小説家「安部公房」論

 

安部公房の試み

 〜世界最前衛であり続ける理由〜

            

 

 

作家安部公房を一言で評する時、

最も相応しく、頻繁に形容される言葉は、

『前衛文学の旗手』

であろう。

事実この言葉には、安部文学のあらゆる特徴が

凝縮されている。

だが、ひとつの切口において、この表現は、正確さを

欠く

そればかりか、時に誤解を生じさせる原因に、なっている。

どのような誤解か?

それは、安部文学は難しい、わからないといった誤解である。

何故、そのような誤解が生じるのか?

問題は、安部公房作品の、取り上げられ方に、ある。

安部公房の短編、『棒になった男』『鞄』などは、

高等学校の国語の教科書に、しばしば掲載される。

又安部公房の、「代表作を読みたい」と願った読者が、

「 代表作は芥川賞受賞作」というメディアの風評に誘われ、

『壁―Sカルマ氏の犯罪』だけを読んで、安部作品のイメージ

を固めてしまう事にこそ、原因がある。

安部公房自身、小説が

「難しい」

「わからない」

といわれることに触れ、併せて日本の国語教育の欠陥について、

左記のように言及している。

 

 …日本の国語教育というのは、文章があれば必ず「右の文章の

 大意を述べよ」とくる。文学作品というのは、大意が述べら

 れるという前提、思いこみ。…ぼくの作品も教科書に載ってい

 るんですが、「大意を述べよ」といわれたら、ぼくだって答え 

 られない。ひと言で大意が述べられるなら、小説書かないで

 すよ。…小説というのは、まだ意味に到達していないある種の

 原型を、作者が提供し、読者はそれを体験する。…たとえば等

 高線で書かれた地図。目的に応じて読み方が変るでしょう。

 際限なく読み尽くせるでしょう。無限の情報ですよ、現実は。

 そういう情報をたたえてはじめて、小説なんだ。意味だけ読

 みとって、ハイ終わりじゃ。小説とは言えない…NHKインタ

 ビュー1985年1月16日小説は無限の情報を盛る器より

 

確かに安部公房が書いた短編小説は、

文学という『書き言葉』を駆使した芸術作品の創造行為において、

日常の因果律の解放を実験的に試みたという点で…近代絵画が

具象から抽象に進んだように…前衛的と言える。

そして安部公房を『前衛文学の旗手』と呼んだ場合、

その多くがこの手の前衛性を指している。

いわゆる

「わけ、わかんなさ」

短編を創作する上で、確かにそのような意図が、存在した

ことは否めない。

だが、安部公房が生んだ長編小説が、短編小説の延長であると

把えられてしまうと、最も重要な安部文学の価値と、

文学史上比類を見ないその功績を見落としてしまうことに

なりかねない。

いや、それだけでは言葉は足りない。

正確に言えば安部公房は、長編小説の作品化を通して、

世界で誰一人として試みた事のない行為に意識的に挑戦し、

見事成功をおさめたそれゆえに、前衛文学の旗手なのだ。

又、その壮大な挑戦の結果、生み出された長編作品群は、

多くの言語と国境を越え、世界最前衛の文学作品の称号を

得たのだと言える。

安部文学において、短編小説がもつ前衛性と長編小説が

もつ前衛性とでは、その性質はまったく異なる。

長編小説は、非常に簡潔で判り易い表現に終始し、しばしば

神話的な形をとる。

その構成も非常に強固で明瞭だ。

だがそれだけなら、短編『赤い繭』や『闖入者』に、強固な

構成を発見できよう。

では、長編小説において安部公房は、なにを成し得ようと

試みたのであろうか?

そして何故に安部公房が生んだ長編小説は、世界最前衛の

文学作品と言えるのであろうか?

それらを記すことで、安部公房が心血を注いだ、

「世界で誰一人として試みた事のない意識的な行為」

が、何であったか?

その結果何を成し得たか?

明らかにすることとなる。

問題の焦点がより鮮明な像を結ぶために、まず、

小説がもたらす、言葉の機能から、言及してみよう。

 

例えば、貴方が小説を読み終えた時。貴方の中で

その小説に対する総体的な、是非の判断は、どのように

行なわれるであろうか。

それはしばしば、貴方の読後の印象に象徴される。

それを貴方は溢れる涙で迎えるかもしれないし、

湧き出る高揚をおさえるのに苦労しているかもしれない。

また、本を閉じて目をあげた時、本当に世界の色が

変わって見えたかもしれないし、義務感だけでなんと

かそれを終わらせ、放り投げて清々したかもしれない。

だが読んで満足できたと感じさせられた小説、

それらを読後感から大別すると、

次の二つのパターンに分けられる。

一つは、作中の登場人物に自己を投影して、自己理解に

至ることを可能ならしめている小説。

いわゆる自己を深化する要素が強い小説。

言葉はこの時、貴方の過去の体験を、組み合せ、

新しいもの事の感じ方を、体験させてくれる。

もう一つは、設定された仮想舞台の追体験を通し、

人生の謎解き物語として成功した結果、他者理解を

深める事に成功している小説。

いわゆる自己を他化する要素が強い小説。

言葉はこの時、貴方が釈然としなかった、過去の他者の

行為の謎を、紐解き規定することで、あなたに、

理解をもたらす。

前衛的なプロットで構築された短編小説ですら、

その要素を具体的に列記してみると、感動の質は、

どちらかに振れる。

さらにそこに、情緒的感動の充足がもたらされれば、

読後感は肯定的になる。

肝心な点は、一見無秩序にすら見える、

自動的でアナログ的な人間の衝動や行動の中に、

因果律を発見し、そこに意味を付与することで

安心感と充足感を作品を通じて読者に授ける事だ。

時にはそれが閉塞感に風穴をあける爽快感にすら変る。

そのように作者は小説をまとめ、より感動的なものに

仕上げるよう競うのだ。

だから、しばしば小説は、大意に要約されるのである。

不可解な現実が、言葉で解釈されれば、読者は安心するからだ。

それに対し、安部公房の小説化はまったく独自に、

驚くべき方法の数々を駆使し、壮大な挑戦を決行する。

 

結論から言おう。安部公房は、長編小説創作の目的を、

『言葉による、想像的現実の創造』

に置いたのだ。

つまりあらゆる生理学的知識を結集し、読者の体内に

取り込ませた物理的に様々な性質を持つ言語の機能を駆使し、

読書体験を現実体験と比肩する生理的体験に成らしめる事を、

目的としたのだ。

 

 …文学作品というのは、極端にいえば、われわれが生きている

 小さいなりの世界を作って、それを提供するということです。

 そういう作業ですから「お説教」や「論ずる」ということは、

 小説において必要ないと思いますね。…人生の教訓を書くなん

 ていうのはエッセーなどに任せておけばよろしい。小説とい

 うのは、それ以前の、意味に到達していないある原型を提出

 する。読者はそれを体験する…NHKインタビュー1985年

 1月16日小説は無限の情報を盛る器より

 

このように、作品化の動機と目的が、

他の多くの作家と根本的に異なる次元にある。

安部公房は20代後半以降、没年に至るまで、

ライフワークとなった

「人間にとって、言葉とは何か?」

という命題を科学的に解明する為、

大脳生理学・分子生物学・言語学の研究

(拙書『もうひとつの安部システム』参)

をすすめる過程において、人間の生理現象に、

非常に習熟した。

安部公房はある理解に至った。

それは、人間は音波・電磁波・振動といった、

まったく性質の異なる物理的な情報を、

五感の感覚器を経由して脳の中へ取り込み、

等価交換を可能ならしめた遺伝的変異のおかげで、

再度感覚器にフィードバックした情報を統合し、

記憶や印象・言葉といった出力運動を通じ、

体験として認識している、という理解である。

それならと安部公房は小説化の過程で、

視覚から体内に取り込まれた電磁波である言語のみを駆使し、

フィードバック機能を通じて視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚を

再刺激することで、現実体験と等価な生理感覚を読者の中に

隆起させる事を、実践したのだ。

難しいとお思いかもしれないが、

早い話、貴方も旨いもの・・・特に辛いもの、すっぱいもの

激辛カレーやレモン・・・を食する描写を読んで、

条件反射によりよだれが出た経験がおありではなかろうか。

枕を交わす状況表現を読み、生理的に反応してしまう

などと言えば、さらに身に覚えがおありかもしれない。

たとえば安部公房は

「副詞を削る」

という技法(詳細後述)でこの言語機能を、

作品上に定着させた。

そのように科学的に解明した人間の生理を、

創作に利用する、多くの、まったく独自な、

技法を確立したのである。

その結果

『小説という表現形式の中で、言語の生理への

フィードバック機能を利用し、読者にとって

未体験の「現実感覚」を、読者の内部に再構築する試み』

に成功したのだ。

これが、安部公房文学で、しばし体験する、

強烈に生理的な体感のカラクリの一つだ。

科学的な博識、膨大な教養と小説に対する独自の技法の確立、

厳密な小説の定義。

それを意図的・意識的に実践した作家は、

世界の文学界を見渡しても、安部公房、ただ一人だ。

そして、それこそが、前衛文学の旗手たる理由に他ならない。

まったく新しく、

全て未曾有の試みだからこそ、

世界最前衛であるのだ。

この文を読了後、そういう認識に立脚して

安部公房が書いた長編小説、

「第四間氷期」

「砂の女」

「他人の顔」

「燃えつきた地図」

「箱男」

「密会」

「方舟さくら丸」

「カンガルーノート」

をどれか一つ、手に取ってぜひ、ご

覧になっていただきたい。

どれをとっても平易な語句と簡潔によく刈り込まれた

文体によって書かれつつ、あらゆる類似を拒絶し、

解釈し尽くす事など到底不可能な、実体験以上に

現実的な想像的世界を創造していることに、

改めて驚かずにはいられない。

もう一つ、安部公房が小説を書く時に、

自らに科した課題を紹介しよう。

 

 すらすら書けたら、筆を置く

       ↓

 イメージが見えるまで待つ

       ↓

 聞こえたり嗅いだり、抱けたりするまで待つ

       ↓

 見えたら凝視し続ける

       ↓

 それが文体になるまで、書いては捨てることを繰り返す

 

つまりはこのようにして、安部公房は、

小説一作を創造した。

安部公房が長編一作にかけた、平均的な創作時間は、

おおむね5年といわれる。

それだけでも驚愕に値するが、

5年というそれらの創作過程で安部公房は、

どのような独自の技法と言語を駆使し、

言葉を編み上げて行ったか。

そのプロセスを、安部公房自身の言葉を手掛かりにして、

具体的に、順を追って記して行こう。

 

まず、人間は現実という情報の連続体を、

五感(視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚)

を通じて脳内に取り入れ、統合し体験することは、

先程触れた。

それに対し、読書という現実体験はどうであろうか。

読書は、本から文字という電磁波の視覚情報のみを、

視覚を経由して脳内に取り込み、読者に組み立てさせる。

前提を比較してみると、読書体験には、

現実体験に比肩しない「困難さ」が、読書という行為そのものに

自ずと存在している事に安部公房は気付く。

その困難さを、次のように捕えている。

 

…幸か不幸か人間というのは五感しか持っていない

…言葉による 概念はすべて多様で精密だ。

 しかし、いくら精密でも、もう

 一度それを単純な五感の次元に引き戻してやらないと、イメ

 ージとしては共有しにくいことがある。五感というひどく原

 始的で、能力からするとかなり低いものに、どうやって概念

 以上のものを定着させるかということが、ものを書く上で一

 番苦しい作業じゃないかな。(都市への回路)

…物というものはデジタルとアナログの両面をもっていますから、

 物自身のアナログ的要素をくみ上げて一つの世界を作る。だ 

 から、文学、小説というものはあくまでもデジタルなものを

 媒介にしてアナログなものに挑戦していくものだ(言葉と肉

 体の間)

 

だが、安部公房は、言語の困難さを克服可能にする利点を、

併せて、言語機能の内に、見出していた。

 

…たしかに言葉というのは不自由なものですよ。イマジネーショ

 ンをつくるにしても、映像とくらべたらまったくの間接操作

 だからね。生のイメージをぽんと出すほうがずっと楽だ。

…イマジネーションそのものはアナログな情報ですよね。それを

 アナログのまま伝達するか、いっぺんデジタル化して伝達す

 るか。デジタル化されたものは、もういちどアナログに転換

 しなおさなければイメージにはならないから、ちょっと複雑

 な操作を要求されます。しかし、その転換を自分でしなけれ

 ばならない言葉のほうが自由度が広いとも言える。手数はか 

 かるけど、自分の手づくりのイマジネーションの展開ができ

 る。(地球儀に住むガルシアマルケス)

 

安部公房はここで、言語というデジタル機能でしか、

表現できない小説ではあるが、

もう一度、言語機能を利用し、アナログを読者の中に

創り出す為に、複雑な操作をしていると、表明している。

では、読者の中に、自由度の広いイマジネーションを

再度組み立てる事を可能ならしめる技法とはどういうものか。

ここは「小説」化という作業の中でも、根幹にあたる

重要性を含んでいる。

何故ならば、安部公房の狙いは、小説という仮想現実に、

現実以上の現実感を付与するというところにあるからだ。

言葉でそれを可能ならしめる為には、さらに人間の意識と

意識下の働きに、考察を広げなければならない。

そこで安部公房は、意識と意識下を凝視する事から出発する。

 

人間は全ての時間において、

意識をフルに働かせ記憶し思考している訳ではない。

ほとんどの時間は、外界の刺激の種類と強弱の連続性、

そしてその刺激によって呼び起こされる情動に応じて、

意識と無意識の間を、自動的に行き来し、

それを繰り返している。

そして、言語機能がもたらす精神活動である意識と比較すると、

無意識で、自動的な状態の方が、圧倒的に、多く広い

という理解に、安部公房は着目している。

一方、脳の構造には

「脳それ自体の形の違い」

という個性があっても、その機能は、

「わかり合う」

という共有化に向かう働きがある。

(養老孟司「逆さメガネ」)

世にひとつとして同じ形のリンゴは存在しないにも関わらず、

リンゴを全ての人間が共有認識できるのは、

この脳の働きに由来する。

したがって、

「つややかなリンゴ」

という表現を作者が発し、読者が取り込んだとき、

そのイメージの差は、特に意識せず共有することができる

という脳のクセ、いわば利点がある。

安部公房はこのクセを意識的に刺激し、

使い分けることで、読者の中に現実感をより強く

隆起させることに成功している。

つまり、作中、登場人物の意識が働いている時間と、

無意識の時間を、表現形式を異にする事で、さながら

現実通りの意識の流れを、読者の中に違和感なく組み

立てあげるのだ。

膨大な無意識領域は、安部公房自身が言うところの

「小学校五年生ぐらいの言葉ですませたい

(構造主義的な思考形式)」

を使い表現する。

リンゴはリンゴで良いわけだ。

無意識に主人公の目に写る、つややかなリンゴ。

それを表現する為にレトリックはいらない。

つややかなリンゴと書けば、良いわけである。

だが、一旦登場人物の意識が活性化された状況では、

つややかなリンゴでは、それを読者の中に、

創造出来ない。

ここで安部公房は、

副詞を削る

技法を駆使して、主人公の体感を読者の内に見事に再構築する。

 

…たとえば「ガラスのコップがキラッと光った」って、よく大衆

 作家は書きますね。しかし、コップは決しておなじ光り方は

 しない。必ずそのときの光り方、一回だけの表現があるわけ

 ですよ。それを一生懸命になって探す。(反劇的人間)

…日本語というのは副詞がやたらと多い、形容詞が非常に類型的

 だという傾向があるというんだね。…僕なんかもほっとくと、

 やっぱり「さっさと」が入っちゃうんだよ。最初は発想を流

 すためにかまわず(副詞を)入れるんです。後でそれを削っ

 て行く。(ワープロで書かれた七年ぶりの書下ろし)

 

だが、副詞を削るだけでは、読者の中の意識は隆起できても、

現実を体験させるには、まだ足りない。

副詞を削りながら、かつ、読者の現実感覚を刺激させるために、

安部公房が自らに課している次なる技法は、

客観的・生理的な状況表現の創造だ。

 

…可能な限り生理的に還元していく。生理化するということは、

 共通の言語に立とうということなんだ。

…生理的なものを媒介 にすれば想像し易いでしょう。

 あり得ないはずだけど、想像はできる。

 生理的な共通言語に持ち込めるからなんだ。

(都市への回路)

…比喩の実体が確実に見えてくるまで待たなければいけない。

 一つ的確なものを見つけるために、何日もかかったりする。

 出て来てしまえば何でもないものを捜すのがえらく大変なんだ。

 たとえば腋の下といってもいろいろな腋の下がある。

 ある一つの腋の下は、ほかの腋の下とはどういうふうに違うのかと

 いうことを、浮かんでいる腋の下の視覚的なイメージを、

 とにかく根気よく見つづける。(都市への回路)

…ハメットは心理を書かなかった。例えば「いらいらした」とは

 書かずに、「煙草をふたくち吸って、吸殻をもみ消した」とい

 う風に書いただろう。心理ではなく、誰もが確認できる客観

 的な行動だけを書くわけだ。

(ものの見方としてのドキュメンタリーについて)

 

こうして生み出された1960編余にのぼる状況表現は、

「安部公房レトリック辞典」(谷真介・新潮社)

という一冊の本にまとめられている。

これらの状況表現はそれだけで充分作品と呼ぶに

ふさわしい体感を、読者に刻み込む。

だが状況表現の羅列だけでは、生きた現実として

読者の中で動き出しはしない。

動き出し、読者がそこに放り込まれ、走り出す・・・

安部公房は、言葉を編み上げる過程で、

いかに強烈に匂い、味のする、生きた現実を創造した

のであろうか?

 

ここで安部公房は、さらに、

極めて特徴的な、独自の手法を編み出し、その機能を利用する。

その技法は、言葉にならない感覚の投影体を見つけることだ。

安部文学には、必ず作品世界を貫き俯瞰し、時には象徴し、

暗示する、投影体となる物が登場する。

「壁―Sカルマ氏の犯罪」の壁、

「砂の女」の砂、

「他人の顔」の仮面、

「箱男」の箱、

「密会」の人間関係中枢や軟骨外科

「方舟さくら丸」のユープケッチャー等だ。

安部自身創作の過程で、これらが具体的に見えて始めて、

想像的現実が生きて動き出すと語っている。

例えば「方舟さくら丸」では、その役目を

「便器に足を吸いこまれた夢」と「ユープケッチャ」

の発見が担ったと語った。

それは、いわば作品の成立条件と言える程、重要な位置付けであった

ともに、作品成功の鍵となる。

 

…いかに現実を生きるか、その現実の規定の仕方でしょうね。

 だれでも現実を生きる。

 ぼくにとっての関心というのは、今を見るということ。

…それを「箱」とか「壁」とか「砂」とかに投影する。

 その、いい投影体を探すということです。

 今、ぼくが見ている、この感覚。

 言葉にならない感覚を、何に映すと一番よく映るか。

 (前衛であり続けること)

 

このように安部公房は、

言葉に還元できない現実感覚を凝視することから出発し、

凝視した結果として、安部公房が見ている想像的現実が、

もっとも読者の生理にリアルに、映し出される鏡を発見し、

その鏡に、次のような役割を付与するのだ。

 

…正に「現実」なのではないでしょうか。

 ただ、視点を変えると、わかり切ったものが

 「迷路」に変るだけですよ。

…犬の感覚で地図を作ったら、これはヘンな地図になるでしょう。

 例えば匂いの濃淡で色を分けてみるとか。

 匂いというのはたえず流動してますよね。

 絶え間なく動いて、ハッキリ濃淡を作っている。

 その中を犬は歩いている。

 そういう地図をわれわれがみたら、ひどく混乱するけど、

 それはそれほど日常から離れているわけではない。

 ですから特別に複雑な思考を媒介にしなくとも、

 体験レベルでちょっと視点を変えるとわれわれが何処

 に置かれているか、その認識はパッと変ってしまう。

 

つまりは、そういう機能を持つ投影体の発見。

安部公房は、そのような物を発明し、読者をそこに放り込む。 

すると読者の生理は、想像的現実からリアリティを与えられ、

体感し易くなるのだ。

 

…「箱」とかいろんなものに還元するのは実は、いろんな意味で

 メビウスの輪を提供しているのです。

…ぼくが「箱」をとらえて、それが変形していくプロセスを

 たどると、それが、ちょうどメビウスの輪のようになる。

 それは「箱」というものに外の世界を映しているんですが、

 「箱」が「箱」を超えてしまう。

 すると読者は挑戦を受けるでしょう。

 

読者はまんまとこのような安部公房の企みに捕らえられてしまう。

さて、動き出した読者の中の想像的現実。

いかにして言葉で、読書体験と、この想像的現実体験の連続体を

読者の中で、矛盾なく進行させるのであろうか。

 

 ここで安部公房は、読書体験内における、

 現実感を決定的なものとする為に、

 ある創作する上で、掟を自らに課す。

 安部公房はそれを

 「嘘のないフィクションを成立させる」

 法則と呼び、作品を書く上で、

 その構造の発見に今度は、時間と労力を結集させる。

…さんざん嘘を書いて、その嘘が一つの世界を構築したら、その

 世界ではそれが真実であるということでなければいけないと思

 うんだよ。

 …その小説が書かれている時間・空間、書いている、人間の関係。

  書いている人間はもちろん僕、作者である。僕以外の人間が書

  いているということを、僕が書いている。少なくとも括弧つき

  の「世界」そのものはだれかが書いている。となると、その人

  間が物理的に書けない状態で書いたと言ったら嘘になる。

  (都市への回路)

 作品化の過程で、前出の条件を満たす試みに安部公房は細心の

 注意を払い、言葉を編む。

 例えば「徳川家康はこう思った」という文章は、

 作者が「徳川家康」という名を借り、作者が思っている事を語る、

 いわば「捏造」だと切り捨てる。

 そこで安部公房は、次のように実践し、

 想像的現実に、捏造が発生しないよう担保を課す。

 

…たとえば僕が一番苦しむのは「彼はこう思った」という文章を 

 書く場合だ。「彼はこう思った」ということが何らかの形でわ

 かる状況でなかったら「彼はこう思った」とは書けない。そう 

 いうふうに、嘘を一切使わないで、しかもフィクションを形成

 するためには、書くということが、そこで時間的にも空間的に

 も、物理的に成り立つシチュエーションを置かなければいけな

 いわけだ。そのために、ノートならノートという構造が否応な

 しに出てくる。僕自身が登場するのならともかく、そうでない

 場合、その男がそれを書いた、あるいは体験したという、その

 事実がどこで客体化されるのか、どこで保証されるのか、とい

  うことはやはり嘘偽りなく証明できなけばいけないと思うんだ。

 

事実、安部公房の長編小説には、このノートという

構造が再三登場する。

「他人の顔」「箱男」「密会」などを読めばわかるように、

公然とついた嘘は、必然としてのノートという構造を経て、

現実感を強化され、結果的に嘘が嘘を超えようとする綱渡り

のような緊張感をも生み出す。

その緊張感の中、嘘から生まれた想像的現実が動き出し、

鮮やかな色彩を増すにつれ、それらはまぎれもなく

「生きた現実」となって、読者の眼前に広がり始めるのだ。

また、これまでに登場した技法の数々を駆使しながら、

かつ安部公房は一つの統一した目で、自分が繰出した言葉を

精査する。

それは、「読みたい衝動」と「書きたい衝動」の弁証法的昇華

がなしとげられているか?という作者自身の厳しいチェックだ。

 

…小説を書くという衝動の根源には、まず読むという衝動がある。 

 「われわれはなぜものを書くか」という問いの前に、まず「な

 ぜ読むのか」という問いが要る。

…推理小説の方法を取り入れるというのは、

 「なぜ読むのか」ということに対する答えではある。

…作者というものは、つねにその内側に読者というもの

 を含んでいる。読者としての自分が、自分の中に作者を再生

 産していくということがある。

…僕の場合には、方法として、書くということそのものが

 なぜ成り立つかというところを、どうしても問わなければ

 いけない。しかもマラマッドが持っているような、

 「なぜ読むのか」ということに対する答えも失いたくない。

 こういう欲が、こんどのような小説(密会)の構造を生ん

 でいるんだと、自分では思うけどね。

 構造を拒絶しながら、その構造を拒絶している姿勢が

 もう一つの構造を生み出すというところに、

 なんとかして挑戦してみたかった。

 (都市への回路)

 

安部公房はよく、読みたい衝動を満たす作家として、

エドガー・アラン・ポーを挙げる。

ポーの作品に象徴される、小説の面白みを保証し、

かつ作家として

「なぜこの作品を書かねばならぬのか」

という動機も保証する。

そして相反するこの二つの要素を、同時に成立させ得た時、

構造を拒絶する姿勢が、新しい構造を生み出すという、

弁証法的昇華が、小説をより強固な現実に仕立て上げるのだ。

 

「安部公房のたくらみ」における最後に、

これがなければ、他の全てが仕上がっていても、

「それまで書いた、その全てを放棄する」

と安部公房が自らに課した条件を、紹介しよう。

安部公房は、その作品が、生きた現実として機能する、

最後の条件に、

「ラストが見える」

事を挙げた。

前出の都市への回路の中で安部公房は、

Gマルケスの百年の孤独を引き合いに出し、

下記のように賞賛を贈る。

 

…ラストのところで、残っていた文章を、息子の息子みたいなの

 が、翻訳している。その文章の中に、予言として自分自身の

 ことが書かれている。そうすることによって、作者が逃げて

 いないんだな。しかも、いわゆる現代の小説が落ち込んでし

 まう一種の方法主義というか、そういうものの中にも落ち込

 んでいない。現代小説が持っているむずかしい問題に答えた

 作品だと思うね。

 

そして、自身の創作においては、

ラストが見えなければ、書き溜めたものは、

全て破棄する、徹底振りであった。

安部公房の、これらの技巧と小説化に対する姿勢。

 

 …貝殻の内側のような白い腋の下

 …濡れた雑巾のような風

 …何百もの卵の殻を、ゆっくり踏み割ったような音

 

 このような、状況表現の創造。

 

 安部は

 「副詞を削り」

 次に、

 「一度かぎりの、光り方」

 を追究し言葉で組み立てることで、

 読者の生理を刺激し、想像的現実感覚を読者の中に隆起させる。

 さらに、さまざまな現実を映し出す鏡…砂・箱・壁…を発見し、

 そこにイメージを投影することで、読者を想像的現実世界に誘う。

 それらの目的は、安部公房にとって具体的にどのようなもので

 あったのだろう。

 安部の言葉を借りればそれは

 「今、ぼくが見ている、この感覚、言葉にならない感覚を」

 言語に写す試み、であると、評している。

 そのプロセスを今度は、「方舟さくら丸」を例に、

 具体的に明らかにしてみたい。

 安部公房は、小説「方舟さくら丸」の執筆過程において、

 「ユープケッチャー」という、現実を映し出す投影体を発見する。

 これは、人間の衝動に内在するなわばりの拡大衝動と、

 同時に存在する、相反する衝動、なわばりの縮小衝動のうち、

 なわばりの縮小衝動の象徴的存在であると安部公房は語る。

 

…ちなみに「ユープケッチャー」の説明をしておきますと、これ  

 は甲虫の一種で肢が退化し、自由に移動することが出来ない。

  かわりに自分の排便を餌にして、ぐるぐる小さな円を描いて生

  きているわけです。一日に一周するので「時計虫」とも呼ばれ

  ている。むろん作者の空想の産物ですが、この虫にある種のリ 

  アリティを感じ、親近感をおぼえない者はいないのではない

  でしょうか。他者との過剰な関係に悩まされている現代人にと

  っては、逆説であるにせよ一つの理想でしょう。

  さらにもう一つ、「無名性」が彼の特徴です。

  彼だけでなく、考えてみると僕の小説の主人公はほとんど全員

  名前を持っていない。個性はあっても無名であり、世間から認

  知を拒まれている。こういう人物が僕にとっては現代という世

  界を透視するための窓になるのです。(子午線上の綱渡り)

 

 両の天秤に加速度的に荷重が、かかり続けるが如き、

 核均衡の現代。

 主人公もぐらは、核の脅威がとどかない地下採石場

 (ノアの方舟)を占有し、もう一度一から、

 今度は強固で崩れないユートピアの創造を夢見て、

 行動を開始する。

 そして、その条件として「ユープケッチャ」のように、

 なわばりの拡大衝動を排除すれば争いは回避できると、

 そこに一縷の望みを託す。

 ところが、方舟の乗船員を探すという選別思考そのものに、

 ファシズムというなわばりの拡大衝動が内在していたのだ。

 選んだ人間同志の間に、集団の意志が発生し、

 もぐらはやがて翻弄される。

 

…国家はその内部でシェルター・システムをますます巨大な形に

 育てつづけ、繰り返しファシズムを再生産していくメカニズム

 を持っている。ちょうど生物が細胞の中に癌のメカニズムを内

 在しているのと同じようなものだ。日常を与えるのも、奪うの

 も、おなじく国家の役割らしい。

…そこでぼくは『方舟さくら丸』を書きはじめたわけだ。つまり

 生き延びることの意味をもう一度問いなおしてみる必要に迫ら

 れたんだな。どうもうかつに生き延びようとしたりしちゃ、ま

 ずい事になりそうだと。(錨なき方舟の時代)

 

 安部公房は、生活するなかで、

 「非政治的、あるいは反政治的ムードのなかでのサバイバルの流行」

 に、きな臭さを感じていた。

 これが最初の作品の、いわば発想の種子であったと語っている。

 そして、そのきな臭さを内省的に観察していく内、

 前出のように

 「どうも、うかつに生き延びようとしたりしちゃ、まずい」

 状態に陥っていることに気付く。

 言葉にならない感覚、違和感は「何」で、「どこから」くるのか。

 安部公房は上記のように自問自答していく過程で、

 「まだ言葉にならない感覚」を見続け、

 作品化の種子を膨らませていくのだ。

 見続けた結果、安部はある種の結論に至る。

 

…覚悟はしておくべきじゃないかな。死ぬ覚悟じゃないよ。

 ちょっと違うんだ。

 希望を一切持たない覚悟と言ったらいいかな、

  いちど徹底的に絶望してみたほうがいいように思うんだ。

  絶望も認識である以上、希望の一形式なんだからね。

 (錨なき方舟の時代)

 

 ユープケッチャの理想を掲げ、選別し組織化した集団は、

 独自の意志を持ち、暴走しはじめる。

 ところがその原因は、実は暴走でもなんでもなく、

 人間誰しもが持っている普遍的な「なわばりの拡大衝動」という、

 もう一つの顔に他ならない。

 再び同じ運命をたどる“人間という種”を目の当りにした

 もぐらは、やがて自ら地下採石場を後にする。

 そして・・・

 地上に出たもぐらの目に写った光景。

 

…それにしても透明すぎた。

 日差しだけでなく、人間までが透けて見える。

 透けた人間の向こうは、やはり透明な街だ。

 ぼくもあんなふうに透明なのだろうか。

 顔のまえに手をひろげてみた。

 手を透して街が見えた。

 振り返って見ても、やはり街は透き通っていた。

 街ぜんたいが生き生きと死んでいた。

 誰が生きのびられるのか、誰が生きのびるのか、

 ぼくはもう考えるのを止めることにした。

 (「方舟さくら丸」ラスト)

 

 それはまさに、安部が言うところの

 「いちど徹底的に絶望してみたほうがいい」

 という感覚を突き詰めた果てに、

 目に映った光景にほかならない。

 安部公房はこのようにして、現代の生きた現実に立脚し、

 作品化を試みる。

 安部公房は、自分自身の経験を作品化しない。

 だが、日常と断絶された、想像だけを頼りに、

 作品を書いているわけではない。

 あたかも、自分自身を巨大な感覚器に見立て、

 そこを通過した情報と、まだ言葉にならない。

 安部の中のイメージをぶつけて統合し、

 新たなイメージを創造し、違和感ない言語を発見し、紡ぐ。

 だからこそ、相反する二つの要素、

 “前衛”

 

 “リアル”

 が、安部公房の小説の中では、再び弁証法的な昇華を経て、

 見事な融合を見せるのだ。

 そのようにして発見された投影体は、

 たとえば「ユープケッチャ」のように、

 前衛的であってかつ、非常にリアルだ。

 「方舟さくら丸」の例で解るように、

 安部公房は絶えず身の回りの日常に立脚し、

 引っ掛かって離れない発想の種子を、

 大切に育てていくところから、

 作品化をすすめていく。

リアルな想像的現実の創造過程において、

安部公房独自の、忘れてならない稀有な試みは、

意識と意識化を凝視するだけでなく、

現実を生きる人間の生理を客体化し、それを利用していることである。

人間は言語機能の活動時、書き言葉に対しては、

極めて意識的かつ集中的である。

(たとえば読書をする時。文章を書いている時)

それに対して、話し言葉になると、かなり自動的かつ流動的になる。

無意識的に、外界の現象が、意識に介入する率が非常に多くなるからだ。

また、話し言葉の記憶も、きわめて自動的に行われる。

ここでも、意識の産物である言語を使いながら、

想像的現実と生理が矛盾なく意識レベルに反映するように、

言葉を使い分ける。

小説という作り話を言葉で作る時、

面白く、

感動し、

心に残り、

語り継がれるよう、

様々なレトリックが発見され使用されてきた。

そのような次元で、安部公房の小説を見ると、

前衛的で難しいに終始してしまう。

既存の切口では、だから、

「実存主義の影響」を受け、

「現代における人間疎外」を啓示し、

「都市における他者」を追究し

「孤独な人間」のあり方を浮き彫りにした・・・としか、

指摘する方法を持たないと私は考える。

だから、安部公房作品の評論は、非常に似通い、

行き詰ってしまう。

それでは、家より大きい宝の山に、虫眼鏡で挑むようなものだ。

全体は見えず、みすみす価値が解らないまま、

時を無駄にしているに過ぎない。

 

「安部公房 小説家技法」は、現代文学を評価する、

まったく新たな指針としても、有効である。

何故なら、安部公房は、言語による小説化という行為に、

『言葉による、想像的現実の創造』という目的を掲げ、

その為に大脳生理学、分子生物学、言語学等の素養を利用し、

人間の生理を分析し、様々な独自の小説化における手段、

「副詞を削る」

「意識と意識下を凝視する」

「客観的・生理的な状況表現の創造」

「言葉にならない感覚の投影体を見つける」

「嘘のないフィクションを成立させる」

「「読みたい衝動」と「書きたい衝動」の弁証法的昇華」

「ラストが見える」

「生理を客体化し、それを利用している」

を駆使して、その壮大な目的に挑戦した、世界最初の作家であった

からだ

繰り返し若い世代に読み継がれ、

国境や人種、宗教や民族というなわばりの影響を受けず、

広く読者を獲得している理由が、そこにある。

これらの技法の継承、もしくは発展的応用が今後、

現代文学の水準に達しているか、否か、を判断する

尺度となる。

 

 「目的に応じて読み方がかわり」

 「いかようにも解釈することができ」

 「解釈しても、しつくせない」

 そのような想像的現実の創造。

 これは従来のアプローチでは決して到達しえなかった、

 “前人未到”

  で、

 “還元不能な領域”

 を模索し、作品化するプロトタイプとして、

 比類なき創作という称号が、ふさわしい。

 

 渡邊 聡