『そめちがへ』 (明治30年8月) 


  鴎外は明治21年に帰朝し、23年1月「舞姫」、8月「うたかたの記」、24年1月「文づかひ」を発表して後、評論と翻訳を書いていたものの、六年半の間小説を書かなかった。30年に「そめちがへ」を書いた後、42年の「半日」から再び活発な執筆活動を始める。この作品は、長い休止の間に書かれた過渡的な作品で、文体や内容からして、明治 28 年から 29 年にかけて書かれた樋口一葉の傑作に、特に「にごりえ」に触発されて書いたと思われる。

 一葉は「にごりえ」で、表面は好き勝手を押し通しながらも内に実のある、きっぱりした性格を描いている。お力に隠されている内実は無限的な深さを持っている。鴎外は、内に秘めているにしても表に出るにしても、誠実で情の深い人物を描けなかった。精神の二重性に対する好みは鴎外の本性ともいうべきものであったが、屈折した二重性を含むだけである。この作品では、「何処かけんのある顔の眉しかめて」、「毒と知りながら、麦酒に酒雑ぜてのぐい喫み」、「寂しくほゝと笑ひ」と内に何かを隠している心理を描いているが、これは隠していることを装う平凡な心理であって二重性と言うほどのものではない。
 兼吉が隠しているのは清二郎に対する純な愛情で、それが小花との三角関係で外に現れるというのが、この作品の趣向である。兼吉は客の冗談をきっかけに清二郎を呼んで思いを遂げようとするが、清二郎の純な心に触れて、思い止まった。鴎外はこの事実に基づいて、「それ迄の事」、「思ひ切って小花さんに立派に謝る分のこと」、「私は命も何も入りませぬ」、という言い方だけできっぱりした性格や意志の強さを描こうとしている。しかし、内容は清二郎を思い切るだけで、どんな困難も複雑な関係もない。単純な事を大げさに断言するのでは軽薄なおしゃべりになる。つまらないことできっぱりして明確で、命をかけると言っても、やはりつまらないままであろう。
 兼吉の心理は一葉のお力と違って非常に単純である。その単純なままに、自分が内的な苦悩を抱えていると考えており、しかもそれを隠している事を自分の取り柄とも考えているために、思い込みの多いはっきりしない性格になっている。一葉の場合は表面の気まぐれが奥深い精神を予感させるが、兼吉はわざとらしい、思わせぶりな印象を与える。それは作家の力量の違いである。一葉のお力の苦悩はあまりに深刻であるために、もっとも寛大な理解者と思える結城にも理解できない。「そめちがへ」の三谷も兼吉の苦悩を理解できないとされているが、それは兼吉の苦悩が深いからではなく、三谷が人生について無知だからである。兼吉の心理は裏も表も単純で、理解しにくいものではない。

 兼吉が小花の心理を察しながらも無頓着に振る舞う素振りは通俗的な人情本にありそうなな描写である。鴎外の見る兼吉の表面は、「御存じの通の私が身持、昨日は誰今日は誰と浮名の立つを何とも思はず」と、浮いた生活をしている事で、そんな兼吉が清二郎に純な愛情をもっている、というのが隠された内面である。こうした通俗的なよく描かれる二重性は、鴎外の意識していない別の二重性を持っており、その具体的な内容は、兼吉が、自分の誠実さを小花に説明するところに、つまり鴎外が誠実さとは何かを説明するところに現れている。
 兼吉は、「まことにまことに卑しく汚はしく筆に書き候も恥かしき次第、お前様といふものある清さんとこのやうな身持ちの私が」、「かやうな悪しき心を持ち侯ひし事、今更申すも恥しく侯、さて女の性は悪しきものと我ながら驚き候は、」と心から卑下している。鴎外の考える兼吉の真実性や誠実さは、兼吉が卑しい職業についていることを自覚し、卑下することである。高級官僚である鴎外は、兼吉が自分の卑しさを認めることに健気さや真実性を感じている。この兼吉の誠実さというのは、兼吉の職業に対する鴎外の抜きがたい蔑視である。これがこの作品の隠された二重性である。

 鴎外は自分の二重性に気がつかないために兼吉を容赦なく冷酷に扱っている。鴎外は、兼吉がその卑しい職業を自覚して愛情も未来も捨ててあきらめることが誠実さだと考えているために、誠実さを描くという意図のもとに、すべての人間性を忘れ、何の権利も可能性もない女として自覚することを求めている。逆に言えば、そうした自覚を持たない限りは軽蔑すべき、誠実さのない、浮ついた女だということになる。軽蔑は徹底していおりわずかの人格性も認められていない。
 「羨ましきは清さんの様な人をお持なされ侯ふお前様の身の上にて、たとひどの様に憂いつらいと思ふ事ありとも、其憂いつらいは頼になる清さんのやうな優しい人を持たぬものゝ憂さつらさに比べては何でもないと、よくよく御勘辨なさるべく候、又私の事は此上未練がましく申し度はなく候へども、今迄も不身持な女子のこの末はどうなり申すべきか、我身で我身が分り申さず、どうして私はかうなったやら、どうして私はどうならうか知れぬやら、それはお前様に申しても甲斐なき事と致し候うて、こゝに一つ申し置き候ふは、若し少しにても此文の心御解なされ候はゞ、昨夕罪の無い清さんを罪に堕さなかったのは兼吉だ、よしや兼吉が心から罪に堕すまいと思ってゞはないにしても、罪に堕すことのできぬ様な何とも知れぬ心に兼吉はなることがあったといふ事ばかりに候、」
 この手紙を鴎外は「さてさて珍しき一通、何処が嬉しくてか小花身に添へて離さず」とありがたがっている。官僚の精神レベルがいかに低いかがよくわかる。兼吉のような稼業は、頼るべき優しい人を持つことはできない、先行きが不安である、どうしてこんなことになったのかこの先どうなるか分からない、といった不安を浮いた生活の中に隠しているだろうと思うのが精々の人間観察である。兼吉に卑屈な告白をさせて、それを健気な心がけだと感心し、その悲しい運命と嘆きに同情を感じるのは真面目な高級官僚としては快いであろう。安定した道徳的な生活を誇る官僚の現実認識というのは、いくら洋書を読んで髭を蓄えていてもこの程度のものである。鴎外は貧しく厳しい運命をもつ人間に対して高級官僚らしい、自分の地位を味わうための好奇心を持っているにすぎない。一葉の作品と形式的に似ているが内容はまったく違う。一葉の作品には高級官僚の俗物根性は描かれていない。
 
 鴎外は人生の奥深い描写であるかのように、兼吉が誠実さを示し、小花は清二郎と結婚して幸福になったことを描いた後、「兼吉はまたけふが日迄、河岸を変へての浮気勤、寝て見ぬ男は誰様の外なしと、書かば大不敬にも坐せらるべきこと云ひて、馴染ならぬ客には胆潰させることあれど、勢者といふはかうしたものと贔屓する人に望まれて、今も歌ふは」と、浮いた暮らしをしながら内面には人知れず隠したものがある、という情緒を描いている。鴎外にはこの情緒が官僚の軽薄な感情であることが理解できなかった。鴎外の作品は保守的官僚の常識的な現実認識を上品そうに定式化しただけで、自分の現実認識や感情に対してわずかの批判意識を持つこともできなかったことがこの作品にも現れている。

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