『心中』 (明治44年8月) 

 
 タイトルの通り心中の話を書いているが深刻な内容ではない。鴎外は心中する人間の運命に関心を持つ作家ではない。心中の話をする料理屋の女中の「お金」に興味がある。その「お金」のつまらない癖を「面白い」といって詳しく描いている。妙なところに注目するのが文士らしい目の着けどころだと思っているのかもしれない。しかし面白くない。
 
 「頃日僕の書く物の総ては、神聖なる評論壇が、「上手な落語のようだ」と云う紋切形の一言で褒めてくれることになっているが」
 と鴎外は自分の作品の評判を紹介している。この神聖なる評論はあたっている。鴎外の文章は具体的な内容を描写していない。もったいぶって形式的で無味乾燥な文章である。落語は話芸であるから話自体は形式的でもかまわない。「なるほど」といっても話芸としては無限の味を出せるし、「アンナ・カレーニナ」の文章を語ってもいい落語になるわけではない。といっても鴎外の作品を落語にしてもまさか面白いという意味ではない。形式的にうまくまとまっているくらいの褒め言葉であろう。
 鴎外は自分の文章の限界を知らないし感じ取る事もできないので、こんな正当な批判もいっこうにこたえていないし、反省する兆しもない。「心中」もこんな批評がそのまま当てはまる作品である。
 
 「あの、笑靨よりは、口の端の処に、竪にちょいとした皺が寄って、それが本当に可哀うございましたの」と、お金が云った。僕はその時リオナルドオ・ダア・ヰンチのかいたモンナ・リザの画を思い出した。(P46)
 エクボというとモンナ・リザの画を思い出す、というのは、鴎外が欧風の教養を持っているという事でもあるが、むしろ自分が教養を持っている事に興味を持っているという事であろう。そして、機会さえあれば無理にでも教養をひけらかす覚悟ができている、という事であろう。というのは、エクボといえばモンナ・リザというのであれば、モンナ・リザをせいぜいエクボの女性くらいにしか感じ取ってないし、その程度の知識をも自慢にせずにいないからである。こんなことを書いても当時何を書いているのかわからない読者も多かったであろうが、鴎外にとってはそれがまた自分らしい文章のニュアンスであった。
 僕にお金が話す時、「どうしても方角がしっかり分からなかったと云うのが不思議じゃありませんか」と云ったが、僕は格別不思議にも思わない。聴くと云うことは空間的感覚ではないからである。それを強いて空間的感覚にしようと思うと、ミュンステルベルヒのように内耳の迷路で方角を聞き定めるなどと云う無理な議論も出るのである。
 心中の話をするのにもこんな挿入をせずにいられないのが鴎外らしい。心中をネタに自分のことを書いている。これでは「下手な落語」とも言えない。せめて、こんな知識は面白いものではないし、知識として大したものでないし、こんな知識をひけらかしても誰も驚かないし褒める気にもなれないくらいの知識があれば、モンナ・リザを知らなくてももっと尊敬されただろう。
 心中の後の様子は詳しく描かれている。「切られた気管の疵口から呼吸をする音」だとか、「頸動脈を断たれて、血が夥しく流れている」などと書いている。鴎外は、こうした不幸な事件に、冷たい気持ちの悪い好奇心を持つだけである。心中する人間の運命や感情に少しでも理解のある関心を持つことができれば、文体の不真面目さだけでもなくなったであろうが、それは無理な注文である。鴎外が真剣になって具体的な内容を描く事ができるのは、不始末をしでかした後の弁明や強弁、自分を認めないものに対する非難、誹謗、中傷くらいのもので、他人の運命にも感情にもまったく冷やかであったから、不真面目な興味しか持たなかったし、描写する事もできなかった。


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