9. 其面影 2


 このように原因を「愛」と考え「愛」の上での解決を求める小夜子は、哲也が唯一の解決と考える支那行きを「ぢやまあ体よく逃げるのですねえ」(353頁)と批判する。時子と哲也の心が問題であるから、時子の了解が得られなければ二人の愛情は道義にもとるのであるし、哲也の心に未練のないことがはっきりとしなければ支那へ行くことは問題を残すだけで解決ではない。この二つの条件が満たされることはありえない,--このような関孫の上に小夜子への愛情がある--のだから、小夜子の場合「死ぬより他にないじやありませんか」(355頁)という結論になる。
 四迷は小夜子の決意を「自分とても見込みがあるわけではなく、唯如何にかなるだろうで其日を送つているのであれば、況して愛ばかりを力に世を渡る女の身にしては嘸ぞ心細い事であろうと思うと不憫で堪らなくなる」(355頁)と深く理解し、情死というものを一概に愚とすることの薄っぺらさを指摘した上でなお「突つめた小夜子の言に深く動かされぬではないがさてどういうものか其気になぬ…バカバカしいように思われる」(356頁)といかにも彼らしく書いている。
 四迷は文三や哲也の行動を常にはっきりと確定した上で、他の者の決意、決断、明確な判断による行動に対し「どういうものか」納得できない、その気になれない、自分はそうするわけにはいかないという形式で批判的感情を書き込む。そしてそうするわけにいかない事情と個性をうまく描いている。時子や葉山の明確さに対してはともかくとして、小夜子のように善良で虐げられた者の決意に対してさえこのように煮え見切らない態度で対立するのは四迷の並々ならぬ力量を示している。小夜子の覚悟を理解するとともに、その感情にひきずり込まれることなくなお「現実のコンヂション」の中で生きようとする哲也の中に、四迷の冷静なねばり強い性格が反映しており、小夜子の決意が小野家の運命に与えた影響を正しく描くことによって、小夜子の精神に対する高度の批判力を示している。
 小夜子はすっきりした解決を望んでおり、そのための覚悟ができている。しかし現実には誰もがすっきりする解決はありえない。葉山や時子がすっきりしているのは小夜子の犠牲を問題にしていないからである。どんな犠牲も求めない小夜子がすっきりしているのは自分の人情を殺すと同時に自分の行動の結果について考慮しないからである。すっきりした解決があるのはもともと大した問題ではないか、問題の一面しか見ていない場合だけである。連関の必然性によってどのような行動も誰かに不利益を与え誰かの人情を破るような運命がある。そのような運命に巻き込まれた場合はそこで生じた問題を取り込んだまま生きなければならない。その場合解決とは古い利害関係を破壊して新しい利害関係を構成すること、古い人情を破って新しい人情を生ずることであり再びそこで生じた新しい対立の中で生きることである。これが歴史の発展形式である。小夜子のように現在の利害や人情を傷つけることを不道徳だと考えれば死ぬしかない。しかし、死ぬこともまた一つの行動であり、「体よく逃げる」ことであって悲惨な結果をもたらす場合もある。自分の感情、自尊心を守るために死ぬことが他の犠牲をともなうとすれば道徳的とも潔癖とも言えなくなるのである。
 小夜子は厳しい環境の中で独自の道徳を形成している。他人の不幸の原因となるどんな非道徳性も自分に許さない潔癖さが彼女の精神的美しさであり、これが彼女の厳しい運命を内から支えている。貧しさにも逆境にも強く、精神的価値に幸福を見出すべく形成された個性である。したがって渋谷や葉山に対しては強い。渋谷の情欲に対して死を覚悟して抵抗する。渋谷が保証する妾の贅沢も全く問題にならない。しかし、哲也への愛情で支えられ、渋谷からは死の覚悟で守られている小夜子も万全ではない。小夜子の精神に対応した対立物も社会は同時に生み出す。渋谷から最も遠く、渋谷と対立的形式をもち、渋谷には無関係であるかのようにどこにでもはりめぐらされている手投が、まさに小夜子が死の覚悟をしている時に登場する。それが俊子である。
 俊子は「浮雲」にはなかった、小夜子と共に小夜子を哲也から分離するために生まれた、渋谷に必要な新しい媒介項である。文三の誠実と昇の俗物根性、哲也の反省力と葉山の実行力が対応している。小夜子の善良さに俊子の偽善が対応している。彼らは互いに対立的かつ相互補完的で、小夜子の場合俊子がもっとも危険な内部の敵である。四迷は「茶筅髪」の構想以来宗教的偽善を研究課題にしており、それが「浮雲」以来の深い社会的問題意識と結びついて俊子を生んだのである(5)。
 (5)日露戦争によって生じた未亡人問題を題材にしようとしていた四迷が「其面影」を書いたのは、社会問題から恋愛問題へと後退したことを意味し、四迷の能力の限界を示すと一般に考えられている。例によって未亡人は戦争の結果だから社会的で、哲也と小夜子の関孫は恋愛だから社会的でないなどとわけのわからないことを考えているのでろう。
 小夜子の美しさを踏みにじろうとする渋谷、葉山、時子に対して小夜子は抵抗できる。抵抗する精神力が彼女の美しさというものである。しかし俊子は小夜子の善良さ、美しさを利用する。彼女は哲也と小夜子を引き裂くために小夜子の自分に対する厳しさ、潔癖さに訴える。小夜子の行動を「自分が可愛くつて」、「本当は肉に負けた」、「弱いのね」等の言葉で表現する。
 哲也と小夜子の恋愛を「本当は肉に負けた」と感じるのは、特に愛情もなく結婚し、神の使命にだけ冷たく燃えるような不幸な人生を運命づけられた俊子の偽らざる感覚であろう。俊子の不幸な境遇から発する禁欲的な言葉は小夜子にとっても真実に見える。小夜子も自分の欲望の充足=幸福を否定することをもって自己に対する厳しさ、潔癖さと考える習慣がついているからである。俊子の忠告が小夜子と共通の人生から出る心からの善意であるから小夜子をとらえる。そして、彼女の忠告がなお偽善的であるのは、彼女の意図にかかわりなく、彼女の忠告が客観的に果たす役割においてである。
 現実の人間関係は基本的には渋谷・葉山と哲也・小夜子の対立的利害によって構成されている。誰もがこの対立的関孫の内部で欲望を形成し貫徹するのであるから相互に独立な幸福などありえない。渋谷の欲望は小夜子を妾にすることつまり「精神的に殺す」ことであり、葉山、時子はその手助けをすることによって自分の欲望を実現しようとしている。目的も手段も立場によって異なるが小夜子と対立する点では同じであり、彼らは小夜子を犠牲にすることで充足される内容の欲望を持っている。したがって哲也と小夜子が自分の利害をまもり、欲望を充足しようとすることは渋谷、葉山、時子の欲望の充足を拒否することであり、立場に応じて哲也や小夜子にかかわる量だけ制限することになる。渋谷、葉山、時子の順により大きくかかわることになり、より大きく対立しより大きく制限しあうことになる。
 このように自己の利益が対立物の不利益となる関係の中では、すべての欲望や行動を対立物の利益を犠牲にするエゴイズムだと説明することができるし実際そうである(6)。だから葉山、時子、姑が自分の利益のために小夜子に犠牲を求めるのはこの関孫の直接的反映である。「お前さんの心の持ち方一つで四方八方回く収まつて皆が出世できるんだから」(291頁)という言葉には主観的にも客観的にも偽りはない。だから小夜子はこれを「聞き分けない」。彼女も同じようにそれは時子や姑が小夜子の犠牲によって利益を得ようとする身勝手だと感じることができるからである。
 (6)この対立関係の追求の中で逆に自己の利益の追求を他の、あるいは全体の利益の追求と同一視することもできる。利害の対立の合力によって一般的、社会的結果が生ずるからである。このような思想はフランス唯物論者のような上昇期ブルジョアイデオローグが展開している。日本の代表的イデオローグは福沢諭吉である。これらのイデオロギーはエゴイズムによって生じる一般性という歴史的課題を論じているから理論としても高度の内容をもっていおり、エゴイズムを確認するだけのみじめな近代主義とは全く違う。ただし彼らはエゴイズムと一般性が統一される現実的メカニズムを研究するまでにはいかず、メカニズムのはるかに発展したイギリスの古典経済学にその課題をゆだねることになった。四迷を含めた批判的リアリズムはこの統一のメカニズムの文学的反映を課題にしている。
 俊子の公平無私の神の立場は現実の利害関孫、対立を切り離す。自分の利益が他人の不利益になることを根拠に他人の利益のために自分の利益を犠牲にすることが自分の精神的、道徳的価値を守り神に通ずる道であると考えている。小夜子の利害を時子、姑、葉山、渋谷と切り離し神と結びつけることによって純粋に小夜子の内面的なあり方、道徳の問題にする。利害関係の中で苦しめられ闘う力を奪われている小夜子は、完全な道徳性の追求、自己犠牲という内的優位によって自己を守り、抵抗しようとする。「貴方は罪悪だといふと直ぐ然う逃げる気に成るんだねえ」(同上、313頁)と言われるような消極性が彼女の潔癖さである。
 個人を利害関係から切り離して内的価値を求めるのであるから、この自己犠牲は全ての人間に妥当する。ところが俊子は同じ神の名において小夜子のために時子に自己犠牲を求めることができるにもかかわらず、神の使いとして弱き者虐げられた者の味方として、弱き者に生きる指針を与えるべく活動している。神の声が渋谷や時子に届きにくいことは俊子にも分かっている。彼女はすでに犠牲になり苦しみなれた者に、抵抗の労苦のかわりに一層の犠牲を求めることで慰めを与えようとする。同じ論理でどちらの利害を追求することもできるが常に弱き者の善良な心に自己犠牲を訴えることで、渋谷、葉山、時子の利益を守ろうとしている。実際は時子の利害を守っていながら小夜子の守護神として活動するのが俊子の偽善である。
 小夜子は俊子に哲也と時子のためと教えられそう信じて哲也と別れる。唯一の支えである哲也を思い切る犠牲は余りにも大きいがその痛みが同時に彼女を支えている。これで三方四方丸く収まるならば、小夜子も自己犠牲を尊いとする価値観で自己肯定できるのであるから立派な解決である。しかし結果は小夜子の孤独と哲也の破滅、時子と姑の生活の破壊であった。満足したのは神の使命を果たしたと確信している俊子だけである。悲痛な思いで小夜子を探す哲也に対する俊子の冷やかな反応は、不幸を背負っているにせよ、どんなに無私な善意に満たされているにせよ、彼女の現実的活動の偽善的本質を反映した冷酷さを感じさせる。好意的に見ても、彼女が自分の不幸を他人の不幸で償っているとしか思われない。
 俊子は小夜子に他人のための自己犠牲を払わせたという尊い事業に満足している。その犠牲的行為がひきおこす悲惨な結果に対しては関心を示さず冷淡である。小夜子は自己犠牲を払った当人であり冷淡や無責任とは縁がない。しかし、結果に対する正しい判断を持ちえず、結果に対して自分の行動を判断しようとする態度さえなく、悲惨な結果をひきおこす一要因となったのは同じである。自分の行動が他人のための犠牲であろうとしたという善意の一点に意識が限定されている。このような形式的善良が悪や偽善の好む道徳性である。
 すべての人間が密接な連関の内になる世界では、どんな行動も他人との連関によって本人の意図--善意であろうと悪意であろうと--を越えた結果をひきおこす。人の行動の意味、役割はその意図によってでなく、その行動と他の人々の行動との連関の中で客観的に判断されねばならない。反省、判断の探さ、正しさはその結果に照らして明らかにされる。だからその行動の結果に対する判断力が意識のレベルになる。そして結果に対する予想的判断は眼前の必然性に対する理解度によって決まるのである。
 哲也が小夜子を愛し時子が嫉妬すること自体とそれによってひきおこされる様々のいざこざについて小夜子は「私が悪いんだわ」と考える。自分をいざこざの原因だと考えるのは自分の責任を厳しく問う態度のように見える。しかし実際は誤った判断にもとづく不当な自己否定であり、これが悲惨な結果の引き金になる。
 「私が居なかつたらこんな事にならなかつたと思つているんですわね」と小夜子は言っている。実際小夜子がいなければ「こんな事」にはならなかった。小夜子がいなければ哲也は時子と姑の警沢のために人生を消耗し生きながら死んでいただろう。小野家の破滅は別の形態をとる。時子は少なくとも嫉妬を感じることはなく哲也ももっとじっくり破滅できただろう。哲也を欠いた小夜子の運命も同じように暗い悲惨なものになっただろう。ところが哲也と小夜子が出会ったために「こんな事」が生じた。破滅に向かっていた二人にようやく希望が生まれた。「生活したいから生活しているのだが…其何たる、苦痛以外の何もない」(311頁)哲也も小夜子のためだと「狙喪した勇気を振起して又奮発する気になる」、小夜子もまた「今迄暗黒であつた此世がどうやら東雲の空ほどには明るくなり、我身にも誘う影があるかと思えば淋しさも幾分か薄らぎ」となった。二人の希望が時子の嫉妬を生み、哲也と時子と小夜子の間に新しい感情的もつれが生じた。哲也と時子の対立に小夜子が加わり、二人の対立は嫉妬という新しい要素をうけとった。この新しい対立形式の部分が小夜子に属する。
 小夜子は小野家での自分の位置を誤って運命の規定的原因と考え、原因を取り除くことによって事態を収拾しようとした。彼女は自分の幸福が同時に哲也の幸福であることを理解できず、自分の幸福を諦めることで哲也の幸福も含めた小野家の新しい可能性を摘み取ってしまった。「こんな事」と言われる程ややこしく結びつけられていた彼女らの人生はバラバラになり、「こんな事」が消滅することで矛盾が解消する。これが俊子や小夜子の現実認識にもとづく行動の結果である。俊子や小夜子の精神は自己犠牲を払ったことで一定の満足を得たが、「こんな事」の中にだけ希望を見出しており、自己犠牲を尊いと考えているわけではない哲也にとっては致命的であった。彼にとって小夜子以前の関係を回復することは苦痛以外の何者でもない。しかも小夜子の登場によって時子との距離は一層大きくなっていたから旧状の回復はまったく不可能になっていた。
 小夜子は彼女が哲也に希望を与えることで生じた新しい困難に対して「私が悪いんだわ」と考える。しかし自分が身をひくことによってもたらされた悲惨な結果に対しては「私が悪いんだわ」とは考えないし考える必要もない。なぜなら彼女は主観的には哲也や時子のために身をひいたのであるし、客観的にも哲也や時子が破滅に向かうのは小夜子に関係のない必然だからである。小夜子と哲也の結びつきによって破滅からの脱出の可能性が見えはじめた時その可能性が忽然として消えたため、小夜子によって一定のレベルで支えられていた破滅への道が一気に進んだだけである。だから「こんな事」になったのも小夜子のせいでなかったように--のであるから--その後の破滅も小夜子のせいではない。小夜子には私が自己犠牲を払ったにもかかわらず破滅してしまった、と考える権利があるし実際そうである。
 小夜子の判断も行動も小野家の破滅にはかかわりを持たないから彼女にはどんな責任もない。否定的に表現すれば、彼女は解決の鍵を握っており、小野家の運命における偶然的存在から必然的存在に転化する可能性、即ち責任を負う可能性を持っていたが、身をひくことによって可能性を失い、責任を負うことが出来なくなったということである。
 必然に転化するかどうか、責任を負う立場に入るかどうかの選択は小夜子の自由である。もともと小夜子に関係のない面倒な必然の中に小夜子をひき止める権利は誰にもないし哲也にもそんな気はなかった。哲也は小夜子にとっても自分と生きる以外に幸福はないことを小夜子の意志として確認した上で行動しており、その点で小夜子を疑うことはなかった。小夜子の善良さが俊子の偽善に利用されて自分から引き離されたと考えているから悲痛な思いで捜し歩くのである。
 したがって小夜子は哲也の破滅に対し何ら責められる必要はないが彼女自身において二側面から誤りを指摘することができる。まず自分と哲也と時子の関係の認識が誤っているために、時子と哲也のために身をひいたと考えているのが彼女の思い込みにすぎないことである。さらに自己犠牲という外観も一面的である。哲也への愛を思い切るという犠性を払った彼女の行為は同時に哲也と自分の愛情を維持して「こんな事」のしがらみの中で耐えていく自己犠牲を免れているからである。自己犠牲や禁欲主義の形式的規定は常に対立物の制限でしかない。彼女の運命は困難に満ちており選択はいづれの困難を選ぶかの自由に限定されているからいずれの行為も自己犠牲的に厳しいことに変わりはない。すべてを厳しい自己犠牲的行為といえるのだから、一つの行為を自己犠牲的だと特徴づけることはできない。
 小夜子は、だから哲也と時子のための自己犠牲という俊子に教えられた自分の行為の解釈を行動が現実に持っていた意味にそって改めるべきである。時子と哲也のややこしい、すっきりした解決のありえない矛盾にかかわる気力とか能力がないとか必要を認めない等々であるから別の道を選んだと肯定的に評価すべきである。あるいは、哲也や時子のために行動するという意図の現実的貫徹を望むのであれば、まず時子や哲也のためになる行動とは何かを知り、それによって行動を改めるべきである。行動が誤っていた、意図にそぐわなかったと反省するべきである。そうすれば「こんなこと」を引きずって生きる哲也のやり方以外にないことがわかるだろう。いずれにせよ自己儀牲という不当な意識は払う方にとっても払われる方にとっても負担になる。現実にそぐわない意識形態は常に現実の諸困難に新たな困難をつけ加えるだけである。
 現実にそぐわない小夜子の感情は哲也の出発を影ながら見送るといういかにも小夜子らしい行動として書き込まれている。時子は「甘つたるくて」(373頁)とこれを嫌う。物陰からハンカチを振っても哲也の慰めにはならない。悲惨な運命に耐えるだけの、運命の進行に積極的力を加えようとしない感情であるから、自己満足にすぎない犠牲的精神だから「甘つたるい」のである。
 善意が主観的満足に終わらないためには、つまり善意を現実に貫徹するためには、善意の対象の利益を現実に守るには、善意や忍耐力だけでなく、行動が善意に合致するかどうか、忍耐力が正しく使われているかどうかについての認識力が必要である。当面する課題を構成する現実的諸要因とその連関をできるだけ正確に把握し、行動との合力に対する予測的判断にもとづいてより有効な行動を選択しなければならない。そのような認識と行動もまた他の認識と行動の合力によって予測外の結果をもたらす。全てを予測することなど決してできない。しかし、だからこそ認識や行動の意義が大きくなるし、困難があるからこそ人間の自由が意味を持っている。
 善意に認識力を求め客観的内容を問う場合、高度の認識力と、自己犠牲的精神とは全く違ったさらに厳しい忍耐力を必要とし、人間の個性の高度の発展を促す。判断に基づく行動は自己犠牲的=自己否定的形式を取りえない。判断の正さに対する確信、自己の肯定的主張が行動形式となり、善意の対象の意志と対立する場合さえある。より正しい判断はより深いより大きな結果即ち現状変革のための有効な方法の発見であるから必然的により大きな対立を生み出す。だから判断力が正しく独創的であるほど賛意と同時に利害の対立にもとづく非難、攻撃、誤解、嫉妬、中傷等のあらゆる形式での面倒な人間関係をひきうけるだけの覚悟と力が必要になる。判断が先進的で独創的であるほど正しさの故に孤立し自己確信だけを頼りにせざるを得ない場合もしばしばおこるのであって、その場合もあらゆる非難、無理解に対して非妾脇的に戦うことだけが唯一の救いの道になる。四迷の運命がそうであったし、それが文三や哲也に反映している。文三も哲也も自分の生き方の正さを確信している。文三は自分の人生にお勢を同調させる方法を最後まで捜し続ける。哲也は小夜子が自分を愛し、自分との生活だけに幸福があるということを確信し、はじめからその確信のもとに行動して諸困難を自分の肩にひきうけようとしている。
 自己犠牲的行為は自分の不利益や破滅を自ら選んだことを強調し誰にでも理解できる形式を取ろうとする。だからその行為がエゴイズムや私欲にもとづくという人格的、道徳的非難をはじめから免れている。というよりあらゆる道徳的批判から身を守るはどの明確な自己犠牲的形式をとることをもって厳しさ、潔癖さと考える。だから小夜子の道徳性とは、どの点からみても、自分自身からも他人の目からも明らかに自分の不利益になるという形式で非難の余地を与えず、非難から免れようとする行為だということができる。大きな問題になるほど大きな自己犠牲を必要とし、大きな自己犠牲であるほど大きな責任免れとなる。だからこの種の自己犠牲には眉をひそめさせるものがある。
 小夜子の深刻さも、不憫ではあるがのめり込んでしまうわけにいかない精神である。苦しみの内容が消極的で限定されているため、現実の成果による慰めが期待できず暗くみじめである。しかし弱い立場の人間が圧倒的に多い日本では小夜子的な精神は広範に支持され感動を与える。小夜子の精神を維持することも非常に困難であるから、一層困難な現実との積極的対決に進むことのできない、進もうとしない精神の慰めになるのである。
 このような慰めは、困難の中にいる人間自身だけでなく、この現実的困難の積極的解決を望む人間にとっての非常に大きな足伽となる。この自己犠牲は哲也の役に立たないだけでなく、渋谷、葉山の欲望の実現に力を貸すことになる。金と地位のある者、面の皮の厚い俗物は、自分の利益を追求すべく善良な人間に道徳性を要求し常にその非をなじるための根拠を捜している。善良な人間はその非難から身を守るべく自己の不利益とひきかえに道徳性を得る。哀れで無力な善人と厚頑な俗物がはびこる。これが後進資本主義国の精神的バランスである。自己主張と対立によって決着を計るのではなく対立を避ける。しかし現実に利害は対立しているのだから弱い方、善良な方が、対立による敗北は目に見えているから軟弱に妥協的に、平和に、前もって自分の利益を譲り渡すことで敗北の度を緩めようとする。これによって低い水準での利害や意識の対立が社会的発展レベルとして固定されている。四迷はこのような低レベルにある精神形態を研究し、俊子や小夜子を厳密に描き、このような世界で生み出しうる、このような精神世界のバランスをくずすことのない、自然な、したがって現実に最も高度であるような精神を哲也の中に描いている。

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