5月23日更新
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このページは、
(1)クエスト21における英語学習、教育に関して、役にたつこと、改善点など新情報を伝え、生徒さんと意見を交換する。
(2)より広く、皆さんにクエスト21の今の様子をお知らせすること。(だから固有名詞、写真無しです)
(2)英語学習に限らず、生徒の皆さんが、役にたつこと、関心がありそうなことを掲載し、教室でのレッスンを補うこと。
これらの3つを目的ととしています。
以上の目的の背景にある考えは、<インタネットはとても役に立つが、それだけでは不十分、週一回だけのレッスンだけでも不十分。そこでこの二つを補い合おう>、ということです。
■お知らせ■
●今週の学習のページ再開!。更新:H24 3月13日
具体的な英語学習に関することは「今週の学習」ページへどうぞ。
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■5月23日
法律の悪文を改善する
--- 欧米語と日本語の修飾関係について---
以下は、「財政健全化責任法」という法律の第2条です。
「財政の健全化は、(中略)国及び地方公共団体の財政が極めて危機的状況にあることを踏まえ、国民生活の安定化及び経済の持続的成長を図りつつ、(中略)国及び地方公共団体の責任ある財政運営を確保し、(中略)将来に渉り安定的に運営することが可能な社会保障制度の構築等を図るために必要な財源の安定的な確保に向けて消費税を含む税制の抜本的な改革に関する措置(中略)を講じ、持続可能な財政構造を確立するために行われるものとする」
最後まで読み通せましたか。実際はもっと長いのですが、悪文と言われる日本の法律の典型だと
思います(産経新聞5月23日から孫引き)。
ここで、なぜこのように読みにくい文になったかを考えて見ます。おそらく、表現に曖昧さを残さないということを考えたからでしょう。法律はいったんできると、何十年も場合によっては何百年も効力を持ちます。作った人は死んでしまいますから責任を取れません。それだけに、慎重の上にも慎重を重ねて文を練るわけです。
しかし、それなら他国の法律も同じではないかということになります。例えば、フランスの民法典は名文として、文章のお手本とされています。その原因は二つ考えられると思いますが、ここではそのうち1つを扱ってみましょう。
一つは、日本では、法律というものが公のものであるという発想が乏しかったということ。組織内の規則などと違って、法律というものはあらゆる人に開かれた存在として権威を持ちます。この場合、あらゆる人とは、ときに日本人を越えます。言い換えると、公であるものは「誰にも見られている」ということです。「公」は、英語のpublicなどの訳と古くある「公」が混ざってできた概念だと思いますが、publicという概念は、ギリシャ時代に「誰にも見られている」と同じ意味として発生しました(ハンナ・アーレント)。ですから、法律という公的な文章はヨーロッパでは、昔から誰にも分るということを目指す伝統がありました。たしかに、どの国でも、ほって置けば法律はどんどん細かくなり、分りにくくなります。しかし、欧州ではそれを引き止める伝統があったということです。どうも日本にはその伝統は移植されなかったと思われます。
もう一つは、もっと技術的な問題ですが、限定修飾が欧文では後方で行えるのに対し、日本語では前で行わなければならないという事情です。
さらに、権威主義、秘匿願望などもあるかもしれません。
ここでは、二つめの問題に限定して見てみたいと思います。一つ目の原則、「誰にでも分る」ということを目指して、修飾関係をなるべく整理し、どれだけ分りやすくなるかどうか試みてみましょう。
「財政の健全化の目的は、持続可能な財政構造を確立することに他ならない。その必要は、国及び地方公共団体の財政が極めて危機的状況にあることにより生じたと考える。手段は、税制の根本的な改革に関する措置を講じることによる。そこには消費税の改革も含まれる。実施過程においては、3点、つまり、@国民生活の安定化及び経済の持続的成長を図ること、A国及び地方公共団体の責任ある財政運営を確保すること、B将来に渉り安定的に運営することが可能な社会保障制度の構築等を図ることを目指す。」
どうでしょう。仮の案ですが、句点で文を分けても、限定修飾を曖昧にしないでも済むように思います。それとも、法律の文は、ワンセンテンスで表わす必要があるのでしょうか。
(それぞれの箇所の改変した理由は細かくなるので、省略します。)
■5月22日
ケーキ作りと英語
今、小学生が一人、英語の勉強に来ています。お母さんに何気なく「どのケーキが好きなの」と訊いて、母の日のプレゼントにガトーショコラを作ることにしました。
給食着もりりしく、いつもの勉強を早めに切り上げ、フローチャートで工程を予習。みな英語です。
急遽、18センチホールを一つから二つに計画を変更。分量を間違いなく二倍にして(英語で)、ovenに入れました。焼いている間は、パソコンのキーボードの練習。うまく焼けるか、私はその間キッチンと教室の間を行ったり来たり。焼きあがりました。時間はぎりぎり。後の生徒さんも来ているし、お母さんは自動車でお出迎えです。いそいで茶漉しで粉砂糖を振りかけると、ほとんどデパートで売っているのと変わらず。いそいで、お母さんと帰りました。
その後、お母さんからメイル。つい涙ぐんでしまいました、とか。
これだけで終わりません。次回は、フローチャートを見て反省会。私が砂糖の入れ方を間違えたことが判明しました。次に原価計算。cost calculationも英語です。概数(round number)で計算して、3倍+消費税。1,700円で売れることが分りました。
「後の3分の2はぜんぶ、儲け?、違いますね。」「また別の税金、ガス代、電気代、人件費などなど」。「税金はどうなるでしょう?。」「まず防衛と警察の費用。これでが安心して流通させることが可能になりますね。」などなど、小学生の勉強はどんどん広がります。
今度は父の日にプリン作りだそうです。「何のプリンですか?」「カスタードです。」「ちょっと難しいですね。」
■5月22日
書名の品格
ひところ「〜の品格」という名前の本がベストセラーになりましたが、「品格」とは何を意味するのでしょう。定義はできなくても、これは品格がある、これは品格がない、というとなんとなく分った気がします。
ある[品格本」には、「行きつけの店を持つこと」を品格の条件に挙げてありますが、それを読んで、著者は品格ということが分っているのかな、などと、皮肉な判断もしていまいそうになるほどに、「品格」がなんだか分っている気がします。ちなみに、「行きつけの店を持つ」のは品格とは無関係なスノッバリーが原因である場合もありますしね。
ところで、とくに本の名前に著しく品格にかける、と感じられるものが多いと思うのですが、皆さんはどう思われますか。最近、『絶対外れないねじ』という本を出した方が、その書名にするかどうか悩まれたと言う記事を読みました。「絶対に」とか、「誰でも分る」とか、「紅茶きのこで癌がみるみる消えた」とか、あるいは、「なぜ○○は英語を1年でマスターしたか」などと、○○が英語を1年でマスターしていることが世間の評判になっていて、書名を見た人がそれを知らないのが遅れているのだ、と思わせるような書名は、見るだけで恥ずかしくなります。
『絶対外れないねじ』の著者については、この記事を読んで、「著者は品格を失っていないのだな」、「出版社が張本人だな」と分りました。概して、編集者が、売れなくなることの恐怖感と、みんながやっているからだいじょうぶ、という感情でこうした題を著者に押し付けて、著者もお金の力に恥じの感情を失って、こうなるのだと思います。「先生!、ぜひこの本を多くの方に読んでもらいたいのです!」とか言われるのでしょうか。
英語関連の本、英会話学校の広告にこの種のものがとくにめだつように思います。なぜでしょう。私だったら、こういう題を見ただけで目をそむけますが。こういう本を好んで買う人が多いのでしょうか。
この課題も、さらに考察を深めたいと思います。
閑話休題。昨年から化学や放射能の本を買って勉強しましたが、表紙など、ほとんどのものが品格を欠いています。醜いと思うデザインも多いです。私が熟読している武田邦彦さんの本でさえ、ほとんどのものは、表紙と宣伝はいただけません。そのなかで、誠文堂新光社の『放射線の基礎』(正しい名前は違うかもしれません)は、表紙を見ただけで買ってしまった本です。白い表紙にオレンジと青の文字。表表紙の真ん中に少女が胸を手を当てて前を向いています。じっさい、本の内容もなかなかよいものでした。
■5月22日
ときどき、メイルなどに教材の押し付けがましい宣伝が紛れ込んで来ます。「○○大学との共同で動機付け理論」がどうのこうのと。
前から、どうも「動機」とか「動機付け」、「モティヴェーション」、「やる気」などという言葉にぼんやりとした疑いを抱いておりました。
いかにも学問めかした用語ですが、ようするに「ロバのにんじん」ではないか、「ナチスの洗脳」と同じではないか、という疑問です。
「動機付け」を言う人は、概して、ゲームのようなことを考えているようですが、ゲームというのは、それが虚構であるという前提で楽しめるものです。虚構いうのは、一方の「現実」に対して、「緊張と緩和」の関係にあるということです。
たしかに、劣等感のようなトラウマ状況にある人に対する治療という意味では、私も「動機付け」の意味をある程度認めないわけではないです。しかし、「動機付け」という言葉を発したとたんに、ゲームが虚構であるというのと同じように、「動機付け」の裏に、隠れた別の動機があるのだよ、という気持ちを人に抱かせてしまいます。金儲けであるとか。
人間が言語を用いるということは、「動機づけ」などという言葉では表わせない深い「動機」が存在していると思います。理解する場合でも、理解させる場合でも、です。
それは、現実の問題にとりくむという言葉で表わせることではないでしょうか。
(まだ分らん、という声が聞えてまいります。また考察を進めたいと思います。
■5月12日
前回、URLをコピーしておいた、東大理学部のトム・ガリーさんのページは、とてもよいと思いますので、ページのトップのURLをコピーしておきましょう。
http://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/story/newsletter/english/
タイトルは「科学英語を考える」ですが、「科学」に限らず意味のあることを書いておられます。
内容的には、「今週の学習」の方で触れることですが、とりあえず、ここで紹介しておきましょう。
現在、1章から11章まで、進んでいますが、とくに、1章から6章までで、英語において、「相手が知っている(と思われる)こと」」と「相手が知っていないと(思われる)こと」の区別が、大事であることを論じています。
いわゆる「新情報」と「旧情報」です。大阪の中川信雄さんの本など、英語の先生も最近このことについて触れている場合が多いのですが、ガリーさんのページはまとめて論じている点に意味があります。 「新情報」と「旧情報」の区別は、英語を書く際、知らないと一歩も前へ踏み出せないほど重要なことなのですが、まだ全く無視している人も多いです。「今週の学習」でも扱う必要があると思います。
一部の人だけが読む本でなく、一般向きの雑誌や本で、日本語と英語の違いについて論じる、英語を母国語とする人が増えてきました。昔から有名なのは、ピーターセン、それに辞書学者のバーナード、そして、私が一番favoriteな、ミントンがいます。これにガリーさんも加わります。
■5月10日
英語・日本語間のコミュニケーション・ギャップ 3題
英語を、たとえば、「試験のため」というのではなく、情報伝達のための手段という元来の目的とに戻って考えてみると、正確に伝えるという姿勢が欠けているためにいろいろな問題が起きていることが多いのに気がつきます。
ここでは、3点、最近気がついたことを記しておきましょう。3点目は日本語の方に力点があります。
今日の新聞に、拉致被害者家族の会の方が、米国のキャンベル国務次官補に会った時、離婚時の子供連れ去りの際の親権問題を持ち出され、不快感を示したと報道されていました。キャンベルの発言は、「子の連れ去り」問題に関するハーグ条約に日本が未加盟のため、日米間の連れ去り問題が多いことに基づいています。
事柄の本質は言語の問題ではないのですが、英語では、「連れ去り」も「拉致」も同じくabductionで表わされることも少しは関係しているでしょう。明白な誤解でないとしても、このような小さなずれが、問題を引き起こすきっかけになることもあります。
では、どうしたらよいか。一端、問題が起きる前に対処するのが外交的な知恵でしょう。この場合、会合が開かれたら、最初に発言を求めて、abductionという語を取り上げ、親権問題と国家による拉致問題は性質が違うとことを「釘刺」しておくべきだと思います。
責任ある立場にある人は、英語が「話せなくても」英語について知っておかなければならないと、私はよく述べているのですが、この件はその一例だと言えるでしょう。
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ベテラン音楽評論家の方が、英語での失敗談を、「穴があったら地球の裏側まで行ってしまう」と、ラジオ番組で言っていました。
訳詞をしたとき、time to killを「殺す時」と訳してしまったそうです。「閑な時」という意味です。kill time =「閑を潰す」から来ています。瞳のことをappleと言うことがありますが、「目に入れても痛くない」という意味もあります。そこで、前の意味で訳すべきところを後の意味で訳してしまいました。単なる客観的表現なのに思い入れが強くなってしまった例です(。米空軍の将校夫妻を家庭でもてなしたとき、「普段どうしているのですか」という質問に対し、「ぶらぶらしています」と答えるために"stick around"という代わりに、"○○ck around"と答えてしまい、相手が「凍りついた」そうです。
ここから、何か教訓を汲み取れるでしょうか。英語の表現と日本語の表現を一対一で対応させることが英語の学習だと思ってはならない、ということになるでしょうか。外国語を学習する際、他に手段がないときは、「一対一の対応関係」から入っていきます。「apple =りんご」、のように。解体新書の杉田玄白や、ジョン万次郎などは、みなそうして外国語を学び始めたのですね。
しかし、「一対一」から、「前後関係」に注意の的を移していくことは、早い方がよいです。小さいことで言えば、「apple = りんご」という関係から、「kill → time」の流れだと、killは「殺す」ではなく、「ツブス」になるという関係に注意を移していくということです。「この場ではこうは言わない」、「こういったら、答えはこうだ」という関心も同じです。こうした注意の転換には、相手の言うこと、書いていること、前後の文脈、状況にに注意を傾ける必要があります。
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3つめは日本国憲法です。前文に、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という部分があります。
この文の「平和を愛する諸国民」ですが、「平和を愛する」というのは制限的なのか、非制限的なのか、英語に訳した場合どう理解されているのでしょう。つまり、この世界に、「平和を愛する国民」と「平和を愛さない国民」がいることを前提して、片方の「平和を愛する国民」の公正と信義に信頼しているのか、それとも、世界の「国民」全てが「平和を愛する」と言っているのか、です。
後者だとしたら、大変「お人よし」ということになるかもしれません。実際、「諸」という表現を使うことにより、「平和を愛する」のが全世界の国民だというニュアンスが強まるように思います。
もっとも、「国連中心主義」をレトリカルに言っただけであまり意味がないのだという意見も聞えそうです。どんな条約でも「公正と信義を信頼する」のは暗黙の前提なのですから。
ところで、この憲法の公式の英文(訳?)はどうなっているのでしょうか。
we have determined to preserve our security and existence, trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.
英語でも、関係詞を使わず、日本語と同じように修飾する部分が名詞の前にあります。peace-lovingの部分ですね。英語においても、名詞の前に修飾が来ると、制限か非制限かの区別はつきません。the peace-loving Japaneseと言った場合、どちらの意味にとりますか?。また、the ---- ofで挟んでも、なかなか分りにくいです。the dangerous nuclear reactors of Russiaの意味は?。英語には「諸」にあたる単語はありませんが、the ---- ofに対応するのか…。
専門家はどう言うか知りませんが、こうした疑問を普通の人に抱かせるというだけで、この憲法の日本語は、かつて福田恒存さんが指摘したように、悪文の謗りを受けても仕方ないかもしれません。そして、英語訳(?)も。
参考:関係詞の制限、非制限については、以下で、トム・ガリーさんという方がしっかり説明しています。
「新情報」と「旧情報」の区別に触れている点が優れています。これは、英語の文法の大原則でありながら、日本の英語教育でおろそかにされている点です。「今週の学習」で扱いたい点です。
http://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/story/newsletter/english/05.html
■5月1日
新学期のあたふたを演じている間に、5月になってしまいました。また、会員のページと学習のページを書き加えなければなりません。
今、最大の問題は、新しいnaeive speakerを選ぶこと。来ていただく方には、つぎの3つのお願いをします。
(1) 母国語である英語を当たり前と思わず、分析して、他の国の人に分るようにすることに関心のあること。
(2) 米国務省が言っているそうですが、英語と最もかけ離れた言語の一つである日本語と英語を繋ぐことに関心のあること。
(3) コミュニケーションをするためのスキルを教えながら身につけ、将来のキャリアに役立てようという気持ちのあること。
これらが基本的条件です。けっして、英語を日本で努力無しにお金を得る手段だと思ってい人には来てもらいたくないですねえ。
さて、ゴールデンウイークにサイトの全面書き換えができるといいのですが。
その前に、英語の話題ではないのですが、最近感じたことを、簡単に記しておきましょう。
先日、クエスト21に来る途中、品川駅で、おじいさんらしき人に手を引かれている5、6歳の子が、くらげのいる小さな水族館を指差して、見せてとせがんでいました。その姿を見ながら100メーターぐらい歩くと、テレビ局のカメラが来ていて、誰か「セレブ」みたいな人に、大人たちが群がっていました。
子供の好奇心と大人の好奇心を比べて、どちらが、健全か、高尚か、建設的か、品があるか、と問うてみれば、結論は明らかなように思います。私は決して、「子供はinnocentだ」とか「かわいいと」とか思う人間ではないのですが、大人になるに従って成長するどころか、退化するのではないか、と思うことは多いです。小学生を教えるようになった大きな理由のひとつです。
■3月15日
英語が聴き取れるということ(2)
予測について
■3月13日
英語を学ぶ意味、ということ
私事にわたりますが、ここのところ、中学レベルの化学の復習をしました。もうそろそろ高校受験はパスできそうです。そうしたら高校レベルへ移ります。
書店では、「やり直しの学習」シリーズがたくさん出ています。(私自身も玉大ではそういう名前の社会人向けの英語講座を担当していますが。)そこで、辻堂にできた巨大モールの書店で、中学の化学のやり直し本を買ってみました。冒頭からの展開をみて、日本の化学教育、あるいは科学教育の特徴が現われていると思いました。
最初の数ページを費やして、ビーカーや試験管など道具の使い方に費やしているのです。「大工入門」なら、それでよいと思いますが、化学の入り口はこれでいいの?、という疑問を持ちました。化学という学問は物質の本質の追求ではないでしょうか。この入り方だと、習う側をミスリードする可能性があるのではいかと思います。つまり、化学を一種の「術」のようにみなしているという印象です。
しかし、日本における化学の意味ということを考えてみると、なるほどなと、思うようになりました。つまり、明治以降、日本には、早く火薬を作らなくっちゃ、石鹸も、繊維もという動機で、あわてて化学を学習したという経緯があります。その観点から見ると、物質の本質の追求というより、最短距離で製品を作る「術」を化学だと思うようになったと考えられます。それが、さらに、中学や高校の学習過程にも影響を及ぼしている、のではないでしょうか。
明治時代の古いことが今にも影響を及ぼしているのだろうか、という疑問も沸くでしょう。しかし、私がそのように仮定したのは、英語教育とパラレルだと思うからです。英語教育も、ともかく、エリートが欧米の学問も文献を読みこなさなければ、というところからスタートしました。そのため、英語を読むことに偏った教育が主流だったのですが、その流れは今でも続いています。英語でも100年以上前からの伝統が続いているのですから、学科の他の分野でも同じようなことが起きているのではないかと思っていもよいと思います。
そして、化学を参照することで、ある教科を学ぶ意味が歴史に影響を受けているということが、英語に限ったことではなく、他の分野でも起きていて、英語教育は、その一つではないかという示唆を受けました。物理など、他の教科の教え方などについても検証してみたいところです。
おまけ:
「術」ということに関し、欧米にも「錬金術」があったではないか、と言われそうです。しかし、「錬金術」というのは日本語です。錬金術と訳されたものは、英語では、alchemy。化学はchmistry。alはアラビア語の定冠詞です。化学とは、「錬金術」を表わすアラビア語から、定冠詞が取れただけです。科学革命を経るという断絶はありますが、少なくとも言葉としては連続性があるのですね。
ですから、非合法的な利殖を「錬金術」という比喩は日本語以外には通じないという事態も生じるわけです。
また、一方、英語のchemistryはどういう比喩で用いられるかというと、「相性」、「親和力」という訳に相当します。まだ、あまり調べていませんが、スタンダール、ゲーテあたりを当たってみる必要がありそうです。
■3月1日
英語が聴き取れる、ということ(1)
I thought you'd be hungry.
中学2年レベルの文章です。簡単なので、この文には何も問題がないと思う人が多いでしょう。
しかし、英国に長年滞在されていた方も含め、今のところだれも聴き取れません。あと、一人、TOEIC945をとった方に「試す」のが「楽しみです。(その結果は、今週の学習のページにあり。)
この文は、NHKの小学生向け英語講座『プレキソ』のアニメーション、「マイクロストーリー」の2月号に出てきたものです。
番組のこの部分は、完全に聴き取れることを目的にはしていません。大人といっしょにアニメーションを楽しいんでもらいたい、という意図の企画だと思います。しかし、このアニメは、アニメ自体が優れているという点に加え、基礎的な文型の繰り返し練習に適しているので、多くのクラスで、応用しています。
いままで、数名の方はことごとく、thoughtをfoundと取り違えました。たぶん他の日本人に訊いていも同じ間違いをすることが予想されます。つまり、この間違いには科学的な意味があるということですね。さらに言えば、リスニングの教材を作る際のヒントを与えてくれるかもしません。
上のパラグラフで述べた考えを踏まえて、これから何回かにわたり「英語が聴き取れる」ということはどういうことが考えてみたいと思います。三日坊主になるか、ならないか。
今回は、2点について触れておきます。
まず、I thought you'd be hungry.のなかのthoughtの聴き取りです。発音記号をパソコンで書けないので残念ですが、ここの"ough"の部分は、Cをひっくり返した形で表わすマーク+音を伸ばす記号(たいてい:)で表わします。あえて説明すれば、日本語のオとアの中間の音を長く発音する、というところでしょうか。
LとRの区別と同様、この音の聴き取りは日本人には難しい点です。
"au"のつづりは原則として、この音になります。becauseの"au"もおなじですが、becauseの場合、前後の子音によって間違えようがありません。しかし、thや、tのような弱い音に囲まれているthoughtの場合、とたんに分からなくなってしまいます。
聴き取れない理由の一つは明らかです。この音と、「オウ」とカタカナでなんとか表わせる二重母音の区別が、日本語では意味の区別には通じないからです。法廷、宮廷をしめす"court"と、洋服の"coat"もおなじ「コート」で現しますから。(どちらがどちらか分りますか?)
このような基本的な音の弁別能力は、生まれてから10ヶ月から12ヶ月のあいだにできるという学説がありますが、大人の我々としては、しっかり意識し、練習することからスタートしなければなりません。
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二つ目は、リスニングの能力は単一の能力でしょうか、という疑問です。
何かが聴き取れないという場合、単語を知らないからなのか、速いからなのか、省略があるからなのか、いろいろ原因がありますが、なにしろ「聴き取れない」といことは「分らない」わけですから、どれが原因か分りません。ひょっとしたら一つの原因を克服したらリスニングはマスターできるという気持ちが生まれるのも理解でできます。
しかし、上で述べたように日本語と英語の音韻(=意味の違いを生み出す発音)の違いもあるでしょうし、単語も知らなければ分るわけもないし、文法だってマスターしていなければ分らないでしょう。
そう考えると、リスニング能力は単一の能力か、複数の能力の組み合わせか、と考えたら、複数の能力の組み合わせと考えたほうがコモンセンス(基本に戻って考える態度)に合います。
ところが、一つの原因を克服したらマスターできるという気持ちに訴えて売る教材がとても目立ちます。「〜したら、英語が自然に理解できた」のような宣伝ですね。本当にそうなのでしょうか。買う前にコモンセンスを働かせてみたらどうでしょう。
でも、とても売れるのです。「だめもと」だと皆さん思いますから…。
付論:
1/3:リスニング能力が「組み合わせ」と言いましたが、例えば、A、B、C、の三つの能力があるとしたら、A+Bや、B+Cの二種類の組み合わせがあるとか、または別の組み合わせもあるという話ではないです。
何かが聴き取れるということは、A+B+Cの三つがみんな出来なければならない、ということです。発音も単語もです。つまり、三つとも「必要条件」です。三つの全てを「通過」しないと聴き取れません。ですからA、B、Cの3条件を「フィルター」と言っていいかもしれません。
2/3:「〜したら、英語が自然に理解できた」の「したら」は、「十分条件」ですね。英語ではas long asや、if + onlyで表わします。二つのHtwo(水素)と、一つのOtwo(酸素)を組み合わせると二つのHtwoO(
水)ができます。これは必要条件でもあるし十分条件も満たした末に水ができるということです。しかし、科学の世界ではなりたちますが、人間の世界ではなかなか「十分条件」はないです。でも十分条件は人間にとって大きな誘惑です。
3/3:じつは、それらの条件をうまく組み合わせ、その上で、thoughtに関して述べた日本人に共通する問題をじっく調べてかかれば、なかなか効果的な教材もできないでもないと私は思いますが、本屋さんにおいてある教材が、ちゃんとそういう点を研究して作ってあるかどうか、調べる必要があるでしょう。
■3月1日
何を書くか忘れました。Sorry。
■2月25日
少し長いです。
「数学力」の欠如と、言葉や倫理の問題
今日、TOEIC担当のI先生から、大学生の数学力の低下を示す新聞の記事について教わりました。
レッスン後、読んでみましたが、日本数学会の調査で、「平均」という概念を理解するための問題の正解率が少ないという記事でした。(私が読んだのは産経ですが、各紙で扱っているようです)
結論から申しますと、数学力が欠けているという以前に、正しく理解する、正しく伝えるという意志の弱さというものを感じました。やはり、言葉の問題が底に潜んでいるな、という思い、このコラムで扱うことにしました。
下の問題に見るように、この問題ができないのが、頭が悪いとか、論理的思考力が弱いというようには思えません。理解しようとする態度がいい加減、人に理解させようという気持ちが希薄、ということを感じました。知性より意志が欠けています。「何とかなるだろうという気持ち」と言ってもいいでしょうか。
なんとかなりません!。
間違えたら大変なことになってしまいます。そういう事態への想像力が欠けていると言ってもいいかもしれません。少なくとも、別に難しい問題では全くないのです。
では、正しく理解しよう、ちゃんと伝えようという気持ちは何が支えているのでしょう。試験に落ちるから…?。会社で首になるから…?。
これだけなら、「ゆとり教育」を止めて厳しくすればすむでしょう。でも、どうもそれだけではないような気がします。「ちゃんと理解することの大切さ」、「人に伝えることの大切さ」、つまり、「倫理」の問題であると思います。
数学の問題の背景には、言葉、そして、倫理の問題が潜んでいるのではないでしょうか。そこまで考えないと、このような問題の正解率の低下を食い止めることができないと思います。みなさん、どう思われるでしょう。
以下に、記事の要点を述べますので、考えてみてください。
問題:100人の平均身長を163.5だとすると、以下の三つの文のうち確実に正しいものに、○、そうでないものに×を付けよ。
○ 100人の身長を足すと、163.5 × 100 = 16,350になる。
× 身長が163.5より高い人と低い人がそれぞれ50人入る。
× 身長を10センチごとに区分けすると、160センチ以上で170センチ未満の人が一番多い。
「全項目で正解を選んだのは76.0%。国立S群(最難関国立大)は、94.8%。私立B、Cでは、半数が不正解だった」、そうです。
たぶん、間違う人はいままで、平均ということを考えなくても済む人生を歩んできたということも思いました。少なくとも、「頭」の問題ではないでしょう。
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もう1題、「偶数(even number)と奇数(odd number)を足すと、どうなるか。以下の選択肢から正しいものを選び、理由を述べよ」」という問題です。
(a) いつも必ず偶数になる。
(b) いつも必ず奇数になる。
(c) 奇数になることも偶数になるになることもある。
正解:(b)
「問題」は、理由づけの誤答例です。
記事によると、
「思いつく偶数と奇数をたしたら全て奇数だった」、と例を示して論証としたり、「偶数は2で割り切れ、奇数は2で割り切ると1余るから」と偶数・奇数の意味を反復したりするものがみられた。」
だそうです。う〜ん。どうもまじめに答えていないという感じです。それに、上の例はまれな例かもしれません。そこのところは、分りません。
数学会は、「受験対策でなく思考力を高めるよう指導してほしい」と訴えているそうですが、「思考力」とは何でしょう。「思考力を高めるよう指導する」とはどういうことでしょう。
私には、「思考力」というような「力」の問題ではなく、理解しよう、伝えようという「意志」の問題であるように思えます。皆さん、どう思われますか。
■2月23日
これからの、「中級」の学習
杉原さんが亡き後、ようやくクエスト21の新しい方針が定まってきました。あと、新しいnative speakerを迎えるだけ、そうすれば一段落です。
では、中級にとっての方針は?。それは「英語を通して学ぶ」です。な〜んだと言われるからもおられるでしょう。プレキソと同じではないかと。
そうです。ごもっとも、その通りです。
でも、これからは、英語により我が日本語を相対化し、より広い視点で世界で起きていること、世界での日本の位置を学ぶという姿勢、これこそ、英語力を高めるためにも一番大切であると思います。
たとえ、それがTOEIC対策だとしてもです。人は意味があるからこそ覚えられるのです。語学のための語学、または試験のための語学では苦しいだけではないですか!。
徐ゝにこの考えが理解されはじめているのでしょうか。土曜には、TOEIC945をとった方も来られています。最初、このスクールはレベルが低いではないですか、とこちらが訊いたのですが、ちゃんと分っておられたのですね、その方は。失礼いたしました。
2月の中級では、チョコレートから見えてくる深刻な世界の経済、鳥インフルエンザへの二つの矛盾する二つの態度、日本経済はそれほど悪くないという見解とそれに対する反論。このような課題を、レッスンで考えるきっかけを得る、これが中級のレッスンのスタイルになりましたね。nativeの時間では、記事を正確に理解し、パラグラフごとの要約の準備まで持って行く、そのあと、小見出しつけ、本格的サマリー、プレゼンへと進むという形が循環することになるでしょう。
さて、日本経済はそれほど悪くない、という見解、どういう根拠に基づくのでしょう。もっと踏み込んで、英語で明確に伝える段階へ進みました。
次回(土曜午後)は、クルーグマンの反論とそれに対する再反論です。じっくり読み込んで報告をお願いします。
NYT
http://www.nytimes.com/2012/01/08/opinion/sunday/the-true-story-of-japans-economic-success.html?pagewanted=all
BBC 動画
http://news.bbc.co.uk/2/hi/programmes/newsnight/9677271.stm
単に「へえ〜」という反応だけではだめ。何故そうなのか、問題点はどこにあるか、これを、英語という、共通語で考えることで、英語力が付いていきます!。
■2月23日
今回も英語とは無関係…
いまどきの小学生の試練
小学生が英語に勉強に来るとき、最初に言うことは、「ココは、挨拶とお行儀と言葉使いにうるさいよ!」です。
今日、たまたま床屋さんに行って来たのですが、髪を刈ってもらった後、「ありがとうございます」と挨拶をする人は少ないです。金という対価を払ったのだから余計なことをしない、という考えがあるからだ、と言ったらおかしいですか。(それとも職業的蔑視…?)
床屋さんは、髪を刈るという職務を果たしたので、それに対し挨拶はあるべきだと思うのですが、一対一の交換という近代の原理が広がると、それを人々はつい忘れてしまうのだと思います。自動販売機に挨拶をする人はいませんからね。人間の行動は習慣によって影響されますから、避けがたいものなのでしょうか。
大人はしょうがないとして、周りの行動は子供に影響します。街に出て何か買ったときなど、お金を出したのだから当然という態度で振舞うのを見ると、ちょっと見苦しいです。周りの大人の態度から伝染したのでしょう。
床屋さんは髪を刈るのが職務、お医者さんは病気を治すのが職務、先生は教えるのが職務、自衛官は国を護るのが職務。これらは代償のために行うのではないのは、昔から当然です。一方で、一対一の交換もこの世を回していくためには不可欠なものですから、両者の関係は難しいことです。
でも、そのことを考えないと、一対一の交換は簡単な理屈ですので、何故仕事をするかということを考える動機が少なくなってしまいます。
小学生には、職業が一対一の交換に基づくのではない、ということはしっかり教えていく必要があると思います。試験の成績がまだまだ人の将来に影響する日本では、「試験に通ったので自分には○○をする権利がある」のような感覚を持つ「エリート」が増えるとそれこそ大変です。これからの、少数精鋭の日本を支えていく人はなかなか育っていかないのではないか...などと思ったりします。
■2月22日
お金と教育 三回目 「入り合い」などについて
今回も三題話。論理的整合性はあまりありません。英語教育にもあまり関係ありません。
少々長いので、長いエッセイの倉庫へ移動しました。
★長いエッセイの倉庫
■2月14日
英語三題
野田首相が念頭の記者会見で、増税に関して、最後にこのように言ったそうです。
あの、ちょうど昨日、出身高校の同窓会があったのですが、その時に手紙をもらいまして。世界史の授業を受けていたときの記憶があるかどうかと。それは、先の大戦の時のウィンストン・チャーチルの言葉。モスト フェーマス シックスワーズを覚えているかと。先生が教えてくれた言葉。忘れていましたけれども。それは、ネバー・ネバー・ネバー・ネバーギブアップ。私は大義のあることをあきらめないで、しっかりと伝えていくならば、局面は変わるというふうに確信をしています。
ところが、チャーチルが1941年に述べたのは、この通りです。
"Never give in― never, never, never, never, in nothing great or small, large or petty, never give in except to convictions of honour and good sense. Never yield to force; never yield to the apparently overwhelming might of the enemy."
「ギヴイン」でしたね。give upだと、「放り出す」という感じ。give inだと「屈しない」でしょうか。ちょっと違うようですね。
以下のサイトなどで聴くことができます。
http://www.youtube.com/watch?v=L90BCEVH41U&feature=related
それ以上の感想は遠慮しましょう。
二つめは、少し前のこと。1985年のプラザ合意の英文と和文でニュアンスの違いがあったという記事がありました(朝日2012/1/28)。
宮沢が鋭く気付いたのが、共同声明の英語と日本語訳での、日本の財政政策のニュアンスの違いだった。「財政出動に英文では積極的、日本文では消極的ですね」。財政出動は大蔵省内の抵抗が強いため、どうにでも読めるようにした大場さんの苦肉の策だった。後々、この食い違いが日米交渉に影を落とす。
これからの政治家は、そしてもちろん公文書になるものは、英語に訳されなくても、訳された場合を考えて発言してもらいたいものです。「英会話」ができなくても、責任ある人は英語ができなくてはならないというのは、この意味においてです。ただ、ここでいう「英語」とは、地方言語の英語ではなく、何語にも訳せる「普遍語」の代表と言う意味ですが。
三つ目は、原子力発電所事故における政府の調査・検証委員会委員長である、Hさん、『失敗学』で有名な方ですね、彼が数学の啓蒙書(その本はよい本ですが)のなかで、
「私は外国の研究者たちと一緒によく仕事をしたが、一度として仮定法など使ったことはないし、彼らが使っているのを聞いたことはない。仮定法は文語表現だから、本でも書かない限り使わないのである。数学もいっしょである。いくらパターンを覚えても使わないのである。」
と書いておられます。
う〜ん。ちょっと言葉を失いますが、日常の英語で、いや、どの欧米語でも、仮定法がしょっちゅう使われるということは、ちょっとでも外国語に触れている人なら当たり前でしょう。ここに例を出すまでもありません。仮定法と普通の形(直説法)の使い分けによって現実味のあるなしを動詞の形で表わし、表現を膨らませるのがヨーロッパの言語です。
("it coudn't be better"=「申し分ない」の意味を逆にとってしまうのも、日本人にとって仮定法の感じが掴みにくいからではないでしょうか。)
教訓はなんでしょう。日本人のインテリの英語はこの程度、ということ。そして、英語を話す人とつきあっていても、「分らないものは聞えてこない」ということ、そんなことを思いました。
「触れ合い」とか「絆」などという言葉がよく使われますが、私達は本当に自分以外の人と、とりわけ外国人と理解しあっているのでしょうか。同床異夢などという言葉も浮かびます。
■2月10日
<<♪明日の土曜は、特別講座、『木を植えた男』英語版♪>>
30分の名作アニメーションを80分×2のレッスンに展開します。
11:00-13:40 初級上向け
13:40-16:20 中級、中上級向け
時間は大体です。
同じ教材ですが、編集しなおします。まだうまくできるかどうか試作過程です。
復習用の音声版も作りたいのですが、ちょっとした技術的困難に遭遇しています。
語学的には、普段のニュースと違い、語り中心のフィクションです。ニュースよりこちらの方が分りやすいと思う人もいると思います。
■2月10日
★以下のエッセイは英語とは直接関係ありません。
★以下のエッセイは、「主張 → 理由」という標準的な論述とは逆の形をとっています。
お金と教育 続編
自然科学が学問をリードする現在においては、「原因は一個」という発想に人はなりやすいです。
しかし、この世のたいていの「原因」というものは、複数です。防衛大臣を任命する際、防衛行政に通じているという原因と、党内の派閥調整という原因の二つを計りにかけて決めるのが総理大臣の役割です。
高校生ぐらいの水準で政治を考えると、防衛行政の手腕があるなしで決めるはずだと思い込みます。それに、総理大臣も任命理由としてはそのことしか言いません。そこで、つい人々は、二代もつづいて問題発言の多い防衛大臣が選ばれることにショックを受けることになります。マスコミもまた人々の「正義感情に訴えるために、そのことを強調します。なんといっても、集団の感情を煽って視聴率を高めるのが、多くのマスコミ関係者の職を維持するための必要条件なのですから。
ところが、行政手腕と派閥力学という、少なくとも二つの原因で総理大臣は人事を行っているということを前提して考えると、総理大臣の評価方法も微妙ですが、違ってきます。「総理は人を見る目がない」ということではなく、手腕と派閥力学のバランスを取り損ねたということです。
この世には、原因は複数であることが多いので、「バランスを取る」ということが人間間の営みにおいてとても大切です。では、どうバランスを取るかというと、簡単には言えませんが、バランスを欠いている場合は比較的容易に分ります。個人的な思い込みという場合が多いです。ですから、総理大臣のような人事に大きな影響力のある人には、あまり「思い込み」の強い人、コンプレックスと言ってもいいでしょう、などはなってもらいたくないものです。
もちろん、実際はもっといろいろに難しい過程です。自分の思い込みを客観視するユーモアのセンス、バランスを重んじることとリーダーシップを取ることとの、これまた「バランス」...。政治家は大変ですね。
政治家でなくても、近代社会が複雑化するに従って、普通の人も、二つの原因の間でのバランス感覚が要求されることが多くなりました。しかし、どうも日本人は、(日本人だけでなないのかもしれませんが)、この能力の訓練に欠けている場合が多いかもしれません。
たとえば、会社が利益を上げることと、社会的義務を果たすことです。会社が大きな事故を起こした場合に、ふだんからこの二つの間のバランスを取る能力を鍛えているかどうかが分ってしまいます。
ある、エンジニアが、戦後、○化成で工場の責任を任された時のことを想起して、以下のように述べています。上司から、耳に蛸ができるほど、「事故が起きたら、まず連絡するのは上司ではない、また、社内消防隊でもない。消防署にまず連絡しなさい」と。大学を出たてのそのエンジニアは、「お客さんのこともあるし、そんな簡単では…」などと考えたそうです。そのエンジニアは上司の言葉の意味が分るまで少し時間がかかったそうです。
この場合、バランスをとるとは、お客さんと地元のバランスをとることではありません。地元の消防署への連絡を優先するということが、バランスをとるということです。つまり、バランスをとるとは、なんでも中間で妥協することではなく、普段から、何が重要かということの優先順位を相対的に考えておくということなのです。そのエンジニア、後に科学者として大きな業績を残した人ですが、このことを原子力発電所の事故への電力会社の対応について述べる際に引用していました。
さらに日常的なことに移りましょう。近代社会では法という形で、文明の形が言語化されています。学校法人、医療法人という制度もそうです。それらは、教育、医療を金儲け手段としてはいけない、という深い哲学的洞察を背景にして、どの文明国でも制定されています。
そこには、税の優遇と罰則という形で、ある価値が表わされているのですが、実際この制度の下に活動する人は、規則の背景にある価値のためと、法律を護った場合、護らない場合に生じる損得という二つの原因のバランスの下に教育、医療活動をすることが想定されています。
しかし、急速な近代化が教育、医療施設を大量に必要とする場合、文明の要請する価値を理解できるだけの教育を受けていない人が、学校、病院経営に乗り出すこともありえるわけです。
とりわけ、教育、医療は金儲けの対象ではないという価値観の下で、近代化の初期には、お金儲けをしたい人がこの分野に参加することを避ける傾向がありました。そうなると、社会の他の分野が株式会社という効率的な制度によって発展しても、医療、教育は「残された分野」となって、手っ取り早く金儲けをしたい人のターゲットとなる可能性が生まれます。つまり、なんと、元来金儲けに相応しくない分野に、金儲けしか考えない人が入り込むという、逆説的事態が起きる惧れがあるのではないか…。モラル・ハザードですね。
一般的に、近代後期の社会における医療、教育の位置は、上のように言えるでしょう。このことが実際、日本の社会で起きているかどうかに拘わらず、教育、医療の分野にいる者は、二つの原因に直面するはずです。実際の法文があろうとなかろうと、医療や、教育分野の抱える諸問題を原因として行動するか、あるいは、法律を法律だからという原因だけで護ること、この二つです。現状では、医療、教育においては、後者が、法律の条文に違反していないのだから何をやってもいいんだ、というモラル・ハザードに結びつきやすい構造を持っているわけです。誘惑が強い分野だと言うこともできます。
法律の条文の背景にある、この二つの原因のバランスを、他の分野以上に鋭い感覚で維持することが問われているのが、医療、教育の分野の特徴です。バランスが取れた判断をするのが、総理大臣ほどに大変なのかどうかは分かりませんが...。
■1月29日
★英語と直接の関係はありません。
授業料について -----お金と教育
まず、メモ程度ではありますが、クエスト21の授業料について、考えを述べておきましょう。あとで、もう少しまとめてみたいと思います。
例えば、アジア諸国から来こられた留学生などで、授業料が払えなくなったとしても、決してレッスンを受けるのをやめてくれなどとは言いません。また、レッスン以外にも学習について要望があった場合、もっとお金を払わなければだめ、なとどと言うこともありません。もちろん、少しぐらいの遅れがあっても催促するということもありません。逆に、授業料を払って、一度も出席せず、返してと言ってもだめです。
さあ、ここで、学校と商売の違いがはっきりしてくると思います。上に挙げたことの逆を見れば、それはビジネスのルールということになります。しかし、教育、医療その他、近代社会にはお金と一線を画すべき分野というものがあります。それがなければ近代社会はなりたたちませんんが、案外、都会ずれした人はそれに気がつかないことが多いです。
クエスト21での外国語教育は、お金儲けのために行なっているわけではありません。教育、学習自体が目的です。それは当たり前のことなのです。とくに、コミュニケーションの学習である外国語教育の場に、「ためにする」という発想が入ってきたら、学習自体に悪影響があります。これだけお金を払ったからTOEICの点を上げてね、という気持ちで言葉の勉強ができるものでしょうか。
この調子で勉強しても900点を取って、会社からお金が出たら、英語学習に関心を失ってしまうことでしょう。それに、もっと失うこともあるような気がします。
■1月28日
ファウグさん訪問---日本で英語を教える人の心構え
御茶ノ水女子大付属高校の指導助手を4月からされる予定のファウグさんが、アドヴァイスを求めて先週の日曜に訪問されました。
UCLA卒で、お母さんが日本人のナイスガイです。将来何になるの?、ビジネスマン?、学者?と訊いたら、そう言われても困るけれど、料理に関心があって少し活字にしている、とか。
指導助手に望まれることは少ないです。彼も、受験勉強中心の高校生に、コミュニケーションのためのブリッジを掛けるぐらいだと思う、言っていましたが、よく考えるとここに落とし穴があります。
ひところ前、指導助手には、年間5百万、6百万が支出され、飛行機はビジネスクラス、学校が試験期間に入ると仕事なしで給料をもらえるという状態でした。
ところが、世間の批難の圧力に押されて、アウトソーシング化され、指導助手は、学校と派遣会社の両方に報告書を書かなければならなくなりました。
今では、指導助手になる人が足らず、なっても途中で投げ出してやめる人がいたり、問題が多発しているようです(朝日などの新聞記事による)。
でも、「やめてしまえ」とは、ならないのは、時代の必要があるからでしょう。
しかし、なぜこのような事態なったかというと、じつは、この制度(ジェットプログラムと呼ばれる)が、外務省中心の「国際交流」の一環として発足したことがその遠因にあるようです。
「国際交流」なら、「これがガイジンです、ごろうじろ」でもよい、というわけでしょう。それでも許される時流に流され出来た制度である、ということにその遠因があるようです。
とはいえ、常識に戻って考えると、いくらなんでも、そんなことで人を呼ぶなんて、あまりに失礼ではないでしょうか。どうも、発想の根っこに不真面目なものがあるように思えてなりません。
今でも、学校側でも、指導助手に多くのことを期待していません。場合によっては指導助手に何をやらせたらいいのかも分かっていないケースもあるようです。
しかし、英語の先生は皆、心の底では、指導助手に一生懸命働いてもらい、教育水準を高めるための協力者として存分に活躍してもらい、そして、本人にも修行の場を与え、将来のキャリアーのために自分を鍛える場を与えることができればいいと、思っているに違いありません。
いや、実際、あまりに制度化された現状で、そんなことを考えることができないほど、英語の先生の頭が麻痺していることもありえるのですが、もし、「本当は何をしてもらいたいと思っているのですか」、と問いつめれば、上のような答えが返ってくるはずです。
ですから、ファウグさんにも、「もし英語の先生が、君の仕事はちょっと手伝ってくれればいいんだよ、生徒と仲良くやってくれたたまえ」と言ったしても、それは本音ではない」と伝えるつもりです。(先週会った時、他に話題に時間をとられてしまいました。その内容につていてもいずれ書きたいと思います。)
ファウグさんをはじめ、指導助手の方には、でしゃばるくらいに提案をして、授業を取り仕切るくらいの意気込みで乗りこんで欲しいと思います。もし、「余計なことをするガイジンだ」と言われて嫌がられるくらいであったとしたら、むしろ、その経験の方が本人とってずっと実りあるものではないかと思います。「日本でのよい思い出」を抱いて帰国し、何年かに一度は旧交を温めに来るより、ずっと意味のある経験になるのではないでしょうか。
■1月28日
正確な言葉使い --- 英語学習は日本語の学習でもある
社会で責任ある言葉使いをする立場にある人…、民主主義社会では大人はみんなそうですね、そういう人は、たとえ、日本語を使っているときにも、英語に訳したらどうなるかを、考えてみるとよいでしょう。英語には限りません。他の外国語でもいいのです。つい、使い慣れている言葉だと、大雑把で、誤解されやすい言葉を使っていることがあるものですが、外国語にしてみると、そういうぼんやりした使い方を反省することができます。
今日の新聞に、外務大臣の言葉使いについて、ある外交評論家が論評していました。
ここでは、政治や道徳の問題ではなく、純粋に言葉の問題としてみてみましょう。そのためその評論家のお名前は挙げません。外相は公職ですから誰か分ってしまっても自然なことです。
ロシアとの領土問題です。外相は25日の記者会見で、「政府の立場は一貫している」と述べました。しかし、その評論家は、そういう言い方は、「言葉のレトリックでごまかそうとしている。そうでなく『不法占拠されている』と正面から言えばよい」と批評していました。
原理、基本の立場があれば、それ以外のところで妥協ができ、信頼が生まれるとも述べていました。論者は外相がロシアとの外交術を知らないと批判していましたが、ロシアだけでなく、どこでも、だれにでも当てはまることではないでしょうか。
その外相は、就任時には、「いわゆる平和条約を締結する」と述べましたが、それについては、こう述べています。「いわゆる」というのは、「平和条約ではない」といことになる、平和条約というのは領土問題の解決のことを意味するから、「四島返還でなくてよい」というシグナルを送ってしまった、と。
言葉の意味をあまり考えずに、「弱い表現を使っておけば問題を避けられるという」というぼんやりした心理に捉われて、つい「いわゆる」と言ってしまったのでしょう。ロシア語でどう訳されるかが問題ですが、英語では、what they say、so to speak、as it wereなど、高校で習う表現にあたります。what they sayの主語がtheyですね。つまり、自分ではなく、誰でもいいような他者。責任逃れをしているという印象があります。外相は「〜だから「いわゆる」と言ったのだ」と言い訳するかも知れませんが、話し手の意図とは関係なしに、相手のどのように受け取られたかが問題なのです。
結論は、「ロシアに、(本心を隠して)不誠実だと思われ、複雑な問題がいっそう複雑になる」ということでした。言葉は、外国語に訳す際、外国人に伝える際、初めてその正確さが試されるということを、この記事を読み、改めて思いました。
ちなみに、江戸期に、ロシアとの交渉に尽力した高田屋嘉平のことなども、この記事で思い出しました。(高田屋嘉平については、以前この「会員のページ」に書きました。)
■1月27日
小学生への英語教育は是か非かの議論
書き忘れていました…。
今年度から(昨年4月より)、小学校の5年と6年で英語教育が導入されました。全国一律で義務です。週何回かは把握していませんが。たぶん週一回でしょう。
実際、どういう教育が行なわれているか。ちょっと気になりますが、情報はまだ入ってまいりません。
導入される2年ほど前から、是非について議論がありました。が、あまりそのことを突き詰めず、いやおうなしに、という点では、日本の近代において繰り返されてきた「近代化」と同じ筋道を辿ろうとしています。
しかし、担当される先生方には、何故小学生に英語を教えるのかを、しっかり考えて取組んでいただきたいと思います。
その辺をしっかり考えないでものごとを進めると、これから起きる、その時々の事件などに左右されて、「決まっているから教える」というだけのことになりかねません。いや、その可能性は大変高いというべきでしょう。
まず、自己欺瞞に陥ることに陥ることなしに、明確にしておきたいことがあります。それは、小学生の英語教育は「必要にせまられているから」です。大学の秋入学と同じで、「外圧」といういやおうなしの圧力を押し返すという当面の課題があるからです。
けっして、教育の理想があってからということではありません。
導入是非の議論は、そのことに気がつかせてくれたという点では、まあ、意味があったかもしれません。代表的な反対論は、御茶ノ水女子大の数学教授、藤原正彦さんのものでした。藤原さんの議論は、教育の理想から発するものでした。つまり、まず国語と数学に限られた時間を出来る限り費やすべきで、英語などを教えている閑はない。さらに、教育に何が重要かということがますます忘れ去れてしまうということでした。とても強い議論です。
こういう議論に対する側は、自ずと「実用論」で対抗せざるを得なくなります。いや、議論というより、藤原さんの議論は時間と共に消えていくから、英語導入は実施されるだろうという、「没議論」に陥ります。主張する人は「若い人はもっと国際的感覚を身につけて欲しい」ということをなかば信じて言うのですが、実際は、心の半分でまあなんかなるだろうと思っているのですからあまりまじめな議論にはならなかったようです。
ともかく、実施されています。もし、上のように英語導入論の背景に「なんとかなるだろう」という気持ちがあるとしたら、実施されても、方法などについての議論もあまりまじめになされないのではないかという疑いが生じます。またぞろ、他の「近代化」と同じ経過を辿りそうです。
ここは、導入しなければならないといういやおうない現実をしっかり正面から受け止め、それにどう対応するかを考えようではないですか。つまり、ここは譲れる、ここは譲れないということを英語教育の過程で考えていくのです。
新しいものを「導入する」というだけではちょっと認識が不十分のようです。元来必要がないかもしれない外国語を導入するわけですから、他の教科との関係を深く考え、障害物を福に転じることを考えるべきでしょう。
クエスト21の生徒には、高校の英語の先生が一人おられます。その方は最近国語の先生と結婚されました。英語の先生は、国語の先生によく、英語の先生は生徒の国語を破壊するという言われるそうです。なるほど、例の「直訳」を通して英語を教えていて、ちょっと変な日本語を書いても試験で点が取れるからでしょう。しかし、考えてみると、英語も国語も言語という伝達手段を扱う点で、物理と化学や、世界史と日本史と同じように近いところに位置してるはずです。
他の教科との関係がなければ無理なことですが、国語との距離を考えれば、英語が国語の役にたつような仕組みを考えるべきではないでしょうか。相手の言うことを正しく理解する、自分の考えを正しく伝えることが国語教育の根幹の一つだとしたら、全く異なった言語を持った人を理解する、また、自分の考えを伝えるということは、国語教育の学習の連続線上におくことができます。
その結果、母国語を見る鏡として英語教育の時間を有効に用いるようにすればよいのです。小学校教育といえども、国語と英語教育の対立という昔からの対立が生じることがありえるでしょう。例えば、時間の取り合いから、英語の時間と国語の時間で先生の言っていることが違っている、などがあります。しかし、一方で、高校などと違い、各教科の分化が余り進んでいないのも小学校の過程の特徴でもあります。そこをどう生かすかという課題があると思います。
ちょっと抽象的になりましたが、各論については、また述べることにいたしましょう。
■12月22日
最近のクエスト21についての簡単な説明のページを作りました。以前の会員の方たちへのメッセージです。
<<最近のクエスト21>>
英語に真剣に取組む方へのメッセージにもなっています。
■
■12月6日
<<言葉と生身の人間>>
2チャンネルなどが最初だったと思いますが、フェイスブック、ツイッターなどインタネットがらみで、名誉毀損(libel)と、放言とか、frustratingな話題に事欠きません。大陸あたりの「妄言」という表現も日本語に定着しそうないきおいです。
このように、インタネットには罵詈雑言が溢れています。何故でしょう。
私は、中学生の頃、アマチュア無線(HAMと言う)の免許を取りました。家が貧しかったので学校の「物理部」でいわゆる交信をいたしました。そのうち、電話級(現在では4級と言う)という初心者に許された周波数帯域、7MHz帯では、罵詈雑言が飛び交って来たのを思い出します。
ネット上での罵詈雑言、猖獗の原因は、かつての7MHz帯(そのころHz=ヘルツではなく、サイクルと呼んでいたことを思い出しました)で、言葉遣いが乱れたのと同じ原因だと思います。
どちらも、悪口を言っても自分が害を受けないという点で同じです。直接面と向かっている時は、そうやすやすと悪口など言えるものではありません。「なにを〜!」と言って殴られるかもしれませんし、だいたい恥ずかしい思いをします。ところが、無線や、インタネットでは、いくら汚い言葉遣いをしたり、礼儀をわきまえなくても誰にも文句を言われません。
自我というものはかように弱いもので、人間、拘束というものがないかぎり安定した人間関係を保てないと言ってもいいかもしれません。また、逆に、人に見られていないインタネットや無線でも、面と向かっている場合と同じように振舞える人は自我がしかっかりしていると言うことができると思います。
最近の言語心理学、発達心理学の実験によると、バイリンガルになる子にとって、生後10ヶ月から12ヶ月が臨界期といって大切だそうですが、その時期に、ある言語の音韻を判別する力がつくそうです。しかし、この時期、単にヴィデオやテープで外国語に接してもその能力は身につかないそうです。直接の人間的接触によってのみ音の判別ができるようになるということです。
これらのことは、言語の習得にとって示唆することが多いと思います。言語は、殴られれば痛い自分の身体と無関係ではないということです。週に一度、忙しい中に時間を都合して皆さん、来られていますが、それは決してむだではないのです。もちろん、ネットでの勉強も重要ですが、週一回の生の言語体験は、言語への基本的構えというべきものを養うと思います。
■
■12月6日
<<ベルマッチャ>>
『プレキソ』の小泉さんによると、福澤さんの話す英語はあまり伝わらなかったそうです。もっとも、アメリカでは、一人で街中の写真館へ行って、アメリカ人の少女とちょんまげ姿の自分の「トゥーショット」写真を撮ってもらうくらいですから、そこそこのコミュニケーション能力はあったようですよ( http://www.geocities.jp/sybrma/hukuzawa.kakudai.7.html )。
とはいえ、福澤さんの英語が通じにくかったということも納得できます。江戸時代だったのだからそれは当然でしょう、というのではありません。今でも、日本人がしっかり発音の勉強をしないで、英語の単語を発音しようとしたら、福澤さんとそんなに違わないはずです。それは、日本語と英語の「音韻体系」が大きく違っているからです。江戸時代でも現代でも、日本語の発音はそれほど変わっていません。それは、1900年に、発明されたばかりの蓄音機で録音された川上音二郎一座のオッペケペー節( http://www.youtube.com/watch?v=8TuMWzJd6RM )などを聴いてみればわかることです。
100年ぐらいの時間の変化より国語による違いの方が千倍も万倍も大きいです。ですから、現代の私達も英語の発音の勉強には十分注意を払わなければなりません。また、英語を聴く場合にも、同様の音韻上の困難がつきものです。英語はとりわけ、強弱と短縮、省略が多いですから、比較的均等に発音するラテン系の言葉に比べると格段に聴き取りが難しいのです。加えて、フランス語などとくらべても、語彙が多く、どしどし作られる傾向があるようで、それが難しさに輪をかけています。大学受験程度のリスニングはなんとかクリアしても、映画や音楽の歌詞はからっきし分らないのは、あなただけではありません。
今、クリスマスを前にして、クリスマスソングが街に、「みみたこ」状態で流れています。子供の頃から聞きなれているので、「そらみみ」状態になっているかもしれませんが、ここはひとつ、リスニングの教材にしてみたらいかがでしょう。
Jingle Bells, Jingle Bells, / Jingle all the way! / Oh, what fun it is to ride / In a one-horse open sleigh.
Oh, what fun it is to rideの部分は、it --- to inf,の感嘆文。文法の仕組みが頭に出来ていないと、whatも、it isもなかなか聴き取れませんね。しかし、ここで今確認したわけですから、明日デパートで試してみてください。でも、目で見ただけでは、「だめ、分らん」という可能性が高いです。ユウチューブなどで、繰り返し聴いてからの方がいいでしょう。それでも、「だめだ」という可能性あり。「あ、分る!」だったら、大成功です。だめの場合もまた何回か繰り返してからまた銀座に繰り出しましょう。
さて、これは何の歌詞でしょう。
You better watch out
You better not cry
Better not pout
I'm telling you why
私などは、完全にそらみみ状態に陥っていて、最初の一行は「べらまっちゃ」としか聞えなくなっていました。「矯正」にはだいぶ時間がかかったものです。
分りましたか?。"Santa Claus is coming to town"の冒頭ですね。
ちなみに、意味は、「気をつけないとね、泣いちゃだめ、ふくれっつらも。なぜか教えましょう。」
■
■12月6日
NHKの小学生向け英語講座の監修者の小泉さんが、『プレキソ英語12月号』(p.56)で、福澤諭吉の時代と現代との間にある、英語教育、英語学習の違いについて、論じています。
私と同じ考えなので、意を強くいたしました。
福澤は、オランダ語を大阪の緒方洪庵の塾で一生懸命勉強します。ところが、横浜を訪問したら、オランダ語より英語の方がよく使われていることに気づき、「いままでの努力は無駄だったのか」と嘆きます。しかし、すぐ気を取り直し、英語の勉強に邁進します。翌年には咸臨丸でアメリカへ行く機会も得ました。
福澤の出世は、この時代には稀なる洋行の機会が与えられたことだったのですが、時代の先端は何かを見抜き、今何をすべきかを考え、選び、行動したのは福澤自身です。ですから、このアメリカ行きも単なる偶然とは言えず、明治期の偉人となったのは必然であったと思えます(福澤に学ぶべきなのはこの点です!)。もっとも、この時代、暗殺されなかったのは偶然だったかもしれませんが…。
彼が当時必要とした英語は、経済学を初めとした文献を読み取ること、そして、2番目にはそれを翻訳することでした。上野の戦争には目もくれずウイーランドの経済学の本を学生と読んだ話は、3月にもこのページで触れました。
読む、訳すことが英語学習の中心であったことは、この時代には必然であったのです。ところが、問題は、福澤の時代には必然で、有効であった英語学習法が、100年以上たった現在でも主流であるということです。
「--- 常に英語を日本語に訳すという習慣が学習者に根付いてしまい、日本語に訳さないと英語を理解できたと感じさせない意識を生み出してしまっています。ここが日本の英語教育が乗り越えなければならない大きな壁だと感じています。
--- 諭吉の時代から世の中は大きく変化し続けています。英語教育もほんのわずかな限られた人たちだけが必要としていたものから、小学生でさえも、毎週英語活動を行う時代になりました。」
上が、小泉さんのエッセイ、『福澤諭吉が学んだ英語』からの引用です。
このあと、小泉さんは、長年習慣化した教授法はなかなか変えられないということを述べています。もう大人となった先生が自分が習ったのと違う方法で英語を教えなければならないのですから、それはそれは大変なのは目に見えています。
ここまで、私の認識と小泉さんの認識は全く同じです。これを踏まえ、もっと先へ議論を進めたいのですが、それはあとにすることにして、ここでは、小泉さんが触れていない、しかし同じように、重要な点に一つだけ触れておきましょう。
それは、「英会話」という言葉のことです。辞書学者のバーナードさんが、「『英会話』などというものは存在しない」と苦い筆致で自書に書かれていますが、じつは、上のことと一見、無関係なように見えるものの、同じ問題の両面なのです。
…無関係どころか、福澤式がだめだから「英会話」なのだ!、という声すら聞えてきそうです。しかし、バーナードさんが言いたいのは、一方で訳読式の英語教育が続いていて、単にそれのアンチテーゼとして、深く考えずに人々が「英会話だ!」と突進している社会現象です。
言葉は、理解し、通じさせるという、現実の問題解決のための道具です。この、極当たり前の、健全な言語観からすれば、時代遅れの訳読も、それへの反発としての「英会話」も、ちょっと現実離れしたものに見えると、バーナードさんは言いたいのでしょう。
実際、まじめに英語を勉強すれば、音声が言語の中心であることは当たり前だし、また、文法や、英語と日本語のあいだに横たわる、ものすごく大きな違いを知的に分析しなければ、大きな誤解に繋がることも分ります。訳読も、会話も必要なのです。ただ、そのバランスを時代時代、個人個人に応じて変えていくだけのことでしょう。大切なのは、理解したい、伝えたいという情熱です。
このような地道な英語学習を行う態度があれば、「○○すれば、英語が驚くほど聴き取れる」の類の商業主義に人々がだまされることもないのに…」、というのがバーナードさんが、ため息をつきながら言いたいことのように思えます。
■
■12月6日
12月17日(土)は恒例の、年末茶話会。24日(土・未定)は17日の都合が悪い方のために2回目の茶話会の予定です。年代物のシャンパーニュが出ます。
18日からは、恒例の<メイクアップ週間>。いつもお休みがちな人で、クエストの冬休み、夏休みになると、とたんに時間が取れる方が多いです。そういう方のために。
ご連絡ください。
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■10月28日
読み、書き、聴き、話し、と、言語能力はこの4つを並列しますが、読み、聴くに比べ、書き、話すという、「言語を作り出す」作業は、ずっとエネルギーを使うように思います。
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小学生クラス(まだ一人ですが)、まだまだ文法事項はあまり出さず、「命令形」のみを使っています。「この本を机の上に置いてください」、「眼鏡を本と魔法瓶の間に置いて下さい」など、native speakerに言ってもらって、実際の体で動作をしてもらうわけです。この訓練のためには、動詞の形は簡単ですが、さまざまな場所の前置詞を知っていなければなりません。
さて、この訓練を続けていて、「じゃあ、あなたが外人の方に命令してください」というと、出来ないとという拒否反応が出てきます。これは、「日本人の受動性」という文化論で説明してしまいがちですが、その前に、「分る」ということと、「使ってみる」ということの違いに注目しなければなりません。
「分る」から、「使ってみる」まで英語力を高めるのはどうもかなり時間がかかりそうです。それだけエネルギーが必要なのではないでしょうか。
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さて、話は一転、三谷幸喜さんのエッセイです。
新聞からの書き写しですが、アメリカで英語で「表現しよう」という努力はりっぱなものです。「英語で笑わせる」のですから、言葉についてとても努力を重ねる必要があります。
「私はこの映画の脚本家であり、演出家であり、そして、ラストサムライです」
ここで笑いが来るそうです。
俳優さんが「私がこの映画の出演俳優であり、私こそがラストサムライです。」
ここでも、笑い。
女優さんが、「私はこの映画に出演した女優です。話題が変わりますが、私がラストサムライです。」
爆笑がでたそうです。
そして、三谷さん。「皆さんは私の英語が理解できますか。私は私の英語が理解出来ない。」
爆笑。
俳優さんが、「アメリカンジョーク」で、「ママ、ニューヨークはまだ遠いいの?」「いいから、まだ黙って泳ぎなさい」
その時、"How far---"の"far"を忘れて、お客さんがきょとんしたそうです。
女優さん、「私が女優を志すきっかけとなった作品は『猿の惑星』です。」
客席は盛り上がったそうです。
努力賞ですね。
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■10月3日
マスコミに出ている人で、しっかり考えている方だなと感心する方を見つけると嬉しいものです。
原発以降、とくに有名になった武田邦彦さんもその一人ですが、武田さんの言語に関する意見はまたいつか取り上げるとして、『プレキソ』の監修者である、小泉清裕さんを今回取り上げることにしましょう。取り上げるとっても、プレキソ10月号のエッセイからの抜粋が殆どです。
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英語活動を始める時に、先生がLet's enjoy Englishと言う場合があります。私自身もこの言葉を口にしながら、「英語を楽しむ!」ということに何か不自然さを感じています。言葉を楽しむということはどういうことなのでしょう。(-----)
結論から言うと、どの言語も言語そのものがおもしろいわけではありません。何がおもしろいかというと、その言語ではなく、その言語で何が話されているか、あるいは何が文章で書かれているかという、伝えられている内容がおもしろいのです。言葉はあくまでもものを運ぶ道具であって、運ばれてくるものが重要なわけです。
(------)日本語で聴いておもしろくない内容は、英語で聞いてもおもしろいはずがありません。
(------)高学年の子どもたちがおもしろいと感じるものは、大人が本当におもしろいと思えるものとほとんど同じです。
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英語自体の、つまり、言語を学ぶことそのもののおもしろさもある、という反論も出てくるでしょうが、学校の教科のなかで、数学、理科、社会と、国語や英語のような言語教育の根本的な違いは、数学、理科、社会が、それ自体のなかにおもしろさの原理を持つのに対し、国語と英語は、言語をとおして何かを伝えるという、言語の外にあるものとの関係でおもしろさが生まれる点でます。
英語の先生は専門家ですから、「英語のことを考えればいいや」という立場にとどまりがちですが、常に英語以外の、世の中の広いことに関心を持ち続け教室にもそれを持ち込む姿勢が大切だと思います。そのことは小学生に英語を教える場合でも、成人に英語を教える場合でも同じことだと思います。
■10月3日
通信講座で始めた、「下から上がっていく和文英訳」が意外な反響を呼んでいます。
中学校1年から2年の英語で、単純な物語を英語にする練習ですが、全て、英語に移せそうな日本語を用いて書かれています。
そのため、抵抗無くちょっと英語にしてみようかなと思えるようになっていて、通いの方からも多く答案が寄せられています。
ところが、実際書いてみると、すぐぼろが出ることが分ります。それこそ私が狙っていたことです。まず、単数、複数、冠詞で躓きます。しかし躓きながらも、躓くことを通して、日本語から、英語の論理に移っていくことが、この講座の目的なのです。
通常の「和文英訳」「ライティング」ですと、論理なのか文法なのか、内容なのか、焦点が拡散して、何を学習しているのか分りにくくなるのですが、この方法では、「文法」だけに焦点が当たります。もっと正確に言えば、「日本語と英語の文法の違い」に焦点が当たるのです。
こう言うと、「日本語と英語は文法が別なのはあたりまではないか」という反論が返ってきますが、そういう人も、英語を書いたり、読んだりしているとき、無意識に日本語の文法を当てはめて読んだり、書いたりしているのです!。単数、複数を無視して英語を書いてしまうということもその一つの現れです。「日本語の名詞には単数と複数の区別がない」という規則を当てはめているのですね。
そのため、英語を学習する場合、「日本語と英語の文法の仕組みを比較する」ことは必須の作業と言えるでしょう。しかし、このことは、専門的な言語学者以外ではあまり重んじられているとは思えません。今回の試みを通し、正確な英語を書けるようになって自信をつけるだけでなく、日本語と英語の違いを認識し、さらに、日本語と英語の違いを超えた普遍的な論理を磨いていただきたいと思っています。
具体的な問題については、今週の学習のページで、扱うことになると思います。
■8月31日
「どじょう」について
野田新総理が演説で、自分を「どじょう」に例えたそうですが、昨日の朝日の夕刊によると、海外のメディアが翻訳に苦労したそうです。どうも日本以外にはどじょうはいないそうなのです。
前から、政治家は英語が出来なくても、英語に訳された場合を考えて発言しなければならないと私は述べていますが、そのことを考えさせてくれる面白い例を提供してくれました。
政治家だけでなく、完璧な英語を話せない私達も、仕事や日々の暮らしで、「この概念は英語では何て表わすのだろう」と考える機会が増えていくことでしょう。
英語の学習は、「英語を使う」ときだけでなく、一見英語と無縁な、広い生活で意味を持ってくるということを、どじょうの話は示唆しています。つい、我々は英語は専門家に任せればよいと思いがちですが、少なくとも、その専門家がちゃんと英訳しているのかどうかチェックするぐらいに英語力はつけておく必要があると思います。
ところで、「どじょう」ですが、ニューヨークタイムズでは、「泥のなかで食べ物をあさる美しくない魚」、ウオールストリート・ジャーナルのブログでは、「食べ物をあさる技術で知られる、ひげの生えた醜い魚」と訳した…、いや、説明したそうです。
野田さん、この説明でよろしいでしょうか。
■8月31日
伝わってなんぼ、再び
また、英語というよりコミュニケーション一般についてです。先日の読売の夕刊に、前の原理力安全委員会の委員長の発言が取り上げられていました。
最近テレビで、次のように述べたそうです。
「3月11日以降の事が全部取り消せるものだったら、もう私は何を捨てても構いません」
それに対し、井川記者は、有名な本のタイトルを援用して、「ご冗談でしょう、○○さん」と思ったと書いています。
記者の言うとおりだと思いますが、前委員長は、正直に自分の気持ちを述べたつもりだったと思います。しかし、前項で述べたように、言葉は「話し手と聴き手の間にある」のです。同じ言葉でも、何時言うか、どの立場で言うかで意味が変わってくるのが言葉です。
もし、専門家でない人が、このように述べたら、多くの人の共感を呼んだかもしれませんが、専門家なら、記者が書いているように「津波襲来直後の原発に戻せ」「私なら、こんな破局てきな事態にしない」というべきでしょう。専門家とは、一般人が、あることを付託した存在です。そのことに対し説明責任(accountability)を伴った言葉使いが求められます。聞いている人はそういう責任を伴ったものと前提して、専門家の言葉を聞いているのです。
このように、言葉は、話す人の「立場」を反映しては初めて「言葉」となるものです。しかし、また、本人には、本人の「立場」は見えにくいので、忘れられやすいものでもあります。王様や、お殿様が、いかにも王様らしい、殿様らしい格好をしているのは、下々への権威を示す意味がありますが、同時に、本人に自分が何であるかの自覚を促す役割もあるのでしょう。
記者はコラムの最後に、「なぜ適切な対応ができなかったのか。現実逃避より、反省と対策強化が大切です。○○さん。」と語りかけています。○○さんに通じたかどうか…。
■8月21日
言葉は話し手と聴き手の間にあるということ
searchという動詞の意味は何ですか、というのはよく初級上の教室で取り上げる主題です。
「探す」です、という答えはすぐ出てきます。
そこで、次の英文の意味は何ですか、と言います。
@ I'm sesrching his room.
A I'm searching for his room.
「@の意味は?」と訊けば、「私は彼の部屋を探している」という答えが返ってきます。
「はい、その通りです。ではAは?。」
「私は彼の部屋を探している」です。
「え、では、@の意味は?。」
「私は彼の部屋を探しています。」
「じゃあ、もう一度訊きますが、Aの意味は?」
「私は彼の部屋を探しています。」
「じゃあ、@とAの違いは何ですか?。」
「つまり、@は、”私は彼の部屋を探しています。”Aは”私は彼の部屋を探しています。”ではないですか。」
このような珍妙な会話が行なわれることがよくあります。生徒さんはseachの他動詞とsearch forの違いが分っていないわけではないのです。I'm searching his room.は、私が刑事などで、彼という怪しい人の部屋の内部を家捜ししているという意味です。一方、I'm searching for his room.の場合は、ある町、あるいは団地で、彼と呼ばれる人の部屋がどこにあるのか探しているという意味です。どちらも日本語では、「私は彼の部屋を探している」で表わすことができます。
この会話から分ることは、言葉は相手に通じて初めて意味を持つということです。通常、母国語なら無意識に言葉を使い自然に意味が通じてしまいます。前後の文脈を相手も共有していることを前提してしまうので、言葉の存在を意識しなくなるのです。しかし、ときどき、このように、言葉が、話す側の意図と聞く方の理解が一致して初めて初めて意味を持つということに気が付かされることがあります。
英語という外国語を介して、日本語を使う際でも、言葉が話す方と聞く方の共同活動だということを学ぶことが大切だということに気をつかされます。
今日の新聞には、日本の政府高官が「介入を頻繁に行い、日常的な手段として使うことはない」と米紙のインタビューに答え、ロイター通信がそれを引用したとたんに円買いが進んだと書いてありました。確かに一般論としてはこの政府高官の発言は間違っていないでしょう。大学の教室で話したのなら問題ないかもしれません。しかし、聴く側は、政府の決定に関与すると思われる立場の人が、為替に政府が介入するかどうか問題となっているまさにその時期にこの発言があることの意味を含めて、この発言の意味を理解します。しかも、「それを聞いてから円に当て込んで投機する人がいるだろう」という意味も推定します。
言葉の意味とは、ここまでの過程を含んで初めて実際に成り立つものです。話す人は、話したいことを言えばいいというのではなく、自分の立場、相手の立場、今どういう状況にあるかも含んで言葉を発しなければなりません。
今、「彼の居場所を探している」のか、「彼の部屋の中で証拠物件を探しているのか」、話す人は当然と思っていますが、聞く方は当然と思っているとは限りません。ましてや、外国人に伝える場合、当然なことはさらに減ります。そういう状況で言葉を伝える場合、自分の言葉について常に反省、分析する必要があります。
英語の勉強の難しさ、面白さには、実はこういう側面もあるではないでしょうか。
■8月11日
TEDの記事からいくつか
TEDは、Technology, Entertainment, Designの省略で、これらの分野の講演を催し、インタネット上に公開しているNPOです。
クエスト21の基本的考え、つまり、「英語を上達させたいなら、英語以外のことを「英語を通して」学習する態度が絶対必要!」に合致します。
TEDは中級以上の方の教材には、以下の点でとてもよいものです。
なお、中級向けとはいえ、日本語の語学的説明がないのが欠点。レッスンで扱った『核融合』などには文法的な説明のある教材版があります。
第一に内容が時代の先端を行っていて、TEDのサイトを幾つか見ると、なるほど現代はこういう方向に進んでいるのか、と思わせるところがあります。残念ながら日本人はほとんど出てきません。私はいままで一人も見ていません。
第二に、皆さんとても人前で話すことが上手で、私達日本人もこのように説得力のある話し方を身につけないといけないな、と思わせる点。
第三に、技術的な面ですが、トランスプリプトのある部分をクリックするとそこの部分の画像に移動するので、リスニングの勉強にとてもよいのです。
トランスクリプトや字幕はヴォランティアの方が作っているようですが、ときどき日本語もあります。ただ、どうも韓国語の方が早く、多いような気がします。
●『赤ちゃんは語学の天才』(日本語字幕有り)
とても話は上手です。
日本人がなぜrとlの区別がつきにくいかという問題に踏み込んでいます。
また、臨界期の第二言語習得について、音声だけや画像でもだめで、直接の人間関係が必要であるという指摘は興味深いです。
ただ、短い時間に沢山の情報を詰め込んでいて、論理展開が分らない部分があります。
Patricia Kuhl: The linguistic genius of babies
http://www.ted.com/talks/patricia_kuhl_the_linguistic_genius_of_babies.html
●『英語マニアの世界』
中国の英語ブームには驚かされます。生き残りをかけた情熱でしょうか。
では日本人としてはどう英語に向き合うかという課題を突きつけます。
Jay Walker on the world's English mania
http://www.ted.com/talks/jay_walker_on_the_world_s_english_mania.html
04:32
●『鳥のように飛ぶロボット』
鳥のロボットには驚きました。初級の方も楽しめますのでぜひ見てみてください。
ドイツ人らしい英語です。
A robot that flies like a bird
http://www.ted.com/talks/a_robot_that_flies_like_a_bird.html
●『核融合』
さて、これが8月6日(土)の中級で扱った核融合の話。まんなかの物理の話の部分はレッスン中はカットしました。その部分は高校の化学の復習です。
これまで専門家や官僚に任せていたことも、私達は知っていなければいけないということを福島原発の事件で知りました。架空の世界に安住するのではなく(それはとても危険)、現実にしっかり足を下ろさなければならない、ということでしょうか。
このことは言語学習にも言えます。アクセサリーや試験目的の英語ではく、本当に理解する、本当に伝える、ということを英語でも国語でも学んでいかなくてはなりません。
Fusion is energy's future
Steven Cowley: 2009 July (Posted December 2009)
http://www.ted.com/talks/steven_cowley_fusion_is_energy_s_future.html
09:55 (核融合の説明の部分を除くと、07:18)
●『大学教養教育の復権』
これは、まだ全部見てませんので、後日、折をみて内容を説明しましょう。テーマは興味深いことです。日本のリーダーの失態(blunders)は、どうも「リベラル・アーツ」の欠如が遠因になっているように思えますが、皆さん、どうお考えですか。
Liz Coleman's call to reinvent liberal arts education
Feb 2009
http://www.ted.com/talks/lang/eng/liz_coleman_s_call_to_reinvent_liberal_arts_education.html
18:41
■7月16日
クエスト21、最初の小学生
偶然の必然(?)によって始まった小学生講座です。
最初の生徒、小学3年生のKさんのレッスンが始まりました。
はっきり言って、皆さん大人の生徒の3倍の速度の速度で覚えていきます。脳の細胞分裂の速度が違うのです。そのため放射能には格別の注意を要しますが。
アルファベットとローマ字はほぼマスターしていますが、目黒区がmagurokuになってしまったのはイケマセン。SibuyakuをShibuyakuと表記するのですよ、と私が言ったら、「どっちでも同じではないの」という指摘。これは正鵠を射ています。shiとsiは、日本語では意味の違いには繋がりません。言語学の用語を使えば、「弁別的な」意味がない、ということです。
私が、米国人、英国人への親切なのですよ、と言ったら納得したようです。しかし、Kさんが、事実に基づいてしっかり考えていることが分りました。我々大人、ともすれば、あやふやな根拠に基づいて勝手な主張に走っていないでしょうか。
■7月2日
小学生クラスの開始について
まだ、形を整えた広告にはならないので、会員のページに基本的な考え方を述べておきましょう。いや、考え方というより、今考え中のことと言った方がよいかもしれません。会員のページとはいえ、会員外の方が読むことを想定しています。
きっかけは、ご父兄の方のご要望と、ピーターの時間が合うという偶然でした。しかし、成人の英語教育を長年続けてきて、大人の英語力が抱える問題の根っこは、子供の頃からの外国語との接触の仕方にあると思うようになりました。
別のきっかけとしては、もちろん、小学校で英語教育が始まったということもあります。しかし、直接のきっかけというより、この期に始まったNHKの英語講座「プレキソ」を見て考えることが多かったという間接的な理由です。
大人の英語に接し、大きな壁を感じることの一つは、単数、複数、冠詞の問題です。リスニングでかなりの力を発揮する方でも、では、聴いたことをもう一度英語で言ってください、あるいは、自分の言葉で言い換えてくださいと言った場合、冠詞と単数、復習の多くを、あるいは殆どを無視して英語を話す方が多いということです。これから、電子メイルなどで英語を書く機会が増えるので、ちょっと真剣にこの問題を考えなければなりません。
なぜ、この点について弱い方が多いかと言うと、単数、復習、冠詞を間違えていても大きな意味の違いが生じない、と思っているからです。
しかし、すぐには問題が生じなくても、言語は全体でまとまった仕組みを持っているものですから、どこかで大きな間違いを犯したり、漠然とおおまかな意味が通じているだけだということに気がついていない、ということがありえます。
では、もう一歩深く考え、なぜこの問題を軽く考えがちかというと、小学生の頃からの外国語への接触に問題があるようです。たとえば、欧州人の場合、自分の話している言葉以外の言語が身近に存在していて、なんだかわからないけれど、外国語を話している人どうしでは複雑な仕組みについての了解があり、それを使って、結局は自分たちと同じような生活を営んでいる、という「不思議」に日々接しているわけです。そこから、西欧人の子等は、前項のコラムに書いたような、3つの点を、知識と言うより、感覚として身につけているのではないでしょうか。逆から見ると、日本人の子供にはこうした「外国人体験」がないので、この3点が欠けているように思えます。
「林檎」がappleだということを中学一年で習うと、日本人の多くは英語と国語の諸要素の間に、ぼんやりと「一対一」の関係があるような幻想に捉われるようです。実際、英語にはan apple、apples、the apple、the applesがあるわけですが、anとかsは、まあどうでもいい「付属品」ぐらいにしか思っていませんでしたか。そんなわけで、冒頭に述べたような大人の英語の欠点が生じてきたというように私は推測しています。
その点、欧州の子等は子供の頃から、外国語には外国語の秩序があって、それは尊重しなければならない、そして、それにも関わらず、普遍的なものの存在を通して、必ず意志を伝え合うことができるのだ、という直感があるように思います。もっとも、この論じ方には、私が日本人の反対を「欧州の子等」という想像上の反対概念に当てはめていいるという気配はありますが…。
以上のようなことが、今回の小学生クラスに関心を持ったきっかけです。
具体的な教え方についてはまた稿を改めて書きたいと思います。
まだ、始めたてで、授業料も大人なみに取っていいのか、native speakerの40分と日本人の40分の間でどういう役割分担をするか、など解決すべき問題が複雑、多様です。
しかし、言語学、心理学の知見に基づき客観性を維持しなければなりません。
今後のnative speakerの人選も大切です。
さて、こんな調子で始めますが、ここで、一応宣伝めいたことを。
まず、月曜16時から、3年生一人でスタート。40分native speaker、40分日本人。
クエスト21は、渋谷と代官山の中間、都立第一商業高校の裏角のマンション、一階。
責任者は、小川豊。送り迎えはいつもはできませんが、なるべくしたいと思います。退校時は電話連絡をしたいと思います。
■7月2日
NHKの小学生向け英語講座、「プレキソ」はよく考えられた講座です。
あえて言えば、「英語の先生」の発想で作られた講座ではないように思います。
英語の知識というより、その前の外国語へ接する態度を養うことが目的です。その態度は、あえて言葉で表わせば以下の3つだと思います。しかし、言葉としての知識でなく、あくまで、下の3つの事柄が「感覚として」身につくことを目指している点がこの講座の興味深い点です。我々大人も学ぶことが多いと思います。
「プレキソ」を支えていると考えられる3つの柱
(1)外国語が日本語とは違う仕組みを持った言語だということ
(2)しかし、日本語でも英語でも普遍的なことを伝えることができる。
(3)言語は、言語でない「何か」を伝えるためのものである。
毎月、毎週の課題については、また「今週の学習」で考えて見ましょう。毎月の「マイクロ・ストーリー」、大人の鑑賞に堪えるアニメーション、を利用したレッスンも進んでいます。
■6月15日
デイリーヨミウリに出ていた、投書集、『原発廃止: PRO(賛成) / CON(反対)』の訳、サマリーの練習が、中級クラスで進んでいます。
レッスンには、毎週のルーティーンワークと、今回のような「プロジェクト・スタディ」があります。
時間に縛られず、目標を達成するの学習を「プロジェクト・スタディ」と呼んでいます。
(1) まず、一つ一つの短い記事のreading、語学的な問題からスタート。
(2) 出来そうな人から、それぞれのサマリーを少しづつ作ってもらい、検討。
(3) その間にも、readingが進みますが、次第に、批判、意見が出てきてスピードが落ちてきました。皆さんが考えを持ち始めた証拠です。
(4) 考えが煮詰まってきたら、それぞれの投書に出来ていた語彙、文法、意見を参考に、自分の意見を、短い投書形式にまとめます。
(5) それぞれのエッセイを添削、発表。
この過程を進めながら、英語で、各自の原発についての考えを深めていくことも、このレッスンの意義の一つです。英語という外国語で考えをまとめることによって、<<自分の意見をより客観的なものにする>>ことができるのです。
だって、もし「日本語でしか言えない意見」だったら、客観的な意見とは言えませんからね... 。
さて、今8月5日(土)の午後の予定(仮)ですが、各自1〜2分ほどで、自分の意見を口頭でプレゼンテーションをしてもらう予定を立てています。
将来、長い英語のプレゼンテーション(日本語でも)を急にやるはめになっても急にうまくできるものではありません。今のうちから一歩づつ進めていきましょう。
当日は、1時間ほどで発表を終えて、そのあと、ビールと枝豆、そしてアイスクリームの会に移りたいと思います。
■6月14日
『成人の英語教育のあり方』一回目
-----宣伝もかねて
★長いエッセイの倉庫
今回は、今の英語教育についての素朴なイメージに関してです。
■6月7日
クエスト21には様々な方来られます。土曜日のAさんはなりたての都立高校の英語の先生。新任の先生にはよくあるのですが、教育困難校の一つに就任することになりました。定時制です。英語教育といっても、それこそABCからやり直し、いや、ABCも学習する気がない連中を相手に格闘する日々です。
日々の問題の処理にに追われるばかりの高校の先生ですが、英語の教師としての将来を見据えて、英語を新たに学習するためにクエスト21に来られました。今、原発についてのPRO / CONの投書記事の分析、サマリーなどに取り組んでいます。
学校では毎日何か事件が起きます。その対応に追われて、ときどき全日制のクラスがうらやましくなることがあります。職員室に置かれていたプリントは、デイリーヨミウリからの抜粋で、日本文学者のドナルド・キーンが日本人への連帯を示すために国籍を日本人にした記事でした。全日制のクラスでは、こういう教材を扱うこともあるんだ、と。定時制ではこのような教材を扱うことは夢のまた夢。
大変なのは生徒だけではありません。最近、PTAの会を開いたところ、集まる親はゼロ。隣もクラスも2名という状態だったそうです。時々接する親も、およそ「敬語」(respectful expressions)を使うことができない。若いAさんの苦労は並大抵のものではないでしょう。
でも、そのような学校が無かったらこの日本はどうなっているでしょう。このことに多くの人は注意を払いません。社会から放逐され社会に恨みを持ち続ける人間を危ういところで繋ぎとめているのがこうした学校の存在です。日本社会が他国に比べ比較的安全な社会であると言われている理由のひとつにはこういう学校と先生のおかげがあるのです。
大変な学校ではありますが、逆に、他の普通高校ではできない経験もできます。ブラジル系、中国系、フィリッピン系の生徒も、たぶんすがるような気持ちでしょうが、やってきます。彼らを学校は受け容れています。皆日本語が満足にできない。そうすると、皆英語でコミュニケーションを始めるのです!。
クエスト21に来られる方の多くは、来られる際の動機の一つとして、高校に通っている最中は英語と言っても受験のための英語しか勉強しなかったという反省があると思います。しかし、Aさんの高校で「使われている」英語は受験ための道具ではなく、本物の言語なのです。それがいかにブロークンなものでも、「本物」に触れるということは、大きく成長するきっかけを与えてくれるものです。
■6月5日
「ちゃんと英語を学習する」ということ
かつて、映画監督の黒澤明は、俳優たちに「「きちんと」でなく、「ちゃんと」仕事をしろ」と言ったそうです。
最近、その「ちゃんと」という言葉を考える機会がありました。実は英語教育とは関係ありません。中学生の音楽コンクールの動画をユーチューブで見て考えたのでした。
http://www.youtube.com/watch?v=ySLLqh5rYko&NR=1
モーツアルトの曲を合唱と弦楽で演奏したもので、昨年か一昨年ののコンクールのものだと思います。
この楽団を指して、「中学生離れをしている」とか「上手」という評価がされると思います。しかし、私は「ちゃんと取り組んでいるな」という印象を持ちました。もちろんコンクールに勝つという動機もありましょうが、それより、曲をしっかり表現する、英語では、interpret(「解釈する」というふうに普通訳します)している姿があります。そこには大人も子供もありません。
彼らの大半は1年か2年したら、もう音楽とは関係ない世界に進むでしょう。しかし、金賞をとったという過去の栄光を思い出にするということとは別に、モーツアルトのミサ曲にちゃんと取りくんだという姿勢が彼らの一生に寄与することの意味はとても大きいと思います。
「ちゃんと」というのは、「後でどうなる」など考えず、対象の本質に知力と感情の力を持って近づくことです。
たとえ、大人になってからの英語学習でも、何を、どの程度、どうやって学ぶか、ということに「ちゃんと」取り組むことが大切です。もちろん教える方にも求められることです。
「ちゃんと取り組む姿勢」は概して外側に現われます。それは、分っているようで実際はどういう場面で使っていいのか考えあぐねてしまう表現を使えば、「品格」があると言ってようでしょう。上の動画をご覧になれば分かると思います。
彼らの学校は今回の地震の影響により放射能の影響を受け、校庭の土もだいぶ削り取ったようです。今年は音楽活動を続けているのかどうか...。
■5月30日
軽い話題に戻りました…。
プレキソの紹介
プレキソは、NHKの小学生向けの新しい英語番組です。
第一の特徴は、日本語を全く使っていない点です。
第二の特徴は、大人が見みても面白いという点です。
インタネットで、「プレキソ・プラネット」というサイトがありますが、そこへ行けば、4月以降の全ての番組が見られるので、覗いてみてください。
http://www.nhk.or.jp/prekiso/movie/index.html
リンクしませんでしたが、「プレキソ」のキーワードですぐ見つかります。
今週は、エピソード8、 How do you make it?です。
監修者が述べていますが、「英語のための英語学習」にならないように気を配り、英語<で>何を理解するか、伝えるか、という点が中心課題になっています。
この「何」の部分がとても面白いです。
5月は、「形」がテーマ。形には、普遍的なものと、人によって違うものつまり、主観的なものがあるという点が対比されています。
言葉も同じです。日本語でしか通じないものと英語だけでなく世界中どこでも通じるものがあります。
今週は、equilateral triangle(正三角形)、rectangle(長方形)という単語が登場します。正三角形や長方形というような幾何学的形態は、アメリカでも日本でも、中国でもアフリカでも同じもの。つまり、「普遍的なもの」です。
初心者向けの番組ですが、予想外の展開が楽しめます。
番組半ばのショート・アニメーションは、毎月一回の更新です。
5月は、『ビーバーと鳥』。絵もせりふも美しく何度も見るに値します。
今月は仮定法が出来てます。アニメーションのトランスクリプトがサイトにないので、「今週の学習にページ」に書いておきました。
「キリンのように背が高かったらなあ。」は英語でどういうでしょう。きりんはgiraffeです。
■
■5月28日
<<英語を学習することは国語を学習すること>>
-------言葉は伝わってなんぼ--------
(今回、少々重い話題で、長くなってしまいました...。)
最近の政治家の対応を見ていると、若い頃から言葉の勉強を怠ってきたつけが回って来た感があります。
英語の学習というものも、単に処世術として行なうものではなく、ましては試験のために行なうものではなく、広い意味での言葉の能力を高めることではないでしょうか。
言葉というものは、相手があってのこと、じぶんでいくら「こう言うつもりだった」と言っても、相手に伝わらなければ意味がありません。そのことを、若い頃から、国語、英語の学習を通して身に染みていれば、いくら緊急時のこととはいえ、ここまでお粗末にはならないのではないかと思います。
しかも、最近の事件で問題になる言葉の問題は、アプリオリ(先験的)、つまり、経験で分ることではなく、あらかじめ考えれば分ることだということも述べておかなければなりません。考えれば分るということです。
いまさら、例を挙げるのもおこがましいですが、原発に関しては、産経抄の28日が秀逸でした。事件を四幕に分けて述べています。原文は産経新聞のサイトでご覧頂くとして、簡単に整理して見ましょう。
一幕:安倍晋三が、「海水中断の主犯は管」と指摘。
ニ幕:斑目が管に、「再臨界の可能性がゼロでないと忠告した」と。
三幕:管が、「注入の報告はなし、私は止めてない」。
(直後、注入開始を予告する東電のFAXが届いていたことが発覚)
四幕:吉田所長が、「本店の言うことを聞かず注入を続行した」と言う。
綸言汗の如しと言いますが、責任のある人の言葉は重いです。しかし、無難な言葉遣いをすればよいかと言うと、そうではないと思います。無難な言葉使いは、皆さん、とてもよく学習されています。そういう方がいざとなると、失言するようです。普段から、言葉の意味を考えること、自分の言葉を相手がどうとるかを考えることが、こうしたblunder(へま)をしないために重要なではないでしょうか。
上記の過程で一つだけ挙げてましょう。「再臨界の可能性がゼロでないと忠告した」という部分。「ゼロでない」というところで、本人はあとで、「殆ど可能性がない」という意味だと説明してますが、「ゼロでない」というのは論理的には、1%か、99%か分りません。つまり、「再臨界の可能性がある」と同じ意味です。それを、心配しているシロウトに述べた場合、どういう意味にとるのか…、「アプリオリ」に予想がつくことです。本人は、この言葉に続けて、「注入は続行すべき」と述べたと言っていますが、否定的な「言語活動」を行なった点は否定できないでしょう。
さて、もう一つ問題があります。それは、なぜ「ゼロでない」と発言したか。そこには責任逃れという動機がないでしょうか。誤解を避けるために言いますが、無用な責任は逃れるように努力するのは正当な行為です。しかし、問題が他の事柄とぶつかった場合が問題なのです。
その際、頭に「責任逃れ」の意識があると、それに捉われ判断を誤ることになると思います。
一連の言葉使いの誤りの背景には、この「責任逃れ」に捉われてしまう心理が働いているように思います。例の「想定外」ですが、株主代表訴訟を避けるためにそう言ったんだと本人たちは思っていることでしょう。しかし、それに捉われ、その言葉がどういう効果をもたらすかについて、思慮が足りなかったと言うべきでしょう。
昨日も、枝野事務所から広告郵便が届きました。そこで、「直ちに健康に影響を及ぼすものではない」という発言が、誤解された点について、「事態がこれ以上悪化しなければ」という意味で言ったと説明していますが、そのときそう言わなかった点で、「綸言汗の如し」なのです。
■5月24日
『プレキソ』の批評です。
NHKの番組には、時々、とてもセンスのよいものがあります。普段、NHKでも民放でもセンスレスな番組を見ていると、こちらの感覚がおかしいのではないかと思うことがあります。しかし、たまに、よい番組を見ると、自分の感覚が正しかったと安心します。
『プレキソ』もそのような番組の一つだと思います。見る方は意識しないでも、自然に深いものの見方が身につけるように、とてよく「仕組まれて」います。
全体に、「特殊」と「普遍」が強く意識されるような構図がなりたっています。
そのことは、日本人が外国語を学ぶ際に、大きな意味を持ちます。
というのは、日本人にとっての外国語学習の最大の問題は、「外国語」が存在するという意識が幼児の頃から乏しいということだからです。
これだけでは、まだ分りにくいですから、もう少し説明を続けましょう。
よく学校での英語学習の問題点は指摘されますが、問題は、学校教育ではなく、それ以前からの文化に原因があるというのが私の意見です。(学校教育の問題については稿を改めて)
ヨーロッパのように、身近に複数の外国語が話されていて、そのことが生む社会的問題に接する機会が、幼児のころからある社会では、外国語という、発音も意味、文法体系も全く<異なる>言語があるということと、それから、逆に、それでも、その外国語で、<共通の問題を扱える>という事態が存在するという「二重性」を子供は無意識に学習します。
この、外国語のもつ二重性を直感的に幼い頃から理解するかどうかが、その後の外国語学習の成否に大きく影響するように思います。
日本ではその意識が形成されにくいと思います。例えば、リンゴをappleと言い換えることができることを学ぶと、あらゆる事柄が、日本語と英語で、一対一で対応できると考えがちになると思います。英語ではan appleと言ったり、applesと言ったりすることがあることを日本人が学習することはなかなか難しいのです。また、pとlという子音が続くということも学習が困難です。「アッ・プ・ル」ではないのです。
もちろん、我が国語が欧米語と大変かけ離れた構造を持っているという問題もありますが、一番深い問題は、私には上記のことであるように思えます。
『プレキソ』では、安易に英語と日本語が言い換え可能であるという意識を子供が持たないように用心深く構成されています。まず、先験的に英語にも日本語にも存在するものを意識させます。それは、例えば、3原色(光と色)です。その上で、同じ「青」でも、ブルージーンズの青を日本の伝統色の青の違が違う面に話を進めます。
全体を通して、このように、「普遍と特殊」が鋭く意識されるように構成されているのです。これは、「英語」という言語を大前提としてスタートする英語の先生の方法ではなく、哲学的アプローチであると言えるでしょう。
(つづく)
■5月24日
語学学習の3つ目の意味
言語は、読み書き、聴き話すの4つに分類でき、もっと整理すれば、アウトプットとインプットの2つに整理できますが、もう一つ、語学学習の目的があるのではないか思います。
そのことを意識したのは、わが国の首相が震災一ヵ月後に、世界の有力紙に寄稿した英語の感謝状を教材した時のことでした。
まだ「上の人」のすることには口を差し挟まないことをよしとする文化があるのかもしれませんが、フォロワーは単にリーダーに従うだけではなく、常にリーダーがリーダーの役割を果たしているかどうか監視していなければなりません。そのために、アウトプットでもインプットでもなく、チェックするための英語力というものも私達に求められていると思います。
いつも、10年後、20年後リーダーになった時に備えて英語を勉強してくださいと言っているのですが、その前の段階で、さほどの英語力がなくとも、チェックできるぐらいの英語力をつけようということも英語学習の大きな動機になると思います。
首相の感謝状のついての批評は「今週の学習」のページに書く予定です。
■5月19日
NHKの小学生向け英語番組『プレキソ』は、大変よく出来た番組で、その基本的考えも、今のところ、私は賛成です。
なにより、英語だけで作るという方針がよい考えだと思います。
以下は、NHKの英語番組の番組作成者の意見です。
従来の英語学習では、語彙やイディオムなどの「英語そのもの」をみにつけることに注意がいきがちでした。(-----) 英語を使って「何ができるか」を育てることこそ、必要とされていると思います。
ただ、この方の意見と、『プレキソ』そのものの作成者の意見(テキスト4月号にあります)をじっと読んだ結果、感じたことですが、本当の手柄は、この方たちというより、現場で実際に番組を作り上げた人たちにあるように思います。いったいだれが作ったのでしょう。心理学、言語学的なセンスだけでなく、視覚、音楽を含め、広い美的なセンスがある方が共同で作られているようです。
(学習ページに、サイトには無かったアニメーション部分のトランスプリプトを書いておきました。まだ見てませんが、テキスト5月号に書いてあるようですが…。仮定法がテーマのようです。)
■5月19日
忙しいままに忘れていましたが、土曜のGさんが、「Aさんが博士号を取られたのでお祝いをしなければね」、とおっしゃっていました。近々会を催したいです。クエスト21では4人目の「doctor」…、いや3人か。
長年の遠距離通信に関わる経験を理論化した論文が、アカデミックな世界にはない発想だということで高く評価されたそうです。工学博士です。
複雑化した社会では、Aさんのように60を過ぎてから包括的研究がようやくできる、という局面が多く生じるのではないでしょうか。皆さんも当面の問題の解決だけでなく、若いうちから総合的に自分を巡る事象に考察を巡らしてみることをお勧めします。
■5月1日
産経の4月28日「話の肖像画」に、『静かなる闘い』と題して、インドの法律家、エラ・バット(77)さんのインタビューが掲載されていました。
そのインタビューの最後には、このように述べられています。
-77歳ながら精力的に活動されていますね(田北真樹子記者)
- バット 困難から解決策を見つける経験によって成長する。それこそ人生の魅力ではないでしょうか。
http://sankei.jp.msn.com/world/news/110428/asi11042803260000-n1.htm
ここには、今月の掲示板(広告ページ)に述べた、「問題解決としての語学学習」の意味が述べられています。
語学学習は、えてして、実際的な、あえていえば「低い」こととして捉えられることが多いです。ですから、「英会話」が売買の対象のように扱われることがおかしいことに気がつかない、ということにもなりがちです。
しかし、伝える、理解するという人の営みは人間の根本的な活動です。英語という外国語に取り組む際、さまざまな問題を真剣に解決しなければなりません。
その過程で、たんに「英語力がつく」だけでなく、言葉の使い方についての深い知識が身につくのです。さらに、重要なのは、「人間を作っていく」ことになるのです。
たしかに、TOEICで950点を取ることも大切ですが、それが目的化しては、ちょっとつまりません。試験の点数は、もっと大切なことを達成するための<必要条件>があるかどうかの目安でしょう。
自分とは違う言葉を使う人を理解すること、また、その人たちに自分の考えを伝えること、このことに真剣に取り組んでいる人は、おのずと風貌にそれが現われます。
しばらく上のURLはリンクされていると思います。バットさんの風貌をご覧ください。
(いつもながら、このページはリンクしてないので、URLをコピー、ペーストしてください)
■5月1日
建築家諸氏の震災後の取り組みについての朝日の記事を、中級の方々で手分けをして訳し、イギリスの建築家、ジェイソン・ヘイターに送る企画は完成しました。
今、中級では、デイリーヨミウリに寄せられた、原発反対・賛成の投書の精密なサマリーにかかっています。サマリーを通し、英語だけでなく、現在の原発に関する議論の最先端の知見を自分のものにしようという企画です。1ヶ月くらいかけるつもりです。
初級上で少しづつ進めている<動詞の活用、再見!>は、中級の方にも広まってまいりました。けっこう忘れているものです。
以上、英語学習の具体面に及ぶので、「今週の学習」のページに詳述する予定です。
■5月1日
ドナルド・キーンさんが日本に国籍を移したという記事、キーんさんゆかりの読売だけでなく他紙でも扱われていました。
DYの記事
http://www.yomiuri.co.jp/dy/national/20110423dy02.htm
NNN 動画@
http://www.youtube.com/watch?v=Z3Z40UMuq5g
動画A
http://www.youtube.com/watch?v=mMWYcfGIivQ
■5月1日
昨日の土曜日、Aさんらとフランスのアニメーション、『木を植えた男』を見ました。フランス語、英語、日本語のversionsが動画サイトで見られます。
現在の日本にとっては、とりわけ意味を持ちそうな作品です。ご感想をお寄せください。7月には作者F・バックの展覧会が開かれるそうです。
ところで、Aさん、長年の遠距離通信への洞察を論文の形にし、博士号を得られました。団塊の世代、恐るべしです。これからはDr. Aです。Congratulations!
『木を植えた男』(l’homme qui plantait des arbres)1987
原作:ジャン・ジオノ 脚色・画・演出:フレデリック・バック フランス語朗読:フィリップ・ノワレ
英語版(30分)
http://www.youtube.com/watch?v=p7TXgpV5ON4
英語のトランスクリプト、および、英語字幕つきは別のところで、途中2/3までの部分がありました。
日本語朗読:三國錬太郎
1/2
http://www.youtube.com/watch?v=tDNIAHWUjnE&feature=related
2/2
http://www.youtube.com/watch?v=-kn65ITPUVQ&NR=1
■5月1日
花見の時期、もっと日本酒を飲もうと訴えた『南部美人』の社長さんの動画も話題になりました。この連休には、東北の観光地に予想以上の人々が訪れて、復興への勢いがつきそうです。
英語字幕版
http://www.youtube.com/watch?v=PqaCvb9AIM8&feature=related
教室では、字幕にある、他動詞のsufferと、suffer fromの使い分けを学習しました。
■5月1日
英語とは関係ありませんが、パリでの地震チャリティ・コンサートが、さっそくアップロウドされています。
アダモが『雪が降る』を日本語で歌っています。映画『男と女』で有名なピエール・バルーは親子で出演です。(こうした優れた音楽家の存在が、日本の若い世代に十分伝わっていないのはどうしたことでしょう)
長時間におよぶ、デイリーモーションへのアップロウドで、力不足のパソコンでは見つらいのが欠点です。
http://www.dailymotion.com/video/xi2o6r_tsunami-et-demain_music
■5月1日
「パニックに陥らない」ということに関しては、在日米国人のダニエル・カールさんのユーチューブへの投稿が話題になりました。山形弁が堪能で有名な方です。
日本語が十分分らない在日外国人へのカールさんの影響力は甚大なものがあり、各新聞でも大きく扱われました。
●ダニエル・カールさんが、exodusする外人に落ち着くように訴えているユーチューブ。
(exodusとは、大量国外脱出。元来、聖書の『出エジプト記』のこと)
"Stop the histeria!"
http://www.youtube.com/watch?v=vfa3QZEJGW0&NR=1
日本語(山形なまり)(英語字幕)
http://www.youtube.com/watch?v=1jp6DxYa3rw&NR=1
カールさんの活動を扱ったNHKのニュース
http://www.youtube.com/watch?v=ln4bkqs5d14&feature=related
ちなみに、新聞の記事には説明がありませんでしたが、ダニエル・カールさんの父君はカリフォルニアの消防署長。震災前にも、講演などで、地震の備えについて触れることがよくありました。
■5月1日
ご無沙汰しました。会員の間でのメイルでの情報交換にかまけて、このページを更新するのを怠ってまいりました。お伝えすべきことはたくさんあります。「もっと分散して伝えろ」というお声が聞えそうです...。
前回の清沢 洌の記事、アフリカでエボラ菌の感染阻止などで活躍された、感染病の専門家であるOさんから賛同のメイルを受け取りました。
パニックに陥らずに、健全な判断力を維持することがいかに大切か、というをここ1ヶ月、強く認識しました。
■3月31日
<<平常心(アタラクシア)について B>>
清沢 洌(きよし)(1890-1945年)は、『暗黒日記』で有名な戦前のジャーナリストでしたが、1934年に、人間の精神を二つに分けて論じました。
ひとつは「第一思念」と言って「感情、伝統、習慣」から生まれます。ふたつめは、「理性、即ち教育と訓練から生まれる」、反省的、批判的な「第二思念」です。当時、ジャーナリズムが次第に批判的立場を失っていく事態をこうした表現で批判したのです。
こういう時期、平常心を失いがちになり、内向きになって行動が鈍重になりがちです。ではどうしたらいいか。清沢の言う第二の思念を取り戻すことです。今起きていることが問いかける問題を一つ一つ考えていくことです。そのための、考えるヒントは次回書き出してみましょう。
その際、外国語である英語で考え、英語で書き表し、英語で討論することはより「反省的、批判的に考えるために大いに寄与します。
(中上級の方は、手始めに、最近耳にする二つの、放射線の単位、sievertとbecquerelについて英語で説明するとからスタートしませんか。)
ところで、「念のため」、「当面」、「想定外」、それに「協力会社」というような言葉が飛び交っていますが、これらは、<<何かを示すために>>使われている言葉ではなく、<<感情的効果を生み出すために>>使われる言葉です。
「協力会社」とは、要するに「下請け」。示すものが同じなら新しい語彙は必要がありませんが、「感情的効果」を狙ってこういう言葉を使うようになったのではないか思ってしまいます。「感情的効果」も言葉の大切な役割の一つですが、もし契約関係が変わったのでないのに新しい語彙を使たっとしたら、聴くほうは混乱するのではないでしょうか。
ドイツ文学者の西尾幹ニさんは30日の産経で「想定外」について「責任ある当事者としてはこれは言ってはいけない言葉だ。」と述べています。西尾さんの意見の前提には、この言葉は「非難を避けたい」という目的のためだけに使われているだけで、「対象を示すために」使われているわけではない、という洞察があるのでしょう。
同じ日の別の記事には、こういう記述が見られました。
「基準値を超えた」という情報の断片にとらわれ、「何が」「どれぐらい」「どうなるのか」という評価は置き去りにしたまま、人々は漠然とした不安に右往左往する。
曖昧な概念によって、人は、清沢の言う「第一の思念」に捉われます。正確な概念、客観的な言葉を使うことによって、初めて人は不安から解放され、未来への勇気が沸いてきます。
まずは、sievertとbecquerelについて正確に知るということは、そのための第一歩です。
英語の学習においても、正確な表現を心がけることによって、単に英語能力が向上するだけでなく、平常心を取り戻し、未来への勇気がもたらされるのです。
■3月31日
昨年、杉原さんが亡くなった後で買った生け花の山桜が根を出してきましたので、ベランダの植木鉢に植え替えました。葉が何枚かでたあと、枝が一本増えて冬には枯れてしまったように見えましたが、一昨日掃除のために戸を開けてみたら、なんと花をつけているのです。山桜ですから葉っぱと同時に、3つか4つが風にそよいでいました。新しい枝には蕾が沢山ついていましたから、もうすぐ満開になるでしょう。
■3月26日
♪花見+小茶話会のお知らせ♪
お待たせしました。目黒川の花見+小茶話会は、4月2日(土)の約4時からに決まりました。杉原さんの一周忌も兼ねて、杉原さんの好きだった目黒川の桜をぐるっと見物して、クエスト21の戻ってきてお茶(?)を飲む予定です。
■3月26日
<<平常心(アタラクシア)について A>>
福澤諭吉から、『ビルマの竪琴』の著者である竹山道雄さんに飛びます。
1945年、7月22日、第二次世界大戦敗戦の3週間前、一高の晩餐会でこのように述べています。
「今の戦争は精神と物質の戦争だと言われております。(------) むしろこれを感情と理性の戦争といった方が当たっていると思います。」
「ものをよく考え、自覚の中に根をおろすこと」
渦中にあっても冷静な姿勢を失わなかった竹山さんは、戦前の軍国主義にも戦後のマルクス主義にも惑わされず、今でもその価値を失わない透徹した言説を我々に残してくれました。
3人目は、今の評論家、横浜市の教育委員を務める小浜逸郎さんから次のようなメイルが届きました。
「たいへんな事態をどう受けとめられたでしょうか。ご本人およびご家族、お知り合いの方に被害はなかったでしょうか。
亡くなられた多くの方に深く哀悼の意を表するとともに、いま途方もない困難と闘っていられる被災者の方たちを心から応援したいと思います。
それにしても、これからの日本にとって大きな試練の時を迎えることになりましたね。風評や流言に惑わされることなく、冷静に事態の推移を見守りたいと思い
ます。
さて私どもは一方で粛々と勉学に励みましょう。」
4人目は、木曜のクラスのUさん。職場ではヒステリックになっている同僚もいたそうですが、普段のとおり、お気に入りのカフェに行き、お気に入りのランチセットとカフェオレを注文しました。お店の人にもとても喜ばれたそうです。こういうときこそ、人間関係の真価が問われます。
A friend in need, a friend indeed.
「普段どおり」、「粛々」、「ものをよく考える」、このことが大切だと思います。
■3月24日
英語の勉強といっても、狭い意味での語学の学習以上に、日本語を含めた広い言語使用能力を訓練することが大切だと思います。
人にものと伝えることは、普段から訓練していないといざと言うとき決してうまくできるものではありません。日本の教育システムに欠けている点です。
例えば、中国文学者の加地伸行さんが、政治家について以下のように述べています。
「第一は、官房長官や東京電力関係者らの会見姿勢。こういう緊急のときは、最初に結論を述べ、その後に理由を述べるべきである。彼らは、長々、しかもだらだらと途中経過を詳しく話し、結局、なにを言いたいのか聞いていて分からない。」(産経3月24日)
このように、緊迫した状態ではその人の言語能力が暴露されてしまいます。実は、常に言語情報を別の言葉に言い換えたり、まとめたり、逆のことを考えたりという習慣を見につけていないと、いざ、という時に、うまく言葉は出てこないものです。あまり指摘されませんが、英語学習にはこうした能力を養う意義があるのです。
■3月24日
<<平常心(アタラクシア)について>>
福澤諭吉は、戊辰戦争で上野の山からは砲声が聞える中。逸る塾生の心を抑え、塾生とともにウェーランドの経済学の本を読み続けたそうです。
こういうときこそ、ニュースに一喜一憂せず、その分析に気持ちを向けましょう。
福澤の時代と違って考える素材は沢山与えられています。例えば…。
このような国家的な危機に際して、全国レベルの外食産業とコンビニエンスストアを比べると、どちらが強いでしょう?。投資家の立場で考えてください。答えは後日に、。
このような国家的な危機にも拘らず、どうして総務大臣は、「民主主義の基本だから」という原理的判断で、地方選挙を強行するのでしょう。
このように、諭吉の時代と違い、日常的なことからも考える素材がたくさんあるのです。恐怖は思考を麻痺させます。逆に冷静な思考は恐怖を和らげます。テレビや新聞、インタネットなどから情報はいくらでも手に入れることができます。それに対してどう立ち向かうかが問われているのではないでしょうか。
もちろん、英語の新聞を落ち着いて読み取ることもこうした営みの一つです。日本の新聞以上に紙面を費やしているのではないかというほど、ワシントンポストやウォールストリートジャーナルには、詳細な報告、分析が連日掲載されています。
土曜日中級では、いくつかの記事を読んでみたいと思います。
■3月21日
今回、VOAとBBCの記事の紹介です。VOAについてはメイルで読まれた方は、BBCの記事も読み比べてください。
さて…、
以下のうち正しいものを選べ。
災害のときでも____________ の気持で、災害記事から多くのことを学びたいと思います。
@七転八倒 A七転び八起き B七生報国 C転んでも只では起きない
英語には答えはありませんが、こんな時、冷静に、バランスの取れた考え方をするために、
外国語と「遊んで」みることはとてもよいことです。こういうときこそ、英語の記事で災害について理解を深めましょう。
今回、「災害特別READING」です。音声のないVOA SEの記者の緊急リポート。
リーディング用の教材として編集しました。
『災害のさなかのストイシズム:日本の一地方が活動的停止に追い込まれる、静さのうちに』
★長いエッセイの倉庫
初級上の方にも読めるように註を多くし、訳もつけました。
著者の日本に対する見解についてどう思いますか。皆さんの意見を聴きたいものです。
世界中の人のコメントも記事のあとにあります。これもぜひ読んでください。
VOAだけでなく、BBCの取材記事にも注目。下がURLです。
VOA
- Stoicism Amid Disaster: Japanese Region Quietly Grinds to a Halt
Steve Herman | Koriyama, Japan March 16, 2011
http://www.voanews.com/english/news/asia/Stoicism-Amid-Disaster-Japanese-Region-Quietly-Grinds-to-a-Halt-118107164.html
BBCの記事
- A test of Japan's 'stoicism'
『日本のストイシズムの試金石』
By Chris Hogg BBC News, Tokyo
http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-pacific-12798799
日本人は、他者にどういう印象を与えているか、という点に関して、鈍感であるといわれますが、皆さんはどう思われるでしょう。
人がある意見を持つ場合、対象についての客観的な意見であるというより、自己を語っている場合が多いです。二つの記事から考えられることは、記事を書いた人の周りにはいかに無秩序が多いか、ということではないでしょうか。
そのことは、以下のような意見によく表われています。
17-03-2011 Lisa (USA)
I am so glad you reported on this. I have been thinking the whole time "why aren't they reporting the riots? the rapes? the utter societal chaos? Finally, the truth be told from someone at ground zero, These things aren't happening! being from the land of entitlement, this seemed impossible to me. Thank god there is at least one nation on our planet capable of acting rationally in the face of such a tragedy. May god show mercy on the Japanese people. They are a shining light of hope to me.
訳:私はこのリポートを大変嬉しく思う。私はずっと、なぜ記者は暴動を報道していないのか?、強姦は?。社会秩序の崩壊は?。最後に分かったことは…、「災害の中心にいる者に真実を語らしめよ」、である。こうしたことは起こっていないのである!。「権利のみ主張する人の国」(the land of opportunity=「機会の国、つまりアメリカのこと」への批判のように思われる)の私にとっては、このような事態はありえないように思えたのである。神に感謝!、我々の惑星に、このような悲劇に直面しても理性的に行動する能力のある国が、少なくとも一つあることに!。神よ、日本人に御慈悲を!。彼らは私にとって輝く希望の光なのです。
■3月3日
英語の学校をしてますと、英語学習という一見実利的なものの学習に見えて、実はそれ以上のものを学び取ろうとする方々が意外に多いことが分ります。
反対に、学習を、決められたことを穴埋め問題ように入れることだということが染み付いている方もおられます。外国語学習は、問題にぶつかりそれを解決するという人間の活動の一つです。それは安易ではありませんが、楽しいことです。
先日、wishとhopeの違いについて話していたら、最近参加された韓国人の留学生のIさんから、映画の一節を紹介されました。Iさんも、目の前のものだけでなく遠くにあるものまで学び取ろうとしている方です。hopeの例です。レッスン後、以下のせりふが交わされる場面をユーチューブで見ました。屋外の逆光が美しく多用されている映像が印象的でした。
"Forget that there are places in the world that aren't made of stone. That there's something inside that they can't get to, that they can't touch.That's yours. "
"What are you talking about?"
"Hope.
The Shawshank Redemption 『ショウーシャンクの空』
■3月3日
先週、VOA SEのある記事を、易しいので中級だけでなく初級上でも扱っってみました。ジャカルタの英語オリンピックの話しでした。この記事のある箇所が、英語教育、学習に一つの示唆を与えてくれます。
最後の方で、主催者の大学生はインタビューにこういう出だしで答えています。
Two months ago we already have participants from Bangladesh, but unfortunately we cannot accept them because this is actually the Southeast Asian English Olympics.
「二ヵ月前に」と言い出しているのですが、過去形を使っていません。インドネシア語には過去形が存在しないと聞いていたのですが、どうもそれは本当らしいです。外国語を学習する際、習う人の母国語が影響を与えることは、考えてみればあたりまですが、これはそのよい例だと思います。発言者は、他の点では大変流暢に英語を話しますが、こと時制については一貫して現在形を用いています。母国語の影響かくも強し、です。
英語教育に関して、このことは、あまりまじめに取り組まれてこなかったのではないでしょうか。マーフィーの文法書など万国向けのよい文法書は普及しているのですが、「日本語を母国語とする人のための英文法書」で、目ぼしいものがない点を見てもそのことは言えるのはないかと思います。
概して、「また○○人は○○を間違った」という嘆きが教師の口から漏れるだけで、英語と○○語の、構文、語彙、発音の違いを体系的、教育理論的に扱うことがおろそかになっているように思えます。もちろん、ここで○○に「日本」が入りますね。
日本語には、時制といえるかどうか分かりませんが、「した」という表現があるので、このインドネシア人のような間違いはしないのですが、現在完了形と過去形の違い、複数、単数の区別など、日本語にない文法、語彙構造については、もっと計画的に教育、学習する必要があると思います。
たしかに、こうした面が遅れている理由は推測はつきます。一つには、日本語の分析が十分ではなかったということです。日本語文法なのに、「主語」という欧米語の文法用語を長年使い続けてきた点を見てもそれは分ります。それにnative speakerが、「知識が多い自分が乏しい者に知識を授ける」という姿勢で英語教師になる場合が多いという理由もあるでしょう。
しかし、そろそろそういう時代は終わりつつあるのではないかと思います。native speakerの教員(教員と呼べるかどうかは問題ですが…)は、「自分が知識が多いから教えられるのだ」という傲慢な態度を捨ててもらわなければなりません。つまり、自分が母国語を分析的には理解していないことを自覚し、かつ、他国語の構造を十分勉強した上で、双方の言語の溝を埋める努力をしてもらいたいと思います。
日本人の英語の教員に望みたいことは、国語、国文法、日本語の意味論をしっかりと学習、研究していただきたいことです。さらに英語を習う人間についての学習心理学、「学習言語学」(こういう分野はあるのかどうか?)についての知見も増やしていただきたいと思います。
さて、上のインドネシア人の英語ですが、どうもparticipantsをapplicantsのつもりで使っているようです。ここからインドネシア語の語彙上の問題を推測することができます。確かめたい方は、以下のURLから、この後の部分を聴いて(読んで)みて下さい。
付論:インドネシア発の英語オリンピックが世界的に普及したら、また日本は「世界標準」を一つ失ったということになるかもしれませんね。
Jakarta Holds Southeast Asian English Olympics
09 February 2011
http://www.voanews.com/learningenglish/home/world/Jakarta-Holds-Southeast-Asian-English-Olympics-115669879.html
03:56
■2月18日
文法学習の意味
「なんとばかげた.............をしでかした..............だ。」
点線に、@こと、Aもの、のどちらかを入れよ、と問われたらだれも間違わないでしょう。
無意識にある規則にしたがっているのです。文法の規則といはそういうものです。「三人称単数の主語があれば、動詞にSをつける」ということを考えているだけではそれは「文法の知識」とは言えません。それが、中学校で教える際など、他の教科との大きな違いになるわけです。
今、初級上では「仮定法入門」を展開していますが、状況によって、動詞を現在形にしたり過去形にしたりする直観力が養われるには本当に時間がかかります。
まずは大変なのだということを覚悟して、どっしりと腰をすえて英語学習に励みたいものです。
ちなみに、仮定法は取り違えると大きな誤解を生む可能性があるので、今のうちから学習する姿勢を正しておく必要があります。
ところで、次の問題はできますか。
生ける者、死ぬとふ...........に、免かれぬ..............にしあれば…
分るでしょう!。これは万葉集です。千年以上も前の日本人も今の日本人も同じ文法で言葉を語っている、つまり同じような思考形式を持っているということです。だから、古典も理解できるのですね。
以上の例、長谷川三千子著『日本語の哲学へ』(ちくま新書866)という名著からの例でした。
■2月18日
川路聖謨を出したら、豪商、高田屋嘉兵平(1769-1827)を出さないわけには行きません。
狭い意味での外国語の力は不十分でも、こんなにがんばった日本人が鎖国の時代にもいたという例です。今時の、へたに英語がうまい人より、ずっと外国人とのコミュニケーションの本質を理解してるように思います。
司馬遼太郎さんの『菜の花の沖』などで嘉兵平はとても有名になっているので川路より知っている方は多いでしょう。嘉兵平の持ち船は、日本で拘留されているゴヴロニンの代わりに拿捕されます。ここでは、ロシアの将校や官僚たちとのコミュニケーションはどうであったか、どのように見られていたかについて短く触れておきましょう。
その辺に詳しい論文を生田美智子さんという学者が書いておらるので、そこからの情報です。
まず、日本語とロシア語の文法、音韻の違いはとても大きく、ロシアの艦長、リコルドとの間で、日本側に拘留されているロシア人、ゴロヴニンの名前さえ了解するのに時間がかかりました。リコルドと嘉兵平の名前も、あえて表記すると、「いこるつ」と「カヒ」というところでした。
しかし、漂流民によるリコルド自身の日本語学習や、中国人を介しての筆談などに助けられて、「日露紛争を解決するにはロシアの責任者に公的な釈明書を出させる必要がある」という抽象的な会話もできるようになりました。ナポレオンがロシアから退却したという情報も掴んでいたようです。
狭い意味での語学以外に、次の2点がとても重要です。ここにこそ現代の我々も学ぶべきものがあると思います。
嘉兵平は、重要な交渉を行なう時、正装、威儀を正して接しました。そのためリコルドも嘉兵平の意思が信頼に値するということを信じるに至ります。文化が違っても、「正式」「儀式」「作法」「もてなし」の象徴性には普遍性があるということでしょう。
「嘉兵平は帯剣し正装に身をただし、二人の水夫を従え自室を出て私に謝辞を述べだした。意外の感情に感激した私は、自分の約束はかならず果たすと断言してやった。」
さらに、拉致された身ではあっても、「自分の意思でロシアへ赴いた」という姿勢を貫いたことが注目されます。自分たちの食い扶持は自分で賄い、ロシア側の補助を避けました。また、滞留中はリコルドと生活を伴にすることを要求してそのとおりにさせました。つまり、対等の立場を維持したということです。卑屈は軽蔑され交渉ごともうまくいかなくなることを理解していたのでしょう。
以下に生田さんが発見した、ペテルスブルグの新聞に掲載されたドブリという官僚の経験談から引用しておきましょう。
彼は50歳ぐらいで、中背で、情熱的な性格だった。はっきりした顔立ちだが、きわめて日本的である。ひと目で、太っ腹な性格であることが分かる。彼が意気消沈していることはめったになかった。不幸を勇気でもって克服する哲学の教えにしたがっているようであった。人に対し影響力を持ち、敵対的な状況も和やかにした。彼はしばしば日本人の生活習慣や儀式に関する面白い話をして、われわれを楽しませてくれた。しかも、判断は極めて鋭かった。彼は奇妙なことを笑い、不作法だと思うことを非難した。
(---)
彼はきわめて善良な心をもち、偽ることなく、友情と憎しみを示した(他のアジア人と極めて異なっている)。彼の私に対する心服は心からのものであり、同様に彼が述べた考えも偽りのないものであると信じている。
■2月10日
中級以上の英語学習の目指す一つの姿
川路聖謨(かわじ・としあきら 1801-1868)という幕府の勘定奉行がいました。開国を求めてきた、プチャーチンに随行してきたゴンチャロフは次のように川路を描写しています。
この川路を私達は皆好いていた。(中略)川路は非常に聡明であった。彼は私達自身を反駁する巧妙な論法をもって、その知力を示すのであったが、それでもこの人を尊敬しない訳には行かなかった。その一語一語が、眼差の一つ一つが、そして身振りまでが、すべて常識と、ウィットと、炯敏と、練達を示していた。明智はどこへ行っても同じである。民族、服装、言語、宗教が違い、人生観までも違っていても、聡明な人々の間には共通の特徴がある」(井上満訳、岩波文庫)
もちろん、川路は通訳を通して会話したわけです。しかし、全くロシア語を知らなくてもここまで伝える能力があった川路の姿勢は、実に学ぶべき、目指すべき模範と言えるのではないでしょうか。
明治以降、「受け容れること」を第一に考えてきた日本人の外国語学習が忘れてきたものが明治開国の直前に存在したのです。鎖国対開国で歴史を見る史観ではこれをどう説明すればよいのでしょう。
プチャーチンが「明智はどこへ行っても同じである」と述べている点に注目したいと思います。我々が英語学習をする目的はいろいろありますが、第一は、英語とういことに限らず、どこの誰にでも通じる<普遍的な>知性と言語能力を見につけることではないでしょうか。
その後、川路の運命は…。歴史の本をお読みください。
■2月3日
サンデル教授によるレクチャーの教材としての扱い
先週の土曜日に、デイリーヨミウリで、サンデル教授の年初インタビューを扱いました。
前半で、「日本人は議論べたで、議論嫌いである」という俗論を排しています。サンデルの本が本屋に並んでいるのを見ても、そろそろそういう先入観を捨てる頃ではないかと思います。中級クラスでは、英語という外国語を借りつつ哲学的議論の入門をしてみたいと思います。哲学というと難しいことだと思いがちですが、人の知的関心の大本にあるのが哲学です。そして、言葉の学習の本質に触れる面もあります。
後半では、共同体による評価と支持について論じていました。近代的原理の抑制のない適用に対する歯止めとしての役割を「共同体」に求めている、という意見です。
土曜にTEDにサンデル教授のレクチャーがあることが分りましたので、一部を教材用に編集しました。 火曜日に既に一回扱いましたが、他の中級クラスでも順次扱いたいと思います。
思い込みではなく、正確に議論を理解することが求められます。
「思想」「哲学」は、なんとなく気分で分った気持ちになっている場合が多いのですが、それを避けるためにも、サンデルのように、ギリシャ的な議論、討論からスタートして哲学入門することはとてもよいことだと思います。
サンデル教授の議論の展開の仕方と、語学的課題については、「今週の学習」で触れます。
■2月3日
新しい参加者の方
火曜日に二人の方が参加されました。
初級上には、Yさん。演劇、映像関連の方で、英語の詩とせりふの朗読を向上させたいのが、小テーマです。この際、時制や、複数、単数など基本的な文法もしっかり身につけていただきたいと思います。
中級には、韓国から東大、慶応に留学されているIさんが参加されました。10年前にお兄さんが、やはり東大に留学中にクエスト21に来られていました。英語でのプレゼンテーション、論文の技術をしっかり身につけていただきたいと思います。
皆さんも、負けずに英語の学習にがんばっていただきたいと思います。忙しい時も、毎週の復習@、A、それに、メイクアップを上手に利用してください。
■次回の小茶話会は...
年末と、夏休み前の「大茶話会」ほどではないですが、春から連休の時期に毎年、「小茶話会」(酒話会?)を開きます。
今年は少し早めに、目黒川の花見を兼ねて行ないたいと思いますがいかがでしょう。杉原さんの一周忌も兼ねて。
土曜日に4時ぐらいにレッスンを切り上げ、1時間ほど散策して、戻ってきて茶話会を開くという段取りですが、どうでしょうか。
■サンデル教授の講義を教材に
NHKの番組で扱われた、東大における哲学の公開講義をきっかけとして、昨年話題が沸騰した感があるハーバード大学のサンデル教授の講義を教材に使ってみたいと思っていましたが、土曜日にTEDに適切なものを見つけましたので、今週中級で扱います。今編集中です。
デイリーヨミウリのインタビューで彼が話していたように、日本人も本質的なことに関する議論の必要を感じているのでしょう。
これを機会に哲学への関心が広がるとよいと思います。次回の中級は、英語という外国語を手立てとして、「普遍的なことを考え、論じる」というクエスト21の目標を一歩進めることにしたいと思います。
■1月30日
まだ火曜のnative speakerの先生は決まっていませんが、しばらくピーターの代講、または小川のみです。単にアルバイトではなく、いっしょに言語について、コミュニケーションについて勉強する志がある方を望んでいます。
■1月30日
火曜日に二人新しい方が参加しました。一人は初級上のYさん。もう一人は韓国からの留学生(学部は東大、現在慶応)のIさん。
Yさんは、英語の詩をよい発音で読み上げることを一つの目標にしています。
Iさんは、なんと、10年ほど前にクエスト21に来ていた東大の大学院生の弟さんです。お兄さんも優秀で、積極的でしたが、今度のIさんも、積極的に、ライティングや口頭での発表の腕を磨くことを目指しています。お兄さんは今サムソンで活躍しているそうです。
■1月1日
(少し長いです)
言語学や学習心理学はあっても、言語学習心理学という分野はまだないのではないでしょうか。
また、英語学という分野はあっても、日本語を母国語とする人のための英語学習学というのも、ない…、いや、この分野に近い試みはあるかもしれません(これについては稿を改めて)。
バーナード氏が「英会話というものは存在しない」と10年前に述べてからも、「紅茶茸を食べたらガンがみるみる消えた」の類の広告が効果を持っているのは、どうしたことでしょう。冷静に考えれば、このインタネットの発達した時代に本屋の店頭で高額の「英会話商品」を売ることが可能であることの背景には、「日本人のための英語学習心理学」が存在しないことがあるからではないでしょうか。もしそのような分野で、言語学習についての一定の理解が専門家の間で共有され、啓蒙活動が行なわれれば、スターを使って「私にも話せます」(昔「私にも写せます」という広告文がありました)というような広告は効果を減らせるのではないかと思います。
と、ここまで書いても、「日本人の英語コンプレックスがある限りそういう商売は無くならないよ」という声が聞こえてきそうです。
ごもっとも、と言うしかありません。
コンプレックスという主観の側の問題がある限り、いくら「客観」の方でがんばっても無駄なような気がします。
それなら、その「コンプレックス」ということを問題にしなければなりません。
コンプレックスとは何か。現実とは無関係に頭の中で「俺はだめだ」と思い込むことでしょう。コンプレックスを持っている人は、必ず現実との関わりが欠けているという特徴があります。英語学習に即して言えば、実際に理解しよう、分からせよう、コミュニケーションを持とうとするための、工夫や、失敗にようる再挑戦から身を引いていしまっているということです。
「いや、失敗したから身を引いたのだ」と言われるかもしれませんが、それは最初だけのことです。身を引いたままなので、ますます怯えが増殖し、悪循環(vicious circle)が生まれてしまっているのがコンプレックスの状態だと思います。
そこで、英語学習を効果的に進める方法は、その悪循環を好循環へ変換するということだと、仮説を立てることができます。
一般的に言って、好循環を生むためには、落ちついて無理なく、達成感のある作業を積み重ねることです。人間、単純な労働は耐え難いものですが、達成と挑戦の組み合わせがうまくいくと、とんでもない業績を達成するがあります。
それを達成するための最もよい具体的な方法は、まず英語圏のなかに入り込むことです。入り込むことが十分条件ではありませんが、そういう状況に入れば数限りない動機付けが日々訪れます。
問題は、英語圏のなかで生活しないで、週一回の学習で、どのような動機付けを行い、どこまで英語力を伸ばせるかです。
話は、やはり日本人のための言語学習心理学というテーマに戻ってきましたね。
私なども、まだ経験の積み重ねという段階で、「学」といえるところまでは行っていません。しかし、日本人やnative speakerのベテランの先生で、個人個人、多くの知見を蓄積している方が多くおられるはずです。それを一人の一生で終わりにしないで、広く共有、検討する場が必要だと思います。
■12月17日
メイクアップ週間が始まります。日曜、昼間もたいていは都合がつけられますのでご連絡ください。
22日(水)は、昼、夜のみできません。
■12月17日
2011年のスケジュールができました。料金のページから見てください。
■12月14日
木曜日の時間が元に戻ります
■12月11日
年末年始はメイクアップ週間です。十分活用してください。
明日の121月12日(日)は、14:00より初級上のメイクアップを行ないます。
中級の方もどうぞ。接続詞の問題を進めます。
■12月11日
18日(土)の茶話会、第2報です。
♪茶話会は18日(土)4時ごろより♪
場所:クエスト21
ふるってご参加ください。ポットラック式(持ち寄り式です)
今年は杉原さんを偲んでローストビーフに挑戦です!!!。
辛党の方はワインでパテ、テリーヌなど。
各種、タルト、パイも予定しています。
■12月6日
日程変更のお知らせ
9日(木)20:30は、今週に限り、8日(水)へ変更になります。ご迷惑をお掛けします。 初級上とはいえ、中級の方にも役に立つ、文法的な盲点を扱っています。
★日曜なども、メイクアップの機会を増やしました。
12日(日)は14時から、初級上の補講があります。GandCの5章と6章(現在完了形)から時制の一致の部分のロールプレイです。
■12月6日
♪茶話会の日程が決まりました。♪
12月18日(土)16時ごろから
場所:クエスト21で。
方式:ポットラック方式
今回の特徴:杉原さんを偲んで、ローストビーフに挑戦します。
静に、お茶はワイン、カクテルなどをいただきます。
気楽な集まりなので、ぜひお誘いあわせの上おいでください。
■11月28日
マンションのフランス人
昨日、買出しに出ようとしている時、地下で西洋の方と挨拶しました。アクセントからフランス人だと分かりましたので、「あなたはフランス人ですか」と、ほぼ1年ぶりに(for the first time in a year)フランス語で話しました。まだ口から出ますね。
久しぶりに会ったフランス人ですが、態度物腰でフランス人と分かるので感慨がありました。米国人とは違います。なぜ分かるのかなかなかうまく説明できないのですが、試みてみましょう。 体のこなしが、ある意味で硬いのです。姿勢がすっと伸びていると言った方がいいでしょうか。フランスにはフランスの礼儀の観念があるのですね。「始めまして」から自己紹介の仕方などプロトコールに沿っていて、自然です。普段米国人とのみ接しているので新鮮でした。考えてみると、歴史のある国にはどの国にも、下手をすると形式的になってしまう恐れなしとしない、ある種の礼儀の型というものがあるようです。たぶん米国が例外的で、informalな態度を率直の証として強調する文化があるのだと思います。
私が自転車で出ようとすると、さっと移動して駐車場の入り口を開けてくれました。私は例によって自転車を担ぎ上げ、鎖の上を越えながら、挨拶を交わしました。
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