『高瀬舟』-1 (大正 5年 1月) 

 
 これは罪人の話である。それも普通でない、特別の罪人で、鴎外が一目で気に入りそうな、鴎外の価値観を態度で表している罪人の話である。鴎外は、この罪人の中に、尊い精神を見いだしている。その第一の特徴は、役人を敬い、逆らわないことである。しかも、鴎外らしく徹底していて、「温順を裝つて權勢に媚びる態度ではない」、心底権勢を敬う心を持っている。権勢に媚びるのは、自分の為を思う意志であって権勢に対する本当の敬意ではない。それは策略であり不従順であると考えるのが鴎外らしい観察の細かさである。鴎外は、お上の言いつけに従順に従うだけでなく、お上に遠島を言いつけられたことを心から喜ぶ人物を、この上ない満足を味わいながら描いている。
 庄兵衛は、喜助が罪人として遠島されるにもかかわらず、「其額は晴やかで目には微かなかがやきがある」ことことに驚いた。鴎外は喜助が「遊山船にでも乘つたやうな顏をしてゐる。」とまで書いている。鴎外は喜助の弟の死が、この善良極まりない喜助に何の影も落としていないことには不自然さを感じない。鴎外は、喜助が遠島になりながら喜んでいることにのみ関心を持っており、厳しい状況と矛盾した表情に、常識では理解の及びがたい感情が含まれている事を繰り返しほのめかしている。しかし、そこには深いものは何もない。鴎外は自分が何を描いているかを理解していない。喜助の喜び方の不自然さは不自然さのほんの一部分であり、端緒にすぎない。鴎外がこの矛盾を踏み込んで描き、さらにその矛盾について反省を加えるとき、この不自然さの意味が現れてくる。
 暫くして、庄兵衞はこらへ切れなくなつて呼び掛けた。「喜助。お前何を思つてゐるのか」
 「はい」と云つてあたりを見廻した喜助は、何事をかお役人に見咎められたのではないかと氣遣ふらしく、居ずまひを直して庄兵衞の氣色を伺つた。
 鴎外らしいリアリティである。喜助は役人に対して徹底して卑屈である。鴎外には、この卑屈さが喜助の純粋さや素朴さに見える。鴎外はお役人に見咎められたのではないか、という気遣いによって、喜助が、傍から見れば普通でない素振りや感情に、自分自身ではまったく気づいていないことを、つまり、この異様な振舞いが心から、純真に、何の意図もなく沸きだしたものであることを描こうとしている。このもってまわった気持ちの悪い純朴さは鴎外の初期作品からの特徴である。
 喜助言動はいかにも大げさに描かれており、その描き方にふさわしく、内容は平凡でつまらない。
 喜助はにつこり笑つた。「御親切に仰やつて下すつて、難有うございます。なる程島へ往くと云ふことは、外の人には悲しい事でございませう。其心持はわたくしにも思ひ遣つて見ることが出來ます。しかしそれは世間で樂をしてゐた人だからでございます。京都は結構な土地ではございますが、その結構な土地で、これまでわたくしのいたして參つたやうな苦みは、どこへ參つてもなからうと存じます。お上のお慈悲で、命を助けて島へ遣つて下さいます。島はよしやつらい所でも、鬼の住む所ではございますまい。わたくしはこれまで、どこと云つて自分のゐて好い所と云ふものがございませんでした。こん度お上で島にゐろとおつしやつて下さいます。そのゐろとおつしやる所に落ち著いてゐることが出來ますのが、先づ何よりも難有い事でございます。それにわたくしはこんなにかよわい體ではございますが、ついぞ病氣をいたしたことがございませんから、島へ往つてから、どんなつらい爲事をしたつて、體を痛めるやうなことはあるまいと存じます。それからこん度島へお遣下さるにつきまして、二百文の鳥目を戴きました。それをここに持つてをります」かう云ひ掛けて、喜助は胸に手を當てた。
 この気持ちの悪い「にっこり」を別としても、この言葉は世間にないほどの苦労をした人間の言葉とは思えない。世間には楽をしている人間だけがいて、苦労した人間なら島流しが結構なことだと思えるのであろうか。京都で苦労したから島なら落ち着いて暮らせるというが、お上が罪人に京都より暮らしやすい場所を用意していることもないであろう。京都で苦労したというだけで島流しを喜ぶ事はできない。風が吹けば桶屋が儲かる式の単純な思いつきであるが、鴎外としてはともかくも遠島を喜ぶこと、つまりどんな惨めな境遇でも満足する精神を持ち出しさえすればよいので、こうした簡単な説明で十分に見える。それは弟思いの善良な喜助が弟殺しの罪で遠島になるにも関わらず物見遊山の気分で口笛でも吹きかねないほどの底抜けの喜び方をしていても不自然に見えないのと同じである。
 鴎外は、喜助のような厳しい運命に関心を持っているのではない。一つの教訓を目的にして、その材料として喜助に興味を持つだけである。
 「・・それも現金で物が買つて食べられる時は、わたくしの工面の好い時で、大抵は借りたものを返して、又跡を借りたのでございます。それがお牢に這入つてからは、爲事をせずに食べさせて戴きます。わたくしはそればかりでも、お上に對して濟まない事をいたしてゐるやうでなりませぬ。それにお牢を出る時に、此二百文を戴きましたのでございます。かうして相變らずお上の物を食べてゐて見ますれば、此二百文はわたくしが使はずに持つてゐることが出來ます。お足を自分の物にして持つてゐると云ふことは、わたくしに取つては、これが始でございます。島へ往つて見ますまでは、どんな爲事が出來るかわかりませんが、わたくしは此二百文を島でする爲事の本手にしようと樂しんでをります。」かういつて、喜助は口を噤んだ。
 京都に限らず、世の中の苦労している人間がみんな喜助のような気分をもって、島流しさえお上の恩恵として心から喜ぶとすれば、お上としては楽であろうし、二百文で恩を売ることができるなら経費としては安上がりである。鴎外が貧しい人間をいかになめてかかっているかがわかる。貧しい人間は、牢にいれられても、「爲事をせずに食べさせて戴きます」から、お上に感謝し済まないと思うことができると鴎外は思っている。牢に入る事は仕事をせずに食える事だというのは、鴎外の詭弁ではなくて率直な感想であろう。牢や島流しについて鴎外が空想できるのはお上に都合がよく罪人を鞭打つような事ばかりであるが、鴎外は善意として、より深い現実認識としてこんな冷酷で下らない説明を甘ったるい文章で書き流している。喜助が二百文を元手に仕事をしようというのも妙な色気である。京都でなにもできなかったのに、二百文を本手に島で何ができるというのか。貧しく生きることの労苦についても、金のことについてもあまりにも無知でいい加減な描写である。鴎外は、二百文をあげるからこれを元手に島で商売でもしなさい、と言い渡して、人生のすべてを救われたような感謝を求めている。なんとけち臭い官僚であろう。
 鴎外にとっては喜助のこの卑屈さが心底ありがたいらしく、まったくの満足の意を表明している。
 庄兵衞は「うん、さうかい」とは云つたが、聞く事ごとに餘り意表に出たので、これも暫く何も云ふことが出來ずに、考へ込んで默つてゐた。
 「意表に出た」といっても、もともとこれが頭にあって、この感謝の念を引き出すために喜助の常識はずれな行動を描いたのである上に、「意表に出た」というほどの内容ではない。びっくりしたり考え込んだりしているのは、平凡な思想を深く見せるための工夫である。つまらないから内容抜きに有り難がっている。喜助の言葉は、牢に入れられる事を、ただで食わせてもらうことだと解釈してお上に済まないと思い、お上に二百文もらったことを、財産を持ったと考えて喜んでいるだけである。それが感激すべき事で、意外な事で、立派な事だと言うことこそ意表に出た主張である。
 喜助の様子や言葉から庄兵衛は次のような反省を得た。
 平生人には吝嗇と云はれる程の、儉約な生活をしてゐて、衣類は自分が役目のために著るものの外、寢卷しか拵へぬ位にしてゐる。しかし不幸な事には、妻を好い身代の商人の家から迎へた。そこで女房は夫の貰ふ扶持米で暮しを立てて行かうとする善意はあるが、裕な家に可哀がられて育つた癖があるので、夫が滿足する程手元を引き締めて暮して行くことが出來ない。動もすれば月末になつて勘定が足りなくなる。すると女房が内證で里から金を持つて來て帳尻を合はせる。それは夫が借財と云ふものを毛蟲のやうに嫌ふからである。さう云ふ事は所詮夫に知れずにはゐない。・・
・・・
 庄兵衞は今喜助の話を聞いて、喜助の身の上をわが身の上に引き比べて見た。喜助は爲事をして給料を取つても、右から左へ人手に渡して亡くしてしまふと云つた。いかにも哀な、氣の毒な境界である。しかし一轉して我身の上を顧みれば、彼と我との間に、果たしてどれ程の差があるか。自分も上から貰ふ扶持米を、右から左へ人手に渡して暮してゐるに過ぎぬではないか。彼と我との相違は、謂はば十露盤の桁が違つてゐるだけで、喜助の難有がる二百文に相當する貯蓄だに、こつちはないのである。
 なんという甘味な反省であろう。喜助と自分は同じだ、と考えているが、実際は、瑣末な共通点を無理に抽出して違いを際立たせている。喜助は二百文を持っているが、自分には貯蓄がなく、毛虫のように嫌いながら妻の里から金を借り、物をもらって生きている。喜助と何ら変わらないどころか、人生に感謝し、自分を幸福と思っている点では、喜助のほうが豊かである。これは喜助の道徳ではなく、鴎外のような自分の地位に満足した俗物の道徳である。
 庄兵衛程度に豊かな生活の中では、喜助の卑屈な精神を喜ぶ道徳が生まれる。自分の生活が喜助の生活から遠くなると喜助の精神が有り難くなり、喜助の生活に近くなればありがいどころではなくなる。妻が収入にあわない生活をするので、勘定があわない。すると女房が内証で里から金を持ってくる。それで勘定が合う。妻が内証で借りてくるのは、「夫が借財と云ふものを毛虫のやうに嫌ふからである」が、毛虫のように嫌い続けて居られるのは、妻が内証で借財をつづけられる身分にあるからである。庄兵衛はまずまずの生活をしており、深刻な不満はない。借財を毛虫のように嫌い、喜助を仏様のように有り難がることができるのも、役人であり、「好い身代の商人の家から妻を迎えた」おかげである。借財ができなくなればこんな自尊心もなくなるだろうし、喜助を有り難がる気持ちも消え失せるだろう。
 庄兵衛は自分の生活や精神を端的に味わい誇ることができない。喜助の運命と比較して、喜助を褒めてありがたがるという回り道をして自分の生活と精神を味わう。彼らは、とびきり豊かでもない自分の生活を富の点で誇ることはできない。そのかわり、生活の安楽や豊かさを誇らない事を、つまりは足るを知る心を敬う道徳的意識を身につけ、その道徳的な意識を大金持ちにはない精神的な財産として誇る。自分の道徳的な意識の味が、貧しく悲惨な喜助の運命を出汁に使わなければ 深く味わえないというのが、大金持ちとも貧乏人とも違う彼らの精神の特徴である。
 庄兵衛と喜助では、手から手へと渡っていく金や物の量が違う。次々に手から手へ渡っていくのなら、いつも手元にある。金の支配する世の中で、桁が違う事こそ大きな違いである。二百文をもらってすべて支出する事と、二百両もらってすべて支出することは、たとえ貯蓄が残らなくても非常に違う。こんな違いは彼らにもわかっている。ただ頭の中で、喜助と同じだ、喜助はうらやむべきである、桁がちがうだけで自分も持っていない、喜助には二百文もあって自分より豊かだ、などと見え透いた嘘を見え透いたように表明して、喜助の生活の厳しさと比較しつつ自分の生活のありがたさを味わうことが、彼らに特有の、趣味の悪い精神的快楽である。彼らは喜助の境遇になってみようとは夢にも思っておらず、そんな境遇を毛虫以上に嫌っている。喜助と同じ境遇に陥りそうになれば、彼らは身の破滅と感じ、人生を呪うだろう。したがって、精神としても決して喜助を認めているわけではなく、喜助と違う自分の境遇や自分の精神を否定しているわけでもない。生活の違いははっきりしているが、それだからこそ、嘘くさい詭弁を弄して喜助と引き比べて自分を反省することを楽しんでいる。自己を肯定するために喜助の卑屈さを必要とすることに彼らの精神の貧しさと虚偽が現れているが、彼らにはそれが理解できない。
 喜助が、「牢に入つてからは、今まで得難かつた食が、殆ど天から授けられるやうに、働かずに得られるのに驚いて、生れてから知らぬ滿足を覺えたのである」というのは、喜助を尊ぶのではなく、喜助をあからさまに侮蔑し馬鹿にしている。喜助を尊ぶとは、喜助の欲望を、満足の程度を徹底して押し下げる事である。貧乏人は麦飯を食え、というのは端的な指摘である。しかし、牢にいれられてもお上に感謝し、自分の運命に満足するとはなんとすばらしい人物であろう、というのは、蔑視が徹底している上に、尊敬という偽善と厭味がある。
 喜助は貧しい生活に満足している。庄兵衛はほどほどに豊かな生活をしているが、不満がある。だから、喜助の生活は冗談にも真似る気はないが、その精神を尊いと思う。しかし、庄兵衛はなぜ、足るを知る心を喜助から学ぶのであろうか。人生に満足し、足るを知っているのは喜助だけではない。貧しい生活に満足があるにしても、喜助の卑屈な満足などあるものではない。庄兵衛が、満足としては特別につまらない、ありえないしないほうがましな程度の満足を探し出してありがたがっているのはなぜであろうか。十分な財産を持ち、豊かな暮らしに満ち足りていても足るを知ることである。貧しい生活には、仕事をせずに食わせてもらう事や二百文をもらう事以上の満足がいくらでもある。しかし、庄兵衛は自分より豊かな生活で生まれる満足には見向きもせず、貧しい人間のなかでも欲望を抑えるという消極的な満足だけに意義を見いだしている。庄兵衛の求める満足は貧弱である。積極的で具体的な満足を知らない。自分の生活に満足すべきである、という程度の教訓話なら江戸時代の事例を探すまでもなく、草を食んで満足している牛や、寒い冬でも水の中で満足している金魚を材料にしても作れる話である。
 庄兵衛の生活には積極的な満足がなく、喜助の悲惨な運命や卑屈な精神との比較を必要とするほど惨めで貧弱である。したがって、自分以上の生活に伴う満足を認める伎倆もない。積極的な生活や、より豊かな生活に伴う満足との比較は、庄兵衛の生活と精神を惨めにする。現在の生活で足るを知る心を持つには、積極的な生活や豊かな生活のすべてから目をそらす必要がある。この卑屈な精神が喜助を尊ぶ心を生み出している。自分は何も望まない、喜助よりましな生活をしていることで満足している、と卑屈に主張している。出世主義的な欲望にはきりがなく、絶えず不満が生まれる。しかし、自分が現在に満足しており、多くを望まないことを示す事が鴎外の一貫した処世術である。物欲しげな顔をせずにいるほうが、物が入ってくるという臆病な欲望である。したがって、鴎外が喜助に足るを知る心を見いだし、見いだしたことを主張していることは、鴎外がいかに出世に渇いており、足るを知ることができず、足るを知ることを示す事をいかに重視しているかを、年齢を重ねた結果としていかにこの一点に精神が集約されているかを物語るものでもある。
 喜助を羨む庄兵衛の反省は次のようなものである。喜助を見て、人生について考えさせられた、と主張しているがそうではない。順序は逆である。ほどほどに裕福で不毛で不満の多い人生が喜助を作り出した。
 庄兵衞は只漠然と、人の一生といふやうな事を思つて見た。人は身に病があると、此病がなかつたらと思ふ。其日其日の食がないと、食つて行かれたらと思ふ。萬一の時に備へる蓄がないと、少しでも蓄があつたらと思ふ。蓄があつても、又其蓄がもつと多かつたらと思ふ。此の如くに先から先へと考へて見れば、人はどこまで往つて踏み止まることが出來るものやら分からない。それを今目の前で踏み止まつて見せてくれるのが此喜助だと、庄兵衞は氣が附いた。
 庄兵衞は今さらのやうに驚異の目をみはつて喜助を見た。此時庄兵衞は空を仰いでゐる喜助の頭から毫光がさすやうに思つた。
 宗教の勧誘にでも出てきそうなこんな教訓が、喜助をみて始めて気がついたり、驚異の目をみはるようなものであろうか。こんな愚かな教訓は思いつかないでいる方が難しい。人生は労苦にみちているし面倒な問題を避ける事などできない。しかし、病が無かったら、食えていければ、蓄えがあれば、といったつまらない、普通にはグチと言われる不満が人生の主な悩みで、こんな不満さえなければ幸福になれる、とは何と安楽で不毛な生活であろう。安楽というのは他に悩みがないからで、不毛というのはこんな悩みしかないからである。病や食えない事が深刻であれば、病が無ければとか食うものがあればという空想にとどまっている事は出来ないし、まして、その不満を我慢して足るを知ることに踏みとどまる事など論外である。誰にでもあるこんな悩みさえなければ、それで幸福だと考えることができるのは、足るを知ることを教訓にするまでもなく、すでに欲望が制限されており、生活の広がり、人間関係の広がりが極端に狭まり、何らの積極的な課題も持ち得なくなっているからである。
 人生は困難に満ちている。その困難の中で生まれる幸福は、足るを知ることではない。庄兵衛は困難に積極的に取り組むことで生まれる満足を求めるのではなく、課題をもたない、困難を意識しない満足を求めている。庄兵衛にはつまらない、煩わしい、なければいい不満がある。消極的な生活につきものの不満である。積極的な生活を求めることのできない庄兵衛は、どんな生活にでも満足できる精神を喜助の姿を借りて自分に納得させようとしている。消極的な生活を守ったまま、足ることを知って満足しようとしている。庄兵衛は豊かで安定した生活に満足している。だから、生活を変える必要はないが、その生活にも不満はある。しかし、喜助の破滅的な人生を考えればその不満も贅沢と言えるものであって、多くを望みさえしなければ、そして世間を見回してみれば、満足すべき十分の根拠がある、喜助にすら満足があるのに、自分に満足のできないことがあろうか、ということである。
 庄兵衛は喜助の破滅を肯定している。喜助に破滅的で絶望的な人生に満足することを求め、多くをどころか何ものも望まないことを求め、破滅を受け入れることを求めている。欲望を充足するのではなく欲望を抑える事、生活の向上を望まないことを徳目とし幸福とすることを求めている。喜助のような厳しい運命を持つ者に対してはこうした意味を持っている。厳しい人生に満足し、抵抗すべきでないことを教える保守的な思想である。そして、この同じ思想が、ほどほどの生活をしている庄兵衛に適用されると、おのずと別の意味を持ってくる。

 破滅的な人生にたわいなく満足することは難しくても、豊かな生活なら満足できる、と庄兵衛には思われる。喜助のような絶望的な運命であっても、足るを知る心さえあれば満足を想定できるから、自分のように恵まれた生活に同じ教訓を持ち込めば満足を得るのは容易であろう、と思われる。つまり、自分の豊かな生活に、煩わしい不満が生ずるのはいかにも不都合であって、その不満さえなければ、その不満を感じなくて済めば、この上ない幸福になれるはずだ、と考えている。世間を見渡せば自分の生活にこそ満足があるはずであるが、そのようになっていない。なぜ、こんなことになるのか。何故、嘘にしても喜助を羨まねばならないことになるのか。これは平凡な疑問ではあるが、平凡でどこからでも出てくる疑問であるだけに、ここには深刻な問題が含まれている。
 庄兵衛の生活には、足るを知る心が必要である。喜助の厳しい運命にはこうした教訓は必要がない。貧しい生活で生み出される精神と庄兵衛の生活で生み出される精神は本質的に違っており、不満も満足も違う。喜助のような厳しい運命には、特有の満足がある。それを庄兵衛は知らない。貧しく厳しい運命は不満で悲惨で、そこに生まれる満足など想定できないから、満足を得る方法は、悲惨な生活に満足する意識を持つことだけである、と考える。その場合は、運命が悲惨であるほど優れた精神になり、学ぶべき精神になる。不満を解消する方法というのは、意識のもち方を変えることだけである。
 庄兵衛は生活の変化を望んでいない。しかし、不満がある。だから、意識のもち方を変えたいと思う。悲惨な運命にも満足している実例を持ち出して、不満を解消したい。遠島になってもありがたがってもよいし、二百文に満足することでもよいし、要するにつまらないことで満足する実例を必要としており、その材料として喜助を利用している。貧しい生活に形成される豊かな精神や幸福を明らかにすることは、四迷や一葉のような天才だけが取り組みうる歴史的な課題であって、鴎外とは無縁の課題である。鴎外は、喜助の運命については厳しく絶望的であることを知っているだけで、だからこそ、自分の満足を促す材料になると思っている。

 庄兵衛にとって満足とは不満を解消することであり、それ以上の意味をもたない。深刻に不足しているのでも、多くを望みうる立場でもなく、欲望もそこそこで、ある程度満足している場合に、気分のもち方を変えさえすれば足るを知ることができそうに思い、それを高尚な精神だと考える事ができる。自分の生活に基本的に満足しており、大きな変化のありえない庄兵衛の生活には、そのほどほどの生活が生み出すごくごくつまらない、煩わしい、面倒な問題がいつも沸きだしてきて、それさえなければどんなに幸福かと思われ、瑣末でくだらない問題で悩まされることは実際に彼らにとっては最大限に深刻な問題であり、それさえなければ、その他の事はすべてうまくいっている、と思われる。豊かな生活を得ている庄兵衛が次に必要としているのは精神の満足である。しかし、精神の満足を必要としており、したがってそれが欠如しているのは、庄兵衛がほどほどに豊かな生活を得ているからである。
 庄兵衛に限らず、どんな階級の人間にも、どんな個人にも不満があり不満を解消したいと思う。違いはどんな不満を持ち、どう対処をするかである。庄兵衛は、自分より悪い生活と比較することで自分の生活に満足しようとしている。下を見て暮らせ、ということである。上を見れば自分の生活の不満も大きくなるが、下と比較すれば十分満足できるという、中間的な生活の現状維持のための教訓である。こんな教訓は、島流しになる喜助の姿に驚くまでもなく、ボウフラのようにどこからでも沸いてくる、発生を抑えるほうが困難なほどの平凡な思想である。
 喜助を材料にすることを別にすれば、庄兵衛が必要としている教訓は、現状に満足すべきだ、ということである。不満だから満足すべきだという愚かしい教訓である。庄兵衛の生活に積極的な課題がなく、生活に不満を感じながらも不満の本質を認識できず、したがって解決の方法が見つからないために、不満を押さえ込む事、不満を主観の気分の持ち方で解消することにのみ腐心している。悲惨な喜助も満足できるのだから、悲惨でない自分も満足できるはずだ、と考えている。ところが、牢屋に入れられ、島流しにされる人間を参考にして、それよりましであるから満足すべきだと考えても、喜助の運命よりましな事は考えるまでもなくわかっている事であるし、喜助と比較することで現状が変わるわけでも不満の種がなくなるわけでもないから、そして喜助の気分になれないからからこそ喜助の気分を理想としているのであるから、こんな教訓は決して効果的ではない。不満が多い場合はこんな教訓は不満を増幅するだけであろう。ただ、不満がない場合にのみこうした教訓は喜助に対する蔑視と自分の優位を含むが故に甘味である。
 しかし、この甘味で俗な教訓を生み出すのは不満の多い生活であり、教訓はその不満の質に対応している。消極的でつまらない矛盾に苦しめられている場合に、こうした愚かしい教訓話が生活の慰めとして思いつかれる。彼らが抱える問題には積極的な意義がなく、それはただ、逃れるか、忘れるか、解消することだけが解決であるような不毛な苦悩であり、言えばグチになるような不満である。不満や苦悩をそれ自身において肯定できないからこそ、貧しい生活との比較によって肯定している。生活が生み出す基本的な困難を解決することには積極的な意義と充実が生まれる。しかし、庄兵衛の生活はそんな内容を持っていない。基本的な生活自体は満足すべきものであり、批判すべきものでも否定すべきものでも変革すべきものでもなく、維持され保守され死守されるべきものであり、したがって基本的な問題は生活において解決されており、深刻な矛盾、課題を抱えておらず、したがって基本的に不満はない。つまり不毛である。だから、その満足を乱す小さな不満が生まれる。それさえなければ十分満足できる条件は揃っている、と彼らは考える。その不満が消極的な生活そのものから出てきていることには気がつかない。基本的な生活には満足している場合に特有の瑣末な不満が生まれ、そうした生活に、足るを知る、というお似合いの教訓が生まれる。
 足るを知る、という教訓は、庄兵衛の消極的で保守的な生活の産物である。それは庄兵衛の生活に内在する本質的な矛盾を認識できず、それを覆い隠そうとする意識でもある。庄兵衛の不満は、彼がしがみついており、不満を排除しさえすればよくなると考えているほどほどの生活を破壊しない限りなくならない。つまらない不満や苦悩を解消する唯一の方法は、積極的な、深刻な、発展的な関係を反映した不満や苦悩を得る事である。そして、その積極的で発展的な関係とは庄兵衛の生活の崩壊であり、したがってその不満の批判的な認識は、その生活の崩壊の必然を反映した批判意識である。といっても、これは漱石のような天才だけが持ちうる課題であって鴎外の課題ではない。鴎外の課題は庄兵衛の生活を肯定する精神を生み出すことである。つまり、庄兵衛の生活で生み出される不満が本質的に批判されないように、その本質を覆い隠し、それを肯定的に解釈し、その不満を解消することを道徳的意識として形成することである。
 庄兵衛の不満は生活の基本的な肯定と満足の上にのみ生ずるものであり、したがって決して解消される事はなく、あるいは常に解消されている不満である。その不満は深刻な解決を求めているものではない、という意味で不毛でいいかげんで、「あそび」に属するものである。自分の生活に積極的な矛盾を持ち得ず、得たものに満足し、発展の意志を喪失していることが、特有の不満を生みだし、その満足と不満が、喜助との比較による教訓を生み出している。庄兵衛の不満は、生活への満足が生み出す不満であり、したがって不満の表明は同時に満足の表明であり、満足の味わい方であり、しかも同時に瑣末で不生産的で、煩わしくて、なんらの積極的な意味もない、何ものも生み出さない、本当の意味での不満であり、解消されざる永遠の不満である。だから庄兵衛には、形式的な当為である、足るを知るという教訓が意味を持つように思われ、実際、自分の生活に批判的に触れることのないこの教訓を立てることが自分の生活や不満に対する批判や認識から身を守ることになる。
 庄兵衛の生活が生み出す教訓は無意味で、効果のない、又効果が求められているものでもない、まじめに問題にする価値を持たない、自己満足のための、生活の飾りとしての教訓である。それはまじめな問題意識によって生じたものではなく、ほどほどの生活に満足した、その生活を変える意志を持たない、その生活と不満の本質にまで踏み込もうとしない、保守的な生活を肯定する「あそび」の思想である。無意味な教訓を、驚嘆すべき、毫光が指すほどの思想だと考えるのは、不真面目な「あそび」の気分の徹底であって、いかに鴎外が空虚で浮ついた気分に支配されているかを物語っている。そして、この「あそび」の思想が、庄兵衛の生活の弁護としては、真剣な関心であることが、鴎外の「あそび」の精神の本質的特徴である。真剣な関心がそのまま「あそび」になる必然が庄兵衛の生活に備わっている。
 生活の表面的な不満について、深く考えずに、無批判的に反省する場合は、鴎外が難しげに、奥深げに、昔の書物の実例の中から炯眼によって発見したかのように書くまでもなく、誰もがこの種の教訓に辿り着くものである。まずまずの生活をしていて、多少の教養を持っていて、自分が高い道徳的な精神を持っていることを示したいと思っていたり、単に目立ちたがるなどの理由でこういう徳目を並べる人物はいくらでもいる。だから「足るを知る」という教訓は分かりやすく、説得力を持っている。現在では小学生でもこれくらいの教訓をしゃべる事はできるし、そんなことをすれば退屈な人間だと思われるだろう。中流意識がはびこっている時代には、その生活を肯定する無批判的な意識の典型として、あまりにも通俗的に仕上げられた精神の実例として、鴎外のこうした通俗的な作品が読まれてきた。しかし、今後は、この徳目を思想として超える事は難しいにしても、少なくともこんな事をしゃべる事がいいことだとは思わないくらいの教養を持つ必要をこの作品が教えてくれることになるだろう。
 庄兵衞は喜助の顏をまもりつつ又、「喜助さん」と呼び掛けた。今度は「さん」と言つたが、これは十分の意識を以て稱呼を改めたわけではない。其聲が我口から出て我耳に入るや否や、庄兵衞は此稱呼の不穩當なのに氣が附いたが、今さら既に出た詞を取り返すことも出來なかつた。
「はい」と答へた喜助も、「さん」と呼ばれたのを不審に思ふらしく、おそるおそる庄兵衞の氣色を覗つた。庄兵衞は少し間の惡いのをこらへて言つた。「色々の事を聞くやうだが、お前が今度島へ遣られるのは、人をあやめたからだと云ふ事だ。己に序でにそのわけを話して聞せてくれぬか」
 鴎外は、喜助が「さん」と呼ばれる事を身に余る光栄であると考えている。ここで鴎外は、罪人である喜助に対する無意識的な、つまり心からの敬意が、我知らず現れた、と書いている。「喜助さん」と言う言葉が感激のあまり自然に口を衝いて出た、と大げさに書くのはわざとらしい。鴎外はこのわざとらしい自然らしさをよく使う。鴎外は喜助を心底軽蔑しているために、その軽蔑している喜助に「さん」をつけることが、自分の精神の高さに見える。「喜助さん」と呼ぶほど自分は足るを知る精神の尊さにうたれた、という自己満足である。鴎外は信頼関係に伴う感情を知らなかった代償として、他人に対する軽蔑を味わう方法に長けていた。喜助に対する軽蔑が、喜助を「さん」と呼ぶ自分に対する敬意になっており、鴎外と庄兵衛は、喜助に対する軽蔑を深く味わっている。喜助に対する蔑視を喜助に対する尊敬に改変し、自らは謙遜という形式をとって、ようやく自分自身の肯定に到達する。直接に肯定すべきものを持たないために肯定するための手続きが長くなる。しかし、味わうものはやはり他人に対する軽蔑である。
 雑念に満ちた、消極的な矛盾に満ちた、解消する以外になく、発展の力を持たない矛盾や苦悩だけを抱えており、その結果として、矛盾のない状態が理想とさることになる。自分の持ちうる矛盾に積極的な意義がなく、矛盾は排除すべきもので、生活自体には全く満足していて課題を失っている、というのがこの不満や教訓の意味である。だから、矛盾のない状態は永遠の当為であり、矛盾を解消できない事の告白であり、決して足るを知る事がないことの告白であると同時に、解消する意志もなく、すでに足るを知っていることの表明でもある。不満を持つことで足るを知ることでき、また不満を持つ事自体が喜助との比較では同時に満足でもある、不満の表明こそ満足の表明である。くだらない矛盾の世界には、日常的につまらない煩わしい不満が満ちており、その対立物として足るを知るという当為が同じ精神として生まれてくる。満足も不満も内容を持たず、その満足と不満の永遠の循環のなかで、その循環の世界を守ろうとしているのであって、満足においても不満においても自分の生活に対して深刻な批判意識や不満を持たない。彼らは現状維持を至上としており、そのために消極的で無内容な思いつきの思想を生み出し、それを垂れ流す事を精神的な楽しみとしている。中流的な退屈な生活に必要な精神的な楽しみとして生まれてくる思想は、つまらない不満を深刻な苦悩と思い、つまらない思想を高度の一般的な思想として掲げているが、そして、その思想は彼らの能力のすべてをかけての自己認識であるが、なおかつ、すべての感情も思想も、中流的な生活の維持と肯定以上何の意味も持たず、したがって、彼らが主観的にいかに真剣であっても不真面目さを免れない。
 「高瀬舟」は鴎外らしい「あそび」の現れた作品であるが、鴎外にとってはすでにこのあそびはあそびではなく、身についたまじめな思想になっており、あそびが骨身に染みついている。貧しい者には、絶望的な生活に不満を持つべきでない、そしてお上に対して従順であれ、と教訓を垂れ、しかもその教訓において自己をも深刻に反省する道徳的な精神を誇る、という一挙両得のような保守的官僚らしいよくできた思想であるが、これもまた枯渇した、すべてを失った精神のあり方である。

 「附『高瀬舟縁起』」で鴎外は「安楽死」の問題に興味を持っている、と書いている。しかし鴎外は安楽死について考察しているわけではない。作品では、弟が剃刀で喉笛を切ろうとして失敗し、死に切れなかったので、その剃刀を抜いて楽に死なせてくれと頼まれた喜助は「わたしの頭の中では、なんだかかう車の輪のやうな物がぐるぐる廻ってゐるやうでございましたが」、なんとかしてやらなくてはと思い、「剃刀の柄をしつかり握つて、ずつと引きました。」と書いており、さらに、「此時わたくしの内から締めて置いた表口の戸をあけて、近所の婆あさんが這入つて來ました。・・・もう大ぶ内の中が暗くなつてゐましたから、わたくしには婆あさんがどれだけの事を見たのだかわかりませんでしたが、婆あさんはあつと云つたきり、表口をあけ放しにして置いて驅け出してしまひました。」と書いている。喜助の処置についてはこのあと「わたくしは剃刀を拔く時、手早く拔かう、眞直に拔かうと云ふだけの用心はいたしましたが、どうも拔いた時の手應は、今まで切れてゐなかつた所を切つたやうに思はれました。刃が外の方へ向ひてゐましたから、外の方が切れたのでございませう。」と書き添えている。
 鴎外は「これが果たして弟殺しと云ふものだらうか、人殺しと云ふものだらうかと云ふ疑が、話を半分聞いた時から起つて來て、聞いてしまつても、その疑を解くことが出來なかつた。」と書いているが、、殺す意志もなく、実際に殺したかどうかがわからないように書いており、しかも、婆さんの描きかたから見ると、お上の決定は状況からやむを得ない事をもほのめかしている。自殺幇助をどのように考えるかは法律家が答えてくれるだろう。安楽死の問題は、鴎外が描いているような偶然的な問題を排除して、冷静に理性的に死を選択することが、個人の尊厳を守る事になるかどうかを判断すべきものである。安楽死の問題は、死を選択する精神も、それを否定する精神も、それぞれ具体的な内容を現在蓄積している段階であり、にわかに判断を下す事はできない。無論鴎外がこの問題について判断を下していないことについて批判する事は出来ない。それは鴎外の時代が解決できる問題ではない。ただ、鴎外がこの問題について深刻な問題提起をしているわけではないし、何らかの自分なりの判断を示唆しているのでもないことを指摘しておくことは、この作品に関連して安楽死についてあれこれと談義をすることの無意味を知るために必要であろう。
 

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