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古楽情報誌「アントレ」 CDの玉手箱17
朝岡 聡 的 新譜試聴記
前田りり子 バロックフルート/J. S.バッハと同時代の作曲家達によるフルート音楽
夏休みである。小学生の我が子は宿題やら自由研究やらをいっぱい抱えている。少しずつ計画を立ててコツコツやればいいものを、ぎりぎりまで溜め込んでいる。これはいかん、と思い注意をすると「大丈夫だよー。まだ学校始まるまでたくさん時間あるから…」などと答える。
「たくさん時間がある」かぁ。どうも時間に対する感覚が大人と子供ではまるで違う。そういえば自分が小学生の頃には、1時間目の授業から給食までが途方もなく長く感じられる日があった。1年後などものすごい未来に思えた。それが今じゃ1日なんてあっという間。ついこの間と思ったのがもう2〜3年も前だったりする。そんな中、日々の仕事に追われ、気付かぬうちにあくせくしていませんか?大人のみなさん。
前田りり子さん初のソロCDは「たくさんの時間」が贅沢に詰まっている。音楽を楽しむのは、上質な時の流れを愛でること。当たり前のようで忘れがちなこのことをしみじみ教えてくれるアルバムだ。
最初のヘンデルのソナタのゆったりとした調べに魅せられる。この「ゆったり」という感覚は単にテンポが遅めというようなものじゃない。心にも身体にも余裕があってリラックスできる最高の状態。そんな空気に満ちている。音の一つ一つからつややかな精気がこぼれおちる。第1楽章グラーヴェの付点リズムなど、気力充実の旅人が一歩一歩を楽しみながら目的地へ向かう足取りのようだ。
テレマンの無伴奏ファンタジアもいい。イ長調の出だしはヨーロッパの田舎の朝を彷彿とさせる。石造りの農家と田園風景。まだ朝もやで霞んでいる稜線に牛の姿。朝露に濡れた牧草の香りが気持ちいい…なーんて想像してしまうくらい、みずみずしい情感に溢れている。移りゆく情緒を余すところなく表現しきるバロックフルートの音色は素晴らしい。ここにも「ゆったり」とした時間が流れている。
録音が行われたのはベルギー・アルデンヌ地方の小さな教会だという。共演者はチェンバロのロベール・コーネンとガンバの市瀬礼子。前田さんはこう語る。「リハーサルの初日、日本から来たばかりの私とコーネン氏のテンポ感はまるで違っていました。出発前、初めてのソロ録音で、頑張らなくっちゃと緊張し、日本の小さな部屋で一人で必死にさらっていた私の演奏は、いつの間にか猪突猛進型の演奏になっていました。でもベルギーの美しい自然の中で、コーネン氏と共に、ゆったりとした食事や散歩、おしゃべりを楽しんでいるうちに、私のテンポもだんだん落ち着いてきて、最後にはぴったり息が合うようになりました」。
なるほど…。演奏家にとっても時間の感覚と環境は大事な要素なんですね。国内のスタジオ録音では決して得られない、時の味わいが色濃く感じられるのもそのせいか。
大バッハのロ短調ソナタではそれが一層顕著。長大な第1楽章でも先を急がず、バッハが随所に散りばめたニュアンスをしっかりすくい上げていく。特に第2楽章ラルゴ・エ・ドルチェは、ドルチェという言葉が匂い立つような美しさに満ちている。オリジナルのドゥルケンを弾くコーネン氏は慈しみにも似たひろがりのある響きでフルートを支えていて秀逸。
そしてエマヌエル・バッハとミューテルのソナタはいわゆる多感様式の作品だが、りり子さんのフルートは疾風怒濤の激しさより、むしろ繊細な感情表現に特色が感じられる。うつろいゆく時間の気まぐれ。その微妙な変化を丁寧にあぶり出しているのがとても印象的な演奏だ。
この録音は「心から信頼できる共演者、録音技師の方々に恵まれ、最高の場所で、最高の人たちと共有した奇跡のような一瞬」と前田さんは振り返る。その充実感が聴く者にもストレートに伝わり幸せにしてくれる一枚。
(古楽情報誌「アントレ」2003年9月号より転載)
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