真夏の昼の怪

〜ありきたりの白昼夢〜

              渡邊 聡

 

結構スレスレです。

ありえない記憶があったり、
聞こえないはずの音や、
物が見えたり…
っていうことは、
日々結構、
あります。

ただ、
「体験必ずしも、
実際に起きた事実ではない」
ということを、
知っているから、
大騒ぎしないだけ。

たとえば…
夢中遊行や
入眠時幻覚。
開頭手術前の検査で、
大脳新皮質に微弱な電量を流すと、
実際にはないものが見えたり、
体験したりする…
脳内過程の変化で、
存在しない香りや、
景色が見えたりするわけですから、
すぐ祈祷師を呼んだり、
悪魔祓いを頼んだりはしないわけです。

けれどね、
一回だけ、
今でも脳の中だけの体験か、
実際にあったことか、
判断に迷う経験がありました。

それを今日は書きますね。
東京の八王子市に高尾山という
600メートル程度の山があります。
いわゆるハイキングのメッカ。
小学校の低学年生の遠足によく、
利用されてますね、東京では。

そこを、僕は
長い山行前のトレーニング場にしてました。
例えば滝谷や一の倉沢、剱に入る前に、
陣場高尾往復をやったり、
そんな感じです。

で、秋の頃、
平日の授業がない空の高い日、
家のベランダから山を眺めていて、
ふっと、
風に、誘われたんだよね。
朝の9時をまわったころかな。
ズックを引っ掛け、サイフをもって、
高尾にふらっと行ったんです。
誰にも言わず。

家から北野っていう駅まで歩き、
電車で5駅、15分。
10時前、
あっという間に、
高尾山口に着きました。

心が、羽のように軽かったことを覚えています。
こういうの、
いいな〜って、
自由を、満喫しながら、
びわ滝コースに入りました。
でね、
森に入っていくそのコース、
幾度か沢に突き当たってから、
山腹を折り返し、
登っていく登山道なのだけど、
最後に沢に突き当たってから、
登山道をそれて、
かまわず沢を直登すると、
ひょっこり頂上直下に出るんだよね。
すごい楽です、
ちょっと急だけど、
危険はないし。

でね、
沢にさしかかったその時、
ふと、
お香の香りが
してきた。
それを嗅いで、
さーっと、
全身の毛穴が開いたのさ。
まるで彼岸の一の倉沢に発ち込める
線香の香りそっくり。

あそこは、いたるところの、
岩壁の取り付きで人が死んでて、
生死を賭けた博打のような登攀を
これから成し遂げるために、
暗い線香の香りが立ち込める谷に
入っていくのは、凄絶な覚悟を要したけれど、

その香りが、
突然高尾山で、
したわけ。
正直、
一瞬身の毛が、
よだちました。

でね、
人って、
本当に気分に左右されるんだなと、
その時ほど思ったことはない。
それまで目に写った、
優しく、
気分とこのうえなく調和のとれた
景色が、
もう、敵意むき出しとなって、
ぼくに向ってくる…
そんな感じがしたわけさ。

今はもう、
目に映る、
すべてに
脅かされる。

一瞬、
「降りようか」
頭を横切りました。
けど、
すぐ、そんな自分を軽蔑したね、
だって、
高尾山だよ、
そんなわけないじゃん。

そう、言い聞かせた。
おくびょうものって、ね。

それで、
ぐんぐん登っていったよ。
でも、
髪から首に、
汗が垂れるたび、
毛穴が開き、
冷たい電流が神経を伝う。
汗が妙に冷たいんだよね。
でも、
がむしゃらに、
のぼった。

だって、
高尾山でしょ。
もう頂上だって…。
で、
しゃにむに登る、
あれ、
まだかな、

ふと見ると、
もう霧に
視界が奪われていたんだよ。

止まりました。
最後の壁のような
急な頂上直下の
登りだということは
わかっていたんだけど。

こころが切れたよ、
意欲が萎えた。
すごく
不機嫌な自分に気付いて。
せっかく快適な登山を
イメージしたんだけど、
しょうがない、
こんな日もたまには、
あるよな…
と、
決めたら速い、
僕は来た沢筋を、
とっとと、
下り出しました。

すると、
目を疑った。
長い、
はるかに続く、
急な下りが、
トンネルのように、
霧の中に見えるわけ。
おいおい
こんな長い下り、
あるわけないだろう…

完全にパニクッた。
しばし呆然と、
たたずんだ。
そして、
落ちるように、
猛然と、
ぼくは下り出した。

霧がふっと、
視界を遮る。
全身の毛穴が開ききったよ。

ちがうんだよね、
ヤバイッって感じ、
ここにいたら、
ダメだっていう
警戒音いっぱいに。

落ちるように、
下り続けたら、
コルにでたんだよ。
あれっ?
こんなところに
鞍部があったっけ?
歩を止めて正解だった。
一瞬霧が晴れたその先の景色、
驚愕以外、
なにものでもなかったよ。

見たこともない景色が、
眼前に一瞬、
拡がったんだ。
まぎれもなく、
通いなれた、
高尾山のびわ滝コースの下りで。

目の前には、
千メートルはあろう、
切り立った断崖と、
雲海。
足元下にかかる滝は、
まるで滝谷にかかる、
滑滝のようだった。

眼下には、
垂直に切れた、
滝の横の岩稜、

滝の水飛沫が顔にかかり、
手掛かりは今にも折れそうな
ハイマツだけ。
寒気に追い立てられ、
飛び降りたい衝動を我慢し、
ぼくは本能だけで、
下りました。
ハイマツにへばりついてね。
下を見ないように、
垂直の滝の横を…。
ゆっくりしか下れない
状況なのに。
なぜ、下ったのか?って。

陽の位置です。
薄日の高さが、
早々の、
夕暮れ時を告げてました。

このままでは、
一時後に、
もっとおそろしい
漆黒の闇が
ぼくを待ち受けている…。

ハイマツにしがみついて、
下り続けるぼくの耳に、
ブーンという
大きな唸りが聞こえてきた。
それが、もう耳をふさぎたいくらい、
うるさくなった。
もう、
見てはいけない。
なにも、
見てはいけない…。

目をつぶり、
歯を食いしばりながら、
本能だけで、
下りました。
そして、
ようやく足が地についたとき、
目を明けたぼくは、
何かの光景を見て、
気を失ったようでした。

気が付くと、
高尾山口のケーブルカーの
横をひとり、
歩いていました。
午後4時。

道行く人が、
ぼくの顔を見、
避けるようです。
高尾山口駅の
鏡で見たぼくの顔は、
完全に、土気色そのものでした。

これがぼくの、
一部始終です。

しいて言えば、
白昼夢だったのかも、
しれない。

時々
思い出します。
ぼくは6時間も、
どこをほっつき歩いて
いたのだろう、って。
でもね、
それ以上は考えずに、
封印する。
記憶を丁寧に、
しまいこむんだ。

それ以来、
山には決して、
一人では行きません。

さらに…。
ぼくは、
最後に見た光景だけは、
けっして、
思い出さないように、
しています。
思い出してはいけないような気がして、
思い出さないままに、
しまってあります。

(終わり)

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