閉塞状況 第一景 『壁』 

            渡邊 聡

 

間にあった。

冬のさかり。
もつれた足をほぐし悟られぬよう、
弾んだ息を整えながら、
希望に満ちて、
久しぶりにバス待ちの列の、
最後尾に並んだ。

まだ、
歯を磨いたなごりの痛みが、
はぐきから鉄柱になって、
規則的に軽く、
耳の後ろを突き上げてくる。

膿が全部、
出きってないらしい。

舌を奥歯にあてがい音が出るほどすすると、
目の奥が痺れ、
あふれた膿んだ血にむせかえり、
思わず吐き捨てる。

膜のような痛みが、
木枯らしとともに冬晴れの空高く大天幕になってはためいている。

座れるのは列の前からせいぜい、
三人目ぐらいまでだろう。 
あと何人並ぶかと思っていたら、
バスがきた。

バスには、
乗客が、
ケースいっぱいに入ったビール瓶のように窓際までひしめいていた。

既にここからは、
誰一人、
座れそうもない。
全員のれるのだろうか・・・。

ドアが開く。
列が糸を引き、
ためらいがちに加速をつけて、
身体を隙間にはめこんでいく。
歩みがのろくなる。
壁が強固になりつつある。

思わず身体を左右に振り足踏みして、
威嚇の意思表示。
あと二人。
満員である。

ついせっついて、
前の黒ずくめのアタッシュケースの踵をいきおい足で、
すくってしまった。

顔から前のおばさんの背中に突っ込み、
ケツをだして慌てている。
あくびのような笑いを噛殺す。

用意しかけた謝罪の言葉が、
刺すような一瞥を見るや否や微塵にこわれ、
能面からえぐるように視線を投げ返してやる。

それでも一瞬ちゅうちょしていると、
ドアのブザーが悲鳴をあげ出す。
隙間はない。

弾みをつけると、
正面で、
交尾をまつマヌケな雌猿のように尻を出した黒服のわき腹辺りに肘で切りこみ、
はじいて掻き分けると一気に後ろを見ず前のほうまで身体を運んでしまう。
なわばり確保の小競り合い。
弾む息を整えるあいだ、
床にしみこんでいる油の匂いがまとわりつく。

バスの乗り方を、
忘れていた。

なんとか身体をなじませ、
落ち着かせると、走り始めたバスは、
すぐ停車した。

暑い。
暖房の効き過ぎだ。
膝を僅かに曲げて進路をのぞきこむと、
大型バス同士がやっとすれちがえる程度の、
二車線道路の、
僅かな隙間も惜しそうに、
ギシギシと震えながらつばぜりあいを繰り返す不満気な車達で、
遠くに浮かび排気ガスに揺らいでいる信号までぎっしりと埋め尽くされている。

対抗車線は、がらスキだ。
しばらく膝を交互に折りながら見ているが、
停車している車両達はその落ち着きさを、
増すばかりだ。

こんなで、はたしてまにあってくれるのだろうか・・・。

口が妙に乾いてくる。
搾り出した唾液が全体に広がるのを待って飲みこむと、
馴染む寸前に油にはねかえされる、水のような違和感がのこる。
空気が悪すぎる。
まるで泥酔した帰り道の満員電車の中のような胃壁の存在感。
オレンジに着色された臭気が内臓から立ち昇ってきて、
慌てさせられる。

信号を左折、
あと1ヶ所バイパスの交差点を通過すればもう、
駅までは道なりのはずだ。
歩いている奴がどんどんバスを追いぬいている。

夜も遅くなれば、
車で10分の距離だろう。
いつも抜け道を使って通勤する理由をいまさらながら確認する。

6.7回はすれ違い不可能な角を曲がる裏道で、
障害物競走のように子供を威嚇し自転車を蹴散らし進み、
この辺りの人間にしか解らない出し抜きかたで、
渋滞区間をワープするのだ。

そして最後の所で、
気の弱いドライバーの、
精一杯の侮蔑を尻目に本線に無理やり割りこめばオッケー、
夜と変わらぬ時間で駅につくことができる。
そんな割りこみ場所が、
左右から5.6ヶ所はある。

まったく使えない、
この道は…。

両膝を屈めて、
また、
交差点を覗く。

砂利トラックが、
その真中らへんにさっきから、
止まったままである。

おもわず吐いた息が、
脂ぎったオヤジの襟にはねかえり、
そっくりそのまま口の中にねじ込まれる。
空気が重すぎる…。
横を向き又、
深く息をすいこむと、
小男の頭から棒になってたちのぼるポマードの匂いにねっとりと鼻の奥までかき回された。
まったく今どき頭に来る!

身体を揺すり、
小男の風体を眺めまわしさげすむと、
僅かに進んだバスがキュッと止まり、
頭に鼻が付きそうになる。

おもわず引き千切るようにそむけた視線が、
待っていましたとばかり、
ねじ上げるような力で黒服の男に捕まえられた。

待ち伏せていたにちがいないその目が、
羽化しかかった黄卵のひだに巡らされた血管になって迫ってくる。
舌打ち・・・。
首筋にたれた、
ミゾレのような汗の滴の存在感。
鳥肌が小さな波になってやはり波立つ足首まで降りてくる。
もっと、遠くが見えないのか・・・。

膝をかがめ、信号を見る。
信号が青に変わった。
青い光にのって青い排ガスのかおりが忍び寄ってくる。
その姿勢のまま我慢してしばらく見ていると今度は、
信号が震え出す。
思わず目を凝らし膝に力をこめる。
2台分ほど進んだところでもう、
赤に変わってしまう。
どうしたものだろう・・・。
今日は“ごとうび”でもなんでもない。
渋滞どころか、
永遠に進まない、
爆撃を待つだけの死の行軍のようだ。
これほどまでとは、
予想だにしてなかった。

裏道の出し抜き方は、
なんといっても私道の通行と、
歩行者用の手押しボタン信号の変わりはなを利用することにある。
スクールゾーンを通り信号を押してくれる小学生のおかげで、
渋滞の列に隙間ができる。
子供が渡リ始める前に横から鼻を突っ込むのがコツである。

そのまま脇道の私道から対抗車線に飛び出すと、
ガラガラな道をほんの少し
・・・50メートル程
逆送し、
後は、
一つ先の信号を渡っている小学生達を蹴散らして再び、
信号待ちでできた渋滞の隙間に、
戻れば良いのだ。
もっとも最初は後ろめたさと、
子供達への気後れがブレーキになったものだが、
後ろの車のクラクションに後押しされ、
一度やればもう、
やめられない。
僅かな逆送と信号無視で、
あまりある出し抜き方である。
背に腹は変えられない。
慣れれば気持ちのいい優越感・・・。

畜生!
いぜんとして進む気配はどこにもない。

排ガスの渦が、
掻き回され、
鼻先を腐った酢の香りが撫でてゆく。

水色の屋根のスポーツカーが、
矢になって反対車線を疾走していく。

少し、
空気の透明度があがって、
ネクタイを緩め、
首を上に伸ばす。
裏道を通ればこうしているうちにでも、
一つ先の信号まで一息だ。
幾度か裏道を掻き分け、
疾走する自分を想像する。
対向車が来てもアクセルは緩めない。
自転車に乗った女子高生がおびえたように急停止する。
マイカーがバスに化け始める。
疾走にブレーキがかかり、
とたんにギクシャクして想像が、
前にすすめない・・・。

この道自体が、
国道と国道を結ぶバイパスとして利用されているようだ。
長距離トラックから、ジャリトラまでやけに目立つ。
アクセルをふかすごとに梗塞した心臓を無理に動かすエンジンの震えといっしょに、
撒き散らされた排気ガスの渦が、
過敏になったあらゆる体毛や粘膜にねっとりとからみ神経をさかなでにしてくる。

信号は青に変わる。
青は、進め。
赤はとまれ。
青は進めだ。
赤は止まれ。
青は進め、青だぞ進め・・・!
よし、
また青になったぞ。
青は進め、
赤は止まれだ。
青は進め、
青は、
進め・・・。

こころなしか道幅が狭く、
歪んで見える。
信号の変わる速度だけが速くなったようだ。

つり革に通した右手の腹の血管という血管が乾上ってふくれ、
じくじく痛みだす。
右手全体を揉み解したいが、
両脇から挟まれて腕をおろしようがない。
揺れた拍子につり革から右手をひっこぬくと、
いきおい肘で小男の頭を直撃してしまい、思わず身体を堅くする。
象の鼻とかした右腕の脈が不規則になり、
心臓までがシンクロしそうで思わず身体を揺らしてしまう。

ちらっとかすめる視線。
警戒感が廻り中から伝わってくる。
バスは停車時間に比例して重量を増していく。
そのうち年寄りが失禁するぞ・・・。
想像からはみだした汚物の匂いに顔を背ける。
道路までが柔らかくなり、バスをつかんで離さない。
こんどで何回目の青になるのか・・・。
なじみやすかった青という色までもが、
見るたびに少しずつ変質していき今や、
見たこともない色になりつつある。
青は、なんだろう・・・?

無理な姿勢の連続が、
首を糊で固めてしまう。
それでも信号から、
目が、
離せないでいる。

やはり、
気のせいじゃない!
車という車から一斉に色付きの臭気が立ち上っているのが見えた気がし、
瞳孔が勝手に拡散する。
やがて馴染みやすい赤が終わり、
敵意剥き出しの青が訪れた。
やはり信号の青が、
立ち上る溶けたプラスチックのような臭気の中で、
わずかだが、
確実に揺らめいている。
臭気にはきわめて薄く、
目に見えない色がついていて・・・
黄色に見える・・・
よく目を凝らすとそれは列をなす車のすぐ上辺りで渦をつくるとよどみ、
落ち着いた頃に対向車に突っ込まれ高く拡散してはまた、
その場に淀んでいる。
窓のすぐ外を見ると、
臭気はこちらに少しずつ近づいてきて、
分解不可能なほど小さく、
強固な粒子の塊になって若干の濃淡をつくりながら漂ってきている。

口を堅く閉じる。
再び吊革に通した両手首に、
全体重をかけて下を向き、
目も堅く閉じた・・・。

電車に間に合うか・・・、
結果は二つにひとつだ。
俺が今、
何をしようとその結果は変わりようがないし、
焦る意味などまるでない。
結果は乗れるか、
乗れないか、
二つにひとつだ。
俺がたとえ、
何をしようとも、
その結果は変わるわけはないのだし、
焦るだけ無駄というものだ。
結果は間に合うか、
間に合わないか、
二つにひとつだ。
俺がなにをしたって結果に変わりようがないのだし、
焦っても意味はないのだ。
結果は二つに一つだ、俺が・・・。

ネクタイの結び目に指を突っ込んで引き摺り下ろす。
首を後ろにそらせて鶏のように首を掻きまわす。
目を閉じる。
するといつまでも目的地にたどり着けずによだれを垂らして犬になってあえいでいる、
小さい自分がいた。
その充血した白目の蜘蛛の巣のような赤いはりが、
いきなり巨大化し覆ってくる。

たまらず目をあけた。
あつい、暖房のかけすぎだ・・・。

外にすでに充満している臭気の渦を避けて、
すぐ前に座っている色白のOLの襟足を眺め、
まるまった性器にムチを入れる。
束ね忘れたうぶ毛が、
左巻きに渦をつくっている。
その中に薄い灰色のほくろが板のように盛り上がっていて、
そこだけ毛穴がばらついている。
その毛穴の中に、
スイセンの葉のような堅い毛が伸びてきて、
その根元には・・・、
音をたてて視線をはがす。
良く冷やされた汗が、
首筋を流れ、
悪寒が痺れとなって、
駆け巡る。

これ以上追いこまれまいとして、
出きるだけ遠くを捜した。
瀕死者の痙攣のように時折、
1.2台分車が進む。
視線をひだりにめぐらす。
と、
バス停にランダムに散在していた男女たちが一斉にこちらを覗き込み、
歩み寄る。
到着を待ちわびたというよりは、
袋叩きにする獲物を探している視線がたてる音色に脅かされる。
まだ遠くの信号が、赤に変わった。
一番前に陣取ったまま、
貧乏揺すりをやめない小男が、
かぶりを振って腕時計を見た。
15分もたっている。
角張ったエラをふりながら、
がっしりと太い黒ぶち眼鏡をかけた小男は、
苛立たしさをばらまきながら、
思いっきり舌打ちする。

食いしばった奥歯から、
1滴、
汁が垂れる。
後ろからおもむろに襟首をつかんで、
エラを横殴りする自分を思い、
声を出さずにうめく。

いきなり押されて、
男の肘が下から鋭角に、
みぞおちに食い込んだ。

掻き分けてきた女が後ろから固いカバンの角を、
腰に押付けてくる。

横の老婆が、
身体ごと荷物を、
ふくらはぎに預けてくる。
全身の筋肉を固めながら、
事業部会のプレゼンテーションを、
訳も無く思い出す。
だが、
今まで意識したことすらなかった、
上司の咎めるような視線の意味を今にして知る。
ワイシャツのボタンをむしりとる。

さらに結び目を下げて、
せばまってきた視界を無理しり広げる。
なえた性器と、
使い古され、
むせかえるバギナ。
座って寝ていた女が、
斜に視線を飛ばし胸あたりに一瞥をくれる。
ほっといてくれ・・・。

再び、
目を閉じ、
口を大きく開けて、
静かに思いきり息を吸い込んでみる。
マフラーを直接ほおばり、
排ガスを深呼吸した目眩と、
回復不能な重い違和感に胃を突き上げられ、
細かい鉄屑に顔ごと突っ込んだような匂いに、
むせかえる。

見るとゆるやかに黄色い臭気は、
口の中に吸い込まれていく。
慌てて閉じるが、
ちくちくしていた下腹が突然奥にこむら返りをおこし、
暖かな液体が肛門めがけて殺到してきた。
なんてことだ!
考えられないことだ。
吐き気を飲み込む様に押しとどめると、
足の力が断片的にぬけてきて、
膝が勝手に踊り出す。
左遷の内示の挨拶まわりにきた同僚の、
血走った網膜が黄昏時の景色のようにかぶさってくる。
我を取り戻そうとしても、
取り戻すべき我は、
もうどこにも見当たらない。
右隣の中年男がブザーを押す。
降りよう。
貧血だ、
血をあげよう。
あげようとするが、
降りきって淀む血は、
胃の中で沸騰し小躍りしたまま腸をかけぬけようとする。
汗が同時に二筋、
あごの下をくだった。
今や色付きの臭気は、
暖房を通してどんどん車内まで侵入してくるのを絶望的に身体で、
感じている。
痺れが足首あたりから蟻のように首めがけてはいあがる。
構わず奥歯を噛み締める。
汁があふれ、汗は氷の滴になって、首筋にたれる。
そこからしびれは、
波になって顔めがけていっせいに殺到してくる。

目を開けた。
どこかで見た光景。
どこかで見たことのあるこの光景について、
思い出す前に、
うめきが歯の間から漏れ出す。
横から2回、
突くように押される。
いつの間にか隣に、
黒服の男がにじり寄って来て、
首からこめかみにかけてヒルのように太い血管をくねらせながら、遠慮なく顔を覗き込んでくる。
それどころじゃない・・・。
仕方なくまた、堅くまぶたを閉ざし、
ロウ人形になってコウベを垂れる。
ギシギシと壁になって、
四方から圧迫してくる人間達。
口をカミソリのようにうすく開けて、
息を、
浅く吐き、
吸う、
吐く、
吸う、
吐く・・・。

鱗と化した目が、
勝手にさまよう。
道は四車線になっているが、
黄色い臭気は既に、
バスの2倍程の高さの位置まで、
びっしりと均一によどんでいる。

黒いオーロラが、
ひらひらと揺れながら垂れてくる。
何も考えられずに、
しびれ果て鉄のおもりと化した両手首に、
全体重を預け、
力をこめてまた、
目を閉じた。
次のドアがひらいたら、
降りる。

ついに、
永久に、
取り残されてしまった・・・。

バスをおりたらすぐに、
まばらな反対車線に渡って、
バスに乗り込むだろう。

得てして、
こんな時、
事故に遭いやすいから、
気をつけよう。
そして秋晴れの空のように、
緩和された喘ぎのなごりを、
序々に整えながら身体を椅子いっぱいに広げて、
ただただ、
家路を急ぐのだ。
取引欠席の旨を会社に電話し、
ともかくベットにもぐりこむ・・・。
妻の栗のような体臭に守られて・・・。

閉じた瞼の裏を、
銀色のアメーバが、
わっと広がる。

ご多分に漏れず、
同僚達はいろめきだち
憤慨し、
ここぞとばかりに担当替えを上申するだろう。

指示がくだされ、
既に容易されたフォロー体制に移行する間の、
妙な雰囲気の一体感と高揚と、
僕の失格宣言。
束の間の充実感、
少しの安堵と消えかかる朝霞ほどの悲哀をさかなに、
バーでいっぱい
やるに違いない・・・。

駅前のパチンコ店の裏の路地に連れ込まれ、
店員にこめかみを、
したたか殴られて、
落とした鈍器のような音を立てて、
後頭部を激打した中年男のうつろな視線を思い出す。
駅の便所の入り口で、
へどを吐き、
座りこんでいた男の、
土気色の顔が、
自分のそれに
重なる。

暖かな体温を回復した布団の中で、
やがて埋めようのない無限の距離とささやかな開放感に抱かれながら、
多少の感傷に浸るかもしれない、
もう回復は不可能であることを自覚しつつ・・・。
肛門から一筋の汁が漏れ、
胃の中で沸騰した血が、
ついに消化されず弾かれて、
逆流してくる。
それでもなお口をあけ、
息を吸って、
最後の力を振り絞り、
まわりの人間一人一人に、
限りなく情愛を込めて、
助けをこうた。

からんだ視線のやさしく受け止めてくれればいい・・・。

だが視線はギシギシを圧迫してくる壁に届く前に、
淀み、
汚れて吸収され、
あるいは壁の放った光線に叩き落とされて消えていき、
十回目の射精の後のようにぐったりと萎え、
仕方なく誰にも聞こえない声で、
いつまでもうめき続ける。

霞のような眠りの中で、
腐った玉子になった目は、
見たことのない夢をおもいだしていた。

重油のヘドロの中で、
茶色く変色した腹を横倒しにしてエラを開閉している、
死にかけた魚のことを思った。
巣から落とされた雛の、
首を伸ばして空に発する叫びを、
聞いた。
満員電車で膝をつきもどした顔を足蹴にされ、
昏倒した老人を思い出した。
上半身をひかれ、
なお道路を後足でかきむしっていた猫のことを思った。
国債は、
飽和します・・・
金利の上昇です・・・
破産宣告しましょう・・・
大国のしっぺ返しです・・・
政治献金して計画道路沿いの土地を買い占めよう

太鼓もちなんだよ、
信じて欲しい、
本当はいいたかったんだ!

突然あたらしい風が、
顔を突き上げ、
顎の下を旋回する。

控え目に後ろから押されて、
ロウで固められた顔をわずかに上げる。

今度は、
遠慮なく腰をひと突き、
乱暴に押されると、
力が身体をかすめて、出口に向かってなだれだす。
反射的に首を振りながら、
思わず出口に向かって突進する。
列が停止し、
セーラー服の茶パツが堅い視線を投げ返す。
手を挙げ、
階段を踊りながら下り、
ポーチにしがみついた。

駅にいる。

つい先程の大天幕が薄くなって、
そら高くたなびいている。
確かに、
駅にいる。

そのことをぼんやりと確認し、
さらに人の波をよけて、
何秒か目を閉じる。
膝の震えが規則的に足の裏から、
アスファルトに吸い取られていく。
特に寒い早朝の放尿時の震えに、
2回見まわれる。

歩を、
1歩、
すすめる。

息を、
深く吸ってみる。

よく冷えた硬水のような空気が、
肺の隅々まで行き渡る。
木枯らしが、
何回かにわけて、
頬をはたく。

襟をかきあわすと、
階段を足早に、
一段抜かしにあがっていく。
筋肉はようやく、
ギクシャクと始動を開始する。
カードを入れる。
腹の痛みが、
風に何回かに分けて飛ばされていく。
時刻表を見る。

臨時特快があった。

少し、
震える手で、
ワイシャツのボタンを留め、
ネクタイを正す。

ホームには、
まばらに人が、
立っているだけだ。

首を回さず、
視線の端で、
一人一人の視線を確かめる。
特段、
こちらに注意をはらっているものは、
誰もいない。
タバコを取り出す。
充分に火を囲い、
一服。

特急が通過する。
幾度も窓に映る、
自分の姿を確かめる。

仕事のできそうな、
貫禄すら漂わせた男の姿が、
特急が通過した後の渦に巻き込まれて切れ切れに過ぎ去っていった。

臨時特快がホームに入ってきた。

いつもの男が、
また、
切れ切れに映る。
急激に速度を落とした列車の窓に、
はっきりと焦点を結んだ男の姿が、
パレットに付け足された絵の具のように周囲の人間達に、
同化していく。

ドアが開く。

降りる人間がいない。

前を見た。

すると再び、
山盛りの壁達が、
ぎしぎし身体を鳴らしながら、
歯をむきだしにしている。

(了)