『翼』

         渡邊 聡

 

鳥人間である彼の最初の記憶は、

まばらな雲を蹴散らす、

高速飛行で始まった。

 

いつか飛行機の中から見下ろしたような景色が今や、

飛行機そのものに成り代わって疾走する彼の眼下に拡がっている。

 

マッチ箱ほどのおおきさの、

升目にくぎられた畑が、

カーブを描き、

芝のように盛り上がった林でくぎられ、

米粒大の家が、

山の裾野まで深く食い込んでいる。

 

そこから序々にたちあがってきた山が、

彼を捕まえにでも来るように、

左前からこちら側にせりあがり、

風が壁となって彼を右に大きく流す。

その風を、

なんでも噛み砕く鉄顎のように力強く白い盛り上がった肩

「翼」

で切って割って入り、

分厚い電話帳のビンタをくらいながら

…彼は高揚した。

 

皮膚もカーボン並みに強化されているようだ。

そして顔を支えるクビはもはや首と言えない程頑丈に太く隆起し、

そのまま弓のようにしなる、

さらに太い「翼」に印籠を渡している。

 

まるで彼がイメージしてきた鳥…せわしげな臆病者で、

ミミズや昆虫を襲う以外は、

飛ぶという純粋な行為よりも、

逃げる目的だけの為に備えているような「翼」を持つそれ…よりむしろ、

最新鋭のジェット戦闘機に近い体感と言うべきだと彼は思った。

 

純白の羽が矢印形の影を雲に映す。

耳タブなどなくてよかった。

こんなにも速いスピードでは、

僅かな突起すら致命的だ。

風のカミソリに、

引き千切られるか裂かれるかしていたろう。

 

耳も流線型で、

おまけに付け根にモーターがついているように、

クルクル回転する。

まるで以前から、

耳とはこういうものであったというように、

機能的で馴染み深い。

 

山沿いに分け入るマッチ棒の羅列は、

高速道路だろう。

顔の構造は、

瞼が骨のように頼もしい筋肉で大きく覆われた点を除けば、

それほど変わっていないようである。

 

このスピードでは普通に息はできない。

だがやはり、

この点も彼は、

旧知の友のように慣れていた。

山が途切れる。

上昇気流が大波の直後のように引き、

一瞬出来たの無重力状態をすかさず捉えると彼は、

ぎゅっと「翼」をくの字に絞ると、

顎を引いて頭からジェットコースターのような落下に移った。

風の影響でニ三回旋回しながら空気を切り裂くと、

後ろに凧のように流れているマッチ箱大であった畑が今や、

ぐんぐんとその広さを増しながら懐深く食い込んだ彼に、

壁になって迫ってきた。

 

電気のような危険信号。

「翼」

を全開にしたつもりだが、

それは実際には、

手の平を返した程度の微妙な変化だった。

 

それだけで全身が、

空気を受け止めてブレーキがかかり、

いつしか彼に突き刺さろうとしていた地面は、

はためく巨大な凧となって彼の腹にタッチしようと控えめに媚をうる。

大気にちりばめられている様々な音色は、

なにか音楽のようだ。

今度は、二階建て程度のだだっ広い、

銀色に反射する工場が彼の眼前に横たわり噛み付いてくる。

 

首をあげなければてっぺんを仰げないほど高い、

煙突の根元に近づいた瞬間、

今はもう自在にひろげられる

「翼」

を、

のびするようにウンと伸ばし、

思い切って捕らえられる全ての風をひとかき、

後ろに押しやった。

やはりすごい!

彼はクロールで水をうまく捕らえた時の感触を思い出していた。

あの数千倍のパワーを手にした我を、

彼は実感した。

両の

「翼」

から追いやられた風が、

今や全身の器官の中で最も頼り無げな足辺りをかすめ、

大砲のように景色ごと遠くに押しやる。

 

向かってくる風をまた捕まえると彼は、

何倍もの利息をつけ後方におしやり、

より高く登るのだ。

高度を上げるごとに、

空気の切れ味も増す。

身体をきゅっとしめてくるのが心地好い。

なにより疲労が、

ない。

無理なく調和している、

身体が、心が。

なお彼は登り続けた。

やがて、

空気の色が明らかに変化してきた。

この高さは、

おそらく既に、

どの山よりも高いだろう。

 

彼は自分がかつて気圧の変化に敏感であったことを思い出していた。

多少

「翼」

にいれる力を緩め様子をみるが、

ここでも彼は、

自信に満ち溢れ、

叫びたいくらいだった。

確かに、

少し、

苦しい。

限界は、

いずれ、

来るだろう。

緩やかなアーチを描き水平飛行に移った彼は、

飛びながら忙しなく意識を働かせる。

実証された、

人間とは、

あまりにかけ離れ、

卓越した能力。

あらゆる面で頑強なポテンシャルを示すボディ。

その裏に隆起する、

太すぎる程の筋肉の束達。

 

過信は禁物だ。

彼は、知っている、

現存する動物達を思い出してみた。

 

ライオンや熊の腕力と、

勝負してもおそらく、

遜色はあるまい。

爪の分だけこちらが不利だが、

力だけなら軽々と凌駕するのでは、あるまいか。

 

ジェット気流の影響層に乗った。

雲の切れ間から、

点になった巨大な構造物と、

米粒のような畑がいくつも並んでいる。

沢筋がどれも、

ヒトデの触手のように山にはりついている。

小さな突起の間をくにゃくにゃ走っているのが国道であろう。

高速道の方が、

圧倒的に最短距離を通っている。

見れば便利であることは、

一目瞭然だ。

ニ十キロ程度の渋滞までなら、

国道より高速を使う方が早いだろう。

刹那、髪の毛のような細い寂しさが、走った。

が、あらゆるわずらわしさ

…重力、

歩行、

服、

靴、

帽子、

言葉、

…から確実に疎遠となった開放感が、

その上にかぶさるように、

太く、

強く、

走りぬけ消し去った。

 

彼は今さらの様に昔、

定期的に彼の睡眠に干渉してはそのたび、

彼を奈落に落としこんだ悪夢の数々を思い出していた。

それは飛ぶ夢だった。

それも、

バリエーションはあるが、

バターンは必ず決まって、

幾つかしかなかった。

 

導入はいつも、

ずっしりと重みのあるクロノグラフの腕時計の存在である。

その時計に「飛びたい」と念じさえすれば良い。

その世のものとは思えぬ浮遊感にと突如くるまれると、

彼の身体は、

その時そのままの姿勢で、

宙に5,6m浮くのである。

 

まるで赤子にボールを放る時に、

自然に力を加減する要領で、

浮遊力の力の源をほんの少し緩めると、

思いとおり着地する。

その五感と比して等しい、

念力の源泉の、確かな実感。

いいぞ!

そこは晴れ渡った河川敷の、

公園だったり、

雪の降る平原だったりする。

 

いよいよ強く念じてみると、

力強く彼は、

空に向かって垂直に突き進むのだ。

その感覚たるや、

まさに今の、

彼のそれと、

同じものだった。

 

ドンドン登る。

グングン登る。

すでに今と同じように、

家々は米粒だ。

時たま突風が、

低い笛を奏でる。

と、髪の毛のように細い、

何かが横切る。

まるで咽喉の奥にはりついた、

薄い膜。

「たかくあがりすぎたかな」

それらが言葉に結晶した、

その途端である。

それまでスムーズだった念力に操作に、

突然ムラが生じる。

いくら飛ぼうと力んでも、

手足に力がこもるばっかりで、

うまく時計に、

念力が伝わらなくなる。

ガズ欠。

突然手掛かりを、

しかも完全に失った実感。

あせる、

するとオイルもれで最後を迎えた車のように、

ギクシャクと全てが空回りし出す。

クロノグラフは、

いまや無表情な、

時計そのものだ。

 

絶望が訪れた。

 

そして、

なによりもすさまじい落下が始まるのである。

夢の体感が、

いかにリアルだったか…、

いまにして感心させられる。

まったく容赦なく、

まったく仮借なく、

あっというまに、

壁のように、

無限に広がる地面が超特急で、

目前に迫る。

 

舵がきかない身体は、

引力になぶられ視界がぶれる。

激突!

そして粉々にされた衝撃とともに、

彼はいつも馴染みのベットの上でふうふう言いながら、

座っているのである。

 

脂汗にまみれた、

目覚め。

 

しばらく座ったままで、

心臓の上に手を当てながら、

鼓動が正常値を取り戻すのを、

助ける。

決まってそういう時は鼓動が、

不自然なくらい大きく、

そしてゆっくりしている。

両手で心臓を上からさすりながら景気をつけつつ、

なんで毎回、

この終末を忘れ、

うかれて時計に念じ、

高く飛び上がってしまうのか、

死ぬほど後悔する。

そしてもし、あのまま、

あの速度で地面に叩きつけられていたら必ず、

ショックで心臓は停止し、

2度と目覚めは訪れる事はないだろうと、

奥歯を食いしばりながら下を向くのである。

だが、月に一回平均で、

その悪夢は彼を飲み込み、

その都度彼の心臓に、

負荷をかけていった。

彼は、苦笑した。

クロノグラフは、

心底頼りなかったけれども、

今度のこの

「翼」

は、

切り裂くのが不可能な程、

強固として強い。

悪夢から解放される代償にしては、

充分すぎるほど、

上出来であった。

彼は鳥のように、

高く濁った叫び声をあげると、

さらに高速の風にのって、空を飛び続けた。


 

その細く針のように飛んできた音を感知し、

無意識に折りたたんだ耳を後ろ向きに回転したとたん、

地雷を踏んだような大音響のカウンターで、

彼は思わず音と反対側へ、

回避行動をとった。

音は加速的に大きくなり、

雷鳴になって疾走してきて、

彼を追い、

彼に迫り、

彼に並び、

彼を飲み込んだ。

 

右目の端に、

点の乱反射を捉えた途端、

銀色の尖った物体が、

彼のおよそ二百メーター右を、

雲に雷鳴を反射させながら追い抜き、

ゆっくりと去っていった。

 

日の丸が視界の端に、

しっかりと焼きついた。

見覚えがある。

確か唯一国産の、

航空自衛隊ジェット戦闘機だ。

爆音になった轟音はやがて、

嘘のように、

途絶える。

風の揺り返しがきた。

一直線に伸びる、

槍のような戦闘機の空路に吸い込まれる。

パイロットは前方に目を配っていた。

見つかったらことかな…。

次の瞬間彼は又さらに大きな爆音の真っ只中にいた。

回避行動。

流線型の輝ける棒が、

雷を落としてきた。

ギュンと風に圧されながら、

首をすくませた。

今度はもろにパイロットと目が合った。

フルフェイス越しにであるが、

明らかに彼の姿を捉えた。

前方の積乱雲の中に、

瞬時に消えた戦闘機の音はまだ、

こだまし、

彼の前方を旋回し、

いつまでたってもまだ、

消えない。

いっきに

「翼」

を引き絞ると彼は、

急降下に入った。

いまだ雷鳴を響かせ続けるその音が、

彼方上方に遠ざかっていくのを確認しながら、

どす黒い乱層雲の下腹部に頭から突っ込んだ。

途端に光と音は遮られ、

ひやっとした霞が彼に、

親しげな挨拶の抱擁を交わしては引き千切られていく。

風の様相は一変し、

途切れ途切れに細い草笛を、

誰かが耳元で吹き続けているようだ、

気まぐれに。

今頃になって、

心臓が、

悪夢の後そっくりに、

咽喉までせりあがって息をはずませる。

いったんは広げた

「翼」

をたたみ、

彼は再び急降下に移った。

羽毛に溜め込まれた水分が、

弾丸のように乱れ飛ぶ。充分に降りたところで、

雲を左に抜けた。

 

思ったより高度は下げていた。

千メートルもないだろう。

網膜の中で、焼きついた銀の流線型が遠ざかる。

あれにぶつかったらさすがに、ひとたまりもあるまい。

経験が少しずつ彼の中に、

彼自身がいかなるものかという自覚をもたらし始めた。

鼓動が元に戻ると共に今度は、

笑いの発作に見舞われる。

あのパイロットは生涯今日見たことは忘れられないだろう。

もしかしたら実際には彼が、

鳥人間と遭遇した、

最初の人間かもしれないのだから。

鳥人間に関しては、

不思議な伝説が昔からある。

人間のような鳥、

人間鳥は数知れず、

鳥人間はいない。

各所で発見が伝えられた鳥人間、

いや、

人間鳥は、

いかに人間そっくりであっても、

実は鳥に限りなく近いものだという、

言い伝えがあった。

そこに尾ひれがついて、

人間鳥は、

知能的には、

人間と同等の能力を持っているが、

本来的に人間とはコンタクトのとれない次元に生息している生体で、

ただし、

ある事象をきっかけに、

相互の物理的な確認が、

近い将来可能になる…という、

まことしやかなものである。

 

実際どこの動物園にも、

人間鳥は捕獲されていない。

だが噂の立ち上がり方、

頻度、

信憑性をみると、

人間鳥は、

UFOのようなものだろう。

 

だが、

鳥人間なら、

正真正銘ここにいる!

彼は気分の高揚を感じながら、

ひとりごちた。

鳥人間は、

人間鳥のように、

中味が空疎でなく、

人間そのものなのだから。

言語機能を局在し、

思考し、

さらには60億の人間の、

誰一人として比肩しえない、

圧倒的な体力と、

凌駕する能力を持つ。

彼は自分の名前を大声で叫ぼうとし、

ふと言葉に詰まった。

名前が、

霧のように拡散してしまっていたのだった。

しばらく彼は羽ばたくことを忘れ、

記憶の糸を手繰る事に専念した。

 

が、

過去にその、

矛先が向うと、

とたんに糸はプツンと切れ、

切れ端しか手繰れない。

DNAの二重螺旋構造の発見はワトソンとクリック。

バッハのシャコンヌ。

バッハといえば、

カザルス、

ヘンリックシェリング

…そこらあたりが切れ端だ。

そして彼の名は…。

気分の高揚が止まり、

暗雲が垂れ込め始めた。

彼は、いらだちと、

憤怒の芽吹きを、

自覚した。

明らかに、

知識としての記憶を残して、

きれいさっぱり過去が、

欠落している。

手掛かりは皆無だ。

ただちに疑念が、

生じる。

彼は本当にかつて、

人間であったか?

 別に否定的な要素も、なにひとつないんだ。

 彼は自分自身に言い聞かせた。

 都市にゆこう。

 なんだったら、

インタビューにだって、

丁重に答えてやる。

 求めに応じて、

いろんな姿を、

見せてやってもいい。

 少しづつ雲を払う手ごたえが、

湧いてくる。

 名前は、

つければいい。

いや、つけてもらえば、いいのだ。

 都市に生息する、

鳥人間にあった名前をきっと、

つけてくれるだろう。

 社会に適応してさえいれば、

それでいい。

サトウさんにタナカさん。

名前をもとに戸籍をつくって、

住民登録する。

こんな発想が人間そのものじゃないか!

一方で彼は、

芽吹きの刹那、

小さく貴重ななにかを、

とりこぼしてしまった痛みを、

反芻していた。

名前をなくした刹那、

一緒に捨てられた灯火のようなもの。

木枯らしが吹きすさむ団地の外壁の隅にすてられた、

赤い毛糸の手袋。

懐にもぐろうとする子猫をダンボールに押し込み、

急ぐ家路。

そんな経験があったのだろうか。

 

気が付くと彼は、

高速道路の真上を飛んでいた。

この真っ直ぐに続く道路は彼にとって、

水先案内人のように思えた。

うっかりして山の影に気付くのが遅れ、

寸でのところで激突を回避する。

まさかトンネルの中は一緒に走れない。

山を迂回し、

谷あいの誰も通ったことのないような木立のトンネルをねらって、

低空飛行を繰り返す。

「翼」に脅かされた枯葉が乱舞し、

鳥たちがなにか叫びながら、

スローモーションのように放射状に散る。

そしてまた高速道路に戻ると右につけ、

速そうな車を見つけると、競争してみた。

前方にインターチェンジが見えてきた。

並走しているワンボックスのルーフから、

彼を真っ直ぐに指さし、

顔を歪めた小学生の視線に捕まえられたと気付いたときには、

インターチェンジの真上に、超低空のまま侵入していた。

大型トレーラーを寸での所で回避し、

反転して静止したときには、

ギャラリーの衆目の只中に、

彼はいた。

弾かれたように一閃、

羽ばたくと、怒号がボワンと反響してくる。

さらに弾かれ、繰り返される怒号の弾に弾かれ、

それらを尻目に急上昇し今度は、ひたすらに登り続けた。

顔が風に砥がれ、鋭利にトンがる。

一直線に上昇し、一息で雲の上まで上り詰めてから、

放心状態のままの水平飛行に移った。

今彼は、子どものその顔に張り付いたまま表皮の中で、

その厚さを増し続けた畏怖に、シンクロしていた。

心をアルマジロにして、彼は飛び続けた。

なによりたった今起こった、

不穏な生理現象の体感の自覚が、

彼をいっそう堅く、ちぢこませた。

視線に捕らえられた瞬間、

彼の羽毛はいっせいに総毛だった。

意識は滞り、

あやうく

「翼」

で子どもをペチャンコにするところだった。

強烈な回避衝動。

それでも彼は、

その生理にあらがって並走したが、

インターの人込みに捕らえられた刹那の鼓動の爆発は、

彼の理性を白一色に染め上げた。

思いもよらぬ強固な身体に宿っていた付加価値に、

彼の理性は混乱した。

むくむくともたげてきた丸みが、

混濁した人恋しさになり、

時間をかけて白をブルーに、

染め上げていく。

人間との会見は、容易なことではないのかもしれない。

彼は頭を巡らせた。

最初の会見の相手は、肝の座った、好奇心の強い若者しかないだろう。

突然遭遇した為、慣れない身体が拒

否反応を示したのかもしれない。

ちゃんと心の準備をし、状況を選んで会見しなければならない。

最悪の場合でも、距離さえ、十分とっておけば、

今のようなパニックには、陥らなくて、すむだろう。

まずは、やはり、声をかけることから始めよう。

俺を目撃した人間達は、百人は下らない。

へたにマスコミにレッテルをはられたら、

いきなりズドンとやられかねまい。

まず、人間鳥でなく、鳥人間であることをしっかり、

わからせなければならない。

人間鳥しか知らない人たちだもの。俺を見て驚くのは当然だ。

対話し、理解しあえば、驚愕はいづれ驚嘆へと、

その姿を変えるだろう。

そして始まるはずである。俺の、輝かしくも素晴らしい、新生活が!

ようやく甲羅が裏返り、溶け方に比例して、

「翼」

に込める力も、徐々に強さを増していく。

速度も増し、速度が増すにしたがって彼の頭の中は再び、白一色に覆われてきた。

みなぎる力に後押しされ、

彼はすでに、純粋に飛ぶ行為に精を出し始めた。

いつのまにか雲は縦に伸び、行く手にそびえる峰の、

本数をましている。乱反射が、絶えず彼を眩しがらせた。

 

最初右斜め下に、矢印に並ぶ、

鳥達の編隊飛行がチラと網膜に焼きついた時、

彼は特段の興味を払わなかった。おおかた大型の渡り鳥かなにかの、

編隊であろう。

スピードは彼とほぼ同じ。

白い点が八個、「く」の字に整然と並んでいる。

鳥には興味はない。

先を急ぎ出すと、雲の波間から、

同じ進路をとっている白い「く」の字が、

現れては消え、また、現れては、消える。

鳥にしちゃ、やけに速いじゃないか!

いたずら心が湧いてきた。

ひとつ、蹴散らしてやろうか。

彼は突然右に傾くと加速し、

そのまま「く」の字の真ん中を見定め急降下した。

瞬時だ。「く」の字が開いた。

その隙間に、間髪入れず突っ込んだ瞬間、

「あっ」

っと叫び彼は、

反転すると編隊の最右「翼」に並んだ。

鳥人間達であった。

いたぞ、彼は息を飲んだ。

大声を発し、呼びかけていた。

いっせいに、鳥人間達が、反応する。

彼は息を忘れた。

白一色の、全身を剛毛に覆われた、セキブツ。

のっぺらぼうの、同じ顔。

とんがった薄い線は、口だろうか、

ただの薄く、頑強な裂け目である。

それとわかるから、鼻だろうが、

やはりとんがって鼻腔を風から守っている。

目などは全て、白一色に塗られ、

大仏そっくりの、単なる割れ目であった。

すぐに反応をやめると、一矢乱れぬ編隊のまま、

鳥人間達は、同じスピードで飛び続ける。

みた事の無い物質を目の当たりにしたような違和感に、彼は支配された。

理解の断絶と、強い違和感。檻の中と外では、

見る者と見られる者とでは、これほどの差があるのだ。それに…。

こんなの、鳥人間じゃない!これこそ、人間鳥だ!

いたぞ。

彼は傍観者になって、編隊の周りを、

じゃれる子犬のように、位置を変えながら、まとわりついた。

編隊の真ん中にいる人間鳥に、乗るようにして。

編隊の最後尾から蛇行してあおるように。

そして、後尾にすっと落ち着くと、

一番端の奴にすりよるようにして、思いつくまま、切れ切れに言葉を投げた。

最初、その努力は、人間鳥の、規則正しい羽ばたきに、

何の変化も、与えることはできなかった。

おい、俺もお前らみたいな顔か。いらだって真ん中の奴の、

jh,後ろ向きにたたまれた耳元に口をつけ、がなりたてると、

ふっとしずみ、踏みつけられたような奇声を発てた。

むっと鼻につく刺激臭と共に、人間鳥達が、

波のように口々に叫び出す。あっけにとられ彼は、

少し離れ、その騒ぎを傍観していると、叫び声はトーンを下げながらも共鳴し、

雲にコダマしつづけた。

だが、彼の脳は、痺れに襲われていた。

コダマが、彼の、どこかのスイッチを勝手に入れたようだった。

彼は叫びたくなった。とめられる衝動ではなかった。思い切り奇声を発した。

一斉に鳥達が強く、共鳴した。

その瞬間彼は驚くべき事態に見舞われたのだった。

さらなる波の連鎖と、声の共鳴が彼を飲み込んだ瞬間、

彼は硬直した。いや、彼の脳が硬直し、

機能を奪われたと言ってよい。

ギュンと頭が真っ白になって、言語の中枢そのものが、

あたかも全部、ひきちぎられた。

その瞬間、違和感なく彼は、鳥人間たちの、只中にいた。

限りない力で彼は、咆哮した。

次の瞬間、鳥人間達の口から、砲弾になった力強い咆哮が、空に発射された。彼は、自我を失った。

彼が自我を取り戻した時、彼は「く」の字の最左「翼」に、

違和感なく組み込まれていた。

しばらく彼は、呆然として、飛び続けた。

それが、一瞬だったのか、長い時間だったのか、彼に知る術はなかった。

すでに生まれた不安を、嚥下できるか、呆然と彼は不安の連鎖を辿り続けた。

不安に押されるように、彼は編隊の周りを再び、じゃれる子犬のように、

位置を変えながらまとわりついた。

まず、編隊の真ん中にいる鳥人間の上に乗るようにして。

次にはいったん編隊からはるか後方に退くと、

一番右端の人間鳥にすりよるようにして、

思いつくまま、切れ切れに言葉を投げた。

だが、その努力は、なにひとつ、彼らの規則正しい羽ばたきにすら、

何の変化も与えられなかった。

おい、俺もお前らみたいな顔か?

だが、言葉は、ポロポロ風に弾かれ、落ちていく。

頭にきた彼は、真ん中の奴の、後ろ向きにたたまれた耳元に口をつけ、

叫びに不快を込めると、短く叩き付けた。

途端に編隊がふっとしずみ、踏みつけられたような奇声がこだまする。

そして伝染し、人間鳥が、口々に、

いっせいに、叫びだした。

思わぬ反応に、気勢を削がれた彼が身を堅くした矢先、

鳥人間たちが、突然彼を見る。次の瞬間彼には、

広げた「翼」を右45度傾けると、くの字のまま急降下し、

消えていった羽ばたきの残像だけが、残っていた。

見ると小さくなったくの字が、積乱雲の腹に突っ込み、

消えていった。気を取り直し、力なく追うも、

くの字はもう、羽一本の痕跡すら残さず、

モクズと消えてしまったのである。

灰色の千切れては去っていく雲の氷原のなか、

なにかにあきらめきれず、彼は右に左に蛇行しながら、

幻の影を消極的に、捜し求めていた。

雲に、入り、鉄砲のような気流と水滴にもまれ、

また雲をでた。高い雲の、一番高い先っぽが、

くれないに染まりだした。足元に視線を投げると、

彼方で、まん丸の恒星が、はずかしそうに残照を、一せいに放射している。


 

都市に、彼は向っていた。

都市にたどり着く前に、骨休めをしようと彼は、

高度を徐々に下げ始めた。

地上には、夕焼けのカーテンが降り始めている。

短くも、貴重な経験を思い起こしながら彼は、

それらを記憶に定着させる努力をしようと決意を固め、

彼えは、降り立つ場所を、左手の山側に求めた。

畑の多い盆地を抜けると、裾野から立ち上がった山は、

広く山脈となって左奥に、広がっている。光が急速に、

奪われていく錯覚に陥る。夜がくる。

山沿いの高速道路からほど遠く、木立がまばらな草原を求め、

物色を繰り返した。闇が、差し迫ってきた。

ぐんと「翼」の力を緩めると、低空飛行に移り、

巨大な鷲のように、「翼」を大きく広げたまま風の絨毯に乗って彼は、

始めての着陸に備えた。さらに高度を下げる。

山脈が切れた辺りから、街が大きく広がっている。

街側に、ちょうど手頃な草原が、彼を引き付けた。

その先はもう、なだらかな丘陵と、そして街である。

高度を20メートル程度に下げる。ここではもう、

風はさしたる影響を彼に、与えない。若干起伏に富んだ、

そこは芝葺の高原で、かなりゆとりを持って配置されたクヌギやコナラの木々が、

豊満な葉を茂らせていた。さらに高い木々もある。

葉が柔らかな息吹を彼に、送ってくる。彼は突然噴出してくる疲労を、

あくびのようにかみ締めた。腕の付け根がさずがに重い。

木立の下は、夜になって、暗い影を丸く作り、逞しい枝が、

疲れた彼を誘惑する。

今や彼は、木立の天辺の高さに、

高度を下げていた。自然に「翼」を立て、

衝立にしてあおぎながら、彼は着陸態勢に入った。

と、甲高いざわめきが、黒い雲になって沸くと、

突然木立という木立から一斉に立ち上がって、彼を取り囲んだ。

危うく落下の難を逃れ、体制を空中に維持した時には、

つまようじのような、何本かのくちばしが彼を捉え、

上等なペンにでもできそうな純白の羽が一本、

宙にまった。カラスの大群だった。

よろけながらも両の「翼」で叩くと、

打たれた何匹かのカラスが、紙細工のようにひしゃげ、

地面でバウンドすると、羽をたたみ首を曲げた昆虫のように芝に散らばった。

さらにひと咆哮し、彼はさらに倍のカラスを、

弾まないボールのように地面に叩きつけた。

カラスたちは揺らめくと遠のき、

カーテンのようになって陣形を整え、叫び始める。

すると木々から一斉に、別のカーテンが立ち上がり始めた。

声が波になって、黒いカーテンを立ち上げる。

ギャアギャアいう叫び声は、瞬時に群れ全体に、

ある気分を伝染させているようだ。

そして音が、悪魔のような絶叫の狂気と乱舞が、

彼の耳の中で増幅しているように、

呼吸までをも締め付けてくる。音に脅かされる!たまらず彼は、

しびれに支配される前に再び、重い「翼」を打ち、空気を捉えた。

果敢にカラスが数羽、彼を追ってきた。

が、林が途切れる辺りで旋回し、ねぐらに帰っていく。

この時彼がとらわれたものは、強烈な疎外感だった。

彼は苦笑した。だが、彼が、枝のねぐらに、

猛烈な魅力を感じたのもまた、抗いがたい事実であった。

と同時に、人間である彼が、鳥から受けた疎外感と羨望の強さに、

どうしようもない憤りを感じていた。種が、彼を突き動かしていた。

畜生!

彼は人語を叫びながら旋回すると再び、

黒い蜂の群れのように移動してくる雲のジュータンの上空に舞い戻った。

だが、わんわんと響きだした音波の槍の矛先の津波に、

一人太刀打ちする力は、すでに失っていた。

これまで感じたことも無い異質の恐怖の体感を自覚しながら、

彼は必死に力を振り絞り、羽ばたいた。

しびれが痛みになって、傷口の在処と、

思わぬ深手を告げてくる。いつの間にだろうか。

それは集団の後押しなしには成しえなかった痛手であろう。

三箇所の、それも彼にとっては擦り傷程度ではあったが、

痛みは彼を、痛み以上に脅かした。出ないはずの涙がにじむ。

高く上がるに必要な気力すら彼には、残っていなかった。

彼を襲ったのは、人間としての恐怖でなく、鳥としての恐怖だった。

彼が人間のままだけだったのなら、

遠巻きに叫ぶカラスの群をいに関せず、

力で白黒つけて今頃、ねぐらを確保していたに違いない。

構造の変質は、本質の変質を意味する。

まだ、彼は人間だった。

辺りは闇にほぼ、つつまれた。

鳥人間になった最初の夜のねぐらを結局彼は、

ぽつぽつ明かりが付き出した街の、奥に広がり出現した、扇方の光の海に定め、目指した。

彼は高速道路に沿って、ゆっくり走る車より多少遅めのスピードで、東に向った。

高圧電線を用心し、その1.5倍の高さを常にキープする。

彼は家路に向う人たちをあれこれ想像しては、

孤独に支配され始めた自分の気持ちを和ませようとした。

遊びに疲れても、喧嘩をしていても、腹をすかしていても、

家路の先にはくつろぐ場所や安息のねぐらが待っているはずである。

なにより彼は、全身の身体から力という力を、もらさず抜き、

弛緩させたくてたまらなかった。

オレンジにどこまでも伸びる光のトンネル。

彼を今や、おびえさせる生のままの自然、

山や丘は姿を消し、眼下には、

明かりのともった家々が規則正しく並んでいる。

窓際で誰かと話している少女が見える。

もうどこでもいい。

どこかそこらで、休みたい。

用心が先行し、なかなか踏み切れないが、

鳥の疲労感には抗いがたい重さがある。

やがて二階建ての家がビルに姿を、のきなみ変えだした。

ゴマの目のように走る道路も、車線が増え、太く明るくなってきた。

大きな電波塔を越えた辺りから、光が、下界に満ち溢れだした。

まるで、昼間の波打つ運河のようだ。

彼は昼間である下界を、漆黒の夜である空から、見下ろしていた。

光の運河は、海になった。

ようやく、泥ごと記憶を発掘して、彼は緊張の息を吐き出した。

記憶を洗い、それにしがみつく。

彼は高度を上げるために、最後の力を振り絞って羽ばたいた。

現れてきた、ひときわ高く眩しい光の塔たちに、接近する。

この塔たちのなかでも、最も高いツインタワーを目にして、

長い一日の仕事がようやく終息しようとしていることを感じた。

あっという間の、長い一日であった。

ウンとあがると、ツインタワーの上空で旋回し、

人影の無いことを確認すると、標的の的のようなヘリポートの淵の鉄柵に、

彼は鳥のようにフワリと舞い降りたのであった。

視界と同化できず、しばらく「翼」をばたつかせる。

風が、子守唄になって「翼」を撫でる。

両の「翼」を思い切りのばしてから、ゆっくりと感触を確かめながら、

丁寧に折りたたんだ。眼下には、華やかな花火のような、

しかし消えることの無い光の洪水が、永遠のときのように豪奢に、

ゆらめきを繰り返す。

今度はわけもなく涙が、にじんできた。彼は深い充足に満たされていた。

明日は帰ろう。

彼は呟いた。そうして鳥人間としての、最初の眠りに落ちた。

夢を見た。

助かったらしい。

構造に、機能は宿る。

意識が、構造の存続を、保証していた。

辺りを眺めようとしても、視野が一方向にしか定まらない。

それに、感覚は、完全に麻痺している。

おそらくは脊髄損傷。ベットに固定されているのだろう。

時空感覚が、完全に麻痺してしまっている。

時間を経て、物が見えるようになった。

首が回らないとは、本物の悲劇だ。

眼前には、PCルームがあって、サーバーが林立し、

ガラズ張りのケースで隔離されているようだ。

全身の感覚は、

麻痺したままである。

ドアが開き、白衣の男が入室してきた。

端末に座ると、データの確認か、画面を注視している。

画面展開すると、アクセスを開始したようだ。

不安を感じ男を見ると、端末のキーボードと、

まるで格闘しているように、うちこんでいる。

と、立ち上がり、目の前に、彼が飛んできた。

ぼくになにかが起きたのだろうか?感じるはずも無い息苦しさを感じる。

魚眼の底で、めがねの彼に、見つめられる。

と、今度はひるがえり、イスをひろい、目の前まで乗ったままころがしてきた。

ぼくにかぶさるように、上の方で何か始める。

ぼくには白衣の彼の腹だけが、ガラスに押し付けられる様が見える。

視点が定まらない。

と、彼は注射器を取り出し、液体を注入すると、チューブに刺した。

同時にガクンと視野が揺れ、頭の中が飛び跳ねる。

鈍痛を感じながら、ぼくは本気で、自分の手足を心配した。

で、彼が顔を擦り付けるように、ぼくをアップで凝視する。

彼の表情が、ぼくに驚愕を伝染させた。

きびすを返すと、彼はドアの裏に消えていった。

一瞬ぼくの網膜には、彼の眼鏡に映った、

こちらの残像が焼きついてしまった。

はっきり見えなかったが、ぼくにはまるでそれが、

円筒系のガラスケースの中の液体に浮ぶ、

脳と、それにつづく神経系の標本のように見えた。

そこから二つ伸びた先に付いた玉は眼球であろうか?

管のようなものも、たくさん付いていた。

で、ぼくはどこ?

地震が大きくなる。

震源地は、ぼくのようだ。

出て行った彼が、ようやく戻る。

出来ない嘔吐を、ぼくは延々と繰り返した。

痛みと痒みが破裂する。


 

管理セクションの担当者の黄色く濁った目には最初、

それが尖って、ぎざぎざに波立つ、巨大な白い卵の燻製のように映った。

ゆうに3メートルはあるまいか。

異常事態である。

ショックから立ち直った担当者は、

果敢にも、強烈な朝日の逆光を手の平で遮りながら、

ヘリポートの手すり沿いに、巨大な卵もどきの全容が見える位置にまわり込んだ。

そしてそれが何であるかを理解した瞬間、彼は一歩も動けなくなった。

鼻を中心に尖った嘴と線のような口。

やはり線のような目。純白の絨毯のような、

しかし限りなく堅く、触れると切れそうな

「翼」。

手すりをがっしり握り締めた足は、

鳥の巨大さを、見て取れる。

そろそろ管理セクションの交代の時刻だ。

引継ぎは当直の全員が顔をそろえる鉄則だ。

報告も無く、無線も携帯にも出ない担当に業を煮やしたチーフが、

屋上に駆けつけたときには、担当者は血まみれで、

気絶していた。呼吸も忘れ彼をエレベーターまで引きずり、

チーフは一階まで駆け下り、

警察直通の事故連絡のスイッチを押した。

担当者は意識を回復した。

彼によると、巨大な白い鳥に触れた瞬間、

羽で弾き跳ばされ、あとは記憶が無いとのこと。

傷は無数の、しかし浅い擦り傷であった。

駆けつけた警察官は、屋上で巨大な鳥を確認し、

その場から映像を本部に送信した。

約二十分後、二十名の警察官と、

動物行動学者による捕獲チームが現場を取り囲んだ。

彼は、まどろみの中にいた。

夢は、記憶を削除する処理を加速させていた。

悪夢からはじまった、慌しい展開は、しかし、

展開するにつれ、かどが取れ、丸みを帯びた柔らかなものへと変わっていた。

いつしか彼は、懐かしい光に全身をくるまれていた。

この状態を得れるのであれば、引き換えに、

どのような代償を払っても良いとすら感じた。

そして彼はじっとして、その懐かしいものの奥から、現れてくる実体を、待った。

もう少しで暖かな実体の、懐かしいところにたどりつけそうであった。

浅瀬の波のような眠りのなかで彼は、

波にもてあそばれるままにさせながら、待っていた。

いきなり足場を前に、もぎとられた。

反射的に開いた「翼」が突っかかり、

背中から後ろに転がされた。

打ちつけ引きずってしまった頬から伝わる、

コンクリートに負けないヤスリのような感触に呼び覚まされて、

取りらしからぬ朝寝を後悔しながら彼は、

現状をいっぺんで飲み込もうと、もがいた。

深い底からあらゆる音が、一気に立ち上り、

信じられないような喧騒のただ中に、彼はいた。

配置された彫刻のように金縛りにあっている黒づくめが、

武装した警官達であることに気付き、

身体を起こそうとしてまた、足が綱にとられ、もんどうりをうつ。

「押さえろ、押さえろ」

太い叫び声が彼の耳を打った途端、彼の身体の、

あらゆる羽毛が硬直した。

縄にかかった「翼」が万力のように絞まる。

引き絞ったゴムを放すように、

うんと「翼」をひいた。彼を拘束していた綱は、

古びたワゴムのように、粉々に散った。

ひと扇ぎすると、古いワゴムのカスが、散弾になって周囲に降り注ぎ、貫通した。

彼は瞬時に状況を理解した。

僅かの好奇と、恐怖と憎悪。

一貫した希望的観測や人頼みが、

ダイレクトに彼に伝わってくる。

彼の回避行動は、本能の指令そのものに俊敏であった。

空気を足元に叩きつけると、

身体は後方上空に大きく跳んで楕円を描き、ふわりとまた、手すりに着地する。

 

言葉をたぐりよせ、

発声しようと試みると、心臓がのど元にせりあがり、

吸った空気に蓋をする。はじけられた黒い彫刻たちが、

うごめき、たちあがろうとする。早く言葉を、

と彼が焦るに比例し、せりあがった心臓に圧迫され、

息だけが出何処を失って、破裂寸前のゴムポールのようになって肺が、

パンパンに膨らむ。線のような瞼から眼球が跳び出しそうだ。

彼の頭は真空に支配された。

はじけた彼の息が、野獣の咆哮となって、

空気を切り裂いた。声が彼に、憤怒のフィードバックの情動をもたらす。

捕獲銃を上げた正面の男を、横に薙いだ。

男は手すりをテコにして、

大きく上空にバウンドすると、

バンザイしたまま落ちてゆく。

もはや彼自身が、パニックの只中にいた。

ぶっすりと顔の中心に彼のくちばしがめり込む。

言葉をとりもどそうと、彼はもがいた。

が、実際に彼に出来た事といえば、逃げ惑う黒づくめをボールのように飛ばすことだけであった。

銃声が合図になった。

彼は空高くまった。

バリバリと、ヘリコプターの回転「翼」から送られてきた風が、彼を押し戻す。

方膝を付いて、銃身をこちらに向け狙いをしぼる警官の姿が、

写真のように焼きついた。後ろに風を逃がし、

反転するとビルの谷間に急降下して、ビル風をとらえ彼は、弾丸のように疾走した。

現場は大混乱であった。五秒の間の、出来事だった。

ヘリコプターが着陸し、被害の状況を確認したころには、

人間鳥の姿はもう、どこにもみあたらなかった。


 

気がつくと彼は、車のとおりがまばらな、中層ビルに挟まれた六車線道路の上空を飛んでいた。

ノドにせりあがったまま心臓が、

妙にゆっくりではあるが、乱打をくりかえしていた。打つ度ビュンと、速度が加速する。

彼は、衝動に支配されている自分を、自覚していた。

今日の彼はもはや、昨日の彼ではなかった。

そして今の彼が、もっとも彼らしいと、実感していた。

感情も、衝動の前では平伏し、道を譲る。

理性などは最初に藻屑と消えた気がする。

彼はひたすらに途方に暮れていた。

そして今や彼は、まっしぐらに逃げていた。

ただただ逃げることだけに、精を出していた。

橋げたにささえられた道路が、左手のビルの後ろから立ち上がってくる。

彼は高度を少し上げ、進路を高速道路沿いに修正する。

カラスを潰したように、いとも簡単に、人間も、殺せてしまった。

彼はうめいた。

実はその瞬間、彼の生理は、恐怖が、彼を支配していたのである。

彼が何物であるか。

彼自身がいかような存在であるのか。

彼はその急激な自覚と変化に脅かされ、

混乱し分裂し震えていた。

言葉は、ゆっくりとたちあがってくるが、

衝動が外界にストレートに反応するため、追いつく前に、

言葉は、衝動に粉々にされてしまっていた。

構造が発声する生理と、外界に反応して生ずる衝動は彼に、完全なる降伏を迫っていた。

理性は言葉の側にいて、その崩壊を、理性自身が一番最初に許容していた。

スピードが鼓動に追いつき、ようやく彼は、平安を感じた。

もう不安という情動は、空の青さと気持ちよさに溶け、霧散して影もない。

今彼にあるのは、高揚と抑揚と、充実感であった。

そして驚くべきことに、ビルでの一件が、はるか昔の出来事のように、彼には思えていた。

いつのまにか眼下に、マッチ棒の羅列のような高速道路が見える。

いくつもの雲が、彼の足にタッチしては消えていく。

ぽかんとした大きな空洞だけが、彼の心に在る。

それは虚無感とは対極の、言葉の喪失そのもので、あった。

マッチ棒の周りを埋め尽くした四角い箱のなかに、

小さな赤い屋根や木立、庭がまざりだしていた。

羽をくの字に曲げ、高度を下げる。

楕円形のスタジアムに敷き詰められた、芝の緑が眩しい。

いつのまに彼は、懐かしい音色で満たされ始めた。

これが衝動か、彼にはわからなかった。ただただ、

見たことも無いはずの、勝手知ったる、街、土地、家。

「翼」

にふたたび意志の力が込められはじめた。

鼓動までもが、今度は彼の心の音色に、その歩調を合わせ高鳴る。

さらに、彼はスピードをあげた。すがる思いで彼は、

高速道路に別れをつげると、左手の丘陵に向って旋回した。


 

一つの丘陵が、

山ごと表皮をきれいに剥ぎ取られ、

そこに住宅街が、

ていねいに埋め込まれている。

かならず車二台分の車庫と、

ひしめく同じ配列の庭木に埋もれた箱庭。

屋根だけ色とりどりで、

三千程集い、丘陵を埋め尽くしている。

定規でひかれたような区画からなる、

どれも同じようで微妙に異なり、

違うようでそっくりな家並みの上空に吸い寄せられると、

彼は一心不乱に目的にむかい、疾走し始めた。

住宅街の中心を走る通りに沿って、

丘陵の頂上まで低空飛行で一列の家々をなぞった彼は、

十字路の上空を右に折れると、人目もはばからずに、

屋根を飛び移り、十一個目の家の庭に降り立った。

握る専門の三本のカギ爪を、

不自由に広げ、

バランスを取る。

心臓の鼓動が早いままだ。

何と小さな家だろう。

彼は大きくなりすぎた自分を、ようやく認識した。

直立すると彼の顔は、ちょうど二階のベランダの高さにあたる。

家々から人たちが正に、出る時刻であった。

メイン通りのバス停から叫び声が聞こえてくる。

気がせいた。

ひたむきに彼は家の中をのぞきこむ。

カーテン越しに応接間と、奥に台所が見える。

人影は、残念ながら、どこにも見当たらなかった。

「人間鳥だ、いるぞ」

大声が、彼がいる庭先を走りすぎた。

と、横の家のベランダのサッシが開かれ、

顔をのぞかせた女性と、

モロに目があう。

その瞬間からまた、

抗し難いドズ黒い発作がムクムク彼を支配し、

彼に警打を鳴らしまくる。

発作が全身に行き渡る前に、

彼は羽ばたき屋根の倍の高さまで身体を運ぶ。

女性の声が空気を割る。

走って警戒を促していた男が反応し、

彼を見つけ腰を抜かした。

窒息と戦いながら彼は、

あたりにむなしく視線を走らせ続けた。

なにが彼をこの場に留まらせようとしているのか、

彼にすら判らなかった。

我慢の限界が訪れた。

のろのろと彼は、

その体躯と力に似合わぬ、

危なげな足取りで、

目撃者達の視線を逃れていった。

あきらめきれずノロノロと、彼は飛んでいた。

赤い屋根は、虫にくわれたように一面傷んでささくれだっていた。

ちょっと押すと、ボロボロとくずれそうである。

瓦葺の屋根が、鈍く光を反射している。

その斑模様が、風雨に耐えた年月を、無言のまま語っている。

すずめが何羽か、彼の前を遠慮がちに、足早によこぎる。

あそこで、洗濯物を干している。

見ないようにして、彼は飛ぶ。

勝手口にサッカーボールが、おきざりにされている。

犬小屋の屋根に、穴が開いている。

犬は彼に向かって飛び上がり、ほえている。

その咆哮が、弾丸になって、彼の耳を打つ。

彼はやむなく、本能から遠ざかっている自分を自覚した。

もともと確固とした目当てがあったわけではない。

心当たりがあったわけでもない。

だいいち、いまの彼には、食事の取り方すら、

どうすればよいかわかっていなかった。

だが、その時がくれば、

身体が本能的に、

いわば勝手に選択し、

なにかを食うのだろう。

そして、彼には、そちらの方が怖ろしく感じられた。

住宅街のすぐ上をまだ、彼を放心しながら飛び続けた。

漠然とした意識の切れ端が、雲のように記憶を横切っては、霞のようにまた、消えてゆく。

たとえば、人間が人間を殺したら、

正当防衛でもないがぎり、以後社会生活は、

限りなく制約に満ちたものになる。

だが、彼は、自分が人間である、いや、

人間であったことすら人間に、証明する手立てをもたない。

 住宅街がとぎれ、芝が敷き詰められた公園が広がっている。

 遊戯道具もそれほどでなく、

 ここだけはぜいたくな広さをとっている。

 水のみ場が、彼の目を引いた。

 水道の蛇口からこぼれる水滴が打つ音に、

 彼の耳の焦点は絞られ、

 その音が、収録マイクを通して聞こえる小川のせせらぎのように、

 彼の身体に欲求を充満させる。

 強く羽ばたくと彼は、

 水道の蛇口のすぐ上に飛来し、

 辺りを見回しながら、

 ゆっくりと着陸した。

 砂が彼のかぎ爪をすくい、

 二度三度、「翼」でバランスをとらされる。

 水に口をつけると、 

 時を忘れしばし、

 筒のような舌をつかい、

 乾ききってザラザラになった咽喉に水をながしこんだ。

 舌が水をひろい咽喉の奥を湿らす。やはり、鳥そのものである。

 一陣の風が、砂いじりをしていた子どもの顔を、下から持ち上げた。

 飛んできた砂まじりの風に、

 一瞬息がつまった子どもが立ち上がって、

 咳き込むと、大きな口をあけ、深呼吸を二度した。

 見ると、自分の七倍ぐらいの、純白の鳥が、首をこごめて水を飲んでいた。

 とんがった顔であるが、人間にも、似ていなくはない。

 子どもの手のひらの倍ほどもある羽が、「翼」一杯に敷き詰められている。

 ようやく歩ける子どもは、手の平を鳥のほうに突き出した。

 ぎこちない、ヨチヨチ歩きで、子どもはそのまま、鳥のほうに歩き出した。

 ちいさな影が視界に入った。

 我に返って首を上げると、すぐ前に子どもの顔があった。

 鳥は、硬直し、我を忘れた。

 彼の帰巣本能の目的が、そこにあった。

 途端に心臓がせりあがり、血圧が上昇する。

 子どもの視線をとらえながら、彼はあえいだ。

 顎をひきしおぼり、かみしめ、全身の力を込め嚥下すると、間をおかず

 「元気か」

 と、彼は発声した。

 子どもがうなづく。

 そして子どもは、彼に手を、伸ばした。

 艶やかで、厚みがあり、少し冷たかった。

 なでていると、一枚の、倍ほどもある純白の羽が、彼の手に抜け落ちた。

 飛べない鳥はあとずさった。

 飛べば、子どもは、吹き飛ばされる。

 彼はしばらく息をしていなかった。

 彼はオウンと鳴いた。

 充分に離れると、彼は「翼」を大きく広げ、ゆっくりと羽ばたいた。

 それでも「翼」は小石を巻き上げ、そのうちのいくつかが、子どもに当たった。

 子どもは水道栓にしがみつき、ワァと泣いた。

 鳥人間もまた、キャアキャア泣いていた。

 彼にはその子どもの名前も、誰であるかも、判らなかった。

 彼はその時、帰巣本能の充足と、そして怖ろしくも食欲を、自覚していたのである。

 彼は号泣し続けた。

 涙が止まったころにはもう、

 彼は山脈のはるか上空、四千メートルを西に向って飛行していた。

 いつしか彼の横には、人間鳥が一体、彼を見守るようにして並走していた。

 気が付いても彼は、その人間鳥を無視して、飛び続けた。

 どこまでいってもその人間鳥は、彼の左三メートル余横を彼の方に首を傾げながら、飛び続けた。

 彼は、残り少ない感情が、抗っていることを自覚した。

 そうして並走を続けられると、

 彼の気持ちはささくれ苛立ち、最後の過剰反応を、示しているようであった。

 いきなり彼は、蛇行し、人間鳥を威嚇した。

 が、人間鳥はつかずはなれず、彼に並走するばかりである。

 憤怒とともに彼は、「翼」を折りたたみ、全力で急降下に移った。

 短い叫びが後ろから聞こえた。

 途端に、跳んで返りたい衝動に支配され、彼は身震いした。

 振り切らねばという微小な理性の声が、カランとこだました。

 気配を失って急いで後ろを振り向くと、人間鳥が忙しげに羽ばたきながら、彼に追いすがる。

 そして今度はひかえめに、人間鳥は彼の後ろ二、三メートルをやはり疾走する。

 どのくらい飛んだのであろうか。

 彼はスピードを緩め、人間鳥に並走を許した。

 彼はその瞬間、人間であることを、あきらめていた。

 人間の世界には、戻れないと、受け入れた。

 そうして彼は、案内を、人間鳥に促したのであった。

 彼の決心を見透かしたように、人間鳥はすっと前に出て彼を促すと、左にゆっくりと降下をし始めた。 

 彼もすみやかに人間鳥の後を追随し、降下を始めた。

 進路を北にとると、人間鳥は高度四千メートルに保ち、アルプスに侵入し、そのあゆみを深く進めた。

 雲にまかれ辺りは夜のように暗くなり、風がときおり不規則に乱舞する。

 やがて人間鳥は高度を下げると着陸態勢に移った。

 そこは高山の断崖の、中腹にかかる滝の裏の洞窟であった。

 

 人間鳥は、

マジックのように滝をスルスルよけて穴にもぐりこんだが、

彼はゴウゴウと落下する水の壁に阻まれた。

どこをどうよけてもぐりこんだのか、きっかけが見つからない。

苛立ち滝の上を三回旋回する。

と、滝からフッと人間鳥がまた、

現れると、降り立った駄々っ子をあやし手を引くように、

そこだけは弱いシャワーになっている水圧のスポットを抜け、

人間鳥に誘われ彼も、洞窟へと消えた。

 奥に高く広い洞窟のいたるところに、

枕木のような止まり木が小気味よい間隔でわたしてある。

不思議な事に奥に行けば行くほど頼りないはずの採光が、

かえって輝していく。

うっすらと湿っている。リンゴと尿、

パイナップルにキャベツの葉をまぶし肥溜めにつけたようなむっとする臭気が、

ほんの一瞬だけ、鼻腔をくすぐった。

階段状の枕木を飛び移り奥へ。

やがて巨大な円筒状の部屋で、洞窟は突き当たった。

光源が揺らめく。

それは人間の拳大の、光る石であった。

円筒の壁際には、上部まで無数の部屋で、区切られている。

ひとつひとつは、かつて彼がデパートで見た、鳥の巣を巨大にしたようなものであった。

だが、匂いの源は見当たらない。

それどころか枕木は磨きこんだ槍の柄のようであり、

いたるところの木々は、

不規則に入り組んでいるが、磨きこまれ手入れが行き届き、

そして規則的な全体を構築していた。

その証拠に、どこが何をするところなのか、一目でわかった。

おそらく寝床であろう。いつの間にか、

おわん型にくみ上げられた木々の一本に止まり、人間鳥は、彼を見下ろしていた。

 彼は絶望の中で、現実となった予感を、味わっていた。

最初に受けた人間鳥への拒絶感が、

まるで綺麗に払拭されている。ひと羽ばたきし、彼は、意に反し人間鳥に並んで止まっていた。

 彼よりかなり小ぶりだ。体長は彼の、肩くらいまでしかない。

 こいつメスだな…彼は直観し、身震いした。

 そういえば最初に並走した人間鳥達より華奢で、

丸みを帯びている。たしか動物の世界は、体躯が逆転していたはずだが…。

 「はらが減った。お前達はなにを食べている」

 部屋を見渡しながら彼は、声をかけた。

もっとも発音はすでに、言葉の判読はできない。

ところがやはり、なんの反応も帰ってこない。

改めて彼は、鳥人間をまじまじと見た。

 真っ白の顔には、表情というものがない。

 まるでルーブル美術館にならぶ真っ白な彫刻の材料で、とんがった顔を作ったようだ。

口などは線である。線の中に、黒い空洞がちらちらする。

鼻はくちばしのようにとんがっているが、ともかく目にいってしまう。

彼は吸い込まれるように、人間鳥の目に見入った。

すると、規則的に、人間鳥が、顔で丸を書き出した。

彼はそれを確かなものと確認すると、ゾッとした。

白目と黒目の境が、ようやく推測がつくぐらいで、あとは塗ったくったような白一色。

 人間鳥は、相変わらず能面のまま、三秒ごとに首で円を書く。

 むかつきは恐怖に彼の中で、ふくれあがった。

 思わず彼は、「翼」で鳥をこずきながら、意味もない発声をくりかえした。

 彼がふれた瞬間、人間鳥は、きゅうと声を発した。

その声が氷になって首筋にあてがわれ、ゾッとする。

 「なんとか言ってみろ」

 声を荒げ、またこずくと今度は、キューと少し長く鳴いて、

いきなりジャンプし、向きを変えた。

 彼は金縛りに陥った。展開させることを、

残った僅かな彼の理性が、強く拒んでいた。

彼は強く「翼」でたたいた。するといきなり尻を突き出してきた。

 次の瞬間冷水を浴びたように彼は、

けたたましく飛び上がり、

宙に浮いたままギャッギャッと、

正に鳥のように叫んだ。その声を受け取った人間鳥は、

きびすを返し宙に浮いた人間鳥は、

やはりギャッツと叫びを上げ、

両の「翼」を広げると彼を威嚇した。

彼も「翼」を広げギャースと叫んだ。

 それが合図になった。

ジャンプした人間鳥は体重を爪にかけ、彼の腹を直撃した。

 彼は反射的に思い切り「翼」で薙いだ。

鳥はキュウと巣の真ん中にころがった。

彼はもう逃げ出していた。化け物から逃げ出すように、一目散に。

他の人間鳥の叫びが、警戒警戒と聴覚を乱打してくる。

あやうく滝に激突して流されるところであった。滝の上空に出て、彼はぐんぐん上昇を重ねた。

 最後の拒絶反応という戦慄と、彼は戦っていた。彼の咆哮が、深い谷間にこだまし続けた。


 

 雲の絨毯が広がっている。

 おぼんのような、まん丸の月だけは、

位置を変えず、浮んでいる。

 雲の上にひろがる、傾きかけた恒星たちの、

射抜くような細い光のなかを、跳び続ける。

すぐに光は弱まり、恒星も雲の中にもぐりこんだ。

 彼は雲の下に出た。

 もう街は彼を、捉えなかった。

 夕日が山に、彼の間延びした影を、ちりぢりに写す。

 山伝いに飛んでいくと川が現れ、

現れた川は幅を増してゆき、ふたたび灯りが灯された人里が、

ぽつぽつと姿を見せ始めた。彼はまた、弧を描いてUターンすると、

物色を続けた。ようやく崖の上の葉ぶりの小さな、手頃な大木を見つけ、舞い降りた。

 彼は心身共に疲弊しきっていた。

 とおくの人家の灯が、目に染み入る。

 窓越しにチラチラしているのはテレビだろう。

 そしてテレビにはきっと、彼の姿が、映し出されているかもしれない。

 彼はこうべを垂れた。

 薄い月のようなまどろみが、彼をつつんだ。

 だが、安眠は訪れない。

 ここではあまりに目立ちやすい。

 冷えた空気を、「翼」でうんと押し、

木を巻くようにして森の奥へと、「翼」を進めた。

 かなり山に近づいた。

 川沿いの崖に、どうしても吸い寄せられる。

手頃なスケールの木と空間をようやく定め、再び彼は舞い降りた。

 なにか食べ物を探さなければならない。さっそく気のすすまなかった狩に、

早急な必要に迫られた彼は、出かけていった。

 森は確かに命が豊富のようだった。

 彼はすぐさまタヌキをしとめ、足に掴んで持ち帰った。

だが、とても、食えるものではなかった。

引き千切りひと噛みしたが、

咀嚼せず吐き出した。

川に降り、水を飲んだ。

水の分だけ肛門から、ビュッと出てしまう。

悪い事に、その辺りは鷹のツガイのなわばりのようだった。

はじめは遠くで警戒と威嚇の泣き声を発していたが、

彼が出入りをはげしくすると、二匹は彼を追いたてるように、まとわりつきはじめた。

 その健気な必死さに今度は、彼が追い詰められていた。

思考が裂け、耳が鳴り、餓死の恐怖が頭をもたげてきた。

彼は鷹の声のルーツに狙いを定めた。

そこに近づこうとすると、見事な激情で鷹のつがいは、必死に抵抗してくる。

彼は疲れていた。鷹の勢いにおされ、踏ん切りがつかずにいた。

彼は待っていた。鷹がつかれたら、卵を盗んで、さっと飛び去ろう。

大きな鷹が、彼から離れた一瞬をついて、彼は一気に鷹の巣に攻撃をしかけた。

小さな鷹は、爪を立て彼にしがみつき、くちばしをノミのように打ち込んでくる。

そういつまでももらい続けるわけにはいかなかった。

「翼」

で弾き飛ばそうと動いた瞬間、背中に鈍痛が走った。

大きい鷹の、一撃であった。

 彼は後頭部にも大鷹の攻撃を、したたか受けた。意識が一瞬遠のく。

思わず

「翼」

で薙いだときには、小鷹は大木に激突し絶命していた。大鷹が絶叫する。

今度は両の足で大鷹を捕まえ、

そのまま岩に叩きつけた。大鷹は彼の足の中で、肉の骸とかした。

 巣を覗くと、目も見えないような赤子が、ピーピー鳴いているだけだった。

 やがて赤子も衰弱し、明け方には骸になって静かになった。

 疲労困憊し、彼は木の上でセキブツのように横たわった。

 そうして朝日の中で再び、まどろんでいた。

 それは最後の抵抗であった。今にも言葉は永遠に彼の中で消去され、

疲労を回避する為の行動に、すぐさま移る時がくるだろう。

 広大な宇宙の中に、点のように小さい、彼の意識があった。ただそれを、プチッとつぶすだけである。

 君はだれ?君はなにをしてきたの?

 突然空が陰ると、彼の前に舞い降りるものがあった。

 瞼をこじ開けると、あの人間鳥が、彼を見上げていた。

 夢かもしれない、彼は再び、まどろんだ。

 すると人間鳥は「翼」で彼を痛打し、幾度となく自ずから羽ばたき、彼に羽ばたくことを促した。

プチッと、音をたてて潰して彼は、空に舞い上がった。

 もう戻れなかった。それからの彼の記憶は、写真のように、物切れであった。

ひたすら高く登り続けた。幾度かあきらめようと感じたぐらいに高く。

しかし先にたって飛翔する人間鳥のいななきは、彼の導火線に火を付け、彼を力強く鼓舞させた。ダイナミックな飛翔は、波のように衝動が爆発し、

そしてさらに優雅に早く、風にのって彼も羽ばたくのであった。そして、彼の目前に城が、姿を現した。

 その高さは五百メートルはあるだろう。

 滝の巣が、空に数百倍にして、浮ばせた有様は、彼に安堵をようやくもたらした。

そして歓喜の絶叫を交互に彼らは繰り返す。グロテスクな、理解を超越した、圧倒的で、絶対的で、普遍的かつ永続的な存在。

 白い半透明の素材でくみ上げられた回廊に、無数の入り口が、あらゆる角度から開いている。

無機質でいて、内臓を丸出しの、湯気がたっている、縦横無尽の塔の中の、内容物。

城が、鳥の、無限の羅列になって、不夜城と化している。

 部屋に入って目を閉じた。光景が回転し始める。

 半透明の鉱物の内臓で出来たような長短無数の足場で区切られた部屋であった。

彼はおわんのような一室に、相棒と並んで休んでいた。

 上下左右に、ツガイが寄り添っているのが見える。その光景がどこまでも、続いている。

 一斉に交尾が、始まる。