人の価値と市場原理
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被救済者・敗者=「下落民」
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障碍者を「生きている価値が無い」更に「生きていては経済的損失になる」
として大量殺戮をした若者がでた。介護施設の元職員が体罰を超えて殺戮に走った。

自由競争・市場原理では、「利益を生まない組織体・更には個人は敗者で生きる場はない」
能力が低いものは、排除される事を是とす社会が出来上がっているのだ。

「個を重んじ人権や人間性を尊重する多様な価値観の世では認め難い」等と仏面して喋る政治家・マスコミは、
「社会から排除された者」の「救済」を口にし、尊厳ある個人を「救済対象・敗者」として区別(差別)して、
「下落民」と言う現代の被差別集団を定義することに成っている。
そして
「救済」される敗者にならない為に、「体罰」が「愛の鞭」となるという。
更に救済には金がかかるから殺戮する方が社会のためだ、という確信犯が出現した。
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体罰とは?「体に直接加える罰」だ、と云う
罰を受けるのは、罪を犯した者だ
体罰は罪を犯した者が、体に直接受ける罰と言うことだ。

さて大阪市立高校の運動部で行われた体罰が問題になった。何故だ?
能力が低い、試合に負けたと云う理由で、体に苦痛を与える。
能力が低いことが、まるで罪であるかのごとく罰せられる。理不尽極まりない。
能力が低いことは罪ではなく、勿論罰の対象でもない。教育の対象だ。

教育の場で、能力が低いと言って、指導者が叩いたり蹴ったりする
低い能力を向上する為に、教わりに来ている者に、教える者が叩いたり蹴ったりする
そしてこれを「体罰」と称する。一体これはどういうことだ!!
これを罰と言うのは言い逃れで暴力だ。そして教育者の自己否定だ。

スポーツの現場では「体罰」と言って、
「罪」ではない事に「罰」を与えているから、問題になる。
指導者が、体に苦痛を与えることを指導の一環であるとしていることが問題だ。
試合に負けた、成績が悪い、という理由で「体罰と言う名に隠れて」暴力をふるう。
なんと恐ろしいことだ

処で
学校でたばこを吸っていた、他人に怪我をさせた、授業の妨害をした、器物を壊した
等という行為は「罪」であるから、「罰」を与えるべきである。
このような「罪」になる行為と、能力が劣っている故に生じる(成績が悪い)事とは
全く別のことで区別しないといけない。これらの事をごちゃ混ぜにして
教師が振るう暴力を「体罰」と言うからからおかしくなる。
法律や社会規範に反する行為、人の尊厳や存在を無視・否定する言葉や行動は
はっきり「罪」として「罰すべき」だ。
また教育の場では、これらの行為は「罪である」と教え、
言い諭しても直らなければ、最後の手段として罰する。
これこそ教育のなすべきことで、曖昧にしてはいけない。
教育者から「最後の手段として、罰を与える権限」を奪っては、
本来の教育が出来ない。

ただ教育者・指導者には、人の尊厳や存在を無視・否定する言動が
犯してはならない「罪」であると云う、基本をわきまえていない者がいる
これが大きな問題を生んでいる。

昔の映画で見たことがある。
教官(軍服着ていたかな?)が教壇の上で棒を持って立っていて
本が読めないと云って殴り、漢字が書けないと云って殴り、算数が間違っていると云って殴っていた。
思うに
昔、学ぶ事は自発的にやることで、「自力では及ばない、先の難しい事」を、
先生に教えを請うのだ、と言う言外の了解があった。
先生は「難しい事」、読み書き・ソロバンから倫理・徳育まで、
克己勉励して習得して、教える事が出来たので尊敬されて偉かった。
そして先生は裕福で権力を与えられていた。
だから教わりに来ているのに、「自発的にやるべき事・復習・予習」をやっていなければ
先生に対して「失礼」であり、怠惰の誹りを受けても仕方がない。
つまり先生から「愛の鞭・体罰」を与えられて、当然であり・感謝したのだ。
教育の場で、師弟の関係はこのような「了解」をもとに、はっきりした「上下」関係が「常識」になっていた。

しかし今日では
指導者がサラリーマンになり、教えを請う側と能力に大きな差が無い、
またオリンピック選手の強化訓練の様な場等では、選手の技量が指導者のそれを超えている場合がある。
こんな場合には「怠惰の誹り」を受ける理由が見当たらないから、「愛の鞭」は根拠を失って、たんなる暴力であり、
逆に「罪」になる。

昔出来上がった「師弟関係」が、
全く状況が変わってしまった今日の教育の場、特に運動部と言う場で、
「昔のような了解事項」など成立しないのに、見直されず、「能力が低い事=怠惰」で「礼を失した罪だ」
と言い換えて、勝為には怠惰を克服する試練として「体罰」が当然だ、と疑わずに来た。

その上
従順に「試練」を受けることで能力が上がり、恐怖が回避でき、評価があがる
即ち「試合に勝ち・有名になる」と言う循環が環形成される。
結果のみを囃したてるマスコミが、この循環形成に大いに貢献している。
一度循環が出来上がると、庶民は「世間的評価」で好循環として受け入れ無批判に乗ってしまう。
そして、マスメディアに登場できて有名になり、「経済効果」を生んで周囲もおすそ分けに預かる。
と言う、「成功のスパイラス」が社会的に確立する。

結果
勝者はスポンサーがついて持て囃されお金持ちになり、敗者には強化に要した借金が残る。
という
社会が認めた勝者と敗者のれっきとした格差構造が、日常マスコミを通して国民の脳裏に刷り込まれ
社会規範となってしまう。
企業では「利益至上主義」が組織を支配し、利益を出さない事は「罪」だと云うことに異論を唱えられない。
仕事が出来ない奴は、人の尊厳や存在を無視・否定するような言葉で虐めを受ける。
利益を出す企業は、内部で虐めや体罰の様な「人権無視」が起っていても
視野狭窄症に陥っている世間では、「好評価」となる。
そして最後に論理的帰結として「経済的に負担になる人は殺害する方が『得だ』」という確信犯が現れる。
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次の例は生産現場で実際に起こったことだ。
能力主義の外資の会社から転職してきたリーダーが、能力が劣っているとして作業員を虐める。
作業員は堪えられずに欠勤したり遅刻したりする。
リーダーはグループの成績が悪いのは無能な作業員がいるからだ、あの作業員を解雇してほしい、
と会議で言い出した。
「解雇はしない」(他にも良いとこある)と結論した時、リーダーは辞めた。
リーダーが居なくなった途端に作業者の欠勤は無くなり、チームワークは良くなって成績は改善した。
原因はリーダーにあったのだ。
往々にして、毛嫌いする者同士に上下関係がある場合、上位者が虐めたり、暴力を振るう事がある。
パワーハラスメントだ。
「人を大切にする」と言う社是が利益につながった。
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労働基準局の埒外である「役員会」ではもっとひどい事が沢山起きている。
銀行から来た社長が、「利益」を盾に現場上がりの技術系役員に聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせる。
同席する役員は、「お金」の事を言われると一言もない。
こんなことは「一流会社」でも良くあることだ。
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学校も社会の中の一組織で、社会の様子を映している。
先生も自分の評価を良くするために、罪のない子に「体罰」を与え、
更に「チームの足を引っ張っている生徒を辞めろ」とおどし
結果一時的にチームは勝ち、先生の評価は上がり、学校の(マスコミでの)評判が良くなり、
視野狭窄症が流行する。
(実際には、地域社会には、眉を顰めて口を閉ざしている人が結構いるのだが・・)。
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結局
勝利至上主義 利益至上主義 等と言う視野狭窄症・「**至上主義」を改めることだが
世界の規範が換わらなければ変えられない。
国家は「愛国至上」になる。そして愛国と言う掟で拷問、死を受ける人がでる。
個・基本的人権や人間性を尊重し、広い視野で多様な価値を認め・引き出し、話せる場が
抵抗なしに築けることだが、こんなことを旗印にしている国家が「***至上主義」を捨てられない。
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「生きている価値が無い人間」という、「人間を経済価値で見る社会」をなくしたいものだ。
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