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1.逸年号史料

我が国の「年号」は、「大宝」から始まった。
あるいは、「大化」から始まった。
これが常識である。

ところが、「大宝」「大化」以前から、年号が存在した、とする、史料がある。
『ニ中歴』や『如是院年代記』や『麗気記私抄』などである。
いわゆる「逸年号」だ。

まずは、これら各史料の状況をまとめよう。(『古事類苑』等に基づき、かわにし作成)

日本書紀 二中歴 麗気記私抄 海東諸国記 如是院年代記 和漢年契 襲国偽僭考 茅窓漫録
干支 天皇 干支 年号 年数 干支 年号 干支 年号 干支 年号 年号 年数 干支 年号 干支 年号 年数
辛未 孝霊         列滴       列滴  
庚寅 応神 璽至     璽至  
己卯 武烈   己卯 嘉紀 4
丁亥 継体  
丁酉 継体 5
壬寅 善記 4 壬寅 善記 壬寅 善化 壬寅 善記 善記 4 壬寅 善記 壬寅 善化 5
丙午 正和 5 丙午 正和 丙午 正和 丙午 正和 正和 5 丙午 正和 丙午 正和 5
定和 7
常色 8
辛亥 教到 5 辛亥 殷到 辛亥 発倒 辛亥 教到 教知 5 辛亥 殷到 辛亥 教到 5
甲寅 安閑
乙卯 宝元 5
丙辰 宣化 丙辰 僧聴 5 丙辰 僧聴 丙辰 僧聴 丙辰 僧聴 僧聴 4 丙辰 僧聴 丙辰 僧聴 4
庚申 欽明 師安 1
辛酉 明要 11 辛酉 明要 辛酉 同要 辛酉 明要 大長 3 辛酉 明要 辛酉 明要 12
壬申 貴楽 2 壬申 貴楽 壬申 貴楽 壬申 貴楽 壬申 貴楽 壬申 貴楽 2
甲戌 法清 4 甲戌 清清 甲戌 結清 甲戌 法清 法清 4 甲戌 法清 甲戌 法靖  
戊寅 兄弟 6 戊寅 兄弟 戊寅 兄弟 戊寅 兄弟 兄弟和 1 戊寅 兄弟 戊寅 兄弟 1
己卯 蔵和 5 己卯 蔵和 己卯 蔵和 己卯 蔵知 明要 3 己卯 蔵和 己卯 蔵和 5
甲申 師安 1 甲申 師要 甲申 師安 甲申 師安 蔵知 1 甲申 師安 甲申 師安 1
乙酉 和僧 5 乙酉 和僧 乙酉 和僧 乙酉 知僧 知僧 1 乙酉 知僧 乙酉 知僧 5
貴楽 18
庚寅 金光 6 庚寅 金光 庚寅 金光 庚寅 金光 金光 6 庚寅 金光 庚寅 金光 6
壬辰 敏達
丙申 賢称 5 丙申 賢棲 丙申 賢接 丙申 賢称 賢輔 5 丙申 賢棲 丙申 賢称 5
辛丑 鏡当 4 (中略) 辛丑 鏡当 辛丑 鏡常 鏡常 4 辛丑 鏡常 辛丑 鏡常 4
乙巳 勝照 4 乙巳 勝照 乙巳 勝照 照勝 4 乙巳 勝照 乙巳 勝照 4
丙午 用明
和重 2 丁未 和重 2
戊申 崇峻
己酉 端政 5 己酉 端政 己酉 端政 己酉 端政 端政 5 己酉 端政 己酉 端政 5
癸丑 推古 癸丑 喜楽 1
甲寅 告貴 7 甲寅 告貴 甲寅 従貴 甲寅 吉貴 告貴 10 甲寅 吉貴 甲寅 告貴 7
乙卯 始哭 1
丙辰 法興 5
辛酉 願転 4 (中略) 辛酉 煩転 辛酉 願転 願転 4 辛酉 願転 辛酉 願転 4
乙丑 光元 6 乙丑 光元 乙丑 光充 光元 6 乙丑 光元 乙丑 光元 6
辛未 定居 7 辛未 定居 辛未 定居 辛未 定居 辛未 定居 7
癸酉 見聖 5
戊寅 倭京 5 戊寅 倭京 戊寅 和景縄 和京 5 戊寅 倭京 戊寅 倭京 5
戊寅 景縄 5
辛巳 法興元世  
癸未 仁王 12 癸未 仁王 仁王 6 癸未 仁王 癸未 仁王 6
節中 5 癸未 節中 1
己丑 舒明 己丑 聖徳 己丑 聖徳 己丑 聖徳 聖聴 3 己丑 聖徳 己丑 聖徳 6
壬辰 僧要 5
乙未 僧要 5 乙未 僧要 乙未 僧要 僧安 5 乙未 僧要 乙未 僧安 5
壬寅 皇極
庚子 命長 7 庚子 命長 庚子 命長 明長 5 庚子 命長 庚子 命長  
乙巳 孝徳 乙巳 大化 (記述なし)
丁未 常色 5 丁未 常色 丁未 常色 丁未 常色 丁未 常色 5
庚戌 白雉
壬子 白雉 9 壬子 白雉
乙卯 斉明
辛酉 白鳳 23 辛酉 白鳳
壬戌 天智 中元 4 壬戌 中元 4
壬申 天武 壬申 朱雀 果安   壬申 朱雀
壬申 白鳳
甲申 朱雀 2 甲申 朱雀
丙戌 朱鳥 9 丙戌 朱鳥 丙戌 朱鳥 丙戌 大化
丙戌 果安 4
丁亥 持統 大和  
庚寅 大和 7
壬辰 大長 壬辰 大長 9
乙未 大化 6 乙未 大和 乙未 大和
丁酉 文武 大長  

二中歴・・・文保二年(一三一八)〜延元四年(一三三九)に一旦成立。文安年間(一四四四〜八)頃、最終成立。
麗気記私抄・・・応永八年(一四〇一)。
海東諸国記・・・申叔舟撰。李朝成宗二年(一四七一)。
如是院年代記・・・元亀元年(一五七〇)頃。
和漢年契・・・高安蘆屋著。寛政十年(一七九八)。
襲国偽僭考・・・鶴峯戊申著。文政三年(一八二〇)。
茅窓漫録・・・茅原定著。文政十三年(一八三〇)。

江戸時代以前には、こうした逸年号の研究は盛んであった。
『二中歴』は後醍醐天皇代(一三一八〜一三三九)の本であり、逸年号を収集した史料としては、もっとも古いものだ。
これ以降、『麗気記私抄(一四〇一)』→『海東諸国紀(一四七一)』→『如是院年代記(一五七〇)』と同系統の史料が続くのがわかる。
(たとえば、所功『年号の歴史』では、『二中歴』と『海東諸国紀』とが同系統の史料に基づくものであることが、述べられている)
その一方で、異説も多く存在する。
この点が重要だ。
これらの史料群は、「資料集成」の性格を持つからである。
年号とは本来、このような形で残るものではない。
あくまで、単体の、脇役として、史料の中に顔を出すべきもの。
これが基本だ。
そういった、単体の「年号」を渉猟し、組み合わせ、形作られたのが、これら、「逸年号史料」である。

この中から、いくつかの史料を取り上げたいと思う。
『二中歴』『和漢年契』『襲国偽僭考』だ。
これら各史料のもつ問題点を明らかにしたい。

1-1.『二中歴』

まずは、『二中歴』だ。
これは、近年、古田武彦がその史料価値を認めて以来、「九州年号」研究の根本史料と見なされているようだ。
これに基づいて、古賀達也・福永晋三ら、各氏は各自の「九州王朝説」を展開されている。
それはそれでよい。
だが、私には、『二中歴』そのものが、「逸年号史料」として、そこまでの価値があるようには思えないのである。

私にそう感じさせる第一は、「法興年号欠如」だ。
数多くある「逸年号(正史の記載に漏れた年号)」の中で、もっとも、出現時期の古い年号が、「法興」だ。
「法隆寺釈迦三尊像銘」に見える。

法興元卅一年、歳次辛巳十二月、鬼前皇后崩。

他には、『釈日本紀』に載せる「伊予温湯碑銘」にも見えている。
「釈迦三尊像」は、推古朝頃の作と考えられるから、その銘文に記載された「法興」年号は、その時代に実用されていた可能性が高い。
したがって、この「法興」年号は、他の「逸年号」とは格段に信憑性に勝ると言っていいだろう。
実在・実用がほぼ確定的なこの「法興」年号を、『二中歴』は欠いている。
欠いているだけならまだよい。
『二中歴』を見れば明らかなように、そこには、「法興」年号の入る余地はない。
これは、明らかな矛盾だ。
古田武彦は、これを、「二系統の年号併用」として、解決を試みているが、私には理解できない。
「九州王朝が同じ時代に二つの年号を使用していた」
そのような事態が考えられるのであろうか。
もしも、二系列の年号群の存在を認めるならば、
「推古天皇の時代、年号を制定し得る公権力は、天皇家のほかに二つ存在していた」
と言うほうが、正しいのではないか。
ともあれ、古田が「二系統の年号併用」を導き出す際に依拠したのは、『襲国偽僭考』の中の「一説」だ。

後述するように、これは実は『和漢年契』の引用部分だから、この「一説」の成立は、相当新しいものと考えねばならない。
結局、『二中歴』や『襲国偽僭考』の如き「後代史料」によって、「法隆寺釈迦三尊像」のような「第一次史料」を分析することは、正しくない。
むしろ、疑われるべきは、『二中歴』のほうである。

今一つ、例を挙げよう。
『二中歴』では、「仁王」年号は十二年続いたことになっている。
ところが、『如是院年代記』では、「仁王」はなく、「聖徳」年号が記載されている。
また、『海東諸国記』では、「仁王」のあと「聖徳」が続く。
(前掲表参照)
『如是院年代記』や『海東諸国記』には、元年の記載があるだけで、必ずしも、その年号が何年続いたのかは、記載があるわけではないが、素直に読む限り、連続した年号として記載されたことは間違いない。
この中のいずれが「正」かは、今は問題ではない。
重要なことは、『二中歴』が、

仁王十二年

と明記していることである。
『二中歴』に示された「十二年」という数字に、根拠はあるのだろうか。
私の目には、「仁王元年癸未」から(次と見なした)「僧要元年乙未」までが「十二年」であったから、そう書き記したようにしか見えない。
『二中歴』編者が「聖徳」年号を知っていたら、或は「仁王六年、聖徳六年」と書き記したのではないか。
逆に「十二年」という数字に確たる史料上の根拠があるのであれば、「聖徳年号欠如」は、『二中歴』の遺漏ではなく、何らかの意味が含まれるのであろうが、今は、『二中歴』編者の依拠した史料が明らかではない。
だが、割注に示された「癸未、自唐仁王経渡、仁王会始」が、「原史料」に当ると考えられるから、やはり、「十二年」の数字は『二中歴』編者の手によるものと見なす方が正しいだろう。

要は、『二中歴』の記載も一つの「作業仮説」なのだ。
割注に示されるような「原史料」群を渉猟し、その「干支」と記載内容を勘案して、整然と並べた。
これが、『二中歴』記載の「逸年号表」の実態ではあるまいか。

年始五百六十九年、内卅九年無号、不記支干、其間結縄刻木以成政<ニ中歴、年代歴、逸年号記載の冒頭部分>

已上百八十四年、年号卅一、代不記年号唯有人伝言、自大宝始立年号而已<同、末尾部分>

と、あるが、実際に『二中歴』に記載されているのは、三十一個百八十四年分(五一七〜七〇一)だけだ。
それも、「代々書き記されたもの」ではない、という。
ところが冒頭には、五百六十九年のうち三十九年は年号がなかった、という。
つまり、『二中歴』が収集できたのは、その「有年号」の五百三十年間のうちでも百八十四年間だけなのである。
一部だ。
ここに示された「五百六十九年間」や「三十九年」という数字については、興味深い史料であるが、今は置いておこう。
このような「作業仮説」の実態を忘れ、『二中歴』を根本史料とすることは、史料批判の方法として甚だ危険だ。
この点を特記しておきたい。

1-2.『和漢年契』

次は『和漢年契』だ。
これは、寛政十年(一七九八)に高安蘆屋(高昶)の著したものであって、『二中歴』や『海東諸国記』と比較すれば、大分時代は下る。
だが、ここには、『二中歴』系統の本には見られないような「逸年号」も収載されているから、注目をしてもよいと思う。
まず、逸年号記載の冒頭部分を見てみよう。

一、我邦年号、孝徳帝之時大化為始、見于正史、後世無異議、故此書亦沿之、而不敢違矣、然予又嘗[才僉]旧記、大化之前猶有年号、蓋[日方]於孝霊帝之時、其後或断、或不断、以接大化也、竊疑、是当時苟且所為、而未[彳扁]布告天下邪、史編何無徴也、且其年号、往々奇僻難可据信、而百世之下、又不可臆断其無也、因今且並挙、以告好古之士如左
(一、我が邦の年号は、孝徳帝の時の大化を始めと為すと、正史に見ゆ。後世、異議無し。故、此の書も亦、之に沿いて、敢えて違わず。然るを、予、又、嘗て旧記を[才僉](=検)するに、大化の前に猶年号有り。蓋し、孝霊帝の時に[日方](はじ)め、其の後或は断ち、或は断たず、以て大化に接するなり。竊かに疑うらくは、是、当時苟しくも、且に為されんとして、未だ[彳扁](あまね)く天下に布告せざるか。史編何ぞ徴無かるか。且、其の年号、往々にして奇僻なれば、信を据うべきこと難くして、百世の下、其の無きを臆断すべからざるなり。因りて今且に並挙し、以て好古の士に告がんとすること、左の如し)<和漢年契、凡例>

ここに見えるように、高安は、この「逸年号群」に対し、判断を保留している。
その上で、彼が調べたという「年号群」を紹介しているのである。
さて、その中身を見よう。

(孝霊帝之時)列滴
(応神帝之時)璽至
(継体帝之時)善記(四年終)正和(五年終)定和(七年終)常色(八年終)教知(五年終、一作教到、又曰殷到。按自四年至五年、係安閑帝之時)<和漢年契、凡例>()内は「割註」。

最初の二つの年号は、他の書には見えない。(後の『茅窓漫録』は『和漢年契』によったもの)
この二つの年号は、その原典が明らかでなく、不明と言うほかはない。
次の継体天皇の時の年号群も、他書と大きく異なる。「定和」年号は他に見えず、「常色」年号は、他書においては、孝徳天皇の時代に置かれている。
この不一致も奇妙だが、さらに、他書と高安とが大きく異なるのは、「善記」の開始年だ。
「教知」年号のもとに、「按自四年至五年、係安閑帝之時」とある。これは、善記元年=継体元年として、

善記=継体元年〜四年(四年)
正和=継体五年〜九年(五年)
定和=継体十年〜十六年(七年)
常色=継体十七年〜二十四年(八年)
教知=継体二十五年〜安閑二年(五年)→継体二十八年=安閑元年(『日本書紀』による)

このように見なした場合にのみ成立する説だ。
つまり、高安は、「善記」年号を、「継体元年」からと見なしているのである。
これは、『二中歴』を始めとした諸本が、善記元年を継体天皇十六年壬寅としているのと大きく異なる。
なぜ、このようになったのか。
思うに、諸本の伝える「逸年号」は、天皇の交代年次と必ずしも一致しないことを、不審として、これに合うように並べ替えた、これが真相ではないか。
(改元が必ずしも天皇の交代と一致しないのは、古田が「公権力別在の証拠」と見なす現象でもある)
ともあれ、これも、高安の「作業仮説」を示すものに相違ない。
また、欽明天皇の項では、

(欽明帝之時)師安(一年終)大長(三年終)法清(四年終。一作靖)兄弟和(一年終。一作兄弟)明要(三年終。或云十一年)蔵知(一年終。知一作和)知僧(一年終。或云七年)貴楽(十八年終。或云二年)金光(六年終。或云四年)<和漢年契、凡例>

とあって、これまた、諸本との違いを見せている。
継体の項の「常色」年号や、欽明の項の「大長」年号には、いかなる根拠があったのであろうか。今は不明である。
次に、推古天皇の項を見よう。

(推古帝之時)告貴(十年終。按一説推古元年為喜楽、二年為端正、三年為始哭、自四年至十年、為法興。是四年号、通計十年而終。与告貴年数正相符。十年之間、蓋与告貴互相行也耳。始哭一作大)<和漢年契、凡例>

ここには、古田のいう、「二系列の年号並立」説が挙げられている。
高安蘆屋の提唱によるものである。この点を確認しておこう。
ここでも、推古元年を告貴元年と見なしているのである。
要するに高安は、「天皇の即位による改元」を常識として、これに合うように年号の配列を変えたり、年数を変えたりしている形跡が認められるのだ。
そこには「干支」の無視が存在している。
だが、「逸年号」史料にとって、最も重要だったのは「干支」である。
諸本はこれを重視して、天皇の交代と改元の不一致を敢えてそのままに記していた。
結局、高安の試みはその根本において不当だったと言わざるを得ない。
高安は果敢にも、「逸年号」に対し、『二中歴』以来の「定型」を打ち破り、新たな「逸年号」表を作ろうとしたが、その試みは失敗に終わっている。
だが、重要なことは、『二中歴』系統も『和漢年契』も、その根本において、同種の史料である。
「作業仮説」を示すものに過ぎないのである。

1-3.『襲国偽僭考』

さて、古田武彦が「逸年号」研究において、始めに依拠した史料。それが、『襲国偽僭考』である。
ここには「九州年号」という言葉が使われている。
「襲国偽僭説」とは、本居宣長の提唱によるもので、「卑弥呼は熊襲の女酋であり、熊襲が、天皇家を差し置いて日本列島の王を僭称し、中国に使者を送った」とするものだ。「僭称」などの言葉は、本居の根本の概念から生まれた「大義名分用語」であって、その実は、「九州王朝説」である。
だが、『失われた九州王朝』における古田武彦の『襲国偽僭考』の読解は、誤りがある。
今、それを示そう。

継体天皇十六年、武王年を建て善記といふ。是九州年号のはじめなり。
年号 けだし善記より大長にいたりて、およそ一百七十七年。其間年号連綿たり。
麗気記私抄、また海東諸国記などにもこれを載せ、今伊予国の温泉銘にも用ひ、
如是院年代記にも朱書して出せり。しかれども諸書載るところ異同多し。
今あはせしるして参考に備ふること左のごとし。
善記
(1)襲の元年、継体天皇十六年壬寅、梁普通三年にあたる。
(2)海東諸国記善化に作る。
(3)如是院年代記に、或曰、継体天皇自十六年始年号在之云々分者朱ニテ書之、年数相違之処在之不審とあり、
(4)一説曰、継体帝之時、善記四年終。
                :
殷到
(1)継体天皇二十五年辛亥、殷到元年とす。
(2)海東諸国記発例に作り、
(3)如是院年代記教到に作る。同書に、教到元始作暦とあるも、また襲人のしわざなるべし。
(4)一説に、正和と殷到との間に、定和常色の二年号あり。いはく定和七年終。常色八年終。教知五年終。一説作教到、又曰殷到。按自四年至五年、係安閑帝之時。
                :
吉貴
(1)推古天皇二年甲寅、吉貴元年とす。
(2)海東諸国記従貴に作る。
(4)一説告貴に作る。いはく推古帝之時、告貴十年終。又曰、按一説、推古元年為喜楽、二年為端正、三年為始哭、自四年至十年、為法興。是四年号、通計十年而終。与告貴年数正相符。十年之間、蓋与告貴互相行也耳。
(5)いま按ずるに、伊予風土記に、湯郡云々、天皇於湯幸行降坐五度也云々、以上宮聖徳皇子為一度及侍高麗恵慈、葛城王等也。于時立湯岡側碑文、其碑文処謂伊社邇波之岡、記曰、法興六年十月歳在丙辰云々と見えたり。丙辰は推古天皇の四年にして、すなはち法興寺の成りし年なり。この年を法興六年とすれば、その元年は崇峻天皇の四年辛亥なり。しかるに今記する処とあはず。疑ふべし。
                :
大長 (1)文武天皇二年戊戌、大長元年とす。
(4)一説曰、文武帝之時大長、又曰、按戊戌為元年右大化以後年号。
九州年号ここに終る。今本文に引所は、九州年号と題したる古写本によるものなり。

((1)(2)…の番号はかわにし)

さて、最後に「今本文に引所は、九州年号と題したる古写本によるものなり」と述べているが、本文のどこからどこまでが、「古写本」によるのだろうか。
(2)や(3)は、冒頭で鶴峯自身の語るとおり、鶴峯が『海東諸国記』や『如是院年代記』を対校して記したものだ。
また、(4)は、実は『和漢年契』の文である。
古田はこの事実を見落とした。
ために、「吉貴」の項の「一説」を「九州王朝と題したる古写本」の一節と見なし、「二系統の年号並立説」を打ち立てたのである。
だが、この「一説」に対しては、鶴峯自身が「伊予温湯碑」の「法興」年号を引いて、「疑ふべし」と異論を提出しているのである。
鶴峯の疑いは正しい。
たかだか二十年程度先に成立した『和漢年契』よりも、第一次史料たる「伊予温湯碑」に依拠すべきこと、当然だ。
では、(1)の部分は、どうだろうか。
これも「古写本」の一節ではない。
「善記」の項に「襲の元年」とあるが、これは、鶴峯の言葉と見なす他ない。
したがって、「古写本」にあったのは、「善記」「殷到」といった、年号のみであったのだ。
これは、『二中歴』その他の史料と、大差ない。
また、「古写本」が実在しない以上、これがどの程度古いものなのかは、不明だ。
したがって、古田が始めにこの本に依拠したことは、大きな誤りだったと言わざるを得ない。


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This is Historical. Japanese only.
Author: KAWANISHI Yoshihiro
Created: September 9, 2001
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