フランソワ・クープランの時代
◆太陽王の時代
太陽王ルイ14世(1638-1715)の治世を「偉大なる世紀」とフランスでは呼びます。中央集権化と重商主義を推し進めて強大な権力を握った王は、壮大な宮殿をヴェルサイユに建てました。そして毎日のように行われる狩やコンサート、演劇、舞踏会、賭け事など多彩なエンターテーメントを通じて、有力な貴族や聖職者、諸外国の要人たちの心をつかみ、王への恐れと敬愛を勝ち取るのに成功しました。ヴェルサイユは太陽王をフランスの頂点として輝かせるための舞台だったのです。
その頃ヨーロッパ中で、華やかなイタリアのバロック・オペラとコレッリを代表とするヴァイオリン音楽が大流行していました。ドイツやイギリスなどではイタリア様式といわれるこの新しい音楽をこぞって輸入しようとしましたが、ルイ14世はフランス独自の音楽を作り出すことに強いこだわりを持っていました。王の意を受けたリュリは王が若いころから得意としていたダンス音楽を主体とした独自のフランス様式を作り上げ、バレーとオペラが融合したオペラ・バレーという新ジャンルを確立します。王が高齢で踊れなくなってからもその傾向は続き、踊るためではなく、聴いてもしくは演奏して楽しむための器楽曲も何らかの舞曲のリズムに従って書かれるのが通例となっていました。それはあたかも宮廷の礼儀作法に則った秩序正しい音楽でありながら、それを感じさせないほど優雅な動きが演奏者に要求される、ヴェルサイユ宮廷の縮図のような音楽と言えるかもしれません。
◆ルイ14世の晩年
輝かしかった太陽王の治世も晩年なると、度重なる戦争や浪費でフランスの経済状況は破たん寸前と落ちいります。通風持ちの王の健康も思わしくなく、それまでのような華やかな催し物の機会はへり、宮廷の雰囲気はかなり重苦しいものとなっていきました。
ルイ14世の甥のオルレアン公はフルートとヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロを演奏する教養ある道楽者でしたが、彼は格式ばったフランス様式の音楽よりも、軽快で斬新なイタリア様式の音楽を好んでいました。しかし、権威と秩序が何よりも重要なヴェルサイユの宮廷では、おおっぴらにイタリア様式の音楽を演奏することは許されませんでしたので、パリの私邸にイタリア音楽に興味のある音楽家たちを呼び寄せて、プライベートなイタリア風コンサートを時々楽しんでいました。進取の気性に富み、柔軟な感性を持つ優れた音楽家たちの中には、イタリア様式に強い関心を持つものも多くおり、パリのサロンではイタリア音楽が演奏されることもありましたが、多くの宮廷音楽家たちにとっては、自らがイタリア様式の愛好者であると公言するのはやや憚られる状況にありました。
◆オルレアン公の摂政時代
1715年にルイ14世が亡くなり、曾孫のルイ15世が5歳で即位、摂政に派手好き、女好きのオルレアン公が就任すると事態は急変します。荘重で儀式ばった生活を強いるヴェルサイユが大嫌いだったオルレアン公は、さっそく宮廷を自由な雰囲気が漂うパリへと移します。
もはやイタリア様式を拒む理由は何もないとばかりに、一気にイタリア様式の音楽がパリに流れ込みました。しかしいくら新鮮で素晴らしいといっても、長年フランス様式の優雅な音楽に慣れ親しんできた多くのフランス人にとって、それはそのまま受け入れるにはちょっと刺激が強くて斬新過ぎました。そこで「趣味の和合」が多くの作曲家によって推し進められました。フランス様式が基本の自らの曲にどのぐらい割合で今一番トレンディーなイタリア様式をうまく取り入れるのか、その塩梅加減が腕の見せ所となりました。
1730年代ごろにはブラヴェやルクレール、ボワモルティエなど完全なイタリア様式のソナタを書く作曲家がフランスでも増え、イタリア人作曲家の楽譜も数多くパリで出版されました。一方でラモーなどのように18世紀の半ばまでフランス様式を守り抜きつつ新たな境地を開いた者もおり、フランスバロックに多種多様な面白さを与えています。
◆フランソワ・クープラン
17,8世紀のフランスにはいくつもの有名な音楽家一族がいました。管楽器の名門といえばオトテールやフィリドール一族ですが、鍵盤楽器においてはクープラン一族が有名で、パリのサン・ジェルヴェ教会のオルガン奏者を代々務めました。中でも大クープランといわれるフランソワは宮廷礼拝堂付きオルガン奏者となり、クラブサン(チェンバロ)奏者としても王宮で重宝されていました。また王家の子供たちやルイ15世の王妃にクラブサンを教えたりもしていました。
F.クープランは早くからイタリア趣味に興味があったようで、1692年頃には早くもイタリア風のトリオソナタを書いています。しかし自らの名前で発表する勇気はなかったそうで、イタリアに住む親せきがイタリアの新進作曲家のソナタを一曲送ってきたから聴いてほしいと、自分の名前を伏せて別の名前で演奏しました。結果は上々、そのソナタは非常に好評を得たため勇気づけられて、他にいくつかのソナタを書くことができたそうです。それが「諸国の人々」のソナーデの部分で、本公演で演奏する「フランス人」は当初「少女」という題がつけられていました。1726年に出版した曲集の序文の中で、彼はこの逸話について触れていますが、偽名によって世間の拍手喝さいを浴びることができたので、二つの名前を使い分けることに少しも恥じらいを感じることはなかったそうです。とはいえ、イタリア風の音楽を発表するということが、ルイ14世の施政下ではいかに難しかったかという当時の状況が見てとれます。
F.クープランは二つの様式の融合に生涯を通じて腐心し続けた人物ですが「趣味の和合あるいは新しいコンセール」という曲集の序文中で以下のように述べています
「イタリア様式とフランス様式は、長い間音楽界を二分してきた。私についていえば、どんな時でも種々の事柄についてその優れた点を評価し、特定の作曲家や特定の国を差別するようなことはしていない。〜中略〜(イタリアのソナタは)常に私の手本となり、さらに称賛の対象となっている。このように私のどちらにも傾かない立場がもたらす信念によって、私は現在に至るまで常に自分を導いてくれる幸せな庇護のもとに航海を続けられるのである(訳:松前紀男「新版クープラン」より)」
18世紀を通じて、二つの様式のどちらが優れているのかということを論じた文がたくさん発表され、激しい論争を巻き起こしました。しかし多くの実践的な作曲家たちは、F.クープランのように適度に折り合いをつけながら、自らのスタイルを確立していったのもしれません。
本公演で演奏する王宮のコンセールは、憂鬱な晩年のルイ14世を慰めるために毎週日曜日に行われた小さな演奏会用にF.クープランが書いた曲で、王の趣味に合わせて舞曲による完全なフランス様式で書かれています。楽器編成の指定はありませんが、曲の雰囲気に合わせて楽器編成をいろいろ変え、管楽器はフィリドールとデュボワが、ガンバはアラリュスが、そしてクラブサンはF.クープラン自身が受け持ったそうです、
「恋の鶯」はクラブサンで演奏するための曲ですが、クープラン自身が注釈でフルートでするのもいいよと書いているので、本公演では無伴奏フルートで演奏してみたいと思います。
◆ルイ・ド・ケ・デルヴロワ
ケ・デルヴロワは現在ではほとんど知られていませんが、当時はM.マレとA.フォルクレに並んで「ヴィオールの帝国」を形成していた3人の1人として称賛されていたヴィオール(ヴィオラ・ダ・ガンバ)奏者でした。いぶし銀のような魅力が光るヴィオール族にとって、輝かしいヴァイオリン族を代表とするイタリア様式の台頭は脅威でした。事実18世紀中ごろには次第にヴィオールの流行は廃れ初め、ヴァイオリンやチェロにその地位を取って変わられます。ライヴァルのフォルクレのようにはうまくイタリアの波に乗りそびれたケ・デルヴロワですが、彼の書いた曲にはヴァトーの雅宴画のような優雅な田園風景が広がっています。
◆ミシェル・ピニョレ・ド・モンテクレール
モンテクレールは若いころヴォデモン公という有力貴族の宮廷楽長をしており、この雇い主に随行してイタリアに赴いたことがあったようです。ルイ14世存命中からイタリアの影響を強く受けたカンタータを手掛けていて、オルレアン公やコンティ公妃などイタリア様式擁護者たちのコンサートなどで演奏されていたようです。本公演で演奏するハ短調のコンセールにはフランス様式の舞曲や小品とイタリア様式のフーガなどが混在しています。モンテクレールは音楽教師としても有能だったようでF.クープランの娘たちを教えたりもしました。楽譜商も経営しており、楽譜のみならず音楽教育法やヴァイオリン教則本、歌の装飾法の本なども多数出版しています。
前田りり子