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そのむかし、まだ紅顔の文学少年だった頃、ばななの親爺だったか俊輔だったか、ある本に引用された明石海人の短歌を読んで、ハンセン病患者であったこの歌人の名前を知りました。「人間の類を追われて・・・」という作品で、永らくその部分だけが記憶に残っていました。
先日、ハンセン病患者に対する隔離政策について、国がこれまでの政策の誤りを認めるというニュースに接して明石海人を思い出し、「人間の類を追われて・・・」の先がどうであったのか気になりだしました。
Yahooなんかで検索しても、どういうわけか大島渚が出てきたりして、この短歌は見つかりません。西国三十三箇所のお寺参りの途中、大阪の紀伊国屋でガイドブックを立読みして善峰寺へのルートを確認したついでに詩歌コーナーをウロウロしていると、
荒波 力『よみがえる"万葉歌人" 明石海人』新潮社、2000年
という本を発見しました。まさしく発見でした。詩歌と小説のコーナーを三回くらい行ったり来たりしたのですが、平積みされたその本が目に入らなかったのです。
ようやく、気になっていた後段部分がわかりました。
人間の類を逐はれて今日を見る 狙仙(そせん)が猿の無下(むげ)なる清さ
作者存命中に刊行された唯一の歌集『白描』から。猫ではありません。念の為。
昭和元年、静岡の富士宮で小学校の教員をしていた二十五歳のときに東大病院でハンセン病の診断を受け、気持ちの整理がつかないまま上野を彷徨ったと前出の評伝にはあります。「狙仙(そせん)」というのがちょっと分かり難いのですが、事典で調べると、森狙仙 猿の描写で名高い江戸後期の絵師だということです。明石海人は、画家を志したこともあったそうです。ハンセン病と宣告されて「人間の類を逐われ」、茫然自失のうちに上野の博物館で森狙仙の猿に出会ったのでしょうか。
長い前振りでしたが、和歌山県那賀郡の『竜門山』になぜ明石海人が出てくるのか、ようやく説明するところまで辿り着きました。
ハンセン病と診断された翌年、兵庫県の明石第二楽生病院に入院しましたが、まだ特効薬プロミンが出る前であり、同院での治療には効果がありませんでした。そして当時、治療の効果があると評判の和歌山県打田町の佐野病院に転院し、一年余りを過ごしたようです。しかし結局、ここでの治療も効果はなく、再び明石を経て終焉の地となる岡山の長島愛生園に行くことになるのですが・・・。
打田町といえば岩出の東隣、下井阪からは一駅です。竜門山は、打田町から粉河町にかけて、紀の川の南側に恰幅のよい姿でおさまっています。
そうか、明石海人はここで竜門山を見ていたのか、と暫しの感慨。
関心を向けた事柄に関係するものが、まさに目前にあった。物事は、すべて関連しているのではないか。河合隼雄流にいうと、これもコンステレーションということなのかもしれないと、大袈裟なことを考えてしまいます。
已にして葬りのことも済めりとか 父なる我にかかわりもなく
明石海人は、この地で次女の死を知らされました。しかし、ようやく郷里から連絡があったのは、葬儀も済んだ後のことであったといいます。
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