15. 「浮雲」理解のために 2


   3.つゆの話

 全宇宙はすべてが相互連関による統一体を形づくっている。我々の意識はその連関を理解するために、連関を切り離し様々の段階をなすカテゴリーによって再び合成する。この論理的認識方法の中で、もっとも広くしかも誤って使用されているのが因果関係のカテゴリーである。日常的に使われているこのカテゴリーの限界を克服することは意外に発しい。
「朝になったからあかるくなった」、とか「夜になったから暗くなった」
 というように、朝と明るさ、夜と暗さを一因果関係で結ぶことの不自然はすぐ分かる。朝は明るさの原因ではない。地球の自転によって太陽光嫁があたりはじめるのが朝であり、明るくなるという現象である。これは比較的単純な現象であるから、同語反覆から正しい因果関係へ移行するのも簡単である。しかし現象が複雑になると、不自然さもなくなる。
 「寒いなあ」 「冬だからな」
 「よく降るなあ」 「つゆだからな」
 「長い顔だなあ−−馬だからな」
 冬だから寒いのではない。つゆによって雨が降るのではない。馬であることは顔が長いことの原因ではない。この二つの要因だけで正しく言えば、寒くなる季節を冬と言い、雨の降ることをつゆと言い、顔の長い動物を馬と言う。
 「寒いなあ」「冬だな」
 「よく降るなあ」「つゆだな」
 「長い顔だなあ」「馬だな」
 というように明らかに同山語反覆の形式をとる方が単純であっても内容に即している。したがって会話としてもよほど気がきいていることになる。では因果関係の形式を持った無内容な同語反覆はどのように克服されるのか?
 この中でもっとも抽象的で単純なのは「冬」である。「馬」の話は複雑すぎる。非常に複雑であるが、無機的世界の現象で連関の流れの傾向が比較的理解しやすい「つゆ」という気象現象を取り上げよう。
 日本に多くの雨をもたらすつゆという現象は、現在の常識的な、天気予報で説明されるレベルでも--厳密には解明されていないらしいが--大陸の寒気団と太平洋の暖気団の境界に形成されつゆ前線帯にそって熱帯気団が水蒸気を運んでくることによって起こる。つゆ期に亜熱帯ジェット気流がちょうどヒマラヤの頂上に達し、これが熱帯気団を南中国や日本に運び、この地帯独特の雨季をつくるのである、らしい。
 このような大雑把な知識でも、因果関係のカテゴリーは、困難に突き当たる。つゆの原因は太陽であり海でありヒマラヤであり北からの冷気である等々となる。原因は科学の発展と共に無限に積み重ねられる。その発見過程が気象学の発展である。つゆという一つの現象を結果するために無限の原因が互いに作用し合っている。
 世界のあらゆる事物事象は互いに連関しており、したがって互いに原因でありまた結果である。一つの現象も無数の原因を内包しており、一つの原因によって説明することはできない。この無限の連関をより正確に高度に反映するには、因果関係のカテゴリーから相互関係のカテゴリーに移行しなければならない。しかしすべてが無限の相互作用のうちにある統一体であるからこそ、現象の反映のために連関を断ち切ったのであるから、相互作用は因果関係より複稚なカテゴリーであるにもかかわらず現象の説明として満足を与えない。説明、理解とは眼前の無限の相互作用を限定することによって、相互作用の仕方を意識化することにほかならないから、相互作用のうち二つの要因を取り出し、さらに一方向の作用だけを取り出す因果関係のカテゴリーがあたかも相互作用の解明であるかのように感じられる。そして常識は相互作用まで進まないか、進んでも因果関係に引き返し、いくつかの因果関係を並列することによって因果関係から相互関係へ近づこうとする。これが折衷主義といわれる方法である。
 現象の説明として因果関係は相互作用よりも単純である。確定的ではない相互作用のカテゴリーより一層高度に正確に反映するのが必然性のカテゴリーである。必然性は無限の相互作用のあり方を一連の発展過程として--対象の構造自体をもやはり発展の形式で--意識化する。
 我々の常識の範囲で、つゆを必然性のもとに説明する場合太陽系を前提とし基礎とすることができる。地球上の気象現象は、太陽エネルギーの量、太陽と地球の距離、地球の大ささなど、つまり外部から受けとるエネルギーの量が基礎的規定要因となる。さらに太陽の活動量、公転軌道や地軸の傾きとその変動が、地質学的気象条件を規定する。我々にも知られている多くの要因が重なってようやく現代のようなつゆを生じる条件が整う。その条件のもとで、大気は赤道で上昇し、すてに形成されたヒマラヤにぶつかり東へ向かってエネルギーバランスをとろうとする。
 つゆを何行かの文章で説明することはできない。気象の詳しい研究ほどこの必然に組み込まれる項目が多くなる。しかし現象をどれほど詳細に限定して研究する場合でも、よりグローバルな基礎的要因からより直接的規定要因へと順に必然州性の流れにそって説明しなければならないことに変わりはない。研究が詳細になるにつれ、この順序が条件によって入れ替わることもあるし、順序の決定が困難ないし不可能な場合があるにしても同じことである。つゆの必然性とはこうして実は地球上の全気象現象の説明となる。インドや北極の気象の説明が同時につゆの説明でもある。つゆはその一部だからである。つゆの日常的知識は我々日本人が生活上必要な部分を切り取って認識しているのであるから、より詳細な深い認識とは全体へと認識を及ぼすことになる。
 つゆになぜ雨が降るか?でなく正しくは六月に多量の雨をもたらすつゆという現象の本質とは何か、と問うべきである。答えは、太陽系の、地球上の日本の、ありとあらゆる規定要因を可能なかぎり--無限であるから--発見し、さらにその相互作用の連関の仕方を必然性の形式のもとに包摂することである。この要因が多く発見され、連関が必然性のもとに数式化されると、気象現象はコンピューターによる予測が可能になり、予測はデータの量と法則の発見によってより正確になる。予測とは、つゆを知ることにほかならないのであるし、知ることは現象の必然性を理解することにほかならない。
 ついでながら必然性のこの順序は決定的であっても、現象を引き起こす要因としての比重とは別だということ、つまりこの必然と偶然との関係を簡単に説明しておこう。たとえば、つゆという現象形態を最終的に決定するのは、日本の上空の状態、さらに地上の条件である。つゆでもっとも重要かつ予測困難な現象は集中豪雨である。つゆの諸条件によってはじめて集中豪雨の条件が整う。つゆを現象する必然性の内部で極地的条件によって決定される独自の現象である。つゆの必然性における個性である。つまりつゆの必然性内部における独自の必然性である。だから集中豪雨の解明=予測は、つゆの必然性の内部における独自の必然性の認識にほかならない。極地的=偶然的であることは、つまり独自の必然性であるから、この必然性の内部では極地性が現象の一般的基礎となる。それはあたかも気象そのものの研究のためにビッグバンから出発せず、さしあたり太陽系を前提し、つゆを説明するにしても間氷期を前提にし、等々、すべての先行的規定要因を前提した上で、個別現象を独自の必然性として研究するのと同じであり、このような必然と偶然の関係、つまり偶然は偶然であることによって必然であり、必然は必然であることによって一つの偶然である、というのが必然的連関の中にあるすベての個別現象について言えることであり、したがって偶然と必然の一般的関係である。
 このように無限の連関の中にある現象を認識しようとする時、現象は因果関係から相互作用に、さらに必然性へと、より具体的な認識へと深化発展する。真理は実例ではなく、しかも真理こそもっとも具体的である、というのもこのような現象の発展過程を理解した上ではじめて意味を持つ。日常生活では現象を一面的限定的抽象的に説明することも必要であり有効である。しかし因果関係という単純なカテゴリーの限界を知らねば多少とも複雑な現象にはまったく対処できない。また日常生活の中でも意識が高くなるにつれて、因果関係のカテゴリーは使われなくなる。同語反覆的因果関係は、いいかげんな人間の使う言葉であり、退屈な人間のしるしであることが理解されるようになる。どんな現象に対しても、心得顔で、もつともそうに一つの理由を上げて説明するようなやり方のうさん臭さは誰もが経験することであろう。
 以上でたとえつゆの説明自体が誤りであったとしても、現象を正しく反映するためには、カテゴリーが進化しなければならず、一般によく使われる因果関係というカテゴリーがごく貧しい初歩的なカテゴリーであることは理解できるだろう。実際今では天気を単純な因果関係によって説明できると考える人は少ないであろう。それは、やはり無限に複雑であるにしても、無機的発展形態は比較的理解しやすく気象に関する知識のレベルが高いからである。長い顔をした馬などの生命体の分野では、一層バカげた因果関係が今でも頻繁に使われ、さらに複雑な社会的諸関係を対象とするにいたっては、因果関係のカテゴリーを越えることはめったにない。文学批評の世界で、同語反覆以上の意識をまったく見ることがてきないのは「浮雲」で見たとおりであるし、「浮雲」以降についても同じである。
 対象が社会あるいは社会法則を反映する意識である場合、「つゆ」や「馬」を対象とする自然科学とは違った独自の困難が克服されねばならない。
 気象のもっとも基礎的規定要因が太陽エネルギーであること、つまり太陽系の惑星上の気象的相互作用の力の源泉が太陽エネルギーであることは誰にでも分かる。これも長い自然科学の発展の成果であるが、一度発見されれば分かり易い真理となる。しかし「浮雲」に登場する人物の相互関係、相互作用のあり方を規定する力の源泉となると、地球に対する母なる太陽のように、単純ではない。なぜなら気象の要因となる太陽、地球、地球上の諸物にあたるものが、すべて人間=個人であり、その各々が自己の意識をもって行動する平等な主体だからである。だから個の行動の規定要因は、個自身であるように見え、実際すべての個人が自己原因を持つのであるし、そのような時代になってはじめて、個とは別の相互関係の源泉などというものが問題となる。誰も自分の意志を従わせるべき王を持っているわけではない。すべての人間が各々自己の原因であり、その意志によって相互に作用し合い、連関を結んでいる。この中でなお相互関係から必然性へ移行しなければならない。自然科学の場合、相互作用から必然への移行は自然的前進であるが、社会を対象とする場合、この移行に跳躍点がありそこではじめて科学となる。この跳濯がない限り「つゆだから雨が降る」式の同語反覆から脱出できない。
 「浮雲」の文三は弱い。なぜなら理想をふりまわすだけのお勢の軽薄を見抜けなかったから。これは出世できなかったから出世できなかった、というのと同じようにまったく無意味である。文三自身における同語反覆からお勢との関係に移る場合、文三が弱く優柔不断であるのはお勢が軽薄だからとなり、これにもし文三を理解するような女性がいたなら--そのような女性を生み出さない社会であるのに--文三は弱くなく優柔不断ではなかったという尾ひれがつく。これはもっともそうであるが、同じことをお勢についても言えるからまったく無力な思想であることが分かる。お勢が軽薄であるのは、文三が弱く決断力を欠くからである。文三が強く断固たる態度を取れば--態度を自由に選択できるかのように--お勢の軽薄も克服され、昇に弄ばれることもなかったろうと。
 このような議論はいくらでも続け、いくらでも好きな仮定を立てることができる。文三をお勢によって説明する同じ方法で、お政によって、昇によって説明することができる。しかし責任のなすり合いに似たこのような方法では文三の弱さやお勢の軽薄を克服することは決してできないことは明らかである。互いに他方の弱点を自己の弱点として説明しているため、自己の弱点は他方の弱点によって克服しなければならないのだが、その他方の弱点は自己の弱点を原因としていることになっているのであるから、永遠にこの悪循環から脱出できない。
 文三の弱さはお勢の軽薄により、お勢の軽薄が文三の弱さによる、という認識は互いが原因であり結果であり、相互に作用していることを一方向づつに分けて因果関係にしたものである。彼らは実際にこのような相互関係のうちにある。だからこそ相互関係の一方を切り離す因果関係は、他方の説明まで進む時、同語反後に陥るのである。だから相互作用から単純な一方向の因果関係に後退するのではなく、相互作用そのものを一層進んで理解するには相互作用の仕方を規定している原因を発見しなければならない。正しい原因とは常に実体的原因である。
 実体的な関係で言えば、軽薄なお勢を愛することつまり文三の低い意識は彼の弱い客観的立場の現象形態、意識形態であり、お勢が文三を理解も支持もしないのは、つまり彼女の軽薄さも、彼女の立場の意識の現象形態、彼女の立場からする人間関係の反映形態である。どのように意識を理解するにも、その原因を深く深く次々に遡って行くと、かならず意識から離れなければならないことに気づくだろう。つまり文三とお勢の双方のこのような現象形態、このような相互作用の実体的原因、正確にはその本質を理解しなければならない。そうすることによってはじめて論を進めるために文三に決断力があればとか、お勢が軽薄でなければなどという無意味な仮定の力を借りなくてすむようになり、当然この現象を克服する方法を発見できるようになる。なぜならこの現象は、現実に克服されつつあるからである。
 「浮雲」の登場人物の「すじりもじつた」相互関係を解く鍵は、昇と文三の対立関係の発展レベルである。この対立のもっとも深い源泉は商品経済の発展レベル、生産力の発展レベルであり、したがって基本的矛盾は商品に内在する矛盾である。だからつゆという現象を理解するのに太陽系の構造まで遡る必要があったように、資本主義社会のあらゆる社会現象を合理的に理解するには、本来商品にまで遡る必要がある。ただし作品世界の分析では商品の矛盾の展開としての資本主義を前提とした上で階級対立を矛盾の原動力、相互作用の力の源泉として説明すればよい。
 ところがこの点に作品分析の主な困難も生じる。「資本論」も「大論理学」も日本では古くから知られているが、この弁証法が作品分析に適用されたことはない。基本的矛盾の発展において対象を捉えることが、対象の概念的具体的把握であるという言葉を知っていてもすべての作品において基本的矛盾の発展レベルが、したがって現象形態が異なるためその基本的矛盾を発見することが非常に困難だからである。さらにまた批評の場合にそうであるように、昇の立場と多少とも妥協的である場合は、概念的把握などどんな訓練によっても決して不可能なように運命づけられているからである。「浮雲」の理解、「浮雲」の概念的把握とは、昇との非妥協的対決を前提として、この作品に内在する基本的矛盾の現象形態として、作品を理論的に再構成することである。
 「浮雲」の必然性をここで繰り返すわけいかないが、気象の必然性の把握とは違った困難があることは理解できるであろう。しかしながら「浮雲」の必然性の把握は、社会科学特有の困難を持つとはいえ、もっとも複雑な現象に達しているわけではない。文三と昇の対立は、資本主義的対立の非常に低い段階にあり、文三の意識も「認識」の立場であるから、比較的単純である。文三の認識はまだ対象=社会の必然性と一致していない段階での苦悩である。認識が課題である。言い換えれば必然性にまったく支配され、必然性と分離されておらず、必然性に対して独立的でない。文三の課題は、必然性からの独立であり、この独立性は認識によって得られる。社会的必然からの独立とは、この必然からまったく分離し連関を失い、影響力を持ち得ない、という以外では必然性の認識という形式以外ありえない。
 主体性が文三の立場を越える段階ではまったく新たな、社会科学本来の困難がはじまる。主体と現実が分離し、主体が客体としての必然性を認識する、といった認識形態ではなくなる。歴史の発展とともに、対象変革的に必然性の構成部分となる。認識論の中にも変革的実践が組み込まれる。これは明治文学の次の段階であるプロ文で問題になる。
 したがってまたプロ文の理解のために、その歴史的前段階である四迷や漱石をその段階に即して厳密に理解しておかねばならない。「浮雲」に単純な因果関係だけで対処している無能な批評は論外としても、文三の態度に弱さや優柔不断を感じとりその態度に対して寛容なあるいは厳格な批判を加えることに神経を注ぎ、さらにそのことを歴史的段階も考えず、ただ弱いのを主体性の欠如などと考えて、むやみに主体性をふりまわすようでは、文三は無論のことプロ文などおよそ理解できるものではない。この段階で生じている必然からの分離、独立、主体性--これが余計者という形式で感じとられていることの本当の内容である--の意識を理解しないでは、プロ文の段階での、分離しながらの一致、つまり高度の一致、自由な一致を理解することはできない。どのような段階にあっても、主体性や積極性を単純に現実との実践的かかわりと信じて明治二十年の人間にも、昭和の人間にも、同じ当為を求めるのは、批評自身が認識による独立を獲得しておらず、したがってその意識を評価できないために生ずるのである。
 以上、つゆの理解も、つゆについての一規定によって与えられるのではなく、気象に関する全体系によって与えられるように、「浮雲」の中の一つ一つの規定、たとえば文三やお勢の性格、思想も一連の発展的叙述によってのみ与えられることが理解されると思う。事柄の性質上、必然性の展開は無限である。「浮雲」の必然性は、わずか150枚の原稿では骨格しか得られない。前号の「浮雲」論は、この骨格を、「浮雲」分析の方法を従来の方法に対置することを目的としている。批評・方法の誤りは日本文学史全体について言えるから、主要な作品すべてについて基本的方法を開拓しなければならない。そしてその方法の上で現実そのものがそしてその反映である論理が持つ無限の可能性が拓かれる。

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