コロリのお勧めコーナー
●『豚と沖縄独立』
●『沖縄 ウミンチュ」一人追い込み漁に生きる』
●『沖縄 島唄紀行』
●『沖縄島唄読本』
●『パイヌカジ 沖縄・鳩間島から』
●『登川誠仁自伝 オキナワをうたう』
●『沖縄入門』
●『新 おきなわキーワード』
●『琉球共和国 汝、花を武器とせよ!』
●『沖縄に恋する 癒しの島に渡ってみれば』
●『琉球布紀行』
『豚と沖縄独立』
下嶋哲郎 著 未来社
2,400円(税別)
2002年に読んだ本で、私が最も心に残ったのは、この一冊です。
この本は豚を通して戦前から本土復帰までを描いたドキュメンタリーです。
沖縄料理には豚肉が欠かせません。現在、沖縄で豚といえば白いもの。しかし、戦中までは、アーグ種という黒豚でした。垂れた大きな耳。地面を擦るような腹。中国の辺境地域で見るような、まさにそれでした。なぜ、戦前4万頭を数えた黒豚・アーグはいなくなってしまったのでしょうか?
沖縄は移民が多いところです。ハワイにおいては、1899年が最初でした。ヤマトからは1868年です。1900年当時、ヤマトからの移民とその子孫は61千人を超えていました。そこへマイノリティとしての沖縄移民が入ってきたものだから、アメリカ人からもヤマト移民からも、二重の圧迫を受けることになりました。
そこで各地に見られるように、ウチナーンチュ・コミュニティが生まれました。
そこでは彼らの特技が活きた。当時の沖縄人は誰もが豚のことを良く知っていました。つまり種付け、飼育、解体、調理というサイクルとしての達人だったと言って過言ではない。当時、マウイ島の照屋はハワイ大学主催の「養豚発育競争」で全米記録を破り、世界記録をも破っている。戦中は「ジャパニーズ・エイリアン(敵性外国人)」といわれ、多くの日系兵(パイナップル部隊)を送るとともに、食料増産でも貢献しました。開戦すると真珠湾には兵士があふれ、豚肉を使った沖縄レストランは大繁盛し、豚肉の需要と重要度はたかまった。結果としてハワイでの地位を固めたのだった。
戦争がおわり、ハワイのウチナーンチュが最も心配したのは、故郷の沖縄がどうなっているかということでした。派遣した調査団員・比嘉からの報告は食べ物やなにもかもに困窮する沖縄の姿でした。「島に人の影なく、フール(豚小屋)にウァーなし」と打電する。この報告がウチナーンチュの愛郷心に火をつけた。
占領したアメリカ軍も、チューリップのポーク缶の配給をしてはいた。しかし数が足りていたわけではない。また、沖縄諮詢委員会(沖縄人によるアメリカ軍の出先機関)のなかにはポーク缶をもらうだけの生活は自立に繋がらないという不安もあった。わずかに残ったアーグはコレラが発生し、もはや壊滅的な打撃を受けていた。
ハワイのウチナーンチュ・コミュニティが立ち上がったのはこのとき、1947年でした。
外間はハワイ放送を週一回15分私費で買い「ウルマ・メロディ」をやった。沖縄民謡主体の番組は総反対にあう。しかし、曲の合間に豚を送る意義を語りつづけた。オアフ・カワイ・モロカイ・マウイ・ラナイ・ハワイなど各島での寄付も集めた。その額5万ドル。これで豚を購入することとなる。
慢性的な豚不足なハワイでの豚調達は不可能なため、アメリカ本土から沖縄に送ることとなった。アメリカ軍が提供した貨物船の甲板に豚小屋を作り、サンフランシスコより出航。1948年9月4日、付添い人は7名。嵐で豚を流されたり、船酔い、小屋の修理、うようよ流れる機雷に悩まされながら苦労の末9月27日早朝、勝連半島のホワイト・ビーチに入港した。
550頭の豚を沖縄各地にきっちり分配し、生まれた子豚の行き先まで管理した。なにしろ高価で子豚が4千B円。種付け可能な生後80日目だと12百B円。公務員の書記で年収12百B円(B円とは米軍票)だからすさまじい。また、1947年には14千頭の豚は、1951年には10万頭を突破する。
このあとは、沖縄民政府と米国、日本国の帰属への駆け引きが展開されるが割愛させていただきます。当時民政府は沖縄のアメリカ州化、さらにはアメリカ本土に沖縄移民による州をつくることをも視野に入れていたことは自分にとって以外だったため、特にお知らせいたします。
1950年1月25日 米国軍政府独立沖縄旗制定
青・・・平和
白・・・自由
赤・・・熱誠
星・・・希望の明星
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『沖縄 ウミンチュ」一人追い込み漁に生きる』
仲村善栄 著 河出書房新社
2003年7月30日発行 1300円(税別)
本部町字健堅在住のウミンチュ仲村善栄さん。86歳にしてなんと現役なのだ。追い込み網漁のことを、沖縄ではアギヤーといいます。現在、沖縄でアギヤーをやっているのは、おそらく善栄さんだけだろうといわれている。もうなにしろ海が好き。漁が好きという人。
アギヤーは明治の後半に糸満で発達した漁法だ。もともと漁業が盛んだった糸満は、アギヤーによって世界に知れ渡ることになる。それこそ近辺の魚を一網打尽にする効率的な漁は漁獲高をあげたけれど、逆に他の地域では入漁拒否にあう。
健堅で糸満から習ったアギヤーが始まったのは、大正の初期。昔は魚がたくさん捕れたそうです。普通は1回で600キロ。多いときは1200キロも捕れたらしい。それを1日に3回。1日で1800キロ捕れれば終わり。
当時としては、まあいいくらしだったらしい。でも、野菜を作ったりしないと食べてはいけなかった。戦中は3度の応召。戦後もアギヤーで町は活気があった。復帰ご身体をこわし、一人アギヤーに転向する。
一人でのアギヤーは大変だと思うけど、なにしろ海が好き。身体が思うように動けなくなると、いろいろな工夫をして海に出る。まさに生涯現役で、「トーカチ祝い(88歳)までは海に出る」と言ってまわりをヒヤヒヤさせている。今年、ペースメーカーを入れたら具合が良くって、まだまだ海にでるんだそうです(笑)。
漁では忙しいのとエネルギーが必要なので、昼はあんパンと甘いコーヒー。
家では黒砂糖をつまみながら飲むコーラが大好き。うーん、ぼくは勘弁していただきたいです(笑)。
戦争、本土復帰、その後ひどくなった赤土の流入。オニヒトデの発生。海洋博の開催などを経験しながらも海にかかわっていく姿はしぶとく、しかも美しい。会社員にくらべて楽ではないだろうけど、こういう生き方も悪くないなあ。と思わずにはいられない。
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『沖縄 島唄紀行』
藤田 正 著 写真 大城弘明 小学館
2001年7月10日発行 1600円(税別)
はいみなさん、またお会いしましたね。
この本は紙面の半分くらいが写真ですから、気楽に読めますよ。
Coccoの「強く儚い者たち」から「かぎやで風節」「ナリヤマアヤグ」など29曲を写真と文章で紹介しています。著者の藤田さんは登川・林助両氏のCD制作にかかわるなど、沖縄の音楽には相当詳しいようです。
それぞれの曲の背景や解説はもちろん、得意とした唄者のエピソードなどもちりばめられていて、なかなか飽きさせませんぞ。関連した写真も豊富で、「ナークニー」の説明に写真が5枚。その中には琉球大学の通称「八重芸」こと八重山芸能研究会のステージ写真もあります。
自分としては、もっとも興味深く読んだのは、「童神」の解説でした。
そこには大里村古堅の「ミミンメー」という子どもの祭りが紹介されていました。それは、ぼくがエイサーと出合った前橋のはと保育園で踊った「赤田首里殿内」のことでした。「♪ミーミンメー」というところでは耳たぶを引っ張って首をかしげるのです。肘を押さえたり、手のひらを指で押したり、仕草がかわいいんだよね。
ミルク(弥勒)がヤアヤアと子どもを引き連れて登場する意味や、紅白の棒(ヂンナーク)を持って踊ることなど、あらためて知ることもたくさんありました。
先日、絶版本の紹介をしました。その中の林賢さんの「なんくるぐらし」は、なんと再販されていました。だから、今でも手に入ります。ちゃんと裏をとらないといけないねえ。ごめんなさい。
それでは、さいなら、さいなら、さいなら。
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『沖縄島唄読本』
沖縄ナンデモ調査隊◎編 双葉社
2003年3月10日初版発行 1,300円(税別)
なんか寒くなりましたねえ。沖縄は暖かいんだろうなあ。
群馬はスキーをしたり楽しいこともあるけれど、やっぱり寒いのはつらい。
まだまだこれから寒さを増すけれど、風邪なんかひかないようにしましょうね。
さてさて、今回の紹介は「沖縄島唄読本」といいます。1,300円は手ごろな価格です。内容は大きく分けて島唄をめぐるエピソードなどなど。ここのページが最も多いです。守備範囲は広いですぞ。ぼくも一度は見てみたい正月の「東西民謡歌合戦」とか「新春民謡紅白歌合戦」の紹介もあります。NHKの紅白歌合戦は見たくないけど、民謡歌合戦は見たいもんだ。有名な唄者がズラリ勢揃いだと聞きました。
それと、なるほどと膝を叩いたのが「ハイタイ・カマド」。広島の琉風会の裏レパートリー?に「カマド体操」というのがある、とは聞いていました。
でも、まったくなんのことやらわかりませんでした。ところがわかりましたよ。1990年代に笑築過激団の番組「お笑いポーポー」というのがあって、その中で大衆食堂のおばちゃんを主人公にしたコントのテーマソングだったのだ。うーん、このようにいろんなことが書いてあるのだ。
続いてドップリ深みにはまった人向けに実践編です。唄うときのアドバイスの次は、三線デビュー。やっぱり自分でやってみたくなるよね。
そして、終わりの1/3は「ちむぐくる 島の唄」の章。長嶺哲成・おりべえりあ・真喜屋力・ビセ・カツ・仲村清司の各氏が自分とのかかわりを語るというわけだ。なかでも、ビセ・カツさんの描く庶民の戦後史は読ませます。
ご存知のようにキャンパスレコードの社長だけに、たった10ページのスペースに戦後の民謡史とエピソードをちりばめてあります。ほかの方のも心にしみる味わい深いものがあります。
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『パイヌカジ 沖縄・鳩間島から』
羽根田 治 著 山と渓谷社
1997年8月20日 1600円(税別)
ちょい遅いけど、明けましておめでとうございます。いい正月でしたか?
さて、鳩間島です。西表島の北、約7キロにある周囲3.9キロほどの小島で人口約40人。東西1.1キロ。南北0.95キロ。まさに小島なのだ。鳩間島というと、まず思いつくのが鳩間節。軽快なリズムで「鳩間中森 走り登り・・・・」と唄うあの唄だ。また、エイサー姿(すがい)といえば紺地(くんじー)だったのを、園田青年会が雑踊りの鳩間節姿を参考にして今のエイサー姿になったことも付け加えておきます。
本のなかで頻繁に登場するのは、なにかにつけて酒盛りをする場面。ここの御仁は酒が強い。ぼくも呑み助だけれど、ここでは中学生くらいのもの。同じメンバーで何かにつけて呑む。とことん呑む。一番の話題は島の発展というくらい島にこだわっている。本音あり建前ありで語り合う。
小さな社会ではこんなものなのだ。群馬だってどこの田舎だって、以前は地域の人どうしの付き合いが大切なのだ。都会の人には想像もつかないくらい地域の結びつきは強かった。こういった濃密な人間関係がウザッタくて耐えられないと住んではいられない。しかも地域の行事や結などの共同作業が、また多い。
また、さんご礁での漁も盛んだ。タコ・イカ・スク・ヒメフエフキダイ・シャコ貝など漁の相手には事欠かない。食料の調達を兼ねているにしても、あの入れ込みようは半端じゃない。狩猟本能剥き出しで獲物を追う。なんともうらやましい。自分で突いてきたタコなんぞを丼に山盛りにしてオリオンなんぞをグビリグビリとやった、ぼくだって「ここに住もうかな」と心がゆらぎそうだ。
しかし、過疎という現実はきびしい。学校がなくなるとどうなるか。台風で電気が止まり冷蔵庫の食べ物がダメになる。台風の恐さ。ほんと、ぼくには思いもよらないことがあるのです。
特に鳩間小学校100周年記念が1996年にありました。2年前から300人のお客さんのため準備していた祝賀会なのに、台風のため島にいた80人のみで行われた。だって海が荒れたら渡って来れないんです。島内の清掃をし、Tシャツを作り、記念誌作成、記念石碑の設置などなどをし、苦労して維持してきた小学校の100周年が、台風一発でアッと言う間にブッ飛んでしまう現実。
ただの観光ガイドとは違う島の生活の裏表を知る一冊。一読をすすめます。
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『登川誠仁自伝 オキナワをうたう』
登川誠仁著 藤田正構成 (株)新潮社発行
2002年7月20日初版 1600円
2年前、那覇空港の宮脇書店で購入しました。たしか7月19日だったと思うんです。発行の前日なのに書店に並んでいたのかなぁ。マ、関係なかったですね。すみません。
林昌さん亡き後、沖縄民謡界の大御所といえば誠小(セイグヮ)こと登川誠仁さん。あまりにも有名でいまさら説明でもないよ。と言われそう。でもですね。しかしですね。読めばきっと「うーん、なるほど」と思うことでしょう。
29歳で知った本名は盛仁だったこと。馬鹿にされないように昭和7年生まれを「いやあ、昭和5年生まれなんです」とウソをつき続けていることなど、ドッキリ話もあったりしますが一番驚いたのは誠小さんの多才ぶり。竹や紙などで作ったのが最初のマイ三線。米軍基地での戦果を挙げて16歳で2階建ての家をもっていたこと。
しかし、その多才ぶりが民謡に集中すると大変な人気者になってしまいました。沖縄芝居の地謡のリーダーになったのも10代。地謡が舞台に出て唄う。
つまり沖縄最初の唄者は自分だと言うのだよ。グループを作っての民謡ショーをはじめたのも誠小。民謡協会の結成を画策したのも誠小。三板を考案したのも誠小。民謡クラブの最初の出演者も誠小。などなど別に見たわけではないから「そうかな」と思う。
なんだか内心「よく言うよ」などとつぶやきつつ、ウーマクおじいの自慢はなしを聞いてるみたいな感じ。なにしろはなしがデカイ。戦後の沖縄民謡の変遷を知る一冊といえるでしょう。
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『沖縄入門』
比嘉康文・岩垂弘 編集 同時代社刊
1993年5月10日 初版発行 1262円+税
今回紹介する本は『沖縄入門』です。「エー? 今さら入門?」などと言わないでよ。ぼくも初めて知ったことがたくさんありました。この本のコンセプトは沖縄の歴史や文化や自然などを理解してもらう入門書であり、修学旅行の事前学習の参考書を想定しているそうです。高文研からずばり『沖縄修学旅行』というのも出版されていますけど、より内容は豊富です。
まず驚いたのは日本最初の天然痘の治療が行われたこと。1846年に那覇にやって来た宣教師ベッテルハイムは布教と同時に医療活動も行った。ベッテルハイムから仲地紀仁が牛痘種療法を教わり患者に接種したところ天然痘が治った!
まだ、あるぞ! 全身麻酔手術といえば華岡青洲が有名ですね。しかし、進貢船の乗組員であった高嶺徳明は兎唇手術を中国で学ぶ。沖縄に戻った彼は診療所を開き、後の琉球王・尚益の麻酔手術に成功している。そのはなしが薩摩の奉行に伝わり伝授書は巡りめぐって華岡の手に渡るのだ。華岡が全身麻酔手術に成功したのは1805年。高嶺の手術の116年の後であった。
まだまだあるけど、びっくり話はこのくらいで。
もちろん琉球史や伝統芸能、陶器、漆器、紅型、門中社会、空手など沖縄を特徴づけるキーワードも解説されています。なかでも、多くのページをさいているのは現代史でしょう。沖縄戦では日本軍と住民の関係。数々の慰霊碑のいわれ。対馬丸遭難事件などが歴史年表的事実の羅列というより、分かりやすいエピソードをちりばめて説明されています。
特に戦後史はよくまとめられていると思う。米軍任命による行政組織「沖縄諮詢(しじゅん)委員会」設置に始まり、1950年には戦後初の公選による知事選。これに反し米軍は臨時中央政府を設置し、権力を軍任命の主席に移す。1968年に主席公選。独裁的権力者で悪名高い高等弁務官制度の実体。本土復帰運動など熱い闘争の時代に多くのページがあてられている。一般読者を対象にしている書籍としては珍しいかもしれない。
巻末には離島の自然や文化も紹介されています。硫黄鳥島・波照間島・久米島・八重干瀬・大東諸島・尖閣諸島・久高島・西表島・伊江島・竹富島なども興味深く読めると思う。値段のわりにお得な一冊です。1993年発行だけれど、在沖米軍についての記述が、そのまま今でも当てはまるのは残念なことです。
高嶺徳明についてはネットで検索できます。たとえば沖縄県医師会のサイトをご覧ください。
沖縄県医師会のサイトはこちら
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『新 おきなわキーワード』
はぁぷぅ団 編集
2003年10月20日 (有)ボーダーインク発行 1500円+税
あれは1989年の夏だった。那覇の出版社ボーダーインクから「おきなわキーワードコラムブック」が世に出たのだった。コンセプトは「・・・・だけじゃない沖縄」なのだ。と書いてきて、そのじつ、ぼく自身は、なんとなく読みそびれている。マ、それを書き直したのがこれ。
54人のライターが持ち寄った膨大な原稿の中から選りすぐっただけあって、たしかに話題は豊富で超ローカル。「日米おもいやり援助交際」などハタと膝を叩いてしまうところもあって、なかなかあなどれません。ではいくつか紹介しましょうね。
● うっけーせん
「うっけーうっけーうっけーせん」と言いながら手のひら、もしくは甲を出してグループ分けをする。沖縄の中でも、いや小学校が違うだけでルールが違ったりする。うーん、群馬では「グーなしホイ!」か「パーなしホイ!」でパー組とチョキ組とかに分けてたなあ。
● 横断幕文化
沖縄をドライブしていて横断幕に気づいただろうか。たしかに横断幕・看板のたぐいが多いのだ。十字路や三叉路に多いのは当然として、ではどこが一番見かけるのか? 輝く第1位は大里村稲嶺十字路。「夏季大里村競技会」とか「玉城スイミー優勝」とか・・・・・確かにあるよなあ、こういうの。
ぼくが南部で驚いたのが選挙の後援会によるチャリティーゴルフの看板。とか資金造成イベント。資金造成というと、なんだかブルドーザーで地面を平らにする感じがする、のはぼくだけですよね。
● たーが しーじゃやみ
BBCでも放送されたという2002年の那覇市合同成人式。翌年は小禄、真和志などの地域ごとの開催となった。たまたまライター玉本 アキラは首里公民館での成人式に遭遇した。そこのスタッフは首里の旗頭スガイのシンカだった。縁もゆかりもない市の職員や警察官だ ったら強引に酒樽を持ち込むだろうが、地域のそれも旗頭の先輩では荒れにくい。というお話。
● ちゅら拡さん防止条約
朝ドラの「ちゅらさん」以降沖縄県内と沖縄文化消費圏に「ちゅら」が大発生した問題をとりあげている。たしかに商品とか店とかにやたら増えた感じがする。「もー、わけわからんさぁー、はごーさよ」状態である。これ以上「ちゅら・ちゅら」しないように条約を制定しようと熱く呼びかけている。なんだか納得してしまうけど、やっぱ担当は国連の安保理じゃないよね?
● しんかー
しんかはご存知のように元々は仲間うちというような意味。90年代後半に不良少年たちが自分達のグループを「わったーしんかー」と呼んでいたことから転じて、不良グループのことを「しんかー」、ついには不良そのものを「しんかー」というようになってしまった。渋谷のチーマーと語感が似ているのは気のせい?
今やアシバーも遠くなりにけり・・・・・かもね。
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『琉球共和国 汝、花を武器とせよ!』
竹中労 著 ちくま文庫
2002年6月10日発行(初版は1972年) 1200円
今年の5月19日、沖縄市の民謡クラブ「なんた浜」の入り口に竹中労のプレートがつけられた。「竹中労 此処に遊ぶ」と書かれている。なんで今、竹中労なのか? 近年、著作もCDも復刻が相次いでいる。
ぼくが沖縄関係で竹中労の名前を初めて見たのは、ビセカツさんの書かれたものだった気がする。ぼくのイメージにある竹中労は、かなり左翼的な評論家だった。だから別人だと思ったわけ。その後、群馬県立図書館のライブラリーで沖縄民謡の古いCDを漁ると、「監修 竹中労」というものばかり。そこで調べたら、あの竹中とこの竹中は同人物だった。?????とはこのことだ。
さて本文に入ろう。正直、559ページという厚さと、怒鳴るような竹中の文体。「1972年は復帰の年などではなく、第3次琉球処分だ。」と看破する考え方。1970年安保闘争の騒然たる世相と用語で、読み通すのは、けっこうしんどいかもしれない。「ベ平連」も「北爆」も「沖縄復帰」も覚えているぼくでさえ正直しんどかった。
その中から「琉球情歌十二考 --- 嘉手刈林昌の世界」という章を紹介しよう。反逆児竹中はNHKや民放が民謡の歌詞を変えたり、「海のチンボーラー」などを「猥雑」として放送禁止にしたことに「庶民文化の破壊だ!」と猛反発そこで飄々と春歌を唄う嘉手刈林昌に目をつけた。元歌もあるのだろうが、即興を入れながら歌い続けて、まったくいやらしさを感じさせない。洒脱な唄三線と人柄によるものだろう。当時の嘉手刈の夢は、以前のようにバサムチャー(馬車曳き)を開業して、三線を弾きながら人糞の汲み取りをすること。馬と荷車を調達するのに500ドルかかるため、やむを得ず民謡ショーに出たりもする。本土の温泉ステージにも行った。
そんな嘉手刈の唄12曲を録音してレコードにし、竹中労・上原直彦・普久原恒勇が解説するという豪華版だ(文庫には歌詞と解説文が納められている)。しかし、ここではとても歌詞に触れることはできない。いかに有名な先生方が熱っぽく語ったとて、そこは春歌だもの(笑)。夜這いだのタ○だのと差し障りがあるので、ご勘弁を願いたい。でも、取り上げられた曲名だけでも紹介しよう。
ナークニ・かいされー・国頭ジントーヨー・しゅうらー節・ハンタバルー・ケーヒットリ節 ・中島節・ 山原汀間当・でんすなー・下千鳥・伊良部トーガニ・与那国しょんかねー
バサムチャー嘉手刈と春歌の接点を自分なりに考えてみた。労働と唄はつきものだ。しかし、CDなどになっている歌詞はスタンダードなもの。ヨイトマケだって線路工夫の作業唄だってチカラを合わせるために音頭取りが唄う。そして、辛い作業を紛らわせるために、即興で歌詞にうわさ話や下ネタをいれたものだそうだ。イヒヒと笑い、ニヤリともする。それも音頭取りの役目で腕の見せどころ。
決して上品とは言えないけれど、辛い仕事もなんとかしのげればイイじゃないか。若かったバシャムチャー嘉手刈も家から家に汲み取りに回るあいだ、イヒヒな文句を三線にのせて唄ったに違いない。
最後に「島唄カフェまるみかなー」の小浜司さんが、琉球フェスティバルを始めた竹中労について触れているので、URLを乗せておきます。ぜひ見てください。
http://www.ryucom.ne.jp/users/marumikana/column/06.htm
http://www.ryucom.ne.jp/users/marumikana/column/07.htm
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『沖縄に恋する 癒しの島に渡ってみれば』
西野浩史 著
WAVE出版 2004年4月27日発行 1500円
書店に並んでいることは知っていた。しかしなあ。「るるぶ」や「JTB」じゃあるまいし、なんともノーテンキなタイトルにおじさんは手が出なかったですよ。7月になって一応と思って手にとった。「うーん・・・」であり「ヤヤヤ・・・」だった。
意外な内容だった。ここに登場する人たちは、いわゆる沖縄移住組。なにかのきっかけで沖縄に憧れて、引っ越してきてしまった人たちが紹介されていた。その動機も馴染んでいくありようも、まさに人それぞれ。意外とすんなり溶け込めた人もいれば、もがくようにチカラまかせに入り込む人もいる。
なかでも名護市に予備校を作り、嘉陽に「じんぶん学校」を開く興石正さんのバイタリティはすごい。東京の予備校での有名売れっ子講師をなげうって嘉陽に移住。最初はまったく地元では相手にされなかった。講師がイヤで嘉陽に来たのに、那覇の大手予備校から声がかかる。校長は「出来のいい学生は那覇か本土にいっている。北部はだめばかり」という言葉に熱くなる。
「よおし、やってやる」とばかりに名護高等予備校を設立。「基礎から始めて逆転宣言」がキャッチフレ-ズだ。ここの小論文は書き方だけでなく、講師が物の見方をも語るような授業をやった。個性的な卒業生が多かったそうだ。
そんなころ近くの辺野古への基地移転の反対運動に飛び込む。予備校にも賛成派が嫌がらせに来た。「偏向教育だ!」「やまとに負きらん」とスピーカーから授業を妨害する。当然賛成派にかかわる家庭の子弟はやめてしまう。
興石さんは語る。「いままでは、基地反対の代案が欠けていた。反基地運動に暮らしの視点が欠けている原因は、沖縄戦という負の遺産をこの50年で食いつぶした揚げ句、とっくに限界が来ているのに依然として労組・党派に依存している革新側のサボタージュであり退廃であり保守性だ。生活に不安の
ない人しか反基地運動にかかわれない」と手厳しい。基地があって食べていける人がいるのだから、その人たちの替わりの職場を増やしたい。と今日も
仕事獲得に奔走している。
著者の西野さんもまわりの仕事にたいするテーゲーぶりには「アバタもエクボに見えるうちが花なのかもしれない」と本音がチラリ。うちなー婿の西野さんも沖縄を愛するがゆえの苦言を呈している。でも、それが本当なのだろう。「沖縄良いとこ、誉め殺し」は愛情と言えるだろうか。だれでも自分の内容以上の恋愛はできない。相手(沖縄)に求めることの内容や軽重は自分のこととイコールなのだ。
ときどき「自分は移住したらくらしていけるだろうか?」と夢のようなことを考える。結論は残念ながらNOだ。営業部門にいてガリガリ他社と潰し合いをしている。時間におくれるなんてもってのほかだ。こんなくらしをしているぼくはくらしていけないのだろうな。しょせん沖縄は遊びにいくところかな、とも思い少々寂しい。だど・・・・・・・じつはすっごく馴染めたりしてね。なんだかなあ。
西野さんが運営するサイト「沖縄王」のURLを紹介しておきます。
http://www.okinawaoh.com/
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『琉球布紀行』
澤地久枝 著
新潮文庫 2004年4月1日発行 705円(税別)
これを読み始めるには、かなり迷いがありました。なんだかガラじゃないんだなあってね。でも結果的には当たりでした。ぼくの家は母・祖母と和服の教室兼仕立て屋をやってました。年頃の娘さんを連れて「実の娘だと思って躾てやってくださいね。」などと挨拶に来る方がいました。そんな環境なので絞りとか羽二重とか大島とか聞きなれてはいました。しかし大島とは伊豆大島だと思っていたけれど、奄美大島だった! というレベルですから自慢するほどじゃあない。
まずはどこから読んでもいいでしょう。友禅染や中国・インド・インドネシアなどの影響を受けつつ、独自の世界を作り出した紅型のような染色。読谷山花織(ゆんたんざはなうい)・喜如嘉(きじょか)の芭蕉布。そして税の対象にもなった宮古上布や八重山上布などの織物。沖縄で最後の琉球藍製造所と大きく分けられる。
ただどこにも同じように影響をあたえているのは、沖縄戦と時代の流れだろうか。紅型作家にしてみれば古くから伝わった型紙が焼失している。また織り手にしてみると見本の古布も伝承者もなくなっている。そこで古布の切れ端をほぐしながら織り方を復元図解もしている。
ただ時代の変化がもっとも過酷だったのかも知れない。廃藩置県後には誰でも手に入るようになった紅型も、逆に琉球王府の後ろ盾を失ったし、内地から大量に安価な布が流れ込むことになる。さらに大島なども流行すると安価な粗悪品を出荷して評判を落としてしまい、また流行すると同じことを繰り返すという製造と流通の悪癖も無関係ではないだろう。
とはいえ文庫には多数の布や着物の写真が収められている。それぞれの地域の特性や気候にあったものを、ちゃんと作り出して来たことが見て取れる。
もっとも気に入ったのは奄美大島紬の本藍泥染で仕立てた男物の着物。これはすばらしい。黒ともガンブルーとも違う落ち着いた色合いと艶。漆塗りの脇差なんかが合いそうだ。
現在、回りを見ても着物を日常着としている人はいない。需要がなくなれば供給も止まる。現に奄美では機を織る音も途絶えた島もあるという。読谷などでは、新たに織り手を目指す人もいるようだけれど、なんとかその努力が報われてほしいと思う。
アジア、そして琉球弧の歴史の流れを縦糸に、人生の悲哀や喜びを横糸に織られている布。読後には布を見る眼が変わるかもしれない。久しぶりに、ぼくも家庭の新年の挨拶には母の縫ってくれた羽織でも着ようかな。
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