Home | 古代史の論点 | 九州王朝とは | 1.魏志倭人伝 | 2.漢委奴国王 | 3.倭の五王 | 4.日出処天子 | 5.倭と日本 | 6.連鎖の論理


1.魏志倭人伝

1-1.「短里論」

魏志倭人伝の中で最も重要な位置を占め、最も軽視されてきたもの、それは「里程」である。

「郡より倭に至るには…」で始まり、「南、邪馬壹国に至る、女王の都する所」に至るまで、方角と里程を順次示している。『三国志』において、このような記載は他にない。このような実態をもつ魏志倭人伝の「里程」記事が、これまで軽視されてきたのは、「魏志倭人伝の規定記事には誇張がある」と従来言われてきた為だ。

なぜか。それは、魏志倭人伝に見える「里程値」が、われわれの通常知る「里」単位では、あまりに距離が長過ぎる為である。魏志倭人伝には、帯方郡治から倭国の首都までの距離が、「万二千里」とある。これは、われわれの常識的な里(漢の「里」なら一里=約435メートル)で言えば、5220キロであり、とても日本列島には収まらない(記述どおりに主に南へ進路をとった場合)。この為に、「倭人伝の里程は信用できぬ」と従来言われてきた。一方では、「方角」が信用できぬと言われてきたのである(南を東に改定し、近畿を目指す論者)。

しかし、「魏志」に記載されている「里」を詳細に検討してみると、以下のことが言える。

通例、魏志倭人伝の里程には約5倍の誇張がある、とされているが、ちょうど、韓伝の記述も同じ「里」単位で書かれていると見なせる。ここで、以下のことが注目される。

  1. 韓地は、漢代においてすでに漢の四郡の置かれた土地であり、陳寿の時代(魏→晋)においても、周知の土地である。ここに、5倍もの誇張を書くべきところではない。
  2. 韓地の北境は帯方郡と接している。すなわち、韓地の北境=中国直轄領の南境といえる。中国自身の直轄領に対して5倍もの誇張を書くべきいわれはない。
  3. 倭人伝において、「郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を歴るに、乍ち南し乍ち東し、其の北岸狗邪韓国に至る、七千余里」の記述は、帯方郡治を起点とするから、「帯方郡治→韓国」を含む表現である。したがって、この七千余里も、「中国国内と韓国」ともに同じ「里」単位で示したものと見なさなくてはならない。
  4. 同様に、「郡より女王国に至る、万二千余里」も、「帯方郡→韓国」「韓地内」を含むから、ともに同じ「里」単位で示したと見なさざるを得ない。
  5. 魏志全体の「里」単位を抽出すると、すべて(その実距離が判明するもの)、韓伝、倭人伝のそれと同一の「里」単位であると見なせる。

以上のことから、「魏志」においては、「漢の里」の約5〜6分の1の「里」単位を使用してたことがわかる。「短里」である。朝鮮半島の東西幅(300〜360キロ)=四千里であるから、この「短里」は一里=75〜90メートルである。また、倭人伝において、壱岐に当たることが確実視されている「一大国」の面積が「方三百里」としているから、一里は75メートルに近い値であると考えられる。この短里は、「魏志」のほか、「江表伝」「魏略」「海賦」等の魏晋朝の文献にも認められ、魏晋朝において使用されていた、「里」単位であることは疑いない。また、「周髀算経」の研究(谷本茂氏)により、この「短里」が周代に用いられた「里」単位と一致することがわかっている。秦・漢において廃止された「短里」が魏晋朝において復活したものと考えられる(魏晋朝の「復古主義」)。

以上によって、魏志倭人伝における「里程値」が決して誇張などでなく、当時用いられた「短里」による「実定値」であることが判明する。

1-2.「里程論」

さて、上述のように、魏志倭人伝に示された「里程」が真実であれば、ここに示された「里程」記事を追って行けば、おのずから、邪馬壹国の所在に辿りつくはずである。

倭人伝には二つの「里程」が存在する。一は、帯方郡治から倭国の首都に至る間の各「区間里程」である。二は、同じ距離の「総里程」である。したがって当然、「区間里程の総和は総里程」である。

では、その両者(区間里程と総里程)を挙げよう。

A)区間里程

  1. 七千余里  帯方郡治→狗邪韓国
  2. 千余里   狗邪韓国→対海国
  3. 方四百余里 対海国の面積
  4. 千余里   対海国→一大国
  5. 方三百里  一大国の面積
  6. 千余里   一大国→末盧国
  7. 五百余里  末盧国→伊都国
  8. 百里    伊都国→奴国(傍線行程)
  9. 百里    伊都国→不弥国

B)総里程

  1. 一万二千余里 帯方郡治→女王国

C)日程

  1. 水行二十日 不弥国→投馬国(傍線行程)
  2. 水行十日・陸行一月 帯方郡治→女王の都する所

さて、まずC)の「日程」は、「区間里程」には含まれない(従来、C-(2)を投馬国→邪馬壹国の「里程」とする)。しかし、当然ながら、この記事は日程を示すものであり、「里程」ではない。「総里程」が判明している以上、「区間里程」の一部を「日程」で示すことなど通常考えられぬ。これは自明の道理である。

さて、「三国志」の用法を検証すると、以下のことがわかる。「至」の用法である。

a)進行を示す先行動詞(「行」など)+「至」

行きて曲阿に至る。呉志三

諸軍数道並行して漢中に至る。魏志二十八

これが通常の形である。

b)(先行動詞なし)「至」

東、海に至り、西、河に至り、南、穆陵に至り、北、無棣に至る。魏志一

このような場合、一つの基点をもとに、そこからの位置付けを示している。(四至)以上のような「至」の用法をかんがみるとき、A-(8)の記事は、b)の用例であることがわかる。

東南、奴国に至る、百里。魏志倭人伝

つまり、この(8)の記事は、基点である「伊都国」からの「奴国」の位置付けを示しているものであり、「帯方郡治→邪馬壹国の主線行路」ではないのである。(C-(1)の「投馬国」も同様に「傍線行路」)図示すると、以下のようである。

帯方郡治→狗邪韓国→対海国→一大国→末盧国→伊都国(傍線行程、奴国)→不弥国(傍線行程、投馬国)→邪馬壹国

以上によって、その区間里程を計算してみると、(1)(2)(4)(6)(7)(9)の合計は一万六百里。B)の一万二千里には、千四百里足りない。ここで、(3)と(5)が注目される。これは従来、面積であるから「里程」に含まぬ、と見なされてきたものである。以下の図を参照。

<図>半周読法とは「島を半周するように二辺を通過する」と見なして計算する方法である。

上図の(1)は、従来の読み方だ。また、(3)は、この二島があくまで経過地である事を考えれば、妥当ではない。(2)のように計算した場合、対海国の半周=八百里、一大国の半周=六百里であり、計千四百里である。これを先の一万六百里と合わせて、ちょうど一万二千里となる。

ここで「区間里程の総和が総里程」となったわけである。

以上の結果は次の結論を導く。「不弥国=邪馬壹国の玄関」である。以上を踏まえると、下図のように邪馬壹国の所在は明らかとなる。

<図>邪馬壹国の位置は、不弥国(博多湾岸)のすぐ目と鼻の先である。

すなわち、倭国の女王・卑弥呼が都していた領域とは、「博多湾岸」である。(「不弥国」の位置は従来からほぼ諸説一致していた)

1-3.「物証論」

魏志倭人伝において、倭国の情報として登場する「物」が考古学上の出土状況と、どう一致するのか、を検証する。

「宮室・楼観……常に人有り、兵を持して守衛す」
「兵には矛・楯・木弓を用う」魏志倭人伝

この「矛」は、当然「銅矛」が中心であろう。(「石矛」「鉄矛」であったとしても、弥生時代の「矛」分布は、「銅矛」のそれと相違ないはずである)以下の表を参照。(古田武彦『古代は輝いていた1-「風土記」にいた卑弥呼』をもとにかわにし作成)

- 細矛 中細矛 中広矛 広矛 細戈 中細戈 中広戈 広戈 細剣 備考
<大分>豊前(宇佐市等) - - 7 6 - - 20 - 1 -
<大分>豊後(大分市等) - - 5 32 3 - 11 - 中細剣4 戈か剣鋳型1
<熊本> - 7 5 4 - 3 8 1 1 -
<宮崎> - - - - - - 1 - - -
<鹿児島> - - 1 - - - - - - -
<福岡>筑前(博多湾岸等) 20 1 24(鋳型1) 56(鋳型11) 9 - 126(鋳型4) 2(鋳型4) 25(鋳型1) 戈鋳型片等7
<福岡>筑後(八女市等) 3 - - 43 - - 13 - 6 -
<佐賀>唐津(東松浦郡) 11 - - 3 6 - - 1 13 -
<佐賀>その他(佐賀市等) - - 1 8 2 2(鋳型1) 1(鋳型1) - 6 -
<長崎>対馬 2 - 7 87 - - 1 - 5 -
<長崎>壱岐 2 - - 3 - - - - 3 -
<長崎>その他(島原市・諫早市) 4 - - - - - - - 4 -

明らかに九州の中でも福岡県(博多湾岸)が「矛」の中心地である。

倭人伝には中国の天子から卑弥呼へ下賜された絹・錦、卑弥呼や壹与から中国の天子への上献した錦の記事が多くある。これらの記載からすれば、倭国の首都には、中国製・倭国製の絹が多く出土するはずである。絹の出土地は立岩遺跡・春日市門田遺跡・須久岡本遺跡・肥前南高来郡三会村遺跡に限られており、それはまさに「博多湾岸」領域である。(最近、近畿からも絹の出土が確認された。しかし、出土状況の大勢に影響はない―かわにし注)

勾玉

倭人伝によれば、倭は中国に勾玉(勾珠)を献上している。

「白珠五千孔・青大勾珠二枚…貢す」

これによれば、献上されたのは青く大きな勾玉であった。「ガラスの勾玉の鋳型」の出土例をみれば、「博多湾岸」領域が最もふさわしい。

さて、いわゆる「三角縁神獣鏡」は、「邪馬台国」論争の中心を担ってきた。しかし、「三角縁神獣鏡」が、上述の「矛」「絹」「勾玉」「鉄」(後述)と共通の出土範囲を持たぬゆえ、いまや、「三角縁神獣鏡」が倭人伝の「鏡」ではないことは明らかである。かわって、「矛」「絹」「勾玉」「鉄」と共通の出土領域を持つ「鏡」は「漢式鏡」である。加えて、「三角縁神獣鏡」は、中国からは出土していないから、国産(国内産)である。さらに、「三角縁神獣鏡」は、弥生遺跡からは出土しないから、弥生時代の産物ではない。弥生時代の遺跡から出土するのは、主に「漢式鏡」だから、倭人伝の「鏡」は「漢式鏡」と見なすほかない。そしてこの「漢式鏡」は、九割が福岡県(さらにその九割が「筑前中域」(糸島・博多湾岸・朝倉)から出土している。この領域こそが、倭国の首都圏である。

a)

木弓は下を短く上を長くし、竹箭は或は鉄鏃、或は骨鏃なり

b)

国に鉄を出す。韓・[シ歳]・倭、皆従いて之を取る。諸市買、皆鉄を用う。中国に銭を用うるが如し。又以って二郡に供給す。魏志、韓伝

a)は国産の消耗品である。b)は注目すべきだ。朝鮮半島から日本列島にかけて、「鉄」は「貨幣」として通用していたのである。いずれにしても、「鉄」は卑弥呼の国にとって重要な存在だった。この「鉄器」の出土数は「福岡県106」に対し「奈良県0」。この事実からも倭国の首都のありかは明らかである。

a)

其の死には棺あるも槨無く、土を封じて冢を作る

b)

卑弥呼死するを以って、大いに冢を作る。径百余歩

卑弥呼の墓の形状と大きさは、文面から明らかである。形状は、「円墳」。「径」というのは、「円のさしわたし」を意味する述語だからだ。まかりまちがっても、「前方後円墳」ではない。大きさは、「一里=三百歩」であるから、1里=75メートル(短里)とすれば、1歩=25センチである。したがって、卑弥呼の墓は、「百余歩(130歩〜140歩)=30〜35メートル」となる。このような規模の墓(円墳)は、弥生墓としてまことにふさわしいものである。巨大な前方後円墳は、まったくその資格がない。

以上の出土事実が、倭国の首都=博多湾岸の命題を支持しているのである。


Home | 古代史の論点 | 九州王朝とは | 1.魏志倭人伝 | 2.漢委奴国王 | 3.倭の五王 | 4.日出処天子 | 5.倭と日本 | 6.連鎖の論理


This is Historical. Japanese only.
Author: KAWANISHI Yoshihiro
Created: April 22, 2001
Revision: $Id: whatskyuusyuu.htm,v 1.4 2006/11/26 11:26:46 yokawa Exp $

Valid XHTML 1.1! Valid CSS!