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皇位とは-当掲示板にて

「皇位」についての議論を記録しておきます。('03.9.7現在)


私の神武在位推定年代

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/03(日) 15:30:19

いくつかの前提があります。古事記の記事・系譜・没年干支などから推定することです。

神功・応神朝は百済からの朝貢(文化の伝来)記事から四世紀とみて、直前の仲哀の没年干支壬戌は362年でほぼ確実である。これは那珂通世説で通説になっています。書紀とは42年ズレます。古事記の最後の天皇推古の没年戊子は628年で書紀と一致します。するとこの間は266年となります。

父系であろうと母系であろうと家の相続(財産・生産手段・祭祀権など)は親から子(養子も含む)へとつながって行くのが普遍の原則です。ですから平均寿命の著しく短かった(寿命の個人差が大きい)であろう古代においても世代を単位に考えることは妥当性があると思われます。

そこで上記の266年間を神功を一代、継体は応神五世から武烈と同世代、推古ら四兄弟で二世代(推古の次の舒明は孫の世代)と補正して10世代とします。一世代平均26.6年となります。

仲哀は52歳で薨去(記紀とも一致)しますからその在位年数は数年と見て直前の成務と合わせます。すると神武から成務まで12世代(神武の没年を求めているから神武は含まない)ですから26.6×12≒319(年間) で 362年の319年前つまり43年が神武の推定没年となります。

推古四兄弟の補正を排して敏達で計算すると、敏達没年干支甲辰584年から 584-362=222(年間)。これを神功・敏達9世代で 222/9=24.66 となって同じく295年前の神武没年67年となります。

神武推定没年は西暦50年前後で、いずれにしても紀元前後から一世紀中場まで活躍した天皇となります。河西さんの推定177年とはほぼ百年近い開きが出ました。でも邪馬台国の時代をはるかに超えることは間違いないでしょう。


Re: 私の神武在位推定年代

投稿者:Kawa 投稿日:2003/08/03(日) 19:21:56

この推定は、那珂通世が、行ったものに非常に近いものですね。

私なりの意見を述べるとすれば、古事記没年干支の信憑性の問題でしょう。
「在位年代推定の方法」でも指摘しました。
>仲哀記によれば、応神は先代仲哀の没後に誕生したのだという。これが、仲哀記の示す、基本的な図式だ。
>神功の遠征物語にとって不可欠の要素である。
>そして、応神記によれば、応神の没年齢は、

>凡そ此の品陀天皇の御年、壱佰参拾歳。<応神記>

>とあって、その信憑性はともあれ、「130歳」であったという。
>ところが、没年干支に依れば、仲哀の没年干支は「壬戌」、応神の没年干支は「甲午」であって、両者の差は、32年か92年、もしくは152年(干支一運もしくは二運を含め)である。
>いずれをとっても、応神の没年齢とは一致しないのである。

ということです。
私は、本分の信憑性を支持したいと思います。
したがって、没年干支は×というわけです。
どうでしょうか。


Re: 私の神武在位推定年代

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/03(日) 21:38:42

ところが応神天皇の系譜は二つに分かれていますよね。つまり仁徳らの父たる応神(1)と五代後の継体につながる意富富杼王や允恭の妻となった忍坂の大中津比賣命らの父たる応神(2)です。

系譜は通常各天皇記の冒頭の宮名に続いて書かれます。この原則に反するのが景行記の文末に付記された倭建の系譜とこの応神記のみです。これは当然意味を持っていると思われます。

応神(2)は釈日本記に引用の上宮記逸文に名を残す凡牟都和希王、応神(1)は息長帯比賣命の妹虚空津比賣命の子と考えられます。開化天皇記に系譜があります。この二人を繋げるのが仲哀記の「大鞆和気命亦の名は品陀和気命」と考えられます。応神記の本文は応神(2)によって書かれています。髪長比売の説話のみ応神(1)です。

仲哀記で気比で名を交換(即位儀礼)した凡牟都和希王は息長帯比賣命と建内宿禰らに祝福(酒楽の歌)されます。そして宇治で出会った矢河枝比売を娶り宇遅能和紀郎子が生まれます。ところがこの宇遅能和紀郎子が、もう一人の応神つまり品陀和気命の子の大山守に攻められますね。これは凡牟都和希王が亡くなったからです。仁徳の策略(?)にかかり宇遅能和紀郎子は不自然な死に方をしますね。が次の皇位を大山守や仁徳に問う話がありますが、病床にある凡牟都和希王が宇遅能和紀郎子の即位保証を求めます。


Re: 私の神武在位推定年代

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/03(日) 22:10:10

凡牟都和希王の亡くなったのが本文どおり仲哀の没後32年後の394年の甲午なのです。宇治の乱の年です。仁徳代になっても凡牟都和希王の遺児たちとの確執はこれに端します。

では130歳(実年齢65歳)まで生きたのは誰か。仁徳の父の品陀天皇です。応神記の宮名・冒頭系図と文末の寿命・御陵記事は品陀天皇、本文(髪長比賣の話を除く)と文末系譜及び注の崩年干支は凡牟都和希王となります。凡牟都和希王こそ九州で生まれた仲哀の子です。

都合よく読み変えている訳ではありません。応神記の「天之日矛」や「秋山の下氷壮夫と春山の霞壮夫」の説話は従来の解釈では持て余していますが、二人の応神ではなくてはならない挿話となります。ここでは細かく論証できませんが古事記の本文も注釈の干支も信用できる、ということです。従って神武在位年代推定の根拠たりえます。


Re: 私の神武在位推定年代

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/03(日) 22:21:59

「逆説の日本史」のように応神は二人いた!!、なんてセンセーショナルに言っているのではなく、別々の伝承が一人の品陀別という天皇に収斂されたのだろうと思います。仁徳朝系が正統性を主張するため故意に凡牟都和希・宇治(和紀郎子)天皇の系譜に繋げたとも、それにしては応神記は不体裁ですから、やはり古事記はあるがままに残したのだろうと思います。

このことは継体の正統性をも保証します。がまた別の機会に。


Re: 私の神武在位推定年代

投稿者:Kawa 投稿日:2003/08/05(火) 00:44:54

うーん。

複数の人物に関する伝承が一つに統合された・・・という議論は、非常に多く見受けられますし、私自身も、語ったことがなくは無いのですが(大国主命と大物主神など)、最近は、これはこれで、非常に難しい前提を含むんだなぁ、と思うようになってきました。
たとえば、宮津さんの今回の「応神」の場合ですと、あたかも、二人の「応神」が組み合わさって、調和して、はじめて古事記の「応神」という一つの人格となる・・・かのようですが、その際、
1.その必然性・・・すなわち、「無関係の二人の人間を組み合わせるという行為」そのものの必然性の問題。
2.組み合わせる際、どちらかがベースの人格として意図されたのか、それとも、「二人で一つの人格」なのか。
3.つまり、どちらも実在の人物なのか、どちらも架空の人物なのか、それとも、一方は架空、一方は実在なのか。
4.「応神」の場合、「皇位」に関わる為、この「皇位」の位置づけと、「二人」のそれぞれの関係はどうなのか。
などなど、課題は山積しているように思います。

よく「○○天皇の皇位の正当性を主張する為の系譜上の作為」という説明を耳にしますが、だとすれば、なおさら、「皇位」をどう考えるのか、という検討を慎重に為す必要があると思います。
何度か申し上げましたが、これを考えるには「武烈と継体の間」や「タギシミミや忍熊王と綏靖、仲哀の間」を考えてみるといいのかもしれません。


Re: 私の神武在位推定年代

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/05(火) 12:12:35

ところが、宮主矢河枝比賣と宇遅能和紀郎子らは応神記の冒頭の系譜に記載されています。咋俣長日子王の女息長真若中比賣とその子の若沼毛二俣王もです(こちらは末尾の系譜につながる)。すると大山守や仁徳の父たる応神は誰だ、という疑問が生じます。つまり応神記は三人で構成されています。奇矯すぎると思われましょうが、同じく倭建系譜を含む景行記では若帯日子(成務)と倭建と五百木入日子の三人の太子という異常事態です。不細工でもそのまま残す古事記の姿勢かと。

> 1.その必然性・・・
倭建・仲哀(神功)・大鞆別・宇治郎子と続き女鳥王の謀反失敗で消滅した系統と、仁徳や雄略につながる系統を一系にする必要性。倭建と神功というスターを外せない。
> 2.組み合わせ
品夜和気・大鞆和気・凡牟都和希の三人の応神では、品夜和気の系譜を隠蔽し大鞆和気の説話を残し凡牟都和希の系譜を残したことになります。
> 3.つまり、実在の人・・・
すべて実在の人物ながら、品陀和気の名や応神という漢風し号によって一人格に収斂した。それを明確すると思われるのが、
品陀の日の御子 大雀 大雀 佩かせる太刀 本つるぎ・・(応神紀)
国主など大贄を献る時、恒に今(編纂時点)に到るまで詠むる歌なり
> 4.「皇位」の位置づけ
手に負えません。

王位と宮は一体のもので宮名から天皇を特定できます。桧隅天皇とか日代の宮に坐す天皇などです。敦賀から帰った息長帯比賣の子は「大和国の磐余に都をつくる。若桜宮という。」(紀)ですが、応神記では「品陀和気命、軽島の明宮に坐しまして」となっています。

書紀の記事などから15才で立太子や場合によっては即位をしたようです。いわゆる元服とか成人の冠の儀礼です。大鞆和気も15で相続し翌年16で宇治郎子が生まれ、その宇治郎子も仁徳との譲り合いの間(1.5年)は書物によっては宇治天皇とあって16に達していたと思われます。つまり仲哀の横死から大鞆和気の病死までジャスト32年です。

大山守や大雀は宇治郎子よりもかなり年上のニュアンスがあります。宇治郎子の兄というのは無理があるのでは。また応神記で最初の話が宇治郎子に譲位する話と言うのは変です。いずれにしても従来の読みでは矛盾があるのは確かです。


Re: 私の神武在位推定年代

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/05(火) 15:29:06

>これを考えるには「武烈と継体の間」や「タギシミミや忍熊王と綏靖、仲哀の間」を考えてみるといいのかもしれません。

ヒントを頂きましたので少し「皇位について」考えてみます。例の上宮記逸文には垂仁は大王、継体は大公王の称号があり、雄略紀引用百済新撰には天王の称号が出てきます。これらが後世の潤色かどうか解りませんが、開化記の日子坐系譜のような王とは違ってやはり王の中の王は存在したのでは。血縁祭祀集団の時代にあって最大の祭祀権を有する者としての大王です。

文字で記録を始める段階(推古くらいか)で各部族で整理されたでしょう。天皇家もこの段階で皇統譜の原型ができたと思われます。(雷が・・・休憩です)


Re: 私の神武在位推定年代

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/06(水) 14:38:26

東京の方も雷が凄かったようですね。こちらは案の定電気が寸断しました。遅かった本格的な夏の訪れです。体調には気をつけてください。

朝鮮半島と同じように列島内でも小国が群立する中で、各地方にある程度のまとまりができ、近畿でも他地域に対抗し得る小国家勢力ができたと思われます。各天皇記の系譜はそれを示しているのでは。

崇神・垂仁期ではまだ近畿地域内の各地で血縁集団が並立していた。それらが離合集散(縁戚や領地拡大を目論む戦争など)を繰り返し、比較的にある程度のまとまりにまで到ったと思われます。それが〇〇王の出現でしょう。ですからこの時点の皇統とはそれぞれの集団内の王の地位に対して起こり得るのでは。タギシ耳の変などはそのさきがけでしょう。

倭建の登場によって近畿より広い視野と他小国に対する支配服属という政治手法によって強大化しはじめます。馬韓小国家群が百済に辰韓各諸国が新羅に統合化されるように。だがこの動きは列島では韓半島より早かったと思われます。中国の直接支配がなかったこと、常に韓からの移住があったことです。これによって九州・近畿・北陸・東海などの中範囲の政治集団(国)ができあがり、構成する小国の王の中の王が出現し、大王の誕生に到ったと思います。だがこの時点では大王位は血縁的にも制度的にも固定したものではなく、いわば実力の時代と思われます。

継体の登場時期になると九州・大和・関東の三地域国家の段階に到る。この三地域の対国外戦略上の連携と相互の反発の時代となり、大王を凌ぐ地位を発生する。草創期の天皇の誕生です。仁徳から以降欽明朝を除いて記紀にいう天皇は、列島を代表する天皇に服属する近畿の大王が記紀上の皇統となる。大化の改新から天皇家は自立して天皇となり天武朝で天皇制が確立されると共に現代的な意味での皇位が確立する、と思います。継体以降はいわゆる皇族の範囲と世襲の観念が皇統に反映します。


Re: 私の神武在位推定年代

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/06(水) 14:53:54

駄文を長々と書き連ね恐縮です。

つまるところ、「皇位」の考え方も時代と共に変化するということです。皇位が部族内の相続権から並立小国家の長へ、そして列島を代表する天皇へと。また実力(戦力・経済力・あるいは血統など)で成れた時代から世襲と承認の時代へと。気軽に「皇位の簒奪」と言ってしまいますが仁徳期では「大王位の簒奪」の方が正確かも。どうなんでしょう。


Re: 私の神武在位推定年代

投稿者:Kawa 投稿日:2003/08/09(土) 10:32:18

「皇位」の年代的な相違はもちろんのことです。
継体の場合の議論について、少しお話します。

武烈には、子がありませんでした。
(そのように伝えられています)
で、その武烈がなくなったとき、当時の「大臣」「大連」は、後継者として、継体を推した。
だから、継体は皇位に即いたのだ、と日本書紀は言っています。
このことは、すでに「皇位」というか、とにかく、何か「継承すべきもの」があった、ということを意味します。
その「継承すべきもの」とは・・・。
考えてみると、それは「皇位」などという「大それたもの」でなくてもよいのかもしれません。
ですが、当時の「大臣」「大連」たちは、これを「継承すべき」人物ではなかったようです。
そこで「継体」が担がれたのです。

この問題は、「タギシミミ」にも言えるのかも知れません。
こういった点の慎重な検討が必要だと、私は考えています。


Re: 私の神武在位推定年代

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/09(土) 21:34:44

う〜ん、そうですか。

継体のときに世襲の萌芽があるということですか。なにしろ応神五世ですからね。天皇(すめらみこと)の称号が天武朝で生まれそれに伴い皇位の観念と世襲を前提とする皇太子が想定され立太子の儀式も生まれたと思われます。天皇は従来の大王たちに君臨する王として案出されたものでしょう。

世襲うんぬんの前に確認すべきは古代社会にあっては血縁同族こそその最小構成単位であったことですよね。それらが連携・集合することがあってもそれは各血縁集団をそのままに、より大きく集団化することであって、その基礎となる血縁集団を分解再編成した訳では無いことです。その血縁集団(氏族)にあってはより優位にある血縁・権威のある血縁とそうでは無い血縁集団や新規に加盟した血縁集団など斑(まだら)模様で、いわばピラミッド形を成す集団だったと想定されます。血縁(最小は家族)に価値を置くことは人類普遍の原則でもあり、それ故にこそ中国でも社会の特に支配階級の構成単位だったと言えるのでしょうか。

継体以前に応神末裔血縁を中心に物部氏や大伴氏を主力氏族とした政治集団(これが大和王朝の正統と思っています)となっていたことです。ですからこれのピラミッドの頂点であった天皇家から当然のように、その中でも「皇位を継ぐに相応しく泰然とした」継体を担がれたと見られます。「応神から継体まで常に」ではなく仁徳の登場でかなり弛んでいたが情勢の変化見直された感はありますが。ですから、大王の側近としての大連・大臣はそれぞれの所属する構成血縁集団が異なる以上大王には成れなかった、と思います。

多芸志美美の変は、神武の薨去により顕在化した阿比良比売一族と伊須気余理比売一族との王位争奪の戦いですよね。九州ゆかりの血縁集団と地元大和氏族集団とのせめぎあい(主導権争いの先鋭化の結果としての暗殺)です。

もっと細密化・具体化せねばなりませんがこのように理解しています。皇位の世襲はその当初から内包していたと。どうなんでしょう。


Re: 私の神武在位推定年代

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/09(土) 21:54:41

(追加です)
>当時の「大臣」「大連」たちは、これを「継承すべき」人物ではなかったようです。

戦国の下克上や中国の王朝革命のように大臣・大連らの側近または家臣が大王位を簒奪できなかったのはなぜですか、との問いを含むとすればそれは祭祀集団と二重構造になっていたことだろうと思われます。神に勝てる者はいませんからね。祭祀集団同志の戦争の結果は神の優劣として説明されますよね。戦闘実力は継体より物部の荒甲の大連の方が上だった(なにしろ九州王朝大王(天王?)の石井を殺したんですから(古田氏の説))。よく言われるように足利も信長も絶対優位の中で天皇にはなれなかったのですから。


Re: 私の神武在位推定年代

投稿者:Kawa 投稿日:2003/08/14(木) 09:49:17

ふむ。
宮津さん。

当時の集団において、血縁関係が重要である、ということと、「天皇家」という一族が重要である、ということは、別個の問題なのです。

大王になれる家は、ただひとつだけ。
というルールが存在したということであれば、(それが何と呼ばれていようと)「天皇制」の萌芽です。
「大王」という名称だから「天皇」じゃないんだ、というわけにはいきません。そういう字面上の議論とは別に、その「ルール」そのものが「天皇制」なのです。
「皇位」についての検討・・・と私が言ったのは、こういった点です。


皇位とは

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/17(日) 22:06:57

盆も終わり日常の生活が戻りました。
どうも議論がかみ合っていないようですね。

振り返ってみます。「神武天皇はいつ頃の人か」が当掲示板で話題になっていました。
1.安本美典氏の方法を参考に貴殿の論文を読みながら自分なりに推定してみました。
2.その結果紀元一世紀中場になりましたが、その算出根拠に仲哀崩御362年を使いました。
3.ところが貴殿から応神崩御年の甲午は仲哀記応神記本文と矛盾するから古事記崩年割注は信用できないとの指摘を受けました。
4.そこで応神記の特異性と本文から複数の大王の史実を品陀和気という天皇に統合し、応神崩御の甲午は394年として矛盾が無いと応じました。
5.さらに貴殿から論の当否は別としても『皇位とはなにか』について考えておく必要があるのでは、との貴重な指摘を戴きました。


Re: 皇位とは

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/17(日) 22:09:15

皇位とは、天皇の地位の発生・発展・確立などの史実を解明することで天皇制と不可分と理解しました。天皇の名称は、古田氏は継体紀に引用された百済本記の記事にある『日本の天皇および・・・』を九州王朝とし、近畿天皇家(今上天皇に至る皇統譜の氏族)に先行するとされています。また、近畿天皇家が天皇を称し天皇制ができるのが定説どおり天智・天武朝だとすれば『皇位』はこれ以降に生じたものであり、それ以前には「皇位の概念はない」、としました。

> 大王になれる家は、ただひとつだけ。というルールが存在したということであれば、(それが何と呼ばれていようと)「天皇制」の萌芽です。

全くそのとおりです。だから小生は『そのルールが存在する範囲』を問題にしています。小地域なのか、近畿の中にあってか、列島の王者か、です。各発展段階にあって『大王になれる家は、ただひとつだけ』のルールが存在した、と。タギシ耳の時代にあっては大和盆地の一隅で神武の血を引く者に、忍熊王にあっては近畿を二分する豪族の、継体にあっては西日本に君臨すべき応神の末裔として『ただひとつの血族』が選ばれたのでは。それが列島規模で実現したときが「天皇の誕生」ではないか、と。

記紀は、「勝ち残った者が帝王」の天智・天武から『皇位』を過去に遡及したもので、あたかも初めから列島の規模で『ただひとつだけの氏族』であったかの如くに装いながら、その実体は各氏族の盛衰記をつなぎ合わせたものと理解しています。ですから、ある歴史時点で天皇制が萌芽し次の歴史段階で発展・定着したというような捕え方ではなく、民族の中に内包し続けた規律のようなものと考えています。庄屋さんの「家」は代々庄屋さんの家です。

「皇位の簒奪」とか「二朝並立」などの表現は、日本の社会に重層・偏在する「ただひとつの家」を中心に階層集団化した氏族の記紀的表現と理解します。


Re: 皇位とは

投稿者:Kawa 投稿日:2003/08/19(火) 00:03:03

そうですね。
論点を整理しましょう。
たしかに、「脱線」気味ですね。

そもそものはじめは、宮津さんの
「古事記の干支は信用できる」
という議論に私がいわば「食いついた」のでした。

今後、議論は枝分かれすることになるかもしれません。
まず、第一に、「古事記の干支は信用できる」とする宮津さんの見解について。
要するに、「系図はウソだ」とか「説話はウソだ」とかといってしまえば、どんな史料状況も、いわばどうにでもなってしまうものです。
その際、よくある説明である、「これこれの系図は『皇位』の正当性を主張する為の作為」という説を私は批判したのでした。
つまり、その説明は疑わしいと、私は言いたかったわけです。

そういうわけで、「皇位」とは、という議論に移っていくことになります。

>記紀は、「勝ち残った者が帝王」の天智・天武から『皇位』を過去に遡及したもので、あたかも初めから列島の規模で『ただひとつだけの氏族』であったかの如くに装いながら、その実体は各氏族の盛衰記をつなぎ合わせたものと理解しています。

一見、もっともな理解のようですが、やはり、腑に落ちない点があります。
それはやはり「武烈と継体の間」です。
もし、おっしゃるとおりなら、天智・天武は、武烈の系統ではなく、はじめから継体の系統を語ればよいのでは無いでしょうか。
ですが、これを語るには、かなり多くの検討を要することが考えられます。
私の今考えていることは、すぐには伝わりにくいものなのかもしれません。
いずれ、改めて(独り言か何かで)論じさせていただきます。


Re: 皇位とは

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/19(火) 21:49:24

丁寧なご返事をいただきありがとうございます。

> 私の今考えていることは、すぐには伝わりにくいものなのかもしれません。

確かに真意をつかみかねています。申し訳ありません。
いわば結論(史実はこうだった)が先にあってそこへ誘導するように読めば、記紀はその期待に応えてくれます。けれども書いてある通りに読めないのも事実です。古事記は裁判の証言のようなもので「自己に都合の悪いことは書かないが虚偽も述べない」ように思います。ある意味で律儀さがあると。記紀を貫く「天皇家の血筋や支配の正統性を主張する」建前を剥いでその奥に隠された史実を探るという視点は必要だと思いますが。

貴殿の考えはいずれ聞かせていただくとして一点だけ。

> 天智・天武は、武烈の系統ではなく、はじめから継体の系統を語ればよいのでは無いでしょうか。

それが語れないからです。小生も筋立てて明確に解っている訳ではありません(おぼろげなイメージ)が、成務などの近江朝(山代・東海・北陸を含む旧師木勢の朝廷)と五百木入日子や仁徳などの河内(難波・のちの和泉)勢との確執が当時の近畿を二分し、それに倭建や応神・蘇我などの九州勢力が絡んでいると見ます。忍熊王(近江朝)は破れ近畿の覇者は仁徳に移ります。それを繋ぐのがあの特異な応神記です。それから五世代経ち継体によって戻ります(これを繋ぐのがヲケオケの説話)が、その間逼塞です。古事記は常に勝者の歴史です(「天皇」は負けるわけにいかないでしょう)から語れないのです。凡牟都和希王から継体まで勝者としてウソを捏造しないのです。

記の記述どおりとして清寧と武烈の系統(仁徳王朝系)が消滅した(手白髪郎女などは別にして)ため近江系のエース継体に繋ぎ変えたと見ます。継体でなくても近畿の覇者なら誰でもよいのです。まだまだ近畿で「大王になれる家は、ただひとつだけ」という段階には至っていません。やはり蘇我(九州王朝の近畿地方長官?)を暗殺後に近畿(天皇家)は独立してのち、いわゆる「皇位が萌芽する」のでは。論証抜きの床屋談義のようで恐縮ですが、このように考えています。あまりにも古代史の常識に叛くのでしょうか。


Re: 皇位とは

投稿者:Kawa 投稿日:2003/08/20(水) 00:02:07

>貴殿の考えはいずれ聞かせていただくとして一点だけ。

いずれ詳細に論じたいと思っていますが、ちょうど、そのよいきっかけとなるようなご意見をいただきましたので、議題提案だけ。

宮津さんの説明は、それほど常軌を逸しているとは見えません。むしろ、穏当な理解といってもよいのかもしれません。
ですが、この説明は、「皇位」もしくは「大王」を「近畿の覇者」と呼び変えただけでは無いでしょうか。
或いは、このように問うこともできます。

「近畿の覇者」になれる家は、ただひとつだけ。というルールが存在したということであれば、(それが何と呼ばれていようと)「天皇制」の萌芽です。

>あまりにも古代史の常識に叛くのでしょうか。

いいえ。むしろ私が古代史の常識に叛き、疑問を投げかけているのです。
詳しくは、いずれ論じさせていただきたいと思います。


Re: 皇位とは

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/21(木) 11:48:54

ありがとうございました。もう少し考えてみます。

しつこいようですが最後にもうひとこと。「大王になれる家は、ただひとつだけ」という意味は一氏族による排他的な独占とともに「世襲で永続することが約束(期待)されている」ことも含むのではないでしょうか。ですが、覇者とは群雄割拠する諸国王がひとりの王を大王と認めて盟約することであり、その選ばれる大王は武力や同盟の結果によって流動するものであって、血筋や家柄によって決まるものではないと思いますが。

忍熊王のとき成務側の近江朝勢力は破れたのであって近畿の覇者を盟約する資格も喪失していた。つまり仁徳は、河内(除く北部)と大和また吉備(日向も含むか)によって覇者として認められたのであって、「成務と同じ家だったから」ということは系譜上からもありえません。そして継体が、河内北部のちの攝津・葛野と山代を糾合して(近江・北陸・東海を背景に、は当然)仁徳後継の衰微に合わせて大王(大公王)として浮上したのではないでしょうか。

ですからこの歴史時点で「皇位の簒奪」とか「応神の末裔うんぬん」という論争は七世紀からの視点であって、話としては興味を持たせますが、皇国史観に囚われていると言っても過言ではないと思います。天皇制の確立は八世紀であって、天皇大帝とか太極や伊勢神宮などの大仕掛けのマジックに乗っていると。

天皇は古代史そのものですから今後とも勉強したいと思います。『宮津(さん)の説明は、それほど常軌を逸しているとは見えません』との戴いた言葉に勇気を持って、(おおそれながら)なんとか自分の古代史を掴みたいと必死です。では、また。


Re: 皇位とは

投稿者:Kawa 投稿日:2003/08/23(土) 14:53:36

なんだかんだ言って、議論を続けてしまいますが(^^)
>覇者とは群雄割拠する諸国王がひとりの王を大王と認めて盟約することであり、その選ばれる大王は武力や同盟の結果によって流動するものであって、血筋や家柄によって決まるものではないと思いますが。

そのとおりですね。一般論としては。
今、問題なのは、そのような「覇者」という用語を、記紀の説話に言うところの「天皇家」の歴史に対して、使うことが妥当なのか、ということだと思います。

要するに、「覇者」でも「大王」でも何でも、「応神記が実は二人の人物を接合して語っている」と言ったときに私が申し上げたような問題(必然性や実在・架空)をそのまま持ち続けている、といいたいのです。
だから、同じ質問をまたできる、と。
「継体は、武烈の後をついで『覇者』となったが、当時の「大臣」「大連」は、その資格が無かったようだ」と。

>或いは、このように問うこともできます。

>「近畿の覇者」になれる家は、ただひとつだけ。というルールが存在したということであれば、(それが何と呼ばれていようと)「天皇制」の萌芽です。

とは、そういうことを言おうとしています。


「ハツクニシラス考」考

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/22(金) 15:26:54

話題になっているようなので再度「ハツクニシラス考」を読ませていただきました。説得力ある素晴らしい論文で目からウロコが4,5枚落ちました。そこで感想をひとこと。

神武を天皇家の始祖とし崇神を建国者とされたのは卓見だと思います。これで動かないでしょうね。ただ『始祖』という言葉の持つ意味は、『天皇家の始祖』と限定されても一般的にはやはり天皇家の始祖といえば天照大神を想定します。それと佐藤さんも指摘されているように『始祖の根源を訪ねると、その先は無いというピリオド宣言ですから(卵生も同じ)』、葺不合命という人から生まれた人間神武には違和感がつきまといます。始祖というなら神武はやはり神から化生しなくては落ち着きません。これが素直な感想です。

以前掲示板で『始祖』と聞いたとき当惑したのもまさにこの点でした。いらんことを言うようですが、たとえば『開祖』とかこれに類する言葉はどうでしょうか。

『始祖』で連想しましたが、記紀に採録された諸氏族の中には始祖伝説を持つものもあったのでは。たとえば物部の邇芸速日命(天磐船に乗りてイカルガ峰<遠賀川上流か>に天下ります)とか、あるいは神功が住吉の神と秘儀を行って誉田別が生まれたとかです。神武を穂穂出見に繋げたのは先行の九州王朝を無視できなかったためと、「神武(天皇家)は自前の『始祖伝説』を持たなかった」からではないかとさえ思えます。『始祖伝説』がなければ記紀は意味をなしませんからね。その可能性はありませんか。


Re: 「ハツクニシラス考」考

投稿者:Kawa 投稿日:2003/08/23(土) 13:59:52

「始祖」について・・・
これもまた、「深い」テーマですね。
この用語については、何より、記紀自身の使い分けを参考にしておきます。
およそ、「氏族のはじめの祖」を始祖、「それより以前の遠い祖」を遠祖と使い分けています。
だから、清和源氏の始祖は、源経基であり、遠祖は、神武天皇である、というような言い方が出来るのだろうと思います。
ですから、「天照大神」は「遠祖」ということになるでしょう。

まぁ、私の中での区別としては、「天照大神」は「天皇家」ではない。神武天皇は「天皇家」である、という区別なのです。
その境目を「始祖」という言葉で表現しています。
同じことを意味できるのであれば、私はそれを「開祖」と呼んでも何でもかまいませんが、「開祖」だと宗教集団をイメージしやすいですね。

もし『始祖の根源を訪ねると、その先は無いというピリオド宣言ですから(卵生も同じ)』とお考えでしたら、それは、記紀の用語法とも異なりますし、先の「源氏の始祖」という概念も成立しませんし、現在なら「始祖を語るならサルまで遡る」必要があるといわざるを得ないでしょう。
「卵生神話」や「降臨神話」の類は、先ほどの「区切り」を示すひとつの形式であって、「親は人であってはならない」ことが「始祖」の条件とは違うと思います。
神武の場合「東征説話」という「始祖伝説」を持つと言えます。
(伝説を何も持たない氏族のほうが多いかもしれません)
有名な「王仁」や「弓月君」の渡来伝承も、「始祖伝説」のひとつといっていいでしょう。
そのように考えます。


Re: 「ハツクニシラス考」考

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/24(日) 00:06:39

う〜ん、そうですね。小生は「天皇は神の子孫である」という記紀の主張にハマってました。『始祖』という言語うんぬん以前の記紀に対する姿勢の問題でした。^^;

『皇位とは』の方もご返事いただきありがとうございます。どうも腑に落ちませんのでまた勉強します。ではまた、よろしく。


Re: 「ハツクニシラス考」考

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/25(月) 11:04:01

>「天照大神」は「天皇家」ではない。

M8クラスのショックです。記紀の主張や権力者の野望を挫く科学としての歴史の冷徹さを思います。自分もそれを目指しながら見事立証されると目がくらみます。(人間が古い)

古田氏は新しい征服地を統治する「所知初国」の崇神天皇としたのは、説話の山代国の建波爾安王との戦いを想定されていますが少し無理があるように思えます。平和外交を進め国内が平らだったから生産も上がり民が豊かになったから徴税した、との治世との矛盾があります。戦い自体も「丸邇臣の祖、日子国夫玖命」が建波爾安王の山代を征服した話であり、進軍路も古田氏と逆で、丹波(中心は茨木市か)から祝園へです(書紀は修正している)。祝園は山代の首都の様相です。西に神南備山、東には例の椿井大塚古墳があります。木津川が直角に曲がり広い(電車で30分くらい)沖積平野をひかえます。山代の範囲は垂仁記に相楽(祝園を含む相楽郡)から乙訓(京都府乙訓郡)までとあり、説話と符合します。

つまり崇神は「初国(初めての統治地域)」を手に入れていないのです。旦波から山代を征服したのは国夫玖です。説話上からも古田説は成り立ちません。援護射撃のつもり(^o^)

この国夫玖も一種の天皇であり近畿において磯城の崇神(またはその前後)と並立しているのであって、このような権力構造を『皇位とは』で力説しています(しつこいです)。

古田氏は銅矛圏と銅鐸圏の対立の先端として捉えたため、その牙城たる東奈良遺跡を侵略せざるを得ず、崇神・垂仁記の戦いをそれと解釈した、というところでしょう。小生は淀川の北側にいた勢力は北九州または出雲系ではないか、これが大和盆地の勢力と綾をなすのではと思っています。


皇位

投稿者:Kawa 投稿日:2003/08/24(日) 15:33:19

今、話題の件ですが、本日(8.24)の独り言に私の意見を書いて見ました。
まとまった、とは、とても言えないものですが、ご参考までに。


Re: 皇位

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/25(月) 14:58:43

拝見しました。(小生にはちょっと難しいですが)

まず、『皇位』という言葉の問題です。八世紀に天皇制が確立したという定説に従えばそれ以前の皇位は過去に遡及させたものであり、事実上厳密には皇位ではない。皇位というのは記紀の建前に過ぎないから適当な言葉に置きかえるべきだ、という解釈をしていました。

ところが貴殿は「応神には系譜の造作がある」という小生の発言の文脈の流れの中で、それを言うなら皇位について整理をすべきだと指摘されました。その皇位とは記紀に記載された歴代天皇の皇位についてのようです。

これでひとつ解りました。


Re: 皇位

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/25(月) 15:49:43

記紀が編纂されるときにはすでに歴代天皇の系譜(帝記)があったと言われますが、その皇統譜は天皇家がさらに過去から語り部などが家系の事実を引き継いだものなのでしょうか。例えそうだとしてその過去が崇神朝から連綿として続いたのでしょうか。本当に血筋の事実を記録して皇位としたと言うのでしょうか。
というのもそう遠くない過去に、例えば文書化する段階で作られたということはないのでしょうか。偽作するという意志ではなくて天皇家を飾りたいという当時の善意で。

どの家系でも栄華盛衰はつきもの(俗に金持ち三代貧乏七代なんて)、分家が栄えて本家は枯れるとか、子供がなくて断絶したかまたは養子で繋いだとか、天皇家もこの自然の流れから逃れはできないでしょう。天皇家だけがこの人の世の流れを免れたという万世一系(皇国史観用語の)は虚構ではないか、つまり皇位にはウソがあるのでは、と考えます。

以上の二点(伝承できない・落ち目や衰亡のときがある)から皇位は造作されたもので、それなら史実としての皇統はどうなっていたのだろう、それが解ればそれこそ真実だ、と考える訳です。ですから造作の方向は、近畿に興亡する氏族(一定の地域を統治した)を繋ぎ合わせたものと考えます。非学問的な論調で恐縮ですが、小生の素朴な疑問なのです。


Re: 皇位

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/25(月) 18:02:53

何度も読みなおしてみて。

>事実は異なります。それは、つまり、血縁関係以外の、実際の何らかの「機能」がそこにあり、それを「継承する」という形式が必要だったことを意味します。つまり、「皇位」は、事後的に、彼らの親に対して与えられたものでは、必ずしも無く、彼らを「天皇」たらしめる、何かを継承したと、周囲が認めていたことを示すのです。

う〜ん、これは『>「天照大神」は「天皇家」ではない』に匹敵する衝撃です。崇神から皇位は存在したという意味ですか。う〜ん、絶句。


Re: 皇位

投稿者:Kawa 投稿日:2003/08/25(月) 22:01:36

「真の皇統」とは、いったい、何でしょう。

>事実は異なります。それは、つまり、血縁関係以外の、実際の何らかの「機能」がそこにあり、それを「継承する」という形式が必要だったことを意味します。

ここで言っている「機能」とは、必ずしも神聖不可侵の権力のことではありません。そのことを十分ご注意いただきたいと思います。

私が、「皇位」という語をあえて用いるのは、
>衝撃です。
とおっしゃるように、この問題の持つ、より重要な問題を隠蔽しないための、「戦略的な」意味があります。

何度も言います。
「真の皇統」「史実としての皇統」とは、いったい、何なのでしょうか。
それを「問題」とすること自体が「天皇家中心主義」に呑込まれているのだ、と私は言いたいのです。

ふむ、やはり、まとまりませんね(苦笑)。


Re: 皇位

投稿者:Kawa 投稿日:2003/08/25(月) 23:31:44

宮津さん、
宮津さんの論点に従って、申し上げましょう。

>ですから造作の方向は、近畿に興亡する氏族(一定の地域を統治した)を繋ぎ合わせたものと考えます。

この場合、私の言い方に沿えば、
「皇位とは、近畿に興亡する氏族(一定の地域を統治した)を繋ぎ合わせたものである」
ということになります。

それで、何の問題があるのでしょうか。
それを「ウソ」として、「別の系譜を追い求める」のはなぜでしょうか。
「別の系譜」とは、何でしょうか。
「真の系譜」とは、何でしょうか。

そういうことを私は問題にしています。


Re: 皇位

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/26(火) 11:47:19

言わんとされることは大体解ります。「皇位」に拘ってないでもっと古代史の本質的なことにエネルギーを使いましょう、って意味ですかね。理解はできます。(反省も込めて)

小生にとって記紀は「怨念の書物」です(古田氏ほどではありませんが)。クールに研究の対象とできない部分があります。「『万世一系』でガンガンやられたがなんだ造作したものじゃないか」としたい欲求が無意識に潜在します。津田左右吉氏を克服できない部分です。今回の論点や学問とは関係の無い話ですが。

記紀とは、天武が
 >実際の権力を持っているように見えない、と見なされるや・・
 >そして、新たに「天皇にふさわしい人物」を探してきて
帝紀を作り稗田阿礼に誦習させた、と疑うわけです。

垂仁記の印色入日子は鳥取宮に坐し河上部を定め、大后比婆須比賣は石祝部を定め御陵がある。大碓も部を定め坂手池を作る。日子坐王には豊富な系図があり神功を含む。山代国を攻め建波爾安王を殺した日子国夫玖は英雄王である。倭建は間違いなく天皇である。仁徳朝の複線に市辺天皇・飯豊天皇ラインがあり、宇治天皇もある。大友天皇などの問題もある。

それはそれだけの話かも知れませんが、これが上の心理と結びついたとき俄然真剣に情熱を持って妄想 ?にとり憑かれます。確かに言われるように皇統図が華麗で実力が備わった見事な家系でないのも事実。
 >「天皇」と名づけられた人物が実はただの平凡な人物でしかないかもしれない。という事実を過不足無く受け入れなければなりません。
仁徳ラインなど陰は薄いは、宿禰の姓を持つ允恭はいるは、とうとう清寧で絶えてしまうなど決して誇れるものではありませんね。

造作すると言ってもウソを捏造するのではなく、歴史的事実の解釈で組替えるほどの意味です。仁徳→履中→反正→允恭→安康→雄略→清寧のラインと、仁徳→履中→市辺→飯豊→顕宗→仁賢のラインのどちらを皇統とするか選択する、くらいのことです。これで皇統の相対性が確認されるだけでも溜飲が下がります。

ちょっと古代史研究の本筋から外れました。冷静に科学としての歴史を考えます。


Re: 皇位

投稿者:Kawa 投稿日:2003/08/29(金) 00:55:58

ふむ。

>仁徳→履中→反正→允恭→安康→雄略→清寧のラインと、仁徳→履中→市辺→飯豊→顕宗→仁賢のラインのどちらを皇統とするか選択する、くらいのことです。

「選択する」余地はない、というのが、私の意見ではあります。
何の為に、何を「選択する」のでしょう。

かなり、私の主張も「天皇家中心主義批判」(それも直接の)に偏った嫌いはありますが、その「ライン」において、重視されていることは何なのか。
そういう点が、「皇位」や「国家」や「大王」や「権力」というものを見るうえで、大事なのだと思います。


国家の発生

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/30(土) 21:48:41

勝手ながら新しいスレッドにさせていただきました。

>「選択する」余地はない、というのが、私の意見ではあります。何の為に、何を「選択する」のでしょう。

記紀編纂の目的のためですが。歴史的事実の客観的な編纂ではなく、断片的な歴史的事実(と確信していることを含む)を利用して国家の存立と権力の正当化を図り、民族意識を醸成することです。

と言いながら、「国家」とはなんでしょう。小生はマルクスの国家論をかじったくらいで全く知識を持ち合わせていません。日本に国家が確立されたと言えるのはいつでしょう。邪馬台国?、崇神の建国?、あるいは?。近代の国家につながる初期の段階として律令国家(大宝律令の発布)の成立をもって日本の国家の確立と思っていますが。九州王朝を国家とみなせる段階はもっと早いでしょうが日本の一部における権力の確立であって、日本のそれではない。大和中心主義ではなく九州・西日本・関東の権力が統合されたときが日本の国家の意味です。さすがそれ以前を無国家段階とは思っていませんが。

例えば崇神の段階で国家があり、その国家の意志としての「皇位」があったとはとても思えないんですが。

皇位を巡る論争の空回りはどうもこの当りに原因があるようです。小生の知識不足で迷惑かけているのかも (>_<)


Re: 国家の発生

投稿者:Kawa 投稿日:2003/08/30(土) 22:30:12

>>「選択する」余地はない、というのが、私の意見ではあります。何の為に、何を「選択する」のでしょう。
>記紀編纂の目的のためですが。

このあたりに「混乱」の原因があります。

私にとって、「天皇」とは、「記紀が天皇と呼んだもの」のことであって、それ以上でも以下でもありません。
ですから、記紀の言う「天皇の系譜」「皇統」が一通りである以上、「皇統」は一つしかないのです。
問題は、それが、実際の権力の系譜と一致するのか、という問題です。
・・・一致しません。

ですから、「記紀に言う天皇」が何らかの「権力の座」と関係していなければならないとは微塵も思っていません。
たとえ、実際の「彼」が、何の変哲も無い一農民であろうとも、記紀が天皇と呼べば天皇なのです。

この認識に立つ時、古代史において「系譜の造作」まで持ち出して、「天皇」を或いは「皇統」を何らかの権力と、結び付けようとすることが、いったい、何を意味するのか。

九州王朝説に立つ時、古事記の中の全ての天皇は、「倭王」ではありません。(書紀の場合、「天智」「天武」「持統」は議論のあるところでしょう)
全ての天皇は中国の言う「東夷の王」ではなかった。
この事実を直視すべきです。

近畿の王者という地位さえ、「天皇」の周りを巡っていた必然性は無いのです。
ですから、記紀の与り知らぬところで、近畿の王者は権力をほしいままにしていたのかもしれません。
そういう可能性を顧慮せずに、記紀の「天皇」の系譜をいじれば、近畿の王者を見出せる、とすることが、「皇位」問題に潜む重要な問題なのです。
(もちろん、彼らが一度も権力を持たなかったとは思いません。むしろ、有力者ではあったでしょう)

私の認識も、かなり「深化」しました。
宮津さんのおかげですね。感謝します。

今は、そのように考えています。


Re: 国家の発生

投稿者:Kawa 投稿日:2003/08/30(土) 23:10:40

補足しておきます。

・・・ですから、私は「皇位」と「国家」を結びつける必要性を感じません。
崇神や、応神、継体の「継承したもの」は、おそらく、一言ではいえません。
それぞれ、時代により遷移が考えられます。
たとえば、タギシミミが「継承できなかったもの」は、神武という「侵略者」(あるいは、「将軍」「総督」のようなものかもしれませんし、あるいは、「賊の頭目」かもしれません。もっと言えば、単なる「神武の跡取り」でしかないかもしれません)の立場でしょう。彼は、所謂「ありふれた後継者争い」に敗れたのです。

継体までくると、一定の「支配領域」を持った勢力の「後継者」でしょう。
その際、武烈の遠い親戚に当る、という自らの出自を利用したのかもしれませんし、それなしには「継承不能」だったのかもしれませんが、それは、わかりません。
ただし、この時点で、「近畿の王者」という地位は、まったくの他人の手に渡っても、何の問題もありません。

強調しておきます。ここで言っているのは、あくまで「皇位」の変遷であって、近畿の、あるいは日本の「国家」や「権力」の歴史ではない、ということです。


Re: 国家の発生

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/31(日) 23:03:39

貴殿の認識を理解したいと一所懸命なのですが、どうもよく解りません。

いまさらですが、『天位に即きて・・乾符を握りて六合に統べ』、徳は周王を超えると比喩される天武が『王化の鴻基なり』として、自ら定め後世につたえようと趣旨で編纂されたのが記ですね。唐や新羅に対して国威を示した日本書紀です。いわば国家の意志で組織的に作られたものです。

とすれば執筆の主観的立場やそれ相応の体裁を整えるのは必定。「吾妻鏡」「信長公記」や「神皇正統記」などと同じ性格を持ちます。記紀もそれを免れないでしょう。

歴史的事実(あるいはその時点で歴史的事実と思われる事が)が上の観点から好ましくない場合はそれ相応の措置をとるのでは。無視とか矮小化、誇大化などです。つまり史的真実が歪曲化され、極端な場合は作られた(造作)部分もあるのでは。

貴殿も当然ご承知のことを失礼ながら再確認させてください。(脳ミソが過熱気味ハハハ)

> 記紀の与り知らぬところで、近畿の王者は権力をほしいままにしていたのかもしれません。

その近畿の王者(記紀上の天皇ではない)を記紀の中から炙り出し、この国の権力の史的あり様を解明することが目標なのでは。天皇家を超え祖国日本(古いな)の歴史を。古田氏の九州王朝説に圧倒的な支持があるのはまさにこの点なのでは。天皇家の歴史だけが日本の歴史ではないんだ、多元史観と言われるようにもっと動的なものなんだ、と。まあ天皇家は一般の家系とは違いますから、それを研究するのもそれはそれで意義はあると思いますが。(続く)


Re: 国家の発生

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/08/31(日) 23:04:55

> 「皇位」を問題にする場合、「事後的に」記紀が正統と認めたものを「天皇」と称したのであって、その「天皇」の実態は、無関係なのだ、という議論をよく耳にします。

これに惹かれます。小生の拙文「山代の戦い」もこうした観点から書きました。大和(墨坂から大坂まで)建国の天皇と言われた崇神以前に、それこそ崇神の与り知らぬところで(和邇臣大毘古の娘を娶っているから全然知らなかったかどうか)、和邇氏が今の摂津から山代は確実、或いは近江・北陸・若狭も連合していたかも知れない、これが「三世紀初めころ、九州が邪馬台国のときの近畿の歴史だ」、ということです。このように古代全史に亘って見渡すこと、これが夢です。

小生はこのように考えますが、貴殿の認識と異なるのでしょうか。
申し訳ないですがもう一度ご教示ください。

-----------------

> 九州王朝説に立つ時、古事記の中の全ての天皇は、「倭王」ではありません。(書紀の場合、「天智」「天武」「持統」は議論のあるところでしょう)全ての天皇は中国の言う「東夷の王」ではなかった。この事実を直視すべきです。

承知しています。「崇神は倭国の子会社の社長じゃないか」と思っています。本社の改革(小国の建国と連合の方針)に伴って終身派遣されたのではと。


Re: 国家の発生

投稿者:Kawa 投稿日:2003/08/31(日) 23:57:08

ふむ。

この議論の中で、ひとつ、ハッキリしたことがあります。

>>「選択する」余地はない、というのが、私の意見ではあります。何の為に、何を「選択する」のでしょう。
>記紀編纂の目的のためですが。

>歴史的事実(あるいはその時点で歴史的事実と思われる事が)が上の観点から好ましくない場合はそれ相応の措置をとるのでは。無視とか矮小化、誇大化などです。

などなど。
そのことは、私も承知してはいます。
ですが、「私が問題にしていることは、そのことではない」のです。
私が論じているのは「記紀の編纂姿勢」のことではない。
現代の古代史論者の「姿勢」を問うているのです。
「系譜の造作」説を掲げるのは、あくまで「現代の古代史論者」なのです。
記紀編者ではない。
ここに「混乱の原因」があるのです。

「記紀には、造作がある」
それは、一面では正しいでしょう。
ですが、それを掲げたのは、現代の古代史論者なのです。
(だからといって、「記紀が正しい」=皇国史観という、単純な議論ではありません)
その「現代の古代史論者の姿勢」を問題にしているのです。

個々の議論においては、私と宮津さんの間に決定的な差異があるとは思っていません。
ですが、(それならばなおさら)どうして「系譜の造作」を想定せねばならないのか。
そういうことを問題にしているのです。


Re: 国家の発生

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/09/01(月) 21:47:50

う〜ん、少し解る気がします。

「(戦後史学は)津田博士の記紀批判を継承した『造作』説の立場である。そこでは記紀の神話や説話は史実に非らず、六〜八世紀の近畿天皇家の史官による『造作物』、そのように見なした。」(古田氏著「日本列島の大王たち)

「『近畿天皇家の史官の 自由な造作物 』ー記紀神話と説話の性格を、根本においてこのように規定する戦後史学にとって・・」(同上)

古田氏は、戦後史学を象徴する神武架空説に対して、淡路島以西不戦問題・速吸の門・河内湖の存在などから神武東征のリアリティを引き出し、神武架空説を論破され造作説に疑問を呈された。小生が印象深く覚えているのは、「景行が日向に着たとき、『皇祖発祥の地に我れ至れり』と一句を造作することくらい、それこそ造作の無いことではないか。だが景行にその感動がないのは不審だ。」の文です。

貴殿が言われるのは、古田氏によって見事な論理で否定されたはずの「造作説の亡霊」が今だに徘徊している!、と。こういう事でしょうか。

そうですね。全くその通りだと思います。いったん造作説に陥ると「悲しむべき独断とあらゆる可能性を想定せざるを得ない無限地獄」に迷うことになります。小生も極楽往生かなわず火炎地獄に落ちることウン年間。貴殿の教示を得て「そうなんだ」と古田氏の著作いらい再自覚していたんですが、つい誘惑に負けてしまいました(面白いため)。古事記割注記載の仲哀没年364年の信頼性証明のため出した「複数の応神天皇」説を取り下げます。(幸いインターネットにはアップしてません) 応神記は不自然で理解できませんからまだ粘りますがね。(続く)


Re: 国家の発生

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/09/01(月) 21:51:58

『近畿天皇家の史官の 自由な造作物 』なら創作と変らないです。小生は史官が頭の中からひねり出した(創作した)とは思っていません、特に古事記は。記録されているような歴史的事実はあっただろうと確信しています。ただし、書いてあるそのままではない、編纂の目的のためになんらかの造作の手が及んでいる、とこれも確信です。特に太安磨呂氏は律儀に元の史料のまま採録していると思えるフシがあるからです。

では「皇位」は造作されているか、否か、が先般来の分かれ道。貴殿の言われるように

> 記紀の言う「天皇の系譜」「皇統」が一通りである以上、「皇統」は一つしかないのです。

熱が醒めてみると、ごく当たり前のことを言っておられるのが解ります。その上で

>> (記紀編纂の目的は) 私も承知してはいます。
> 「記紀には、造作がある」それは、一面では正しいでしょう。

これは間違いないのですから自信を持って追求します。つまり、

>どうして「系譜の造作」を想定せねばならないのか。

あらかじめ『「系譜の造作」を想定』して記紀を読むのではなく、記紀の文章の検証の中から真実を見出すようにします。ただその結果、系譜を含めて造作があればそれは仕方のないこと、それは史官の造作ですから。『現代の古代史論者』としては。貴殿の教示を得て、このような『現代の古代史論者(おこがましいですが)』の立場から「山代の戦い」は書いたつもりです。結論的には系譜にも、開化の功績を崇神のそれとしたなどの造作を指摘することになりましたが、真剣に分析した結果ですから、たとえ造作説を非難されても止むを得ません。一切造作はない立場では誤りを冒しますから。

お蔭様で『皇位』を考えることで飛躍的に進んだようです。ありがとうございます。今は「行方不明の崇神を『御真木入日子はや、御真木入日子はや・・』」と夢の中で追っています。あけぼののあの崇神は幻か、ウツシミか。ハハハ


皇統はなぜ続いたか

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/09/02(火) 10:30:09

釈迦に説法になりますが、ちょっと聞いてください。

皇統は皇統だけが続いた訳ではなく、戦前まではどこの家系でも続いていました。素封家や名門家から一般庶民の家まで家系を繋ぐことに一緒懸命でした。小生の母は養子・養女の婚姻により先代から相続した家の娘でした。(いやいや名門じゃありませんよ。ただの庶民です。)この家を基礎にして封建社会は成り立っていました。家はいまの核家族のようなものではなく、一族郎党が集まって構成していました。

ここでは世代交代は世襲が当然ですが、子ができないとか亡くなったとかで相続できないときは傍系の子や遠縁の子、それもかなわぬときはもらい子で養子縁組をしました。つまり世襲より家系の存続の方が優先されたのです。家系を繋ぐことは絶対でした。制度などではなく社会を規範づける常識のようなものです。

それは生産財・生産手段の相続と言う実利もありましたが、絶対的に規定していたのは先祖の祭祀です。日本に仏教が入ったときに日本古来の先祖崇拝の考え方が浸透して仏教の方が変質しました。(本来仏教には先祖の祭祀は含まれません)

日本人の血肉ともなっていた家系の継続と先祖崇拝が天皇制を維持したのです。日本全体をひとつの家とした精神的なつながりです。こうゆう精神風土がいつ醸成され根付いたのかは解りません。

ですから、開化と崇神に血の繋がりがなくても開化から崇神へ繋ぐのだと言う意志があれば統は繋がっているのです。ましてや開化の兄の娘(御真津比賣)を娶っているのですからなおさらです。例えそれが丸邇家の系譜であっても丸邇家の方で考元(国玖琉)と開化(大毘毘)を天皇家へ養子にやったとの自覚があれば、崇神までの三代は完全に家系は繋がっています。

系譜に造作があるというのは、きれいに親から実子へ相続されたものではなく、家系をつなぐための操作(そのために当時の関係者は努力もし少なからず犠牲もあったでしょう)がある、ということです。いわばアンチ万世一系の立場です。

そうまでして天皇家を存続させようとしたのは先祖崇拝ですから、天照大神の祭祀こそ最優先されるのだと思います。


Re: 皇統はなぜ続いたか

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/09/02(火) 11:09:57

(追加)
相続の意志、養子にやる承諾は目に見えません。そのため儀式を伴います。それがあの壮大な古墳を背景とした相続の儀礼なのではないでしょうか。天皇家の場合「即位儀礼」です。地方豪族でも一般の家でも威儀を正し、礼服を着て豪華(見たこともない)な食事で、いわゆる「ハレの日」として村の長など招いて盛大にお披露目しますね。こうしてはじめて皆に認められ、天皇(家長)として動ける(特権の行使)ことになります。

そのためには、家が確立されていて、かつ先祖の象徴としての氏神を持つことです。天皇家の場合天照大神は問題ないとして、家が確立されたのはどの時点だろうか、と思います。天照大神の直系ではなさそうですから、いわゆる分家(宣言)したのはいつだろうか、です。神武ではなさそうですが。


Re: 皇統はなぜ続いたか

投稿者:Kawa 投稿日:2003/09/03(水) 01:33:29

…ふーむ。

おっしゃっていること(家系と世襲の関係について)は、よくわかります。
それはそれとして…。

>ですから、開化と崇神に血の繋がりがなくても開化から崇神へ繋ぐのだと言う意志があれば統は繋がっているのです。

これは、私の目には、どうしても、「開化と崇神は親子であっては困る」と言っているようにしか聞こえないのです。

>いわばアンチ万世一系の立場です。

例えば、継体や、その他多くの兄弟継承など。
それを挙げれば十分では無いですか。
なぜ、(記紀では親子だといっているのにも拘らず)開化と崇神の関係を絶たねばならないのでしょう。

もともと、「親子だけ」とか、そういう系譜ではありません。
(普通に)兄弟で継承したり、遠縁の親戚を引っ張ってきたり、ということが行われている(と、記紀自身が明言している)系譜です。
それをことさら否定しなければならない(つまり、「造作」説です)理由は何なのか。
これを、再三にわたって問題視しているのです。
「皇位の正当化」などという理由がいかに疑わしい説明か、ということを言おうとしています。

>天皇家の場合天照大神は問題ないとして、家が確立されたのはどの時点だろうか、と思います。

記紀が「神武から『天皇家』は始まった」と言っているのですから、それでいいのでは無いですか。
それではいけない理由は何なのか。
それをじっくり見つめなおす必要があるのでは無いでしょうか、と私は言いたい。

記紀を単に「ウソ」呼ばわりすれば「天皇家中心主義」を免れるのではないのです。
私の見たところでは、古代史の常識の中に深く根ざした問題だと思います。
慎重な検討を要するでしょう。


Re: 皇統はなぜ続いたか

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/09/03(水) 23:56:09

そうですか。
小生は古田氏の言われる「万世一系の毒」に骨髄まで侵されているのかも知れません。

> 記紀が「神武から『天皇家』は始まった」と言っているのですから、それでいいのでは無いですか。

そうです、天皇家は神武から始まったんです。ただそのとき列島はどうなんだろう、近畿はどんな状態だったのか、と思いは記紀を超えた方向に膨らむものですから。

う〜ん、「記紀の言うところが歴史的事実であるとは限らない」と思いますけど。気長にご教示いただきありがとうございました。「皇位について」を最初から読み直してみます。


Re: 皇統はなぜ続いたか

投稿者:Kawa 投稿日:2003/09/05(金) 00:25:34

>う〜ん、「記紀の言うところが歴史的事実であるとは限らない」と思いますけど。

まさにそのとおりです。
「記紀の言うところ」は、「天皇家の歴史」であって、「日本史」ではない、ということなのです。
これを肝に銘じておかなければならないのだと思います。


Re: 皇統はなぜ続いたか

投稿者:宮津徳也 投稿日:2003/09/05(金) 23:44:47

河西さん、ありがとう。

古田氏の「盗まれた神話」にも「皇系造作説への疑い」という章があり、こちらも読み直しております。

> 「記紀の言うところ」は、「天皇家の歴史」であって、「日本史」ではない、ということなのです。

そうですね。全くその通りなんです、よく分かるんですが・・。結局本当に分かってないんですね。

今の北朝鮮と同じような不幸な時代でした。戦後を生きてきても、いわゆる民主教育を受けてきても、いつの間にか染み込んだ「皇国史観」がきっちり整理できてないのでしょう。科学としての歴史を語る資格はないのかも知れません。でも、だから余計に関心を抱きます。本当の歴史はどうだったんだと。

記紀から日本の歴史を探るには限界があるということでしょう。う〜ん難しいですね。何卒今後ともご教示のほどお願いします。


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