閉塞状況 第三景 『大岩壁』

   

                             

 ハイウェイのつなぎ目が

「カコン、カコン」

と規則的に、響いてくる。

 

 シートからつたわる堅い感触が、

やがて羽毛のクッションになりかわり身体を包みはじめる。

 それらが「うん」と手をのばし、

まぶたを閉じさせようとやっきになっている。

 

 おまけに、

絹の光沢が一面にかぶさりコウはすっかり抵抗力を失ったようだ。

 

 それでも睡魔は、

コウの知覚だけは奪えずにいた。

 コウは覚醒のぼんやりした自覚のなかで、

夢の世界に今、

まさに足をふみいれはじめた。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 さながらお祭りのパレードのようだった。

 辺り一面を霧が戯れ、

流れるガレ場の登山道。

 下を見ると、

人、人、人、まるで遠足の列の様に、

霧を突いて、果てしなく見え隠れする。

 

 それも全員が、

よく遠足で見かける、

サブザック一個といったいでたちで、

である。

 

上を見上げると、

ガレ場はすぐに、立

上がる逆スラブに突き当たり岩壁は、

空のかなたに消えている。

 

 遠足の列の先頭が、

そのまま岩場にはりつき始めた。

 

 ルートもなにもない。

 

 それぞれが勝手気ままに登ってきた勢いのまま、

好き勝手な取り付きから岩に、入っている。

 

 僕だけだ、立ち止まっているのは・・・。

 

 ぼっとしていると、

どんどん後続に追い抜かれる。

 なかには6才ほどの子供と、

楽しげに手をつないで来ている奴までいる。

 

 後を追いかけたが、

声を掛けようとして改めて見上げ、

出しかけた声が喉におしこまれた。

 

 「なんだ、この巨大なフェイスは・・・」

 

 躊躇しているうちに親子は、

つないだ手を解き、

おもむろにフェイスに取り付くと

ずんずん高度を上げ、

もう彼方霧に、

見え隠れしている。

 

 子供は、四つんばいだ。

 父はかまわず、ホールドを探す腕を振りまわし、高度をあげる。

 子供もすでに、父には無頓着である。

 

 日が陰る。

 

 そういえば、

ここにはパーティが一つも存在していない。

 ザイルで確保している組もない。

 銘々岩牡蠣のように張りついて、

一心不乱に高度を稼ぐだけである。

 祭りが何時の間にか、

様相を一変した。

 繰り広げられているのは、

甲虫類の、

孤独で、

頑なな行進だ。

 

 それになんなんだこの岩場は・・・。

 

 剣のチンネを10倍にし伸ばした単独峰をぶった切り、

高原の頂きにとってつけたような風体。

 

 こんな岩場見たことない。

 

 取り付きの下に立っていると、

列の最後尾が登って行ってしまった。

 風が静寂を運んでくる。

 

 登ろうか登るまいか迷っていると、

霧が後を追って這い登ってくる。

 

 見上げると、

取りついた、

あと何人かの尻が、

虫の幼虫のうごめきのように、

見えるだけだ。

 

 この霧につかまってはまずい。

 

 ちょうど最後の一人がハングのむこうに隠れたと同時に、

濃度の濃い霧に風景毎飲みこまれ、視野は完全に奪われた。

 

 相棒がこない。

 遥か上空で、

胴ほどの鋭利な岩が、

なにかを押しつぶし、

高く空中に放り出される。

 

 まずい。

 地鳴りが始まった。

 ん?岩雪崩か…、

そうじゃない、

 タイヤの音だ・・・。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

頭の中がまだ、

目玉焼きの白身の幕に包まれている。

 

 まるで耳の下辺りに小さな砂袋を詰められたようだ。

 鉄橋にさしかかる。

 道路の継ぎ目が規則的に軽く身体を突き上げて、

その砂袋を風鈴のように揺らしている。

 鉄橋を通りすぎる。

 しばらくすると、

四駆の太いタイヤが舗装道路を噛む唸りが、逆に耳から出て抜けていく。

 目的地は、もうすぐだ。

 

 「まったく、わけわかんねー」

 

 自分の発した声に捕まえられ、一気にコウは覚醒させられた。

 「起きたな、どうした、夢でも見た?」

 セイの声は聞こえているが、

今一歩届いてこない。

 まだ眠気がボア・シーツになってたっぷり身体を包んでいる。

 

 今自分からこのシーツを破る心地にはコウは、

なれないでいる。

 半分起きながら見た夢にしては随分、

筋だっていた。

 

 ちょっと途中で立ち止まれば、

たちまち覚醒できたのであろうが、

夢と解っていてなおそうさせない奇抜さが、

今の夢にはあった。

 

 コウにとって、

ほかの夢はともかく、

山が夢に現れるときには、

ろくなことはなかった。

 

 だいたいもう少しで登頂というところで、

探る手がかりがツルツルになり最後には滑落の大音響とともに飛び起きる、

といったようなものばかりである。

 

 しかもそれが妙に感覚的でなまなましい。

 

 目覚めた時には必ずつい今しがたまでつかんでいた岩肌の、

冷ややかな感触と、

踏み外した瞬間の膝の

‘カクッ’

っという独特の記憶が身体にすりこまれてしまって、

しばらくその感覚に繰り返し脅かされる。

 

 途中で夢だと自覚できたとしてもだめである。

 

 いきなりオーバーハングがニョキニョキ伸びてきたり、

角度が急になったりして、

必ずごていねいに一度、

滑落しなければ目覚められない。

 

 時には、やけくそになって、自分で落ちてみる。

 

 そんな時に限って、滑落がまた、物凄かったりする・・・。

 

 それにコウにとっては、少し暗示的な夢だった。

 

 セイがパートナーの山行では、

コウはいつも彼におんぶにだっこである。

 

 セイと組むときコウは、

トップをとったことない。

 

 だが、難関突破は、

必ずコウの出番となる。

 

 技術、

体力共に甲乙つけがたく、

岩屋としては他の追従を許さない、

卓越したフィジカルエリートの二人である。

 

 その差は当人同志にも解らない。

 

 二人がパートナーになるときは、

自然とセイがトップを取り、

コウが従う。

 

 つまりは、

それが二人資質の差なのであろう・・・。

 

 そこまでバクとして考えをめぐらしていたコウは、

バネ仕掛けの人形のようにダッシュボードの上に組んでいた足をはずすと

シートに座りなおし、

唐突にきりだした。

 

 「俺に、トップとらしてくれ」

 

 めんくらったセイが一呼吸後、

答える。

 

 「なんだいきなり、お告げでもあったのか」

 

 「いやそうじゃない、

お前が後でこそ楽にトップをとれることを忘れていた。

そう思ったら急にやりたくなってきたんだ。

いつも他の奴と組むときは、

たいがい俺がトップだろ。

登るよりはおだてたり、

たたいたり、

引っ張りあげるのに躍起になっておわったころにはくたくただ。

だけどおまえが後なら安心だよ、

こっちも思いきって登ることができる」

 

 口にして改めて自分の提案の本意をコウは理解した。

 セイ以外のパートナーは、誰と組んでも圧倒的にコウに劣る。

 だからトップはいつもコウの役割だった。

 登り終えた時はだから、満足感や征服感より先にコウは、

 責任を果たしたという安堵感に身震いするのが常であった。

 また、自分の身体の声の聞こえ方、それにコウは絶えず登攀前なにより気を使った。

 

 例えば現在の肉体的なポテンシャル。

 

 登攀前の精神状態の在り様。

 特にオンとオフを切り分けられる、

心の在り様。

 

 それらは全て身体の声として集約されることを、

経験的にコウは知っていた。

 

 例えば登攀という行為には、

関係がないと一見考えられる事象

・・・人間関係のごたごたや、

金勘定。

 セフレのファックや学校の試験など・・・

 

 をいかに登攀するまえに渡りをつけるかといった、

セルフコントロールの部分に登攀同様重要性を見出し、

登攀を完結させる珍しいクライマーで、コウはあった。

 

 俗世間から解放され、

山という限定された空間で自己を開放する。

 

 それはそれでいい。反対はしない。

 

 だが、意識的にはそうでも、

限界状況であればあるほど、

逆に山に入る直前までの自分が強く作用することを、コウは本能的に知っていた。

 

 悩みや不安、

不満を山に持ちこむ奴ほど容易に、

パニックに陥りやすい。

 

 だが、

他人が今どういう状態か、

短時間で見ぬくのは非常に難しい。

 

 針の穴ほどの弱みが、

自信に亀裂を走らせ、

結果滑落してうめいたり、

パニックの余り岩にしがみついて動けなくさせたりする。

 

 そんな奴を随分なだめすかして引っ張りあげてきた。

 そういった意味ではセイは最もよきコウのパートナーであると言えた。

 セイも、山男くさくない山屋であった。

 

 性質として、

日常生活にスタイルとして山をはびこらすことを許さず、

しかし彼の能力が発揮される場では必ず、

彼は消化し尽くされた山で得たオリジナルな体験を、

残らずフィードバックさせ役立たせていた。

 

 限界に近い状態の人間の生理反応を熟知し、

限界以上の力を引き出す術を熟知しているものの強みであろう。

 

 生理反応に長けていることは、

人間関係の予測にもよく役立った。

 生返事をしたまま、セイは、アクセルを踏みつづけている。

 

 今回のフェースはばかでかい。

 

 行けるところまで行って交代と洒落込むか・・・。

 

 「おい」

 

 セイがアゴでしゃくる。

 うなずきながら、コウの視線は左上方の面を捉えている。

 

 いきなり、

空の半分をおおう、

雪をたたえた屏風が日のきらめきをシャワーのように反射し、

立ちはだかる。

 

 麗は、

牧歌的な畑の広がりで、

この一枚の屏風さえなければ、

とくに注意もはらわれないありきたりの田園風景だ。

 

 だがこの千メートルの圧倒的な高度をもって立上がる屏風は、

ここに高速のインターと何件かの展望台付きのホテルを呼びこんで、

その存在を誇示している。

 

 おかげでおっせっかいな家族が、

フランチのメニュでしこたまドライシェリーやワイン、

ブランデーを流しこんだ翌朝、

備え付けの望遠鏡で、

ザイルの先端に残る、

干乾のように原型をとどめていないドラ息子の無残な片鱗を発見し、

卒倒したりしている。

 

 年に何回かは、

パパラッチによる滑落中のクライマーの姿が、

世界のグラビアを飾る。

 

 この壁は、

山に特段注意を払わない多くの人達にも、

そうして日ごろの存在の誇示をおこたらない。

 

 確かに、山屋にはやっかいな存在である

 特にすねかじりのもの達は、

登りきるまでこの山へのチャレンジを、

決して人に漏らさない。

 だが、

たいてい、

あとから袋ずめの骸になって、

親元にとどけられことになる。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 左カーブ。

 インターの降り口が近づく。

 地名の横に山のマークの入った標識が読み取れるほどの距離だ。

 

 一筆書きでそれと知れる、

ピークを三つ程持った峰から、

一つの大きな岩が転げ落ちている、

実感のこもったマークである。

 

 だが、陽気なマークとは一転して、

実物は陰惨なまでの即物性を発して、

あまりに巨大に、

高く、

生えている。

 

 セイはアクセルを踏みこんだ。

 南壁は、それでも明るい。

 全身に日を浴びて、

いっせいに反射し、

輝いている。

 

 今回、彼等はここで降りない。

 

 二人が降りるインターは、

もうひとつ先である。

 そして山屋にとって、

ここで降りないこととは、

凄絶な覚悟を、

彼等に求める事でもあった。

 

 明るい誘惑を断ち切る。

 

 それは、

やさしく、

慈愛に満ち、

無事を祈る、

いっさいの視線との決別を意味する。

 

車線を変更し、

アクセルを踏みこむ。

 

 トンネルに入る瞬間、

悲鳴のようなものがキャッと聞こえた気がした。

 

 南壁は、

これから二人が歩を進める北壁に比べれば、

各段にかわい気がある。

 

 縦に走る、

深くえぐれた三本の直立する沢筋を残雪が覆ってさえいれば、

どんな想像をもしのぐその圧倒的な体躯でさえも、

びっくり箱のようにたわいもない歓声を観光バスに、

挙げさせたりすることができる。

 

 そのままインターを降りて、

いかにもそれ風のホテルの内の一軒に腰を落ち着ければ、

たとえ滑落は見れずとも、

逗留中は飽きのこない、

千変万化なサービスを、

 ホテルと共に南壁が、

惜しげもなく提供してくれる。

 

 例えば貴方が、

チェックインした後温泉で汗を流し、

テラスにあるフル 

リクライニングシートに身体をはめ込んだとしよう。

 

 すぐにボーイはカクテルフルーツドリンクとパラソルをセットし、

頭をヘッドレストによっかからせたままリモコン操作のオートフォーカス双眼鏡を寄せてくれる。

 

 貴方は、

しばらくの間、

乾いた喉をカクテルドリンクで潤しながら、

巨大な南壁の全てを所有し、

めでることだろう。

 

 金曜日ならきっと、

杏のカクテルだから、

心地よい酔いは思ったより早く貴方の疲れを溶かし込み、

日常の雑踏は今一歩で、

遠のくというところ。

 

 突然、

貴方は南壁に、

ようやく肉眼で確認できる程の小ささの、

巨大な滝を発見する。

 

 思わず、

貴方はヘッドレストから頭を離し息をひそめ、

双眼鏡を手繰り寄せ、覗き込む。

 

 リモコンをどこに動かしても、

飽きることを貴方は知らない。

 

 壁の肌色は女性の有事の時のように、

刻々と変わる。

 

 思わず顔を背けるほどの、

滝の水飛沫が、

砂の様に流れ落ちる。

 雪が、

ひょっこり現れ落ちる様にドロンと消える日本カモシカが、

回転速度を増す落石が起こす岩雪崩が、

クリスタルカットのような陰陽の影が、

とどまることを知らない変化となって貴方に、

時間の流れを忘れさせるのだ。

 

 とても見きれるものではないんです。

 だって同じ変化など、

時間が流れつづける様に、

ないのだから・・・。

 

 どのホテルにも、

何時間座っても疲れない、

リクライニングシートと双眼鏡やパラソルが、

宿泊者の人数分だけ、

広いテラスに必ず用意してある・・・。

 

 だが・・・。   

 

 だが、

南壁を左手に仰ぎながら山麗を回りこみ、

オレンジ色の長いトンネルを抜けると表れる北壁は、

仰ぎ見る者に、

陰惨さのみを撒き散らし、

敵意を剥き出しにする。

 

 もはやその風貌は、

マークに成るような、

一切の具象化を許容しない。

 

 日陰者は草さえ山麗に生やすことを許さず、

目にしてしまった者をすくませ、

そののち必ず、

舌打ちさせ目を背けさせるに十分な凄惨さを放射し続けている。

 

 遭難による死亡者の、

登攀割合世界一。

 

 夏の盛りでも、

不規則に削られ、

凹凸を繰り返す壁は、

ところどころに岩を凌ぐ硬さの氷が埋め込まれていて、

十二本歯のアイゼンやアイスバイルをも跳ね返す。

 

 インターまでもがひねくれてしまったように

トンネルとトンネルの間にひっそりと構えていて、

目的が無ければ誰も気づかない。

 

 だいいち、

インターを降りるものは、

命を放棄するかわりに名誉を手に入れようとする、

向う見ずで、

高名な岩屋と、

一軒ある宿の家族と関係者のみである。

 

 とりあえず取り付き直下のホテルに一泊して、

敵さんを解析と洒落込もう、

と提案したのはセイであった。

 

 「かね」

 

と一瞬頭を横切ったが、

コウも直ちに同意した。

 

そして地獄へのアタックは、

はじめてである。

 

 二人がこの山に入るのは、

二年ぶり二度目であった。

 

 南壁の山麗に数あるホテルの中で、

抜群の集客力をほこる、

オテル・ドウ・カーラの原動力は、

鷲鼻のオーナーの、

ある、

培われた能力によるところがおおきい。

 

 今は既に、

白髪の目立つ元山岳ガイドの彼は、

宿泊客へのオリジナルなサービスの一環で、

登攀の実況中継と解説、

遭難を目撃した後の救助活動をボランタリーでこなしているうち、

ある能力を開眼させてしまったのである。

 

 それは簡単に言えば、

遭難予知能力だ。

 

 彼にいわせると、

ルート・ファインディング、

取り付きの身のこなし方で40パーセント、

 

トップとセコンド以下の連携要素が30パーセント、

天候等の要因をそれらに加味して、

遭難するパーティを99パーセントの確率でアナログ的に予測してしまうのだ。

 

 以来、

彼のその予知は、

遭難救助に非常に貢献することとなった。

 

 そして彼の能力は口コミで広がり、

彼の解説を聞くことの出来た人間達が又、

集客力の原動力となったわけである。

 

 そんななか、

彼は騒ぐでなく、

吹聴するでなく、

サービスと救助にいそしむ。

 

 名のあるクライマー達もホテルを訪れ、

彼の話しに耳を傾けるようになる。

 

 そして彼等の登攀がまた、

彼の特異な才能を磨き、

目を肥やす。

 

 その目の肥えた彼が

 「荷物、預かっていただきたいのですが」

と丁重に切り出した、

まだ童顔の学生の二人連れを目の当たりにした時、

一目で

“強い”

と実感した。

 

岩屋として大柄すぎる程の伸びやかな体躯をもつ二人が、

楽しみながら育ててきた弓のようにしなる筋肉の衣の質は、

Tシャツの上からも極上のものと見て取れた。

 

何しろ、

ありがちの気負いが微塵も感じられない。

 それでいて、

謙虚さを忘れていない。

 宿泊者名簿を見て、

尚驚く。

 

「所属山岳会 無し  ルート ダイレクトルート 一日完登」

 

前晩、

あまり山に関係無いことを、

三人は語り合った。

そして彼はある確信にいたる。

 

 朝と呼ぶにはまだあまりに早い翌朝の、

廊下を板を軋ませながら玄関に急ぐ二人の嬉々とした後姿を見送りながら彼は、

あまりの眩しい予感に、

自分のことのようにブルッと震えた。

 

 忙しい一日がはじまった。

 

 彼は些細な仕事は、

支配人に任せ、

解説もそこそこに二人の登攀を見ることに没頭する。

 

 「記録をつくりますよ!」

 

 馴染みの御仁に、

いつものモエではなくピンドンとブリーを振舞いながら彼は、

呪文のように繰り返した。

 

 彼らのスピードと持久力、

集中力の次元は、

これまでのどんな登攀の記憶の追従も許さないものだ。

 

 予想と期待を上回るペースで、

クラックやチムニ−の解説が追いつかないほどだった。

 

 ギャラリーはいつしか、

テラスに膨れ上がる

 最後の難関。

 

 高名なイタリアのクライマーが、

錆びたピトンに手をかけ、

滑落死したオーバーハングをもなんと、

彼らはフリーで乗り越した。

 

 セイとコウは、

まさかそんな好意的な視線に見守られているとは、

思いもよらなかった。

 

 彼らも、

ホテルの売り物は知っている。

 

 そう、

ここの登攀は、

もうひとつの相手・・・

不愉快きわまりない

「好奇の目」

というやっかいなプレッシャーとも戦わなければならないのだ。

ただし、

彼らはそれすらも、味方につけた。

 見られているという意識は二人の登攀をあたかも、

ギーブス∩ホークスのような極上のものに、仕立て上げたのである。

 

 落日の1時間前。

予定どおり完登を果たした二人は、

望遠鏡の奥にあるであろう覗く肥満し、

ふやけた視線にたいして、

右の拳を振り上げた。

 

 高らかに

 「Fuck you, Fuck you ass hall

と歌った。

 その叫びは、

天にこだました。

 

 実はその拳のはるか彼方下で、

鷲鼻のオーナーは望遠鏡にしがみつき、

小躍りをくりかえしていた。

 

 夕日が全てを燃やし尽くすいきおいで、

彼らをたたえる。

 

 アプザイレンし、

ツェルトに足を突っ込み、

ヤッケを被ると、

ビバークの準備の終わりを告げる。

 

鷲鼻のオーナーの包みを開けると、

アールグレイが二つ、

ローストビーフの塊、

コイーバシグロV二本と、

子瓶のブランデー二本とブリーに、

歓声をあげる。

 

腰掛けて、

アツアツの紅茶にブランデーの小ビンを一本づつ突っ込む。

 

 彼らは、

最後の精一杯の微笑みを贈る夕日と三人で、

今日の登攀に乾杯した。

 

 千メートルを超える南壁は、

こうして彼らにひざまずいた。

 

 翌日、

東南稜を駆け下りた彼らは、

多くの人の親しみをこめた、

お祭りムードの歓迎に、

驚いた。

 

 オーナーは抱擁に続いて彼らに、

ティオペぺを一息であおらせ、

とっときのシャンパン、

クリュッグ・クロデュメニルを静かにフルートに注いだ。

 

 レアのヒレの塊にシャンベルダンを空けたころには、

彼らの地球は回っていた。

 

 肉を飲むようにホウばり、

全ての顧客に紹介し一段落すると、

オーナーはそっと二人を立たせ、

ホカホカのベットが待つ部屋に彼らを誘導した。

 

 二人は、今度こそベットに突っ伏し、昏倒した・・・。

 

 翌日、

払いを気にするセイとコウを、

オーナーは黙って望遠鏡の前に座らせた。

 

 三人は並んで陣取り、

オーナーは既に双眼鏡を覗きこんでいる。

 

 めんくらったセイとコウも一旦覗くと、

すぐ、

見るという行為そのものにのめり込んだ。

 

 突風が下から壁を昇り、

草がたなびく。

 途端に三十センチに満たないテラスにしがみついていた山盛りの岩の一つが

 こらえきれずに壁を転がり落ちる。

 

 跳ねた小石はガレ場でバウンドすると、

いくつかの岩を道ずれにする。

 

 速度がます。

 

 壁にこすられ、

回転も増す。

 それがたっぷりとエネルギーをたたえて今度は、

急峻なガレ場を直撃するのだ。

 

 ゴウと山がなる。

 

 たたき起こされた岩達は激怒し、

なだれとなって、

壁を駆け下りる。

 

 雪渓の脇にユリの花が一輪、

空に向かってそよいでいる。

 

 雪渓は帯状に左の下に続いている。

 

 一筋の氷が耐え切れず転がる。

 

 と横に亀裂が入り、

分厚い窓ガラスの崩壊のようなブロック雪崩が、

一瞬にして沢の谷に吸いこまれる。

 

 セイとコウは、

我慢できず口々に発見を披瀝しだした。

 

 そこにそっと、

オーナーの訂正や、

ヒントが含まれる。

 

 なるほど、

これほど自然の事象に、

因果や脈絡が存在するとは思っても見なかった。

 

 三人は同じ現象を追い始めた。

 

 ズームで広角にし、

指摘にしたがって、

絞りこむ。

 

 そして事の成り行きの完結を確認するために、

再度広角にもどしフムフムと頷く。

 

 オーナーの解説は既に基礎編を終わり応用編に入ろうとしていた。

 

 「ずっと高度を下げてみようか・・・、取り付き上部のトラバースに戻ってみよう」

 

 誘いに誘われて飛びこんできた映像に、

セイとコウはキュウッと喉を絞められた気がした。

 

 既大学の登攀隊だ。

 二人には解説もサワリだけで十分だった。

 と同時に客体化することの重要性を痛感させられている、二人だった。

 力関係、隊の状態が、一目で見て取れる。

 コウが思わずきりだす

 「あのトップ、しょっぱいんじゃないか・・・」

 セイが唸るようにとってかえす

 「セカンドばてて、見えてないよ、一回おちてない?」

 「やっぱり?そんなかんじ。つぎの小ハング、まずいね、余力ない」

「セカンドがやらないと、落ちるぜ。でもセカンドも落ちたらあいつら全部、止まりそ うもないな…」

「そのとおりです・・・」

 オーナーがセイの後を拾う。

 「前のチムニ−のアクシデントでチームが死んじゃってる。操作に余力が見られないですね。

 アブミを出しても手遅れでしょう、おそらく、もう二分ともたない・・・」

 

 漠然と感じていた不安の見事な表現に、

二人は思わず双眼鏡から目を離してオーナーをみやり、

目をあわしてからまた、

あわててまた見入った。

 トップが交代しない。

 

 セカンドの方が強いのは今や明らかだ。

 おそらく後輩なのだろう、

言い出さずにみすみす命をなげだすのか・・・。

 そこじゃない、

リスが広い、

ハーケンは効かない。

 

 左のホールドを探れ、

もう少し上にあるじゃないか、

せりあげろ、

リスをもっと高く追え、

乗り越した方が楽に決まってるじゃないか・・・。

 

 そこはホールドが無いぞ、

どんずまりだ、

やりなおせ!

 「おちますね」

 オーナーの声に反射的に広角にレンズをセットし・・・、

 

 トップの動きが止まった。

 「三本効いてる、もつでしょう」

 トップの首が後ろにカクッと降れた瞬間、

いきなりあやつり人形と化したトップがゴンと落ちバウンドして止まった。

 

 セカンドがなにかわめいている。

 確かに大事では、ないらしい。

 「自力で降りてきます。準備をしておきましょう」

 一時の放心状態ののち、

草のバンドまで降りた彼らは改めて、

懸垂下降の準備をはじめた。

 オーナーと過ごしたこの山行でコウとセイは、

一皮も二皮も三皮も剥けた。

 本来岩屋にはあり様のない、

しかも重要な視点を、

コウとセイはその経験から体得した。

 

 

 

 インターを降りて、

ものの10分とかからない。

 

セイの提案どおり、

陰鬱な影の根元にへばりついている北壁の一軒宿の駐車場に、

車をおちつかせた時コウは、

ちょうど壁の反対側の根元で、

今か今かと二人を、

ハラハラ待ちわびている白髪交じりの鷲鼻のオーナーの、

包み込まれるようなやさしい笑みを、

思い出していた。

 

 身体全体がフリーザーでよく冷やされた棒のようになっている。

 顎を引いてかみ締め、首の筋を引きつらせて上体を起こすと、

 関節が固く閉ざした貝をこじ開けるように軋む。

 よく状況が思い出せない。

 カレンダーを見る。

 

 そう、八月・・・八月でただしい・・・。

 やられた・・・奪われた体温を戻すための武者ぶるい。

 

 闘いはすでに、はじまっている。

 それぞれ反対の力瘤をつかみ身体を前後に揺すりながら、

気合をこめて吐いた息がため息のように感じる。

 

 ちがうと首をふりながらベットからおり、

歯を鳴らしてズボンをはく。

 セイはと見ると、

こちらに背を向け、

まるでアルマジロだ。

 

 やはりパンツ一丁、

シャツ一丁だ。

 

 毛布をかけてやり、

サンダルを引っ掛け、

コウはふらりと小屋を後にした。

 

 一面刷毛で均一に塗ったくったような霧である。

 体が冷えない様、

又汗をかかないよう肩を擦りながら、

ウッソウとした木立を流れるわずかな沢筋のへりをコウは小走りに駆け上がる。

 

 道はくねり高度を急に上げだし、

取りつきに近いこと知らせてくる。

 

 急なモノクロの巻き道を詰めると、

もうシャツは湿っぽく、

低温の湿気は勢い込んで皮膚をも侵食しそうだ。

 

 耐寒訓練はお手のものだ。

 

 だが、

この湿度の高い冷気は、

要チェックだ。

 

一時のち、

びしょぬれになる。

 

身体の芯に染み込んで、

体温そのものを急激に奪いかねない。

 道は崖になる。

 それでもコウは、

反対の力瘤の握り締めたまま、

小さめの健康サンダルを突っかけ、

つま先で登って行く。

 土に、岩が露出しだした。

 鋭角の岩の横に、岩がころがりだした。

 えい、もうすこし・・・。

 足元に集中しはじめた途端、

コウは取りつきに出た。

 ちょっとした広場だ。

 コウの倍ほどのある岩が、

ふたつ、

無造作にころがっている。

 霧はその岩にむかって、

さかんにじゃれついては、

いやいやして 逃げて行く。

 岩はかつて、落ちてきたようだ。

 よく目を凝らすと、右側はかくんと切れこみ、奈落に続く。

 足を数歩進めた途端、鈍痛に見舞われる。

 ガレ場というより落石の鋭利な屑どもだ。

 それらが取りつきまで、

平らな30メートルの間に、

無造作に大小見繕ってばら撒かれている。

左側はすぐに壁である。

 

 そう、

そこは極端に危険な、

すり鉢の底であった。

 

 不機嫌そうな面構えの、

すねて黒ずんだ雪がコウの目前をうねって峪底に消えて行く。

 

 「見えないな・・・」

 

 見ると、

霧にまぎれてやってきたセイが、

すぐ傍らに立っている。

 

 か細い口笛が、

急に音程と音量を上げ、

細い雷鳴となって頭上を切り裂き、

弾かれると

一転して岩の片割れにぶち当たって飛び散る。

 

 岩の飛泡は、

はじめてだ。

 

 「猟銃にしちゃ、高い音だとおもってた・・・」

 「おい、血がながれてるぞ」

 頬を伝う、細い雫を確認せずコウは拭う。

 セイも肩辺りを摩っている。

 どちらともなく、二人はきびすを返し、下り始めた。

 「ごあいさつだな、丁寧な・・・」

 「陰気だな、今日一日余裕があってよかった」

 「霧が晴れたら、覗かせていただこうか」

 「うん、ひとつ丁重に覗いてやろう」

 「おう、丸裸にしてやる」

 どちらからともなく、すでに飛ぶ様に降りている。

 やっと彼らに血が、通い始めた。

 能力でもてあそぶ様な、すさまじいくだりである。

 滑っては、その勢いを利用し、尚加速する。

 シャツに染み込んだ水滴が、彼らの汗に押し戻される。

 ようやく体温をもぎ取った。

 宿の入り口に続くなだらかな下りでは、短距離走だ。

 「腹減った」

 同時に一塊の熱気の塊が、宿になだれ込んだ。

 

 午前九時半、

序序に拡散していた霧は、

数分で蒸発した。

 

 仰げば自然に口がパカッと開き、

後頭部が首につくような

 高い岩の塔に対してはすに構え、

プールチェアに

 寝転ぶと二人は、

銘々に双眼鏡をセットする。

 南壁側とは全てが対照的だ。

 

 あらゆる物の継ぎ目もぎこちない。

 使いこまれてないのと、

木洩れ日すらあたらない怨念のようなものせいだろう。

 

 ホテルもリゾートというよりは、

限りなく、

避難小屋のつくりに近しい。

 

 岩壁への距離も近すぎるし、

だいいち真夏でさえこの寒さでは年寄りにはいたくこたえるだろう。

 

 取りつく岩屋も少ない。

 見ているほうも、

落ちる姿を眺める前に、

本人がめげてしまう。

 

 陽のありがたみを知りたければ、

ここへ来ることだ。

 脚気になりたい人も、

ここ。

 天気も他が快晴で、

もって3時間だ。

 

 始終得体の知らない、

多種の霧か、

驟雨にさらされいる。

 

 ざっと全容を下から上まで丁寧にめでて見る。

 二回繰り返すうちにコウが思わず声を発する。

 「3パターンだな、だいたい」

 「・・・しょぱいな、はなっから」

 「うん、一日では・・・ちょっとな」

 「結果、二日でいいほうだろう」

 「初日の宿屋だけ、予約いれとくか・・・」

 「宿屋か・・・座って寝れれば、御の字だ」

 「トップはまかせたよ、ついでに宿まできめてくれ」

 「了解」

 

 コウの頭の中で

‘ぽん’

と弾けると、

目から吐き出された赤い糸は岩壁すれすれを猛スピードでよじ登る。

 

 クラックやチムニ−に突き当たると、

糸は二本にも三本にもなって、

あるものは途中で消え、

枝分かれして彼方の研ぎ澄まされた岩の壁の高みまで走り行く。

 

 この大岩壁は、

三つの異なった面妖のフェイスで、

構築されている。

 

 最初は、

荒削りの、

触れると切れそうな切り立った岩稜郡である。

 

 穂高の滝谷のイメージ、

意地悪く言えば、

アイガー北壁をさらに風化させたところ。

 

 ほぼ四百メートル、

いくつかのハングとチムニー、

クラックを超えてかなり太く広いとおもわれるバンドに突き当たる。

 

 鈍い反射は残雪を何とかその斜面にかろうじて維持し、

下部と上部を分け隔てている。

 その上部は、危険極まりない思ったより長いはずの、

ガレ場につづく氷の壁に突如変容する。

 

 糸はこの辺りで伸びることをやめた。

 下から大きなハングで、視野は断絶されているからだ。

 逸話は数在れど、己で乗り越えるしかないだろう・・・。

 落石は避けられそうにない。

 被害を最小限にとどめるには、

ルートの読みと天候への気配りと、すこしの運を期待しよう・・・。

 

 雪をバンドが緩む前に上がる。

 岩を行くか、氷を選ぶか、ここも鍵になろう。

 左右の因果関係のマクロの把握が必至だ。

 糸に目を乗せて、もう一度高みに送りこむ。

 いざ登り出せば、望遠鏡では一目瞭然の因果関係や区別も、至近距離ではかえって視界が曇り見えないことが多い。

 

 壁では視野が極端に狭くなる。

 かといって、思いこみは禁物だ。

 下から見える姿と目の当りにしたのとでは又、

えらい違いだからだ。

 思いこむと代償は、

これまた深刻なほど大きい・・・。

 

 コウとセイが、どちらからともなく、

下部の取りつきから言葉でなぞりはじめた。

 最後にやる、お決まりの儀式である。

 

 今日は、

コウが中心になってルートの読み合わせを始めた。

 だいたいセイがイメージしたルートを、

コウの言葉は一心に駆け上がっていった。

 言葉が詰まる。

 そこは、

最後の難所、

ハングと雪渓の向こうに少し、

鼻の頭だけをのぞかせている、

頂上直下の、

Band of hangs”

の黒光りであった。 

“やる”

“まく”

か、

最後の決断。

 

苦闘の末、

辿り着いたバンドで、

圧倒的なハングの前に最後の生気をすっかり吸い取られ疲労凍死するのが、

ここの典型だ。

 または、落ちる。

 急峻なおろし金に擦られ、

身体は瞬時にミンチされ、

とりあえず集めたものを、

ダビに付すしか手はなくなる。

 

 コウは、

まるで息もせず、

黙ったままである。

 「できたらやろうか」

 セイは、

付け足すように、

つぶやいた。

 岩はよく落ちる。

 

 確認している最中にも、

岩はよく落ちた。

 とくに細部に絞りこんで検討中に、

いきなり鋭利に回転し、

岩をも削る岩が眼前に飛びこんでくると思わず言葉が固まる。

 

 これだけは、

ベテランになっても予測が難しい。

 ただ、落石に見舞われる直前、

“なんとも言えぬやな感じ”

に囚われる。だがこれでは遅い。

 

 暖に緩む前に出発する以外、逃れる術はない。

 「よく落ちるなぁ〜」

 いきなりピントがズレル。

 「おい、おかしいな、これ」

 ピントがこわれた。

 見るとセイは黙ったまま指を高く掲げてた。

 雲のような霧だ。

 何時の間にか、塔は完全に隠れてしまっている。

 それきり、塔は、その日彼らの視界から、姿を隠した。

 

 まだ、午前11時である。

 

 言葉になりそこねた塊が、

袋小路でもがいている。

 あきらめて部屋に入りながら、

“今回は目が利かないぞ”

とコウは自分に戒めた。

記憶が頼りだと、

又、コウは一人ごちた。

 モノクロの世界は、

隅々にカモフラージュ張り巡らす。

 

 待ってましたと、

霧や充分帯電した雲が忍び寄り、

構えた鎌を振り下ろすのだ。

 

 ロッククライミングは本来、

集中力の持続力を競う競技だ。

 

 ここでは、

したがって、

登ることだけに集中すればする程、

『死』

への急接近を意味する。

 

 視界を奪われる。

 雪山ではよくおこる現象だ。

 ホワイトアウト、

これによってルートを外れ、

徘徊した末生還した岩屋は、ゴマンといる。

 

 がここで起きる、

霧によるホワイトアウトは、

並み居る手ダレでも対処は困難を極める。

 

 経験がものを言わない。

 “目より肌”

コウは再び、

己に刷込んだ。

 

「よし、あしたまで肌でも鍛えるか・・・」

 

 そうコウが言うと、通じたか否か、

 

 「ほんとうだな・・・」

 

 あいづちをうちながらセイは、

思いきり上に身体を投げ出してのびをした。

 

 食堂の、

水気を吸ってそり返っている一枚板の机に並んで座って、

山のように盛ってもらった、

ニンニクたっぷりのライスカレーを喉まで詰め込むと、

今度は厚着をしなおして、

二人そろって布団にまた、もぐりこむ。

 

 横向きに身体を丸めていると、

胃に入りきれなかったカレーが、

逆流したがっているのを、

喉がようやく押しとどめているのが、

わかる。

 

 仕方なくじっと息をころしまるまっていると、

セイの高いびきが、

振るえながら辺りの壁を登っていく。

 

 相変わらず、

剛の者である。

 

 アクセルを開け、

スピードを増していくいびきが、

いつもの条件反射で、

二人が始めて逢った日の追憶のページを、

繰りはじめた。

 

 この国では珍しいプロのガイドが開催した、

フリークライミングスクール

で二人は出会った。

 ただこの主催者は滅法女性を好むことを、彼らは知らなかった。

 そのため、参加者の中で、

男性はかれら二人だけ。

 あくまで、

アルパインスタイルのためのスクールで、

一通りの技術を習得でき最後には実際にゲレンデに出て、腕だめしをする・・・。

 

 丁度その時期だけめいめい、

予定がなかった。

 いつか・・・いつか・・・と想いながら、

歳を重ねるにはもう気持ち的に、限界だ。

 幼少時代から、

『ロッククライミング』

 この言葉に関係するあらゆる微細な事柄に、

反応し続けてきた、

彼ら。

 

 がしかし山岳部は、

覗くだけで寒イボがでる始末。

 

 丁度よいきっかけだった。

 

 集合場所につくと、

カラフルなウエアの女性達が群れている。

 そのなかに身の置き所に苦労する、

大きな男がセイであった。

 

 コウは別の集団だろうぐらいにしか思っていなかった。

 

 すると、

大きな男が近寄ってきて、

頼りなさそうに声をかける

 「クライミングスクール?」

 「そう・・・。これ、みんな?」

 「そうみたい・・・」

 唖然とする。

 

 到着した主催者も、

いぶかしげに彼らをみている。

 言い出さなければ、置いていかれたに違いない。

 

再三「ほんとに岩は始めてですか」と念をおされた。

 やっかみまがいの冷やかしと、

勘違いしてたのであろう。

 

 実技に入ると、

すぐ、

今度は主催者が彼らを追っかけまわしはじめた。

 

 初心者である。

 

 が、

体重負けしない筋肉。

 早い飲みこみ。

 センス抜群。

 

 身体がなにより柔らかい。

 課題に対して、底が見えない。

 主催者は、今回ばかりは、勝手が違った。

 

 少しでも、彼らといたい。

 次々と課題を出しては、

名残惜しそうに手のかかるメンバーたちのほうに戻って行く。

 その繰り返しだった。

「高さに戯れる」

二人の共通の天性だ。

 

 ハーケンを抜かない。

 アブミの操作は完璧だが、

使わない。

 アルパインクライミング実習の最終日。

 

 彼ら三人は、女性陣の祝福のなか、

穂高屏風岩を最短時間で完登した。

 

 二人に、

必死の思いでついていった主催者は、

最後には彼ら二人に引き上げられる。

 

 夜は、

女の子たちにかこまれ、

よく飲み、

食べた。

 食べられるものはすべて、

かれらの餌食となった。

 セイはマグナムボトルの首あたりを握って、

酔ったときのクセであるレビュファの

『星にのばされたザイル』

のインパクトを語り出す。

 ようやくコウにも眠りの波が訪れてきた。

 突然薄い咽頭の粘膜のような意識のなかで、蛍からきたメールを思い出す。

 

Dear Kou

わたしはあなたのくせをしりつくしている

 るりいろのあなたに、いつもくびったけ

今日とどいた、以下の情報について、真偽のほどをしらせなさ 

コウはきのうまゆみとのFUCKを想像しながらオナニーした                               

 

From

 

 

  

 

 謎だよ・・・

なにを答えてもおまえには、

答えのない、

永遠の謎だ・・・。

 

 うねる筒状のvaginaを鷲づかみにすると、

ちからまかせにうらがえす。

するとねばるオレンジ牛乳の湿気と香りに全身をくるまれて、

脳が巨大なコケシのかたちに隆起する。

 

 おまえにとって、

永遠のなぞだ・・・。

 ただ僕の恐怖は、

わかちあえるかもしれない・・・。

 渦となった眠りは、

今度こそコウを鷲づかみにすると、

一思いにひきずりこんだ・・・。

 

 「ツェルト・・・るよ・・」

 

 湖底に深く沈んでいたコウは、

ゆっくりと目をとじたまま湖面近くに浮かび上がってくる。

 意識が、過去の情景の頂きを浮遊する。

 そう・・・、時間がまず乖離したんだ・・・。

 コウは過去の出来事の本質を今はじめて体感し理解した。

 あの時、確かに、外界と体内の時間が乖離したんだ・・・。

 

 剱のチンネ左稜線で、コウとセイは雷に襲われた。

 遅すぎた暗い午後であった。

 ずっとイヤな感じのまま、登ってしまっていた。

 いきなり、腰にぶら下げたハーケンやカラビナが、

ジジッと音を発てて踊り始めた。

 セイをみると、

メットから髪の毛が天にむけて総毛立ち、

身につけた金属が共鳴しうなり踊っている。

 

 同時に、

豪雨と、

そして、

斜め下から雷に叩きつけられた。

 

 T秒後には、

辺りはほとんど夜となり、

光をさえぎった。岩が滑る。

 

 風は二人を凧のように揺らし、

岩に叩きつけ、

いたぶる。

 音にリミッターが効かない。

 

 いなびかりが、

ヘビになって、

すぐそこの岩を這っている。

 ホールドする、

手の少し先をすさまじい速さでのろのろと、

のったくる。

 全身を鉛玉の水滴でいたぶられ、

風は服のあらゆる隙間から進入すると切り傷をつくって口元に殺到し呼吸させない。

 瞬時にコウは、命の継続の願いを、

あきらめた。

 稲妻は陽気なロシアン・ルーレットを高速で繰り返し続ける。

 大音響の静寂が、

まず訪れた。

 潔く、

少しの悔恨を胸に、

待つ。

 今度は、

時間が変質しはじめた。

 コウはその、

かぎりない静寂に身を置いた。

 稲妻は憤激し撒き散らしはじめた。

 遂に、時空がはじけて、壊れ飛んだ・・・。

 次の瞬間、

 彼らは雨上がりの春山にいた。

 虹が彼らを、覚醒させた。

 鳥のさえずりが聞こえる・・・。

 生暖かく、頬を舐めて行く春風。

 稜線から千切れ、

夕焼けに向かって旅立ち、たなびく雲。

操り人形のように、

腕や足をいつまでもおどらせておこりの発作をくりかえしていたセイとコウ・・・。

 

 「おもいだしたよ・・・」

 「剱・・・か?」

 ザックから首を引っこ抜いたセイが尻越しに、コウをみて、しばらくたってからぼそりとつぶやく。

 「ツェルトをいれるぞ」

 上体を起こす。

 明るくもないのに、コウは、眩しそうに目を細めている。

 「何時だ」

「12時だ」

「どうなってんだ」

 「寝過ごしたまま、こんな時間だ・・・」

 「霧か」

 「月だ」

 まだ、カレーの残党が、くすぶって絡んでいる。

 小屋は、冷気のなかに、どっぷり沈んでいる。

 コウは窓越しに、念入りに研磨され、研ぎ澄まされた、月を見上げた。

 コーヒーが湯気を立て始める。

 香りと一緒に意識も、覚醒をはじめる。

 ルート図が焦点を合わせ、思考の回転の後押しを始めた。

完登すれば、第3登。

彼らは、ダイレクトルートを創るためにやってきた。

 山全体が窪んでいる数ある沢筋は、いずれも落石の巣である。

 現に、落石の脅威を感じないパーティは皆無である。

 極力フェイスを捜して、頂上にむかってつなぐのが彼らの理想だ。

 ただ、これだけの規模の壁ははじめてである。

 アドレナリンの分泌が盛んになっていく、体感。

 このために、三ヶ月間準備を重ねてきた。

 祭りの幕開けだ。

 

 二時。

 小屋をあとにする。

 巻き道をつめる。

 昨日意識しなかった、雪渓のしたをすべる水。

 踏みしめる音。

 反響が、近づいては遠のき、近づく。

 一陣の風が二人のからだを後ろから壁に向かって 突き上げてくる。

 足の裏の鋭利で、固い感触。

 ガレ場の到来である。

 道は傾斜をます。

 もう、取り付きで、ある。

 サーチライトで壁を照らした。

 山のような岩が、二つ。

 微動だにしていない。

 その辺りにはもう、落石のルートの近くだ。

 上を仰ぐ。

 まだ、深い眠りについている岩稜たちが、座禅を組んで折り重なり天まで続いている。

左側面に取り付く。

 しばらくは藪こいでまず、縦に裂けたリスに沿って、チムニーを目指す。

ホテルの展望台から確認できた奴だ。

 丁度そこでライトから発せられた光線は、闇に吸いこまれなごり惜しくきえる。

 庇の右だ。

 バンドの中にからだごと、もぐりこむのだ。

 落石をさけ200メートルは高度をかせげる。そのために、スキルを極めてきたのだ・・・。

 幾度かライトの光を角のように振りまわし、眼前に広がる生のアトラスを焼きつける。

 下を向き目をコウは閉じる。

 閉じてアトラスに登攀のイメージを重ねる。

 ザックをセイに託し、確保だけのための最低のツールをベルトに格納しザイルで結び合う。

 登攀のはじまりである。

 

 霧はまだ、形づくられていない。

 が、ずいぶん水気を含んだ、冷えきった岩肌の感触である。

 薄い、“あく”のようなものが、表面を覆っている。瞬間、“速さが、生死を分ける鍵だ”と痺れのような警告が脳に走った。ホールドを捜し、つま先で岩をおしながら、からだをせり上げる。

 思ったより凝固な感触が、ビブラムのそこを通してコウを叱咤する。

 視覚を取り戻すまでは、汗をかかないスピードを維持し、ウォーミングアップでいい。

 そのかわり確保なしだ。

 一歩一歩体をせりあげるたび、感触がポンポン言葉になって具体化してくる。

 「チムニー上まで、ダブルこーげき」

 「りょうかい」

 「確実・・・ね」

 「アイアイサー、・・・浮石ね」

 「りょーかい」

 ヘッドライトで、局面を選択するためには、リズムが必要になる。

 普段よりワンテンポ多いリズムが、かえって気持ちを引き締める。

 脳の未使用部位が海綿体になって受容器からの情報を、吸収する。

 

 「よりも・・・けっきょく・・・だから・・・」

 

 セイがいつもの、意味にならない独白を始める。

 なめらかにインプットできるように、岩をなでるような登攀を続ける。

 きっと、独白も、生理のリズムなのだろう・・・。

 時々、リズムにブレーキをかけて、首だけ出して上を仰ぎ位置を確認する。

 のったくった、ハーケンにあえぎまくりそうな、リスが目印である。

 いまのところ満点との、生理のフィードバックの採点。

 岩に併せて、独白はテノールになり、バスになる。

 彼方を、顔面に岩の直撃をうけ、回転し落下するイメージが、飛んでいる。

 膝で岩を抑えつけながらつま先で足がかりの確かさを確認する。

 落石の巣は、今のところ回避している。

 

 縦長の磁石のようなドス黒い、

棒のように突っ立っていた岩が、

その四角い端をしたに向け、

セイとコウを確認すると、

一歩ごとに形相をかえ変身し続け、

今や垂直以上のハングになって行く手を阻む。

 

 「雨宿りが、できるんじゃないかぁ〜」

 

 セイがうたう。

 いまや、表情を消し、拒否する鉱物。

 ハングをまき、手のひらほどの幅のホールドを見つけると止まって、

ハンマーを取りだし、左手で岩をたたいてみる。

 右手のホールドに響く音色は、

“いつでもひっぺがしてやる”というどす黒い殺意の警告だ。

こいつは、いつか・・・

明日か、

千年ごか、

万年後、

はがれ、

すっぽりぬけて真下にみえる雪渓につき刺さるにちがいない。

 

 セイが迫る気配がする。

 ハンマーをベルトに掛けるとコウは、

目前のチムニー目指してさらに上に光源から角をなげかける。

 左半身の確保を縦棒の岩に求めるようになってから、

登攀は極端にむずかしくなってきた。

 のっぺりしていて、ホールドになる窪みがないのである。

 といって、右半身側はすでにハングにかかっている。

 登攀後、一時間、まだ登攀導入部。

 

 「うそだろ・・・」

 

驚愕と畏怖と、絶望と一抹の奇跡を発した脳を、

落とした豆腐のようにたたきつけられたクライマー達の怨念が、

襟首あたりを冷やしてとおりすぎる。

 

 無理は禁物だ。

 

 この先それこそ、いくらでも無理させられよう。

 

 「なるほど、なるほど」

 

 おっついたセイも、

状況を見てっとった。

 確保の為にとりだされた、

この日最初のハーケンが、

コウによって再びふりあげられたハンマーによって、

高らかに歌声をあげる。

 

 「いよぉっ、親方」

 

 陽気なセイの掛け声が、

壁をこだまする。

 抜く手間を割り引いても、

コウが打つハーケンのはじけた音色は、

セイの特別のお気に入りである。

 

 打つたびにかかる掛け声に、

毎度複雑な表情をみせるコウの打つ音色はしかし、

変わらない。

 音色は音程をあげながら、

確実にまいど終いまでしっかりと歌い続けた。

 まずは上出来である。

 ここからは、それほどザイルも伸びずに、ワンピッチで再びチムニーに入ることができそうだ。

 左右の壁にふたまたをかけながら、バランスクライムはつづいた。

20メートルのびたあたりで、コウがチムニーに入りこむ。確保完了の合図だ。

 荷物を背負いこんだセイが後につづく。

 打たれたハーケンをこじり出す。

 その効き方が、実にまたいい・・・。

 

 こじり出しながら、セイは妙に感心してしまう。

 滑落した際かかる方向にはハーケンは、びくともしない。

 何回かハンマーでこじりだす。

 

 「よっ、おーやかた」

 

 こだまのようなコウの声がかかる。

 チムニーは、

はじらう処女にようにその割れ目を閉じるかと思うと、

すんでのところで今度は全開に開き、

両手では届かない広さになったかと思うと、

すぐにぴったりあわせてしまうといった具合で頭上に、

凧の切れた糸のようにのびていた。

 

 深くもぐりこみ、

時には押し出されながら、

肘や膝、

尻を駆使してコウとセイは、

からだを確実に高みに運んで行く。

 

 いよいよ割れ目はがっちりと本格的に閉ざされ、

垂直に落ちこむ岩壁の下部におしだされたあたりで、

月はしらみ空が序序に赤みをとりもどしていくのを見てとる。

 

 もうはしょることは出来ないだろう。

 

 ここからが、真の力業の始まりである。

 

 最初の草つきのバンドで二人はテルモスから紅茶をすすり放尿する。

 

 夜明けは急にきた。

 

 そしてそれまで闇にまぎれひっそりとたたずんでいた猛々しい岩稜が頭上に、

大伽藍となって圧倒的にそびえ、

いきなりその全容を表した。

 

 まさに言葉へのいっさいの還元を拒絶する

、純粋な、

生々しいアナログの表出。

 

 それは見るものの内部で長いこと眠っていた、

太古からの遺伝情報を発掘し、

脈々と続く根源的な根幹をむんずとつかんでは揺さぶり、

引き千切ろうとする。

 津波のような畏怖がまず、

生理となってうちから、

血飛沫をあげ言葉を奪う。

 

 そこでそれぞれの岩屋の身体が、

翻訳しサインをおくるのだ・・・。

 

 絶望であったり、

恐れであったり、

諦めであったり・・・。

 

 彼らはわけもわからぬエネルギーが

怒涛の憤激をなって膝あたりから吹き上げ、

ゆらした。

 

 とともに、

こみあげる興奮の喜びを抑えるのに恍惚としていた。

 

 1魂の恐怖が放出され、

助けを求めて中空をさまよい消えて行く。

 

 どちらからともなく、

紅茶を仕方なく、

踊り出す腕をおさえつけるようにしてすする。

 

 下をみると、

山小屋はすでに戻れない距離に遠のき、

ひれ伏してわびている。

 セイは、

とみると、

かわらず白い顔をして紅茶をすすっている。

 目が合う。

 

 「なんとまぁ、すさまじいかぎりだなぁ」

 「ああ」

 コウがつぶやく。

 「こんなことは、どこにも書いてなかったな」

 へへへっと笑う。

Climb up to hell,ちゃちな言葉だ・・・」

「やったことない奴、ここに置いたらどうなん 

だろうな」

 「登るより、ひと思いに飛び降りるだろう」

 ははっ。

 

 どちらからともなく、

濡れた犬のような勢いのいい武者ブルイを一発かますと、

再び、

岩壁のかなたに見える頂きらしきものに目を走らせる。

 

 「大なり小なりいつものことだな、この震えは・・・」

 

 セイが呟く。

 

 「ああ、いつも思うよ、一瞬だけ。やばいとこきちゃったな〜て」

 「でも一瞬なんだよな〜、見てるうちに登りたくなってきて」

 「登らずにはいられないっ、この衝動!」

 

 コウの言葉でトリガーがひかれ導火線に引火する。

 二人の頬は赤みが帯びてくる。

 とくに相手が巨大であればあるほど、

爆発力もすさまじい。

 恐れの後には、

好奇心が、

むらむらと発ち上がる。

 

 つぎには怒りにも似た闘志が烈火のごとく魂に気合を込める。

 投げ捨てられた飲みさしの紅茶を、

糸のように落下して行く。

 黙々とザイルを結びなおし、

ヘルメットを今日はじめて、被る。

 コウは右腕をほぼ一杯に伸ばし、

最初のホールドを握ると、

右腕一本で

 身体をうかし、

顔をその手首あたりまでずり上げる。

 さらに左手をつぎなるリスに拳ごと突っ込み、

身体を確保する。

 長い垂直の、

闘いが始まった。

 

 二人は、

最初の壁の攻略もでるを、

衝立岩に想定した。

 

 岩はあれほどはもろくはあるまい。

 そして壁の高さはむしろ、

アイガーに似ている。

 

 ただし、

冷たさと、

垂直度ははるかに此方が困難だ。

 

 昼に雪渓到達で、

恩のじ。

 当面の目標は絞られた。

 

 極度のバランスクライムの連続に入った。

 指よりも長掌筋の酷使が要求された。

 ホールドに全体中を掛ける結果、

思いきりが必要となる。

 が、かげんが過ぎると、落ちる。

 

普段はあまりやらない、

つかみ、

はさみ、

差し込みながら身体と壁の距離を確保し、

そろそろと肉袋の重さを痛感しながらそれをせり上げた。

 

 指は第一関節がまでが掛かれば、充分だ。

 ある時は岩に押し付け、摩擦のみで身体を確保しながら、足の引っかかる場所を捜した。

 何時の間にか、リスの割れ目のバンドにへばりつく、茶色の雪が目立ち出した。

 方向が、一定の、最初は気にならない程度の風が、背後から忍び寄ると懐にもぐりこみ、体をいきなり引き剥がそうとする。

 幾つ目かのバンドに立ちハーケンを効かせ確保し、セイを待ちながら北壁の影の先に漂う日差しの、せめて焦げ臭い唐草の匂いを嗅ごうと、コウは鼻クウを広げた。

 音もなく頭大の岩が回転しながらかすめた。

 反射的にザイルを握りしめ踏ん張ったと同時に、コウの「らく」という叫びと「落ちた」というセイの叫びが交錯した。一瞬の出来事である。

 いつまでたっても、見舞われるはずの衝撃がない。

 我に帰って、コウは下を覗いた。

 「だいじょうぶか」

 「あたってない、ザック持ってかれた」

 言葉を飲む。

 ともかくもセイが上がってくるまでただひたすら待った。

 アイスバイルにザイルが引っかかった。

 それを解くため、空中に身を乗り出し半身になってザックを、取り、持ちなおす。

 左手にザックをぶら下げたその時、短い口笛が聞こえた気がして上を向くと回転する岩が顔めがけて殺到していた。

 ザックを握った手を離し岩に張りついたと同時に、岩はザックをさらって音もなく落ちて行った。

 一瞬の詳細はざっとこうである。

 幸運以外のなにものでもなかった。

 頭を直撃すれば今ごろ、干物だろう。

 身をかわしザックを守ろうとすれば、腕ごとザックを奈落にもっていかれる。

 ただし、彼らが下界に戻れない運命にあるのなら、

 いっそこの時、落ちてしまった方が良かったのかもしれない。

 それは地獄の責め苦の始まりの合図となるのだから。

 コウも血の気が引いた。

 前兆が皆無の落石は、ライフルの狙い撃ちに等しい。

 痛手らしい痛手も、はじめての経験である。

 残った持ち物は、ぶら下げた三つ道具に、アタック用の水筒一本、ツェルトのみ残った。

食い物はチョコレートとチーズ。

 氷壁とは、ガップリ四つに組めない。

 ビバークなしの直登でいくしかない・・・。

 しかも、退却の道は絶たれた。

 二人は話しもそこそこにさらにピッチをあげて登り出した。

 

 果てしないバランスクライムが続いた。

 高度をあげるに比例して岩が冷たさをましていく。

 石灰の袋自体が湿気で、ねちょねちょしてきた。

 それでも付けないよりは増しである。

 しゃにむに登る。

 霧吹きで飛ばしたような霧が稜線づたいに漂いはじめる。

 その度に遠くの陽が陰る。

 カラカラと落石特有の音がようやく、

壁伝いに反響するようになった。

 ちょうど風がまたその勢いを増してきたころからだ、

手がかりがいよいよ氷っぽくなってきた。

 

 指がかぎのように関節から90度に曲がったまま固まっている。

テラスで両膝の間に手をつっこみ、

指を伸ばすとバリバリを不機嫌な音を発てて神経質な痛みが脳を直接かき回してくる。

 痛みをこらえてなお、揉み解す。

 ・・・もうちょっとおまえには、働いてもらわなくてはならない・・・

さらに曲芸が連続する。

 

 空腹が重い板になって胃を刺激し、指がはりぼてに変わりだしたとき、いよいよ最初の大ハングの根元にさしかかった。

 まるで彫刻刀で削ったような、粗い、しいたけの傘のようである。

そんなのが4メートルも張り出している。

「・・・15分だ」

 その程度で充分だ。

 指をさすりながら、コウが吐き捨てる。

 「最後のおまえのお荷物だ、頼んだぞ、しっかりやれ」

 セイが上体をおこし、ゲキを飛ばしてくる。

 やはりトップしょぱい・・・、

セイの実力に改めて感嘆しながらコウは、

それぞれ2センチほどの出っ張りを指でぐいと挟み体を一瞬浮かすと、

振り子の反動で足を右上に回し、

突起につっかけてバランスを保たせる。

 耳の後ろがドクドクなる。

 3分か・・・、

頭のなかを別の声がかすめる。

カラータイマーじゃあるまいし・・・。

 唸りながら右手を次のホールドに一息に伸ばす。

 筋肉の束の悲鳴が聞こえる。

 足を肩あたりまで引きつけて、

壁をけるようにしてバランスを保つ。

 

 蜘蛛もつらいよ・・・。

 ひと唸りすると左手を庇の軒に這わせ、

瞬時に握る場所を捜す。

 がくんと荷重のかかった右腕の筋の張りが急を告げる。

 左腕をとってかえして、右腕をカバーする。

 だが、姿勢そのものの限界が訪れ様としている。

 引力が身体全体を法則に従わせようとして、

背中を引っ張る。

 意を決して左手をまた伸ばして、

ハングの庇からさらに上の手がかりを探す。

 二本の指の腹が引っかかった、

勝負だ。

 

 左手をいったん離し、

両足でスタンスを蹴って上体をハングの庇に押し出すと軒から出た瞬間、

右腕一本で支点にしてさらに上のホールドに左手をとばした。

 左手がホールドしたと同時に、

酷使され続けた右腕の腹の筋の何本か音を発てて、

伸びきった。

 激痛に見舞われる。

 右腕は、身体から生えている、

重い無用の長物と化した。

 左手の僅かなホールド1ヶ所を握り、

コウモリのようにハングの庇にぶら下がったままコウはうめいた。

 セイがなにか叫んでいる。

 目を開けたコウは、

反射的に右腕を左腕に巻きつけ懸垂のようにして身体をせり上げ、

宙にぶら下がったままの足を振り子のように揺らすと、

反動で右足を頭より高く持ち上げ

斜めに走るリスに噛ませた。

 そして今度は左手と右足で身体を支えたまましばらくうめく。

 右手がつかえない、完全にばかになった・・・。

 左手でさらに何とか身体を持ち上げると左足を壁にガリガリはわせ、

ひっかかったそばから踏ん張って、

ようやく壁と並行に真っ直ぐ立ち直す。

 右手の指を岩に押し付けて丸め、

拳をつくるとそのままリスにぶちこみ空いた左手をなお、

高く壁にはわす。

 体をせりあげる。

 右手を引っこ抜いて今度は、

右の肘を目の上の横に長い突起に乗せる。

 空いた左手で可能な限り上部の、

ホールドをつかむ。

 体をまた、せり上げる・・・。

 やがて雪をたたえたゆるやかなバンドに上半身を乗せてコウは、

顔を雪に突っ込んだ。

 ぶらさがっている二本の足を持ち上げると、

バンドのうえに横倒しのまま、

コウはうつろにのびていた。

 自分の役目は終わったと思った。

 セイは、

すばらしいスピードでハングを乗り越してくる。

 コウにも、

手負いでも、

獅子の、

自負と読みと裏付けがあった。

 

 あとはセカンドの仕事をすれば良い・・・。

 我々の勝利だ!

 雪田の乗り越しが当面の鍵だ・・・。

 やがて、コウはむっつり立ちあがった。

 地面に直接ピトンを打ちつける。

 確保の体制をつくる。

 「いいぞ」

 霧が渦巻く宙に向かってコウは怒鳴った。

 セイはすさまじい勢いで大ハングを乗り越えると、

まずコウの右腕をとって丹念に見た。

 曲がる、押してもさほどいたまぬ、肉離れのようである。

 潅木の切れ端を拾ってくると、右腕の添え木にして三角巾でまく。

 腕の上げ下げにともなう痛みが無い様固定すれば良い・・・。

 一本いれる。

 まだ昼前である。

 驚異的なスピードである。

 トップはセイに変わる。

 セイは、温存している体力のありがたみを痛感した。

 コウはさすがだ、

しょっぱい前半をのりきった・・・。

 コウとセイは正午、

雪田にとりかかる。

 だがここからは、

運勝負の、

不気味な登攀が続く。

 雪田を乗り切るまでは、

焦りが命取りになるのは目に見えていた。

12本歯のアイゼンが欲しいところ、

ピッケルのみだ。

ステップを切るには限界がある。

 

 選択は賭けでもあった。

 

 岩雪崩の時間帯のピークまえに、

尾根にはさまれた急なガレ場を直登する。

 無事に詰めきれれば、残るは頂上直下の壁とハングだけになる。

 アプローチのステップ切りに思いのほか時間をとられる。

 ステップを切りながら、

セイとコウは、

ガレ場に頻繁に起きる落石を見上げてはその法則を読んだ。

 が、

やはり賭けの部分はのこる。

 それがアルパインクライムの醍醐味でもあろう。

 彼らは、遂にガレ場に到達した。

 しばらくは、

雪田をガレ場添いに登ってみる。

 だが斜度は、

ピッケル一本の彼らをあざ笑う様に厳しさを増した。

 とうとう彼らは急峻なガレ場に足を踏み入れた。

 雲が頂上から彼らを見下ろし、

脅かす。

 足を踏み入れてみると、

なぜ、

こんな急斜面にガレ場が存在しえるのか理解に苦しんだ。

 さらに、

そこを登っている感触が、

毛穴を全開に開かせた。

 あらゆる感覚器が、

「逃げろ、逃げろ」

と追い立て、

急かす。

ザイルは動きの連鎖を断ち切るため、

迷わず外した。

 覚悟がいることだった。

 足元からも、

岩の大崩落は起こった。

 その度、

足がすくわれる感覚に襲われ、

もがいた。

 この岩の幾つかが、

越えてきたハングに到達し宙に放り出される。

 そしてあるものは、

取り付きまで、

なんの物理的な抵抗も受けずに落下するのだ。

 きのうの早朝の岩の飛まつの、

起因地点に彼らはいた。

 二時十分。

 とうとう本格的な岩雪崩に遭遇する。

 右斜面を下ってきた一陣の岩は本筋に突き当たって全体に岩雪崩を発生させた。

 幸い二人の位置は、

きっかけとなった崩落の真下あたりであったため、

いくつかの拳大の岩をうけただけに留まった。

 肩や腿に、

裂傷を負い、

血を滴らせた。

 

 さらに一時間後、

岩雪崩が彼らをかすめ、

谷全体を揺るがした。

 岩雪崩の煙にむせながら、

飛まつやチリをかぶりながら、

もう者遮二無二歩を進めるしかなかった。

 四時。

 いきなり一枚のフェイスに突き当たる。

 賭けの終焉は、あっけなかった。

 二人は始めてお互いの五体が、

そろっていることを確認し、

目を合わせて、

高笑いをした。

 からからにこびりついた汗の塩と血のしたたりの上に、

岩のドウランが相俟って三文歌舞伎役者の風体だったからだ。

 笑いは果てしなく壁を跳ね返ってこだまし、

涙声になってようやくおさまった。

 どちらからともなく握手した。

 勝利はもう、

かれらの手の中にあるものと、

確信した。

 あれ程の威容を誇っていた天にそびえたつ北壁は今や、

薄いベールのような霧に包まれて上を向いた、

一枚の壁に収縮し目前に立っていた。

 

 150メートル程の壁である。

セイは予定通りの取り付きから入ると、

見る間に体を霧の中に運んで行った。

 するすると伸びて行く、ザイル。

 一杯に伸びきる直前、

 「いいぞっ」

 と天から声が降ってくる。

 添え木で固定されたコウの右腕は、

短時間でかなりの握力を回復した。

 さらにバンダナを紐にして手首が曲がらないよう、

ぐるぐる巻きにする。

 鎌状になった右手を薄く氷のはった岩角に引っ掛けると、

体重をそこに託してみる。

 いける・・・。

 右足で壁を蹴り込むと、

左手でほんの小さな岩角を握りこみ、

コウも体をせりあげていく。

 

 やはり要注意は岩にへばりついた氷だ。

 ビブラムでかためた足と壁の間にしっかりを密着し、

奈落へ、身体ごとすくおうとしてくる。

 氷を蹴落としながらセイに追いつく。

 

 「しょぱいところは、ピトンを打っていくぞ」

 

 コウは頷くしかなかった。

 この手ではやはり限界がある。

 誉に眩めばミンチになるしかない。

 セイも極力フリークライムには、

こだわるであろう。

 風がふわりと視線を促す。

 

 見ると霧はちらと隙間をあけ、

帯状の庇“Band of hang”の鋼鉄でできた黒人のcockのような黒光りで、

威嚇してまた霧のなかに消える。

「やっちまおうぜ」

おもわず掛け声をかけると、

セイは振り返らず、

拳を突き上げて答えてくる。

 

 ホールドを捜している。

 セイのホールドとスタンスを一々すり込むのは、

自然に身のついた知恵だ。

 そう、それだ・・・、

それいがい、

さらに快適な登りを提供してくれる手掛かりは、

どこにもない・・・。

 フリーで小さな庇を、

結局乗り越す。

 

 ザイルの張りは、

コウを引っ張りあげる算段のようである。

 できるところまでやってみるか・・・。

 コウも勢いをつけて、あとに続いた。

 5時を回った。

 すでに北壁側は、風前の灯である。

 頂きだけが、

西日を一身に受けて、

ダイアモンドダストの輝きを放っている。

 

16時間を経て、

二人はついに、

最後の関門に挑もうとしている。

 

 ハングと垂直の壁の境に、

最初のハーケンはセイによって打ちこまれた。

 カラビナが通されアブミが下げられる。

 蜘蛛になってはりつく姿に見慣れたコウの目には、

この小さな梯子を使った

 登攀の方が、

よっぽど危なげに映る。

 さらにハーケンは乱打され、

アブミは序々に庇の内側に、

ルートが伸びて行く。

 これじゃ、

落ち様がない・・・。

 やがて先端まで張り出すと、

セイはおもむろに背伸びでもするように、庇の向こうに消えて行った。

 「ボルトがあるぞ」

 ザイルの伸びが停止する。

 えっ、ボルト?

 「バンドはないか?」

 「・・・ちょっと、しょっぱいな・・・もう少しだ」

 ザイルが、

逃げるヘビのように、庇の上に消える。

 ほっとした瞬間、

大翼鳥の巨大な影が、

視界を縦にさえぎった。

 音もなくあお向けに落下するセイの一瞬の残像。

 

 ザイルが鞭になってのったくり高速でたぐられると、

握る間もなくコウは、頭から庇に叩きつけられた。

 一瞬の出来事であった。

 首を伝って流れる血が、

失神からコウを覚醒させる。

 腰のカラビナがガッチリハーケンをかんでいる。

 一本も抜けないかわりに、

したたか叩きつけられた頭が割れ、腰を痛めた。

 いや、腹が苦しい。

 ザイルが食いこんでいる。

 手で頭をいじくりまわしている。

 痛みがそのたび波のように押し寄せて、

意識を覚醒させる。

 骨は大丈夫らしい。

 耳の後ろにも回り込んで血は、

雫になって落ちてしまう。

 髪の毛をしぼったら又血がしたたった。

 もったいない・・・。

 またコウは何秒か失神した。

 拘束感が抜け、身体が緩む。

 その刺激が夢中でコウを反射的に岩にしがみつかせた。

 セイがいない。

 声がない。

 意識がフルスロットルで走り出す。

 セイがいない。

 ザイルが効いてない。

 セイを求めてコウはカラビナを外すと、

コウはザイルを固定し、

自らは、

確保なしで下降をはじめる。

 セイは…。

 

 セイは20メートル下の50センチ程のバンドに横たわって身体を丸め、 痙攣するように小刻みに震えていた。

そばによると、

首だけ回して

“行ってくれ”

とかすれた声でつぶやき、

力なく目を閉じた。

 

コウはみるみる岩のような色になるセイの背中をさすっていた。

 セイの手に食い込む程に握られたいるものを、そっとはがす。

 それは錆びついた、

一本の生めこみボルトだった。

 血は止まっている。

 ようやくずきずきうずく思考がまとまりをみせてきた。

 

 相変わらず、

コウはセイの背中をさすりながら、

最強の岩屋の最後を思い出していた。

 衝立上部の錆びた、

古いボルト。

600メートルのダイブ・・・。

アイガーの遭難の話しを引き換えに、

セイに

「決して動くな」

と諭す。

貝のようなセイの目から、

滴がこぼれる。

 「コウ…、血が・・・」

セイが呟く。

 「俺は大丈夫だ、おまえが動かないこと、それが俺の命を救う、頼むぞ」

 コウはジャケットを脱ぎセイにはおり、

ツェルトで丁重にセイをくるむ。

 セキこんだセイの口から、

血の泡が一筋流れる。

 「頭、大丈夫だな」

 眠りそうなセイは指でメットを、

小さく2回たたいた。

 口の端を持ち上げた。

 笑いかけたつもりなんだろう。

 口元にチョコレートを入れる。

 ザイルにカラビナを通し、

ハーネスをハーケンで固定する。

 「よ、親方」

 セイがうめく。

 「動くなよ、南壁のオヤジのヘリでくる」

 立ちあがったコウは、

バンダナと添え木を断崖遠くに、

かなぐり捨てた。

 再び、コウの攻撃が始まった。

 たちまち大ハングの乗り越しにさしかかる。

 打つハーケンはない。

 打たれてあるハーケンには触らずに、

岩をつかみねじ上げて蜘蛛になって張りつき全身する。

 足がはずれ、

一旦ぶら下がっても、

懸垂の要領で身体をせりあげ、張りつく。

 右腕がぶるぶる震え出す。

 脳を直接がんがん痛みのハンマーでたたかれる。

 時間がまたもや変質してきた。

 庇の端を掴む。

 窪みにつま先をうめこみ、

蹴って庇の突端に両腕でぶらさがる。

 限界が訪れる。

 うめきながら右腕に残された最後の力で身体をささえ、

左腕を頭上になげホールドをつかむ。

 のりこした、勝った・・・。

 あとは、僅かばかりの右腕の援軍を頼りに、足をかければいい・・・。

 手がかりは?

 手がかりがない!

 みるとのっぺりした壁である。

 頭がパンパンに腫れる。

 手がかりが皆無だ!

 限界が訪れた。

ガクッと、縮めた左腕が30度伸びた。

無念。

 むなしく視線を這わせる。

 と、ぽっかりと、穴があいている。

 抜けた埋め込みボルトの、跡だ。

 小さな声が聞こえたような気がした。

 痛みに怒りが加わった。

 タールの海に落ちた瀕死の海鳥の映像が頭をよぎる。

 そして、その海鳥が丸まったセイの姿に変わる・・・。

 ちくしょう・・・。

 コウは憤激にまなこを見開き、

指を二本揃えると、

爪が弾け飛ぶのも構わず、

ボルトの穴深く、

骨も折れよとばかりに叩きこんだ・・・。

 

 ホテルの窓には、灯火が揺れだした。

 テラスには、まだ、

双眼鏡を覗き微動だにしない姿があった。

 虫の知らせがオーナーをその場に、くぎ付けにしていた。

 だが、オーナーは何十回目かの反目を、また繰り返した。

 不世出の天才クライマーのコンビである、彼らに敗退はない・・・。

 切って捨てるような風が降りてくる。

 山頂だけが、西日をまだ浴びてキラキラ花火をあげる様に、

輝いている。

 見る間に頂きの陽光の範囲が、

つぼんでいく。

 オーナーは一旦、

自分専用の籐椅子にへたり込んだ。

 まだ、あきらめきれず、最後の確認をおこなう・・・。

 と、いたっ!

 確かに、人だ!

 しがみつき、ズームで絞りこんだオーナーは、

仰天し我が目を疑った。

 その双眼鏡の中いっぱいには、

いま、

まさに消えんとしている残照を一身に浴び、

彫刻のような筋肉に波打つ金色の体躯を乱反射させて、

仁王立ちした上半身裸の青年が腕に巻きつけたシャツを、

振りまわしていたのである。

 コウだ!

 空身だ!

 セイがやられた・・・。

 オーナーは踵を返しホテルの無線に今度は、

しがみつく。

 とって返し覗くと、もう頂きにコウの姿はない。

 東南稜を飛び降りるようにして、

髪を振り乱し、

駆け下りている。

 まってろよ、ひろってやるぞ!

 ヘリポートに走りこむ。

 もどかしくヘリのイグニッションを点火しエンジンを始動させる。

 セイ、おまえもぜったい、おろしてやる!

 まぶたの裏に静かに横たわるセイにオーナーは呼びかけた。

 ヘリが始動を始める。

 辺りが轟音に包まれる。

 自分に言い聞かせながらオーナーはまた、

祈る様に消え行く南壁の残照をみあげた。