『ヰタ・セクスアリス』- 2 (明治42年7月) 

 
 金井湛は競争に勝ち残り、自信を持っていたが、「陽に屈伏して陰に反抗するという態度」をとり、「僕は先天的失恋者で、そして境遇上の弱者であった。」と自覚している。金井湛は外的世界に対して、積極的な闘いによって自己を主張することはなく、弱者のように対立を避けながら勝ち残る努力を続け、こうした葛藤を内化し発展させた。金井湛が得た地位も語学力もその他の知識も、この内的葛藤を深める契機となっている。鴎外は傲慢で自惚れた単純な出世主義的官僚ではなく、このような屈折と否定的な自己認識を根深く持っていたことによって文豪と呼ばれている。
 しかし、こうした屈折した意識は、官僚社会に対する批判意識ではなかったし、社会的な発展の契機となる精神でもなかった。鴎外の屈折は、出世主義的な意識を持つ保守的官僚が明治の歴史の発展と対立することで獲得した精神である。明治の社会は、歴史の発展と一致した活動によって実力を身につけ、自己の価値を社会に刻印できた官僚や学者を多く排出したが、鴎外はその一員となることはできず、歴史の発展と保守的に対立することで、不平と不満に満ちた葛藤を持っていた。官僚世界内部で対立し、社会の発展と対立していた、という意味で歴史的な葛藤のうちにあった。これが同じ後の保守的なインテリには後進国特有の遅れた官僚組織との対立による近代的な意識の苦悩に見える。しかし、実際はまったく逆の関係にある。
 犬が穢いものへ鼻を突込みたがる如く、犬的な人は何物をも穢くしなくては気が済まない。そこで神聖なるものは認められないのである。人は神聖なるものを多く有しているだけ、弱点が多い。苦痛が多い。犬的な人に逢っては叶わない。
 鰐口は人に苦痛を覚えさせるのが常になっている。そこで人の苦痛を何とも思わない。刻薄な処はここから生じて来る。強者が弱者を見れば可笑しい。可笑しいと面白い。犬的な人は人の苦痛を面白がるようになる。(p188)
 屈折した、敗北したエリートである鴎外の未来を予告するかのように、金井湛の得意とするところは、現実的な実質的な知識や実践能力ではなく、内的な道徳的精神である。金井湛は細かな道徳的側面から鰐口を観察し、道徳的に鰐口を軽蔑し、この点での鰐口との対比によって自分を肯定している。金井湛は、意地の悪い、人の弱みを笑う、穢いものを好む鰐口と違って、上品で品行方正である。鰐口は女を馬鹿にしており、性欲に満足を与える器械と考えている。教師に怒られても横着を構えて平気でいる。皆で鍋を囲んで食うのに金井湛を除け者にした。金井湛はこんな鰐口を嫌悪し軽蔑しており、自分はこういう下品で下司な人間とは違った人間だと思っており、こうした特徴を自分の精神から排除している。
 金井湛は鰐口とは違う。金井湛は几帳面で、上品で、品性を尊重する人物である。それにも関わらず、鴎外の作品の人物は酷薄であったし、人に苦痛を覚えさせたし、人の苦痛をなんとも思わない性格をもっており、それが冷たいと評価された。金井湛は自分の精神を酷薄と思わず、他人の苦痛を苦痛と理解せず、まったく違った解釈を下すことによって、鰐口とは違った徹底した酷薄さを持っていた。鰐口は外見的に俗で酷薄で汚い人間であり、自分が俗で酷薄で汚い人間であることを自覚しており、自分がそのように評価されることにかまわず俗物であり続けたが、金井湛は逆の外見をもっており、逆の自己評価をしており、逆に評価をされることを必要としており、そうした外見と意識に特有の俗物根性と酷薄さを持っていた。
 鰐口の次に、鴎外は「埴生」という学生との違いを書いている。形式的で几帳面な分類である。鰐口と違って埴生は金井湛に対してやさしかった。しかし、金井湛は自堕落で軟弱な埴生との関係を絶つように「お母様」に言われ、絶交した。「埴生と絶交するのは、余程むつかしかろうと思ったが、実際殆ど自然に事が運んだ。埴生は間も無く落第する。退学する。僕はその形迹を失ってしまった。(p194)」というのが絶交の結論である。埴生の運命は、「お母さま」の忠告と、その忠告に従った金井湛の正しさを証明しているかのように、無駄なものを切り捨てたかのように描かれている。
 金井湛は鰐口とも埴生とも違う人間である。金井湛が成長し、精神的に向上する過程は、周りの人間をつまらない人間として切り捨てる過程である。金井湛は、他人の助けや自分の意志の力で、誘惑があっても悪い道に進まなまかった。金井湛は、純朴で無知な田舎の秀才として東京に出て来たが、意地の悪い、犬のようなのような性格の鰐口にも、優くても惰弱な埴生にも影響されることなく、独自の自己を維持した。金井湛が彼らとの交際を絶ち、彼らの精神に染まらない堅固な意志を持つ事の正当性を、彼らの落第や退学が示している。金井湛にとって、エリートの人生以外は価値を持たない。金井湛にとって、エリートになるかどうかが人間の価値の分岐点であり、エリートとして生き残る事が人間的価値の証明である。これはエリート一般の成長の記録ではない。エリートの世界に入りながら、エリート世界内部の競争において破れ、歴史的な発展に無益であるエリートの精神である。
 裔一は小さい道徳家である。埴生と話をするには、僕は遣り放しで、少しも自分を拘束するようなことは無かったのだが、裔一と何か話していて、少しでも野卑な詞、猥褻な詞などが出ようものなら、彼はむきになって怒るのである。彼の想像では、人は進士及第をして、先生のお嬢様か何かに思われて、それを正妻に迎えるまでは、色事などをしてはならないのである。それから天下に名の聞えた名士になれば、東坡なんぞのように、芸者にも大事にせられるだろう。その時は絹のハンケチに詩でも書いて遣るのである。(p195)
 金井湛は几帳面な道徳家である。金井湛は小さい道徳家とも区別されている。鰐口のような下司な人間ではなく、埴生のように軟弱な人間でもなく、しかも、裔一のような小さな道徳家でもない。金井湛は、他人を自分とは違う価値観をもった人間として否定的に評価し、こうした特徴を持たない、彼らより高い人間として自分を認識している。人間関係を自分の優位の観点から認識し、他を否定することが金井湛の現実認識であり自己認識である。金井湛の力量と正当性は、人間関係の形成ではなく、人間関係を破壊し、地位と知識を背景にした自分の優位性を築くことにある。競争の厳しい社会を、否定的側面から認識し、実践的にも否定的に関わっている。金井湛の精神は競争の中で、人間関係の社会的な広がりを失うばかりである。金井湛が優位を確立し、自己を肯定する過程が、孤立化し、自己を喪失する過程であることの必然がはっきり出ている。
 十五になった。
 去年の暮の試験に大淘汰があって、どの級からも退学になったものがあった。そしてこの犠牲の候補者は過半軟派から出た。埴生なんぞのようなちびさえ一しょに退治られたのである。
 逸見も退学した。しかしこれはつい昨今急激な軟化をして、着物の袖を長くし、袴の裾を長くし、天を指していた椶櫚のような髪の毛に香油を塗っていたのであった。
 この頃僕に古賀と児島との二人の親友ができた。(p198)
 こうした現実認識には鰐口にはない酷薄さがある。金井湛は大淘汰を生き残った。競争に勝ち残るためには能力も努力も、誘惑に負けない強い意志も必要である。金井湛は有能で勉強家で品行方正である。しかし、こうした形式的な精神は、複雑な社会関係に一歩踏み込むと、同時に無能であり怠惰であり不道徳的ともなる。鴎外は、有能で勉強家で品行方正であり続けた。しかし、日本の歴史は、この空虚で形式的な精神に、鴎外が予想することも認識することもできない内容を盛り込んだ。鴎外の精神は、この空虚で形式的で冷酷な精神を肯定するという、それ自身一層空虚な精神として発展している。
 金井湛が競争に勝ち残った手段の内容は貧弱である。金井湛は品行方正で真面目に勉強し続けた消極的な勝利者である。試験に勝ち残ることが金井湛の能力と道徳性である。試験で多くの人間が淘汰されることが金井湛の勝利である。受験的な競争以外は視野になく、それ以上の欲望を持たず、経験していない。鴎外は、几帳面で要領のいい、利口な勉強のしかたを得意気に描写している。社会的な関係の広がりは、こうしたものを勉強の一手段として、一つの個性として、精神のごく部分的な契機に押し下げる。しかし、鴎外は人間関係の広がりを回避し、自己の偏狭な精神を頑に守り続けたために、こうした形式的な特徴を終生大事に守り続けた。
 鴎外は、学問を社会の発展の契機に押し下げる能力を持たなかった。出世の手段として受験的に学問をこなし、さらに個人の優位を示すための教養として蓄積し、さらに純粋な学問を自分の実力を味わうための趣味として蓄積していた。人間関係を回避する傾向を持ち、社会的な発展に対して消極的であった鴎外にとって、学問は、官員や教師になるための手段を超える場合は、学問それ自体を自己目的とする以上の意味を持たなかった。このことを鴎外は強く、肯定的に意識している。「それでは物を知る為めに学問をする、つまり学問をする為めに学問をするというのだな」という言葉で、学問のための学問をすることが特別にすぐれた意識であるかのように、表現している。鴎外らしい空虚な学問観である。
 
 「うむ。まあ、そうだ」
 「ふむ。君は面白い小僧だ」
 僕は憤然とした。人と始て話をして、おしまいに面白い小僧だは、結末が余り振ってい過ぎる。僕は例の倒三角形の目で相手を睨んだ。古賀は平気でにやりにやり笑っている。僕は拍子抜けがして、この無邪気な大男を憎むことを得なかった。(p201)
 学問のための学問が非常に高い位置に置かれている。鴎外にはこうした学問に到達する資質があっただけでなく、学問に社会的な意義を見いだす能力を持たなかった。学問を手段と考えるか学問自体を目的とするかは、追求の形式であって内容ではない。しかし、近代日本の黎明期にあって、学問の内容の日本史的な意義に思いが及ばず、せいぜい自分の力量の優位を示す手段としか考えなかった鴎外には、受験勉強式の関心の延長である教養的な学問が凡人の及ばない純粋な学問的関心に見える。実際、社会から孤立した保守的なエリートでなければ、社会発展から分離された学問を楽しむことはできない。鴎外は単純な出世主義者ではなく、金の亡者でもなく、出世に必要である以上の学問を教養として蓄積した。官僚として出世することに飽き足らず、知識と教養を持ち、官僚の立場とは別個に学問を修めた。しかし、そのことが優れた精神を意味しない事は鴎外自身が証明している。鴎外のすべての努力は、官僚としての仕事をも、学問をも空虚なディレッタンティズムにしただけである。
 「何の子だか知らないが、非道い目に合わせているなあ」
「もっと非道いのは支那人だろう。赤子を四角な箱に入れて四角に太らせて見せ物にしたという話があるが、そんな事もし兼ねない」
「どうしてそんな話を知っている」
「虞初新誌にある」
「妙なものを読んでいるなあ。面白い小僧だ」
 こんな風に古賀は面白い小僧だを連発する。柳原を両国の方へ歩いているうちに、古賀は蒲焼の行灯の出ている家の前で足を留めた。(p202)
 面白くない小僧である。金井湛の興味は本の世界に限られ、自分が多くの知識を持っている事に限られている。子供にかっぽれを踊らせている事実に痛みを感じ、社会的な認識が深化することはない。子供がかっぽれを踊らされているのを見て、金井湛の精神は Victor Hugo を連想する。子供の運命としての社会にではなく、自分自身の読書量に関心が向かう。さらに、「虞初新誌にある」という知識の披露に展開する。金井湛の書物的な知識は、社会的現実から金井湛を切り離し、現実に対する感受性を失わせている。漱石の言葉を借りれば、「温かい感情を涸らす」ために勉強しており、成功している。金井湛の学問は現実を深く認識し、感情を豊かにするのではなく、自分の知識が広いことを自分の優位として示すためにのみ使われる。金井湛の鋭さは、自分の知識の広さを披露する機会を逃さないことに費やされる。「面白い小僧だ」というのは、歳に似合わず、普通の人間が知らないことを知っているということであるが、同時に金井湛は普通の人間が知っていることを知らなくなり、普通の人間が感じることを感じなくなっており、「面白くない小僧」になっている。しかし、それは鴎外自身にとって、金井湛自身にとっては、特別にすぐれた、並の人間とは違った人間だと感じられる。それは十四歳の金井湛であっただけでなく、この作品を書いている48歳の鴎外の理解であり自己認識である。

 十六歳になると、この順調に成長して来た精神が深刻な矛盾にぶつかることになる。

    home