小説 ボルドーワインと男と女

「ねえ。私にこんなワイン飲ませて。口説く気あるの。もしかして私ってそんなに安い女」
「何言ってんだよ。このワインだって世界のトップクラスなんだぞ。それに」
「それに何よ」
 拓哉は一方的に言いまくられていた。彼女と出会って初めての誕生日。奮発して買ったワインをここまでけなされると普段は温厚な拓哉の頬にも硬直が走った。このワインを優香と一緒に味わえることを指折り数えた夜も、今となっては遠い昔だ。現実は厳しいものだと拓哉は痛感していた。ブランド意識の高い優香にはこの選択は間違っていたのだろうか。しかし口では勝ち目はなくて信念はある。今宵は必ず落としてみせる。


 シャトー・マレスコ・サン=テグジュペリ1989 メドック格付第三級 ACマルゴー
 かのシャトー・マルゴーに隣接し、年産1万本。現在の所有者はロジェ・ズジェール氏。


「私にこんな三級もので酔っ払わせて、一発やろうなんて百万年早いわよ。どうせ飲ませるなら、マルゴーでも出しなさいよ。まったく隣の畑で喜んでるんじゃないわよ。私には一流のワインしか飲ませないでよね」
 優香がナプキンをテーブルに放り出しながら、目を赤らめている。優香のボルドー色のワンピースの胸元が大きく開いている。拓哉はその谷間には目もくれず、デカンタの黒紫色と傍に置かれた瓶をジッと見つめ、彼女のとめどない罵声を受け流すのに必死だった。
「ちょっと。人が話してる時は相手の目を見なさいよ。まったく失礼な人ね」
「失礼なのは、どっちだよ。せっかくのワインをけなされて」
「何よ。ほら言ってみなさいよ」
「まあ。口では優香に勝てないけど、このワインはどうしても優香に飲んでもらいたかったから。最近デパートでもあまり見かけないし、やっと手に入れたものだから・・・。まあ、理屈はさておき一杯飲んでみなよ」
「いやよ。私はマルゴーがいい」
「これだって立派なマルゴーだよ」
「何いってんの。星の王子様みたいなワインのどこがマルゴーなのよ」


 ボルドー地方は世界の二大銘醸地のひとつである。ブルゴーニュとボルドーはフランスの枠を越え、やはりこの星最大の銘醸地である。その根拠にはAOC法(原産地統制呼称法)がある。この厳格な法律はワインの品質保持と偽物排除の精神が根本にある。そもそもワインは畑で決まる。基本的に銘醸ワインは銘醸ワインを育む畑からしか生まれない。この場合の基準は個人の好みではない。その畑の線引きが厳格なほどその品質は高水準になる。


 ボルドーの優れたワインは大別して3つの格に分類できる。地方名、地区名、村名の各ワインである。例えばこの場合は、ACボルドー、ACメドック、ACマルゴーである。ボルドーを混乱させる原因に、それとは別にシャトーに格付けがあることだ。逆の言い回しが適切かもしれない。有名なメドックの格付けの他にAOC法があるということだ。AOC法施行より遥か以前、メドックの格付が市場に影響力を及ぼしていた。そのために、国としての単一規制は取れず、各地方の歴史を重視せざるを得なかったのでだろう。


 メドック地区にはいわゆる五大シャトーを筆頭とする一級から五級までの格付けがある。シャトー・マルゴーは一級格付けであり、拓哉のシャトー・マレスコ・サン=テグジュペリは三級格付けである。シャトー・マルゴーの隣、シャトー・パルメもその実力に反し、格付けは第三級である。この三つのワインはすべてACマルゴーのワインである。AOC法上はどれもマルゴーを名乗っていい畑から生産されたワインなのである。
 特にシャトー・パルメの畑はマルゴー村とカントナック村にまたがり、シャトーは国道沿いのイッサン村にある。行政の区画とワインのそれは微妙に異なる。神奈川県内の車のナンバーに例えれば、箱根も湘南ナンバーを名乗ることと同じだろう。ワインが商行為を伴う以上、より高く売るための手段でもある。知名度がすなわちワインの評判を左右するからである。


 出来の悪い年、シャトーの名に及ばないと判断されたとする。AOC法の最低基準さえクリアしていれば、それぞれのシャトーはその名を冠に頂かず、単なるACマルゴーやその下の格にして売り出しても構わない。格付けは他の地区でも行われているが、ポムロールのように正式な格付けがない地区もあるので、いよいよややこしくなる。このややこしさを解説するだけで商売になるのだから、まあ良し悪しである。


 ボルドーに於いて、ワインの名前はシャトー元詰表記(MIS EN BOUTEILLE AU CHATEAU)がある場合、それはイコール畑の名になる。シャトー・マルゴーはワインの名前であるが、同時にぶどう園の名でもある。そしてここが最も大事なのだが、ワインの名前は畑の名前なのである。そしてその畑に一級から五級までの格付けがされているのだ。なぜか。それは畑こそワインの最大の要因だからである。この理屈は他の地方も同じ。当然ブルゴーニュも同じ。ロマネ・コンティはワインの名であり同時に畑の名前でもある。


 繰り返すが、ワインの名前は畑の名前である。その拠り所は前述のAOC法である。
 たとえばアメリカや新大陸のワインなどはヨーロッパ諸国に比べその歴史も浅く、法律も厳格でない。オーパスワンがどんなにすばらしくとも、歴史的評価も法律の後ろ盾も乏しく、専ら市場の思惑に委ねられている。オーパスワンの名は生産者のロバート・モンダビとフィリップ・ド・ロートシルトによるもので、ワイン新興地・カリフォルニアだからこそ命名できたのである。
 しかし、フランスにはワインの積み重ねられた歴史と厳格な法律がある。その法律を遵守してこそ世界的評価の対象となる。当然法律に逆らったワインのなかにも極上の一杯はあるが、銘醸地でそんな無謀なことをする人はいない。ワインは畑であり、歴史の重みでもあるからだ。マイナーな土地での一発逆転的ワインはあることはあるが、評価されるのは本当にごく一部である。例えばコート・デュ・ローヌのぺゴーのように。彼はローヌで認められていないメルロをブレンドすることで極上の一杯を作り出すが、そのワインのランクはテーブルワインの域を脱することはない。テーブルワインは基本的に2ランク上のAOCワインを価格で上回ることはあり得ない。 (例外:マリオネ等)
 ところでドイツの場合は格付けの基準が異なる。ドイツではワインの糖度によって格付けが変り、名前も変る。まあ、その話は長くなるので今回はボルドーに集中しよう。


 ボルドーで、シャトー元詰表記がない場合はどうか。シャトー・なんとかは単なる商標になる。そのシャトー名に法律の根拠はない。当然畑の名でもない。ワインの評価の対象からは当然外れる。要は商売である。ボルドー人気に便乗して、シャトーなんとかと名乗れば見た目もいいし、聞こえもよくなる。単価もあがれば、利益も増えるだろう。消費者にいかに訴えるかの技術でもある。


 話が脱線したが、シャトー・マルゴーが生産される場所はAOC法で決まっている。他の畑の葡萄を混ぜれば、それはシャトー・マルゴーではなくなる。その畑がACマルゴー内であれば、ACマルゴーを名乗れるが、例えばブルゴーニュのものであれば、テーブルワイン(ヴァン・ド・ターブル・フランセ)になってしまう。それをシャトー・マルゴーと名乗れば、即偽物となる。


 1973年に一級に昇格したシャトー・ムートン・ロートシルトは同時に五級格付けのシャトー・ダルマイヤックも経営するが、それぞれは別のシャトーで醸造され、当然畑も別である。経営者が同じということだけ。例えばシャトー・ダルマイヤックを名乗れる畑の葡萄をシャトー・ムートン・ロートシルトで醸造すれば、シャトー元詰表記が出来なくなり、それはシャトー・ダルマイヤックではない。もちろんシャトー・ムートン・ロートシルトを名乗れる畑の葡萄でもないので、シャトー・ムートン・ロートシルトでもない。そのワインはACポイヤックを名乗るのが精一杯であろう。つまりそれはいわゆるシャトーのセカンドワインと同ランクということになる。


 話をテーブルに戻そう。単にマルゴーと言った場合、普通はシャトー・マルゴーを指すと解釈できるが、法律上の区分ではACマルゴーを名乗れる場所のワインであればいい。拓哉のこれもマルゴーだよと言った根拠はここにある。


 で、優香はしぶしぶ拓哉の言葉に従った。自分の勘違いを否定するのも大人気ないと思ったからだ。しかしどうして。みるみるうちに優香の頬が緩み、張りっぱなしの肩肘も丸みを帯びてきた。優香がグラスと拓哉を交互に見つめている。いかにもバツが悪そうだ。優香のごまかしは顔に出るから憎めない。
「あら。おいしいじゃない。結構いけるわね。もっと注いでよ」
「まあ、そんなに慌てなくてもこんなにあるから」
 拓哉は目じりを下げつつ、デカンタを持ち上げ優香のグラスに静かに波を立てないように注いだ。
「デカンタして2時間経ってるから、ちょうど飲み頃だと思うよ」
「ねえ。二時間も前から準備してくれてたの」
 拓哉は静かに肯いた。
「僕は普通はこんなに長くはデカンタージュしないけどね。短めのデカンタで、自分のグラスでワインを育てるのが好きなんだ。でも今夜は優香にいきなりおいしいところで飲んでもらおうと思ったから」
「ありがとう。私ブランド志向の癖にシャトー・マルゴーとマルゴーの違いも知らなかったなんて、穴があったら覗きたい気分だわ」
「そのギャグはちょっと、はずしたかな」
 拓哉はうれしそうに優香のグラスをシャトー・マレスコ・サン=テグジュペリで満たした。 今度は優香の胸元に目のやり場を困らせながら。


「でも。どうしてこのワインなの。言いかけの理由の腰折っちゃったけど」
「いや。別にたいした訳でもないんだけどね。ただ、このワインから僕のワインの歴史が始まったから」
「初めて飲んだワインってこと?」
「まあそういうこと。ワインはそれ以前にもかなり飲んでたけど、本当にうまいと思えたワインはこれが最初だった。このワインの評価は1990年から評価が急上昇したんだけれど、本当はこの89年にもその前ぶれは充分ある。表舞台に出る直前のワイン。修行時代の苦労がようやく日の目を見る、まさに夜明け前のワインだと思わないか。まあ、そんなことは後から知ったことだけど、なんかこれから社会に出ようって時に飲んだものだから、思い入れもあってさ。このワインおいしいよな」
「うん。おいしい」
「よかった。優香にとっての最初のワインが、僕にとっての最初のワインと同じなんて、ちょっといいよな。あのときの感激を優香と共有したくて、それでこのワイン飲んで欲しかったんだ。ちょっと照れるな」
「ありがと。ごめんね。何も知らないで、どなっちゃって。私恥ずかしいよ」
「なあ。さっきの百万年早いって話だけど。どお」
「どおって。エッチなんだから。まだワイン残ってるでしょ。拓哉のあのときの感動をもう少し想像させてよ」


 やった。拓哉のテーブルの下のガッツポーズにも力が入る。今夜はシャトー・マルゴーは、お金なくて買えなかったけど、ちゃんと一発決められそうだ。


おしまい


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