『ヰタ・セクスアリス』 3(明治42年7月) 

  金井湛は品行方正に勉強して順調に成長し、恋愛のできない、愛情を持てない青年になった。自分が愛情を持たないだけでなく、自分に対する愛情に不安を感じる青年になった。人間関係を回避しているから、それが自分に対する愛情があるかどうかは分からないが、愛情ではないかという不信感を持つ青年になった。鴎外の作品には、自分に対する愛情の憶測が多く見られる。金井湛がお蝶の愛情を不安に思ったのは、友人の裔一の伯父が女中と関係したことの煽りを受けて学校を廃業することになったからである、と説明している。しかし、異性との関係で失敗した実例が愛情に不安を持つ理由にはならない。金井湛は、この実例を重く受け止め、強い自制心が働いて、自分に対する愛情にも自分自身の愛情にも溺れないための教訓とした。道を誤らせる感情を持つことすらなかった。金井湛が愛情をもてない、恋愛を経験できない個性であることは、なんらかの具体的理由では説明のできない本質的な特徴である。金井湛は、お蝶の愛情を感じて不安になり、借り家を引き払って実家に帰った。
 お蝶が金井湛に愛情をもっていたかどうかは分からない。金井湛はそれを知るほどに接近せず、知る前に実家に帰った。そして、お蝶が自分に対する愛情や性欲を持っていたかどうかを詮索している。金井湛はお蝶との関係を避けているために、詮索好きになる。しかし、本来詮索しなければならず、詮索ができるのは、お蝶となんらの関係をもたずに逃げ出して詮索ばかりする金井湛はどんな人物か、関係を持たない事に満足している金井湛とはどんな個性か、である。
 お蝶との関係は、自分より低い身分の人間との関係であり、自分が優位にある人間との関係である。金井湛は深い関係を持たないように用心し、そのために、相手を傷つけることについても繊細な神経を持っている。この繊細さは相手を傷つけることが自分に跳ね返ってこないことがわかっている場合は、自分の優位を確信し味わう冷酷な神経になる。基本的には、どのような関係にあっても、自分が望むように高く評価されない場合は、常に自尊心が傷つく傾向を持っている。あらかじめ自分を守るために自分の殻に閉じこもる自尊心が、人間関係との関わり方によって、金井湛の意志と関わりなく、臆病でもあり酷薄でもある特有の意味をもってくる。
 用心深いにも関わらず、偶然の瞬間にこの臆病な自尊心がどのように深く傷つくかが、次のエピソードに描かれている。
 「あなた」
 芸者の声である。
「うむ」
 僕は杯を取ろうとした。杯を持った芸者の手はひょいと引込んだ。
「あなたじゃあ有りませんよ」
 芸者は窘めるように、ちょいと僕を見て、僕の右前の方の人に杯を差した。笑談ではない。笑談を粧ってもいない。右前にいたのは某教授であった。芸者の方には殆ど背中を向けて、右隣の人と話をしておられた。僕の目には先生の絽の羽織の紋が見えていたのである。先生はやっと気が附いて杯を受けられた。僕がいくらぼんやりしていても、人の前に出した杯を横から取ろうとはしない。僕は羽織の紋に杯を差すものがあろうとは思い掛けなかったのである。
 僕はこの時忽ち醒覚したような心持がした。譬えば今まで波の渦巻の中にいたものが、岸の上に飛び上がって、波の騒ぐのを眺めるようなものである。宴会の一座が純客観的に僕の目に映ずる。(p216)
 鴎外は、十九歳のこの経験について、「あの晩の松源の宴会は、はつきりと僕の記憶に残つてゐる。」と書いている。お蝶に好かれていると感じて喜ぶこともできず、重大な結果になることを漠然と恐れて逃げ出した。芸者の行為にはさらに敏感に身構えて冷たい感情を呼び覚ましている。田舎から秀才として都会に出て、都会での人間関係の矛盾に堪える事のできない、臆病で自尊心のつよい青年である。恋愛の成功にも失敗にも持ちこたえる事ができず、矛盾を含む関係から逃避して自分を守ろうとしている。人間関係のなかに踏み込んで、その矛盾を自分のものとして成長することができない。金井湛にとって、人間関係の矛盾から身を引いてしかも勝利するための手段が出世であり、学問である。相手の好意を疑い、誠実を疑い、軽蔑を恐れ、失敗を恐れる等々の逃避的意識が様々に形成されており、現実も自己もこの観点から認識される。保守的なエリートという社会的な地位は、人間関係を回避し、高い位置から他人を見下すための最良の立場であった。自己保身的な自尊心は地位が高くなるほど強くなる。金井湛は年齢が高くなり、地位が高くなるほどに警戒心を強め、不自由に臆病に消極的になる。
  二十になった。
 新しい学士仲間は追々口を捜して、多くは地方へ教師になりに行く。僕は卒業したときの席順が好いので、官費で洋行させられることになりそうな噂がある。しかしそれがなかなか極まらないので、お父様は心配してお出なさる。僕は平気で小菅の官舎の四畳半に寝転んで、本を見ている。(p219)
 金井湛は、こうして自己自身にとどまることを平気とし、安泰としている。社会で働く目的を持たず、社会的な矛盾の中に入る情熱を持たず 、急いで社会に出て行く必要のない立場にいる。いずれ社会に出て、社会の矛盾にまみれなければならないが、金井湛は、社会的な矛盾から離れていることが自分の能力であり、余裕であると考えている。金井湛は社会に対する関心を離れて無目的に本を読んでいる。お父様が心配するのも当然である。
 金井湛が社会に出る一つの関門として結婚が問題になっている。金井湛が二十歳になって、「お母様」が洋行の前に結婚するように迫っているからである。金井湛は結婚を勧める「お母様」に対して、近代的な男女関係とか霊の話とか、物品だとか奴隷だとかの観念的で書物的な話をしている。金井湛は結婚について、そのようにしか考える事ができず、それが真面目な話だと思っている。恋愛をしたこともなく愛情を持った事もなく、深い人間関係を恐れてきた金井湛は、結婚についての具体的な、実践的な意味での真面目な話を思いつく事もできない。拒否するための具体的な理由も持たない。社会的な関係に入ることを恐れる臆病が、結婚につての臆病になり、性欲についての冷淡になる。
 漱石はちょうど同じ時期に「それから」で結婚する気のない大助を描いている。漱石は金井湛と同じ高等遊民の大助が、結婚に対して臆病であることの意味を描こうとしている。鴎外は結婚についての金井湛の抽象的な理屈を本気で描いており、それが社会的矛盾に対する臆病がつくりだす理由付けにすぎないことを理解していない。漱石は大助の余裕が、ブルジョア的な競争世界に入っていくことへのインテリ的な臆病である事を明らかにしている。鴎外は金井湛の頭に浮かんでくる臆病な妄想を高度の思想だと思っており、「僕の方にはまだ言ひたい事は沢山有つたが、此上反駁を試みるのも悪いと思つて、それ切にしてしまつた。」と書いている。漱石の大助には、三千代を愛する力が残っており、その愛情が怠惰な遊民生活を突き崩す力になる。しかし、金井湛の臆病は徹底している。臆病が暴露され傷つけられる現実的関係を人生全体を通じてことごとく回避し、真面目で几帳面な高等遊民の生活と精神を守り抜くことができた。人間関係の一つである愛情をもつこともなかった。性欲に対してすら淡白であった。大助は三千代に対する愛情と、人間関係を恐れる臆病との間の葛藤に苦しんだが、金井湛は愛情を持つことなく、臆病な人生と精神を守り通すことができた。そして大助とはまったく違った深刻な矛盾を抱え込む事になった。大助は生活の破綻を代償にしてでも充実した生活を得ようと決意することで、金井湛が落ち込もうとしている不毛な矛盾を逃れることができた。そして、鴎外の作品を読めば、大助がどれほど不毛で深刻な人生を回避できたかを理解することができる。
 「お母さま」に対していい加減な話をする金井湛は、結婚する意志がないにもかかわらず、「見合いといふものをして見ようと思ふ」て見合いをした。不真面目だからこそ出てきた勇気をもって、上品でなごやかな雰囲気に浸っている。この心理について金井湛がくどくどと無意味な説明をした挙げ句に導き出した結論は、「或は人は性欲的刺戟を受けて決心するのではあるまいか。それが僕には闕けているので、好いとは思っても貰いたくならないのではないかと思った。」である。この作品で性欲がどんな意義を持っているかがよく分かる説明である。結婚を決心するのが性欲的刺戟によると考えるのは現実認識として極端に愚かである。男女の関係についての無知によってのみ思いつく理解である。現実に対して真剣に取り組む意志を持たない人間が造り出す小理屈は非常に不真面目な印象を与える。「それから」の大助が父親をおこらせた屁理屈である。金井湛は自分の言葉の無意味を理解することができないほどに愚かである上に、無知に基づいた自信をもっているために不真面目な印象を強めている。金井湛は性欲にたいして、あるいは結婚に対して消極的なのではなく、人生に対して、現実に対して消極的で、その一つとして性欲にも、結婚にも、つまり女性との関係にも消極的であり不真面目で不誠実である。

 鴎外が自分の消極性を肯定的に解釈する余裕はさらに具体的に発展している。金井湛は洋行に対して積極的ではない。自分では積極的でないが、相手から求められて行動する事が余裕であり能力であると鴎外は考えている。鴎外自身も何らかの具体的な目的があって洋行したかったのではなかった。金井湛は洋行を急いでいない。金井湛には、能力を他人に認められ、求められてやむを得ず洋行することが本当の能力に見える。金井湛には、目的を見いだしていない事、目的のための情熱を持たない事が、余裕であり能力の証であるかに見える。鴎外は、消極性を能力と余裕として描いている。
 社会的な目的意識が欠如している金井湛は、学問も洋行も日本史の発展のために必要な手段として意識することができない。出世の必要に迫られて、出世だけを目的にして勉強してきた結果として、学問自体に意義を認め、洋行自体に意義を認めている。洋行を目的とする内容を持たない消極性が、それを自ら求めることを潔しとしない独特の自尊心と余裕を生み出している。金井湛は臆病に、消極的になっていること、何もせずする気がない事、自分のつまらない目的を隠すことが、余裕であり能力であると思っている。したがってまた、漱石の大助のように洋行さえも面倒になることはなく、洋行の肩書は、自分の余裕、消極性に意義を与えるための不可欠の条件であるために、洋行を嫌がる事はない。求めてではなく、嫌々ながらのように、余裕をもって、欲望をもってではなく洋行し出世するのが金井湛の自尊心のあり方であり、洋行を是が非でも求める気持ちを誰よりも強くもっており、同時にそれを隠す欲望をも強く持っているのが鴎外らしい屈折である。

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