『食堂』 (明治43年12.1) 

 
 この作品も、大逆事件に関連して鴎外が保守的な官僚の立場を表明した作品である。鴎外がこうした作品をいくつも描いているのは、第一に山県に対する媚びのためであり、第二に対立関係にあった上司の批判から自分を弁護するためである。
 鴎外はこの作品で「あそび」と同じ名前の木村という小役人を、鴎外の意見ないし不満の代弁者として仕立てている。鴎外の不満や意地を描いた作品の中でも、この作品はこれまでとは違っている。「懇談会」では、鴎外を殴った記者は結局鴎外の家に謝罪しに行かねばならなかったし、「あそび」の森田草平も結局謝罪することになった。下らない作品を描いて、それを批判されて機嫌をそこねて、それをくねくねと曲がった歪んだ形式で作品に描いて官僚らしい圧力をかけるのでは、そういう方面では素人の記者や文壇人はたまったものではない。官僚の力が圧倒的に強く、まだ世論として言論の力が発達しておらず、しかも、言論弾圧の激しかった時代だからこそ鴎外は、何の疑問もなく文芸界に官僚風を吹かせていたのである。
 ところが、この作品では、不満の相手が官僚であり上司である。ごねたあげくに謝罪させることができるような相手ではない。だから、「あそび」のような余裕の概観はなく、内にこもった陰険で卑屈な意地が描かれている。場所を食堂に設定し、その食堂を暗く描き、役人を病人のように描き、木村自身をも風采の上がらない「貧乏神の席」に座っている、と描いているのは、鴎外のひねくれた、負けず嫌いな、全体を陰気でつまらない世界として描くことで、自分を浮かび上がらせようとする、いかにも鴎外らしい心象世界の描きかたである。
 Vis-a-vis の先生は、同じ痩せても、目のぎょろっとした、色の浅黒い、気の利いた風の男で、名を犬塚という。某局長の目金で任用せられたとか云うので、木村より跡から出て、暫くの間に一給俸まで漕ぎ附けたのである。
 なんでも犬塚に知られた事は、直ぐに上の方まで聞える。誰でも上官に呼ばれて小言を聞いて見ると、その小言が犬塚の不断言っている事に好く似ている。上官の口から犬塚の小言を聞くような心持がする。
 これがこの作品の不満の対象である。「某局長の目金で任用せられた」というのが要点である。そして告げ口屋である。まだこまかな中傷が続いているが、考察するほどの内容ではない。それはまだ、外面的な、前置きとしての厭味である。犬塚は鴎外からみた悪い官僚である。鴎外を高く評価する批評なら、これを官僚世界に対する批判と解釈するだろう。
 木村は弁当を風炉鋪から出して、その風炉鋪を一応丁寧に畳んで、左のずぼんの隠しにしまった。そして弁当の蓋を開けて箸を取るとき、犬塚が云った。
 「とうとう恐ろしい連中の事が発表になっちまったね。」
 木村に言ったわけでもないらしいが、犬塚の顔が差し当り木村の方に向いているので、木村は箸を輟めて、「無政府主義者ですか」と云った。
 木村は食堂にあっても几帳面で、特に犬塚を問題にするでもなく、自分の態度を崩さずにいる。これが鴎外の考える余裕である。その木村に犬塚が声を掛け、木村がひけらかしたいと思っておらず、隠している知識や能力を引き出す役目を果たしている。鴎外は小説の世界では自分の都合で自由に人物を操ることができる。しかし、その操る全体の内容に自分の能力のすべてが対象化されていることを理解することはできなかったし、それがいかに俗物的で官僚的であるかを理解できなかった。
 木村の左に据わっている、山田というおとなしい男が詞を挟んだ。この男はいつも毒にも薬にもならない事を言うが、思の外正直で情を偽らないらしいので、木村がいつか誰やらに、山田と話をするのは、胡坐を掻いて茶漬を食っているようで好いと云ったことがある。その山田がこう云った。
 「どうも驚いちまった。日本にこんな事件が出来しようとは思わなかった。一体どうしたというのだろう。」
 几帳面な鴎外は非常に細かに自分の姿を描き出していく。「某局長の目金で任用せられて」、告げ口屋で出世している犬塚と、「いつも毒にも薬にもならない事を言う」山田が木村の輪郭として描かれている。こういう否定的特徴による縁取りで肯定的人物を描くために、他の否定によって自分を肯定することしかできないために、木村自身がどうしても厭味な非難がましい傲慢な人間になる。そのものとして魅力のある肯定的人物を描くことはできず、比較の対象を押し下げることによってのみ肯定するために、その否定が自分自身にも跳ね返ってくるのである。
 犬塚が教えて遣るという口吻で答えた。「どうしたもこうしたもないさ。あの連中の目には神もなけりゃあ国家もない。それだから刺客になっても、人を殺しても、なんのために殺すなんという理窟はいらないのだ。殺す目当になっている人間がなんの邪魔になっているというわけでもない。それを除いてどうするというわけでもない。こないだ局長さんに聞いたが、十五年ばかり前の事だそうだ。巴里でEmile Henry とかいう奴が探偵の詰所に爆裂弾を投げ込んで、五六人殺した。それから今一つの玉を珈琲店に投げ込んで、二人を殺して、あと二十人ばかりに怪我をさせた。そいつが死刑になる前に、爆裂弾をなんに投げ附けても好いという弁明をしたのだ。社会は無政府主義者を一纏めに迫害しているから、こっちも社会を一纏めに敵にする。無辜の犠牲とはなんだ、社会に生きているものに、誰一人労働者の膏血を絞って、旨い物を食ったり、温い布団の上に寝たりしていないものはない。どこへ投げたって好いと云うのだ。それが君主を目差すとか、大統領を目差すとかいうことになるのは、主義を広告する効果が大きいからだと云うのだ。」
「焼けな話だね」と、山田が云った。
 犬塚は笑って、「どうせ色々な原因から焼けになった連中が這入るのだから、無政府主義は焼けの偉大なるものと云っても好かろう」と云った。
 長い引用であるが、間近に死刑執行を控えている大逆事件のために描いている大事な説明であるから鴎外としても無視されては気に入らないであろう。無政府主義者というのは、いろいろ理屈をこねて、要するに、「爆裂弾を何に投げても好いといふ弁明をした」ということである。反政府というのは単なる理由付けにされて、ただ自棄になって、誰でもいいから殺したい、という主張になっている。しかも、「死刑になる前に」などとつい書いているのは、大逆事件の背後を知っている鴎外らしい書き込みである。こういう中傷を書いたあとに、「焼けの偉大なるもの」などと付け加えるのは、いかにも自分の意見を誤魔化しつづけてきた鴎外らしい熟練でもあり、不誠実な性格である。
 山田は事実を聞き知って、単に驚き不思議に思い、そのレベルから質問をする役目をしている。犬塚は、それに悪意を持った感情的な解釈を与えている。これは無論鴎外の解釈である。しかも、鴎外はこの独自であるが悪意が露骨に出ている解釈すら犬塚に与えず、「局長さんに聞いたが」として、犬塚の能力を貶めると同時に局長というさらに上の階級に媚を売り、さらに、「教えて遣るという口吻で」と書いて、犬塚の性格の悪さと、その知識の浅いことを示唆している。犬塚は何も知らない山田にごく表面的なジャーナリスティックな、借り物の知識を、しかも、教えてやる、という態度でしゃべっている。つまり、木村はそういう幾つかの要素において対比的に肯定される。知識を沢山持っていて、感情に支配されることも無く、知識をひけらかすことも無い、ということである。官僚世界が木村というつまらない人間を肯定する観点から描かれている。官僚世界に実際ありそうなこうした人間関係が保守的で体面にこだわる鴎外の目にはさらに屈折して狭苦しく反映される。こうした歪んだ現実認識は官僚世界に対する批判意識ではない。というのは、彼らは木村を肯定する観点から批判的に描写されており、その木村は批判的に描写された官僚よりさらに官僚的で陰気であるにもかかわらず、その保守的な官僚の典型ともいうべき木村が肯定されているからである。
 「一体いつからそんな無法な事が始まったのだろう」と、山田が犬塚の顔を見て云った。
「そんな事は学者の木村君にでも聞かなくちゃあ駄目だ」と云って、犬塚は黙ってこの話を聞いている木村の顔を見た。
「そうですね。僕だって別に調べて見たこともありませんよ。無政府主義も虚無主義も名附親は分かっていますがね。」いつでも木村は何か考えながら、外の人より小さい声で、ゆっくり物を言う。それに犬塚に対する時だけは誰よりも詞遣いが丁寧である。それをまた犬塚は木村が自分を敬して遠ざけるように感じて、木村という男を余り好くは思っていない。
 黙ってとか静かにと書かれているものの、この作品でいちばん無駄口を叩いているのは木村である。山田は鴎外が知っている知識に関係するピンポイントの質問をさせられ、犬塚は、そんな専門的な知識が要る質問には自分は答えられない、と白状しなければならない。単純な質問には偉そうに答えていた犬塚も、少し質問が専門に渡ってくると、「弁当を風炉鋪から出して、その風炉鋪を一応丁寧に畳んで」いるような物静かな木村に教えを請わねばならない。馬鹿馬鹿しいほど単純な肯定である。
 いつ始まったのか、などというのもとぼけた質問であるが、それに答えるのが学者的であると考えるくらいのレベルであるから、こんな会話があり得る世界だとして読まねばならない。「そうですね」は、犬塚が答えられなかったほどの知識であるのに、「教えて遣るという口吻で」はなくて、聞かれたからやむを得ず答えるだけという露骨な意味を持った「そうですね」である。しかも、木村は学者と言われるだけあって、特に調べたわけではないにもかかわらず、学者的な常識として無政府主義と虚無主義の名付け親を知っている。犬塚と違って知識をひけらかさない特徴を描こうとするのでニュアンスが細かい。「小さい声で、ゆっくり物を言う」が言うことは深い、と言いたい。そんな木村が、犬塚には誰よりも言葉遣いが丁寧である、というのは露骨な厭味であるが、知的な優位を表に出さないから犬塚としては非難するわけにもいかず、無知で性格の悪い犬塚に対して隠然とした圧力を与えている、ということである。だから、犬塚は木村を敬して遠ざけるように感じている、という。しかし、木村の態度は敬して遠ざけるというものではなく、露骨な軽蔑であり厭味である。こんな書き方では、腹の中では軽蔑しているが、役目上仕事上やむを得ないから我慢しているだけで、自分の方が実力も人格も遥かに上だという意識がはっきり出ている。しかも、実際に優位があるのではないから厭味が非常に厭味らしい雰囲気を持っている。鴎外には自分の優位を抑える気はないしそんな余裕もない。ただ露骨に書かないというのが、実際の優位にない鴎外にとっては効果として大きく思われる。直接的な対立を回避して、安全な場所から打撃を与えようとする鴎外のやり方である。おさまりかえった風をして偉そうな態度を示すこんな男を「余り好くは思っていない」程度ですませているのは、上司としてはむしろ寛大と言えるだろう。
 「虚無主義とは別なのかね」と、山田が云った。
 木村はこう話が面倒になって来ては困るとでも思うらしく、例の小さい声でしぶしぶ云った。
「別に虚無主義なんという纏まったものがあったのではないから、無政府主義のような極まった思想が成り立ってからは、人があんな詞を使わなくなったのだろう。」
 虚無主義と無政府主義の違いを知っていることが大したことだと思っている鴎外は、山田に「虚無主義とは別なのかね」と質問させる。だから、その質問に飛びつくのではなくて、偶然の災難であるかの様に、「例の小さい声でしぶしぶ云った。」という態度を取る。「こう話が面倒になって来ては困るとでも思うらしく」と念を押すのは、自慢する気の無い木村としては、専門的な話をするのは、できないことではないが面倒でもある、というくらいのニュアンスであろうが、これで話が面倒になっているわけではないので、何を考えているのか本当の所は分かりにくい。
 鴎外は学者的な知識を量的に持っているだけで、その質を理解する必要を感じていないから、また自分の知識が実質的な威力を持たないから、まったく無知な山田や、知識をひけらかす犬塚との対比が必要になる。知識をどのように効果的に示すかが重要になってくる。その方法は鴎外の立場、価値観によって決まっている。出世した鴎外には体面を気にする官僚的な臆病さがあるから、犬塚のような憎悪を込めた感情的な批判的意識を表に出すことはない。学者的に専門的な知識をもって、冷静に判断するというのは、現実の対立の場面から一歩ひいて、自分の責任が問われない様に身ぎれいに対処するという意味を持っている。そういう意味では山田は無知という弱点を持ち、犬塚は僅かな知識をひけらかす弱点を持ち、それらを含めた総合的で奥深い弱点を持つのが木村である。しかし、鴎外には木村が無知であり、知識をひけらかしており、悪意に満ちた性格であることが作品に描かれていることを理解できない。鴎外には山田のあり方だけが無知であり、犬塚のあり方だけが悪しき性格であることを知っていたが、その他の、より深刻な木村のような無知や悪しき性格があることを知らなかった。
 「名附親は誰だね」と、犬塚が云った。
 「自分でanarchiste と名告って、君主だの主権者だのというものを認めない、人間の意志で縛っては貰わないと書いたのはProudhon で、六十年程前(1849)の事でした。Nihiliste の方は、・・
 「名付け親はだれだね」などという質問は、鴎外の持つ知識が呼び出した質問である。食堂で虚無主義の名付け親を聞くなどというのは馬鹿馬鹿しいが、それは、もっと馬鹿馬鹿しい答えを引き出すためにどうしても必要なのだからしかたがない。学者的な知識というと、鴎外にとっては外国人の名前の羅列であったり外国語自体であったりする。このあとの説明を読めば鴎外の博識がいかに下らないかは説明しなくても分かる。こんなくだらない知識を学者的だと考えることも、こんな知識を自慢することも、官僚の地位によって自分の優位を意識しているのでなくてはできないことである。実際に学者でありその分野を研究しているは場合は鴎外の言うようなことを知識とは言わないし、まして自慢するようなことはなく、言うこと自体が単に恥さらしである。
 「君馬鹿に精しいね」と、犬塚が冷かした。
 「なに文学の方の歴史に、少しばかり気を附けているだけです。世間の事は文学の上に、影がうつるようにうつっていますから、間接に分かるのです。」木村の詞は謙遜のようにも聞え、弁解のようにも聞えた。
 鴎外はこんな知識が「詳しい」と思っている。犬塚は、その知識に恐れ入っているにもかかわらず、それを認めたくないので、冷やかしたのだが、木村は実際に知識をもっているのだから、皮肉にはなっていない、と言いたい。「なに」というのは謙遜だと言いたい。ついでに文学論を披露しながら、「間接に分かる」だけだと謙遜している。形式が謙遜で内容は自慢であるが、鴎外としては自慢にならない様では話にならない。迂回をしながら露骨に自慢するのが「舞姫」以来の性癖である。木村の詞は、謙遜のようにも聞え、弁解のようにも聞え、自慢のようにも聞えた、と書くべきである。それに人の興味に答えるのではなく、自分の知っていることを並べるだけであるから、自分勝手にも見えた、と書くべきであるし、内容から言えば、無知であるように聞こえた、と書くべきでもある。無論鴎外にできることではない。鴎外が謙遜していることからも、自分の知識のつまらなさを理解していないことがわかる。
 「そうすると文学の本に発売禁止を食わせるのは影を捉えるようなもので、駄目なのだろうかね。」
 木村が犬塚の顔を見る目はちょいと光った。木村は今云ったような犬塚の詞を聞く度に、鳥さしがそっと覗い寄って、黐竿の尖をつと差し附けるような心持がする。そしてこう云った。
 鴎外はどこまでも屈折している。これが鴎外の本来の目的である。「黐竿の尖をつと差し附ける」のは鴎外のやり方である。いつ、どう付け込まれるか分からないという猜疑心が、相手を常にこのように観察させている。実際そういう世界であろうが、その世界に最もなじんでいるのが鴎外である。自分の著書が発禁処分を受け、「危険な洋書」で風俗壊乱の書として挙げられている鴎外としては、大逆事件の進行の中で、何よりも自分が無政府主義や虚無主義に反対していることを学者的な知識を以て明らかにしておかねばならない。さらに犬塚という上司が、木村が知的な優位にあることを根に持って自分を好く思っていないことを示し、その上で自分の著書に対する発禁処分が間違いであることを主張するという、一石三鳥を狙ったのがこの作品である。
 「しかし影を見て動くものもあるのですから、影を消すのが全く無功ではないでしょう。ただ僕は言論の自由を大事な事だと思っていますから、発売禁止の余り手広く行われるのを歎かわしく思うだけです。勿論政略上已むことを得ない場合のあることは、僕だって認めています。」
 「ロシアのような国では盛んに遣っているというじゃないか」と、山田が云った。
 「そりゃあcaviar にする」と、犬塚が厭らしい笑い顔をした。これも局長に聞いた詞であろう。
 山田は目をみはっている。
 この時期に鴎外の作品の発売禁止は官僚としての地位や将来に関わる決定的に重要な案件であった。しかも、上司に直接戒飭されたことを根に持っている。しかし、上司に対する反発を出しすぎると、自分が政府の言論弾圧に反対していると誤解されるおそれがある。だから、「言論の自由を大事な事だと思っていますから」と言った後、「発売禁止の余り手広く行われるのを歎かわしく思う」と、自分の作品にまで発禁が及んでいることだけを問題にしていることを「余りに手広く」とほのめかし、さらに政府反対という印象を与えない様に、「勿論政略上已むことを得ない場合のあることは、僕だって認めています。」と念をおした上で、「ロシアのような国では盛んに遣つている」という知識で補足し、日本は「已むことを得ない場合」であるが、それでもロシアよりはるかに増しである、という注釈を与えている。このやり方は「フアチウス」でも「沈黙の塔」でも同じである。鴎外は自分に対する処分の事をはっきりとは書かない。こういう官僚的な用心深さ、汚さを、批評は反官僚的な進歩的な意識だと解釈している。といっても、上司との対立という偶然がなくても、官僚的な意識の中に他の方法で反官僚的な意識を読み取るだろうが。
 弁解の後にはすぐにまた知識自慢が続いている。謙遜と自慢と卑屈と傲慢と弁解と強弁がまだらに入り交じるのが鴎外の作品の基本的な特徴である。といっても目まぐるしく立ち現れるだけでそれぞれは非常にはっきりしているし、それほど多様でもない。
 木村は山田の顔を見て、気の毒がるような様子をした。そしてこう云った。
「あれは外国から這入る印刷物を検閲して、活版に使う墨で塗り消すことさ。黒くするからカウィアにするというのだろう。ところが今年は剪刀で切ったり、没収したりし出した。カウィアは片側で済むが、切り抜かれちゃ両面無くなる。没収せられればまるで無くなる。」
 山田は無邪気に笑った。
 小説でこんな自慢をするとなると滑稽である。犬塚が局長に偶然聞いた話をひけらかすと、何も知らない正直な山田が驚いて、物知りで謙虚な木村が、自慢するでも軽蔑するでもなく、本当は徹底的に自慢し軽蔑して気の毒に思って、犬塚が偶然知っていたことさえ日常的な知識として木村が詳しく説明する、すると、山田が無邪気に笑うというのは、まるでおとぎ話のような世界である。くだらない知識をなんと高く売りつけることか。くだらない知識であるからこそ売り方に工夫が必要になるのであるし、どんなに工夫しても、また工夫する程その工夫もつまらなくなる。しかも鴎外は、瑣末で特に必要もなく、誰も興味も持ちそうもない事まで、木村自身にとってさえ知る必要もないことを知っていることが、あたかも博識の証明であり威力であり優位であるかのように、余計な知識で頭を濁らせて、それをひけらかす手段を工夫することで性格まで歪めてしまっているのではないかのように考えている。
 暫く一同黙って弁当を食っていたが、山田は何か気に掛かるという様子で、また言い出した。
 「あんな連中がこれから殖えるだろうか。」
 「殖えられて溜まるものか」と、犬塚は叱るように云って、特別に厚く切ってあるらしい沢庵を、白い、鋭い前歯で咬み切った。
 「木村君、どうだろう」と、山田は不安らしい顔を右隣の方へ向けた。
 「先ずお国柄だから、当局が巧に柁を取って行けば、殖えずに済むだろう。しかし遣りようでは、激成するというような傾きを生じ兼ねない。その候補者はどんな人間かと云うと、あらゆる不遇な人間だね。先年壮士になったような人間だね。」
 無政府主義や虚無主義の話で山田は不安になる。犬塚は憎悪を感じている。二人とも冷静な判断はできない。木村は学問的な知識を持っているから落ちついている。しかし、それは態度のことであって、言っていることは平凡以下である。「不遇な人間」という。いつでも何についてでも言えることで判断などというものではない。同情ももちろんないが分析もない。「あらゆる不遇な人間」が自棄になって平気で人を殺す様になる、という結論である。こんな結論は冷血な官僚だけがもつ、自己保身的な立場から出てくる平凡な結論である。鴎外はこうした保守的な立場に沸いて出る常識的な判断を無駄な知識で粉飾しているだけである。
 茶を飲んで席を起つものがちらほらある。
 木村は隠しから風炉鋪を出して、弁当の空箱を畳んで包んでいる。
 犬塚は楊枝を使いながら木村に、「まあ、少しゆっくりし給え」と云った。
 起ち掛かっていた木村は、また腰を据えて、茶碗に茶を一杯注いだ。
 なんと無駄のない描写であろう。無政府主義や虚無主義や発禁処分についての鴎外の主張は非常に単純である。それだけを取り出せば馬鹿馬鹿しい程無意味な主張である。ところが、茶を飲んで席を立つとか、弁当の風呂敷で木村の几帳面な性格を描くだとかして、気の毒な犬塚に、「まあ、少しゆっくりし給え」などと言わせて、まだ無駄話をしようとする。実際、こんな描写が間に挟まっていなければ読めるものではない。下らない知識のひけらかしに弁解や犬塚にたいする恨みつらみがはいることでようやく生きた人間の感情が描写されている。全体として下らない内容であるが、多様な下らなさで支えあうことでようやく作品の体裁を保っているのである。「空箱を畳んで」などというのは几帳面な丁寧な性格という意味で描いているし、実際に日常生活ではそうであろうが、鴎外はこういう落ちつきはらった態度の背後に、社会的認識に関わる力量のまったく欠如した、不誠実で、臆病で、傲慢で、汚くて卑屈な性格を描写してしまっており、それがこのことさらに落ちつきはらった態度によって強調されていることを理解していない。それは日常生活での几帳面さというような分かりやすいものではなく、鴎外の無力とは、そうした人間関係や人間のあり方についての知識を持たなかったことである。
 二人と一しょに居残った山田は、頻りに知識欲に責められるという様子で、こんな問を出した。
 「実は無政府主義というものは、どんな歴史を持っているものかと思って、こないだもある雑誌に諸大家の話の出ているのを読んで見たが、一向分からない。名附親は別として、一体どんな人が立てた主義かねえ。」
 犬塚は、「なんにしろ五六十年このかたの事だから、むずかしい歴史はないさ」と云って、木村の顔を見て、「君は大概知っているだろう」と言い足した。
 これは自慢の形式としては同じことの繰り返しである。つまらない話を聞かされて「まあ、少しゆっくりし給え」などと、次の話の誘いを掛けるのも妙な話であるが、鴎外としては知識のひけらかしはしないから、こうして無理に請われる形式を何度も書き込まねばならない。
 無知無能としてきた山田がしきりに「智識欲に責められる」というのは滑稽であるし、その知識欲の対象が鴎外的な無意味な知識であるからさらに滑稽である。無知な山田が無政府主義の歴史に興味を以て雑誌を読んで、しかも「一向分からない」などというのもつじつまがあわない。歴史というのは、「どんな人が立てた主義か」ということであるから、調べて分からないことではないし、こんなことに関心を持つのも焦点のぼけた話である。山田ではなく鴎外が持つ関心である。山田にこんな質問をさせるというのは、山田の人格を馬鹿にしていると言えるし、無闇にこき使っているとも言える。犬塚でさえ、「お茶でも飲み給え」などといわされることから見ればやむを得ないとも言えるが。
 木村は少しうるさいと思ったらしく顔を蹙めたが、直ぐ思い直した様子でこう云った。「そう。僕だって別に研究したのではありませんが、近代思想の支流ですから、あらまし知っています。五十年余り前(1856)に死んだMax Stirner が極端な個人主義を立てたのが端緒になっていると、一般に認められているようです。次は四十年余り前(1865)に死んだProudhon で、Kropotkin が・・
 犬塚を悪人らしく描いた上で 「君は大概知っているだろう」などと言わせ、さらに「少しうるさいと思ったらしく顔を蹙めた」などともったいぶって、研究したのではないが、近代思想の支流ならあらまし知っていると自慢をするというのは、平凡な性格の人間ではない。これだけひねくれた出しかたをするのであるからその知識の質は知れている。智識の内容に力があればこんな手続きはいらない。できるだけ明快に説明するのが内容の必然であるが、鴎外の知識は無内容であるから難しく見えるような努力をするのであるし、「うるさい」という形式で智識を表に出さないことが上品に見える。無論それは手続きであって表に出さないということではない。ひけらかすがために蓄えた知識であるし、それを隠すためではなく、大きくひけらかすために謙遜するのは、知識をひけらかすやり方であることは誰でも知っている。ただ鴎外ほど露骨なやり方は普通でないだけである。ここからまた外国の人名辞典の抜粋のようなものが出てきて、それが「歴史」というもので、その内容は好奇心が拾い上げただけの軽薄なエピソードである。こんな話で「知識欲」を満足させられると考えているのだからお粗末な話である。
 鴎外にとっては智識が偶然的であることは何ら智識の弱点ではない。智識が偶然であることの意味を理解できず、ただ知識の量と人が知らない、興味すら持たないことを知っていることが、知識の無力ではなく威力だと考えていた。しかも、鴎外の好奇心は実際に人が知りもしないし知る必要もないような知識に引きつけられていた。まだ十分な知識が国民に広がっていなかった日本では、特に高級官僚であった鴎外には知識の質を厳しく意識する必要がなかった。知識の威力ではなく官僚の威力に頼ることが出来たし、外国語を知っているだけで知的であった。だから遅れた日本らしい現象として、こういう知識の露骨なひけらかしが、臆面もなく披露されるのである。しかも謙遜附きで。
 「なかなか精しいね」と、犬塚がまた冷かした。
 熱心に聞いていた山田がまた口を出した。「一体その二三人の大頭はどんな人間かねえ。」
 木村の話を「精しいね」と評価するのは鴎外だけである。小説の形式を取った自画自賛である。犬塚は木村を褒める限りは鴎外の頭の中にいる第二の鴎外である。さらに第三の鴎外が、「大頭はどんな人間かねえ」と鴎外だけの偏狭な知識に興味を示して知識を小出しにさせ、第三の鴎外が勿体をつけてちびちび出してくる。それからまた外国の名前が盛り沢山の、読んでさえ退屈で、食堂でこんな話をされてはとても我慢できない様な、せいぜいよくこんな退屈な話を暗記できると言える程度の話を書き並べている。忙しい官僚生活をこなしながら夜中に起きて、体面と虚栄のためだけに寄せ集める知識はこんな程度の物になるのであろうし、何ら深刻な課題を持たない官僚にとってはこうしたものが興味深いのであろう。下らない官僚生活にはこういう好奇心が似合っている。鴎外には、そもそも面白いかどうかにかかわりなく、ひたすら几帳面に、せいぜいひけらかす機会に備えるくらいの目的意識で、あるいはそれさえもなく無目的にせっせと知識を集める性癖があった。いづれも凡人には理解できにくいことである。こんな鴎外に無政府主義や虚無主義について説明を求めたのであるから、山県もさぞ退屈したことだろう。
 この退屈な話の終わりに、次の様な文章がある。
 木村が暫く黙っていると、犬塚が云った。「クロポトキンは別品の娘を持っているというじゃないか。」
 「そうです。大相世間で同情している女のようですね」と、木村は答えて、また黙ってしまった。
 鴎外はどんな作品にでも「別嬪の娘」に対する強い興味を書いている。クロポトキンについて読んでもこういう点に強い好奇心が働いたのであろうが、それを犬塚に言わせている所を見ると、無論それを知っていることは木村の力量として書かれているが、好奇心としては学問的ではない、という感覚がどこかにあったのであろうか。「ようですね」も「また黙ってしまった」もわざとらしいし、鴎外としてこの興味深い知識を披露しないわけには行かなかったのであろうが、やはり露骨に示すべきものではないという感覚を持っていたのであろう。別品の娘に対する興味がいかに抑え難く強くても、官僚の出世や体面には替え難かったということである。その意味では禁欲的でもあったが、そのために「別品の娘」に対する興味が陰気で俗物的で肉欲的になってしまった。鴎外は自分の退屈な学問的関心と「別品の娘」に対する興味は、対象が違うだけで精神のレベルとしては同じであることを理解しなかったのであろう。そして、こういう俗物的な好奇心と、無為乾燥な学問的な知識がまぜ合わさっていると、自分がまったくの俗物であるという意識を持たずにすんだのでもあろう。実際こういう俗物的な好奇心だけではインテリ的な満足を得ることはできない。したがってこの両方とも鴎外にとって、また鴎外を評価するインテリにとっても、同程度に俗物的で日常的な関心と非日常的で同様に俗物的で無味乾燥な知的な世界の両方をどうしても必要だったのである。くだらない好奇心を退屈な学問的知識で挟み込んでじっくり味わうのがインテリ的な道楽のひとつである。
 こうして下らない知識をひけらかして犬塚に腹いせをしたあと、この時期にふさわしい時代的な、極めて鴎外らしい判断を最後に書き込んでいる。
 山田が何か思い出したという様子で云った。「こん度の連中は死刑になりたがっているから、死刑にしない方が好いというものがあるそうだが、どういうものだろう。」
 敷島の烟を吹いていた犬塚が、「そうさ、死にたがっているそうだから、監獄で旨い物を食わせて、長生をさせて遣るが好かろう」と云って笑った。そして木村の方へ向いて、「これまで死刑になった奴は、献身者だというので、ひどく崇められているというじゃないか」と云った。
 木村は「Ravachol ―Vaillant ―Henry ―Caserio 」と数を読むように云って、「随分盛んに主義の宣伝に使われているようですね」と言い足した。
「どれ」と云って、犬塚が紙巻の燃えさしを灰吹の中に投げたのを合図に、三人は席を起った。
 保守的な官僚の中に無政府主義を憎悪し、残酷に対処する人間は数多くいた。しかし、憎悪という形式での関連すら持たない程の、これほどまでに冷酷な人間は稀であろう。
 まず第一の鴎外である山田が、「こん度の連中は死刑になりたがっているから、死刑にしない方が好いというものがあるそうだが、どういうものだろう。」という。官僚的インテリ的に歪んだ言いぐさである。鴎外は死刑にしたいともすべきだとも言わない。「死刑にしない方が好い」という意見に従うべきではない、という形で死刑に賛成する。「今度の連中は死刑になりたがっている」という、まったくの虚偽の冷酷な理由付けをして、死刑になりたがっている連中の手に乗ってはいけない、という形式で、死刑にしないことがだまされる事であるかの様に書いている。死刑にすることで利用されるかもしれないが、そのことを理解した上で正義を貫くべきだという形式になっている。
 第二の鴎外は、「そうさ、死にたがっているそうだから、監獄で旨い物を食わせて、長生をさせて遣るが好かろう」といって笑う。すでに死刑が決まっていることを鴎外は知っていた。その上でこんなレトリックを使って死刑を正当化している。死刑になり、棺桶に入って担ぎ出されてくる人間の運命にたいしてこんな軽口を書くとは、自分の冷酷さをこれほど露骨に文学史に刻み込むとは官僚としても余りに非人間的である。死刑になることで「献身的だというので、ひどく崇められている」ということに注意するなどというのは文学者らしい周到な宣伝であり山県等を喜ばせたに違いない。鴎外は、死刑にすることを肯定することにすら関心を示さず、ただ、「随分盛んに主義の宣伝に使われているようですね」と、死刑後の宣伝に対する用心を呼びかけている。直接弾圧を推進し、直接死刑判決を下す残酷な連中とは違った、傍観的な立場でなおかつそれを肯定する者に特有の冷酷さである。
 

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