自然派の逆襲 その5  にしかたゆうじ 2005/07/23

 先日、某先輩宅で、ドメーヌ・ラモネのバタール・モンラッシェ2000を楽しむ機会に恵まれた。参加メンバーは、ブルゴーニュ魂のサイトを立ち上げるより前から親しくさせていただいている諸先輩方で、ワインを熟知されている方々ばかり。久しぶりに食卓を囲ませていただいて、いろいろなワインを飲みながらの辛口トークは、懐かしくもあり、新鮮でもあった。ただ話の脈略から推測すれば、あまり自然派ワインは飲まれていないような雰囲気だった。

 で、冒頭のワインであるが、私はこのワインは過去に数回抜栓していて、その熟成の変遷に興味があったのだが、その夜は私の体調が悪かったのか、今ひとつおいしいとは感じられなかった。ミネラル分が少ないように思えてならなかったのだ。しかし諸先輩方の評価は高く、私はそのギャップに苦しめられることになった。なぜだろうと思った。そして思い当たる節が少しばかり浮き上がってきたのだ。それは、自然派じゃないから・・・。

 ドメーヌ・ラモネと言えば、ブルゴーニュを代表する造り手のひとりで、特級モンラッシェを筆頭とする大銘醸畑を多数所有し、白ワインに関しては、トップ5に評価されたりされなかったりする造り手。私も数回ドメーヌを訪問させていただき、親交を深めさせていただいている。彼の造るバタール・モンラッシェは、ブルゴーニュのヒエラルキーの頂点に近いところで輝くワインのひとつである。2000年というビンテージも個人的に好きなビンテージで、外せない夜には欠かせないビンテージのひとつだったりもする。

 しかし、その夜のバタール・モンラッシェは少し違った。誤解を恐れずに、言い進めるならば、それは、ピカピカの黒い革靴に、ワンポイントの入った白い靴下をぴたっと履いて、半ズボンの折り目も正しく、白いシャツに蝶ネクタイをはめて、ブランド物の上着を羽織、ピアノコンクールに出場する小学生の風貌に似て、都内超有名私立大学の幼稚園部からエスカレータ式に進級し、放課後はピアノとバイオリンのレッスンに勤しんでいるような、そんな映像が頭に浮かんでくるような感じだっだったのである。成績優秀で、礼儀もわきまえ、髪も七三分けで、服装の折り目も正しく、教頭先生的には、非の打ち所のない小学生。ある意味、理想的な小学生像に重なるのである。

 最近、ロワールの自然派ワインに親しむものにとって、この礼儀正しさに少しの戸惑いを覚えるのは、やむを得ないだろう。夏休みに、虫かごをもって、野原を走り回っては、すっころび、池に入っては、そのままずぶずぶと膝までつかる・・・。そんな田舎の(というよりは自分の過去の)小学生像に思いを馳せながら、自然派ワインを飲もうとする時、学歴社会やらお稽古事やら、とは全く無縁の素朴な生活が目に浮かび、小汚い格好で、日が沈むまで走り回っては、母に怒られた記憶に重なってくる。それが自然派ワインの醍醐味のひとつと信じているから、話はわかりやすい。私はどうやら、予想以上に、自然派ワインを飲み慣れてしまっているようだ。

 ブルゴーニュというフランスを代表する大銘醸地の気品あふれる味わいは、官能的で、時に人を魅了し、時に人を堕落させもする。政府によって格付された大地の個性は、ある意味において、その個性の精度が高く、時に最高のおもてなしを表明でき、人に感動を与えることができる。私も何度もブルゴーニュのワインに涙してきたものだ。しかし、一方で、名もない畑から造られる自然派ワインは、造り手の理想郷とも言えるエコ・システムが構築され、ガキ大将よろしく、大地のエキスを吸い上げて、時に野蛮な一面を覗かせるが、極めて自然体な味わいを表現してくる。自然派ワインで泣くことは少ないが、夜毎ボトルをつかんでは、ぷはあと飲んで、大地のミネラルを大いに楽しみ、気づいたらその場でゴロンと寝てしまうような、そんな自然体な味わいは、エレガントさとはあまり関係がないところにあるが、日常生活においては、必須アイテムになりつつあるのだ。

 今までの価値観をブルゴーニュに投影するならば、昨今の自然派ワインは、その価値観とは全く違う次元の価値観を想像している得体の知れないワインたち。ゆえにINAOはそれらのワインをテーブルワインに格下げせざるを得ず、また知識不足の酒屋さんたちには、マーケティングの産物という誤った認識を植えつけてしまう。ごく一部を除いて、巷にあふれる酒屋さんの無学は、とりあえずあっちに置いといて、自然派ワインは、その存在意義を確実に浸透させ、それは一杯のグラスの中に表現されているのである。

 AOC制度が施行されて、70年あまり。フィロキセラがぶどう畑を壊滅的に破壊してから100年以上。アマルゲール公爵が、ベーズ修道院に後のクロ・ド・ベーズの土地を寄進してから1300年あまり。幾多の試練と歴史を刻んだワイン造りは、自然派の台頭という古くて新しい価値観の出現に戸惑いつつも、着実に地球の裏側の日本の食卓に浸透していくようである。AOC制度は理に適った面を持ちつつも、土俵外の要素には対応しきれず、自然派ワインというカテゴリーをうまく手中に納められていない。制度不良というべきか、勤続疲労をおこしていると言うべきか、それはつまり従来の価値観では対応しきれないワインたちなのかもしれない。
 
 自然派ワインの逆襲・・・。

 それはAOC制度の根幹を揺さぶりながら、それとは全く違う次元で食卓を彩ってくれるワインであり、そういうワインの造り方の哲学であり、農作業そのものなのだろう。自然派ワインとは、発酵という神秘な現象を微生物を尊重することによって成し遂げるワイン造りのことと解釈しつつ、名門ドメーヌの特級バタール・モンラッシェを霞ませるほどのパワーを持っていることに、新鮮な驚きを感じつつ、その魅力を再認識するところである。



おしまい


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