『それから』ノート (六)〜(十)


 「六」

 平岡と三千代の窮状に対する代助の感情は複雑で、代助自身が彼等との関係新しい経験を味わっている。代助は、思はせ振りの、涙や、煩悶や、真面目や、熱誠ほど気障なものはないという自覚を得ている。そんなことをやれば兄にも父にもバカにされる、と考えている。代助はブルジョア的な感覚の中で生きていて、それを批判するのではなく、その力を認識して容認し自己内に取り込んでいる。
 しかし、代助は兄や父と同じ感覚や考えかたを持っているのではない。代助が低級趣味を嫌うとき、父や兄の立場からすると、熱誠がない、ということになる。代助の世界には実践的な人間関係がなく、感情が希薄である。その結果として形式的な感情が発展し、すべの感情が、気障で思わせぶりになる。代助がこのことを理解して、虚偽をひき剥がすと、虚偽に変わる関係や精神はない、という真実が現れる。虚偽の意識を生み出すのは虚偽の関係であるから、虚偽の意識を剥ぎ取ると虚偽の関係を直接反映した意識が現れる。
 代助はこの世界に生まれる虚偽の情熱や同情を誠実に真面目に否定している。しかし、代助は、不安や苦悩を売り物にするほど愚かではなく、積極的な感情を失ったことを事実として容認し、自覚しつつも無意味でつまらない感情の中に生きている。代助の真面目な批判的意識はこの世界の虚偽を取り去って本来の不誠実や無感情を生み出し、この世界での人間関係上の矛盾を現実化し、それが代助の新しい精神を生み出す。
 代助の批判的精神は、漱石の初期作品の批判意識を継承し徹底したものであるが、徹底の結果として批判意識は自己に向かっており、この代助が日本の社会においてどういう人物なのかを理解することが漱石にとっての新たな難題になっている。
 ブルジョアの立場は代助を表面的に端的に理解するが、現象以上に深く理解する可能性はない。父は代助を、見込がなささうだと評しており、兄は、「放つて置いても大丈夫だ、間違はない。いづれ其内に何か遣るだらう」と評価しており、嫂もきっと人の上に立つ人物になるだろう、と信頼している。現実から分離し、孤立している代助が現実と接触する時、どのような能力を発揮するかはまだ分からない。つまり、代助がブルジョア的現実と接触する可能性がないことが彼等にはまったく理解できない。
 実践的であるブルジョアにとって、代助がブルジョア的な利益の役に立たなければ端的に無能である。議論の余地は無い。この作品は、代助がブルジョア世界からはじき出されることを主題としているために、ブルジョアとの対立は非常に単純化されている。現実はそうではなくて、知識人の無能は無能であればこそ実践的な意味を持っている。『明暗』では、吉川夫人は津田の無能ゆえに、自分の立場の都合から高く評価している。無能がブルジョアにとって大きな意義をもつ関係にあるためにこそ、代助の無為と無能は、そうしたブルジョア的に有効な無能を超えた無為無能として特殊な内容を持つ様に想定されている。
 
 父や兄と代助の対立は単純で、漱石はブルジョア的な観点からの代助批判については十分に描いている。では、没落する平岡の立場からすると代助はどういう人物なのか。平岡と代助の関係は、まだ漱石にも具体的には理解できない。対立が始まったばかりである。
 代助は平岡との関係でも疎遠になったことを自覚し、容認し、それを隠して情を表に出すことを虚偽だと感じるようになって、「渡金を金に通用させ様とする切ない工面より、真鍮を真鍮で通して、真鍮相当の侮蔑を我慢する方が楽である。」と考へている。
 この自己認識は、深刻な社会認識でもある。代助の立場で生まれる偽善的な同情は、父や兄の世界には通用しない。同情で父や兄を動かせないことは分かっている。同情に訴えようとすれば軽蔑されるだけである。したがって、常識的な現実感覚からすると、代助の同情は冷酷な父や兄には通用しないが、平岡や三千代には通用する、彼等との人間関係を結ぶのが同情である、かに見える。しかし、実際は、平岡や三千代の精神と代助の精神との分離は遥かに大きいのであって、代助が批判している同情が通用するのは、代助の住む知識人的な世界だけである。しかも、虚偽として偽善として通用している。
 代助は、真鍮を真鍮で通して、さらに、真鍮相当の侮蔑を我慢するところまで進化した自分の変化を非常に高く評価している。この変化を平岡は理解できないと想定し、平岡が自分を「冷淡な奴だと悪く思われるに極っている」と考えている。しかし、代助と同じ世界から没落し、代助の変化を先取りしている平岡の変化の方が遥かに大きい。代助の精神がいかに進化しても、またその変化がこの世界においていかに大きな意義をもっているにしても、代助の進化は階級的限界を超えることはできず、またその限界を認識することもできない。だから、平岡との対立予想外に展開している。
 
 代助は大学を卒業した後、無為の生活を得て、その無為な生活を受け入れ、それを精神化し、その生活にふさわしく進化した。平岡は没落してその生活を受け入れ、肯定し、その生活にふさわしい精神を生み出している。立場の変化を端的に反映した精神をもって二人は対立している。
 平岡は卒業した後失敗し、没落した。そしてその没落を肯定する立場から代助を批判している。この漱石の視点は単純であるが非常に深い。平岡は失敗した、代助はそれを笑っている。しかし、平岡は働いている、代助は何もしていない。これが基本的な視点である。これは漱石が自分の見解を纏めて書き込んでいるところなので、長くなるが引用しておこう。
 
 君は世の中を、有の儘で受け取る男だ。言葉を換えて云ふと、意志を発展させる事の出来ない男だらう。意志がないと云ふのは嘘だ。人間だもの。其証拠には、始終物足りないに違ない。僕は僕の意志を現実社会に働き掛けて、其現実社会が、僕の意志の為に、幾分でも、僕の思ひ通りになつたと云ふ確証を握らなくつちや、生きてゐられないね。そこに僕と云ふものゝ存在の価値を認めるんだ。君はたゞ考へてゐる。考へてる丈だから、頭の中の世界と、頭の外の世界を別々に建立して生きてゐる。此大不調和を忍んでゐる所が、既に無形の大失敗ぢやないか。何故と云つて見給へ。僕のは其不調和を外へ出した迄で、君のは内に押し込んで置く丈の話だから、外面に押し掛けた丈、僕の方が本当の失敗の度は少ないかも知れない。でも僕は君に笑はれてゐる。さうして僕は君を笑ふ事が出来ない。いや笑ひたいんだが、世間から見ると、笑つちや不可ないんだらう」
 「何笑つても構はない。君が僕を笑ふ前に、僕は既に自分を笑つてゐるんだから」
 
 平岡は、代助が平岡の失敗を「笑っていると同じことに帰着する」と言っている。客観的な立場がそのような関係にある、という意味である。こうした方法論的な視点を持つのがこの作品以降の特徴である。ここでの平岡と代助の会話の全体は、客観的な対立関係を描写したもので、常識的・経験的にはこのような対立関係は現れないし誰も意識しない。常識的には、知識人こそが知的な活動によって社会に影響を与えており、働いている平岡は、食うための生活に追われるばかりで、社会に自分の意志を押しつける能力を持たない、と理解されている。失敗して、世の中に埋もれているのが平岡で、世の中から頭を突き出して、世の中をよくするように影響を与えるのが代助の役割だと考えるのが常識的な社会認識である。このことが『野分』では道也の中に混在していた。
 ところが、代助も自分の立場について進化した理解を示しており、既に自分を笑っている、と主張している。実際代助は自分に積極的な社会的な役割を認めていない。しかし、平岡はその自己認識を認めず、それは嘘で、代助は得意になっている、と指摘している。さらに「尤も君は人を笑つても、自分を笑つても、両方共頭の中で遣る人だから、嘘か本当か其辺はしかと分らないが……」と指摘している。漱石がこの段階でいかに深くて複雑な批判意識を持っているかがわかる。
 代助の自己否定的な認識は「嘘」ではないが「嘘」である。代助の主観に二重性や偽りがないという意味では「嘘」ではないが、自分の客観的な立場と精神の意義を平岡ほど深く理解できず、平岡の立場からすると、その真実において「嘘」である。このことを代助は理解できない。
 代助は自分が働かない人間であることも、働く意志がないことをも認め、その理由を説明している。自然になまけて無為であるのではなく、積極的な意志によって無為である、と主張している。
 代助の主張は単純で、自分が働かないのは、世の中が悪いからである、ということである。日本の社会は暗黒で、そこでなにかやろうにもやるべきことはない、だから無為であることを自覚して、無為なままでいる、ということである。つまり、働くか、働かないか、社会に対して積極的に働きかけるか、働きかけないか、ではなくて、積極的に働くことができるのか、働きかけることができる状態にあるのかどうか、ということである。代助は日本の社会には積極的な変化の可能性はない、と考えている。
 三千代はこれにたいして、厭世のような呑気なような妙な意見で、よく分からないが、少し誤魔化しているようだ、と指摘している。これは難しい問題である。代助が働かないのは、働かなくても食えるからである。働かなければ食えないのなら働かないでいることはできない。しかし、代助の立場で、社会に対して知識人として積極的な働きかけができるかどうか、というのは平岡が働いていることの社会的な意味とは別問題である。代助は、日本の社会には知識人として積極的な役割を果たすことはできない、と思っている。積極的な役割は代助には発見できない。それは無能でもあり消極性でもあるが、この世界では出世のための努力だとか、同じことであるがブルジョアの奉公人として仕事をすることに社会的な積極的な意義を認めるものである。この点からすると、働かない理由として、社会的に積極的に活動する余地があるかどうかを問題にすることには意義がある。それは平岡とは別の代助特有の課題である。しかし、社会がどのような状態にあっても、また、積極的に働くことがいかに困難であっても、それは働かない理由にはならない。それが誤魔化しである。積極的に働かないことに意味がある場合もある。しかし、代助はそれを理解していない。だから、彼の数え上げている理由はすべて誤魔化しである。
 
 二人の対立はここで止まる。これ以上は具体化しない。代助は「是から先はもう云ふ必要がないと感じた。」と漱石は書いている。そして、平岡の立場からする経験的な批判を付け加えている。これは、平岡が働いているという事実をそのまま肯定したもので内容の進化はない。しかし、これが基本的な視点であることは重要なことなので、漱石は平岡の批判で念を押している。代助にとっても、この視点が自己否定の具体化のためには是非とも必要である。というのは、代助は、父や兄が求める積極的な活動をやる意志はないし、できないから、積極的な働きの可能性としては、平岡の働きとの関係以外にないからである。
 平岡は日本の情勢には関心がなく、「局部に当たって、現実と悪闘している。」しかし、代助は金に不自由しないから、要するに坊ちゃんだから働かないのだ、と批判している。これは働かない事実を指摘しているだけである。代助は、これに対して、生活以上の働きをしなければ意味がない、と主張している。食うための職業は誠実にできない、と主張し、平岡は食うためだからこそ猛烈に働くことができる、と主張している。この対立は社会に対して働きかけることの内容に入らない。だから、形式論議である。平岡は、代助は金に困らないから働かない、と批判し、代助は、平岡は生活に窮して働いているだけだ、と事実を指摘している。それぞれの立場の単純な肯定であって、それぞれの立場と精神の具体的な理解ではない。それはまだ漱石にも分からない。しかし、この単純な対立は非常に重要で、この対立をどのように具体化していくかがこれからの課題である。
 
 「だからさ。衣食に不自由のない人が、云はゞ、物数奇にやる働らきでなくつちや、真面目な仕事は出来るものぢやないんだよ」
 「さうすると、君の様な身分のものでなくつちや、神聖の労力は出来ない訳だ。ぢや益ます遣る義務がある。なあ三千代」
 「本当ですわ」
 「何だか話が、元へ戻つちまつた。是だから議論は不可ないよ」と云つて、代助は頭を掻いた。議論はそれで、とうとう御仕舞になつた。
 
 漱石が作り出した議論は初期作品の成果に基づいた合理的な内容を持っているためにこうした循環論に陥る。代助に「益ます遣る義務がある」となるのは、代助の主張から自然に出てくる結論であり、また平岡が自然に求める結論である。前提になっているのは社会に対して積極的に働きかけることであり、それをどのように実現するかである。代助はこの視点から働きかけることができずに無為にいる、と主張している。つまり、代助は佐川の娘との結婚を実践の内容として認めることはありえない。それを認めるならば、一般的に言って、父や兄の役に立つ仕事を積極的だと認めているならば、佐川の結婚だけでなく、また日本の現実がどれほど暗黒であっても、積極的な活動の可能性はいくらでもある。しかし、それを認めるならば、平岡や三千代とこのような議論をする可能性はなく、関係は完全に分離され、せいぜい同情が関係として残るだけである。平岡や三千代と代助は立場によって大きな対立を持つ様になっている。しかし、代助が同情を含めた自分の階級の虚偽を否定することによって、人間関係が分離しつつも一致する可能性を持つ様になっている、というのが「こころ」までの重要な特徴である。


 「七」

 漱石は、代助の無意味で退屈な生活を繰り返し描いている。代助は気分を変えるために旅行をしようかと考えて、そのあと三千代が気になっている、と気がついた。代助の三千代に対する関心は退屈な生活の中で次第に大きくなるが、外圧がないかぎり独自には発展していかない。漱石はこの点を非常に注意深く描いている。
 三千代は今心細い地位にいる。だから、代助でも役に立てるので、助けたいと思う。しかし、それは正義でもないし、打算でもない。どうしても、というほどの強い同情でもない。三千代に対する関心の基礎にもまず、無気力で充実のない生活がある。この充実のない生活は、高度の批判意識によって獲得されたもので、関心が生まれるとすれば三千代以外にはない、という道筋はすでに描かれている。しかし、積極的な関心がなかなか生まれないのが代助の生活の特徴である。
 代助の退屈な生活の中で、三千代を喜ばしてやるのが愉快だ、というちょっとした関心が動きはじめた時、父と兄は生活を掛けて戦わねばならない状況に追い込まれていた。代助は、兄の家でピアノのおさらいの手伝いをしただけで、三千代のことも金のことも忘れて、自分が考案した欄間に気を取られている。ただ、今はそれが悪趣味であることくらいはわかるようになっている。
 
 嫂は、代助が自分をも父や兄をもバカにしている、と指摘している。嫂は、バカにするのは偉いのだからそれでいい、しかし、その偉い代助に誰も金を貸さなければ、友達を救うこともできない、それでは無能力な事は車屋と同じだ、という。これは、平岡との対立で問題になった積極性のブルジョア版の対立である。頭の中は偉いけれども、お金がなくて、実践的には何もできない、という指摘である。代助は、「自分でもこの弱点を冥々の裡に感じていたのである」と漱石は書いている。こうして、代助の自己認識に対応した外圧が少しづつかかっている。
 平岡の立場からすると、社会に積極的に働きかけていない、嫂の立場からすると、金を持っていない。それにもかかわらず、代助は世間を高みから傍観して見下している。語学も堪能で芸術にも通じていて、豊かな教養からして実際に偉いに違いないが、現実に対して、人間関係に対してどう偉いのだ、という指摘である。偉くないとは思わないがどう偉いのかはっきりしない。
 この指摘に応えられないことを代助は理解している。しかし、だから、働いて金を稼いで、自分の意義を示そうとは思わない。三千代を助けて喜ばしてやりたいとは思うが、自分で働いてなんとかしようと思うほど、「この事件をそれほど重く見ていなかった」。三千代を助けたいという代助の意識は、嫂に相談してなんとかなるなら、という程度の積極性である。実際、代助の生活、精神のどこにも積極性はないが、それが深刻な問題と思われないのもこの生活の特徴である。ただ、代助は自分が、すべての人間関係や利害に対して真剣な関心を持てなくなってきている、という事実を強く意識しはじめている。
 嫂は、代助の無関心を理解できないために、結婚を嫌がるのは、別に好きな女がいるからだ、と考えている。そう言われて代助が三千代を思い出すのは、それ以外に思いつくことがないからで、三千代と結婚問題が関係しているわけではない。漱石は繰り返し代助の三千代との関係を想起させているが、それはいつも嫂の視点である。代助の関心ではない。


  「八」
 
 代助の関心を外から刺激するのは結婚問題と平岡夫婦である。平岡の窮状はひどくなり、父と兄の周辺はなにやら騒がしくなっている。代助は、三千代の依頼についても結婚問題についても、積極的にどうしようとも思はず、相変わらず読書をしている。そして、アンニュイを感じだして、芝居でも見ようという気になって、それから気が変わって寺尾を尋ねた。それでもアンニュイの感は変わらない。
 嫂の金がとどいて、三千代を尋ねる用事ができた。代助には、積極的にやりたいことも、やらねばならないこともない。それが唯一の苦痛になりつつある。漱石はここで、「同情の念より美醜の念が先に立つのが、代助の常であった。」と書き込んでいる。代助は同情と愛情を動機として行動するのではない、ということを繰り返し説明している。どうしてもそのように理解されるからである。
 代助は三千代に会って金を渡した後、君子蘭の世話をする時には平岡のことも三千代のことも忘れていた。平岡に会った後、代助はまた平岡との関係が疎遠になったと感じ、「誰に逢ってもそんな気がする。」と感じている。「現代の社会は孤立した人間の集合体に過なかった。」だとか、「文明は我らをして孤立せしむるものだ」だとか解釈している。ここで意味があるのは、代助が人間関係を失い、積極的な感情と精神を失ったことを自覚していることだけである。自分の置かれた状況を社会全体に押し広げるのは代助の無知である。ただ、自分の孤立を一般化することで、それが真実であり、やむをえないことだ、と受け入れるのが代助の特徴である。代助は、それが「現代人の踏むべき必然の運命と考え」ているが、それは現代人の必然ではなく、代助の必然である。この必然は、代助の立場にふさわしい人間関係を生み出す必然でもある。このとき、「代助はどこかしらで、何故三千代を周旋したかという声を聞いた」、と、孤立を意識したとき初めて関心といえるほどの関心が生まれつつある。


 「九」
  
 代助は父を避けている。父を嫌うのではなくて、父との関係を、父との関係に出てくる自分を嫌うからである。代助は、父と逢うたびに父を侮辱しているような気がしてならなかったし、実際に父を侮辱することになった。代助は、それが現在社会の特徴であり、人類の特徴である、と考えているが、それは妄想であり空論である。漱石は代助の社会認識を空論として描き、実質的な意味を持つものとして自己認識を書き込んでいる。
 父は利潤追求を第一としながら道徳を掲げている。それがまず眼についてしまう代助には「父は自己を隠蔽する偽君子か、もしくは分別の足らない愚物か」に見える。父がこう見えるのが代助の立場の歪みである。それは父の特徴であるが、誰の目にも見える程度のつまらない欠点である。代助はこのように見える父を嫌っているのではなく、こうした意識が自分のなかに生まれてくることを、そうした意識を生み出す自分自身を厭だと思っている。平凡で無思慮な批判意識が否応なく生まれることを意識して、それを嫌うのが代助の批判的な自己認識である。
 
 代助は父との関係において道徳的な批判意識を生み出し、その批判意識を厭に思い、道徳的な意識が生み出す人間関係の矛盾を厭だと思っている。代助の頭に自然に生まれる道徳的批判意識は、他人を否定的に評価するものであり、人間関係を破壊するものである。代助は自分の意識がそうした傾向をもっていることを経験的に理解しており、それが作り出す人間関係とそれが自分に反映して自分に作り出す意識を嫌っており、それに苦しめられている。
 こうした時に代助に圧力がかかって来て代助のこの傾向を発展させる。父の圧力は代助にとって基本的なもので、「これからさきどうする料簡なんだ」という話である。危機的な状況にある父親にとって猶予の無い真面目な話である。代助は、「国家のためとか、天下のためとか、景気の好い事を」述べておけば済むのであるが、と考えているが、それでは済まなくなっている。そんな嘘は言えない、と代助は考えているが、どんな嘘でもどんな誤魔化しでも同じで、代助にはこれからさきどうする料簡もないのだから、真面目な話はできようがない。それを代助はまだ意識していない。ぼんやりと何かあるような気がしているがなにもない。嘘は言えないが言うべき真実も無い。そのことは外圧によってのみ明かになる。
 父は、財産を貰って独立してはどうか、洋行してはどうか、と提案するが、代助は積極的な関心を示しもしないし断りもしない。積極的に何かをしたい、という意識がないから、父に対して何をどう話しても不誠実でいいかげんで、不真面目になる。父と対立することを嫌い、対立を避けることは、真面目な対処をしないことであるから、対立を深刻にする。こうした対立を作り出した上で、代助はこの対立を受け入れており、この点でまったく非妥協的である。初期作品では、対立が表に出ていたが、この作品では対立を回避することでより深刻な対立を生み出している。


 「十」

 代助は、父親に、これから先どうする料簡だ、とこれまでになく厳しく問われて神経がざわつきはじめて、「一種の暗調」だとか「一種の不安」を感じている。この不安の原因が信頼関係の喪失であることを代助は理解している。父とも兄とも嫂とも平岡とも疎遠になって、信頼関係がどこにもない。とはいえ、代助の対策は、「鈴蘭の束を解いて、それを悉く水の中に浸して、其下に寐たのである」ということだから、まだ大した動揺ではない。
 代助が寝ている間に、三千代が来た。それで、すでに動揺をはじめている代助の頭にはいろいろと考えだとか論理だとかが湧いてくるが、何一つ意味のあるものはない。ただあれこれととりとめもなく考えるだけである。
 三千代は、代助が寝ている間に買い物に行って、雨に降られて急いで帰ってきて、息が苦しくなって、鈴蘭を活けてある鉢の水を飲んだ。三千代は心臓が弱い。三千代の行動も精神も、現実の必要に迫られた自然で端的な、そして、代助よりはるかに複雑で深い内容を持っている。代助の認識は、ここではコップの水がきれいだったかどうかまでしか届かない。それが重要に見える生活をしている。
 
 すると、三千代は急に思ひ出した様に、此間の小切手の礼を述べ出した。其時何だか少し頬を赤くした様に思はれた。視感の鋭敏な代助にはそれが善く分つた。彼はそれを、貸借に関係した羞恥の血潮とのみ解釈した。そこで話をすぐ他所へ外した。
 
 代助が繊細な、優しい心の持ち主であることがよくわかる。しかし、これも三千代の生活や心情には届いていない。漱石は代助のこのズレを強調している。三千代が頬を赤くしたのは、代助に借りた金を、借りた目的には使わずに生活のために使ってしまったからで、今日はその詫びのために代助を訪ねたのであった。無論、代助はそんな詫びを必要としないであろう。しかし、それにもかかわらず、代助の関心や感情は三千代の生活から外れてしまう。これは父との関係でも同じである。ただ、代助にとって、父とのずれは仕方ないし、修復しようとも思わないないが、三千代とのずれは深刻な問題である。代助は三千代に対しては批判的な意識をまったく持たないからである。
 代助は、三千代が代助のために百合の花を買ってきたことに気がつかなかったし、代助が百合の花を好きだった昔の事も忘れていた。雨が降ると、代助は「好い雨ですね」と言い、三千代は、「些とも好かないわ、私、草履を穿いて来たんですもの」と言う。すると、「帰りには車を云ひ付けて上げるから可いでせう。緩りなさい」と言う。すると、三千代は、「貴方も相変らず呑気な事を仰しやるのね」と窘めた。
 代助の認識は、目の前の雨にしかとどかない。日常的な会話のすべてが呑気にずれている。三千代は平岡の職探しや引っ越しの準備やらで忙しい合間を縫って代助に詫びを言いに来た。代助がいくら優しくて繊細であっても、代助のこころは三千代の生活の事実に届かない。三千代は、雨が降っても車を呼ぶのであればゆっくりできる、という状況で生活していない。しかし、三千代は軽くたしなめただけである。代助の真面目で優しい心情はよく分かるし、平岡や三千代の生活に心がとどかないこともよく知っている。だから、代助との分離を三千代はよく理解して認めているのであり、ここにある分離は深刻である。



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