薬師寺の図 下野薬師寺縁起については、下毛野朝臣古麻呂から始めなくてはなりません。 大宝元年(701)に制定された大宝律令は、国家の基本法典で、我が国の古代国家体制(中央集権的国家体制) はその大宝律令の成立をもって確立したといわれる。律令編集者の一人に下毛野朝臣古麻呂の名を見つける事が出来る。下野朝臣古麻呂は下毛野地方随一の豪族であった下毛野国造の出自を有し、遠くは毛野一族の中でも名将の血脈に通じている。古麻呂の本拠地下野国河内郡に官寺(公立の寺)として下野薬師寺が建立されるのは天武朝から持統朝にかけてのころであり、寺名も両天皇に関係の深い大和の薬師寺に対し東国下野に造る「下野薬師寺」である。優美な大和川原寺系の瓦をもつ下野薬師寺の建立については下毛野朝臣古麻呂の政治力を背景とした誘致施設として考えることができる。 東大寺戒壇と並んで、下野薬師寺と筑紫観世音寺に戒壇が設けられたのは天平宝字5年(761)のことである。戒壇とは、僧になるために必要な受戒(仏教の戒律を授けること)の儀式を行う壇場であるが、これ以降下野薬師寺は、東国における受戒の場として、その寺格と役割を著しく高めることになった。 政府によって認定された正式な受戒の場としての戒壇の成立は、国家による仏教保護・統制の体制を整備する上で重要な出来事であった。 「続日本紀」嘉祥元年(848)に引く下野国司の上申には「体制巍々として宛も七大寺の如く、資材亦巨多なり」と、伽藍の威容と繁栄が述べられている。権力闘争に敗れた弓削道鏡が左遷されたのは、まさに下野薬師寺が京の七大寺に比肩する大寺として整えられつつある時期であったろう。 ところで平安初期に隆盛を誇った下野薬師寺は、11世紀末には一転して荒廃した姿となって資料に現れる。 こうした下野薬師寺の衰退の一因に、受戒の意義が低下していったことがあげられる。受戒の意義が低下していった背景には、当時の仏教界の大きな変貌がある。最澄・空海による新仏教創立がそれである。 特に前者によって開かれた天台宗は独自の受戒機関を持ち、従来の国家機関の統制を受けない独立教団として発展していった。下野薬師寺が大きく発展を遂げたのは、奈良時代に整備された国家仏教の体制の中における 東国の僧・尼に対する唯一の受戒機関としての役割を有していたからである。とするならば、南都の仏教勢力に属さない新仏教が定立して、国家の統制下に属さない受戒の場が成立したことは、下野薬師寺の存立する宗教的基盤を浸食するものであった。「叡壇(比叡山)興るに及び野壇(下野薬師寺)衰う」と後世の史書「元亨釈書」は評している。 こうして古代における下野薬師寺は終焉を迎えるのである。 寺院社会における戒律の軽視と、下野國衙からの保護を失うなどの理由によって衰退の一途をたどる。そして下野薬師寺が一時隆盛を取り戻すのは、鎌倉時代の中頃慈猛上人の活動によるものであった。 古代以来の由緒を持つ下野薬師寺は、旧仏教の復興を背景とする戒律復興運動のなかで再生をとげたが、その隆盛も長続きせず、鎌倉時代後期にはふたたび衰退のきざしが見え始める。そして、國ごとに安国寺を設置しようという足利尊氏の意向を受け、暦応2年(1339)、下野薬師寺はその存続の代償として寺名を安国寺とかえることになった。しかし、表向きはなくなったはずの下野薬師寺の寺号は、その堂宇や寺地が往年の規模を失った後も、その由緒と共に語り継がれたのであった。 今は、法灯を継ぐ安国寺・龍興寺、そして薬師寺八幡宮が其の歴史を伝えている。 又元の寺域は国指定史跡公園となっており。公園化の整備やガイダンスの設置、回廊の一部復元などが順次進められております。

参考文献 「栃木県の歴史」河出書房出版社

薬師寺八幡宮社務所