『うたかたの記』 

 
 冒頭の文章とそれにつづく軽い会話には、エリート生活への鴎外らしい満足と自負が端的に表現されている。鴎外がエリート的な日常を屈託なく描いているのは初期三部作だけである。後の作品に見られる苦々しい屈折はまだ現れていない。紋切り型の会話でさえ、鴎外の感じるエリートらしさへの素朴な満足が現れている。
 鴎外が描くエリートの優れた資質は、エリート世界での業績においてではなく、貧しく不幸な人間との関係によって描かれている。彼らはエリスやマリイを助け、心から信頼される。しかし、彼らの高度の精神が生み出した信頼関係と幸福は、偶然によって破壊され、豊太郎や巨勢に深刻な苦悩をもたらす事になった、というのが、作品の枠組みである。しかし、本質的には彼らの道徳にはエリスとマリイの破滅が含まれており、不幸な人間を破滅させる事が豊太郎や巨勢の資質である。
 豊太郎も巨勢も一目置かれる人物として描写されているが、具体的な言動から見ると非常に平凡で幼稚である。少女の遭遇した不運はありふれた小さな事件である。不幸な少女にとってはこれは日常の一つであり、栗売りの少年にとっても運命はこういう不幸に満ちている。鴎外は犬さえも冷酷そうに描くことでこの不運を強調し、そのことで巨勢の善意を際立たせている。ロマン主義的な勧善懲悪である。鴎外は、貧しく、不幸で、憂いに満ちて、誰に頼ることもできず、同情を求めている少女を美しく愛すべきものとして描き、自分の力で生きて行こうとする栗売りの少年を「にくにくしげ」だと描いている。自分に頼る少女にはやさしく頼らない少年には冷たいという鴎外の単純な価値観は、保守的なエリートに特有の精神として、エリスやマリイをではなく、鴎外自身の人生を規定している。
 
 不幸な少女を誰も助けようとしない。しかし、巨勢だけは、「嚢中の『マルク』七つ八つありしを」与える勇気を持っていた。この七、八マルクが巨勢とマリイの人生を支配するほど高くつくことになる。巨勢が少女の感謝の言葉を聞く間もなく立ち去ったために、その場での善行に終わらず、しばらく時間を置くことで途方もなく重大な事件に膨れ上がる。鴎外にとって貧しい人間にわずかの金を恵むことは、類まれな善意として意識されており、だからこそ、それにもかかわらず恩きせがましくないことがことさらな大恩となって貧しい人間にのしかかる。マリイはこの関係の中で破滅し、その結果として巨勢は感傷を得る。しかし、鴎外は意識して描いていないが、実質的に、具体的に、破滅的な結果を得るのは巨勢である。

 豊太郎や巨勢の善意は鴎外の善意の限界であり、社会的認識の限界である。鴎外は豊太郎や巨勢に描いた以上の精神や人間関係を想定することができず、鴎外の精神の中では誰もがこれ以下の関係と精神の中に生きている。巨勢と貧しい少女との関係は、もっとも通俗的で低レベルの関係であるが、この空想世界ではもっとも高度の関係である。巨勢の善意は、七、八マルクが命と同等の意義を持つほどに不幸で、自分の力で生きることもできず、その七、八マルクを恵む者もない世界でのみ大きな意義を持っている。巨勢の善意は、七、八マルクに値踏みできるほどに不幸な少女の世界でのみ通用する。だからそうした不幸な少女を救うことに自分の道徳的な価値を認めている彼らの精神は七、八マルクの値段に値する。

 巨勢とマリイのロマンチックな再会は、彼らの人生の喪失を物語っている。過去のちょっとしたエピソードが人生においてこれほどに重大な意義を持つことは、逆に言えば、ほかに見るべき人間関係がなく、それ以上の善をなす機会を持たなかったことを意味している。マリイも巨勢も、かつての瞬間的な関係以上の関係を見つけることができず、お互いに過去の見すぼらしい善行だけを頼りに長い時間を過ごしている。ドイツに留学して、七、八マルクを恵んだ少女の面影に絵画のモチーフを見いだし、少女の面影を六年間抱きつづけてドイツ中を回ったあげくにミュンヘンの美術学校でこの事件を美談として披露するのは、留学生としていかにも軽薄であって、明治の時代を担うための留学生としては失格である。
 巨勢と再会したマリイは、自尊心が強く、高潔で大胆な女性として描かれている。モデルでありながら「肌を見せぬ」し、接吻したのも巨勢が初めてである。マリイの高潔さは誰も信用しないことであり大胆さは不信感を無遠慮に表すことである。それを巨勢との過去の思い出が支えている。過去の善行が、時間の経過とともにその背後にある人間不信を醸成している。過去の善行が誰にも理解できないほどに深い秘密として扱われ、愚かしい喜劇を演じている。その愚かしさは巨勢のつまらない善意によってあらゆる人間に対する不信感を肯定することである。巨勢のつまらない善行だけを梃子にしているために、女神だとか威厳などという大げさな表現は、鴎外の意図とは逆に滑稽になっている。
 
 巨勢とマリイは他人を軽蔑しており、孤立しており、それを精神の高さだと思っている点で共通している。孤立は客観的な事実である。軽蔑は孤立を肯定する排他的な精神であり、自分を高いと思うのは孤立による間違った自己認識である。巨勢とマリイの結びつきと信頼関係は非常に希薄で、無内容である。しかも、彼らを結びつけているのは孤立性と他人に対する軽蔑であって、過去の善行はその契機にすぎないし、その善意自体が排他的で独善的であった。

 マリイについての不幸話はロマン主義的で通俗的である。マリイは身分の高い娘であった。マリイには「そこひ知らぬ憂い」がある。貧しさの中に生きる栗売りの少年と違った弱々しさと同時に、貧しさに染まらないはじらいがある。鴎外は貧しさの中に不幸だけを見ており哀れみだけを感じており、その対象にふさわしくマリイは描かれている。不幸と哀れさを強調することが鴎外の基本的な傾向である。そのために、自尊心の強いマリイに好色な王が組み合わされている。実在のルードウイヒは人間嫌い、女嫌いであったが、マリイの哀れさと巨勢の善良さを強調する手段として好色な王が必要になる。マリイが売春を迫られるほどに不幸であるのに、巨勢は下心を持たない、というのが巨勢のすぐれた精神の証である。王が出てきても社会的な意味はなく、マリイの身の上話は、どれも情欲的な色恋沙汰ばかりである。鴎外の関心は普遍性を欠いており通俗的である。

 この作品は、巨勢の善行をピークとしてそれ以上の人間関係を描いていない。他の事件は付け加えられているだけで、物語としての有機的な連関はない。物語は、いったいどうなっているのかと不信に思うほど呆気なく終わる。マリイが王の姿を見ただけで突然杭に頭を打ちつけて死ぬのでは悲劇ではなく不幸な事故である。巨勢とマリイの関係の悲劇性を盛り上げるために、マリイも、マリイの父も母も、国王も、侍医も死んで、それを美しい情景であるかのように描いて、巨勢は生き残ってロマンチックな感傷に浸っている。巨勢の善行は彼が人間関係においてなしうる能力の限界を示しており、この感傷は巨勢が精神においていかに得る事の少なかったかを物語っている。
 鴎外は感情の薄い作家である。無味乾燥に、無表情に、ロマン的に人の不幸や死を描いている。善行は人間関係を形成するきっかけではなく不幸を味わうための入り口である。エリスが正気を失っても豊太郎が得たのは、帰国にあたっての感傷と、一点の友を憎むこころである。マリイを含めて多くの人間が死ぬことで巨勢が得たのは痩せたことだけである。人間関係も破滅的な別れも深刻な精神をもたらさない。豊太郎や巨勢の感傷が大きな犠牲を必要とする事は、豊太郎や巨勢の人間関係の希薄さと、精神と感情の軽薄さを反映している。彼らは人間の愛情や苦悩の深さを知らない。大きな犠牲の具体的な意味を感じ取ることなく甘い感傷の材料にしている。マリイの死に関心を持つのは巨勢だけだ、というのは巨勢の感情の高さを証明するものではなく、巨勢を高く見るほどの現実認識の狭さを示すだけである。作品には虚しさと寂しさが漂う。それは、本来あり得た充実が失われたという喪失の悲しみではなく、巨勢の精神の孤立的な空虚さによる寂しさである。喪失の悲しみすらないことの寂しさである。
 善意による結びつきが、突然の王の登場によって破滅させられた、といった外観は鴎外の作り出した虚偽である。エリート青年と不幸で貧しい少女の関係の発展はあり得ず、鴎外は破滅の感傷だけを求めている。しかし、マリイの死が偶然の事故であれば、悲劇にならないし社会的内容も含まれない。「舞姫」の場合は偶然性が強調されているにもかかわらず、そうではないところに内容があった。エリスの破滅に豊太郎の裏切りや虚偽はなかったとする描写の中に、エリスの死と豊太郎の善意を結びつける社会的な内容があった。この作品は善意と偶然の事故を描くだけであるから甘い感傷の背後に隠された虚偽や弁解がない。「舞姫」が高く評価され、批評されるにもかかわらず、「うたかたの記」がそれほど問題にされない所以である。


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