夫婦の会話
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さて20013年第一生命のサラリーマン川柳に、「良い夫婦 今じゃどうでも いい夫婦」と言うのがある。
夫婦関係の長さにもよるが、30数年以上も夫婦をやっていれば、「今じゃどうでもいい夫婦」と言える
のは最高の夫婦だ。逆に「どうでも良くない」となると、「どうして?」と詮索したくなる。場合によっては
羨ましい、と思うのである。

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長い間、同じ空気を吸い、同じ匂いのする空間で、見るもの、聞くもの、食べるものも同じという生活をして
いると、話すことも必然的に、同じようなことを同じような場面で同じように繰り返すことになる。聞いて
いるほうも、同じように聞こえて「どうでもいい」と思うことになるし、いつも同じ返事を繰り返している
ので「以下同文」と省略することを許されると思うのだ。

さて ここから「こと」が始まる。
「ねえ、聞いているの?」「分かったよ」「いつも そう言ってやらないでしょ!」「分かったよ」、これが
繰り返されるのが長い夫婦の会話なのだ。
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さて「いい夫婦の会話」なのだが、同じことをしゃべっているのだが毎回少しずつ違いがあることに気
付くべきなのだ。間合いと声の大きさおよび言葉使いだ。
なにせ話の内容は変えようにも変えられない。毎日夫婦間の話の内容を変えられるほど、互いに知識
を別個に更新する努力などしていない。知識と言えば一緒に見ている新聞・テレビ・ラジオからだから
同じものである。オリジナルなことを話すには独自に考えて、独自の視点から話すことであるが、これが
長いこと一緒にいると互いに底が割れているので、夫婦間では「オリジナル」なものなど存在しない、
と普通結論付けるものだ・・・
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所がである
私の父母は信州の山奥で「水飲み百姓」と言われるような厳しい農家をやっていた。
養蚕をし、白菜を作り、パンジーのタネを取り、僅かなコメを作って私ら兄弟四人をそだてた。
朝は3時頃より起きて「飯前仕事」をし、夕方は暗くなっても畑にた。夕飯作りは子供の仕事だった。
親父とお袋はまさに四六時中一緒だった。たまに温泉旅行に行っても同じ仲間内だったので一緒だった。
会話と言えば、「飯にしようか」、「ここまでやって終わりにするぞ」という畑仕事の段取りの話と
作物の出来具合の話が主で、あとは子供の学校の話とお金の工面の話だった。
従って、話の内容は季節ごとに多少の変化はあったが、同じことの繰り返しだった。
お袋は「父ちゃん何とかしなくちゃ」で終わり、親父は「分かっているよ」で締めくくった。

所が
お金を借りに走るのはお袋で自発的だった。
子供の進路や親戚付き合い更には作付けについては、親父が決めたのを、おふくろが
阿吽の呼吸で「父ちゃんこれこれですね」と言葉にして、周囲に伝えた。時として間違えが起きたが
こんな時は親父が怒ったので大変なことに成った。
親父のすることとお袋のすることは、はっきり分かれていて、互いに認め合っていたからそれでうまくいていた。
お袋は時々「父ちゃんはこんなご苦労をされている」と子供に話した
、親父はお袋に「われやっとけ」と言って、お袋に及ばないことを任せていた。

お袋は自信を持て仕事をした。PTAの役員も婦人会の役員もやった。
学歴もないお袋が役員をやることはには勇気が要ったが親父が許した。認めた。
お袋は全部話した。親父は黙って聞いていた。お袋には親父の微動が読めた。
親父は黙ってみているだけだったがお袋は「道」を外さなかた。

年取って町の人達は、何故かお袋より黙っていた親父を尊敬した。
お袋が偉かったのだと俺は思っている
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会話らしい会話の無かった親父とお袋。
生活で会話する術を、言ってはいけないことを言わないで会話する術を、
二人でただ働くしかない日々を一生送ったお袋と親父は会得していた。

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さて
会話に変化を付けるのが声の高さと大きさだ。言い換えると「金切声」・「ドスの利いた声」と「大声」だ。
互いに、「キイキイ・ガアガア」近所中に聞こえるようにやる訳だ。会話は音声を媒体としてやるので、
テレビやラジオの音量より大きめでないと「変化」として認識しない。
そして長いこと「どうでもいい」としていた夫婦のコミュニケイションが変化する。
近所の普通の人たちは、この夫婦の「通じ合う・変化した・コミュニケイション」を「夫婦喧嘩などと言うのだ。
これは喧嘩などでなくコミュニケーションだ。賑やかなコミュニケーションだ。
長生きすると変化は年と伴に大きくなる。コミュニケーションのボリュームは大きくなる
どこまで多くくなるのか心配だ。
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