哲学断想
 
    「哲学断想」は、愛すべきディドロに倣ったタイトルである。
   ディドロはタイトルに「コノ魚ハミンナガ食ベルモノデハナイ」と書き添えている。
   二十一世紀の魚は、みんなが食べるものにしたい。
      タトエ食ベニクイ魚デアルトシテモ

 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・
 
   001
 
  エンゲルスはフォイエルバッハ論において「すべての哲学の、特に近世の哲学の根本問題は、思惟と存在の関係である」、「思惟と存在、精神と自然はどういう関係にあるのかという、哲学全体の最高の問い」、とした上で、この問いにどう答えたかに応じて哲学者たちは二つの大きな陣営に分裂した、としている。
 哲学の根本問題の規定である。
 レーニンは「唯物論と経験批判論」においてこれをさらに普遍化して、「認識論がつかうことのできる概念のうちで、存在と思考、物質と感覚、物理的なものと心理的なものという概念よりも広い概念はない。」として、哲学上の最も抽象的な普遍的な問題は存在と思惟の関係である、と結論している。
 これはエンゲルスにとってもレーニンにとっても、後の唯物論者にとっても揺るぎない確信である。
 
 ところが、唯物論哲学の立場において、存在と思惟、物質と感覚、物理的なものと心理的なものの関係は、哲学の根本問題ではない。
 唯物論の原理では、意識は客観的世界を反映している。だから、客観的世界とは何かが基本的な問題である。唯物論と観念論は客観的世界とは何かの規定をめぐってで対立してきた。唯物論とは何か観念論とは何か、意識と物質の関係とは何かは、哲学の基本問題を把握できない哲学が第二義的な対立に迷い込んで生み出した対立形式の一つである。
 
 客観的世界とは何かを規定する上においてもっとも基本的な問題は何か、これが哲学の根本問題である。客観的世界を最も普遍的に規定すると何に至るかが基本問題である。
 客観的世界を規定するもっとも普遍的な規定、つまり哲学の根本的問題は、「有」とは何かである。これは経験的意識においては、無限者とは何か、と問われる問題である。
 客観的世界を最も普遍的で抽象的な規定に分けると、有限者と無限者の二つになる。存在と思惟は客観的世界の規定における抽象的対立ではない。
 有限者とは経験的意識が対象としている具体的存在である。しかし、無限者が何であるか、どのように規定されるかがギリシャ以来の謎であった。無限者が規定されなければ有限者も規定されない。経験的意識の眼前に見いだされる具体的存在がどのような意味において有限であるのかは、無限者とどのような関係にあるかによってのみ規定される。限界をもつことと有限はまったく違う。
 
 哲学史上で無限者の規定が追求されてきたが、無限者が何であるかは哲学史において発見されなかった。無限者とは何かが発見されなかったのだから、無限者は部分的に断片的に規定されることはあっても、全体として具体的に規定されることはなかった。
 無限者とは運動である。客観的世界はもっとも抽象的には、存在と運動の二つにに分けられる。これが有限と無限のより具体的な規定である。
 個別存在は運動している。個別存在の運動は無限者の運動ではない。無限者とは存在のすべてを一者として、運動体として規定することである。この規定は存在の運動の規定とは別の運動として規定される。
 
 哲学の基本問題は有の規定であり、有を存在として規定するか運動として規定するか、である。
 
 エンゲルスもレーニンも有の規定に興味をもっていない。存在と思惟の関係の規定には、無限者とは何かの規定が入ってこない。
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・