8. それから


 漱石は『三四郎』でインテリ精神に対する現実の優位を認めると同時にインテリの階級的な孤立を明確に意識している。この作品からはインテリが現実の発展過程に積極的に参画し得ない、孤立し取り残されていく階級であることが具体的に描写される。それは同時にインテリの矛盾に満ちた精神の全体を社会的必然による規定の上で描くという、主観と社会的必然性の二重化の確立である。漱石は社会や父に対する批判意識や三千代に対する愛情等の大助のすべての主観的な積極的精神形態が客観的には消極性の現象形態であること、孤立と無力によってやむを得ず追い込まれた選択であることを明らかにしている。このような描写は小市民的な精神における積極的形態の廃棄が、客観的な現実と一致した、この階級に特有の精神的発展であり、真の積極性の獲得過程であることを明らかにする契機となる。漱石はこの作品に現れたこの決定的に重要な精神の発展形態を『彼岸過迄』から明確に意識して作品内容を飛躍させる。

 代助は社会から孤立した生活と、その孤立状態を肯定する堅固な意識によってインテリの階級的特質を典型化している。代助の関心は椿の花、自分の身体的特徴、心臓の鼓動、歯並び、肌の色、髪等々に限定されている。心臓の鼓動に自分の生命と「自分を死に誘ふ警鐘」を感じとり、死がなければ「如何に自分は絶対に生を味はひ得るだらう」などという間の抜けた関心にインテリ特有の無能が現れている。
 大学を卒業すると同時に親の援助を受けて高踏遊民生活を始めた大助と、生活のために社会に出た平岡が対比されている。平岡が期待に反して失職した結果、彼らの生活と意識は彼らの予想を越えて分離した。代助と平岡は違った現実と精神を持ち、対立している。
 人は誰でもそうであるが、特にインテリは青年時代の甘い理想や一般論を掲げて現実に接し始め現実と衝突する。初期作品では現実との衝突を現実を不合理とする観点から描写していた。平岡は生きていくために現実が気に入ろうと入るまいとその現実を前提し、理解に先立つ批判を解消しなければならない。自分の精神に対する現実の優位を経験的にたたき込まれる。現実の人間関係がどんなに不合理に見えようとも現実である限りは肯定すべき前提である。平岡の上司が無能であるとしても、それも平岡の属する現実として認識し対処しなければならない。
 大助は初期作品に見られた瑣末な現象に対する道徳的批判意識を解消している。批判意識は対象に対する妥協や無関心にとった代わった。社会的に孤立した世界では現象に対する道徳的な批判意識を克服して本質の認識へと飛躍することがはきない。代助に可能な進化は孤立状態を反映した自分の精神の優位の幻想を廃棄し、それぞれの精神を独自のものとして認めることである。代助の立場で他の階級を批判し対立し得ると考えるのは自分の無力を理解できない無能である。一つの段階を越えるといっそう非現実的で無力な精神が現れ、社会的な対立を深刻化するのが代助の階級の思想的発展である。
 大助は『三四郎』から導入された現実との関係による価値規定である度胸を巡って父と対立している。父親の金で生活している代助にとって現実との積極的な関係を意味する度胸はもっとも不要な、決して形成されない能力である。それは社会から孤立していることを端的に示す本質的特徴である。代助には度胸はなくても度胸以上の能力があると思われる。代助にとっては度胸以上に必要なものがいくらでもある。しかし現実に対して積極的に働きかける必要のある他の階級にとっては、度胸がないことは本質的な弱点であり、無能を意味する。
 激動期の競争を勝ち抜いた父には代助の本質的な弱点である度胸の欠如が明らかになりつつある。代助の精神は実質的内容を持たない不生産的な精神としてブルジョア世界でも認められない。しかし父の幻想は容易に解消されない。生活を援助することで教養を蓄積して社会的な活動ができると考えている。代助の父は自分で稼いだ金で代助を社会から隔離して、彼自身の言葉で言えば胆力のない青年に仕上げて家族内部の対立を引き起こして家族全体の没落の基礎を作っている。これは小市民ないしブルジョアの一般的運命である。
 平岡は大助と対立的に自分の存在価値を「頭の中の世界と、頭の外の世界」の関係に、現実社会への影響力に求めている。しかも現実に対する積極性は働くか働かないかに要約されている。平岡は労働をしない代助の特徴を意志を発展させることができないこと、すべての変化や対応が頭の中で起きるに過ぎないこと、現実と不調和を生じていること等々としている。『三四郎』で発見された現実との関係という範疇自体が無為な代助を否定し労働する平岡の立場を肯定する思想である。現実との積極的関係を構成することにおいて自己をも変革することを人間の存在価値とした場合、外界と分離した代助は無力、無意義である。
 代助が働かないのは日本の情勢によるのではなく父の金で生活できるからである。「切り詰めた教育」、「精神の困憊と、身体の衰弱」、「道徳の敗退も一所に来てゐる」等々の現実認識は、現実社会についてどんな思想的経験的知識も必要としない無為徒食の立場によって形成される。
 「金に不自由しないから」「生活に困らないから」「坊ちやんだから」という平岡の大助批評は乱暴なようでも本質的で的確である。代助の世界と平岡の世界の分離という『三四郎』以後の成果によってこの力強い断定が可能になった。平岡のこの言葉は無内容なインテリ世界の全的な否定である。この批判に対する代助の自己弁護は、それが代助の生活に即した一貫した理屈であるからこそ平岡の観点から全体として否定される。父の金を消費するだけの代助には食うことを目的とした労働の意味は理解できないと結論するのが正しい。代助にとっては生きること、読書、音楽鑑賞等々それ自体が目的であり終点である。代助の自己満足であって社会的な意義はない。
 代助は自分の世界での経験によって自分の無力や限界を認識する。しかしそれは現実的な意義を持たない。平岡が指摘した頭の中だけの変化である。世間並みになるには世間並みの労苦を経験しなければならない。漱石は代助の意識が現実的意味を持たないことを強調している。代助の意識の変化は生活の危機に規定されているが、代助のどのような意識形態も積極性に移行する契機にならない。代助が自分の消極性を認識することは消極性を発展させるだけである。代助の階級の不生産的で消耗的な矛盾は積極性に転化できないことを漱石は発見している。代助は漱石の作品でこの矛盾の巣窟からの出口が発見されないことを初めて自分の苦悩とした主人公である。
 漱石は無為で消極的な代助の生活と意識の変化の背後に客観的な状況の変化を描写している。代助の階級的な根深い消極性に動揺を与えることができるのは現実的な危機だけである。代助の生活を変化させる強制力は父の会社であり、その会社の運命を決定しているのが社会的必然である。代助の無為な生活に危機をもたらすのは工業の発展である。工業の発展が遠くから決して逃すことなく代助の生活に危機をもたらす。代助は自分に迫っている危機を認識できないし対処する手段もない。自分の危機に対する対処を現実的に考慮することが決してできない代助の危機意識は愛に形を変える。
 代助は財産を拒否する積極的価値観を持たない。しかし具体的な目的があるわけではないから財産に対する欲望も積極的ではない。代助が自分の利害、欲望に基づいて佐川との結婚を拒否するなら、それは積極的な人間関係の展開の一形態である。大助は父との対立を回避しようとしているが、それも大助の消極性の現象形態であり、それによって父と対立している。積極的な目的を持たない代助にとって対立一般が無意味である。しかし人を怒らせる気が少しもない代助は消極性の徹底によってもっとも人を怒らせる対応をしている。
 現実的積極性を要請されてそれに応えられず、対応の方法がなくなったことを感じとる段階の代助の心理が、アンニュイである。代助は常に真摯に対応しているにもかかわらず、彼の立場の必然性の結果として次々に人間関係を破壊し、その意味を理解できないながら、結果を一般的不安として感じとっている。
 代助は人間関係の崩壊をどうすることもできない事実として受け入れている。代助の階級にとって人間関係の崩壊と孤立自体はまだ危機ではない。彼らは人間関係の崩壊と孤立状態を様々に肯定的に解釈し、自分の地位に安住する能力を発展させる。無力な代助の危機は積極性を求められるときに生ずる。しかし危機を現実的に認識することはできない。危機意識は代助がこれまでに蓄積してきた教養的な意識の延長として展開する。鈴蘭の花の下に寝るという危機に対する対応はこれまでの彼の生活の合法則的な結果であり、この法則的な対応によって再び危機を深めるのが代助の没落の必然性である。
 代助は自分の活力が充実していないことを自覚することも、行動に飢えることも、その中で疑義を繰り返すことの無意義を理解することもできる。しかし無為の内部で生ずるこのような意識は無為を否定する契機にならない。この消耗性を如何に克服するか、あるいはいかに克服されるかが孤立的状態にある階級一般の課題である。代助のこのような自覚自体、父の会社の危機によって無為で消耗的な生活が破壊される危機意識の転化形態である。父の要請を回避しようとする意識が無為な生活に退屈さを感じて積極性を求める意識として意識される。代助の三千代に対する愛情は無為な生活の危機を反映していることにおいて無為の生活から生まれる真実の愛情であり、その真実において大きな限界を持っている。
 代助はこれまでの自分の生活欲を自分が抑制していたと解釈し、さらに自分の寝入った意識状態を自覚し、周囲の物をどうかする必要を感じ、その方法が三千代に逢うことだと意識している。この意識の内容と方向を決定するのは代助の持つ人間関係である。代助の意識の流れとそれを規定する背後の人間関係の流れの二重性が代助の社会的特徴である。代助自身は自分の意識の変化が外的要因に規定されていることを理解できずに客観的世界から独立した自分自信の意欲として行動している。
 代助が直面している危機の内容を認識することは実は非常に困難である。代助の不安を描く漱石はこの状況における代助の必然性を深く認識している。父のブルジョア的な要請を拒否する理由が代助自身にも明らかでない。欺瞞的な目的意識や道徳的価値観を廃棄した代助にとって佐川との結婚を拒否して三千代を選択する根拠は三千代に対する愛以外にない。漱石はこのもっとも自然で自発的に見える感情と客観的な必然性の関係を明らかにしようとしている。
 代助は佐川との結婚を回避して三千代を選択するのであるから、本来の危機は佐川の娘との結婚にある。代助は自分が佐川の娘との結婚を回避する必然性を意識できない。代助が意識できるのは回避の結果としての三千代の選択であり、選択の後の困難である。代助に意識されていない、代助の意識を規定する客観的な人間関係が代助の本質であり、それが分析されねばならない内容である。
 代助が三千代を気の毒と思う感情は人間関係の希薄な生活から生まれる自然な感情である。しかしこの感情は三千代に対する愛情の必須条件ではない。三千代に対する同情が愛情という重要な意味を持つための必須条件は、無為な生活に生じた危機である。自分の危機を認識できない代助には三千代に対する同情が行動の動機に見える。三千代との関係の背後に佐川の娘との結婚がある。佐川の娘との結婚の拒否の背後には代助の現実に対する無力がある。代助の三千代に対する愛情を背後で支配する危機が理解されないのは、危機の認識が大助の能力や価値の本質的な否定を意味するからである。漱石のこの段階では過去の反省や同情という現象的な心理が行動の動機として扱われることはない。漱石が課題にしているのは無為の生活内部に生ずる様々な心理の客観的な本質である。
 代助はジレンマに陥っているが客観的には代助に選択の自由はない。三千代を選択することは彼の属する社会の価値観と本質的に対立する。代助が三千代を選択することは、代助の利害、立場が彼の属する社会と本質的に対立していることの結果である。代助は父の求める積極性に応える能力を持たない。したがって代助が彼の属する階級内部で本質的な対立を引き起こす選択肢を発見し、選択することは必然である。
 自然か意志か、自由か器械の様に束縛されるか等々はインテリの形式論議である。自由か束縛かではなく自由を求める代助の行動の社会的意味を理解しなければならない。三千代との結婚が自由と感じられ、佐川との結婚が自分を束縛すると感じられるのは何故かが問題である。
 父の勧める結婚を拒否し三千代に対する愛に殉ずることが代助の消極性の現象形態であり、危険の回避であることの発見は漱石の作品の発展にとって決定的な意義を持っている。ブルジョア世界で生きるにはブルジョア的に積極的な能力が必要である。平岡の世界で生きるにも労働者としての能力が必要である。平岡に必要な能力を代助が持たないことは平岡との対立で明らかにされている。代助のような無為なインテリには、ブルジョアの世界に受け入れられずブルジョア世界での責任を分担できないことが自分の価値観によるブルジョア世界の拒否だと思われる。初期作品ではブルジョア世界と無関係な世界でこの価値観が維持されていた。漱石はブルジョアの父を持ち、ブルジョア世界での力量を試される地位にいる代助を設定することで初期作品の価値観の意味を明らかにしている。
 代助はブルジョア的な責任の分担を要請されることで自分の価値観の現実性を問われている。父の世界で自分の能力を発展させる能力がない場合には父の積極性の要請が束縛と感じられる。ブルジョアとも平岡の世界とも分離されている代助は、どんな階級にも入らず、社会全体と対立し、完全に孤立する過程で三千代に対する愛情を形成する。代助に残されているのは孤立的な世界での人間関係だけである。道徳的な批判意識や愛情や使命感等々の積極的な形式をとるインテリ的精神の本質が社会的な孤立と社会的な無能であることが代助の心理によって具体的に描写されている。
 無力な代助は他人と一致する利害を持ち得ない。父や兄や嫂や平岡との人間関係を絶つことがこれまでの生活で形成された代助の能力の必然性である。代助には社会的な孤立と無力の徹底が社会との闘争や困難の選択として意識される。無力によって排除されることが社会全体を敵に回して闘う勇気だと意識される。逆に言えば代助の困難の選択や闘う意志は無能による社会からの排除の歪んだ反映であり、これはインテリの意識の本質の暴露である。
 代助の三千代に対する責任は他のすべてに対する責任回避である点で、父、兄、嫂、平岡さらに社会全体との対立を意味する。三千代に対する責任という意識が社会に対する責任の放棄を肯定的に認識する手段になるとしても、社会的に排除され完全に孤立化する事実は代助にも理解できる。人間関係を失い孤立化することは代助にとっても危機である。選択の余地のない危機が臆病者の勇気を生み出す。代助の責任感や勇気や胆力は代助の消極性が現実と接触する場合の現象形態であり、客観的には無責任、臆病、卑屈等々である。
 代助の意識する自由は「個人の自由と情実を毫も斟酌して呉れない器械の様な社会」と対立している。代助の自由は社会との対立、つまり孤立と無為を意味している。社会的な活動能力を持たない代助には自由は社会的活動の拡大として、社会的必然性との一致として意識されない。社会が自由を実現し保証する自由の実体として意識されない。社会的に積極的役割を果たせない者にとってのみ社会は自由を制限すると意識される。それは父の要請に応えられない場合に父の要請が自由の束縛だと感じられるのと同じである。代助が平岡に対して自分が社会的な活動をしないのは社会が悪いからだと解釈していたことの本当の意味は社会的役割を求められてもその任に堪えないことである。
 現実の客観的な過程を反映しない道徳的な意識形態は代助が現実の必然性に翻弄される主体的な要因となる。代助にとって社会に対する道徳は三千代に対する非道徳であり、社会に対する非道徳は三千代に対する道徳である。すべての非道徳は対立物の道徳として肯定される。しかもこの単純な転化を道徳家は意識しない。したがって積極的能力のない道徳的な人間ほど、危機に追い込まれた場合に自分の行動の客観的意味を理解しないまま、その時の単純な利害によって行動する。道徳的規範は彼らの都合によってどのようにでも設定できる。彼らの実践の内容は彼らが追い込まれた状況と危機の客観的内容に依存するのであり、自分の行動を意識できない彼らの意識形態は実践の本質的な動機ではない。彼らはその行為によっていっそう孤立することで彼らの社会的無能を証明する。道徳的な意識は現実の客観的な状況を認識できない段階の自己肯定的な意識である。
 代助が期待する端的な対立と単純な決着は代助の利益に即して事態を決着させることである。父にとって代助の結婚は会社の運命を決定する重大事である。現実の問題が代助の想定するように単純に決着しないことは複雑な人間関係を多少とも経験すれば誰でも理解できる。その複雑な社会関係に応じた決意や対応が蓄積される。代助は自分の道徳的な決意だけで現実問題が決着すると期待し、それが実現されないことに不満を持っている。衝突の結果を潔く受ける覚悟の内容は父の期待に応えないことであり、それはできないことをしない覚悟であるから実際に堅固である。しかしそれは現実の人間関係から逃避する勇気と同様、現実的な力量に裏つけられた堅固さと違った無内容と無力に特有の堅固さである。
 代助の孤立生活から生まれる判断と行動は、父や兄の期待を裏切ることで代助についての誤った認識を破壊し、相互の分離を促進する。これは孤立的精神の必然性に内在する合理性であり、これからの作品の展開の基礎となる。代助の非社会性が徹底するほど幻滅と分離も徹底し厳しい結果による自己認識が発展する。父の世界で実践的に役に立たないことを明らかにし、父の世界から排除されることが父の世界との現実的な分離過程である。代助は排除されるべくして排除され、排除されるべき人間であることを認識する可能性を得ている。
 「煮え切らずに前進する事は容易であつた」というのは状況の無理解である。代助は現実的能力を試される時に勇気を出して自分の無力を遺憾なく発揮する。必要のないときは曖昧に対応して期待を持たせ、必要が迫るときっぱりと断るのが代助の潔白さである。危機に規定されながら危機を認識できずに、「平生の自分から生れ変つた様に父の前に立つた」無能な人間を説き伏せることは決してできない。無能という現実的で強固な根拠を持つ代助の決意は無能を矯正することなしに変更することはできない。現実にはこうした豹変は常に現実的無力を証明しており、説き伏せる必要のなさを示している。だから彼らの決意はいずれにせよ現実的障害を突破する。つまりこの無能な人間の決意も分離の必然性が実現する一般的な形態である。
 代助は父を気の毒だと思いながら期待に応えられないことを率直に話した。三千代にも物質上の責任は持てないと率直に話した。代助の誠実さは自分の無能を正直に表明することによって彼自身の不安や不満を解消することであり告白される相手には関わりを持たない。下らないことを実践し、その下らなさに応じた無意味な責任感で反省し、その反省に満足するという展開は無為な生活の限界内部の循環である。代助が責任感を真剣に意識するのは迫る危機から真剣に回避するときである。代助は主観的に誠実で、潔癖であろうとし、もっとも困難な選択の決意をするときにもっとも無責任な行動をとる。
 代助は父や兄との関係を失うことに満足している。無能な代助にとって父の要請に応えるより三千代と二人で破滅することが本望である。代助の意識は破滅の必然性を本望としている。無力な小市民には怠け者に特有の自尊心が発展する。彼らにとって現実的な責任を求められることによって無力を証明されることが最大の危機である。彼らはそのような危機より、漂泊や飢餓や焼き殺されることが本望だと感じる。彼らにとって無為な中間的生活がすべてであり、それ以外はすべて破滅である。
 兄や父との分離は代助にとっても兄や父にとっても合理的である。したがってその過程で生まれる意識も合理性を持っている。この分離の合法則性と合理性を代助は意識して推進するのではない。無意識的に必然性に支配されることが代助の段階の特徴である。小市民世界からの脱出は小市民の地位からの没落であるときに初めて真の脱出である。思想的な主体的な脱出こそは脱出の幻想であり、小市民の地位に止まる思想である。漱石のこれからの作品では主人公は小市民の典型的な矛盾の中に設定され、自己発展の過程が追求される。小市民の社会的孤立と無能はより深く社会的に規定されると同時に自己認識として蓄積され、その認識が小市民の没落の法則をいっそう押し進めるという法則的な展開が始まる。登場人物の行動は彼らの自己意識の発展に伴って次第に瑣末に、非社会的に、非道徳的になり、さらにそれが彼ら自身に意識される。これが小市民の精神の発展の法則であり小市民意識を払拭する現実的過程である。
 現象としては極端に無力で堕落している代助の精神と行動は、初期作品に描かれた道徳的な批判意識や余裕や自信を持ったインテリよりはるかに現実的で高度である。道徳的な批判意識は無力の無自覚であり、無意識的な自己保身であり、彼らの意識と彼らの客観的立場の距離は代助よりはるかに大きい。道徳的批判意識を解消した代助の現実的な意識による実践は非常に明確な孤立と没落をもたらし、代助は道徳的な批判意識を社会的な力であるかのように幻想させる安定した地位を失う。彼の実践の無内容と結果としての没落が彼の認識の現実性を証明している。したがって代助を批判意識の欠如の観点から批判するのは、漱石からの、さらに代助からの後退であり無理解である。代助の精神の価値は彼が無為を可能な限り忠実に思想化しその無力を自ら実践しているところにある。
 代助には現実に対して消極的に対処しながら、それを自分の主体的な選択とする自己肯定的な意識がある。この自己肯定的な意識を解消することがより現実的な精神である。小市民の自己認識の次の課題は没落の法則を実践すると同時に没落することを自己の法則として受入れ、認識することである。それによって始めて小市民の現実的な精神が形成される。

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