「軌跡」

 渡邊 聡

途方に暮れた

シャツが
あせの
ビニールになって
肌にへばりつく

夢心地のまどろみの中、
「終点」

告げた車掌の
アナウンスだけが
はっきり
耳の奥で
小さく
コダマする。

ありえない

列車のドアが開いた。

すがるように
周りを確認する。

三々五々
乗客たちは、
ゆっくりとホームに降り、

座っていた最後の、
出張帰りであろう
ジャケット姿の、
中年男性が腰をあげた時、
細い望みは、
プチンと音をたてて
切れてしまった。

アナウンスが
間違えである、わけがない。

屋根のない
飾り気のないホーム。
ホームの奥に、
高い山が、
残照を浴びている。

夕陽はすでに、
西の山裏に沈み、
乗客たちの後姿が
遠ざかる。

しびれた足にもつれながら、
ぼくはホームに降りた。

乗り継ぎの電車はない。
この電車で、
5つ先の駅まで行って、
特急に乗り換える予定だった。
それがこの駅止まりなんて。
なんということだろう。

白く太い木枠でできた
駅名の標識

「あおぞら」

なにかが
やさしくぼくをタッチすると、
そのままかすめ飛んでいった。

小さな頃に住んでいた団地に、
偶然迷い込んだような、
そんなおもちゃ箱の感覚。

朽ちそうな改札を通り、
平屋の駅舎を後にする。

ロータリーを突っ切って
観光と書いてある
ちょうちんがぶら下がる
交番程度の大きさの、
案内所を目指した。

新聞から顔を上げた老婆が
めがねをずらし、
ぼくを注視する。

「砂丘西まで行くつもりだったんですが」
ここ止まりだよ、二年くらいかね」
「今日はもう、電車がなくて」

「どこか、泊まれるような所は
 あるんでしょうか?」

そのまま老婆は
暖簾をくぐると
奥にこもってしまった。

やがて響き渡る、
電話の話し声

「お客さんがいるんだけどさ」
「どうかね」
「そうかよ」
「はぃ、はぃ」

「もしもし、お客さんがいるんだけどね」
「だめかね」
「そうかよ」
「はいはい」

「こまっちゃってさ」
「お客さんがいるんだけどね」
「そうかよ」
「はいはい」

よっこらしょ
と、老婆は出てきた。
こまった。
ほんとうに、
途方にくれた。

「そこのさ川向こうに」
「はい」
「道があるでしょ」
「ええ、そこの道?」
「そう、橋渡ると
 正面のかわむらさん」
「ええ」
「泊めてくれるから」
旅館なんですか?」
「いんや〜
 でも泊めてくれるよ、話しといたから」

いい、
無いよりましである。
二段、石段を降りると、
閑散としたロータリーをまた
つっきり、橋に向かった。

センターラインもない
欄干の低い、
だだっ広い橋だ。

正面の丘陵の入り口に神社があり、
その横に、
家は一軒しかない。

縁側の前で、
モンペ姿の大柄の女性が、しゃがんで
なにか、している。
一歩一歩
歩を進め、近づいていくと
それが、40前後の女性で、
タライで洗物をしており、
また一歩一歩進めると
肩までの黒いストレートな髪が
残照を照り返した。

そばに近づき
門に
「河邑」
と表札が見えた時、
ほっとした。
門は女性から、
かなりはなれたところに
たっている。
すこし逡巡した。
その時
その女性が顔を上げ、目があった。
息を飲んだ。
同時に顔をそらす。
奈美ちゃん
その女性は、
まちがいなく、
小学6年生の時に転校していった
ぼくの初恋の女性だった

いきなり転校し、
その後、手紙がきた。
しばらく手紙を交わしたけれど、
流れの早い時にさらわれて、
音信普通のままだった。
もう30年も前の、
話しである。
いつものごとく
いたづらしたら、
彼女はなぜか、席に座って
泣いてしまった。
ぼくは総スカンをくった。
そして次の日、
いきなり彼女は転校してしまったのであった。

初老の男性が、玄関でぼくを迎えた。
そこは、正に田舎の、大きな屋敷だった。
渡り廊下を歩き、離れの、
広縁をニ方に持った、
10
畳に通された。

3
畳程の洗い場がある、
ヒノキのフロにつかって、
ようやく、先ほどらい
続いていた、動悸が、平常さを
取り戻しつつあった。

おもかげ

おもかげが、奈美ちゃんであると
告げている。
理屈で考えれば、それは、ありえない。
考えれば、
考えるほど、
それは他人の空似で、
記憶の中の菜々ちゃんとは、
合致するはずもなく、
背丈も、
引っ越した地域も、
確証は、
何一つないことを告げていた。

なんで、
今まで、
一度として思い出さなかった彼女が、
こんな時に躍り出て、くるのだろう。

ぼーとユブネにつかりながら、
喧騒の教室のなかで、
いたづらと、
喧嘩と、
ほんの少しの談笑、
いたづらと、
抗争ごっこと、
泣かせた事、
他の女子から糾弾されたこと、
皆の前で
あやまらされたこと、

そしてわずかにつづいた
自然な感情の吐露、
そして突然の、さよならを
昨日のことのように、
思い出していた。

フロからでた。
涼しい風が心地よい。
やがて、
疲労もあいまって、
自分の心の軌跡を
トレースすることは
あきらめた。
なにが、
そうさせたのかは、
わからない。
ただぼくは、
大切に、
時を味わっていた。

菜っ葉とタクアン
大根の味噌汁
アジの開きと、
おひつに入った、
湯気をたてたご飯。
佃煮に煮付け。
お茶。

床に入り
電気を消すと、
やがて、
蚊帳が浮び、
軒が浮び、
月が浮んで、
空が写る。

蚊帳から見える、
暗い空と、
天高く、ぽっかり浮ぶ半月。

月明かりの中を、
蝶のような蛾が
ときおり
横切る。
月が軒にかくれると、
時折
星が流れた。
そうしてぼくは、
いつまでも、
時の流転の中にいた。

朝、のろのろと蚊帳から出て
うんとのびをしていると、
足音が遠くから近づく。
鼓動がまた、
トットと反射的に
打ち出す。

「旦那さん、ねれました」

初老のおばさんが
目に入る自然どおりの笑顔で
近づいてくる。
ぼくは頭を深々と下げ
「ありがとうございました」
とだけ
ことばを発した。

朝食は辞した。
どこに居たんだろうと驚くくらい、
多くの家族に見送られて、
ぼくは玄関を出た。

これ以上期待するのは、
もったいなくて出来なかった。
奈美ちゃんはいなかったけど、
すでに、
生きていることを、
久しぶりに実感していた。
心は、
すがすがしいままだった。

河邑家から
一歩一歩離れるにしたがって、
急に、現実が、
ぼくをとらえていた。
仕事、
用事、
雑事、
ふっと湧き出た渦のように、
小さな郷愁や
悔恨や、
うらめしさが、
混沌とぼくの内から
湧き上がった。

だから強い気持ちで、
真ん中を突っ切った。

さあ、現実を直視する。
過去はまた、穴に丁寧に埋めて。
そして、振り返らず、
前にすすんで。

少しのあきらめと、
多くの決心のようなもので奮い立たせて、
ぼくは、さらに歩を早めた。

橋を渡った時、
視界の端に今来た道がかすめたが、
かなぐる。

駅舎で時刻を確認し、
キップの値段を確認しようと顔を上げた時

「田中くん」
「元気だった、私、わかる?そう岡田奈美」
「手紙だしたんだけど、三鷹に。帰ってきちゃったんだよ」
「私すぐわかったよ、宿帳見るのが怖かったけど」
「でも、ほんとに、懐かしいね〜、仕事?」
まぎれもなくそこには、
奈美がいた。

そして、

ぼくは電車に揺られている。
すべては昔のままだった。
ぼくらは仲良く話し、
仲良く笑い、
仲良くお互いを励まして、
ちょっとからかいあってから、
仲良くお別れした。

もう逢う事もないし、
手紙を交わすこともない。
ただ、
彼女は彼女のまま、
ぼくはぼくのまま、
ぼくたちは、
ぼくたちのまま。

いれたことを確認することができたこと
それが、宝石にも増して、貴重で、
奇跡のような素敵な軌跡であることが、
ぼくは、わかった。
ぼくの心に、灯った、灯火は消えないよ。

ありがとう、
生きていて。
ありがとう、
生きている。
ありがとう、
生きようね。

See you again!

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