真夏の夜の怪

〜ありきたりな黒夜夢〜

          渡邊 聡

「あ、撮った」

と言われ、苦笑した。

見事なレアチーズケーキセット。

ブログに乗せようと、携帯で撮った後、

机上に放置したままの携帯を、

うっかりいじって、

シャッターを切ってしまったのだ。

「やばっ」

と応え、何気なく画面に目をやった刹那、

氷の痺れが背中を走った。

せわしなく店内に、

くまなく視線を走らせる私を、

怪訝な表情で娘が注視する。

だいいち、

こんな景色が喫茶店の中に、

あるわけない。

汗がしたたり落ちた。

娘は、無言のまま、携帯を手にとり、

眺める。

「なに、これ〜、どこ撮ったの」

クビを振り、何気なく携帯が置いてあったあたりに目をやると、

るるぶの裏表紙にある、白馬のホテル

が目に入った。

「なんだ〜、これか〜」

安堵し、笑いを弾けさせる娘に、苦笑を返しながら、

だが、

写った写真は、

まぎれもなく、

あの、

建物だと、

私は確信していた。

短い、報告になる。

古い洋館の敷地に、

道猟堂というお堂があって、

そこに、一人、顔色の悪い僧が

蟄居していた。

もう30年も前のことだ。

我が家は、夏になると必ず、

そのホテルに避暑に行った。

半月から、長い年には一月滞在した。

廃屋のような、

いつも暗いお堂は、

私らの好奇心を満たす、

恰好の遊び場となった。

ある午後の遅い時間、

不覚にも忍び込んだお堂の、
最初の部屋、

八畳間の真ん中で、

寝入ってしまった私は、

涼しい風にくすぐられ、

目を覚ました。

ふと左を見ると、

開け放たれた入り口の

正面遠くから、

僧が、こちらに向ってくるところであった。

すぐ起きようと思ったが、

眠気が私を、引き止めた。

だから、寝ころんだまま、クビだけしか僧に、

向けられなかった。

そろそろあと、10歩というところ。

だるいクビを持ち上げ、

やっと私は、

上半身を起こした。

僧を出迎える為に。

すると、僧の全身に、

電気が走ったのである。

彼は、杖をこちらにかざし、

何事かをわめき出したのだった。

私も焦って、お堂から飛び出した。

その時の、彼の表情を、

私は一生忘れられない。

表情は一言、

恐怖

そのものであった

私と判り、

僧が我を取り戻すまで、

しばらく時間がかかった。

そうして私はお堂を振り返った。

確かにお堂は

真夏なのに漆黒の影で満たされていて、

ここから見ると、

私の、せいぜい輪郭しか、

見えなかっただろう。

彼から見れば、

漆黒のお堂の真ん中で、むくっと

何かが起き上がり、

こちらに飛び出してきたわけだが…

不思議に思い僧に尋ねた

「勘違いした?」

「…なにを?」

「ぼくを、なにかと、勘違いしたでしょ」
「…」

「なにと、勘違いしたの?」

すると、しばらくたって彼は、

こう答えた。

「ここにとりついたものを、

次の世に送り出す使命をもって、

ここに、派遣された」

「だが、とりついたものが

思うにまかせない力を持ち、

ぎりぎりのとこで、

せめぎあっている」

「だが、それも、今宵で終わる」

「終われば、お堂から解放される」

「先ほどは、その者が出てきたのかと、

驚いた」

「心をゆらがせては、全てが夢に帰す」

「先ほどの君は、天が使わした、戒めである」

確か、こんなことであった。

幼少だった私には、言葉の意味が

まったく理解できなかった。

ただ、彼の表情と、

その後の異形の影があまりに強烈で、

彼の言葉を、映画のワンシーンのように、

一語一句暗記したに過ぎなかった。

その夜、

私はフトンの中で、

がたがた震えていた。

いざ世界に、助けを求めると、

しっかりつかむノブもないほど、

世界の手掛かりは、ツルンとして、

不確かなものであることを、

絶望的に体感していた。

つかまるところがないのならと、
鍵をしっかりかけ、

私はフトンにくるまり、

フトンにしがみつき、

汗だくになりながら

夜を過ごし、

寝入ることが出来たのは、

夜半も過ぎた頃であった。

翌日、

お堂の、

私が寝ていた場所で、

僧の遺骸が発見された。

発見者によると、

彼の顔一面に、あふれんばかりの恐怖が、

深く刻まれていたらしい。

以来そのお堂に私らは、

近づかなくなったのであった。

それから10余年の歳月が流れる。

私が、24才になった、その年の夏のこと。

ロッククライミングに明け暮れていた私は、

剱岳の三の窓で落雷の集中砲火にあった。

奇跡的に無傷で生還した数分の間、

過去にフラッシュバックした私は、

幼少の時、

洋館の敷地にある、

お堂で起きた、

僧の怪死の日

の記憶の一部始終を、

取り戻してしまったのだ。

なぜ、

人から聞いた、

僧の末期の、

苦悶の表情を私は知っていたのか。

彼の末期の一部始終は、

如何なるものであったのか?

一連の記憶を、

取り戻してしまったのである。

このうえもなく、

はっきりと。

だが、

絶命をまぬがれ、

下山し、

人々に迎えられた瞬間私は、

思い出したという、正にその事を、

再び記憶の底に封印し、

今の今まで、

忘れていたのであった。

コーヒーカップを持ち続けた指の腹が、

汗にまみれている。

そうだ、

恐怖にさいなまれた幼少の私は

あの夜、フトンをかぶって寝たのだ。

しばらくは震えていたが、すぐ、

ポカポカしてきて、

やがて、恐怖に疲れ、寝入った。

何時間が過ぎただろう、

その間私は、

長い、

長い、

悪夢に、うなされ続けていた。

悪夢の中で、

私は、お堂から、

生まれた

異形の者、

そのものになって、

宙を飛び、

板戸を蹴り、

柱を蹴って、

歯を食いしばる僧を

いたぶり続け、

恐怖のどん底へ、

今まさに、

叩き落した。

むごい方法で…。

そこで、

ふっと、

夢から、

私は、覚めた。

頭からフトンをかぶり、

私は汗みずくになっている自分に気づき、

汗で重たくなったフトンを跳ねのけた

その瞬間、

吹き込んできた、

刃物のように冷たい風と、

月明かりの中、

私のすぐ横で、

彼が、

ゴトリと仰向けに転がったのだ。

洋館の一室で、

フトンをかぶり、

フトンにしがみついていたはずの私は、

お堂の、

僧の隣にいた。

お堂の和室の真ん中で、

私はフトンから跳ね起きたのだった。

僧は、虫のように四肢を、

90度に折りたたみ、爪を立て宙をかき、

充血した目は、カッと、見開いたままだった。

その時、鮮やかな月明かりが、

二度目の、

彼の苦悶の表情を、

私の脳裏に深く、

克明に刻んだのであった。

その後の記憶は、

断片的だった。

お堂の天井や壁、板襖に、

私の足跡がついていた事。

宙を飛んで、

お堂を出たこと、

解放された私の、

全身の毛穴が開いていたこと。

そして、無言のまま全力で、

私はホテルに、

帰ったのである。

それらの記憶を今、

私は再び克明に、この手に

取り戻したのであった。

娘と座る、

喫茶店で。

私は雑誌を手に、

立ち上がった。

喫茶店の古びた公衆電話から、

ホテルに電話し、

宿泊の予約を入れた。

数日後

私はホテルに行き、

お堂の残骸と対峙し、

自分の悪夢と決着をつけ、

そして戻ってくるだろう。

現代に、

物の怪など、

存在しない。

だいいち、

幼少のころの記憶が、

しばし、

事実通りでないことを、

私は知っている。

お堂は既に、

ないかもしれないし、

フトンをかぶった暑さが、

私に真夏の夜の怪を、

もたらしただけかもしれないのだ、

幾重にも複雑な、悪夢となって。

だから、この文章は私が、

予定の通り、帰ってこなかった時のみ、

投稿されることになっている。

 

(終わり)

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