1.吾輩は猫である
 「吾輩は猫である」、「坊つちやん」、「草枕」の初期三作品は社会的に孤立したインテリ生活を他に対する優位として肯定的に描写している。しかし、この自己肯定的な精神を否定し後期の作品に受け継がれる発展的な内容がこれらの作品の真の内容であり意義をなしている。現状以上の地位を得る可能性を持ちながら自ら貧しい生活を選択したとする高踏的な精神、出世主義と対立する余裕が漱石の精神の出発点であり保守的な側面である。漱石の課題はこの高踏派的、余裕派的な精神を否定することである。
 吾輩と車屋の黒の対立に漱石の精神に内在する本質的な矛盾が反映している。車屋の黒には腕力と勇気がある。吾輩は腕力も勇気もないが知恵と余裕があると考えている。しかし度胸のないところに現実的な知恵はない。度胸のない者には度胸がないことを弁明するための知恵が発達する。それは精神における無能の発展である。吾輩には自分に鼠を取る能力や度胸がないことを自分の弱点として認識する能力がない。実践能力を持つ黒は吾輩と違った独自の余裕を持っており、黒の観点からは吾輩の精神は余裕ではなく無能とか臆病とか小心と規定される。
 苦沙弥の家で交わされるインテリ的な作り話は無内容で退屈である。漱石は無駄話を描写しながらその無内容を意識している。しかし、それは誰もが知っている吾輩の批判的批評ではない。超然と澄ましている彼らも厳しく見ると俗骨と共通点を持つという吾輩の指摘は彼らの独自性の肯定である。俗骨との部分的共通点ではなく、俗骨と対立する彼らの独自性がそれ自体として俗で、無能で、退屈で、偏屈であり、社会的に孤立した精神の特徴であることを理解することが彼らに対する批判である。苦沙弥らと俗骨を同一視する吾輩の言葉が高踏派に対する漱石の批判的な眼だと考えるのは作品内容の無理解である。漱石の批判的な精神は俗骨と同じだという吾輩の評価にあるのではなく、彼らの会話の退屈さを感じとっている点にあり、退屈さを感じさせない黒の精神にある。
 漱石は孤立世界の退屈な描写を克服すべく苦沙弥の世界に社会的な対立を取り込む努力をしている。それによって苦沙弥の生活の意義が外界との関係の想定によってより具体的に描写されている。漱石は鼻子との対立から鈴木、多々良との対立と次第に高度の関係を発見し、余裕派の精神を否定する精神を具体化している。
 実業家の勢力に屈しない苦沙弥の余裕と意地は現状肯定的で保守的な側面であり、社会的な孤立、無力、無知の肯定的な意識化である。実業家に対するありもしない優位の幻想である。しかし、この作品の漱石らしい特徴は、批判意識によってブルジョアに高く評価されることを期待するロマン主義的な俗物根性を持たないことである。自分で自分の価値をかっているが、それが世間に認められないことが前提である。漱石は苦沙弥が金田を恐れないことが同時に社会的な無知を意味することを理解している。金田と対立して守るべき積極的利害を持たない苦沙弥は明確な理由もなく、具体的内容もなく意地で金田に抵抗している。このような対立の想定が漱石の優れた現実感覚である。
 出世を拒否する欲望はエリート社会内部に発展する矛盾の反映として必然的に独自に形成される。しかし、エリートの地位を放棄することを肯定的に規定するのは非常に困難であり、多くの媒介項を必要とする。エリートの世界を拒否すること自体は出発点であって、積極的な具体的精神の獲得ではなく、出発点に位置することの特有の内容をもっている。ブルジョアに対する依存を拒否することは、エリート世界を拒否することの具体的な意義をまだ認識していない出発点としてのみ評価されねばならない。非妥協性は、この出発点の維持であり、それが滑稽に描写されることこそ、非妥協性を維持しつつこれを越える精神であり、拒否すること自体に道徳的優位を認めるロマン主義的意識を越えることである。それは漱石が金田や鈴木に対抗し得る現実的な成果をあげることの困難を意識し、したがって本質的な対立以外の対立を対立と認めない能力を持つことを示している。

 苦沙弥の意地と金田の買収や嫌がらせという関係は漱石の初期の、彼の出発点としての社会認識である。現実のブルジョアとインテリにはこのようなインテリに有利な個別的対立関係は存在しない。さらに歴史はこのような対立がありえないことを、現実的に証明する。
 ブルジョアのインテリに対する支配力はインテリを大量に形成しインテリ内部の競争を発展させることで形成される。苦沙弥の意地は嫌がらせによってではなく競争の組織によって廃棄される。ブルジョアはインテリから遠ざかり、媒介項つまり経済的強制力としての間接的手段を無数に形成することによって彼らから自由になるとともに彼らに対する支配力を強固にする。金田が寒月にこだわり、苦沙弥の意地に嫌がらせをするという甘い想定は相対的にインテリの価値が高い資本主義の形成期に一時的に根拠を持つだけである。教育機構を整備しインテリを大量に生産し彼らの労働の価値を一般の労働者のレベルに押し下げる法則がインテリに対する金の支配力である。このような社会関係の法則を理解すれば苦沙弥の意地と金田の社会的な圧力の対立という認識形態は廃棄される。
 インテリを大量に形成し競争させれば金田は自分の利益を苦沙弥個人から引き出す必要がなくなる。金田の恩恵を拒否する苦沙弥の意地は苦沙弥に代わる出世主義的インテリ、つまり苦沙弥らが批判している連中によって無にされる。インテリの俗物批判は自分の地位を脅かすこの俗な競争者に対して自分の利益を主張する形式である。しかも出世主義者の欲望を苦沙弥らは抑えることができない。出世主義者との積極的競争を回避し、批判し、軽蔑する道徳的な意識は、競争に巻き込まれずにすむ歴史上の一時的な幸運な時代には余裕となる。しかし幻想を持ちうるこのわずかな期間が激動を本質とする資本主義社会に対する対応能力を麻痺させる。出世を拒否する苦沙弥の意地は社会的発展とともに無意義にされ、苦沙弥が金田との関係を拒否しているという側面が失われて金田が苦沙弥との関係を拒否し、苦沙弥が社会的に孤立しており、無意義であるという側面が表面化する。エリートの社会的地位の低下はこの作品で想定された金田との対立による自己肯定を廃棄させる社会的な圧力である。
 苦沙弥の精神を偏屈な意地として描写するのは鈴木に対する苦沙弥の現実的な優位があり得ないことを理解する漱石の意識による。ブルジョア的な実力を持つ金田や鈴木に対する道徳的批判は真面目で自己肯定的であるほど滑稽で惨めであり、ヒステリックで独善的な偏狭さを感じさせる。苦沙弥の滑稽な意地が余裕を感じさせるのは彼が滑稽に、批判的に描かれているからであり、現実的な力を持つ金田や鈴木に対するあらゆる平凡な批判が無意味であることの理解を内包しているからである。自分の滑稽さを露わにすることが苦沙弥の段階の自己否定的な精神である。

 出世を拒否する苦沙弥の観点からすると対立を避けて出世する鈴木の知恵は小利口に見える。出世主義者の知恵はブルジョアの腰巾着が考えているほどたいした能力ではない。しかし問題は彼らの利口さではない。鈴木流の利口さで獲得される金と地位は鈴木の精神とは独立した、社会的に巨大な力を持つ。鈴木の本質は鼻が鼻子の本質でないのと同様に極楽主義的な利口さではなく、彼の得る金と地位の社会的威力である。鼻子の鼻や鈴木の利口さという瑣末な現象形態との対立は苦沙弥が彼らの社会的な力に対抗する力を持たないことを証明しており、それが彼らの滑稽さの所以である。
 客観的には対立を構成しているのは鈴木で対立を避けているのは苦沙弥である。社会的な対立を形成できない場合に苦沙弥流の実行のない口舌や、苦労や心配や争論が生まれる。鈴木が瑣末な対立を避けつつ獲得している地位は巨大な社会的対立を構成する。彼は金田や鼻子のような古いブルジョアを首尾よく出し抜いてより発展した対立を構成しつつある。鈴木の力は資本主義的な矛盾を発展させることで苦沙弥らを孤立させ、彼らの意地の無意義を社会的な規模で明らかにする。金田の娘が寒月に惚れるという甘い想定によって展開される瑣末な対立を解消するのが鈴木の社会的な力である。
 鼻子、鈴木、多々良との対立の後では帽子や鋏についての作り話の無意味が明らかになり、ペーソスが生じる。インテリの駄弁から逃れた吾輩の鼠取りや蟷螂退治の描写も社会的内容を含まない自然主義的描写である。この現象的描写の退屈さを補うために単純な教訓や書物的な知識が付け加えられ、いっそう描写を退屈にしている。作品の展開の中で発展する漱石の現実感覚にとって「吾輩は猫である」の人間関係と個性の設定自体が限界に達している。
 この小説に設定された基本矛盾の限界が苦沙弥の苛立ちを生み出している。苦沙弥は自分の経験する対立が時間と労力を浪費する「愚な抵抗」であることを理解して苛立っている。苦沙弥は金田の恩恵を拒否することに意義を置く精神の消極性、不毛性に苦しみはじめている。多々良の登場以後苦沙弥の世界の内部矛盾が主な問題になる。苦沙弥の内的矛盾が下巻の主な内容である。

 金田や鈴木と妥協せず、しかも彼らとの瑣末な対立を肯定しない場合どこに自分の価値を見出すのかが漱石の本質的な課題である。金田との対立は苦沙弥にとって譲ることのできない精神の出発点である。しかし、金田や鈴木にとって現実的な力を持たない苦沙弥の意地は一人天下、小生意気、剛情、損得の観念に乏しい、痩我慢等々に過ぎないことが明らかになっている。実業家の恩恵を拒否すれば社会的に孤立する、のではなく、苦沙弥の孤立状態が実業家の恩恵を拒否するという社会的な意識を形成している。苦沙弥の孤立状態に内在する独自の矛盾が実業家の圧力の想定を必要としている。実業家との対立の結果苦沙弥の生活が不生産的になるのではない。実業家との関係を含めた社会一般との関係を持たないことが苦沙弥の生活を消耗的にしている。実業家との対立は現在の苦沙弥の生活にないものであり、苦沙弥の世界の消耗性の本質的な解決方法として獲得されねばならない課題である。
 漱石の時代においてブルジョアとの本質的な対立は課題になり得ない。ブルジョアとの本質的対立を形成する方法を探究する過程でインテリが対立を形成できないことを認識することが漱石の歴史的な役割である。

 金田との本質的な対立が形成されない段階では瑣末な対立を解消した理想として独仙の悟りが想定される。苦沙弥の苛立ちと独仙の対立は同じ精神の内部矛盾である。苦沙弥の精神は迷亭や独仙を矛盾の解消形態として他方に想定しつつ常に苛立ちの中にある。矛盾の解消を理想としながら矛盾の中に止まるのが漱石の精神の発展的な力である。
 独仙は金持ちとの対立を諦めて現状に満足しろと結論している。対立一般を回避する独仙には最終的満足としての悟りが理想となる。しかしこの理想は実現されない。最終的な満足の実現は積極的な欲望の喪失としての絶望あるいは諦観である。独仙の悟りに対立する苦沙弥の苛立ちは自分の不平や意地が社会的な力を持たないことを自覚しながらなお対立を諦めない積極的な意識であり本質的対立の発見への衝動である。
 苦沙弥は彼の世界に生ずるすべての対立が生産的でないと結論している。苦沙弥の優れた資質は、彼が想定し得る多様な結論のどれをも全的に否定も肯定もせずすべてを認めすべてを否定しつつ矛盾として持ち越す点である。苦沙弥の世界を多様な側面から分析し、その相互の矛盾をすべて自己内にとりこむのが苦沙弥の自己認識の発展形態である。苦沙弥が自分の世界を認識しようとするとき、その論理の組み立ては様々の経路をたどるであろうが「何条の径路をとつて進まうとも、遂に「何が何だか分らなくなる」丈は慥かである」という結論は物事を徹底的に考え抜く漱石らしい頭脳の明晰さの証である。下らない肯定的結論に到達せずにぐうぐう寝てしまうのは非常に高度の精神である。
 よく知られている文明批判は漱石の意識の保守的側面であり、愚かしい結論に到達することが漱石の発展的な精神である。漱石は自分の社会認識から愚かな帰結を導き出すことで認識の非現実性を示している。彼らの論議には文明論の誤りを展開と結論の馬鹿さ加減で明らかにする以上の独自の内容的はない。インテリらしい無内容な、議論のための議論である。
 社会認識の無力は自覚心、鋭敏、自己、人工的、窮屈、平等、文明等々の形式的な、しかも極端に少ない範疇を無批判的に展開することに現れている。社会から孤立した無力な階級の社会認識の特徴として利害の一致の側面が理解されておらず、範疇間の移行、一致を理解できない。したがって範疇自体の内容を問題にしないままに、単純で形式的な範疇を、そうして……から……なったんで……なったが……こうなると……で……さらになどと接続詞で繋げることで十行で展開されるような、風が吹けば桶屋が儲かる式のやり方で文明などという巨大なテーマを論じている。正直がいいとか技巧が悪いとかいう単純な思想をどのように展開しようと社会の本質には届かない。資本主義社会に展開し始めている文明の諸矛盾は苦沙弥らの手に負えない。彼らは個性の発達が結婚を不可能にするとか文明は皆金田になる等文明の未来に対して無責任な結論に導くことでこの問題の解決を放棄し結論を未来に持ち越している。非現実的な結論はその前提に対する批判である。こうした非現実的結論を真面目に受け取って、愛と美ほど尊いものはないという幼稚な意見を述べるのは新体詩を作って苦沙弥の世界でも馬鹿にされている東風君だけである。
 この空論を否定する漱石の第二の対処は多々良の描写である。長引くほど下らなさが明らかになる文明論の退屈さは乱暴に登場する多々良に救われている。下らない思想遊びに割り込んでくる多々良の言動は生き生きしている。こうした文明論は無意味として踏みにじるのが正当な扱い方である。多々良は小理屈を蹴散らして現実に眼を向けさせる。非現実的教養を弄ぶインテリ世界に飛び込む現実性が多々良である。多々良の現実性はブルジョア的な利益の追求という限界を持っているが、孤立的な生活の内部から金田や鈴木を批判している苦沙弥の精神より現実的である。苦沙弥の精神は、孤立した苦沙弥の精神より多々良の精神の方が現実的であるという厳しい自己認識を獲得した時に独自の現実性を獲得できる。多々良を描く漱石にはその能力がある。
 初めから回りくどい冗談を言うつもりでいる迷亭と寒月が結局弾きもしないバイオリンについて三十頁に亙る退屈な話をしている間に現実的で活動的な多々良は苦沙弥の世界の想定的矛盾をあらかた解決した。その結果「吾輩は猫である」の最終回には読者のすべてが感じとる独特のペーソスが漂っている。
 この最後の反省はこれまでに展開された問題がすべて解決し順当に行き始めたことで生じている。漱石が苦沙弥の世界を面白くするために導入した金田との対立は多々良が解消した。金田の娘が寒月に惚れたことで偶然生じた金田に対する意地は必要なくなった。寒月も金田の娘とではなく国で結婚したことで金田との面倒な関係を回避した。それが順当の意味である。そして、このような展開が漱石にとっても最も自然に、現実的に感じられる。今や彼らは独自の責任で生きていかねばならない。金田との対立が解消されれば無名で貧しい生活を選んだことは苦沙弥の個別的趣味になり一般的意義は失われる。ブルジョアとの想定的対立と切り離された結果彼ら自身の世界の特徴である瑣末で消耗的な矛盾が露わになる。金田との対立の想定はこの彼ら独自の矛盾を覆い隠す幻想であった。彼らは自己内の矛盾を金田や鼻子との空想的関係に対象化していた。孤立した彼らにはブルジョアとの対立という現実はない。事態が順当に展開したというのは、自己肯定的に想定していた矛盾に積極的な意義を認めず、自己内の矛盾を新たに発見しようとする積極的な意識の反映である。苦沙弥の世界の矛盾が不毛で社会的な意義を持たないことを感じとることがペーソスである。このペーソスは積極的意志によって打破され、さらにその成果として不毛性が具体的に認識されねばならない。

「坊ちゃん」へ      概観へ     漱石目次へ    home