『ヰタ・セクスアリス』-5 (明治42年7月) 

 金井湛は吉原に行く事で、負けじ魂を押し通した。しかし、そのことに積極的な意味があるわけではなく、結局、「女から病気を受けたら、それどころではない。子孫にまで禍を遺すかも知れないなどとも思って見る。」(p232)くらいが真面目な反省として残っただけである。このあと、金井湛は、もう一度吉原に行ったことを「少しも偽らずに書こうと云うには、ここに書き添えて置かねばならない事がある。」(p233)と付け加えている。
 金井湛は性欲に淡白であったこと、吉原に二回行った事を告白している。嘘ではないが、無意味な告白で自己の道徳性を主張するのは不当である。金井湛の冷たさと自己弁護は、吉原に二度行った事の告白によって否定されるのではない。この無意味に正直な告白によって自己を肯定する事が自己弁護である。誰も金井湛が何度吉原に行ったかに関心を持たないし、そのことによって金井湛の人格性を知ろうとは思わないからである。
 金井君は自分の下等な物に関係しないのを臆病のように云う同国人に、面当をしようという気になる。そこで冒険にもこの Rendez-Vous に行く。腹の皮に妊娠した時の痕のある女であった。この女は舞踏に着て行く衣裳の質に入れてあるのを受ける為めに、こんな事をしたということが、跡から知れた。同国人は荒肝を抜かれた。金井君も随分悪い事の限をしたのである。しかし金井君は一度も自分から攻勢を取らねばならない程強く性欲に動かされたことはない。いつも陣地を守ってだけはいて、穉い Neugierde と余計な負けじ魂との為めに、おりおり不必要な衝突をしたに過ぎない。(p238)
 この総括的な文章には、まず金井湛の冷酷さが示されている。下等な物という一面的で冷酷な認識があり、さらにその下等な物に対する関係が冷酷である。下等な物に関心はないし、関わる意志もない。しかし、下等な物に関係しないことを臆病だという者に面当てをしようという意地で下等な物と関係する。そして、臆病でない事の証として、どんなことにも動じないことで自分の肝を示す事ができると信じている。金井湛が意地で関わる事ができるのは立場の弱い者であり、それとの関係を下等な物と、と考えている。これ以上の冷酷さを想像する事は難しいほど冷酷さが徹底している。
 金井湛は性欲に動かされる事はない。しかし、負けじ魂によって動かされる。積極的な欲望を持たず、消極的で臆病であるが、臆病と見られことを極端に嫌って、積極的な意味がなくても、意地で行動するのが金井湛の冷たさである。積極的な意義がないからこそ意地という主観の形式で行動する。それ自身に積極的な意義がある仕事は実現困難であり、意地で実現する事はできないし、実現の情熱は意地という形式をとらない。負けじ魂というのは、つまらないことをあえて実行する意志である。
 金井湛は自分の消極性を意識している。そのために常に自己弁護が必要になるが、消極性を克服するのではなく、解釈にるよるごまかしにすぎないから負けじ魂はなくならない。自己弁護では消極性は解消されず、新たな自己弁護を必要とするだけである。金井湛は常に「陣地を守って」いると考えているが、実はそれが批判されており、しかも守る事ができないから意地が発展している。
 消極性の限界内にあるつまらない行動をあえて実践するのが意地である。意地の実践には特別な能力も努力も必要としない。臆病であるほど意地は強くなり、実践の内容は無意味になり、偏狭になる。出世主義的な自己を保身し、地位にしがみついて意地を見せつけるのが鴎外流の自己主張である。自己保身の限界内で、自分の利害と対立し、自分の利益を犠牲にするかのような、被害者であるかのような意識をもって、価値観としての意地を実践する。客観的には自分の利益を確保するための行動であり、しかもごく無意味なつまらない利益を、自己犠牲であるかのように意識して、したがって徹底して冷酷に実践する。それが鴎外の、気味悪く、偏屈で扱いにくい性格である。金井湛は消極的で、臆病で、自己保身的で自己弁護的である。それは金井湛にも意識されて、それを超えるものとして意地がある。しかし、その意地はそれを超えるものではなく、消極性の限界内の、消極性の徹底としての意地である。
 鴎外は金井湛について長い弁解を書いたあと、総括的な弁解として、金井湛の悟性にふれている。
 そしてつくづく考えた。世間の人は今の自分を見て、金井は年を取って情熱がなくなったと云う。しかしこれは年を取った為めではない。自分は少年の時から、余りに自分を知り抜いていたので、その悟性が情熱を萌芽のうちに枯らしてしまったのである。・・どうも自分は人並はずれの冷澹な男であるらしい。(p239)
 このように弁解した上でさらに、強気の弁解を付け加えている。
 しかし自分の悟性が情熱を枯らしたようなのは、表面だけの事である。永遠の氷に掩われている地極の底にも、火山を突き上げる猛火は燃えている。Michelangelo は青年の時友達と喧嘩をして、拳骨で鼻を叩き潰されて、望を恋愛に絶ったが、却て六十になってから Vittoria Colonna に逢って、珍らしい恋愛をし遂げた。自分は無能力では無い。Impotent では無い。世間の人は性欲の虎を放し飼にして、どうかすると、その背に騎って、滅亡の谷に墜ちる。自分は性欲の虎を馴らして抑えている。羅漢に跋陀羅というのがある。馴れた虎を傍に寝かして置いている。童子がその虎を怖れている。Bhadra とは賢者の義である。あの虎は性欲の象徴かも知れない。只馴らしてあるだけで、虎の怖るべき威は衰えてはいないのである。(p240)
 
 このような説明的弁解が必要であり、可能であると考えることからすれば、事態は深刻である。金井湛は「余りに自分を知り抜いていた」のではなく、あまりにも自分について無知であった。精神一般について無知であるからこそ、「余りに自分を知り抜いていた」と言えるのである。無知であるからこそ、自己を知る悟性が情熱を枯らしてしまったとも言えるのである。この弁解では、「人並みはずれの冷澹な男」というのは、人並みはずれて悟性の発達した男という意味になる。実際は、悟性と情熱の欠如した男である。エリートの地位がその傾向を発展させた。鴎外は自己認識と情熱がいかに涸れていたかをこの小説に描いている。悟性が情熱を枯らしたと解釈することは、無知と情熱の欠如を改めて書き添える事である。悟性も情熱も人間のもっとも大きな力であり、その力が実現されてこそ悟性であり情熱である。悟性をも情熱をも自分は大量に持っている、と主張すること自体、その欠如を物語っている。
 金井湛は性欲の虎を馴らして抑えている。性欲の虎を放し飼いにすると、滅亡の谷に墜ちるからである。金井湛は性欲の虎を抑えることができて、滅亡の谷に墜ちなかった。しかし、同時に悟性の力を枯渇させた。そして、内に意地の猛火が燃えている。内に秘めているのは意地である。消極的で臆病で自信のない自尊心が傷つけられると、陰気で底意地の悪い猛火が燃える。自己を守り、自己を保身しようとする欲望に焚きつけられ、抑えられて、この猛火が燃える。しかし、この猛火もやはり冷たい自己弁護である。

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