らかにした、度胸のないエリートインテリの破滅的な運命を、破滅の過程と自覚せずに実践している。鴎外にとっては、旅館での純一の経験は、自分が抜け出してきた、自分の人生から遠ざかっていく淡い思い出の世界との接触である。鴎外はこの女の世界から遠ざかって、坂井夫人との関係の世界に到達した。そして、その関係の意味を理解することなく、その関係に苦しめられている。旅館で過ごした女との関係を理解できず、その関係から遠ざかったことの意味が純一の経験として展開されているにもかかわらず、それを描いている鴎外にもこの運命の意味は理解できなかった。
 「虞美人草」までの漱石は、エリートらしからぬ度胸を持って、金持ちや権勢家を批判してきた。その成果として、自分の批判意識が社会的な無知であり、度胸の無さであることを理解し、自分の無知と度胸の無さの意義を明らかにするための度胸を得た。漱石の意識は汽車の女の方向を向いている。そのために、汽車の女から分離される青年の度胸のなさを描くことができた。汽車の女がエリートインテリより社会認識において優位にあることを漱石は認識しており、鴎外は単純に軽蔑し、自分の優位を信じている。エリートの優位を信じている純一は、金持ちの未亡人である坂井夫人との恥辱的な関係に踏み込む必然と度胸を持っている。漱石のいう度胸を持たないエリートは、こうした恥辱的で破滅的な経験にまみれるように運命づけられている。
 純一は度胸をもって坂井夫人との関係に踏み込んで、恥辱にまみれて、恥辱にまみれた自分を否定して、自己を復活する。形式的に見れば、純一は、三四郎のように都会の渦巻きの前で茫然と立ちすくむのではなく、坂井夫人との関係をくぐり抜けて自己を確立するかに見える。しかし、実際はそうではない。三四郎は自己を確立する端緒に立ったのであり、純一は自己を失う。三四郎は美禰子から独立し、純一は坂井夫人に依存し、依存すべき関係を解消する事で自己を失う。旅館の女との邂逅はその分岐点になっている。
 この記念を忘れさせてくれるLetheの水があるならば、飲みたいとも思って見る。そうかと思うと、又この記念位のものは、そっと棄てずに愛護して置いて、我感情の領分に、或るelegiaqueな要素があるようにしたって、それがなんの煩累をなそうぞと、弁護もして見る。要するに苦悩なるが故に芟り除かんと欲し、甘き苦悩なるが故に割愛を難ずるのである。
 純一はこう云う声が自分を嘲るのを聞かずにはいられなかった。お前は東京からわざわざ箱根へ来たではないか。それがなんで柏屋から福住へ行くのを憚るのだ。これは純一が為めには、随分残酷な声であった。(p209)
 これはもう鴎外の遊びである。具体的な内容を持たない葛藤はこうした趣味的苦悩を含んでいる。坂井夫人の所に行くか行かないか、という同じ葛藤を文章を工夫して、外国語を使って文士的な表現を遊んでいる。葛藤を大げさな言葉で表現するとき葛藤は失われている。それほど純一の無内容な葛藤は維持しにくいものである。坂井夫人との関係は恥辱でもあるが甘い苦悩でもあるといった、小理屈のような葛藤はいくらでも並べる事ができる。それは、好きな甘いものを食べに行くにあたっても無限の葛藤を表現しうるのと同じである。純一の葛藤を、大げさに表現する事、坂井夫人の所に行くのをなぜ憚るのか、という問いを「残酷」という言葉で表現することには、この葛藤の軽薄さと純一の無能が現れている。自己を失う深刻な過程にこうした軽薄さが現れること自体、深刻な運命である。
 純一は、夕食前に散歩をしようと思って宿を出て、偶然に男連れの坂井夫人に会った。この邂逅の場面は、純一に対する坂井夫人の優位を示しており、純一の自尊心が打ちひしがれる状況を描いている。坂井夫人が純一に対して不実であることを純一は予期せずに知った。純一がいろいろと悩みながら箱根に来た甲斐があった。坂井夫人と画伯の関係を知ることで、純一は自分を肯定して自己内に回帰することができる。この邂逅の時にすでに鴎外の関心は純一自身の内面に向かっており、坂井夫人と岡村画伯は、その内面の葛藤を推進する役割を果たしている。状況は三四郎と似ているが、純一と坂井夫人の分離には、三四郎にはまったくない心理が描かれている。
 純一はぼんやりして宿屋の方へ歩いている。或る分析し難い不愉快と、忘れていたのを急に思い出したような寂しさとが、頭を一ぱいに填めている。そしてその不愉快が嫉妬ではないと云うことを、純一の意識は証明しようとするが、それがなかなかむずかしい。なぜと云うに、あの湯本細工の店で邂逅した時、もし坂井夫人が一人であったなら、この不愉快はあるまいと思うからである。純一の考はざっとこうである。とにかくあの岡村という大男の存在が、己を刺戟したには相違ない。画家の岡村と云えば、四条派の画で名高い大家だということを、己も聞いている。どんな性質の人かは知らない。それを強いて知りたくもない。唯あの二人を並べて見たとき、なんだか夫婦のようだと思ったのが、慥かに己の感情を害した。そう思ったのは、決して僻目ではない。知らぬ人の冷澹な目で見ても、同じように見えるに違いない。早い話が、あの店の上さんだって、若しあの二人に対して物を言うことになったら、旦那様奥様と云っただろう。己は何もあんな男を羨みなんかしない。あの男の地位に身を置きたくはない。しかし癪に障る奴だ。こんな風に岡村を憎む念が起って、それと同時に坂井夫人に対しては暗黒な、しかも鋭い不平を感ずる。不義理な、約束に背いた女だとさえ云いたい。しかし夫人は己にどんな義理があるか。夫人の守らなくてはならない約束はどんな約束であるか。この問には答うべき詞が一つもないのである。どうしてもこの感じは嫉妬にまぎらわしいようである。
 そしてこの感じに寂しさが伴っている。厭な、厭な寂しさである。大村に別れた後に、東京で寂しいと思ったのなんぞは、まるで比べものにならない。(p213)
 或る分岐し難い不愉快と、急に思い出したような寂しさ、というのは、なんであろうか。鴎外もそれを明らかにしようと努力している。実際にここに不可解な、複雑な矛盾がある。その不愉快は嫉妬ではないように見える。しかし、それが何であるかは分からない。直感的にその不愉快は嫉妬ではない、と思われるが、嫉妬であるようにも見える。
 坂井夫人が岡村画伯と一緒にいたことが純一の感情を害した。だから嫉妬に見える。しかし、純一は岡村画伯を押し退けてその地位を奪いたいと思わない。純一は坂井夫人との関係を望んでいるのではない。しかし、坂井夫人と一緒にいる岡村画伯は癪に障るし憎む念が起こるし、坂井夫人に対しても鋭い不平がおこる。純一は坂井夫人との関係を恥辱と感じていたから、分離は純一にとって好ましいはずである。しかし、関係が恥辱であるにも係わらず、関係がなくなること、分離すること、坂井夫人が純一から離れる事、純一を問題にしないことが、純一に嫉妬のような陰気な、敵対的な心理を生み出している。坂井夫人との関係を離れる事は、不必要な関係の否定であり、自己の回復であるはずであるのに、自己喪失の寂しさを感じている。しかし、それが関係を修復したいという感情でないことははっきりしている。この感情は、何に由来するのか、どういう感情であるのか。
 純一の感情は、この感情の原因が坂井夫人や岡村にあると考える場合に不可解である。この不可解な感情は坂井夫人との分離において純一の内部に、坂井夫人と関わりなく生ずる。坂井夫人と純一は積極的な関係になく、お互いに積極的な感情はない。純一は坂井夫人との関係に対して積極的な意義を認めていないにもかかわらず関係を持っている。このことから、つまり不必要な関係を結ぶ、という純一の性格からこの理解しにくい葛藤が生じる。この葛藤は、坂井夫人との関係だけでなく、お雪さんやおちゃらや、電車や旅館ですれ違う女性などすべての人間関係にみられる純一の特徴である。
 鴎外が描く青年は消極的に、逃避的に自己を保身する。本来、積極的な自己は他との関係において確認され形成される。鴎外は、他との対比によって、他の否定との対比によって自己を肯定する。積極的な関係の中にではなく、関係の否定のなかに自己を見いだす。純一は人間関係にたいして常に警戒的で消極的で、自己自身にのみ関心を持っており、その観点から自分に対する他人の関心を神経質に気にしている。この自己肯定の観点から他人に関心を示し、自分に対する好意を見いだすが、自分は相手に好意を感じないし、人間関係の形成を望まない。人間関係を望まないにもかかわらず、他人に対して神経質な関心を示し、好意を求めるのが純一の「卑怯」である。
 純一は、最初、坂井夫人に関心をもったのではなく、坂井夫人の自分に対する関心に関心を持った、というのが現実的な理解である。自分に対する坂井夫人の関心には関心を持っていたが、純一には、坂井夫人との関係を恥辱とする意識があった。坂井夫人に対する敵意は、岡村画伯を契機に表に出てきたから嫉妬の形式をとるが、もともと純一がもっていたものである。だから嫉妬ではない。坂井夫人との関係を否定することは純一自身の感情であり、岡村画伯とは関わりなく形成されていた。
 純一の厭な感じ、寂しい感じは人間関係のなかで純一の中に常に生じる感情である。あるいは、人間関係の崩壊を必然としてもっている純一が必然として持つ感情である。それは、別れであるから寂しい。坂井夫人との関係を否定することが、より積極的な人間関係の選択を意味するのであれば、坂井夫人との分離によって、嫉妬も寂しさも、陰気な敵意も憎しみも必要ないであろう。それは恥辱的な関係からの解放である。しかし、純一には坂井夫人に代わる肯定的関係はない。
 坂井夫人との関係からの解放は、関係の喪失、孤立を意味するばかりではない。自分が高く評価されることを求めている純一にとって、分離には自尊心の痛みが伴う。分離によって相手が破滅する場合は自尊心は満足するが、孤立的で後腐れのない関係であった坂井夫人との関係では、この自尊心が満足させられない。だから、自分が否定されているという恥辱が残る。しかし、すでに孤立し、孤立的な精神を持っている純一にとって、この恥辱感だけが、唯一の積極的な、自己を奮い立たせる感情である。坂井夫人との恥辱的な関係と、それを反映した精神は、純一にとって重要な成果であり、これ以外の成果を得ることが鴎外にはできなくなっている。鴎外の深刻さは、この孤立的な暗い精神を、そのまま受け入れて肯定する覚悟をしていることである。
 丁度そこへ女中が来て、福住から来た使の口上を取り次いだ。お暇ならお遊びにいらっしゃいと、坂井さんが仰ゃったと云うのである。純一は躊躇せずに、只今伺いますと云えと答えた。想うに純一は到底この招きに応ぜずにしまうことは出来なかったであろう。なぜと云うに、縦しや強ねてことわって見たい情はあるとしても、卑怯らしく退嬰の態度を見せることが、残念になるに極まっているからである。しかし少しも逡巡することなしに、承諾の返事をさせたのは、色糸のおちゃらが坂井夫人の為めに緩頬の労を取ったのだと云っても好い。(p214)
 鴎外はここで「卑怯」という言葉を使っている。鴎外らしい、そして多くの日本人に分かりやすい自尊心である。純一にとってはすねて断ることは、坂井夫人から逃げ出す事になり、卑怯である。漱石の場合は逆になる。坂井夫人を愛していないのに岡村画伯といることを憎み、坂井夫人に会いたい感情がないにもかかわらず、会おうとする事、これを漱石は「卑怯」と言った。相手を愚弄しているからである。
 純一にはもともと積極性はない。だから、消極性を認める事、消極性を見抜かれることを恐れて、消極性を卑怯と考える。人間関係に対して臆病で消極的な純一には、退嬰の態度を見せたくないという自尊心が常にあり、愛情がなく、積極的な関心がない場合にこそ、消極性を表に出すことは自分の敗北や逃避に見え、自尊心を守る観点から虚偽の積極性を見せることになる。消極性を表に出すことを嫌うのであって、積極的な関心があるわけではない。対象に関心があるのではなく、自分の消極性に関心を持つだけである。この消極性が生み出す積極性が、鴎外の本質的な特徴であり、「卑怯」である。
 岡村といる坂井夫人に会うために、おちゃらの好意の力があったというのは鴎外の正直な、現象的に自己をよく知った告白である。純一には坂井夫人との恥辱的な関係に反撥する意識と、おちゃらのような美しい女性に、宿の美人に、お雪さんに、電車の芸者や女学生に、気に入られている、という意識が対立的に存在し、両者を必要としている。行き当たるすべての美人に愛されるという空虚な希望に疲れると、坂井夫人との恥辱的な関係によって疲れを癒す必要があり、また逆でもある。そしてこの両者とも純一の空想の中で生じるのであって、現実的な人間関係として展開されるのではない。人間関係を形成することができず、逃避的で孤立的な純一が、自己を肯定できる人間関係として想像するのがこの対立的で空虚な二つの形式である。
 自分は誰にでも認められている、と認識することは、現実への積極的な働きかけの契機となるのではなく、自分はその評価を必要としていない、という自尊心となり、評価されていることを孤立の支えとしている。順番は逆で、孤立した立場と意識が、自分が誰にも評価され、求められている、という当てにならない現実認識を生み出している。純一の精神には、人間関係に対する積極的な関心はどこにもみられない。孤立を前提とし、孤立を弁護する現実認識と自己認識が発展しつつある。孤立を自らの選択として肯定するのが純一の意地である。坂井夫人との関係で味わう恥辱によって、孤立は無力故の、敗北したための逃避ではなく、高度な自尊心を持つがための、卑怯や卑屈を自分に許すことができないがための、やむを得ない選択である、と自他に確認しようとしている。鴎外には、すでに、自分が評価されておらず、排除され、否定されているという強い自覚とそれに対する反感が成長している。受け入れられる自己を形成することは問題にならず、この反発、この孤立の中に自己を見いだし、そこに自己の優位を見いだそうとしている。
 純一の意地は、坂井夫人や岡村に対する敵意と恥辱感によって充実する。孤立的な精神にとってはこうした屈折だけが内容になる。坂井夫人との関係に画家が登場してくると純一は積極的な意地を働かせ、いきいきしてくる。自分が排除され、孤立していることを意識することが、純一の唯一の積極的な感情である。
 純一にはこの席にいることが面白くない。しかしおとなしい性なので厭な顔をしてはならないと思って、努めて調子を合せている。その間にも純一はこう思った。世間に起る、新しい文芸に対する非難と云うものは、大抵この岡村のような人が言い広めるのだろう。作品を自分で読んで見て、かれこれ云うのではあるまい。そうして見れば、作品そのものが社会の排斥を招くのではなくて、クリク同士の攻撃的批評に、社会は雷同するのである。発売禁止の処分だけは、役人が訐いて申し立てるのだが、政府が自然主義とか個人主義とか云って、文芸に干渉を試みるようになるのは、確かに攻撃的批評の齎した結果である。文士は自己の建築したものの下に、坑道を穿って、基礎を危くしていると云っても好い。蒲団や煤烟には、無論事実問題も伴っていた。しかし煤烟の種になっている事実こそは、稍外間へ暴露した行動を見たのであるが、蒲団やその外の事実問題は大抵皆文士の間で起したので、所謂六号文学のすっぱ抜きに根ざしているではないか。(p217)
 こ批評に対する批判の挿入は、岡村が、読みもしない作品について半可通の批評をしていることから思いついた感想である。坂井夫人と岡村の関係の前で純一が感じている孤立感や寂寞と、文壇の批評家に対する鴎外の、疎外感、孤独感は同じである。文壇に対しても坂井夫人に対しても、一致を求める意識はなく、敵意や意地だけで関係している。それは社会に対して弾圧的に対処している政府と立場を一致する鴎外の立場の必然である。自然主義や個人主義に関する鴎外の理解は理論的な意味をもっていない。鴎外は、自然主義や個人主義の風潮によって鴎外の精神が排除されつつあることを理解しており、その風潮に干渉している政府を擁護することで自分の孤立を癒している。鴎外は孤立的な自己を肯定する感覚によって、自分を認めない社会に対する弾圧を快く思っている。「確かに攻撃的批評の齎した結果である」と、弾圧の原因が攻撃的な批評にあると言っている。本質的に政府を擁護する保守的な立場であると同時に、そのなかでも孤立的な鴎外の立場は、弾圧に対しても客観的であるような弾圧の擁護者となっている。自分が受け入れられないから、という理由を持ち出すことができない立場にあって、政府の弾圧には、文士自身に責任があると、冷静に判断する力を得ている。保守的官僚の孤立的諦観の行き着く先が弾圧の冷やかな肯定である。文学者として非常に寒々しい、ぞっとするような精神である。

 鴎外は、岡村と親しくする坂井夫人に対する純一の感情を詳しく描いている。孤立を覚悟している鴎外の意地の内容はこうした不信観である。純一は坂井夫人との関係において、また人間関係一般においてこうした疑い、不信感をもち、その不信感において自己を肯定し孤立を肯定している。だから、純一はこの疑いを晴らす必要を感じていない。疑いをかき立てる観察をしても疑いを解消する努力をせず、疑いを蓄積した上でその疑いを陰気に味わっている。こ怒りや敵意や憤慨といった形をとる陰気な意地は対象を失い、自分自身の悔しさや屈辱感として蓄積され、それを自己内の力として社会一般、他人一般と対立するほどに純化しようとしている。純一の寂しさは、孤独の肯定であり、孤立にいきる覚悟である。坂井夫人との関係は、この孤立化と孤立した精神を正当化する手続きである。坂井夫人との関係を経由して新たに形成された寂しさは、自己の正当性を証明された寂しさであり、積極的で肯定的な寂しさである。坂井夫人との関係は、純一の孤独と寂しさを肯定するための手段としての迂回であった。この点が「舞姫」から大きく進化した鴎外の精神の特徴である。
 純一は坂井夫人との恥辱的な関係を二重に超えている。まず、坂井夫人に自分が馬鹿にされてばかりはいないことを、見せつけてやろう、という意地を持ち、さらに、その意地をも克服して、坂井夫人から完全に離れて自分自身のもとに帰ろうと、考えている。坂井夫人との恥辱的な関係は平凡で孤独な生活に特別の意義を与えた。純一は自分の孤立的な生活と精神を、屈辱的で、愚弄的な坂井夫人との関係と比較することで濁りのない世界であることを知った。純真で無傷な坊ちゃんの生活と精神は、一度恥辱に塗れることによって、意地を得ることができた。田舎から出てきた裕福で純真な青年は、都会に受け入れられずに生き抜くための意地を獲得した。純一は、この意地を内的な力として、小説を書く気力を得た。これは、ロマン的で自信に満ちていた初期作品にはなかった感情である。
 純一は孤立的な生活とそこで生まれる陰気な精神を肯定する手段を探しており、坂井夫人との無意味で恥辱的な関係によって安心を得た。純一は人間関係が引き起こす矛盾に耐えることができず、自己に閉じこもる。純一は自己を肯定するために人間関係を破壊する必要があった。これが純一の不誠実であり卑怯であり怯懦である。人間関係からの逃避は、煩わしい関係の解消として意識され、自分だけの境地への到達として束の間の安息をもたらし、最終の勝利をかち得たような満足をもたらす。この経験を繰り返す事で、孤立的で孤独な意地を蓄積し、ますます頑迷で依怙地な個性をつくり上げ、孤立を促進する現実認識を作り上げる。それが純一の成長過程である。
 国を立って東京へ出てから、まだ二箇月余りを閲したばかりではある。しかし東京に出たら、こうしようと、国で思っていた事は、悉く泡沫の如くに消えて、積極的にはなんのし出来したわざも無い。自分だけの力で為し得ない事を、人にたよってしようと云うのは、おおかた空頼めになるものと見える。これに反して思い掛けなく接触した人から、種々な刺戟を受けて、蜜蜂がどの花からも、変った露を吸うように、内に何物かを蓄えた。その花から花へと飛び渡っている間、国にいた時とは違って、己は製作上の拙い試みをせずにいた。これが却て己の為めには薬になっていはすまいか。今何か書いて見たら、書けるようになっているかも知れない。
 純一は他人に頼らない、と決心していた。そして、坂井夫人との思いがけない経験が純一の精神を具体化し複雑化し豊かにした。書くべき何か、吐露すべき何かを精神に蓄えた。それは無経験な田舎の青年からの脱皮である。この経験は薬になっており、何かを書く力になっている。そして何かを書こうとする意欲と自信によって、はっきりと坂井夫人との関係を絶つ意志が生まれた、というのが全体の形式的な特徴である。形式的というのは、純一が何物かを蓄えたに違いないが、肝心な事は何を蓄えたかだからである。鴎外は、純一の経験を長々と描きながらその経験が何を意味するか、社会的意識として何を蓄えたかを認識することができない。しかし、純一が得たものを描いている。それは鴎外のこれまでの精神を一新するほどの精神の跳躍に見えるし、実際鴎外の精神の必然的な発展としての飛躍であった。 鴎外は自分が新しい境地を得たと信じようとして、坂井夫人との関係を解消したことによる、はればれした充実した感情を描いている。純一は自分が経験した全ての関係や感情を洗い流す事で自分の再生を感じている。金持ちの未亡人との関係を解消することでこれほど力を得ることができるのは、自分がそこで何を得たか、何を失ったかを具体的に理解していないからである。自分が何を得たかを今後経験的に理解しなければならない。坂井夫人との関係で自己保身的で消極的な自己を徹底した。つまらない恥辱的な経験を深刻らしく反省する自己を得て、深刻な関係や感情を経験することができない自己を現実化し、肯定している。得られた成果は深刻な孤立であり空虚な自己肯定であるが、その現実的な意味を味わうのはこれからの課題である。単純な優越感の挫折を感じて、屈折した意地を得た。敵意と孤独感に満ちた、自分が否定され、理解されない、しかし、自分が正当である、という意地である。鴎外はこの後、この空虚な自己を肯定する作品をつくり出して行く。純一の像は、この時期の鴎外の自己を対象化した、また自己の未来を見据えた、決意を新たにした結節点としての作品である。
 雑煮の代りを取りに立つとき、女中は本当に立つのかと念を押した。そして純一が頷くのを見て、独言のようにつぶやいた。
「お絹さんがきっとびっくりするわ」
「おい」と純一は呼び留めた。「お絹さんというのは誰だい」
「そら、けさこちらへお火を入れにまいったでしょう。きのうあなたがお着きになると、あれが直ぐにそう云いましたわ。あの方は本を沢山持っていらっしゃったから、きっとお休みの間勉強をしにいらっしゃったのだって」
 こう云って置いて、女中は通い盆を持って廊下へ出た。
 純一はお絹と云う名が、自分の想像したあの女の性質に相応しているように思って、一種の満足を覚えた。そしてそのお絹が忙しい中で自分を観察してくれたのを感謝すると同時に、自分があの女の生活を余り卑しく考えたのを悔いた。(p227)
 純一は決意の後にもこうした慰めを必要としている。自己内に目的を持たず、他人の評価を問題にしながら、しかも孤独を選択する純一にとって、孤独を肯定するためには、他人に評価され、愛され、しかもその愛を諦めて自分の道を行くという形式がロマンチック見える。美しい女性に、「あの方は本を沢山持っていらっしゃった」と、「観察」されることがなによりも純一を慰めている。書物が純一の心の支えである。しかし、鴎外が実際にこのような現実解釈で自分を納得させられたとは考えにくい。これも現実的な意味のない無理な解釈にすぎず、孤独に伴う矛盾の味わい方にすぎず、孤立を克服するものではない。だからこそ、鴎外をせき立てて孤独に苦しむ精神を対象化し作品にさせつづけたのであろう。実際こうした純一の満足を描写した部分には深刻な寂寞感が感じられる。
 これに反して、少しの間に余程変じたのは、坂井夫人に対する感じである。面当てをしよう、思い知らせようと云うような心持が、ゆうべから始終幾分かこの感じに交っていたが、今明るい昼の光の中で考えて見ると、それは慥かに錯っている。我ながらなんと云うけちな事を考えたものだろう。まるで奴隷のような料簡だ。この様子では己はまだ大いに性格上の修養をしなくてはならない。
 鴎外はこの境地をくり返して強調している。鴎外の孤立的な意地は、坂井夫人に対する面当てという敵対的な意地ではなく、自分は意地を張る意志を持たない、と主張する意地になった。内容は変わらず、客観的にはたいした変化ではないが、現実的な関係の展開をもたず、主観内部の屈折だけが内容である精神にとって、こうした成果は重要である。いかに純一の得たものが少なかったがわかる。坂井夫人との恥辱的な関係を糧とし、恥辱的な関係に対する復讐的な感情を糧とし、その復讐的な感情を解消することを果実としている。消極的な関係の内部で、満足し、苦悩し、悔悟し、悟り、そのことによって精神が深化していると考えても、具体的に得られたのは単純な道徳的教訓である。得られた内容が空虚であるために、いかに純一が自己満足しているかを長々と描写している。貧しい精神に満足することに鴎外の枯れはてた精神が現れている。なんらの困難を経たわけではなく、つまらない疑いと、愛情もない嫉妬と、敵意と、その敵意を払拭した、というだけの経験では多くを得ることはできない。「青年」は自己を喪失する過程を描いている。そして自己の喪失には、自己の喪失に伴う矛盾があり、自己の獲得がある。鴎外は描くべき自己として、自己を喪失していく自己を得ている。これがこの時期の鴎外の成果である。
 己が箱根を去ったからと云って、あの奥さんは小使を入れた蝦蟇口を落した程にも思ってはいまい。そこでその奥さんに対して、己は不平がる権利がありそうにはない。一体己の不平はなんだ。あの奥さんを失う悲から出た不平ではない。自己を愛する心が傷つけられた不平に過ぎない。大村が恩もなく怨もなく別れた女の話をしたっけ。場合は違うが、己も今恩もなく怨もなく別れれば好いのだ。ああ、しかしなんと思って見ても寂しいことは寂しい。どうも自分の身の周囲に空虚が出来て来るような気がしてならない。好いわ。この寂しさの中から作品が生れないにも限らない。(p)
 純一の不平は、「自己を愛する心が瑕つけられた不平に過ぎない」、ということを鴎外は理解している。自己を愛する心を強く持っていた鴎外にとって、その心が瑕つけられることは、どのようにそれを肯定しても、「ああ、しかしなんと思って見ても寂しいことは寂しい。」という感慨が残る。自己肯定の努力をしたものの、その努力自体の空虚を深刻に感じ取っているのであろう。自己肯定のためであり、また自己肯定を果たしたとは言え、結果としては坂井夫人に捨てられたのであり、孤立したのである。これからは自己を自己自身において肯定しなければならない。しかし、そのための内容を得たわけではない。内容を得なかったこの寂しさが作品を生む力になるかもしれない、と期待している。それ以外にないことを純一の経験が示したからである。
 坂井夫人との関係を失う事によって自己を肯定する事は、この年齢の鴎外にとっては実際に寂しい事であろう。『舞姫』の時代には、エリスを棄てる事は華やかな新しい社会に入っていく事であった。エリスを棄てる事は積極的な世界にはいる障害を棄てる事であった。しかし、坂井夫人から棄てられ、あるいは坂井夫人を棄てることは、この作品では、作品を書く事の決意を促すにすぎない。人間関係を失い、作品という自己内に閉じこもるに過ぎない。しかも、文壇に対しても否定的な関係にある。坂井夫人との関係を否定することで自己を肯定することができるにしても、その否定が新しい関係への希望を意味するものではないことを知っており、それを知る孤立感と寂寞感が何かを生み出すと期待するほどに深刻に自己の孤立を鴎外は意識している。寂しさを獲得し、その寂しさをかみしめ、その寂しさが作品を生み出さないものでもない、と期待し、自己が生み出す作品世界、自己の精神世界にのみ寂しさの慰めを見いだそうとしている。身の周囲に空虚ができているような気がするのも当然である。しかし、この空虚は鴎外の経験が生み出した、エリートインテリに特有の空虚であり、歴史的な成果であった。鴎外はこれから、この寂しさを対象化した作品を描くことになる。
 宿泊料、茶代、祝儀それぞれの請取を持って来た女中が、車の支度が出来ていると知らせた。純一は革包に錠を卸して立ち上がった。そこへお上さんが挨拶に出た。敷居の外に手を衝いて物を言う、その態度がいかにも恭しい。
 純一が立って出ると、女中が革包を持って跡から来た。廊下の広い所に、女中が集まって、何かささやき合っていたのが、皆純一に暇乞をした。お絹は背後の方にしょんぼり立っていて、一人遅れて辞儀をした。(p229)
 鴎外の感じる平安には寂しさがある。寛大に金を振る舞うことが純一の寂しさを強調している。上品で優しく、気遣いの行き届いた純一に、関係が生ずる期待すら持たず、寂しく愛情をそそぐ女性がいる、というのが純一が求め得る、消極的な満足の形式である。お絹がこれ以上の希望を絶つことは、純一がこれ以上を望み得ない、ということである。両者を必要としているとはいえ、お絹の憬れや愛情によってではなく、坂井夫人との恥辱的名関係が生み出す意地によって純一は充実している。恵みを垂れる自己の慈愛の心とそれに感謝する、しかし近づく事のできない寂しさを持つ女性との関係が鴎外の好む孤独な人間に特有の情熱であり安堵であったが、その安堵の世界が自分から遠く去っていることを鴎外は自覚させられている。
 鴎外云。小説「青年」は一応これで終とする。書こうと企てた事の一小部分しかまだ書かず、物語の上の日数が六七十日になったに過ぎない。霜が降り始める頃の事を発端に書いてから、やっと雪もろくに降らない冬の時候まで漕ぎ附けたのである。それだけの事を書いているうちに、いつの間にか二年立った。とにかく一応これで終とする。(p230)
 この小説は完結している。作品自身だけでなく、鴎外のこれまでの作品の全内容が投入され、完結されている。そのあとにまだ描くべき内容は、別の作品の可能性として残っているだけである。この作品は、外的な条件のために一応の終わりにするのではなく、これまでの鴎外の精神のすべてを出し切ったために、あとはこの寂しさから何かが生み出されるのを待つ以外にない時点にまで到達したから止めたのである。鴎外は自分の孤立と寂しさを味わい、確定するに至った。これからは、それを受け入れ、それを肯定し、自らを孤高と解釈する努力をする。この作品は、その強い意志を確定し表明した作品である。

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