「師 安部公房」をご覧の皆様へ

 

従来、著者研究における方法論として、

最も一般的なアプローチは「作家論」と「作品論」に大別されます。

私の研究も、同様に、おおきく二つに大別し論点を絞っています。

私は自身の研究を、「小説家論」と「小説論」とに区別しました。

小説論は、本サイトのメインメニュである、

安部公房のたくらみ〜世界最前衛であり続ける理由〜」

にまとめましたので、ご覧いただければ幸いです。

さて、

私がこのサイトを立ち上げたるに至った動機の一つに、

小説家安部公房としてではなく、一人の人として、

安部公房が心血を注いだライフワークの啓蒙と、その評価にありました。

安部公房という才人が、長い年月をかけてあたためてきた前人未踏の研究が、

表に出ず、評価もされていない状況。

そしてその事を、多くの方に知っていただくことで、

巨大な知の遺産を、継承したいと考えたからです。

本サイトも、2002年までは、こちらがメインでした。

幸い、(株)本の泉社のご尽力をいただき、

2002年9月に、

「もうひとつの安部システム−師安部 公房その素顔と思想」

を出版しました。

第一章の「師と私」に、それまで本サイトで公開していた内容を充実させ、

まとめてあります。

よろしかったらご覧ください。

出版の顛末は、こちらに記載してあります。

私と安部との出会いは、卒業論文の執筆途上まで、遡ります。

当時、私は、大学の卒業論文の執筆目的と主題を定めるにあたって、

『安部公房は言語機能を利用し、感覚器から取り入れたアナログ信号(電磁波、音波

振動)をデジタル信号に変換する、その変換点を刺激し、言葉によって読者の中に

現実体験と同質の体験を隆起させる試みをおこなっているのではないか?』

という疑念が強く私の中に生まれました。

昭和61年、私の着想を立証するに充分なデータは存在せず、直接本人にお聞きしたいと、

調布の自宅宛に手紙を書き、六日後、葉書でお返事をいただいたのが、

師事するきっかけとなりました。

最後に少し、

師安部公房から私が直接いただいた無数の言葉の中で、

特に印象深かった言葉を、

安部ファンの皆様と、

安部をご存じない皆様へ、

ご紹介させていただきます。

いずれの一つをとっても、

発想と着眼点が、

いかに特異でかつ斬新か、

又普遍嗜好となぜ科学的な切口が重要であったか、

標榜する貴重な発言です。

それから、私自身、作家との個人的な交流の披瀝は、

作家のキャリアを疎外する場合が多いと、

考えてきました。

が、私と安部との交流はまさに、

出来の悪い学生と先生との、学術的な指南でありましたので、

拙書にまとめさせていただきましたことを、申し添えます。

安部公房の言葉は、

さりげない一言にさえ、

混迷する現代に生きるヒトの、

行く末を深く示唆し、人間関係の問題を解決すべき刺激と、

ヒントがかくされておりました。

 

 


 1986年

 9月23日安部自宅に私信を送付。


 9月29日安部よりハガキにて返信


 10月15日始めて電話をする。


 12月10日

 京王プラザホテル南館九階会員制クラブ「UUT」にて安部 公房と接見

 卒業論文『安部公房 現代と普遍性の交錯と昇華』の取材を行う。

 

 中心になった話題の要約

『現代に脈々と続くバチカンがもつ、権威と権力を知ることの重要性。

特にローマ法王の歴史と権力、その名のもとに行われた植民地支配の

影響が現代にまで深く浸透している、罪の大きさ。植民地と被植民地の

色分けは現代に至り、より一層極端に、顕著になりつつある』 

 

『絶対者の概念の歴史的影響力。とくに西洋におけるその根深さ、

政治のシステムに組み込まれた効果。植民地支配の打撃の永続性。

政治と結託し文化を根絶やしにした原罪は、現代に至るまで問われず、

そのまま先進国と後進国に色分けされている』           

 

『ゾラのナナなどに代表される自然科学主義文学。

生理を客体化し生理を忠実に再現し言語化する。

ところが日本はそれを輸入する時、科学を省き、

自然主義文学(花鳥風月)と解釈し輸入した。

そのような土壌では散文の精神が育たない、

誤解による土壌に立つ時期が、小説においても長きに渡った』

 

『小説としての成立要件が、曖昧なまま現代に至っている。

作品を私物化する・出来る書物、作者が作品解説をする

・出来る書き物は小説と呼べない、エッセイや論文である。

その芸術としての認識が歴史的背景において成り立ちにくかった。

これは弊害』

 

『唯物史観のエレガントさ・科学性。

がそれを人間が実施しようとすると、ソ連、中国、

キューバのように独裁政治になる。問題は、

理論を実践できない欠陥を持つ人間の普遍性、

特に人間関係に対する情報処理能力の欠落にある。

そして、理論を作る側も、それが人間にとって実施可能か否か、

検証していない可能な道があるとするならば、科学的なアプローチとなる』

 

『極右と極左のあまりの類似性・共通性について』

 

『テレビコマーシャルにおける外国人モデルの頻度にあきれ、

数えた事がある。これがいかに文化の衰退につながるかに関して、

無知すぎる。外人を出していれば、「とりあえず安泰だ」

という作り手のこの無知さ。影響力に対しての認識の欠落さ』   

 

『テレビの特性は、テレビを媒介にして、

おのおの別個に体験出来ることで、大規模な擬似集団を形成できること。

この問題は大きな危険性をはらんでいる視聴者同志は何の関係もなく、

何百万の人間が同時に体験が成立できる、「擬似集団」の規模。

他のメディアにはない、特性。無自覚な危険性が潜んでおり、

この問題は大きい』 

 

『作家にとって、必要な認識。生理学的知識・認識、

遺伝情報の認識・教養、言語機能に対する認識・知識』

 

『チョムスキーの普遍文法、生成文法について。その先がある。

(デレック・ビッカートン「言語のルーツ」を宿題に出される。)

「難しいよ」』

 

『歴史小説の問題点、作者が神になることの困難さ。

たとえば「徳川家康は、こう思った」と書いた場合、作者が、

(徳川家康の名なを借りて)こう思ったと捏造している。

特に、日本の書き手は、その事実を意識していない。

では、捏造にならないためには?ノートの形式。神話の構図

燃えつきた地図、箱男、密会』

 

『山海塾に代表される、今はやりの舞踏は、前衛のようで、

最後衛。

彼らは、苦痛を伴う格好の演者を見ることで起きる、

生理を知らない。

あれは見手の脳が、演者の格好をなぞることで脳に

その苦痛をフィードバックさせている刺激にすぎない。

集団ヒステリーの構築が、演劇とは、笑わせる。演技の基本は、

ドラマとドキュメンタリーの相違から、はじめる。

…スタジオのものにはある種拒否反応を示しておいて、

スタジオのものに影響を受けた海外のものにはモロ手

を挙げて絶賛だからね、日本の演劇評論家は。

…そうね、そのうちやるかもしれない…(安部公房スタジオのこと)』

 

『…そうなんだ。現実を(文学作品は)表出すればいいんだからね。

…○○?○○なんて作家じゃないよ』

 

『コンピューターの真の目的が判らないんだ、なんだろうね』  

 

『一行に一週間かかったりする、それが、本当の小説を書くという事』

 

『書き手が解説できるもの・・・そりゃ小説じゃあない、私小説だ』

 

『寝ない(寝れない)こと』

 

『睡眠周期がずれること』

 

『超速読(一般的な速読と異なる)』

 

『箱男・方舟さくら丸のオートマティックな展開について』

 

『…人称を決定するのに、何ヶ月もかかる。』                                 

 

『腕相撲が強かったこと、車の事』


 1987年1月28日の電話を最後に、1988年11月29日まで1年10ヶ月

 私の一方的な事情で不義理をしてしまう。


 1988年12月1日安部の許しを得、卒業論文を箱根仕事場に送付。


 1989年2月2日安部より手紙

 この日以降、安部に師事を許される。


 1989年2月4日の安部の話し

 「…いわゆる筆で立ちたいんだろう?

 今君は今なんの仕事をしているの?

 …ううん、そうじゃなくて、具体的な勤務先やセクションは?

 …そう。出発点としてはめぐまれている方だよ。

 スナックのバーテンとかやりながらあした、

 あしたと言い続けて出来ないで消えていく奴は沢山いるから。

 書き続ける事。続けられるかどうかの勝負。チャンスを待つ。

 書き続ければおのずと立てる。僕の評論だと世に出るのは

 遅くなるかもしれない。…いずれ小説か論文か決めるようになる。

 並行は難しく成り立たない。それはいずれ君にも解る。

 …学生の時にしか書けない文。小説はあまり理論的にならないように、

 勉強しなさい。感性豊、 才能ある、世に出るまで決して今の

 仕事をやめないこと。電話きても皆ぼくは断ってるんだ、 

 君は百人に一人の待遇だよ。君とはまた会ってあげる。それと、

 ぼくはきびしい。時にそうとうきついことをいっても、

 それは君の為を思って言うことだから、決して怒らないよう・・・ではまた電話下さい」

 こうして個人的な関係が始る。

 以降安部 公房死去まで、週2〜3回のペースで電話で取材。

 以下は抜粋。


 1989年5月21日小説「夢 境」安部に送付。


 1989年6月11日長男誕生、公房−キミフサという本名をいただく。

 本名に関しては、『戸籍にこうぼうの読みがある』という報告があり、

 今後物議をかもし出しそうな気配があります。

 長男誕生時、私が直接師に了解を取った時、師は。

 『ああ、そうなんだ。おめでとう。けれど知っている?戸籍によみがなは

 ないんだよ、だからぼくの本名の読みはいかようにも読めるんだ』

 と言って、高らかに笑ってらっしゃいました。

 師は、本名「きみふさ」ペンネーム「こうぼう」と認識しているとはっきり

 仰ってましたね。

 

 「無 境」に対して安部寸評

 次回の課題

 課題は条件が二つ、 

 一まとまったもの

 二世界で

 だれもやったことのないもの

 

 『多数派の頂点に立ち、言語で集団操作を行う「飾り物のゴミ」

 が、問題。

 国家なら国家の廃絶を現実的に考える時、飾り物のゴミがとれ

 るかどうか、が勝負だと思う。

 ぼくはああいうものに、強烈な不潔感を感じるんだよ。

 ああ、イヤだってな感じ。

 そういうものは、イヤだっていう刷り込みを逆にやり続けないと

 実は強烈な侵食作用をもっている。

 そういう言語の機能を利用するからね。

 だから、ぼくはネクタイしないんだ(笑)』


 1989年10月31日の安部のおもしろい話し

 「現象に対する認識論の限界。例えば円をサイクルと思えば

 そのように図式化できる。サイクルでないと思えばそのよう

 にも図式化できる。点の羅列とも捉えられるし、

 そのような捕らえ方すべては類型的な発想なんだよね。

 文化論であるかぎりいろいろに分析できてしまうんだよ、現象は。

 大切なのは、科学的方法をとること。科学的方法をとらなければ、

 どのようにでも書けてしまうと知る事。だから仮説を立てたら、

 多角的かつ科学的な視点にたって検証する必要がある。

 くれぐれもレアケースを法則化しないように」

 作家論で、題だけがするすると出て来た。

 この人は作品の『前衛』とか『異端』といったイメージで、

 人物までも誤解されていると感じた。

 そしてこの人は、誰より長きにわたって、ヒトという種の

 いわば宿命を、憂い続けていた。

 言語を獲得し、卓越した自然科学に対する情報処理能力と、

 自己と他者の「関係」に対する条件反射を放棄した結果

 人間関係に対する無能力さという種的宿命をあわせもったヒト。

 その危うき宿命に翻弄され続けたヒトという種の、その運命を、だ。

 「安部公房 もっともヒトらしく、ヒトを愛し、憂い」

 そのために、師は、科学を手段として選択した。

 なぜなら科学こそが、それら負の連鎖を断ち切る可能性を、唯一

 内包しているからだ。

 なぜか?

 世に存在するあらゆる偏見も、科学の前ではその力を失うからだ。

 そう…科学は、人種や宗教、国家を超えてあらゆるヒトに機能する、

 平等な法則だからだ。

 誰をももらさず、もれなく、平等に、自由に、等しく存在を保証さ

 れるシステムの実現を、命がけで模索する深海作業者。

 これだ!っと小躍りした。

 


 1990年10月13日

 安部、大佛次郎選考会入院のため欠席の記事を新聞で見て朝日に電話。


 1991年1月19日カンガルーノート

 『「新潮」に何十年振りかで連載をはじめてね。…そう、

 かなり前になるけど、他人の顔の時喧嘩しちゃって。

 今回は向こう側からするする見えてきた。…見えるだけでなく、

 匂いや味もね。するすると出てきちゃった。

 …体調は大丈夫、ただ、忙しくてね』


 1991年3月7日

 「消しゴムで書くという言葉の心はね、

 副詞過多の文章が嫌いって事なんだ。だから書き直す、

 副詞を削るんだ。だけどね、今回はこだわれない。

 …書き下ろしの長編は一時中断。ちょっとしたきっかけなんだ。

 理由はないんだけどね。理由なしに連載にトライしてみた。

 …業界のやつ君みたいに信じてくれないんだよ、

 同じこと根掘り葉掘り聞かれそうで、ちょっと嫌だけどね…、あと二回だ」

 師は書き出すと不眠不休状態で延々と書きつづける。

 少し寝て創作、食べて少し寝て創作。

 逃げ場をつくらない、真正面から取り組む、

 創作の為の時間を優先する、正に篭りきりの苦行である。 

 すさまじいの一言につきる。


 1991年5月7日

 「大岩壁」「壁」「変身」の三つの景からなる小説「閉塞状況」を送付。


 1991年7月11日安部寸評。

 次の課題。

 課題 T 見えるまで待つ。見えたら凝視する。それが文体になるまで待つ。

     U まとまったもの。


 1991年10月12日安部に諭される。

 作家安部公房はいつもやさしく、忍耐強い。


1992年8月11日小説「翼」完了。翌日、電話し送る。


1992年11月24日飛ぶ男完成の連絡を受ける。


1992年12月7日お送りした小説「翼」に関して、会おうとの話しを頂く。 


1993年1月6日真知夫人より成人病で入院している

と知らされる。


1993年1月22日安部 公房死去


興味深いキャリア等

時の崖 安部公房監督製作映画 井川比佐志主演 ボクシングフリークの面目躍如、内面描写見事!

 

1966.4月より桐朋学園短期大学 芸術科 演劇コース 教授に就任             

発明による特許多数、『無名詩集』は稀本市場で超高値をつけている            

武満 徹(作曲家) 黒川 紀章(建築家) 堤 清二(実業家)等との親交
パルコの『西武劇場』は安部公房スタジオの公演の為に特別に設計され、こけら落としでは、

『愛の眼鏡は色ガラス』が上演される。

安部スタジオ門下生(安部システムの洗礼をうけた俳優たち)

田中邦衛、仲代達矢、岡田英次、井川比佐志、山口果林、条文子…